Home > Interviews > interview with Yutaka Hirose - よみがえる1986年の環境音楽
吉村さんには吉村さんとしてのすごい名盤がある。芦川さんは芦川さんとしての名盤がある。それを模倣するだけではダメだし、命題から外れてしまう。じゃあどうするかというところで、とにかくすべてをサンプリングしていこうと。それをフェアライトに全部押し込んでいった。
■海外で日本の80年代のアンビエントが非常に評価されるなかで、アンビエントではなくて、環境音楽というのが英語化してKankyo Ongakuなんて呼ばれたりしていますが、廣瀬さんご自身はEnvironmental Musicという言葉をどう思っていますか? 自分達がやってきた、吉村さんや芦川さんと一緒にやられてきたことというのは、やはりEnvironmental Musicみたいなものでしょうか?
廣瀬:イメージとしてはEnvironmental Musicからアンビエントまでという感じだと思います。だから決してニューエイジにはなっていないと思います。そもそも『Nova』をやっていたときは、アンビエントのこともあんまり意識していなかったんです。サウンドスケープというコンセプトのほうを意識していました。『Nova』は当時のアンビエントからはずれているんじゃないかと思います。だから逆に(近年になって)みなさんに興味を持っていただいたのかなと思ってます。
■しかし日本には独自のアンビエント的なフィーリングがあるとよく海外のひとが言いますよね。空間とか、間とか。
廣瀬:とくに“間”についてはかなり意識しました。『Nova』の最終的なミックスのときに、たとえば水滴からほかの音に移り変わるときのどこか、ピアノの移り変わるときの音の幅。どれだけその幅をとって、緊張感を持たせるのかというところはかなり意識しています。他の曲に対してもなんであんなにテンポが遅いのかという話になるんですけど、それはそういうテンポが必要だったんです。とても遅いテンポ感とギリギリまで間延びさせた音の作り方。“Slow Sky”なんかすごく間延びしたような感じがするんですけど、それがないと自然音が落とし込めない。
■『Nova』に関する当時の反応はどんなものでしたか?
廣瀬:『Nova』が出て半年くらいしてからアメリカに行って、帰国してサウンドプロセスに入りました。いまはSNSで反響がわかるけど、当時はまったくで……どれだけ売れたのか、どういう評価が得られたのか、まったくフィードバックがなかった。これってもしかして世のなかから無視されているのかなと思いましたね(笑)。『Nova』がなぜそれほど自分のなかに残らなかったのかというと、当時フィードバックが何もなかったからなんです。
■雑誌のレヴューもなかったんですか?
廣瀬:まったく見ていなかったです。そう言えば吉村さんの作品レビューも見たことが無かったと思います。
■話が逸れますけど、吉村弘さんはどういう方だったんですか?
廣瀬:吉村さんは1940年生まれで、早稲田を卒業されてタージマハルにちょっといて、そのあとは芦川さんと一緒に制作をされていました。『Music For Nine Post Cards』という外国の方とフレーズを送りあいながら作った作品が最初ですね。82年だったと思います。『Music For Nine Post Cards』が出て、吉村さんという方がブライアン・イーノみたいな作品を作っているという評判があって、それで私も聴いてました。吉村さんはすごくおしゃれなんですよね。ごっついんですけど、おしゃれで温和で優しい方だったんですよ。何に対しても怒った感じは示さない方でした。
尾島(由郎)さんや吉村さんはファッションショーか何かのカセットも出されていたんです。吉村さんの『Pier & Loft』なんかそうですね。おしゃれだな、うらやましいなと思っていました(笑)。
私のほうは、サウンド・プロセスでいろいろなことを試みていました。三上靖子さんのサイバーパンク・アートにちょっとインダストリアル風の音を付けたこともありした。ほかにも少し毛色の変わったアンビエントを出したりしていたんですが、CDの2枚目にはその頃の未発表曲が入っています。イノヤマランドさんと仲良くなったのはその頃でしたね。井上(誠)、山下(康)さんにはお世話になりました。
イノヤマランドさんとは一緒にパビリオンの仕事をしていました。場所ごとに担当が分かれていて、たとえば、イノヤマランドさんがここを受け持ったら、私は別の場所を受け持って、吉村さんはさらにまた別のところ受け持つといった感じです。私とイノヤマランドさんと吉村さん、だいたいこの3人がどこかをやるという感じでした。
そういえば、川崎市市民ミュージアムに地下の断層、東京都の地下を断面だけ切り取ったブースがあったんですけど、そこの音も作りました。そういうアプローチでしたから自分的にはアンビエントというよりかは、どうしてもサウンドスケープとして自分の音を認識していました。
■音の風景。
廣瀬:音の風景をどういったふうに作るか、いかに音の彫刻を作るのかというイメージです。だからノイズであろうと、心地よい音であろうと、もう使い方次第なんです。未発表音源ではコンピュータは一切使っていません。ちょうど『Nova』のカセットテープ・ヴァージョンの一番最後の曲が、今回発表する未発表曲のはじまりです。オープンリールを前にして、とにかくあるトラック数に入れ込むだけ自分の想像するものを入れ込んでしまう。あとから引いていけばいいし、また足していけばしい。最終的にイメージするサウンドスケープの姿を想像しながら音を構成する、そういう作り方でした。それがCDの2枚目にある未発表曲集です。
■未発表音源はいつぐらいの制作なんですか?
廣瀬:『Nova』のほぼあと、『Nova』と同時期に作っていたものもあります。ミックスダウンしたのは少しあとになります。
■今回ここに収録された曲以外にもたくさんあるんですね。
廣瀬:実はあります。いま1983年から1992年まで制作した音源だけで手元にCD24~25枚あると思います(笑)。選りすぐればたぶんCD2~3枚は作れるんじゃないかな。
■出しましょう(笑)。
廣瀬:少しずつ(笑)。サイバーパンク系統からはじまった地下の断面とかは自分としても面白いですし。それ以前にやっていたもっとインダストリアルというか、ジャーマン・ロックに影響された音も興味深い内容だと思います。いま、自分のフェイスブックで毎月ふたつずつくらい昔の曲をあげているんですよ。
いまはSNSで反響がわかるけど、当時はまったくで……どれだけ売れたのか、どういう評価が得られたのか、まったくフィードバックがなかった。これってもしかして世のなかから無視されているのかなと思いましたね(笑)。『Nova』がなぜそれほど自分のなかに残らなかったのかというと、当時フィードバックが何もなかったからなんです。
■いまアンビエントが環境音楽として再評価されていくなかで、ぼくなんかが思うのは日本はすごくアンビエント・ミュージックが得意というか。
廣瀬:私もそう思います。雅楽におけるあの間とか、そういったものが心のなかに沁みついている部分が日本のもつ空気感ですね。
■ジョン・ケージは松尾芭蕉が好きだったし、俳句は風景を、音を描写するようなものが多いですし。
廣瀬:ジョン・ケージにもメシアンにも“七つの俳句”という曲もがあります。それは行間を読むみ、音の間を読むという感じに聞こえます。その音に込められたのは日本の俳句による音の描写への敬意だと思います。そういう意味で日本のおとの感覚から生まれた日本のアンビエントが世界中の人の注目を集めているということはよく分かります。
私自身が高校生くらいのとき、とくに好きだった日本人の作家は富樫雅彦さんの『Spiritual Nature』、『Guild For Human Music』、『Essence』は70年代半ばからジャズから離れて、アンビエントに近いようなことをすごくやられているんです。パーカッションがぽこぽこなりながら雅楽の様なサウンドが入り込んでくる、まさにいま和モノと言われているサウンドの先駆けと感じます。僕のなかの和モノは何だろうなと考えると、武満さんは当然として、やっぱり富樫雅彦さんのこの時期の作品は捨てがたく再評価されて、ボックスでも出ないかなと思っています(笑)。
■曲を作っていてはいたけれど、『Nova』のようにアルバムとして発表しなかったのは、音楽がその場のためにあるみたいな作られ方をしていたからでしょうか?
廣瀬:そうです。当時は建物の基本設計の段階から、どこにスピーカーを置いて、じゃあどういった音場にするかを検討していました。そこに作られる音場は音楽というよりは音の空間構成みたいな手法で、ほとんどがマルチで音を構成するようにしていました。1のユニットとして音(曲)を作っているんですけど、それをトラック単位で分割し曲の長さを変えランダムに流して行くという感じです。たとえばAという音源が10分という尺にしてあったらBは9分にする。それをループにすることで、流しながら自動的にミックスされるので同じ構成には絶対にならない。だからどうしても最初の段階で音楽的な音作りではなくサウンドスケープを意識した音作りに特化していったのです。
そういった意味から既存LPやCDの概念では収めることはできないと思っていました。だから『Nova』がわりと固定化されている音楽に対して、ディスク2は自由度が高い音の作り方をしたサウンドスケープ(アンビエント)が意識できると思います。
■芦川聡さんが『波の記譜法』で書いていますが、吉村さんの作品にはちょっとオルゴールのような、ある種メルヘン的な魅力がある。そこへいくと、廣瀬さんの音楽はアブストラクトですね。メロディになるかならないかのギリギリみたいな響きがある。
廣瀬:メロディが出てきてしまうと音の空間構成ができなくなってしまう。メロディがあると、メロディに空間がとられちゃうんですような意識があったと思います。
■廣瀬さんは、しかし東京から甲府に帰られてしまいます。
廣瀬:花博のパビリオンをやっているころから体調を悪くして、その仕事が終了したあと身体を壊し甲府に帰りました。その後、北巨摩(現在北杜市)の清里にあるヨゼフ・ボイス、ジョン・ケージ、フルクサス系統の作品を中心展示していた清里現代美術館で、1992年にジョン・ケージの追悼展覧会があり、そこで音のことをやらせて頂いたのが音の仕事としては最後でした。 (了)
取材:野田努(2019年8月08日)
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