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LORO 欲望のイタリア

LORO 欲望のイタリア

監督:パオロ・ソレンティーノ  
出演:トニ・セルヴィッロ、エレナ・ソフィア・リッチ、リッカルド・スカマルチョ
 
2018年/イタリア/イタリア語/157分/カラー/シネスコ
原題:Loro/英題:Them/日本語字幕:岡本太郎/配給:トランスフォーマー R15+
©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA
11/15(金)よりBunkamuraル・シネマ、
ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー

三田格   Nov 16,2019 UP
E王

 デビッド・ボウイが亡くなったことに敬意を表したのか、それとも単にクイーンやエルトン・ジョンといった70年代のロック・スターを描いた映画が話題だからか、この春のメット・ガラは「キャンプ」がテーマだった(昨年のテーマは「カトリック」でマドンナが「Like A Prayer」を仰々しく歌い、来年は「時間の流れ」というテーマが予定されている)。メット・ガラはセレブたちがファッション・センスを競う大掛かりなファッション・イヴェントとして知られ、ここぞとばかりに栄耀栄華を見せつける現代の「虚栄の市」なのに、今年は誰も「キャンプ」を正しく理解できず、「ファン」や「キッチュ」に陥っているだけだという厳しい評が飛び交う事態となった。カーラ・デルヴィーニュもジェンナー姉妹もまとめてボロクソに言われるなんて、そうそうあることではないし、確かにエル・ファニングもジジ・ハディッドも泣きたくなるほどダサく、主宰のアナ・ウィンターや果ては審査員まで「まったくわかってない」とダメ出しの嵐であった(キム・カーダシアンは存在自体がキャンプという評は笑った)。70年代というのは、そんなにも遠い時代になってしまったのか。あまりにもノームコアやミニマルが長く続き、もはやミレニアム世代にはデヴィッド・ボウイやスーザン・ソンタグがファッションの文脈で起こした革命は「ジンバブエでムガベ大統領の妻がアイスクリーム屋を始めた」というニュースぐらい遠い出来事になってしまったのだろうか。それともエコとグラマラスはもう相容れない時代に突入し、「キャンプ」を理解できない方が正常だという認識に僕の頭も改めた方がいいのだろうか。デヴィッド・ボウイのことはもう忘れろと。教えてクロエ・スウォーブリック! 

 6つのTV局を所有し、首相としてイタリアの政界に計9年間も君臨した不動産王シルヴィオ・ベルルスコーニを描く『LORO 欲望のイタリア』(以下、『ローロ』)は政治家の映画なのに、『ペンタゴン・ペイパーズ』や『新聞記者』のように正義がどうしたといったパターンではなく、歌とダンス、乱交パーティにドラッグが飛び交い、ケン・ラッセルもかくやと思うほど華美と悪徳に彩られた映画である。いまの日本も政府に都合の悪いニュースはどのTV局もほとんど流さず、玉川徹がいなければ『1984』と大差ない政治状況だし、安倍政権が報道の独立性を脅かし続ければ、こんなにも簡単に国民をコントロールできるのかというイタリアの「前例」に習うばかりなのだろう(無神経な失言が多く、脱税や汚職の数々を裁かれることから逃れた手腕もモリカケ問題を思わせる)。『ローロ』が描くのは中道右派のベルルスコーニが2008年に第4次内閣として動き出すまでの「復権期」。政治を描くのに、こんな方法があるのかと驚かされる斬新さと、人々の欲望やバカさ加減をとりつくろうことなく厚塗りに厚塗りを重ねてテンペラ画のように盛りあげ、イタリア人以外の人類はちょっと真面目すぎるんじゃないのかと思わせるほど生きる歓びと裏表で表現されている。この作品には「事実を示す意図はない」と最初に但し書きが添えられていた通り、虚実もめちゃくちゃだし、どこでどうやって1本の作品となっていたのか、観終わって少し経ってしまうとまるで思い出せない(ので、もう1回観たけど、やっぱりストーリーを順序立てて思い出すことは不可能だった)。全体にわざとらしい音楽の使い方も猥雑さを煽るという意味ではこれ以上ないというほど効果を上げていて、とりわけベルルスコーニがナポリ民謡を歌うシーンは「キャンプ」=「不自然で、誇張されたものを愛好する美学」に肉薄しているとも。ちなみにパオロ・ソレンティーノ監督がベルルスコーニを題材にして映画を撮ろうと思ったきっかけはスーザン・ソンタグの言葉に触発されたからだという。

 実にシュールなオープニングは目を閉じた羊のアップから。この羊が何を思ったか、変な声で鳴いてから大邸宅に入り込み、しばらくTVを観ていると急にバタンと倒れて死んでしまう(ここまでが早くも無上に面白い)。ベルルスコーニが牛耳っているTV局はそれぐらいつまらないものしか流していないという意味にも取れるし、こうしたTV番組の断片がことあるごとにさしはさまれるので、イメージの乱舞は数かぎりなく、そして、とりとめもなく話の整合性をかき乱していく(9月から公開されているルカ・ミニエーロ監督『帰ってきたムッソリーニ』で現代にワープしてきたムッソリーニがイタリアのTV番組を見て「どのチャンネルも料理番組ばかりじゃないか! 政治を語れ!」と激昂するシーンを思い出す)。続いてヨットで娼婦に地方議員の接待をさせるセルジョ・モッラ(リッカルド・スカマルチョ)の物語。娼婦の尻にはベルルスコーニのタトゥーが入れられ、バックで娼婦を犯しながらそのタトゥーを見たセルジョ・モッラは地方を出てローマに向かう決意をする。実力のないセルジョ・モッラは政界へのとっかかりがなかなか掴めず、アルバニア出身のお高くとまったキーラ(カシア・スムトゥニアク)と出会い、ようやく作戦を立て始める。2人が美女たちを集めて夜のローマを歩いていると、ネズミをよけ損ねたゴミ収集車が橋から落ちて爆発し、ファッション・モデルたちの頭に綺羅星のごとくゴミが降り注ぐ。ゴミ収集車が撒き散らしたゴミはベルルスコーニ時代にゴミの回収が行われず、ナポリがゴミの街と化してしまったことをオーヴァーラップさせていることは明らかだけれど、このシーンがまた無上に素晴らしい。そして、夜空はサルディーニャの青空に一変し、ゴミは空一面から降り注ぐMDMAにかたちを変えると200人規模の乱交パーティへと場面は変わる。ベルルスコーニの大邸宅が見下ろせる場所にあるプールで大騒ぎをすればベルルスコーニの気を引けると2人は考えたのである。

 MDMAにはどんな効き目があるかを説明し、その効果を医師が「ビロード」に喩えてからスタートする乱交パーティはかつてパゾリーニやフェリーニなどイタリアの映画界が描いてきた性の過剰さを継承しつつ、現代的な表現に更新を試みる。参加者全員で夕陽に見惚れるシーンはかなり壮観で、MDMAによって高められた共感能力が退廃を通り越して崇高に達してしまったかのような錯覚まで覚えてしまう。そして、ようやく話はベルルスコーニ(トニ・セルヴィッロ)の登場となる。パーティ会場の隣の敷地で女装したベルルスコーニが(冒頭に登場した羊と同じコースをたどって)庭から家の中に入り、ベルルスコーニの淫行報道がきっかけで機嫌を損ねた妻ヴェロニカ・ラリオ(エレナ・ソフィア・リッチ)に花束を渡すも「笑えない」と一蹴され、孫との会話では「真実は口調で決まる」と教えたり、サッカー選手のミシェル・マルティネスにACミランへの移籍を持ちかけたり。ベルルスコーニは首相の座を「たった6議席」の差で失い、この時は「年金暮らしの老人みたいな存在」だったのである。ここにかつて会社を興した旧友、エンニオ(トニ・セルヴィッロが二役を演じた)が訪ねて来て「利他主義は利己主義の最善策」だとハッパをかけられ、政界への復帰を画策し始めることに。やる気になったベルルスコーニは偽名を使って、まずの一介の主婦にセールスの電話をかけてみる──。とにかくセリフがいちいちウィットに富んでいて、「心臓と前立腺に鞭打って」とか「キリスト教と共産主義の共通点は貧しさを説き、それを実現すること」だとか、深く言葉の意味を考えていたら女性の裸に見とれている暇もない。それどころか、これだけ女性の裸を洪水のように垂れ流しながら、(以下、ネタばれ)そうした女性たちのひとりであるステッラ(アリス・パガーニ)には「ここに来たわたしも哀れ」と、若者にしか言えないカウンターのひと言をいわせ、クライマックスでは離婚を切り出した妻との口論で一気に#MeTooへと舵が切られていく。

 ここまででまだ半分。後半、ベルルスコーニが首相に返り咲き、その途端、ラクイラ地方で大地震が起きる。まるでイタリアがベルルスコーニの復活を悲しんで国土が崩れ去ったかのような展開。被災地を見舞ったベルルスコーニが入れ歯を無くした老婆を気遣うシーンはステッラに哀れみをかけられたベルルスコーニが唯一、弱者とのつながりを覚えるものが「入れ歯」だと受け取れる場面で、妙な余韻がこの場面には漂う。全体にベルルスコーニを極悪人として描くわけではなく、専門家によればベルルスコーニの悪行はほとんど描かれていないにもかかわらず、ソレンティーノ監督が「彼の親しみやすさは、ミステリーでもあり、痛みでもありました」と回想する通り、ベルルスコーニが国民にとっての必要悪としてうまく造形された作品なのだろう。こうしたアンビバレンスは安倍晋三と日本国民の関係にも当てはまるのかもしれなくて、「道徳観念がないのが当たり前になっていく国で、抜け道を探しスモールビジネスばかりで変化も乏しい時代、つまりベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖」というものを同じように日本人も感じているのかもしれない(安倍晋三を選び続ける文学性が日本人にも存在するのではないかということで、それは自己憐憫や無常観がミックスされた中世の感覚と似ているのではないかと。『ローロ』では自己嫌悪を感じたステッラだけが、いわばイタリア国民とベルルスコーニとの共犯関係から抜け出すことができたわけだけれど、安倍以外の誰かに日本の舵取りを任せてみようとは考えない狭量さや自分とは違うものには一切、可能性を信じない感覚は一体何に由来するのだろうか)。物語はエンディングで、そうした選択をし続けた国民に断罪の雰囲気を帯びて閉じられていく。『キャッチ22』(70)や『M★A★S★H』(70)といった反戦映画がそうであったように、最後の瞬間にそれまでの狂騒状態がすべて否定されるかのように画調が切り替わり、イタリアのネオ・リアリスモを思わせるくらい風景のなか、瓦礫に埋もれたイエス・キリストの銅像がクレーンでゆっくりと引き上げられていく。ベルルスコーニ時代にイタリアが何を失っていたのか。ラスト・シーンは少しでもこの映画を楽しく観ていたイタリア人に思いっきり冷や水を浴びせたことだろう。

 アメリカには政治家に対して両義的な作品が多いけれど、イギリスが近年、サッチャーやチャーチルを持ち上げる映画をつくったことを知っているだけに、ここまで長期政権の座にいた政治家を叩きのめすかと、そのことにまず感心したい。イタリアは現在、極右政党を連立から追い落として中道左派の与党と最大野党が組んでいるため、右派を批判できる土壌があるということなのか、いずれにしろ、これぞイタリア映画と言いたくなるような作品の登場であり、崩壊しかけていたイタリア映画をベルルスコーニという在在が救ったように見えるのもまた皮肉な話である。登場人物のほとんどが「下心」だけで動いている世界がこんなにも愛すべきものに感じられたのは、それこそフェリーニや今村昌平以来だし、世俗というものの迫力と重みに圧倒させられるのはイタリア映画の醍醐味である。当然のことながらR-15です。

『LORO 欲望のイタリア』予告編

 

三田格