Home > Reviews > Film Reviews > 羊とオオカミの恋と殺人
今年の日本は「あいちトリエンナーレ」への脅迫や京アニの放火などテロリストのヴィンテージ・イヤーとなったけれど、虚構の世界ではホラー・ブームの勢い衰えぬまま、まるでそれらをリンクさせるようにシリアル・キラーもラッシュ状態となった。TVドラマ『あなたの番です』の「黒島ちゃん」、『ボイス』で伊勢谷友介演じるカチカチ野郎や『わたし旦那をシェアしてた』の黒木啓司、『リカ』の高岡早紀も印象的な殺人看護師に扮し、映画では『バーニング』のスティーブン・ユァン、ラース・フォン・トリアー監督『ハウス・ジャック・ビルト』、まさかのザック・エフロンが『テッド・バンディ』で主役を務め、年が明ければファティ・アキン監督『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』も控えている。2017年にも多少は波があったとはいえ、マッツ・ミケルセンの『ハンニバル』が打ち切りとなって以降、完全に下火になっていたと思っていたのに、いきなりインフレ・ターゲット2%超えである。完全なる知能犯から座間9遺体事件を想起させるだらしないシリアル・キラーまでタイプもいろいろありながら、最後のところでは超自然的な要因に還元できてしまうホラー映画よりも人間に興味があるという点では製作者の意図も共通しているように思われる(ちなみに僕が一番怖かったのは「尾野ちゃん」です。「尾野ちゃんロス」になって『カフカの東京絶望日記』まで観てしまいました)。
『羊とオオカミの恋と殺人』は、これまでに黒沢清『岸辺の旅』のメイキングやラドウィンプスのドキュメンタリーなどを手がけてきた朝倉加葉子の長編5作目。フィッシュマンズのファンだからか、名前に「葉」が入るからか、いきなりオープニングからハンパない重低音が鳴り響く。拡大された玄関の覗き穴からカメラが部屋のなかに入っていくとゴミの山の中に若い男がひとり。花王のCMで女装姿が印象的な杉野遥亮演じる黒須越郎が「人生は突然、意味を失う」などとぶつぶつ呟きながら首を吊ろうとするも縄をかけた棚ごと落ちてしまい、自殺には失敗。そして壁に空いた穴を覗き込むと隣の部屋では福原遥演じる宮市莉央がオムレツを食べているところ。黒須は毎日、「宮市さん」を覗くことで生きる活力を得るようになり、それが日課となっただけでなく、ひょんなことから一緒に食事をしないかと誘われて、毎日、彼女の部屋で夕食を共にすることに。ところがある日、いつものように壁の穴から「宮内さん」を覗いていると、「宮市さん」が見知らぬ男性を部屋に連れ込んでいるどころかその男性の喉をいきなりカッターで切り裂く場面を見てしまう。黒須は自分が見たものを最初は信じられず、「なかったこと」にしていたが、2度目に殺人を目撃した時はつい大声をあげる。親切で可愛い「宮市さん」はプロ(?)のシリアル・キラーだったのである。逃げる黒須を「宮市さん」は屋上まで追い詰める。「宮市さん」はカッターを黒須にまっすぐ突きつける。
振り込め詐欺をテーマとしたTVドラマ『スカム』の後に、それを追う側から描いた『サギデカ』が続き、どちらも振り込め詐欺に対してシリアスな問題意識があったのに、その次に来た『チート』では物語の背景へと退いてしまったように、この作品でもシリアル・キラーを扱う手つきはもはやガジェット化し、早くも次の時代に入ったことを告げている。裸村(ラーソン)のマンガ『穴殺人』を原作とした青春スプラッタ・コメディなので最初からリアリズムとは無縁で、「宮市さん」が殺人を重ねるたびに人格や環境などに変化があるわけでもなく、「宮市さん」自身も「黒須くん」とごはんを食べ続けるのは「自分が正常かを確かめるため」と、「日常性の揺るぎなさ」がまずは基調となっている。平成を覆い尽くし、令和にも受け継がれつつある「日常」の優位性はありとあらゆる場面で重視され、SNSによるガス抜きがしっかりと機能しているのか、異常なことを異常だと認めることなく、何事にも平然とできる感覚はもはや日本文化のお家芸といっていい。日本人が「動く」としたら、では、どんな時なのか。『羊とオオカミの恋と殺人』で「宮市さん」が興奮するのは人を殺している時ではなく、(以下、ネタばれ)「本当に好きな人を殺したかった」ということがわかった時だった。それは誰かと「切れるほどつながれ」ていなければ得られない感覚であり、逆にいえばたいていの日本人は他人が生きていようが死んでいようが別にどっちでもよく、「黒須くん」も「宮市さん」が次々と人を殺していくことに最初は狼狽えているものの、彼女の「生活様式」にあっさりと収まっていく。身体感覚がルールよりも「身内」に寄りがちなのも実に日本的。
「黒須くん」が自殺しようとした理由はあまり詳しく描かれていない。冒頭で「突然、いろんなことが意味を失った」という独白があっただけである。その時に例としてあげられていたのは円周率を細かい数字まで暗記していたのに、その必要がなくなったという「条件の変化」だった。それまでの「努力」が無に帰したのである。経済成長期に「努力」は推奨され、尊いものだとされてきたけれど、現在では貧富の差を決定するのはどの家に生まれたかであって、「努力」とは無関係なものになってしまった。まったくのゼロではないけれど、「円周率を細かい数字まで暗記」するようなタイプの「努力」は実を結ばなくなる社会に変化し、「黒須くん」はいわば自分がスタートラインにも立っていないと悟ったわけである。たまたまかもしれないけれど、「黒須くん」を演じた杉野遥亮は前述したTVドラマ『スカム』で振り込め詐欺の有能な「かけ子」を演じている。法律というラインを超えたところでは「努力」が実を結び、杉野演じる草野誠実は父親の治療費を稼ぐことができた。同じように追い詰められていてもこうした反則行為を是としなかったのが「黒須くん」であり、自殺という結論であった。そして、死ぬこともできなかった人間の前に生殺与奪の力を行使する「宮市さん」が現れる。「宮市さん」はそれこそ超法規的存在である。社会との接点を失った「黒須くん」が共同体とつながることができた唯一の方法は「宮市さん」への帰依でしかない。「努力」(と人海戦術)の上に成り立っていた日本経済が構造的な転換を遂げているいま、昭和期にはあれだけ影が薄かった天皇がやたらと存在感を増している現実とこの作品はダブって見えてくる。天皇というのは「身内」を拡大した時に現れるもので、政治に活路を見出そうとしない日本人がここのところ天皇に熱い視線を向ける光景は、それこそ政治の季節から宗教の時代への変化を告げ知らせるものだろう。
後半は半グレ集団との対決という活劇調に雪崩れ込んで行くものの、監督やプロデューサーはこの作品をラヴ・ストーリーとして設定しているので、それよりはパピコを2人で1本づつ食べたり、2人のデート・シーンの方が僕の記憶には残った。「宮市さん」というよりも(『ゆるキャン△』の主演も決まっている)女優としての福原遥を明らかに不思議ちゃんとして増幅させている演出なので、サロメを思い出す人も多いだろうけれど、そのような存在に恋心を抱く男が描けていたかどうがこの作品の評価を分けるところかもしれない。僕はなるほどと感心させられるレヴェルではなかったけれど、ギリギリでアリだったかなという感じ。そして、僕がこの作品を恋愛ものとして見た場合、一番いいなと思ったのは、2人は相手の名前を苗字で呼び合い、エンディングで初めて「名前」を教えあったところである。この時まで彼らは「越郎と莉央」ではないのである。これは新鮮だった。「名前呼び」というのは高校生でもあまりしないことなのに、TVドラマや映画ではとくに恋人でもない女性を名前で呼ぶことが多く、なんか、気持ち悪いのである。『ブラック校則』でも小野田創楽は上坂樹羅凛を「上坂さん」と呼び、月岡中弥は「樹羅凛(きらり)」と呼ぶと「名前で呼ばないで!」と怒られていたではないか(というのはちょっと違うか)。2人が自分の名前を教えあってからはラヴ・ストーリーとして見てもいいのかもしれない。そして、2人は左手で握手をする。左手で握手をするのは相手を嫌っているという意味だったりするけれど、ここではちょっと意味が異なるようで、冒頭で黒須が自殺に失敗した時、隣室の光が差し込んで当たるのは黒須の左手なのである。黒須の左手があの時、あの場所になければ2人は出会わなかったのかもしれないのだから。
三田格