「Noton」と一致するもの

羊とオオカミの恋と殺人 - ele-king

 今年の日本は「あいちトリエンナーレ」への脅迫や京アニの放火などテロリストのヴィンテージ・イヤーとなったけれど、虚構の世界ではホラー・ブームの勢い衰えぬまま、まるでそれらをリンクさせるようにシリアル・キラーもラッシュ状態となった。TVドラマ『あなたの番です』の「黒島ちゃん」、『ボイス』で伊勢谷友介演じるカチカチ野郎や『わたし旦那をシェアしてた』の黒木啓司、『リカ』の高岡早紀も印象的な殺人看護師に扮し、映画では『バーニング』のスティーブン・ユァン、ラース・フォン・トリアー監督『ハウス・ジャック・ビルト』、まさかのザック・エフロンが『テッド・バンディ』で主役を務め、年が明ければファティ・アキン監督『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』も控えている。2017年にも多少は波があったとはいえ、マッツ・ミケルセンの『ハンニバル』が打ち切りとなって以降、完全に下火になっていたと思っていたのに、いきなりインフレ・ターゲット2%超えである。完全なる知能犯から座間9遺体事件を想起させるだらしないシリアル・キラーまでタイプもいろいろありながら、最後のところでは超自然的な要因に還元できてしまうホラー映画よりも人間に興味があるという点では製作者の意図も共通しているように思われる(ちなみに僕が一番怖かったのは「尾野ちゃん」です。「尾野ちゃんロス」になって『カフカの東京絶望日記』まで観てしまいました)。

 『羊とオオカミの恋と殺人』は、これまでに黒沢清『岸辺の旅』のメイキングやラドウィンプスのドキュメンタリーなどを手がけてきた朝倉加葉子の長編5作目。フィッシュマンズのファンだからか、名前に「葉」が入るからか、いきなりオープニングからハンパない重低音が鳴り響く。拡大された玄関の覗き穴からカメラが部屋のなかに入っていくとゴミの山の中に若い男がひとり。花王のCMで女装姿が印象的な杉野遥亮演じる黒須越郎が「人生は突然、意味を失う」などとぶつぶつ呟きながら首を吊ろうとするも縄をかけた棚ごと落ちてしまい、自殺には失敗。そして壁に空いた穴を覗き込むと隣の部屋では福原遥演じる宮市莉央がオムレツを食べているところ。黒須は毎日、「宮市さん」を覗くことで生きる活力を得るようになり、それが日課となっただけでなく、ひょんなことから一緒に食事をしないかと誘われて、毎日、彼女の部屋で夕食を共にすることに。ところがある日、いつものように壁の穴から「宮内さん」を覗いていると、「宮市さん」が見知らぬ男性を部屋に連れ込んでいるどころかその男性の喉をいきなりカッターで切り裂く場面を見てしまう。黒須は自分が見たものを最初は信じられず、「なかったこと」にしていたが、2度目に殺人を目撃した時はつい大声をあげる。親切で可愛い「宮市さん」はプロ(?)のシリアル・キラーだったのである。逃げる黒須を「宮市さん」は屋上まで追い詰める。「宮市さん」はカッターを黒須にまっすぐ突きつける。

 振り込め詐欺をテーマとしたTVドラマ『スカム』の後に、それを追う側から描いた『サギデカ』が続き、どちらも振り込め詐欺に対してシリアスな問題意識があったのに、その次に来た『チート』では物語の背景へと退いてしまったように、この作品でもシリアル・キラーを扱う手つきはもはやガジェット化し、早くも次の時代に入ったことを告げている。裸村(ラーソン)のマンガ『穴殺人』を原作とした青春スプラッタ・コメディなので最初からリアリズムとは無縁で、「宮市さん」が殺人を重ねるたびに人格や環境などに変化があるわけでもなく、「宮市さん」自身も「黒須くん」とごはんを食べ続けるのは「自分が正常かを確かめるため」と、「日常性の揺るぎなさ」がまずは基調となっている。平成を覆い尽くし、令和にも受け継がれつつある「日常」の優位性はありとあらゆる場面で重視され、SNSによるガス抜きがしっかりと機能しているのか、異常なことを異常だと認めることなく、何事にも平然とできる感覚はもはや日本文化のお家芸といっていい。日本人が「動く」としたら、では、どんな時なのか。『羊とオオカミの恋と殺人』で「宮市さん」が興奮するのは人を殺している時ではなく、(以下、ネタばれ)「本当に好きな人を殺したかった」ということがわかった時だった。それは誰かと「切れるほどつながれ」ていなければ得られない感覚であり、逆にいえばたいていの日本人は他人が生きていようが死んでいようが別にどっちでもよく、「黒須くん」も「宮市さん」が次々と人を殺していくことに最初は狼狽えているものの、彼女の「生活様式」にあっさりと収まっていく。身体感覚がルールよりも「身内」に寄りがちなのも実に日本的。

 「黒須くん」が自殺しようとした理由はあまり詳しく描かれていない。冒頭で「突然、いろんなことが意味を失った」という独白があっただけである。その時に例としてあげられていたのは円周率を細かい数字まで暗記していたのに、その必要がなくなったという「条件の変化」だった。それまでの「努力」が無に帰したのである。経済成長期に「努力」は推奨され、尊いものだとされてきたけれど、現在では貧富の差を決定するのはどの家に生まれたかであって、「努力」とは無関係なものになってしまった。まったくのゼロではないけれど、「円周率を細かい数字まで暗記」するようなタイプの「努力」は実を結ばなくなる社会に変化し、「黒須くん」はいわば自分がスタートラインにも立っていないと悟ったわけである。たまたまかもしれないけれど、「黒須くん」を演じた杉野遥亮は前述したTVドラマ『スカム』で振り込め詐欺の有能な「かけ子」を演じている。法律というラインを超えたところでは「努力」が実を結び、杉野演じる草野誠実は父親の治療費を稼ぐことができた。同じように追い詰められていてもこうした反則行為を是としなかったのが「黒須くん」であり、自殺という結論であった。そして、死ぬこともできなかった人間の前に生殺与奪の力を行使する「宮市さん」が現れる。「宮市さん」はそれこそ超法規的存在である。社会との接点を失った「黒須くん」が共同体とつながることができた唯一の方法は「宮市さん」への帰依でしかない。「努力」(と人海戦術)の上に成り立っていた日本経済が構造的な転換を遂げているいま、昭和期にはあれだけ影が薄かった天皇がやたらと存在感を増している現実とこの作品はダブって見えてくる。天皇というのは「身内」を拡大した時に現れるもので、政治に活路を見出そうとしない日本人がここのところ天皇に熱い視線を向ける光景は、それこそ政治の季節から宗教の時代への変化を告げ知らせるものだろう。

 後半は半グレ集団との対決という活劇調に雪崩れ込んで行くものの、監督やプロデューサーはこの作品をラヴ・ストーリーとして設定しているので、それよりはパピコを2人で1本づつ食べたり、2人のデート・シーンの方が僕の記憶には残った。「宮市さん」というよりも(『ゆるキャン△』の主演も決まっている)女優としての福原遥を明らかに不思議ちゃんとして増幅させている演出なので、サロメを思い出す人も多いだろうけれど、そのような存在に恋心を抱く男が描けていたかどうがこの作品の評価を分けるところかもしれない。僕はなるほどと感心させられるレヴェルではなかったけれど、ギリギリでアリだったかなという感じ。そして、僕がこの作品を恋愛ものとして見た場合、一番いいなと思ったのは、2人は相手の名前を苗字で呼び合い、エンディングで初めて「名前」を教えあったところである。この時まで彼らは「越郎と莉央」ではないのである。これは新鮮だった。「名前呼び」というのは高校生でもあまりしないことなのに、TVドラマや映画ではとくに恋人でもない女性を名前で呼ぶことが多く、なんか、気持ち悪いのである。『ブラック校則』でも小野田創楽は上坂樹羅凛を「上坂さん」と呼び、月岡中弥は「樹羅凛(きらり)」と呼ぶと「名前で呼ばないで!」と怒られていたではないか(というのはちょっと違うか)。2人が自分の名前を教えあってからはラヴ・ストーリーとして見てもいいのかもしれない。そして、2人は左手で握手をする。左手で握手をするのは相手を嫌っているという意味だったりするけれど、ここではちょっと意味が異なるようで、冒頭で黒須が自殺に失敗した時、隣室の光が差し込んで当たるのは黒須の左手なのである。黒須の左手があの時、あの場所になければ2人は出会わなかったのかもしれないのだから。

ブラック校則 - ele-king

 赤塚不二夫がもしも酒に溺れず、武居俊樹に代わる若くて優秀なブレーンとタッグを組み続けることができた場合、いったいどの時期までのギャグマンガと張り合えただろうと考え、高橋留美子から中村光へと受け継がれたコミュニティ路線や赤塚がハナから興味を示していない自意識系を除外すると、かなりな拡大解釈をして久米田庸治『さよなら絶望先生』(05-12)や大武政夫『ヒナまつり』(10-)までは行けたのではないかと根拠もなく思うのであった(詳細は会って議論でもしよう)。だけど、『セトウツミ』(13-17)の此元和津也だけはどうやっても赤塚とは距離があり、此元本人が仮りに赤塚の担当編集者になるようなことがあったとしても、これをひとつの作品にまとめることはやはりできないのではないかという溝を感じてしまう。理由はいずれ考えるとして、その、此元和津也が脚本家としてデビューすると知り、10月からのTVドラマ『ブラック校則』は実に楽しみだったし、実際、これまでのところ期待を裏切られた回はない(あとは最終回を残すのみ。正直、10月期のTVドラマではベストでしょう。2位は向田邦子を思わせる『俺の話は長い』、3位は『少年寅次郎』か『おいしい給食』)。主役はセクシー・ゾーンの佐藤勝利演じる小野田創楽とキング&プリンスの高橋海人演じる月岡中弥で、彼らは学校の校則に疑問があるという縛りを手玉にとって、自分たちが置かれている日常を笑いに変え、なんとも鮮やかに高校生活をグレード・アップさせていく(流しソーメンの回、最高!)。これにモトーラ世理奈演じる町田希央がスクラップ工場で働く外国人労働者とラップやグラフィティを介して課外時間を充実させ、労働問題などを巧みにストーリーに織り込んでいく手腕は見事としか言いようがない。モトーラ世理奈はイタリア系アメリカ人を父に持つハーフのファッション・モデルで、最近は女優業にもめざましく、この7月に茂木欣一と柏原譲の演奏を得てフィッシュマンズ「いかれたBaby」のカヴァーで歌手デビューも果たしている。強い内容のセリフをたどたどしく話す様子にはつい目が惹きつけられる。

 驚いたのは『ブラック校則』の映画版が同じ時期に並行して公開されたことで、これがTV版と違ってコメディ要素はほとんど削ぎ落とされ、同じ撮影素材を使いながら、まったく違う雰囲気の内容に仕上げられていたこと。TV版では『セトウツミ』をマネて毎回、小野田創楽と月岡中弥がお台場の海でだらだらと駄弁りながら学校であったことを回想したり、「コーツ高レジスタンス部」と呼ばれるチャット・ルームにログインしたりと、いくつかシチュエーションの異なる場面転換が用意されていたのに、映画版ではシンプルに学校生活だけを追い、ストーリーも一直線に進んでいく。導入はTV版と同じく、町田希央が登校してくると、生活指導の教師から髪を茶色に染めているのは校則違反だと注意され、そう言われた町田希央はくるっと方向を変えて学校の敷地から出ていく。これを毎日繰り返していたのか、町田希央はすでに出席日数が危うくなっている。本当は地毛であるにもかかわらず、町田希央は仕方なく髪を黒く染めて登校してくる。地毛証明書を提出すれば、そもそもこんなことにはならなかったのだけれど、彼女にはそれを提出できない理由があり、この様子を見ていた小野田創楽は校則の方がおかしいと感じ、校則を変えるために意見ボックスを設置する。これに腹を立てた生徒会長の松本ミチロウ(田中樹)が小野田創楽の前に立ちはだかる――。高校生が始める「運動」はあっさりと挫折したように見えたものの、ある時、校舎の裏に誰かがグラフィティを描き殴ったところから、これがレノン・ウォールのような役割を果たすようになり、学校にいる間はスマホを取り上げられていることも手伝って、生徒たちが校則に対して思っていることなど様々な意見が描き加えられるようになっていく。なんでペンキがいつもたっぷりと置いたままなのかなという細かい点は気になったけれど、取り立てて特別な才能があるわけでもない小野田創楽を中心に現状を変えていこうとする高校生の姿はティーンムーヴィーにしては珍しいテーマだし、ルールがあった方がいいと「自由を恐れる」生徒会長の上坂樹羅凛(箭内夢菜)が変化を見せたり、吃音症のラッパー、達磨がほとんど素のままで演じる東詩音など個性的なキャラクターの配置が面白く、何よりも此元和津也の硬派っぷりに驚かされる作品であった。

 TV版の第4話で月岡中弥がこんなことを言う。何匹かの猿がいて、ハシゴを登ればバナナに手が届く。ところが1匹がハシゴを登ると他の猿には冷水が浴びせられる。誰かがハシゴを登ろうとすると、冷水を浴びたくない猿たちはこれを止めさせる。やがて誰もハシゴを登らなくなる。そこに新しい猿が入って来ると、もはや理由もわからずハシゴには登らせない。髪型、スカート丈、アルバイト、自転車通学がどうしてダメなのか、実はもう誰にも理由などわからないのに禁止になっていると。これに対する答えとして、TV版では第5話で規則を破った教師が事故死したというエピソードが語られる。でんでん演じる法月士郎校長はかたくなに校則は厳しくあるべきだと自説を曲げない。映画版ではこうした重層性はなく、校則を変えたい一心で小野田創楽たちは最後まで突っ走っていく。ありとあらゆる登場人物が束になってクライマックスに突入するプロセスはなかなか圧巻でした。小野田創楽が設置した意見ボックスに5人しか意思表示をしなかったにもかかわらず、壁に殴り書きされた言葉で事態が動き始めるという流れは、日本人の「本音」好きがよく表れていて、それは同時に潜在的に「変えたい」はあっても「理想」がないということも露わにしている。この世界がどうなったらいいのかという理想がなければ「変えたい」という衝動もその場しのぎで終わりかねないし、過程こそすべてと考えるか、馴れてしまえば「このままでいいや」ということになりかねない。適度な息抜きを与えられた「このままでいいや」は明らかに「変えたくない」には勝てないし、理想のない「変えたい」は「このままでいいや」にかなわない。「変えたくない」が保守で、「変えたい」がリベラルやラディカルだとすれば、日本人のほとんどは、おそらくは「このままでいいや」ということになるだろう。TV版の第2話で月岡中弥は「痛いやつ、必要説」を唱える。群れからはずれた「痛いやつ」しかパイオニアにはなれないと。月岡中弥の冗談とも本気ともつかない話しっぷりは本作の大きな魅力である。

 僕の記憶にある限り、80年代や90年代の日本人はフィリピンやインドネシアの開発独裁ぶりを見て、どこか嘲笑っていた。イメルダ夫人が贅沢三昧にふけるのはアジアがまだ「後進国」で「遅れている」からだと。僕にはいまの日本はまるで「成長」という呪文をかけられた開発独裁の国にしか見えない。政治家などというものはどの国も大したものじゃないのかもしれないけれど、せめて自分たちがやったことの記録ぐらいは残して欲しいし、身内や友人に利益供与があった場合、マレーシアや韓国でも政治家はクビにされ、国民は他の選択肢に変えるというのに、いまの日本にはそれこそスハルトかピノチェトが君臨しているかのように政権は盤石で、記録を残す政治家を選ぼうという「理想」すら耳にしない。開発独裁に怯えていたアジアの人たちは無知でバカなんだろうな~などとかつては勝手に思っていたけれど、あ、いまは自分たちがそれなのかという感じ。「このままでいいや」が長く続いた結果ということなのか、日本はいま、経済的に途上国並みだとかいう議論の前に政治的に後進国になってしまい、ルワンダのカガメ政権やベラルーシのルカシェンコ政権、トルコのエルドアン政権やフィリピンのドゥテルテ政権と同じカテゴリーに属しているということなんだろうか。つーか、これジャニーズ映画なんですよね。田母神美南(成海璃子)とかヴァージニア・ウルフ(薬師丸ひろ子)とか、役名がとんでもないですけれど。


映画『ブラック校則』(11.1公開)予告編

ジョーカー - ele-king

 公開前から賛否両論で異例の盛り上がりが生じた、バットマンの有名な悪役ジョーカーのオリジンを描いた話題作。煽りだけで終わることなく封切ったら実際に大ヒットし社会現象化した感すらあるが、筆者は「これがヴェネチア金獅子? スキャンダラスで大胆?」と首を傾げずにいられなかった。
 R指定映画だけに、なるほど暴力描写は手加減なし。しかし、アメリカで「インセルたちのヒーローか」との声もあがった主人公ジョーカー/アーサー・フレックはコメディアンを夢見る派遣ピエロ。孤独なヴィジランテでも無差別テロリストでもないし、観て心がざわつく、本当の意味で物騒な作品でもなかった。悪運続きで崖っぷちに追い込まれた窮鼠であるアーサーは、危険なヒーローではなくむしろ憐憫を誘うだろう。
 監督トッド・フィリップスは本作を「独自の世界で起こるもので、過去および未来のDC作品とは一切繫がりがない」と位置づけている。しかしバットマンの文脈を物語に取り入れているので、既によく知られたキャラクターの知られざる前身を観る側に発見させるさりげなさには欠ける。こじつけっぽく含まれた社会派な背景音も、ひとりの人間の内面と変容をじっくり追った作品の主調と不格好にクラッシュする。今風な「貧困層対1パーセント組」の対立図式が含まれるものの、一方で台詞のある黒人キャラクター3名はいずれも「(白人)主人公をケアし、そのニーズに応える役柄」と、古いステレオタイプを踏襲しているのも後味が悪い。
 1970年代後期〜80年代のニューヨークを舞台に人間の狂気をサタイアも交えて掘り下げるのであれば、『ジョーカー』が色んな意味で多くを負っているマーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』と『キング・オブ・コメディ』、シドニー・ルメットの『狼たちの午後』、『ネットワーク』を観ればいいかと。まんまとハイプに引っかかってしまった、己の野次馬根性の負けである。

 それでも、ホアキン・フェニックスは観るに値する。映像になっても減少しない強い存在感と性格俳優の面を兼ね備えた彼は、特に10年代以降スパイク・ジョーンズ、ポール・トーマス・アンダーソンら「作家」から引っ張りだこになってきた。会話は多くない、ページ数にしたらかなり薄そうな脚本を、ホアキン自身が経験値と想像力とで立体化し厚くし、可視化している。しかも『マシニスト』のクリスチャン・ベールばりの熾烈な減量も敢行していて、半裸シーンは観ていて痛々しい。役に合わせて体重を増減させルックスを変えるカメレオンと言えば『ジョーカー』にも友情出演(笑)しているロバート・デ・ニーロの十八番だが、ホアキンの身体性豊かな全身を使っての演技には吸い込まれずにいられなかった。
 眉や頬の筋肉の動き、目の微妙な変化といった演技は、演劇にないクローズアップが可能な映画メディアで発展してきたメソッドだ。だが今ほど自由自在にカメラが動けなかった映画史初期はアクターのアナログな肉体は重要な要素で、ここでのホアキンはフィジカルとサイコロジカルな演技の双方をブレンドしている。フレッド・アステアの『踊らん哉』、チャップリンの『モダン・タイムス』が画面にチラッと登場するのはダンスやスラップスティックな動きへの目配せであり、グリーン・スクリーンとCGでなんでも可能な現代映画へのアンチだろう(貧しい工員が近代資本主義の工業化に揉まれ狂気に陥る『モダン・タイムス』は『ジョーカー』の青写真でもある)。
 アーサーの孤独なダンスは非現実的でフリーキーでありながら妙に優雅で、映画の見せ場だ。取り憑かれたようなその踊りは、白塗りメイクと濡れたロン毛、ズボンの裾から覗く細い足首と相まってふとマイケル・ジャクソンを連想するほど。しかしそれらダンス・シークエンスの数々が、主人公のナルシシスティックな妄想の視覚化ばかりか制作者側のナルシシズムにも見えてきたのは鼻についた。筆者にはむしろ、映画の冒頭・中盤・ラストと何度か登場するアーサーの疾走の方が印象に残る。
 疾走の性質は「追跡」から「逃走・脱走」に変化していくので、自らのアイデンティティを探し追っていた彼が、逆にアイデンティティから逃げてそれを喪失していく過程のメタファーにもなっている。しかし『ザ・マスター』でのフレディ・クウェルの走り方とも違うドタバタした走り方はどこか滑稽で、どっちに向かってもアーサーはどんづまりの道化であることを感じさせ、とても切ない。ニューヨークを舞台にした犯罪人間劇の秀作であるサフディー兄弟の『グッド・タイム』もよく走る映画で、あれもどんづまりだった。

 トッド・フィリップスはホアキン以外にジョーカー役を想定していなかったそうだが、その決定に彼の過去の主演作『ザ・マスター』およびリン・ラムゼイの『ビューティフル・デイ』(主人公ジョーはPTSDに苦しむローナーで母親とニューヨークにふたり暮らし、とアーサーの設定と少々被る)がフィードバックしていると感じたのは筆者だけではないだろう。しかもフィリップスは「コミック映画ではなく、『本物の映画』を作る」が『ジョーカー』の基本コンセプトだったと明かしてもいる。コメディ映画をさんざん作ってきた人間に、「漫画映画はリアルな映画じゃない」と否定されたくはない。
 百歩譲って、監督自身が『ハングオーバー!』他で当てた自らのパブリック・イメージが邪魔になることを危惧してシリアスさを強調しているのだとしても、大人向けの本物の映画に脱皮する踏み台として、ハイブロウなアート/インディ系映画役者であるホアキンのハクと演技力が利用されたとの印象は残る。人間と社会を描く映画を目指しながらも、DCブロックバスターの枠組みに手を縛られ、そもそもオリジンがないキャラクターが生み出す余白を映画好きをくすぐるテクニックやリファレンスのオンパレードで埋めたことで中途半端になったこの作品、いささか「仏作って魂入れず」な1本だと思う。

『ジョーカー』本予告

Noah - ele-king

 Noah 『Thirty』は、いくつもの色彩が反射するダイアモンドのようなエレクトロニカ・ポップであり、ひとりの音楽の感性の中に瞬いた「光と旅と都市を巡る音楽」でもある。

 Noah は日本の電子音楽家だ。2009年より音楽活動を本格化させ、ピアノやクラシック音楽をベースにしつつ、繊細で緻密なエレクトロニカ/ポップな作品をリリースしてきた才人である。代表作をひとつ挙げるとするならば東京の音響レーベルの老舗〈Flau〉から2015年にリリースされ、英国『ガーディアン』誌で絶賛されたという『Sivutie』だろうか。

 「白昼夢」の世界を描いたという『Sivutie』から4年を経て発表された作品が、新作『Thirty』である。本作品において Noah は「自分が自分でないような」感覚をカラフルな現実として表現していく。「東京」という都市が現実と虚構の狭間で色彩豊かに生成するような感覚とでもいうべきか。じじつこの4年のあいだに Noah は故郷の北海道を離れて東京を活動拠点とするようになったという。『Thirty』には未知の都市に対する繊細な感性が横溢している。

 そう、エレクトロニカにおいて私たちはいつもひとりの音楽家の感性と感覚と認識と感情を知ることになる。エレクトロニカはとてもパーソナルな音楽なのだ。Noah の音楽も都市が放つ粒子の只中で、自身の「声」を生成する。「声」とはいわゆる人の声だけではない。音楽の、音響の、和声、旋律の中に息づいている音楽家の「声」だ。
 私たちはすぐれた音楽を聴くと、たとえインストの楽曲であっても作曲した音楽家の「声」を感じることがある。例えば坂本龍一のピアノ曲。彼のハーモニーは、その音楽の「声」だ。近年ではフローティング・ポインツのトラックに彼の「声」を聴き取ることができた。Noah の楽曲も同様である。彼女の音楽には、彼女にしかない響きがあった。たとえばそのハーモニーに、そのメロディに、そのノイズに。

 本作『Thirty』は Noah の新しい代表作に思えた。『Thirty』は前作『Sivutie』以上にポップなトラックを収録している。電子音響のカーテンのように幕開けを告げる“intro”、ダンサブルなエレクトロニカ・ディスコ“像自己”、ピアノと電子音とヴォイスが交錯するオリエンタルな“夢幻泡影”、エキゾチック・エレクトロニカ・ミニマル・ミュージックとでも形容したい“18カラット”、80年代香港ポップをエレクトロニカ経由で粒子化したような“メルティン・ブルー”、硬質なムードに満ちたラグジュアリーでインダストリアルな“愛天使占”、シンプルなメロディとミニマルな電子の交錯が心地よい“シンキロウ”、エレピの響きとハイハットの刻みの中心に空間的な静寂のなか中華的なメロディと微かな電子音が交錯する“風在吹”、アップテンポの4つ打ちビートとディスコ的なベースラインと麗しい音響処理による“像自己 alternative ver.”。

 全曲 Noah という音楽家の作曲家としての力量とサウンドメイカーとしての繊細さと緻密さが交錯しており、現時点での彼女の最高傑作といっても過言ではないだろう。2018年にリリースされた Teams と Noah と Repeat Pattern による『KWAIDAN』での制作が、『Thirty』にも大きな影響を与えているのでないかと想像してしまった。

 『Thirty』を聴くこと。それは見知らぬ都市を訪れたときに感じる未知の「光」を感じる経験に似ている。都市の放つ光に目が眩む感覚。この作品には、どこかそのような旅行者の意識を感じた。その場のすべてを吸収するように移動を重ね、意識と感覚を飛躍させる未知なる都市の旅人たちと同じように、本作の楽曲たちは、どこか「次」へと向かおうとする意志を放っていたのである。
 ここではないどこかへ。仮想と現実の彼方へ。エレクトロニカ、ポップ、オリエンタル、クラシック、ヴェイパーウェイヴ、アジアン・ポップなど軽やかにステップしつつ、まるでダイアモンドのように華麗な光を放つ本作を聴きながら、私はすでに Noah の次回作がいまから楽しみになっている。

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

 取材で出張版「RECORD YOU ASSHOLE」を聞いていたところ、出戸学が重要なことを言ったことを、わたしは聞き逃さなかった。Pファンクふうの下卑たシンセサイザーが鳴り響くローファイなアフロ・ファンクをかけながら、出戸はこういった。「僕らの音楽もよく〈引き算している〉って言われるんですけど、作っている身としては、これでちょうどいいと思ってやっているんです」(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/23052)。イベントが終わってからも、その一言が頭の中でぐるぐると回り続けていた。

「引き算をする」とはダブの発想でもあり、先日立ち会った取材でエイドリアン・シャーウッドはそれを「less is more」といっていた。音と音の空隙が、音が鳴らないことが、残響と反響が多くを雄弁に語る、ということ。「新しい人」というこのアルバムのタイトルがフィッシュマンズのヘヴィなダブ・ソングをフラッシュバックさせるとしても、あくまでも音楽的には「これでちょうどいい」と考える OGRE YOU ASSHOLE のこころみは、それとはまたちがう。

 あるいは、ミニマル・ミュージック。もちろん、「minimal」とは「最小の」を意味する形容詞である。一般論をいうなら、「ミニマル」であることは、楽器の音の少なさ以上に「静的」であることが重要だ。つまり、おごそかで、ドラマティックで、耳が訓練された者にとって聞き心地のよい「動的」な機能和声をあからさまに無視し、和音を進ませないこと。同じ和音にとどまり、それを反復し、執拗に繰り返すこと。それは、西洋古典音楽が築き上げてきた大伽藍の否定形のひとつでもあった。

 だがしかし、「引き算をしている」かのように聞こえる OGRE YOU ASSHOLE の曲からは、たいていポップスやロック・ミュージックとしての和声の展開を聞くことができる(独自に変形し、奇形化した J-POP やこの国のロック・ミュージックなどと比べれば当然、ひじょうに簡素なものではあるが)。さらには、2本やそれより多くのギター、ベース、ドラムス、ヴォーカルが、「きちんと」聞こえてくる。またこの『新しい人』の多くの曲では、シンセサイザーやパーカッション、さらにはドラム・マシーンが鳴っている。ということは、「引き算」はされていないのではないか。OGRE YOU ASSHOLE は、音を少なくすることで多くのことを語ろうとするのではない。あるいは、ポップスとしての和声を放擲して、それらを否定してやろうというのではない。

 しいていうなら、楽器の音が重ならないようにして音が鳴らされていることは、たしかである。だから、「引き算をしている」かのように聞こえるのだろうか。OGRE YOU ASSHOLE の曲は、かみあわせのわるいパズルのピースがむりやり組み上げられているかのように、それぞれの楽器が順々に音を発し、ときにだらしなくかさなりあうことでできあがっていて、きちっとした音の咬合感、心地よさをあじわわせてはくれない。そうして、出戸の「これでちょうどいいと思ってやっているんです」という言葉にまた立ち返ることになる。どうどうめぐり。

 だから OGRE YOU ASSHOLE の音楽は、まるみをおびた音色のきわめて自覚的な選択もあいまって、研ぎ澄まされているというよりは、なまぬるく、まぬけですらある。とあるインタヴューでバンドのギタリスト、馬渕啓が「チョーキングしてもどこか無表情」と語っていたように(https://www.cinra.net/interview/201910-oya_ymmts)、OGRE YOU ASSHOLE の音楽においてギターの弦をくいっと指でもちあげることによるピッチの上昇が、なにかしらの情感やムードの変化を生むことはない。あるいはそれは、『新しい人』の音楽的なトピックであるアナログ・シンセサイザーの重用にしても同様で、“さわれないのに”や“過去と未来だけ”では、シンセサイザーがごくシンプルなリード・メロディをふぬけた単音で奏でているが(ロックやポップでシンセサイザーが試用されはじめた黎明期のころの音楽をほうふつとさせる)、機械的であるのではなく、ただひたすらにけだるい。“さわれないのに”のシンセサイザーのうねり、“自分ですか?”のモジュレーション、“朝”のスライド・ギターにしてもまたおなじである。ただそれらを耳にしても、あっ、なんかちょっとピッチが上がったな、なめらかにピッチがうつりかわったな、メロディっぽく聞こえるな、くらいの、微温の感想をせいぜい覚えるくらいのもの。まるで、道ばたに落ちているくしゃくしゃになったコンビニ店のビニール袋をちらっと見るくらいの感覚で。

 では、OGRE YOU ASSHOLE が引き算しているものとはなんなのか。それは、きわめてありがちで、おもしろみのない、そして抽象的な回答ではあるものの、エモーションである、というほかない。出戸は表題曲で、「新しい感情が生まれてくる」と、ぬるっと歌う。そこには、「新しい感情が生まれてくる」気配やムードは、からきしない。そもそもミシェル・ウエルベックの『素粒子』をリファレンスにしたという“新しい人”の詞は、2019年を生きる者にとって理解しえない、(そして、むこうにとってもこちらを理解しがたい)「新しい人」からの視点で書かれているのだという。この「新しい人」とは、「現代社会の苦々しい部分」を「克服した高次の存在」で、「遠い未来の人類」だと。つまりそれは、共約不可能な、まったき他者、ということである。そんな他者を想像し、ましてやその視点から歌うことなど、できないはなしなのではあるが、OGRE YOU ASSHOLE は、出戸は、それをやってみようとしている。そのためになされたことは、エモーションを極限までうすめ、なくすことである。いうなれば OGRE YOU ASSHOLE の引き算された(ように聞こえる)音楽とは、そして彼らのミニマリズムとは、「エモーションレス」といいあらわすのが近い。

 しかしそれは、たとえば「ひとの感情の機微を描いた」といった、わかりやすく経済的なキャプションには回収されない。「わかってないことがない」という二重否定の、二度目の否定が顔を現す寸前にがくっとずっこけ、しずみこむ、解決の延期とサスペンション。「さわれないのに」という逆説における、次のセンテンスの不在感。こうした「なにかがない」感覚は、繊細で微妙なエモーションですらなく、繊細さや微妙さも抜け落ちた、たしかな欠損感である。あるべきところになにかがない。なにかがすっぽりと、確実に抜け落ちている。しかし、その抜け落ちたものがなんなのかわからない。さらには、その欠損箇所がどこなのかもよくわからない。こういった、きわめて現代的で奇妙な感覚を、OGRE YOU ASSHOLE は奏で、歌っている。

『新しい人』は、たしかに OGRE YOU ASSHOLE の、現在のところの最高到達点である、と言ってしまおう。サイケデリアでもメロウネスでもなく、確実な欠損を(もしその欠損がエモーションというかたちになるとすれば、それは「かなしみ」であると、わたしは思う)、彼らは音楽にした。不在感がただあること、『新しい人』ではそれが鳴らされているのだ。

Nérija - ele-king

 現在のロンドンのジャズ・シーンの特徴のひとつに、女性ミュージシャンが数多く活躍していることが挙げられる。女性ということで切り分けることは、ときに批判を招く恐れもあるのだが、ただほかの国や地域と比べて女性ミュージシャンが圧倒的に多いことは事実で、特に女性が多いシンガーというジャンルだけでなく、さまざまな器楽演奏家に及んでいる。こうした土壌を生んだ要因のひとつに、トゥモローズ・ウォリアーズの存在が挙げられる。トゥモローズ・ウォリアーズはギャリー・クロスビーと、そのパートナーのジャニー・アイロンズによって設立されたミュージシャンの育成・支援機関であるが、ジャニーは慈善事業など社会活動家でもあり、そんな彼女がトゥモローズ・ウォリアーズを興したきっかけのひとつに、男性に比べて活動の場が制限されることの多い女性ミュージシャンの進出に貢献できればということがあった。そうしてトゥモローズ・ウォリアーズには多くの女性ミュージシャンの卵が集まり、巣立っていった。ザラ・マクファーレン、カミラ・ジョージ、サラ・タンディなど、現在の南ロンドンを中心に活動するミュージシャンがそうで、女性ミュージシャンが集まったヴィーナス・ウォリアーズというプロジェクトが組まれたことがある。このヴィーナス・ウォリアーズには、ワーキング・ウィークなどでも活躍したベテランのジュリエット・ロバーツほか(彼女はトゥモローズ・ウォリアーズ出身ではないが、コートニー・パインやギャリー・クロスビーらジャズ・ウォリアーズの面々と親交が深く、別働バンドのジャズ・ジャマイカにも参加していた)、ヌビア・ガルシア、シャーリー・テテ、ロージー・タートン、ルース・ゴラーなどが参加していたが、ヌビア、シャーリー、ロージーはトゥモローズ・ウォリアーズ内でほかにネリヤというグループも組んでいた。

 ネリヤは女性7人組グループとしてスタートし、初代メンバーはヌビア・ガルシア(テナー・サックス、フルート)、キャシー・キノシ(アルト・サックス)、シーラ・モーリス・グレイ(トランペット)、ロージー・タートン(トロンボーン)、シャーリー・テテ(ギター)、インガ・アイクラー(ベース)、リジー・エクセル(ドラムス)だった。ヌビアとシャーリーはマイシャでも活動し、またシード・アンサンブルにはキャシー、シーラ、シャーリーが参加し、シーラがリーダーを務めるココロコにもキャシーが参加するといった具合に、彼女たちのサークルは南ロンドンのジャズ・シーンの中核を担っていると言える。2016年に自主制作でデビュー作の「ネリヤEP」を発表するが、これが〈ドミノ〉のスタッフの目に留まり、今年改めて〈ドミノ〉から再リリースされると共に、ファースト・アルバムの『ブルーム』が発表された。〈ドミノ〉はどちらかと言えばインディー・ロック、オルタナ・ロックのイメージが強く、かつてはポスト・ロック期のフォー・テットはじめ、ジム・オルーク、マウス・オン・マーズなどを紹介していたことで知られるが、今年はシネマティック・オーケストラからブラッド・オレンジまで、ますます幅広いアーティストの作品をリリースしている。ネリヤのどのあたりに〈ドミノ〉が惹かれたのかはわからないが、恐らくオーソドックスなジャズ・バンドとしてではなく、ジャズの枠を超えた何かオルタナティヴなものを感じたからではないだろうか。ジャンルや音楽性は全く違うが、かつてのザ・スリッツやESG、ザ・レインコーツといったオルタナティヴなガールズ・グループ的なモノを感じたのかもしれない。

 さて『ブルーム』の録音では、ベースのインガ・アイクラーがリオ・カイへと替わっている。リオは男性なので、ネリヤは女性バンドではなくなっているのだが、音楽性そのものは「ネリヤEP」の頃を継承・発展させたものとなっている。なお「ネリヤEP」ではリミックスとジャケットのアートワークをクウェスが手掛けていたのだが、今回の『ブルーム』では全面的にプロデュースとミックスを行い、“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”という曲ではシンセ・ベースなども演奏している。とは言ってもクウェス的な音に加工されているわけではなく、あくまでネリヤの音楽をストレートに表現するためにサポートに徹している。
 ネリヤの武器は、何と言ってもその芳醇で力強いブラス・アンサンブルだ。ライヴなどで4官がフロント・ラインに立って押しの強い演奏を繰り広げる光景は圧巻だが、本作では先行シングルとなった“リヴァーフェスト”にブラス・セクションの迫力が表われている。ニューオーリンズ的なクレオール・ジャズで、マルディ・グラのブラス・バンドに通じるようなアンサンブルを聴かせる。ゴツゴツと角の尖ったドラムは現代的であるが、ブラスやビートの強さの一方で、シャーリーのギターによるメロウで哀愁漂うメロディも印象的。大々的にソロを聴かせる“イクァニマス”など、彼女のギターもネリヤの中で大きなアクセントとなっている。アフロやファンクを取り入れた“ラスト・ストロー”はいかにも南ロンドンらしい曲で、やはりファンク・ビートを導入した“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”、アフロ・ビート系の“スウィフト”ではダブやレゲエの要素も感じられる。とは言っても、南ロンドン・ジャズに多いクラブ・サウンドやダンス・ビートと結びついたものではなく、ヒップホップやグライム、R&Bなどの要素はほとんど見られない。アメリカのテリー・リン・キャリントンのモザイク・プロジェクトも女性のみのグループだが、こちらはそもそも歌などが入らない完全なインスト・アルバムで、有名曲や人気曲のカヴァーもなく、極めてストレートで硬派なジャズ・アルバムとなっている。ある意味で世の中に媚びていないアルバムであり、強さや包容力が込められた音楽ではないだろうか。

LORO 欲望のイタリア - ele-king

 デビッド・ボウイが亡くなったことに敬意を表したのか、それとも単にクイーンやエルトン・ジョンといった70年代のロック・スターを描いた映画が話題だからか、この春のメット・ガラは「キャンプ」がテーマだった(昨年のテーマは「カトリック」でマドンナが「Like A Prayer」を仰々しく歌い、来年は「時間の流れ」というテーマが予定されている)。メット・ガラはセレブたちがファッション・センスを競う大掛かりなファッション・イヴェントとして知られ、ここぞとばかりに栄耀栄華を見せつける現代の「虚栄の市」なのに、今年は誰も「キャンプ」を正しく理解できず、「ファン」や「キッチュ」に陥っているだけだという厳しい評が飛び交う事態となった。カーラ・デルヴィーニュもジェンナー姉妹もまとめてボロクソに言われるなんて、そうそうあることではないし、確かにエル・ファニングもジジ・ハディッドも泣きたくなるほどダサく、主宰のアナ・ウィンターや果ては審査員まで「まったくわかってない」とダメ出しの嵐であった(キム・カーダシアンは存在自体がキャンプという評は笑った)。70年代というのは、そんなにも遠い時代になってしまったのか。あまりにもノームコアやミニマルが長く続き、もはやミレニアム世代にはデヴィッド・ボウイやスーザン・ソンタグがファッションの文脈で起こした革命は「ジンバブエでムガベ大統領の妻がアイスクリーム屋を始めた」というニュースぐらい遠い出来事になってしまったのだろうか。それともエコとグラマラスはもう相容れない時代に突入し、「キャンプ」を理解できない方が正常だという認識に僕の頭も改めた方がいいのだろうか。デヴィッド・ボウイのことはもう忘れろと。教えてクロエ・スウォーブリック! 

 6つのTV局を所有し、首相としてイタリアの政界に計9年間も君臨した不動産王シルヴィオ・ベルルスコーニを描く『LORO 欲望のイタリア』(以下、『ローロ』)は政治家の映画なのに、『ペンタゴン・ペイパーズ』や『新聞記者』のように正義がどうしたといったパターンではなく、歌とダンス、乱交パーティにドラッグが飛び交い、ケン・ラッセルもかくやと思うほど華美と悪徳に彩られた映画である。いまの日本も政府に都合の悪いニュースはどのTV局もほとんど流さず、玉川徹がいなければ『1984』と大差ない政治状況だし、安倍政権が報道の独立性を脅かし続ければ、こんなにも簡単に国民をコントロールできるのかというイタリアの「前例」に習うばかりなのだろう(無神経な失言が多く、脱税や汚職の数々を裁かれることから逃れた手腕もモリカケ問題を思わせる)。『ローロ』が描くのは中道右派のベルルスコーニが2008年に第4次内閣として動き出すまでの「復権期」。政治を描くのに、こんな方法があるのかと驚かされる斬新さと、人々の欲望やバカさ加減をとりつくろうことなく厚塗りに厚塗りを重ねてテンペラ画のように盛りあげ、イタリア人以外の人類はちょっと真面目すぎるんじゃないのかと思わせるほど生きる歓びと裏表で表現されている。この作品には「事実を示す意図はない」と最初に但し書きが添えられていた通り、虚実もめちゃくちゃだし、どこでどうやって1本の作品となっていたのか、観終わって少し経ってしまうとまるで思い出せない(ので、もう1回観たけど、やっぱりストーリーを順序立てて思い出すことは不可能だった)。全体にわざとらしい音楽の使い方も猥雑さを煽るという意味ではこれ以上ないというほど効果を上げていて、とりわけベルルスコーニがナポリ民謡を歌うシーンは「キャンプ」=「不自然で、誇張されたものを愛好する美学」に肉薄しているとも。ちなみにパオロ・ソレンティーノ監督がベルルスコーニを題材にして映画を撮ろうと思ったきっかけはスーザン・ソンタグの言葉に触発されたからだという。

 実にシュールなオープニングは目を閉じた羊のアップから。この羊が何を思ったか、変な声で鳴いてから大邸宅に入り込み、しばらくTVを観ていると急にバタンと倒れて死んでしまう(ここまでが早くも無上に面白い)。ベルルスコーニが牛耳っているTV局はそれぐらいつまらないものしか流していないという意味にも取れるし、こうしたTV番組の断片がことあるごとにさしはさまれるので、イメージの乱舞は数かぎりなく、そして、とりとめもなく話の整合性をかき乱していく(9月から公開されているルカ・ミニエーロ監督『帰ってきたムッソリーニ』で現代にワープしてきたムッソリーニがイタリアのTV番組を見て「どのチャンネルも料理番組ばかりじゃないか! 政治を語れ!」と激昂するシーンを思い出す)。続いてヨットで娼婦に地方議員の接待をさせるセルジョ・モッラ(リッカルド・スカマルチョ)の物語。娼婦の尻にはベルルスコーニのタトゥーが入れられ、バックで娼婦を犯しながらそのタトゥーを見たセルジョ・モッラは地方を出てローマに向かう決意をする。実力のないセルジョ・モッラは政界へのとっかかりがなかなか掴めず、アルバニア出身のお高くとまったキーラ(カシア・スムトゥニアク)と出会い、ようやく作戦を立て始める。2人が美女たちを集めて夜のローマを歩いていると、ネズミをよけ損ねたゴミ収集車が橋から落ちて爆発し、ファッション・モデルたちの頭に綺羅星のごとくゴミが降り注ぐ。ゴミ収集車が撒き散らしたゴミはベルルスコーニ時代にゴミの回収が行われず、ナポリがゴミの街と化してしまったことをオーヴァーラップさせていることは明らかだけれど、このシーンがまた無上に素晴らしい。そして、夜空はサルディーニャの青空に一変し、ゴミは空一面から降り注ぐMDMAにかたちを変えると200人規模の乱交パーティへと場面は変わる。ベルルスコーニの大邸宅が見下ろせる場所にあるプールで大騒ぎをすればベルルスコーニの気を引けると2人は考えたのである。

 MDMAにはどんな効き目があるかを説明し、その効果を医師が「ビロード」に喩えてからスタートする乱交パーティはかつてパゾリーニやフェリーニなどイタリアの映画界が描いてきた性の過剰さを継承しつつ、現代的な表現に更新を試みる。参加者全員で夕陽に見惚れるシーンはかなり壮観で、MDMAによって高められた共感能力が退廃を通り越して崇高に達してしまったかのような錯覚まで覚えてしまう。そして、ようやく話はベルルスコーニ(トニ・セルヴィッロ)の登場となる。パーティ会場の隣の敷地で女装したベルルスコーニが(冒頭に登場した羊と同じコースをたどって)庭から家の中に入り、ベルルスコーニの淫行報道がきっかけで機嫌を損ねた妻ヴェロニカ・ラリオ(エレナ・ソフィア・リッチ)に花束を渡すも「笑えない」と一蹴され、孫との会話では「真実は口調で決まる」と教えたり、サッカー選手のミシェル・マルティネスにACミランへの移籍を持ちかけたり。ベルルスコーニは首相の座を「たった6議席」の差で失い、この時は「年金暮らしの老人みたいな存在」だったのである。ここにかつて会社を興した旧友、エンニオ(トニ・セルヴィッロが二役を演じた)が訪ねて来て「利他主義は利己主義の最善策」だとハッパをかけられ、政界への復帰を画策し始めることに。やる気になったベルルスコーニは偽名を使って、まずの一介の主婦にセールスの電話をかけてみる──。とにかくセリフがいちいちウィットに富んでいて、「心臓と前立腺に鞭打って」とか「キリスト教と共産主義の共通点は貧しさを説き、それを実現すること」だとか、深く言葉の意味を考えていたら女性の裸に見とれている暇もない。それどころか、これだけ女性の裸を洪水のように垂れ流しながら、(以下、ネタばれ)そうした女性たちのひとりであるステッラ(アリス・パガーニ)には「ここに来たわたしも哀れ」と、若者にしか言えないカウンターのひと言をいわせ、クライマックスでは離婚を切り出した妻との口論で一気に#MeTooへと舵が切られていく。

 ここまででまだ半分。後半、ベルルスコーニが首相に返り咲き、その途端、ラクイラ地方で大地震が起きる。まるでイタリアがベルルスコーニの復活を悲しんで国土が崩れ去ったかのような展開。被災地を見舞ったベルルスコーニが入れ歯を無くした老婆を気遣うシーンはステッラに哀れみをかけられたベルルスコーニが唯一、弱者とのつながりを覚えるものが「入れ歯」だと受け取れる場面で、妙な余韻がこの場面には漂う。全体にベルルスコーニを極悪人として描くわけではなく、専門家によればベルルスコーニの悪行はほとんど描かれていないにもかかわらず、ソレンティーノ監督が「彼の親しみやすさは、ミステリーでもあり、痛みでもありました」と回想する通り、ベルルスコーニが国民にとっての必要悪としてうまく造形された作品なのだろう。こうしたアンビバレンスは安倍晋三と日本国民の関係にも当てはまるのかもしれなくて、「道徳観念がないのが当たり前になっていく国で、抜け道を探しスモールビジネスばかりで変化も乏しい時代、つまりベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖」というものを同じように日本人も感じているのかもしれない(安倍晋三を選び続ける文学性が日本人にも存在するのではないかということで、それは自己憐憫や無常観がミックスされた中世の感覚と似ているのではないかと。『ローロ』では自己嫌悪を感じたステッラだけが、いわばイタリア国民とベルルスコーニとの共犯関係から抜け出すことができたわけだけれど、安倍以外の誰かに日本の舵取りを任せてみようとは考えない狭量さや自分とは違うものには一切、可能性を信じない感覚は一体何に由来するのだろうか)。物語はエンディングで、そうした選択をし続けた国民に断罪の雰囲気を帯びて閉じられていく。『キャッチ22』(70)や『M★A★S★H』(70)といった反戦映画がそうであったように、最後の瞬間にそれまでの狂騒状態がすべて否定されるかのように画調が切り替わり、イタリアのネオ・リアリスモを思わせるくらい風景のなか、瓦礫に埋もれたイエス・キリストの銅像がクレーンでゆっくりと引き上げられていく。ベルルスコーニ時代にイタリアが何を失っていたのか。ラスト・シーンは少しでもこの映画を楽しく観ていたイタリア人に思いっきり冷や水を浴びせたことだろう。

 アメリカには政治家に対して両義的な作品が多いけれど、イギリスが近年、サッチャーやチャーチルを持ち上げる映画をつくったことを知っているだけに、ここまで長期政権の座にいた政治家を叩きのめすかと、そのことにまず感心したい。イタリアは現在、極右政党を連立から追い落として中道左派の与党と最大野党が組んでいるため、右派を批判できる土壌があるということなのか、いずれにしろ、これぞイタリア映画と言いたくなるような作品の登場であり、崩壊しかけていたイタリア映画をベルルスコーニという在在が救ったように見えるのもまた皮肉な話である。登場人物のほとんどが「下心」だけで動いている世界がこんなにも愛すべきものに感じられたのは、それこそフェリーニや今村昌平以来だし、世俗というものの迫力と重みに圧倒させられるのはイタリア映画の醍醐味である。当然のことながらR-15です。

『LORO 欲望のイタリア』予告編

 

Yatta - ele-king

 やっぱり画期だったんだろう。こういうのは少し時間が経過してみないとわからないものだけど、ムーア・マザークラインといったアーティストの登場は、10年後に振り返ってみたときに、エレクトロニック・ミュージックの大いなる転換点として如実に浮かび上がってくるにちがいない。あるいはそこにアースイーターの名を加えてもいい。それぞれサウンドは異なっているが、彼女たちはみなおなじ暗い時代の空気を吸いながら、おのおのに実験を突きつめ、既存のスタイルとは異なる道筋を示そうと果敢に闘いを続けている。みずからを「digipoet(デジタル詩人)」と規定するヤッタも、その戦線に加わる者のひとりだ。
 ヤッタ・ゾーカー(Yatta Zoker)はヒューストン出身で、現在はブルックリンを拠点に活動する、シエラレオネ系のアーティストである。ムーア・マザーとおなじく2016年にファースト・アルバム『Spirit Said Yes!』を自主で発表しており、翌2017年には彼女といっしょにNYのアート・ギャラリーのイヴェントに出演。2018年にはブルックリンのバンド、アヴァ・ルナのリーダーたるカルロス・ヘルナンデスのソロ作でヴォーカルを披露する一方、やはりムーア・マザーがキュレイターを務めるケンブリッジのフェスティヴァル《ワイジング・ポリフォニック》にも参加している。どうやらふたりは深い絆で結ばれているようで、ムーア・マザーは今年8月のNTSラジオのライヴでも、アリサ・フランクリンアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、バーリントン・リーヴィやラス・Gといったビッグ・ネームたちとともに、ヤッタの楽曲をピックアップしている。
 かくして届けられたのがこのセカンド・アルバム『Wahala』ということになるわけだが、本作ではとにかく、ひたすら、えんえん、声の実験が続いていく。 まずはポエトリーや合成音声、チベットの聲明などがせわしなく駆け抜ける冒頭“A Lie”を聴いていただきたいが、アルバム全体をとおしてじつにさまざまな音声が狂宴を繰り広げている。背後でコラージュされる種々の電子音や生楽器、具体音も聴きどころで、アースイーターの参加する“Rollin”や聖俗入り乱れる“Shine”など、すばらしい音響を聞かせてくれる。

 タイトルの「Wahala」は、シエラレオネのクリオ語で「困難」や「問題」を意味する。このアルバムの制作はまず、躁や鬱について詩を書くことからはじめられたそうで、そんなふうにメンタル・イルネスが主題のひとつになっているところなんかは、きわめて今日的である。たとえば“Blues”では「わたしはブルーズをうまく歌う/そうする必要があるから/ここは地獄だから」と歌われているが、忘れてはならないのはそれが性や人種の問題と結びついている点だ。レーベルのインフォに掲げられている「ブラックであること、トランスであること、そして異邦の地でアフリカンであること」というヤッタのことばは、個人のメンタル・イルネスが社会的、歴史的、政治的なファクターに起因するものであることをほのめかしている。日本では精神疾患や鬱が個人の問題として処理されてしまうきらいがあるけれども、じっさいのところ「地獄」はむしろ、当人の外部からこそもたらされるのだ。
 もっとも注目すべきは、シングル化された“Cowboys”だろう。例によってさまざまな音声がコラージュされていくなかで、ヤッタはずばり、「カウボーイはブラックだ」と歌っている。ようするに同郷のソランジュや、あるいは今年尋常じゃないバズり方をみせている“Old Town Road”のリル・ナズ・X同様、ブラックがカウボーイの姿に扮する「イーハー・アジェンダ(Yeehaw Agenda)」のムーヴメントに乗っかっているわけだけど、それ以上に重要なのは後続のフレーズで、ヤッタは抑制を効かせながら「テクノもそう、テクノも、テクノも」と声をしぼり出していく。ここでデトロイトが念頭に置かれているのはほぼ間違いない。じっさい後半の“Galaxies”や、ムーア・マザーがラジオでとりあげた“Underwater, Now”といった曲のタイトルは、いやでも G2G やドレクシアを想起させる。
 鬱やカウボーイといったポップ・ミュージックのトレンドに反応しつつも、ヤッタは、けっして資本のど真ん中を狙ったり、ネットでウケるためにあれこれ画策したりしない。むしろ、徹底的にアンダーグラウンドを志向している。それはやはり根底に、「黒いテクノ」にたいするリスペクトが横たわっているからではないだろうか。

 ところで『The Wire』のインタヴューによれば、ヤッタは本作に着手したのとおなじころ、カントリー歌手シャナイア・トゥエインのヒット・ソング(彼氏の浮気に悶々とする内容で、MVには白人のカウボーイが多数登場)を聴き返したことで、みずからのマスキュリニティを無視できなくなってしまい、そこで自分がノンバイナリであることを理解したらしい。「ヤッタ」と繰り返すことでなんとかここまで回避してきたけれど、単数形の「they」って日本語でどう表現したらいいんだろう?

Neue Grafik Ensemble - ele-king

 ロンドンのジャズ・シーンで現在もっとも重要なライヴ・スポット兼スタジオとして名前が挙がる〈トータル・リフレッシュメント・センター〉。以前のレヴューでも触れたことがあるが、サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミング、トライフォース、ビンカー・アンド・モーゼス、イル・コンシダードなどがここで作品をレコーディングしており、シカゴからやってきたマカヤ・マクレイヴンがロンドンのミュージシャンたちとセッションを繰り広げた。その模様は『ホエア・ウィ・カム・フロム』として〈トータル・リフレッシュメント・センター〉からリリースされたわけだが、作品数はまだ少ないもののレーベル活動もおこなっていて、その3枚目の作品として発表されたのがニュー・グラフィック・アンサンブルの『フォールデン・ロード』である。

 ニュー・グラフィック・アンサンブルはフレッド・ンセペというアフリカ系フランス人によるユニットで、そもそもニュー・グラフィックの名義でいくつか作品リリースをおこなってきている。現在はロンドンを拠点としていて、〈22a〉や〈リズム・セクション・インターナショナル〉などでもリリースがある。それらはディープ・ハウスやブロークンビーツ、ダウンテンポなどのエレクトロニック・サウンドで、ヘンリー・ウー(カマール・ウィリアムズ)やテンダーロニアスなどに通じるものだ。ニュー・グラフィック・アンサンブルはそんなフレッドによる初のバンド・ユニットで、彼自身はピアニスト、コンポーザー、アレンジャー、プロデューサーとしてこの『フォールデン・ロード』に関わっている。ヘンリー・ウーもテンダーロニアスも、最初はDJ/プロデューサー/ビートメイカーからキャリアをスタートして、その後ミュージシャンや作曲家としてグループを率いるようになっていったのだが、フレッドも同じような経緯を辿っているわけだ。
 『フォールデン・ロード』の参加ミュージシャンは、サウス・ロンドンの最重要プレイヤーのひとりであるヌビア・ガルシア(サックス)、ジャイルス・ピーターソンのコンピ『ブラウンズウッド・バブラーズ』にも作品が収録されたことがあるエマ・ジーン・ザックレー(トランペット)、〈トータル・リフレッシュメント・センター〉のリリース第一弾となったヴェルズ・トリオのドゥーガル・テイラー(ドラムス)、〈リズム・セクション・インターナショナル〉の主宰者であるブラッドリー・ゼロ(パーカッション)、イル・コンシダードやマイシャに参加するヤーエル・カマラ・オノノ(パーカッション)などのほか、オーストラリアの30/70のメンバーでソロ・アルバム『アケィディ:ロウ』もリリースするアリーシャ・ジョイ(ヴォーカル)もフィーチャーされる。30/70も〈リズム・セクション・インターナショナル〉からアルバムをリリースしており(最新作『フルイド・モーション』もリリースされたばかり)、そうした繋がりからアリーシャも参加しているようだ。

 オープニングを飾るタイトル曲“フォールデン・ロード”は、力強く律動するドラムが印象的なダンサブルなナンバーで、ブロークンビーツ経由のジャズ・ファンク~フュージョンといういかにもロンドンらしい作品。続く“ダルストン(もしくはドールストン)・ジャンクション”は〈トータル・リフレッシュメント・センター〉のある交差点のことで、ちなみに“フォールデン・ロード”もその付近のイースト・ロンドンを走る道路のことである。フレッドの演奏するシンセやエシナム・ドッグベイスツのフルートによる浮遊感溢れる空間に、ブラザー・ポートレイトのポエトリー・リーディングがフィーチャーされ、ダブ・ポエットに近いムードの曲である。レイドバックした雰囲気は続く“ヴードゥー・レイン”にも引き継がれ、ヌビア・ガルシアのサックスが深遠なフレーズを奏でていく。
 サウス・ロンドンのジャズにはアフロやカリビアンなどルーツ色を強く打ち出したものが多いが、この作品においてはフレッドのルーツであるアフリカ的なカラーが色濃いと言える。“サムシング・イズ・ミッシング”はそうしたアフリカン・ジャズと、ブロークンビーツなどエレクトロニック・サウンドが融合した作品。ニュー・グラフィックならではのジャズとクラブ・サウンドの中間地点にある曲で、いまのロンドンのジャズを象徴する1曲とも言えよう。
 アリーシャ・ジョイのメロウでソウルフルな歌声をフィーチャーした“ホテル・ラプラス”(ウェスト・ロンドンの中心にあるホテルの名前)を挟み、ブラザー・ポートレイトをフィーチャーした“ヘッジホッグズ・ジレンマ”はジャズ、アフロ、ブロークンビーツ、グライムのハイブリッド。エズラ・コレクティヴあたりと同じ地平にあるナンバーだ。最終曲の“デディケイティッド・トゥ・マリー・ポール”はゆったりとしたビートのアフロ・ダブ的な作品で、ブラザー・ポートレイトのダブ・ポエット的なパフォーマンスが披露される。現在のロンドンのジャズはブロークンビーツなどクラブ・サウンドと密接な関係があり、またアフロ、カリビアン、ダブとも強い繋がりを持っているのだが、それを代弁するような作品と言えるだろう。


楽園 - ele-king

 10月中に絶対『ジョーカー』を観るぞーと思っていたのに、僕のまわりは全員がネガティヴな評価で、しまいには「観なくていい」とまで言われ、いや、ホアキン・フェニックスにトッド・フィリップスだし、自分の目で観なくては……と思っていたにもかかわらず、10月最後の週末に足を向けたのは『楽園』でした。口コミってボディブローのように効いてしまうんです。

 酒鬼薔薇聖斗の社会復帰を暗示した『友罪』(18)、大正時代のアナキストと女相撲を交錯させた『菊とギロチン』(18)に続いて瀬々監督が取り組んだのは吉田修一の短編2作を合わせた限界集落の閉鎖性。これまで吉田修一といえば李相日監督が『悪人』(10)、『怒り』(16)と力作を連発し、大森立嗣監督が『さよなら渓谷』(13)、沖田修一監督が『横道世之介』(13)と水際だった作品ばかりなので、『ヘヴンズ ストーリー』(10)や『64(ロクヨン)』の瀬々監督なら、それらを上回るストレートな社会派エンターテインメントが期待できるだろうと。

 一面に広がる田んぼをタテ移動で見せ、森の中をヨコ移動でそれに続けると、中年の女性がヤクザ風の男に殴る・蹴るの暴行を受けている場面へカメラは寄っていく。黒沢あすか演じる中村洋子は村のフリーマケットに許可なく参加してしまったようで、それを咎め立てた男に問答無用で暴力を振るわれていたのである。綾野剛演じる息子の中村豪士は最初は車の陰で怯えているだけだったけれど、なんとか助けを呼びに行き、柄本明演じる藤木五郎らが「まあまあ、大目に見てやれ」とその場を収める。この母子は難民で、様々な国を転々としながらようやく長野県にたどり着いたことがだんだんとわかってくる。(以下、ネタばれ)タイトルの「楽園」というのは難民たちが日本に対して抱いているイメージのこと。中村豪士は体が弱く、綾野剛による体の動かし方はいわく形容しがたいものがあり、これがひとつの見所になっている。

 場面変わって2人の少女が田んぼの脇でシロツメクサを積んでいる。2人は仲が良いのか悪いのかよくわからない雰囲気を醸し出していて、まるで仲違いでもしたように別な道を通って帰っていく。Y字路を左の道に進んだ「あいか」が、そして、行方不明になる。村中が総出で「あいか」の捜索を始め、やがて川べりでランドセルが見つかる。12年後、「あいか」と別れてY字路を右の道に進んだ湯川紡は東京の青果市場で働いている。村の祭りで笛を吹く要員が足りないというメールを受け取った湯川紡は村に戻り、祭囃子の練習に参加した夜、帰り道でうしろから近づいてきた自動車に驚き、自転車ごと転んでしまう。それが中村豪士との出会いだった。湯川紡を演じる杉咲花はまだ若いのに、最近のTVドラマで観ていると何もかもを知り尽くしたおばばさまのように超然とした雰囲気を持った女優で、頼りなさのようなものとは無縁に思えてしまうのに、それが『楽園』では自分に自身を持てない気弱な女性を演じながら、それが最終的には少しずつおばばさまめいてくるところが、もうひとつの見所。

 物語が大きく動き出すのは12年前と同じ事件が起こり、村人Aが「犯人は中村豪士だ!」と叫んだのにつられて村中が中村豪士の家に押し寄せるところから。逃げ出した中村豪士は蕎麦屋に逃げ込み、全身に灯油をかけたまま、店の中に立てこもる。これらのシークエンスに村祭りの場面が交互に差し挟まれ、わざわざ東京から駆り出された湯川紡の視点ということなのだろう、祭りの描写は共同体の外側から冷静に観察されているように熱を帯びず、何か異様なものを見ているような雰囲気に終始する。真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビー』(16)ほどではなかったものの、近年の邦画では地方の共同体が否定的に描かれるとき、このように祭りをストレンジなものとして描く傾向がある。ついでに言うと、つい4日前にTVで放送された即位の礼で手を振って万歳を叫んでいる人たちも、浅田彰ではないけれど、さすがに僕も(自粛)に見えてしょうがなかった。ということは、『ディストラクション・ベイビー』も『楽園』も近代人の視点でつくられているということである。日本列島が呪術に覆い尽くされているわけではない。

 村祭りのクライマックスは宮司が燃え盛る松明を振り回すシーン。それと同時に頭から灯油をかぶった中村豪士はライターをかちっと鳴らす。ここで第1部は終わり。想像通り、第3部では中村豪士が火だるまとなって焼け死んでいく様子が描写される。村祭りはいわば生贄をシミュレートしていたわけだけれど、「あいか」ちゃんのような事件が起きると、そのような擬似だけでは事態を収束できないことがここでは示されている。イラク戦争をオーヴァーラップさせたクリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』(03)でも生贄が必要だという意味では同じストーリー展開だったことを思い出す。

 中村豪士の家に押し寄せた群衆のひとり、佐藤浩市演じる田中善次郎が第2部の主役となる。田中善次郎はUターン組で、若い人がいなくなっていく村では様々な人の役に立つことができる人材として重宝されていた。田中はそうしてあちこちでちやほやされているため、調子に乗って養蜂で村おこしをしようと提案したあたりから雲行きが変わっていく。それから起きたことを抽象化していうと、権力者がその優位を確保するために、新たな経済の発生に存在価値を認めず、村から若い人たちが逃げていく要因をますます強くしていったということになる。新自由主義というのは根っからの悪者のように言われているけれど、この村と同じように守旧派なりが利権を独り占めしている時に、その恩恵を機会均等にし、自由競争の状態にすることが目的のひとつであった。そのためには政治にメスを入れ、いわゆるアメリカン・ジャスティスを機能させなければならず、悪と戦う姿勢が根本にはあったはずなのに、公共事業の民営化など利権がバラけ始めると目先の利益に飛びつくだけが能となり、いわば村社会の利権が前門の虎なら新自由主義が後門の狼という配置ができあがってしまい、どちらにも属さない人にとってはこの世は地獄もいいところとなっていった。それが「平成」という時代である。日本では新自由主義というよりも経済右翼といった方が実像に近いだろうし、多くのリベラルが新自由主義に変質したのもそうした正義感に感応して新自由主義を選択したわけであって、なにも最初から欲ボケでそうなったわけではないだろう。ちなみにこうした事態に対して「第3の道」があると宣言したのが、ザ・KLFも期待を寄せたトニー・ブレアで、しかし、「第3の道」とは具体的なアイディアでもなんでもなく、ただ言ってみただけだったというのがすでに22年前。

『楽園』が剥き出しにするのは新自由主義ですら入り込む余地がない、それ以前の価値観で動く世界であり、原発でもいいし、文化庁の助成金システムでもいいけれど、守られなくてもいい日本と守られなければいけないはずの日本が逆転し、グローバル時代に奇妙なダブル・スタンダードが都合よく使い回されていることが痛感させられる。都会から地方に移住した人がゴミ収集に参加させてもらえないという話はよく聞くところだけれど、田中善次郎も同じ目に遭い、事態はどんどん悪化していき、ついに彼は村人を襲い始める。選択肢を奪われ、追い詰められていく佐藤浩市の演技もとても納得のいくものだった。そしてそれは李相日監督が映画化した『怒り』では抽象化するにとどめられていたテーマの種明かしにもなっていた。第3部は無惨極まりない結末の嵐である。それこそ5分おきにありとあらゆる道が閉ざされていく。韓国映画の代名詞となったポン・ジュノ『殺人の追憶』(04)にはさすがに及ばないものの、まったく揺るぐことのない体制の前ではどうすることもできないという徒労感では同格か、引けを取らない作品だというか。

 多様性の掛け声も虚しく、日本はやはり個性を認める社会ではない。どんなレヴェルであれ、権力者が自分の家来になったものにその力を譲り渡すだけで、構造的にはなにひとつ変わっていくことがない(要するに家父長制)。そのために世界の変化に対応する柔軟性を持つことができず、世界の中でどんどん貧しくなっていくのが現在の日本であり、ひとつの村にたとえているけれど、これが日本全体の縮図だということを『楽園』はとてもわかりやすく描き出している。サラリーマンであれ、掃除夫であれ、同じだけ働いてもアメリカ人の3分の2しか給料をもらえず、日本で10万円しかもらえないアニメーターは中国へ行けば27万円になるというとき、誰が「村」を出ていかないという選択をするというのだろうか。湯川紡のことが好きで、彼女のあとを追って東京へ出てきた野上広呂(村上虹郎)が最後に湯川紡に告げた「楽園をつくってくれよ」というセリフは家父長制に逆らう気もなく、安倍政権を受け入れた「若い男」の本音ということになるのだろうか。女に頼るなよとも思うし、女性に期待するしかないよなとも思うし。

 観終わって、珍しく社会派的な気分になり、そのまま渋谷のハロウィーンにぶつけて行われるプロテストレイヴ(https://www.youtube.com/watch?v=KNEBe95ZtOc)に向かい、DJ TASAKAや1-DRINKと合流。ヘロヘロになるまで踊り歩いてしまいました。やっぱ、サウンドデモだねー。いいぞ、DJマーズ89

『楽園』本予告

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