「OTO」と一致するもの

NOT WONK - ele-king

 アルバム最後の曲 “Asshole” の冒頭、足音が聞こえた気がした。それはゆっくりと地を踏み締め進む、このバンドのことを思わせる音だった。後ろを振り返ったり足元をみたりしながら、その日その時のスピード、歩き方であゆみを進めることの大切さが、そこには宿っているように思えた。実際それは、グランドピアノのペダルを踏む音だったのだけれど。とにかく自分の耳にはそのように聞こえた。

NOT WONKの5枚目となる『Bout Foreverness』は、12年間3ピースで活動してきたバンドが、二人になったタイミングで作られた。なにかを埋め尽くすようなフィードバック・ノイズと、対照的な静けさ、問いかけるような歌声、それらを内包する多彩なエイトビートが、目の前に現れるかのように鮮明な録音で、一つの作品としてパッケージングされている。パンクを “優しさ” や “真面目さ” と捉え、社会に対して開けたメッセージを作品に反映させてきた彼らにとって、今作はもっとも個人的で、内世界を映したような内容になっている。

 タイトルにあるように、この作品の大きなテーマは「永遠性」。時間を超えて、変わらずに存在し続けること。かなり幅のあるテーマだ。音楽作品においては、どの時代でもその素晴らしさを再発見できる、不朽の名作がもつ性質ともとれる。そんな永遠性もこの作品はかね備えているが、それだけではないみたいだ。

 時間はまっすぐ前に進んでいるのだろうか? 普段生きている中でそんな疑問を抱くシーンはあまりないかもしれないが、音楽がなっている場所でそんな気分に陥ったことがある人は少なくないはずだ。BPM100で曲がスタートして気づかないぐらいのテンポチェンジによって95に変わっていくとき。遅い曲から早い曲にシフトチェンジしたとき。無音になったとき。あるいは楽器やサンプリングがリヴァースするとき。場の空気は少しずつ歪み、時が一定の速度で前に進んでいるとは思えなくなったことがないだろうか。音の前で、時間は伸び縮みしやすい。そんな音が持つ性質に、この作品は挑戦している。歌詞もだけれど、曲の「ループ」の部分にその跡がみえる。

 あらゆる音楽において意識的、無意識的につかわれる「ループ/繰り返し」。特に “Some of you” において顕著にその実験がみられる。リムショットと和音を爪弾くギターからはじまり、ツーステップに移行するとギターと変調させたヴォイスが渦巻き、ノイズのハレーションを起こすこの楽曲。途中で降り注ぐ声のサンプリングは、曲中の別パートから持ってきたものらしい。だからなのか、どの音のディレイか分からなくなるほど深いエフェクトの作用か、終わりと始まりが曖昧になっていく感覚をおぼえる。そうして終盤に刻まれるハイハットは、曲の頭に鳴らされるものと同じテンポで、確かに時が移ろっていたことを示しているのだ。また、今作の聴きどころとして、フィードバック・ノイズの使い方がある。「最終的にマニュエル・ゲッチングとかスティーヴ・ライヒの話をしながら録ってた」というインタヴュー内の発言にもあるように、フィードバック・ノイズは時として、ミニマル・ミュージックやドローンのような反復として、今作のなかで鳴っている。

 「ループ/繰り返し」の他に、「音の大小」もアルバムの中では扱われている。無音室のなかでは自分の体の音がうるさいというが、音が “小さい” ことと音が “大きい” ことの差異は思っているよりもないのではないか。そんな疑問への試行は楽曲内のダイナミズムだけでなく、アルバムの流れにもあらわれている。DCハードコア、スロウ・コアを思わせる “George Ruth” から、ボサノヴァのリズムとつぶさな歌声を取り入れた “Embrace Me” への流れ。“Same Corner” の終盤、テンポが加速しながらサックスとコンガが入り乱れ、そして断ち切られたあと、数秒あいてホワイトノイズのような空間の音からシンバルが表出する “Changed” への切り替えもそうだ。それは一見唐突なようで、シームレスにつながっている、という相反する感覚を呼び起こす。

 音楽の概念的な部分への挑戦が細やかになされた楽曲たちは、聴き手にあらゆる発見を促す。現に自分が、フィードバック・ノイズにラ・モンテ・ヤングを見出したように。音楽を聴くものにとって、こうした発見の連続がさらなる聴取の足掛かりになる。それこそが聴くことの創造性なのではないだろうか。『Bout Foreverness』はそうして、聴き手に届くことで完成していく作品なのだろう。

 ここまで述べてきたように、作品性の高い今作だが、ライヴでは毎度異なるアレンジがなされており、さながら生き物のように変化中だ。それはポスト・プロダクションに入れ込み始めた前作でも同様だったが、当時はライヴのために構築し直すようなありかただったのが、いまは毎度そのときその場に導かれるように変化させているように思う。ベースの本村拓磨が都内で活動しているからそうせざるを得ない、ということももちろんあるだろうけど。“About Foreverness” はアルバムでは部分的だったパブ・ロックのノリが前面に押し出されてコステロさながらだし、“George Ruth” はサッドコアたる湿っけは抑えられカラッと演奏される。単にいまのモードというところもあるだろうけれど、フロアの反応をみて次の曲を急に変えるという10年間で自分が見たことがなかったことも、サラッとやりのける。とにかくその場に身を委ね、どこまであがっていけるかを、セッション的な要素を含めて試みているようだ。

 NOT WONKは、音を鳴らす場所自体にもテーゼを掲げて活動してきた。昨年、今年と開催されるFAHDAYは活動拠点である苫小牧の市民会館とその周辺一帯を使っておこなわれる。表現の交換市と銘打たれたこのビッグ・パーティは、苫小牧の飲食店やクラブ、ライヴハウスとともに立ち上げられ、各地から様々な表現者をよび開催される。そして、このパーティでいうところの交換されうる表現にはきっと、表現者と呼ばれるひと以外の存在も含まれているだろう。その場に居合わせるということの影響力は案外甚大だ。とくに音を聴く場においては、誰かの話し声や咳払い、表情など、動きすべてが物理的にも間接的にも、音に影響していく。そんな相互作用にも、このバンドは立ち向かい、手触りを確かめているように思えてならない。

Grischa Lichtenberger - ele-king

 「Ostranenie(異化)」とは、1920~1930年代のロシア・フォルマリズムを代表するソビエト連邦の言語学者・文芸評論家ヴィクトル・シクロフスキーが提唱した概念・理論である(演劇の文脈ではブレヒトによる異化効果が広く知られる)。
 芸術の役割は、「慣れ」によって鈍化した知覚を揺さぶり、対象をあらためて認識させることにある。それがシクロフスキーの主張だった。「見慣れたもの」を「見慣れぬもの」として再提示し、感覚の自動化に抗うこと。その装置としての方法論が「異化」なのである。

 ドイツのサウンド・アーティスト/音楽家グリシャ・リヒテンベルガーの新作『Ostranenie』は、この「異化」の音楽的実践にほかならない。電子音響における緻密な実験で知られるグリシャ・リヒテンベルガーは本作『Ostranenie』において、もっとも親密で情緒的な楽器といえるピアノを軸に、その音を分解・再構築し、聴覚そのものの認知構造を問い直す。リリースはドイツの電子音響レーベル〈Raster〉から。
 2012年に〈Raster-Noton〉からリリースされたファースト・アルバム『and IV [inertia]』以降、オウテカやカールステン・ニコライから影響を受けた作家として知られるグリシャ・リヒテンベルガーだが、このピアノ音響作品はキャリアにおける明確な転機といえよう。2019年に〈Raster〉からリリースされた電子音響とジャズの融合を試みた『Re: Phgrp (Reworking »Consequences« By Philipp G)』を経由して以降、自らの音楽をメタ的に再検証する試みともいえるアルバムに仕上がっていた。
 本作『Ostranenie』に収録された全13曲は、いずれも1~3分ほどの即興的なピアノ小品で構成されている。冒頭の1曲目 “what lies beneath 3 arp” を聴いた瞬間、アーティストを間違えたのではないかと錯覚するほどだった。かつての彼の音楽からは想像もできない、ドビュッシーやラヴェルといったフランス印象派、あるいはサティを思わせるような響きがそこにはあった。モーダルな和声、あいまいな拍節、断片的な旋律が交錯する美しいピアノ曲だ。
 だが、この『Ostranenie』に甘味料のような抒情はない。どの楽曲もフランス印象派のような響きを放ちつつも、どこか機械の音楽のような冷徹さを持っている。加えて4曲目 “spiderman” や5曲目 “chilling adventures of sabrina” あたりから現代的な音響編集とグリッチによる「断絶」が意識的に挿入されることで、音のエンヴェロープや残響も人工的に操作される。
 グリシャ・リヒテンベルガー特有の精緻なデジタル処理によって構造はズラされ、音の質感は変容する。聴き込むほどに、ピアノの響きが原音のままではないことに気づかされる。曇り、濁り、にじみ、そして時に破綻していく音。深く崩れるリヴァーブ、歪んだエフェクト、断続的に挿入されるグリッチ。楽曲の「中心」はぼやけ、記憶の断片が浮かんでは消える……。そんな印象を残すアルバムなのだ。聴き手は、何かを思い出しかけているのに、最後まで辿り着けない。全体を通じて、そのような感覚が貫かれている、とでもいうべきか。情緒は徹底して削ぎ落とされている。

 クラシカルとデジタルの境界線で、グリシャ・リヒテンベルガーが目指しているのは単なる20世紀印象派の再演ではない。いわゆるノスタルジーを拒絶しつつ、音楽とは情緒の装置という事実そのものを批評/解体し、なおかつその先にある「感覚の再起動」=「異化」を見出す。
 グリシャ・リヒテンベルガーの関心は音楽による情動の喚起ではないのだ。むしろその情動の解体にある。ピアノという情緒的な媒介を使いながら、感情がいかに条件反射的に作動するかを露呈させ、「聴くこと」そのものを宙づりにしてみせる。「美しい」と感じた瞬間に、その感受性の自動性に切り込みを入れる。それが『Ostranenie』の核心といえよう。
 加えてグリシャ・リヒテンベルガーの問題意識は、「没入文化」に対する批評的なスタンスにあるように思える。各楽曲のタイトルには、“spiderman”、“stranger things”、“mad men”、“irma vep” といった映画やドラマのシリーズ名が並ぶ(シーズン数やエピソード番号まで明記されている)。これらはポップ・カルチャーへのオマージュのようでいて、そのじつ、メディア環境へのアイロニーだ。アルゴリズムによる選別とレコメンドが支配する現代社会において、「感情の即時反応」ばかりが促進され、「意味」や「文脈」は平板化されつつある。音楽もまた、「癒やし」「集中」「感動」といったラベルとともに、機能的に消費されている。
 『Ostranenie』は、そうした現状に対する明確な異議申し立てといえる。ここでは感情は決して「わかりやすく」提供されない。リスナーは、受動的な快楽ではなく、能動的な聴覚の再構築へと促される。楽曲は意味を拒みながらも、静かに、しかし確実に、感覚の深層へと楔を打ち込んでいくだろう。グリシャ・リヒテンベルガーは、日常に埋もれた音や記憶、感情の断片を、異化というフィルターを通じて再提示するわけだ。即興性と構築性、詩情と冷徹さ、アナログとデジタルの往復運動。そのなかで彼は、「慣れ親しみ」という知覚そのものを揺さぶりをかける。つまり「異化」だ。

 再構成されるピアノ。異化される情緒。『Ostranenie』という「ピアノ楽曲集」は決して「耳に優しい音楽」ではない。グリシャ・リヒテンベルガーは、一音一音を通じて、世界を見慣れぬものとして差し出す。『Ostranenie』は、その意味で、現代におけるもっとも静かで、もっとも過激なプロテストのひとつといえないか。
 グリシャ・リヒテンベルガーは本作『Ostranenie』で、自らの到達点をまたひとつ更新した。もしも坂本龍一が『Ostranenie』を耳にしたなら、彼はいったい何を、どのように語っただろうか。そんな想像をめぐらせながら、私は今日も『Ostranenie』を聴き返している。

El Michels Affair - ele-king

 NYを拠点とするエル・ミッチェルズ・アフェアといえば、かつてはレトロ・ファンクの復興主義運動の一角を担って、ウータンのメンバーたちとの交流でも知られたベテラン・チーム。ソウル&ファンクに愛情を注ぐオールドスクール主義者として知られる彼らの新作『24 Hr Sports』に、なんと、坂本慎太郎がフィーチャーされているとのこと!
 日本でのアルバム発売はチカーノ・ソウル系のリリースで知られる〈MUSIC CAMP〉から。また、すでに配信された坂本慎太郎フィーチャーの「Indifference」は、国内限定7インチ・シングルとして7/30に〈zelone records〉より発売される。

El Michels Affair
24 Hr Sports

Big Crown Records/MUSIC CAMP, Inc
日本語解説:松永良平
国内仕様輸入盤/配信にて9月5日リリース予定


El Michels Affair feat. Shintaro Sakamoto
Indifference

zelone records
7月30日発売

Music for Black Pigeons - ele-king

 この春公開され一部の音楽ファンたちから注目を集めた映画『ミュージック・フォー・ブラック・ピジョン』。〈ECM〉のジャズ・ギタリスト、ヤコブ・ブロを追ったこのドキュメンタリー(9月には共作が発売される高田みどりも出演)がDVD化されることになった。10月1日に〈du CINEMA〉より発売。
 近年はジャズ的なムードをもったアンビエントや、あるいはアンビエント的にも聴けるジャズなど、ジャズとアンビエントのあわいで興味深い音楽が多く出てきている。そうした流れとリンクする側面もある作品なので、ぜひチェックを。

『ジャズな映画 名作100ガイド』にも掲載された話題のジャズ・ドキュメンタリー映画『ミュージック・フォー・ブラック・ピジョン ――ジャズが生まれる瞬間――』が、待望のDVDで登場!

2025.10.1 DVD発売

デンマークの実験的ドキュメンタリー映画監督、ヨルゲン・レスとアンドレアス・コーフォードが、ジャズ・ギタリストのヤコブ・ブロを追って、彼と共演してきた世代や国籍を超えた音楽家たちの生き様と交流を描いた作品。“ただひたすらテープを回す”という伝統的なジャズの手法で撮影されたレコーディング風景や、ジャズ・プレーヤーたちの日常に加え、彼ら自身が演奏することの感覚や音楽の意味について語ったポートレートが記録されている。14 年間にも及ぶ長い音楽探求の旅のなかで、まさしくジャズが生まれている現場を映し出している。

この映画は、デンマーク出身のジャズ・ギタリスト、ヤコブ・ブロの、14年間に渡る音楽と旅のドキュメントであり、「ジャズとは、音楽とは何だろう?」という問いに答えるミュージシャンたちに寄り添り、その音と言葉を丁寧に美しく捉えていく。正解はなく、正しい道筋は自分で見出さないとならないが、それはとても魅力的で、一人ひとりを輝かせる。ミュージシャンであれ、リスナーであれ、この映画から鼓舞されるものは必ずあるはずだ。 (原 雅明ringsプロデューサー)

予告編
https://youtu.be/WL1P7Sv6AJM

【作品概要】
ミュージック・フォー・ブラック・ピジョン ――ジャズが生まれる瞬間――(原題:Music for Black Pigeons)
監督:ヨルゲン・レス、アンドレアス・コーフォード/字幕:バルーチャ・ハシム/2022年/デンマーク制作/92分/出演:ヤコブ・ブロ、リー・コニッツ、ポール・モチアン、ビル・フリゼール、高田みどり、マーク・ターナー、ジョー・ロヴァーノ、ジョーイ・バロン、トーマス・モーガン、マンフレート・アイヒャー、他
Format: DVD
Release Date: 2025.10.1
Label: du CINEMA

https://diskunion.net/jazz/ct/detail/1009077319
https://www.musicforblackpigeons.com/
https://www.oto-tsu.jp/features/archives/18333

【関連作品情報】
Jakob Bro & Midori Takada / あなたに出会うまで – Until I Met You
デンマーク出身、新たなECMの看板ギタリストとして活躍するヤコブ・ブロが、世界的に活躍する打楽器奏者で、日本のアンビエント/ミニマルミュージックの代表作『Through The Looking Glass』(’83)などで知られる高田みどりとコラボした初の作品が、国内盤CDでリリース!映画『Music for Black Pigeons』での共演シーンでも話題になった2人の、無限に広がる音世界。

10/4, 5 EACH STORY 来日予定

DJ Marfox - ele-king

 早いもので、リスボンのレーベル〈Príncipe(プリンシペ)〉が15周年を迎える。それを記念したコンピもリリースされているが、このたびなんとレーベル主宰者、DJマルフォックスの来日ツアーが決定した。8月15日は京都West HarlemでDJ ntankによるパーティ《MAVE》に、8月16日は渋谷WWW&WWWβでE.O.Uとmelting botによるパーティ《南でloopな》に出演。これは熱い夏がやってきますぜ……
 なお、DJマルフォックスの2019年のインタヴューはこちらを。

DJ Marfox Japan Tour 2025 -15 years of Príncipe-

8/15 FRI 22:00 at West Harlem Kyoto
8/16 SAT 23:00 at WWW &WWWβ Tokyo

artwork: Márcio Matos
tour promoted by WWW / melting bot

灼熱のアフロ・ダンス!リスボン・ゲットーで育まれたアフロディアスポラによる100%リアル・コンテンポラリーな先鋭電子レーベルPríncipe、シーンのゴットファーザーDJ Marfoxが本年レーベル15周年を祝した初のロングセットで来日ツアー公演を京都と東京で開催。京都はntank主宰のMAVEでWest Harlemにて、東京はE.O.U & melting bot主宰loopなの昨年に続く南バイブス第2弾でWWWにて開催。追加ラインナップは後日発表。

DJ Marfox Interview @eleking
“声なき人びと、見向きもされない人びと、その顔が俺だ” https://www.ele-king.net/interviews/006925/
Príncipe 特集@RA “リスボンのゲットー・サウンド” https://ra.co/features/2070

MAVE feat.DJ Marfox -15 years of Príncipe-
2025/08/15 FRI 22:00 at West Harlem Kyoto
ADV/U23 ¥2,000 / DOOR ¥2,500 (+1D)
TICKET https://t.livepocket.jp/e/ao_c

DJ Marfox -15 years of Príncipe- [PT/Lisbon]
ntank
+TBA

MAVE
2020年West Harlemにて京都拠点のDJ ntankにより、一貫した身体的グルーヴをオルタナティブな文脈でジャンルレスに紡ぐエネルギッシュパーティーとして始動。これまで国内外問わずバラエティ豊かなゲストを招聘。近年ではCassius Select, DJ Nigga Fox, Livity Sound, TSVIやPeladaといったDJ・Producerを迎えている。
https://www.instagram.com/_ntank
https://www.instagram.com/mave.jp


南でloopな w/ DJ Marfox -15 years of Príncipe-
2025/08/16 SAT 23:00 at WWW & WWWβ Tokyo
Early Bird/U25 ¥2,500 / ADV ¥3,000 / DOOR ¥3,500 (+1D)
TICKET https://t.livepocket.jp/e/20250816www

WWW:
DJ Marfox -15 years of Príncipe- [PT/Lisbon]
E.O.U
Foodman

VJ: eijin

WWWβ:
+TBA

20歳未満入場不可・要顔写真付きID
Over 20 only Photo ID required to enter

PLAYLIST:
https://open.spotify.com/playlist/4M4sLXzKcGj6ulR0bE0cqm?si=2f226360aabd4ecc&pt=97eb8b7c99ec7d96b9fec62bc15cbe4a
https://soundcloud.com/meltingbot/sets/loop-w-dj-marfox-15-years-of-principe

loopな
2024年よりE.O.Uとmelting botによりWWWβにて始動、あらゆるジャンルの超越後の現代における”ミニマル”を方向性としたレギュラーのキュレーション・パーティ兼E.O.U主宰レーベルhaloのリリース・プロジェクト。 VJ・アートワークはeijinが担当。昨年夏に開催されたサウス・バイブスの南でloopなに続き、今回はリスボンからDJ Mafoxを招聘、東京公演ではリスボン・ゲットーのコンテンポラリーな先鋭電子レーベルPríncipeの15年周年記念としてその歴史を紐解く3時間のロングセットを予定。
https://haloooo.bandcamp.com/music
https://www.instagram.com/eoumuse
https://www.instagram.com/meltingbot

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●DJ Marfox [Príncipe/PT]

プロデューサー兼DJのMarfoxは、リスボンにおいて都市部、郊外、そしてゲットーの伝説的存在であり、電子音楽の新たな方向性を追求する世界的なネットワークにおいて著名な人物となる。ダンスミュージックにおける文化の様々な分野から、先駆的な作品と音楽に対する称賛を受けており、過去10年間にわたりLit City Trax、Boomkat Records、Warp Records、Príncipeなどのレーベルから作品をリリースしてきました。特にPríncipeに関しては、その創設者の一人として確固たる地位を築く。

また、Fever Ray、Elza Soares、tUnE-yArDs、BADSISTA、Panda Bearなどのアーティストのためのリミックスを手がけ、最近では新たなプロジェクトに挑戦。2019年ヴェネツィア・ビエンナーレのドイツ館でアーティストNatascha Sadr Haghighianのインスタレーションのためのオリジナル音楽を提供等、過去数年間、ヨーロッパとイギリスでDJセットを精力的に行い、ブラジル、ウガンダ、アンゴラ、ロシアを訪問し、アメリカ、カナダ、メキシコ、オーストラリア、東アジアでのツアーも実施している。

2023年には、自身のオリジナルクルーDJs Di Guettoのコンピレーションのダブル・ヴァイナルLPエディションをPríncipeからリリース。Resident Advisorは「17年経ってもこんなに新鮮に聞こえることは、この音楽がどれだけ重要かを証明している」と言及、外部の者が触れることのできない音楽の系譜とスタイルを持つ、強固なコミュニティであり伝統であると記録した。

https://www.instagram.com/djmarfox

●Príncipe [PT/Lisbon]

プリンシペはポルトガルのリスボンを拠点とするレコード・レーベル。この街、その郊外、プロジェクト、スラムから生まれる100%リアルなコンテンポラリー・ダンス・ミュージックをリリースすることに専念している。独自の詩学と文化的アイデンティティを持った新しいサウンド、形態、構造であり、ハウス、テクノ、クドゥーロ、バティーダ、キゾンバ、フナナー、タラチーニャ、あるいはその他の新しい美学的発展など、この街で生み出される素晴らしい作品が、クラブ、携帯電話、家の外で聴けないままであることがないようにしたい。すべてのアートワークはマーシオ・マトスが考案し、実行した。全てのレコードは、一枚一枚手作業でステンシルされ、手描きされている。すべてのサウンド・マスタリングは、ポルトガルのベテラン天才サウンド・エンジニア、トー・ピニェイロ・ダ・シルヴァの自宅スタジオで、哲学に基づき行われている。

https://principediscos.wordpress.com
https://www.instagram.com/principediscos_verdadeiro

●V/A - Não Estragou Nada [Príncipe 2025]

https://principediscos.bandcamp.com/album/n-o-estragou-nada

1. Farucox - Para de Espirrar 02:54
2. Bubas Produções - Samba no Pé (Dedicação ao Lilocox) 04:15
3. Lilocox - Camones 04:32
4. DJ Bboy - Latona 03:20
5. DJ Nervoso - Veronica 04:11
6. Niagara - Madstell 05:02
7. LawBeatz - Sem Ti 03:47
8. DJ Danifox - Rua do Abismo 04:07
9. E8 Prod - Daylight 02:28
10. Mixbwé - Beat 2 02:36
11. Puto Anderson - Khamba 03:13
12. Mano Jio - Party na Jungle 03:12
13. DJ Nigga Fox - Na Casa da Mana 04:02
14. DJ Bebedera - Fodência The Scratch 01:51
15. DJ Firmeza - Beats das Piriguetes 02:49
16. DJ Cirofox - My Pain 03:10
17. Dadifox - Sambaa 02:49
18. A.k.Adrix - Glitch [IIIII] 01:57
19. DJ N.K. - Bo Ta Rebola (feat. Dama Kriola & Dama Pink) 03:22
20. DJ Marfox - Batimento 04:40
21. DJ Maboku - Capeta Lisboeta 03:02
22. PML Beatz - Reflexos Desiguais 03:41
23. Diiony G - Carrega 03:33
24. DJ Lycox - Anubis 03:46
25. XEXA - Ondas 03:03
26. Nídia - Toma Bailarina 04:55
27. DJ Narciso - Lixo 03:01
28. DJ Doraemon - G.A.Z. 03:15
29. Lokowat - Up Up 03:12
30. Puto Márcio - Orgia Mental 02:51
31. PT Musik - Tears 02:08
32. K30 - Vento no Tarraxo 03:39
33. DJ Helviofox - Melodic Vibration (feat. E8 Prod) 04:11
34. Nuno Beats - Micasibi 02:48
35. Deejay Poco - Última Hora 02:24
36. DJ NinOo - Som di Paz (feat. Vanyfox) 02:52
37. Deejay Veiga - Jarda 03:31

最も新しい学校: Príncipeは1つの屋根の下にいくつかの活動の合流点であるハウスをオープンする。このイベントを記録するために、私たちは過去と現在の未発表曲を、時には10年以上もハードディスクの中に隠しておくことにした。文脈の欠如、感性の変化、あるアーティストの良質な音源の過多など、このトラックリストが未発表のままになっている理由はいくつかある。「Não Estragou Nada "は、ファミリーの拡張されたヴィジョンを提供し、この音楽の包括的なステートメントを、ほとんど最も生々しい表現で、フィルターにかけず、喜びを表現している。私たちは、アーカイブの豊かさを考えると、特定の新曲を制作する必要はないと感じた。アーカイブがゼロから進化し始めた2010年以降、DJ Marfoxまでの数年間を網羅した、管理されたタイムマシン。このコンピレーションに参加していない著名なアーティストの中には、現在音楽以外の道を歩んでおり、自らの意志で不在にしている者もいる。祝福と感謝を。若手からベテランまで、ハウスの他のすべての人たち。それをハウス・ミュージックと呼びたいのなら、そうすればいい。春になると、すべてのものが花開くようだ。

DJ Python & mad miran - ele-king

 不定期ながらいつも刺戟的なパーティを開催しているブランド〈C.E〉より、最新情報です。3月に来日した人気者、ニューヨークのDJパイソンが早くも再来日。オランダのマッド・ミランとともに長月の一夜を彩ります。9月6日、表参道はVENTにて。
 なお、9月発売予定の紙エレキング最新号には、前回来日時に収録したDJパイソンのインタヴューが掲載されます。そちらもお楽しみに。

[8/29追記]
 パーティ会場限定でTシャツの販売が決定! フライヤーのデザインが分解~再構築され、フロントとバックに配されています。これはかっこいいぞ。


C.E presents
DJ Python
mad miran

C.Eのパーティが9月6日土曜日にVENTで開催。

洋服ブランドC.E(シーイー)が、2025年9月6日土曜日、表参道に位置するVENTを会場にパーティを開催します。

Skate Thing (スケートシング)がデザイナー、Toby Feltwell(トビー フェルトウェル)がディレクターを務めるC.Eは、2011年のブランド発足以来、不定期ながら国内外のミュージシャンやDJを招聘しパーティを開催してきました。

9月6日に開催となる本パーティでは、アメリカはニューヨークよりDJ Python、そしてオランダからmad miranをゲストに迎えます。

C.E presents
DJ Python
mad miran

開催日時:2025年9月6日土曜日午後11時
会場:VENT
http://vent-tokyo.net/

料金:Door 3,500 Yen
Advance Tickets 2,000 Yen
http://ra.co/events/2216407

Over 20’s Only. Photo I.D. Required.
20歳未満の方のご入場はお断り致します。年齢確認のため顔写真付きの公的身分証明書をご持参願います

■DJ Python
ニューヨークはクイーンズを拠点とするDJ兼ミュージシャンのブライアン ピネイロによるプロジェクトにおいて最も知られるエイリアス。
NYのクラブ、Nowadaysにおける長年のレジデンシーや、Anthony Naples(アンソニー ネイプルス)とJenny Slattery(ジェニー スラッタリー)のレーベルInciensoを通じて、ブルックリン/クイーンズのシーンの柱となっている。
近年、DJ Pythonはディープハウスのダイナミクスとラテンリズムを融合させた革新的な音楽スタイルによって、世界中のレコードショップ、ミックスシリーズ、クラブで注目を集めている。
2020年にリリースしたアルバム『Mas Amable』(Incienso)はResident AdvisorやBoomkatのアルバム・オブ・ザ・イヤーに選出された。
その後、EP『Club Sentimientos Vol. 2』や、DominoのアーティストEla Minusとのコラボレーション、Nick LeónとのスプリットEPなどをリリースし、さらにKelman DuranとFlorentinoのグループSangre Nuevaなども手がけている。
2023年には、アンビエント・ポップの先駆者Ana Roxanneとチームアップし、『Natural Wonder Beauty Concept』名義で、ムーディーでIDMの影響を受けたポップソングとユニークなインストゥルメンタルを収めたアルバムをMexican Summerから発表。同アルバムは、再び年間ベストアルバムリストに名を連ね、ヨーロッパ、イギリス、北米を巡るライブツアーが行われた。

2024年にはBBC Radio 1の「Essential Mix」に初登場し、未発表のトラックやAir、Alex G、Nina Simone、Autechreなどのエディットを含むミックスを披露した。同ミックスはResident AdvisorやMixmagから「Best Of」の評価を受け、Mixmagは「xxxx」と絶賛をした。
2025年3月にはEP「I Was Put On This Earth」をXL Recordingsよりリリース。
soundcloud.com/worldwideunlimited
ra.co/dj/djpython
www.instagram.com/dj__python

■mad miran
オランダのアンダーグラウンドが生んだDJ。
Garage NoordやDe School、Nitsa、Blitzなどのクラブだけではなく、DekmantelをはじめPrimaveraやSolstice、Love Internationalといった音楽フェスティバルにも出演。
soundcloud.com/madmiran
ra.co/dj/madmiran
www.instagram.com/madmiran

Stereolab - ele-king

 未来を見つめるために過去を振り返るのは、つねにステレオラブの習慣の一部だった。アートワークには1960年代の実験的なステレオ・テスト・レコード盤の要素を取り入れ、音のルーツはクラウトロックの攻撃的でモータリックなモダニズム、フランス現代思想や戦後のマルクス主義の変種などの緩めの解釈、ルチア・パメラやノーマン・マクラレン等の創造力豊かな変わり者たちによるポップ・カルチャーの難解な奥義などの多岐にわたる過去から引き出したあらゆる要素が、政治批判、技術楽観主義、そして子どものようなクリエイティヴな遊びを融合させた、進歩の土台となる精神を構築してきた。
 
 だが、その進歩という考え方が、なかなかトリッキーではある。ステレオラブの新譜があなたを本当に驚かせたのはいつが最後だっただろうか? 私にとって、それはおそらく2001年の『Sound Dust』だったのではないかと思うが、すでに1997年に『Dots and Loops』がリリースされた時点で、ステレオラブのアルバムを思い浮かべるときに必要なすべての要素が揃ったと感じていたことにも言及しておきたい。とはいえ、それ以降の作品に創造性が欠如していたわけではない。グループはしばしば、自分たち自身で障害物をこしらえて、グルーヴを壊し、プロセスを複雑化して、お決まりのパターンに陥るのを防ぐことを繰り返してきた。2004年の『Margerine Eclipse』で特にその手法が際立っているが、このアルバムは“デュアル・モノ”方式で録音され、ふたつの独立した録音が各チャンネルにあり、それらが組み合わさって音が聴こえてくるというものだった。

 『Instant Holograms on Metal Film』の制作過程でもそのような仕事がなされたのかは知る由もないが、2008年の『Chemical Chords』のセッションからの音源で編まれた2010年の『Not Music』以来の今回の新譜は、まさにステレオラブのアルバムらしい音に聴こえる。完璧なメロディの再構築、音楽的要素やテーマなど、愛聴家たちが期待するものが揃っている。私の周りの人びとの意見はというと、眩暈がするような興奮を覚えた人と、期待はずれだったという人に二分されている。ある人は“自動操縦(オートパイロット)化されたバンド”という表現で総括した。
 私はその批判は、的外れであると思う。何よりもその精緻な再現性だけで、“オートパイロット”化という言葉がほのめかす怠惰という疑いを晴らすことができるからだ。それよりも私が感じとったのは、17年ぶりに集まったミュージシャンたちがこの“ステレオラブ”と呼ばれるものの記憶を呼び覚まし、再構築するために懸命に努力する様子だった。最後に一緒に奏でた音楽から彼らを隔てた長い時間自体が、そのプロセスを複雑化する障害物として機能し、再びステレオラブになるという行為がその概念の枠組みとなっているのだ。
 これは、単なる技術の実践を超えたもののように感じてしまう。長い時間、離れていた音やプロセス、そして人同士が再接続を果たすという感情的な行為なのだ。

 冒頭から、“Mystical Plosives”の電子的なアルペジオが“Aerial Troubles”へと突入すると、何か強烈なものの存在を感じる。ビートが予想より一瞬だけ早く始まり、ポップなフックに辿り着こうと焦っていかのようだ。メロディとテーマだけで、アルバム発売前のシングル“Melodie Is A Wound”が“Ping Pong”と同じ作曲者によるものだとわかるが、いずれも、より広がりのある密度の濃い作品となっている。この曲とA面全体が、新しい家のすべての部屋を見せたくてたまらない、無我夢中な案内人に連れまわされているような感覚だ。
 ティム・ゲインとレティシア・サディエールはどちらも前回のアルバム以来、活発な活動を続けており、この再構築されたステレオラブの構造にも、それぞれの作品の要素が絡まっている。ティムのプロジェクトであるキャヴァーン・オブ・アンチ・マターのホルガ―・ツァップもゲスト参加した、インストゥルメンタルな“Electrified Teenybop!”はふたりのアルバムの一枚にも違和感なく収まりそうな曲だ。一方、レティシアが頻繁にコラボレートするマリー・メルレ(アイコ・シェリーの)がバック・ヴォーカルで参加している。
 ある意味、ティムとレティシアの、その間の数年にわたる活動が、彼らが自分たちの過去を振り返るというプロセスを必要とした大きな理由のひとつかもしれない。キャヴァーン・オブ・アンチ・マターがシンセティックなモダニズムのサウンドに激しく傾倒したのに対し、レティシアの方は、特に昨年の『Rooting For Love』では物理的なものと精神的なものに対峙していた。ステレオラブの開発ツールは、両者が再び一緒に演奏できるようにするだけでなく、それぞれの創造的なこだわりを追求する余地を提供しており、その枠組みのなかで両者のアプローチが絡み合うことが織り込み済みなのだ。

 『Rooting For Love』では、現代政治がかなり強調されていたが、それはより抽象的な形で詩的に表現されていた。だが『Instant Holograms on Metal Film』 では、資本主義の破壊的なダンスと、機能不全を好む独裁体制を、執拗に、鮮明に描いている。

「Is there some form of justice possible or (なんらかの正義の形というものは実現可能なのだろうか、それとも)/So long, public’s right to know the truth(国民の真実を知る権利の終焉か)/Gagged, muzzled by the powerful(権力者に口を塞がれて封じられ)/Cultivate ignorance and hate(無知と憎しみを増殖させる)」

 と、レティシアは「Melodie Is A Wound(メロディとは傷である)」で問いかけ、こういった率直な真剣さを嫌がる人たちの目を白黒させる。

 A面の、歌詞を通じて現在の混乱した社会情勢に対する社会的、政治的、そして経済的な批判をアルバムの基盤とするやり方は、音楽のより理論に基づいた側面と結びつき、彼女の宇宙的な進歩の処方への、ある程度の具体的かつ抽象的な入口を構築している。
 そして、おそらくここが A面の政治に対する真剣さに賛同していた人のなかでも、レティシアの政治観が精神的なものばかりでなく、ニューエイジの領域に近い要素にまで密接に結びついているために、離れてしまう人が出てくる分かれ目になっているのかもしれない。とはいえ、このアルバムは、ステレオラブがこれまで表現してきたなかでもっとも完全な、政治的かつ個人的な宣言となっている。全体を貫いているのは、ただ問題点を明らかにする
だけでなく、ある種の解決策への道筋を示そうとする献身である。 

「Juncture invites us to provide care (この岐路は私たちにケアの提供を促している)/Palliative (一時しのぎの緩和ケアを)/ For dying modernity (死にゆく現代性に)/While offering antenatal care for the inception of the new, yet undermined future (一方でまだ定まっていない新たな未来の始まりに産前ケアを提供しながら)/ That holds the prospect for greater wisdom (より大きな英知の可能性を持つ未来のために)」

 レティシアはこのように“Aerial Troubles”で語り、『Rooting For Love』の歌詞は、彼女の革命的な実践において、対立ではなく愛と共感を中心に据えていると言及している。

 “Wisdom(知恵・英知)”は彼女が繰り返し使う言葉だが、その使い方は“明晰さ”と大体一致しており、社会という名のフィルターを通して見る訓練がなされる前に世界を見透かしてしまう、子ども特有の純真さのような感覚のことなのかもしれない。おそらく、多少はフランス左派の哲学者、コルネリュウス・カストリアディスの影響もあるのだろう。彼はイド、自我と超自我に分割される前の子どもの精神を、精神的な単子(サイキック・モナド)と説明し、健全な社会には、内省のための精神分析的なツールが不可欠であると考えた。そのような自己分析なしでは、私たちは自分たちの意欲に気付けないばかりか、真の自律性を獲得することができず、自治制のない社会は機能しないからだ。
 フランス語のつづりによる“Monade”は、もちろん、レティシアが自身の名前のみを使って活動するようになる前に音楽をリリースする際に使用した名称だが、これは単なる精神分析学的な用語ではなく、グノーシス主義とも強く結びついた神秘的な言葉である。
 アルバムのB面へと進み、とくに豊かでサイケデリックなC面になると、歌詞の社会批判は、診断的な内容から治療の段階へと進み、彼らが描く救済への道には、だんだんとグノーシス主義的な宇宙論が映し出される——資本主義の現実主義的支配者、デミウルゴス(“Vermona F Transistor”の神のふりをするジョーカー)が、人類が英知や啓発を得て、モナドの高潔で純粋な光の中で真の人間性を手に入れるのを妨げようとするが、その神聖な一部の火花は本来、我々がそれぞれ内包しているものなのだ。

 だが、ここで重要なのは、これらの表現方法のすべてが、本質的には個人的なものへと行き着くことなのだ。レティシアが“Vermona F Transistor”で「The architect, our higher self (建築家という私たちの高次なる自己)」と歌うその言語は霊的なものであり、「Explore without fear the rhizomic waves (恐れることなく、根茎状の波を探索せよ)」と歌うところでは、ドゥルーズとガタリの批判理論を想起させるが、“Esemplastic Creeping Eruption”のタイトルでは、コールリッジの詩の言葉を引いており、一体感(wholeness)と結合(union)という繰り返されるテーマは、宗教、心理学、政治と愛における語彙の核心的な部分だ。  「統合」のテーマは、バンドの再結成という文脈において、特に心に迫るものだ。“Esemplastic Creeping Eruption”のエンディングの歌詞

「It is because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Eternally entwined, mirage of separateness(永遠に絡み合った、分離と言う幻影)/Meeting with a stranger, a lost part of myself (見知らぬ人との出会い、失われた自分の一部) /It’s because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Two halves of one(一個の二つの半身)/Union, compound (結合、複合)」

は、人間に共通する普遍的なテーマとしても解釈できるが、ステレオラブ自身にとっても、強力な響きを持つ文脈となっている。

 アルバムの最終面は、注目を集めたがるA面や暗さのあるB面、サイケデリックなC面とは対照的に軽やかで、爽やかさと安心感のある音調になっている。最終面より前の面でも探求された多くのテーマを再訪するが、アルバムと同様に、次へと漕ぎ出す出発点として過去に焦点を当てている。“Colour Television”が「Open are the possibilities(可能性は無限に広がっている)!」と宣言し、“Flashes From Everywhere”では、「冒険的な進み方」を約束している。

 最終的に、政治批判や哲学、心理学、宇宙論といった深遠な風景を駆け抜ける、目の回るような旅の後にステレオラブが『Instant Holograms on Metal Film』で提示する前進への道は、決して不明瞭なものではないし、大袈裟なものでもない。彼らはただ、こう言っている。「自分自身の意欲と偏見について熟考し、明晰さと自律性を獲得しよう。その明晰さで異なる可能性を探求し、自分自身と他者を、精神的、社会的に、あるいは長年離れていたポップ・グループとして、同一のものの一部として結びつき、大胆に、自由に創造しよう」


by Ian F. Martin

The idea of looking back in order to look forward is one that’s always been a part of Stereolab’s praxis. The artwork that drew from 1960s experimental and stereo test records, their sonic roots in the aggressive, motorik modernism of krautrock, various loosely interpreted strains of French Theory and postwar mutant Marxism, the pop cultural esoterica of creative eccentrics like Lucia Pamela and Norman McLaren — it all drew from the past to construct an ethos combining political critique, technological optimism and childlike creative play as a platform for progress.

That idea of progress is a tricky one, though. When was the last time a new Stereolab album really surprised you? For me, perhaps that was 2001’s Sound Dust, although I’d argue that all the key elements you need to imagine a Stereolab album were in place with the release of Dots and Loops in 1997. That’s not to say there was a lack of creativity at work beyond that point, though: the group would often construct roadblocks for themselves to throw themselves off their groove, complicate their process and prevent themselves from falling into patterns. They do this most strikingly in 2004’s Margerine Eclipse, which was recorded in “dual mono” with two independently coherent recordings, one in each channel, that combine to create the song you hear.

Whether there was some process of that kind at work behind the scenes of Instant Holograms on Metal Film, I don’t know, but this first new album since 2010’s Not Music, which was itself pieced together from recordings made during the 2008 sessions for Chemical Chords, sounds exactly like a Stereolab album: an immaculate recreation of the melodies, musical elements and themes a fond listener would expect. Opinions among people around me have been split between giddy excitement and disappointment: a feeling one person summed up as of “a band on autopilot”.

I think that criticism misses the mark. The meticulousness of the recreation alone absolves the band of the suggestion of laziness “autopilot” implies. Rather, the sense I get is of musicians working together for the first time in seventeen years, working hard to remember and reconstruct this thing called Stereolab — the gulf of time that separates them from their last music together itself functioning as a roadblock that complicates their process, the act of becoming Stereolab again its own conceptual framework.

It feels more than just a technical exercise, though. It’s an emotional process of reconnecting with sounds, processes and people after a long time.

From the start, as the electronic arpeggio of Mystical Plosives bursts into Aerial Troubles, there’s something insistent, beats kicking in just a moment before you’re expecting them, almost an impatience to get to the pop hook. Both in melody and themes, early single Melodie Is A Wound is identifiably the same songwriters who wrote a song like Ping Pong, but it’s both more expansive and densely packed. The song, and the whole of side A, really, feels like being swept along by a deleriously enthusiastic guide, eager to show you all the rooms of their new house.

Tim Gane and Laetitia Sadier have both been active over the years since their last album, and elements of both their own work twine through the structure of the reconstructed Stereolab. Holger Zapf from Tim’s project Cavern of Anti-Matter makes an appearance, and the instrumental Electrified Teenybop! would fit just as easily into one of their albums. Meanwhile, Laetitia’s frequent collaborator Marie Merlet (of Iko Chérie) joins on backing vocals.

In a way, Tim and Laetitia’s work in the intervening years may be a big part of what makes this process of looking back on their own past necessary. Where Cavern of Anti-Matter leaned hard into the sound of synthetic modernism, Laetitia, especially on last year’s Rooting For Love, sought to engage with the physical and the spiritual. The Stereolab toolkit allows them both to play together again, offering space for each to explore their own creative obsessions within a framework where the intertwining of those approaches is baked in.

Where contemporary politics underscored much of Rooting For Love, they do so lyrically in a more abstract way. Instant Holograms on Metal Film, though, lays out with urgent clarity the destructive dance of capitalism and its dysfunctional lover authoritarianism.

“Is there some form of justice possible or / So long, public's right to know the truth / Gagged, muzzled by the powerful / Cultivate ignorance and hate,” Laetitia asks on Melodie Is A Wound, no doubt causing all the sorts of people who cringe at such direct earnestness to roll their eyes.

The way Side A grounds the album in a social, political and economic critique of the current troubled climate both links the album lyrically with the more theoretical side of the music, and constructs a more or less tangible entry point for her more cosmic prescription for progress.

This is probably the point where even some of those who were OK with the political earnestness of Side A begin to check out, because Laetitia’s politics are woven intimately with something spiritual, even new age-adjacent. However, the album maps out what might be the most complete political and personal manifesto Stereolab have ever expressed. What underscores it all, throughout, is a devotion to not just identifying problems but mapping out some sort of route to a solution.

“The juncture invites us to provide care / Palliative / For dying modernity / While offering antenatal care for the inception of the new, yet undetermined future / That holds the prospect for greater wisdom,” she says on Aerial Troubles, and ss on Rooting For Love, the lyrics here centre love and compassion rather than conflict in her revolutionary praxis.

The word “wisdom” is one she returns to again and again, used in a way that seems to be roughly congruent with “clarity” and perhaps the sense of childlike innocence that sees the world clearly through eyes that haven’t yet been trained to see through society’s filters. There’s perhaps the influence of French leftist philosopher Cornelius Castoriadis in this, who describes a child’s psyche before it is broken up into the id, ego and superego as the “psychic monad”, and saw the psychoanalytical tools of self-reflection as crucial to a healthy society, because without such examination, we cannot be conscious of our motivations and therefore be truly autonomous, and a society cannot function without autonomy.

Monade (in the word’s French spelling), of course, was the name Laetitia used to release music under before settling into using her own name alone, and it’s not just a psychoanalytical term but a mystic one with strong connections to gnosticism.

As the album moves into Side B and especially the richly psychedelic Side C, and the lyrics’ social critiques move from the diagnostic to the curative, the route they sketch out towards salvation increasingly mirrors gnostic cosmology — the archons of the capitalist realist demiurge (“the joker who pretends a God to be,” of Vermona F Transistor) holding humanity back from attaining wisdom or enlightenment and experiencing their full humanity in the incorrubtible pure light of the monad, part of whose divine spark we each contain.

Importantly, though, all these modes of expression come down to something fundamentally personal. The language is spiritual on Vermona F Transistor when Laetitia sings “The architect, our higher self”, it recalls the critical theory of Deleuze and Guattari where she sings “Explore without fear the rhizomic waves”, it draws language from the poetry of Coleridge in the title Esemplastic Creeping Eruption, and the repeated theme of wholeness and union is a key part of the vocabulary of religion, psychology, politics and love.

That theme of union is a poignant one in the context of the band’s reunion. The ending of Esemplastic Creeping Eruption with the lines “It is because I am you, it's because you are me / Eternally entwined, mirage of separateness / Meeting with a stranger, a lost part of myself / It’s because I am you, it's because you are me / Two halves of one / Union, compound” can be read as a general statement about collective humanity, but rings powerfully in the context of Stereolab itself.

The final side of the album takes on a lighter, breezier, more reassuring tone than the attention-hungry Side A, the darker side B and the psychedelic Side C. It revisits many lof the points explored on the earlier sides, but perhaps like the album itself, its focus is on summarising the past as a kicking off point for where to go next. “Open are the possibilities!” declares Colour Television, with Flashes From Everywhere promising an “Adventurous way to proceed”.

For all the giddy journey they take you on through this esoteric landscape of political critique, philosophy, psychology and cosmology, the route forward Stereolab offer on Instant Holograms on Metal Film isn’t an obscure one, in the end. It’s not a grand one either. It simply says: reflect on your own motivations and biases in order to achieve greater clarity and autonomy; use that clarity to explore different possibilities; see yourself and others united as part of the same thing, whether spiritually, as a society, or maybe even as a long-separated pop group; and create boldly and with freedom.

Nick León - ele-king

 レゲトンのサブジャンルにネオペレオ(Neoperreo)がある。簡単にいえば少し陰のあるレゲトンで、10年代前半にチリのトマサ・デル・レアルとアルゼンチンのミズ・ニーナがハッシュタグに用いたことでジャンル名として定着したという。ペレオというのはレゲトンと呼ばれる以前のレゲトンのことで、レゲトン自体がいつ始まったのか定かではないために(ノリエガでよくね?)どの時期までを指すのか人によってまちまちだけれど、いずれにしろネオペレオという呼称自体はレゲトンの新たな展開を意味している(ネオ・ペレオ=ニュー・レゲトン)。ちなみに黎明期のレゲトンに回帰する動きはペレオコアなどとも呼ばれたり。勃興期のネオペレオは女性中心で、セクシュアリティに言及する歌詞が多く、すぐにもスペイン系のバッド・ギャル(Bad Gyal)やロザリオ、ホンジュラス出身のロウ・ジャックがプッシュするクララ!などヨーロッパの女性プロデューサーへと飛び火していった。10年代後半に入ってネオペレオがL.A.で隆盛を極めるとブラック・アイド・ピーズやバッド・バニーなどメジャーへと波及し、その一方で、ジャム・シティやケルマン・デュランなどアンダーグラウンドなプロデューサーたちがデコンストラクティッド・クラブとしてマイナー・チェンジを重ねたものがより音楽的な面白さにフォーカスしていった。僕が最初に興味を持ったのもコード9とベリアルによるミックスCD『Fabriclive 100』に収録されていたウルグアイのレチュガ・ザフィロ(Lechuga Zafiro)で、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音をビートに使った“Agua y puerta”は実にシュールで、ヴィデオも鮮烈な印象を残した。レタス・サファイアという意味のレチュガ・ザフィロが同じ年にリリースした「Aequs Nyama Remixed」では早くも700ブリスがリミックスに起用されていて、音楽的な広がりに対する期待が一気に加速したことも忘れがたい。さらにはアルカである。コロナ禍に5枚連作でリリースされた『Kick』にはシリーズの前半でレゲトンとともにネオペレオがフィーチャーされ、ストリート・ミュージックとして発展してきたネオペレオがそれはもう見事なほどグリッチと手を結んでいた。アルカはその後もシングルで“KLK”(20)、“Prada/Rakata”(21)、“Chama”(24)、“Puta”(25)、“Sola”(25)とネオペレオを連発。優雅で高貴な世界観を増幅させることに余念がない。バッド・バニーとアルカは同じ2020年のリリースであり、メジャーにもアンダーグラウンドにも広がっていたネオペレオはコロナ禍でやや減少傾向に転じたものの音楽的な勢いが衰えた印象はなく、ニコラ・クルズ&イザベル・ラヴストーリー、フロレンティノ、デング・デング・デング、シャイガールと様々な方向に触手を伸ばし、ビリー・アイリッシュやビョークともコラボレイトしたロザリア『MOTOMAMI』(22)やリズ『Extasis Silicone』(23)などメジャーでも充実作が続いている。トキシャ(Tokischa)“CANDY”やLSDXOXO(エルエスディーエックスオーエックスオー)“Freak”のヴィデオを観ていると『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の人気がどこから来たものなのかよくわかるというか。

 12歳でレゲトンに人生を変えられたというニック・レオンによる9年ぶりのセカンド・ソロでもネオペレオは大々的にフィーチャーされている。 マイアミ・オールスターズによる『Homecore!』で書いた通り、「マイアミを音楽都市として再浮上させたプロデューサー」として高く評価されるニック・レオンはかねてからDJパイソンやケルマン・デュランと同じくレゲトンとアンビエントの接点を探ってきたこともあり、ここでもネオペレオから陰の部分を多く引き出すことに成功している。冒頭から初期のソフィを思わせるザンダー・アーマドのヴォーカルを起用した“Entropy”。ファヴェーラ・ファンク(バイレ・ファンキ)を基本としながら仕上がりはマイアミ流のバブルガム・ベースといった趣で、これにアトモスフェリックな浮遊感をたっぷりと混入させ、後半はパーカッションを強調。続く“Ghost Orchid”と“Metromover”はその余韻を受け継ぐかたちでネオペレオとUKガラージの接点を模索しながらゆらゆらと水の中を漂っていく。前者にはダンスホールのエラ・マイナスが起用され、カリブ海文化に対するレオンの強い執着を窺わせる(ニック・レオンはオークランド出身説もある?)。『熱帯の無秩序(A Tropical Entropy)』というタイトル通りヘンな効果音にまみれた“Millennium Freak”はアグレッシヴなチャンガ・トゥキ。中南米産とはかけ離れたシャープなプロダクションが臨場感を掻き立て、勢いを増したパーカッションはM.I.A.を彷彿させる。
“Hexxxus”、“Crush”とソリッドでクールな展開が続き、“R.I.P. Curren”で少しテンポ・ダウン。海中を疾走していくようなイメージに変わる。珍しく男性ヴォーカル(Lavurn)を起用した“Product of Attraction”は竜宮城を巡るイメージでしょうか。“Ocean Apart(海から離れて)”でも男性ヴォーカル(Casey MQ)が続き、ビートが後退してメランコリックなムードに沈んだバブルガム・ベースを展開。短くまとめた“Broward Boyy”を波打ち際の音で締めくくり、エンディングにはヴォーカルにエリカ・ドゥ・キャシエを起用した先行シングル“Bikini”を再録。全体の出発点となった曲なのか、この曲が最も無邪気なムードにあふれている。この曲だけはなぜかマスタリングがラシャド・ベッカー

 レオン自身は彼のサウンドを建築を意味するアルキテクトロニカ(Arquitectronica)と称している。マイアミの建築物を指す典型的な用語だけれども、おそらくクラブ・ミュージックを自在につなぎ合わせたデコンストラクティッド・クラブと同じ意味なのだろう(?)。『A Tropical Entropy』の元になったイメージはジョーン・ディディオンの異色ルポルタージュ『マイアミ ― 亡命ラテン・エリートのアメリカ』(87)で、ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件、レーガン・ドクトリン、イラン・コントラ事件などを通してキューバ革命でカストロに祖国を追われたキューバ人たちが亡命先となったマイアミでアメリカの外交政策にどのような影響を与えたかを考察した本だという。ドナルド・トランプの横にいつも立っているマルコ・ルビオ国務長官がまさにそうした出自を持つキューバ系で、祖国を憎むあまり、共産主義を憎み、イランや中国に対してかなり強硬な姿勢で臨む外交政策を現在進行形で続けているところである。『A Tropical Entropy』にはさらにドラッグ体験と睡眠不足によって引き起こされたオルタード・ステーツから得たインスピレーションも反映されているそうで、社会の崩壊にともなって人生が崩壊していく様を目撃したという個人的な体験が重ね合わされているのだという。さすがにそこまでは聴き取れなかったw。

マーク・スチュワートが永眠したのは2023年4月のことだった。そしてここに、彼の最後の言葉が綴られた遺作がリリースされた。

 昨年、思うところあってフランクフルト学派について、ほんの少し……ほんのひとかけらでありますが、でも勉強したことがあった。こと文化批評に関心がある人なら、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン、マックス・ホルクハイマー、ユルゲン・ハーバーマスといった、いかにも気難しそうなドイツ人の名前にどこかで出会っているだろう。20世紀初頭、正確には1923年にフランクフルト大学との提携関係で生まれたマルクス主義(およびフロイトの精神分析学)の研究機関を通して論じられた資本主義批判および先駆的な文化批評は、こんにちでも、とりわけ悲観的な社会論評でしばしば引用されている。より身近なところで言えば、いまから8年前に我らがジェイソン・ウィリアムソン(スリーフォード・モッズ)がこの学派の本を読んで、歌詞のなかに活かしたことはコアファンの間では知られている(*)。また、マーク・フィッシャーの「アシッド・キャピタリズム」ではマルクーゼが再訪されているが、それは心が病むような労働からの解放を期して書かれた、フィッシャー最後の論考のほとんど下地になっている。

 フランクフルト学派はドイツ革命後に始動した、言うなれば(具体的な党派性には依拠しない)「文化系マルクス主義」、その先駆けだ。のちに実践派マルクス主義(肝心ななことは変革というマルクスの言に従った実力行使派)からの批判を大々的に浴びながら、彼らの研究は止むことなく数年後にはドイツを支配するファシズムへと向けられる。当然のことながらユダヤ系ドイツ人たちにとって、自分たちの生存のため、アメリカへの亡命は避けられなかった[*ベンヤミンのみ欧州で自害]。
 マルクス主義のドイツ人たちが1940年代のアメリカで歓迎されたのは、批判の矛先が両者ともにナチスにあったからだが、興味深いことにフランクフルト学派は、ファシズムを否定した精神をもって、自分たちを歓迎したアメリカへも批判の眼差しを向けるのだった。のちにマルコムXが「私たちはだまされていたんだ」と憤慨したり、ザ・レジデンツが「サード・ライヒン・ロール」と皮肉ったり、パブリック・エナミーが「ハリウッドなんて燃えちまえ」とラップしたように、もちろんムーディーマンがアメリカを「地上最大の盗人」と呼ぶよりもずっと前に、この理論家たちはアメリカに対して、ドイツから逃げてきたけどなんだかここにもファシズムの匂いがするぞと、おおよそ同じようなことを(マルクスという言葉を隠しながらも)遠慮なく言っているのだ。
 これら怒れるドイツ人たちは、戦争が終わってドイツに帰国しても資本主義への批判を緩めず、そしてまた、自らも大いに批判されもした。とくに学派の中心人物で、もっとも辛辣な皮肉屋として知られるアドルノは、実践こそを重視する新左翼にとっては批判の的だった。この頑固じいさんがジャズにケチを付けている話は有名だが、プロテスト・ミュージックも格好の批判対象で(*2)、当然ビートルズに対してもいい顔などしなかった。書を捨て町に出ようだと? そんなものは考えることを諦めた人間の自己憐憫だ、アドルノならそう言っただろう。嫌われて当然というか、それでもぼくは、アドルノが「理論を爆弾に変えること」を「安易」だと批判し、急進派のあまりの一途さを警戒した点については理解できる。ハーバーマスにいたっては、60年代後半に「左翼ファシズム」(*3)という言葉を発しているが、気難しいドイツのオヤジ連中は革命的衝動が全体主義へと、わりと容易に変貌してしまうことを知っていたのである。
 ただし、それがすべてではない。ここ10年で、スリーフォード・モッズやフィッシャーが蘇らせたマルクーゼは60年代末、若い実践派たちを擁護したどころか、新左翼の思想的支柱となり、自らも運動に参加した。おそらくベンヤミンも生きていたら同じことをしただろう、というのが識者たちの大方の見解だ。
 いずれにせよ、みんな同じなわけではなかった。活動家たちからは「所詮あんたらは、アカデミアという安全圏から不毛な批判理論を見せびらかせているだけ」と糾弾されても、ひたすら理論の研磨を続けたアドルノと、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの拠点たるカリフォルニア大学に在籍し、その熱狂のさなかにいたマルクーゼは激しい論争をしている[*ちなみにその頃のマルクーゼのもっとも高名な教え子のひとりに、アンジェラ・デイヴィスがいる]。とにかく賛否両論、つねに矛盾をはらんでいたと言えるフランクフルト学派が、ではなぜいま関心を集めているのかと言えば、文化系マルクス主義者としての彼らが、誰よりも先んじて、文化産業や消費社会への容赦ない批判を繰り広げていたからにほかならない。アドルノたちが提示した資本主義がもたらす精神的荒廃は、現代ではスリーフォード・モッズがストリート言葉に翻訳しているのだ。

 少々乱暴に言う。労働者階級が自分の好きなブランドの服や車を買えるようになった時代においては、革命の主体となるはずだったプロレタリアートはすでに満足しているのだから、もはや世界を変える必要はない。そうなのか、いや、違う、マルクーゼが提起したのはこういうことだった──資本主義社会のなかで、車や洗濯機、しわになりにくいスラックスに囲まれて暮らしている者こそ、もっとも貧しい存在であり、そればかりか、もはや正気を失いかけてすらいると、そういう話だ。「貧困」とは生々しい経済のそれを指していると同時に、抑え込まれた可能性への意識も意味し、疎外され、非人間化された意識も含意している、と。なぜなら我々は、広告の正体をわかっていながらも買うことを止められない。我々は服を買っているのではなく、服が我々に買わせているのだ。消費社会が仕向ける支配構造。ぼくが「消費者ファシズム」という言葉を初めて聴いたのは高校生のときだった。ザ・ポップ・グループの7インチ・シングル「We are all Prostitutes」の歌詞で繰り返されていたのだ。

 ザ・ポップ・グループがUKポスト・パンクを代表するバンドであることは周知の通りである。彼らのサウンドが形式化されたパンクから著しく離れていたことは──要するにパンクにはできなかったことをやったという本来の意味でのポスト・パンクであったことは、きわめて重要だったとここで強調しておきたい。ザ・ポップ・グループには、形式化されたパンクが絶対にやらなかったリズムがあった──ファンクだ。
 また、ザ・ポップ・グループはマーク・フィッシャーが「ポピュラー・モダニズム」と呼んで賞揚したもの──20世紀初頭の芸術運動としてのモダニズムの要素(文学からシュルレアリスムまでの、その実験性、革新性、形式の刷新など)を大衆文化のなかに持ち込むこと──これはもう、パンク/ポスト・パンクに限らず、ザ・フーしかりデイヴィッド・ボウイしかりロキシーしかりイーノしかり、ほか多数しかり──、その象徴的なひとつでもあった。
 マーク・スチュワートは大きな人だった。じっさい背も高かったが、寛容力もあったと思う。いくつかの取材のなかで、ぼくはあまり面白くない質問、そのときの流行の音楽についての感想を訊いた。たとえば──フレンチ・エレクトロのような、ファッショナブルな流行はどう思うか? スチュワートは全面的に肯定してみせる。素晴らしい、俺は大好きだ。新しい世代の台頭にも肯定的だった。LCDサウンドシステムのような連中はどう思うか? 素晴らしい、俺は彼らのファンだ。一途な左翼思想を曲に込めたブリストル人の心は広かった。それは、経験のなかで拡張されたのかもしれない。ザ・ポップ・グループ時代には、共産主義者連盟や反アバルトヘイト運動、CNDなど、ガチな政治団体——すなわち実践派マルクス主義——との接触が多々あったわけだから、それはもういろいろ経験しているだろう。

 この夏にドロップされるマーク・スチュワートの遺作『The Fateful Symmetry』を聴いていると、彼のそんな大きさを思い出す。ここにも「ポピュラー・モダニズム」が生きている。カフェOTO[*実験/即興などハイブローな音楽のライヴで知られるロンドンのヴェニュー]系とトム・モウルトン[*70年代ディスコのDJ。リミックスの発明者]を分け隔てるべきではない主張するスチュワートにしたら、アルバムで援用されているクンビアやダブは、言うなれば敷居の低い大衆的な実験音楽だ。
 だが、そんなことよりもひっかかるのは、アルバムの題名である。これは、おそらくはウィリアム・ブレイクの有名な詩(The Tyger)の最後の一文からの引用だろう。だとしたら、スチュワートは本作が遺作になることをわかって作ったと言える。10代の彼は、ロートレアモンやフランス象徴主義の詩作品を好む文学青年だった。ブレイクも若き日に心酔した詩人のひとりで、彼のマフィア時代の12インチ・シングル「エルサレム(Jerusalem)」も極貧を生きた19世紀英国の詩人の言葉から取ったのではないだろうか。
 遺作にロマン主義文学といえばマリアンヌ・フェイスフルもそうだった。彼女の場合はキーツやバイロンの詩の朗読で、そしてスチュワートがブレイクときた。反資本主義から反植民地主義と、“政治的な”作品で知られるマーク・スチュワートの遺作はなんとも詩的で、いかにもロマン主義的なアプローチによって「魂の栄光」に向けられている。ピアノ演奏をバックに歌う“ This is the Rain”のような詩情あふれる曲が、これまでのスチュワートにあっただろうか。“Everybody’s Got to Learn Sometime”(エイドリアン・シャーウッドがミックス)は彼のダブへの愛情がたっぷり注がれたカヴァー曲だが、アルチュール・ランボー風の激しく幻想的な詩がこだまする“Stable Song”や“Twilight’s Child”、そしてより深く沈潜した“Crypto Religion”を聴いていると、スチュワートは自分の最期をわかっていて詩を書いたに違いない、そう思えてくる。

 ぼくは『The Fateful Symmetry』を聴きながら、いまあらためて彼の不在を悼んでいる。2011年に渋谷で観た、再結成したザ・ポップ・グループのライヴにぼくはそれほど興奮したわけではなかったけれど、パブで1パイントのビールを呑んでいたオヤジたちがそのままステージに上がってパンク・ファンクを演奏しているみたいで、自分が大好きな世界ではあった。彼らには──アンチエインジグなどクソ食らえとでも言わんばかりの──正直な格好良さがあったのだが、でも待てよ、ライヴを観ながらぼくは思った。考えてみれば、ザ・ポップ・グループの『Y』は連中が18歳のときの作品じゃないか。ああ、なんということだ! あの「We are all Prostitutes」 も、あの『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(我々はいったいいつまで大量殺人を黙認し続けるというのか?)』も、19歳の若者たちが作ったなんて、とても信じられない。サウンド面においても政治性においても、だ。
 “She is Beyond Good and Evil” がニーチェの『善悪の彼岸』[*このドイツ語の書物の英訳が “Beyond Good and Evil” ]で、“Thief of Fire” がギリシャ神話のプロメテウスの火を主題にしていることをぼくが知ったのは、それらを聴いてから15年以上もあとのことだ。「We are all Prostitutes」 も『For How Much Longer〜』もリアルタイムでは批判もあった(*4)。歌詞が左翼の説教じみているという話だったが、しかしこれらのメッセージは、悲しむべきことにいまでも十二分に有効なのである。後者のアルバムには、当時の彼の一途さがうかがえる、“There are no Spectators(傍観者などない、中立などありえない)”という重要曲のひとつがある。

 2023年4月のクワイエタスに載ったマーク・スチュワートの追悼記事には、彼がインポスター症候群に苦しんでいたと書いてある。最初はなんのことか理解できなかった。あんなに豪快に笑う彼が、自分のやっていることに自信を持てずに悩んでいたと、そういうことなのだろうか。泣き叫ぶようなあの声は、どうしても自分を肯定できない彼の内的な叫びだったのだろうか。思い当たる節もある。初来日時の、アダムスキーとのライヴ・パフォーマンスは、すごかったと言えばとんでもなくすごかったが、観客に指を突き刺すようなナルシスティックな振る舞いとは対極にあった。どこか自分の身の置き場のない、どこか居心地の悪そうな、不安定な大きな塊に見えたこともたしかだ。『The Fateful Symmetry』の“Blank Town”で反復される「虚無」とは、自分自身に向けている言葉なのかもしれない。
 しかしスチュワートは、自分の苦しみを最後まで外に見せなかった。周知のように、彼は前向きで闊達な人だったと思われていたし、音楽もまた身体性に根ざしていた。たとえば、アルバム冒頭の“Memory of You”[*ユースとの共同プロデュース、ホリー・クックがバッキング・ヴォーカル]はスチュワートのダンス・ミュージック愛の賜物だろう。高校生の頃からファンクがかかる地元のクラブに通って、80年代にはワイルド・バンチがニューヨークから輸入したヒップホップに刺激を受けた。踊れる音楽であることは、たとえどんなに政治的に過激であっても、実験とポップが一体となる彼の作品に不可欠な要素だった。ダンスは、「コミュニティ」や「仲間」という概念と違って人を内側と外側に選別しない。だから、1990年の“Hysteria”には遠く及ばないとしても、続く“Neon Girl”[*ユースとの共同プロデュース、元レインコーツのジーナ・バーチをフィーチャー]もそうだが、彼はクラブ・ミュージック的なものとの接点を失いたくなかったのだ、とぼくは想像する。
 とはいえ、『The Fateful Symmetry』には踊れない曲が多い。何度も聴いていると、むしろ最初の2曲のほうが全体では浮いているようにも感じる。ソロ・アルバム『The Politics of Envy』(2012)以降も、それからザ・ポップ・グループの再出発のアルバム『Citizen Zombie』(2015)以降も、70年代末〜1990年までの作品にあったような圧倒的な何かを感じることはぼくにはなかったけれど、彼はノスタルジア産業に吸い取られないよう未来に向けてのメッセージを言い続け、音響工作にも変わらぬ情熱を注いでいたことは、多くの共演を介して生まれた晩年の作品からもわかる。周囲からの注目がなくなっても手を緩めなかったが、マーク・フィッシャーの追悼会で弔辞を読んだ彼は、あるとき力尽きたということなのだろうか。
 いや、そうではない。ウィリアム・ブレイクの詩から引用したこのアルバム・タイトル(すさまじき対称性というような意味)を日本人が解すのは、19世紀英国のロマン主義文学を専攻していたとしても難しいと思われるが(*5)、アルバムをなんども聴いていると見えてくることがある。ザ・ポップ・グループのフロントマンとしてデビューして以来、ずっと「虎」であり続けてきたスチュワートとは 、たしかに対称的な側面がここでは晒されているのだ。こんな思いを抱きながら俺は闘ってきたんだよと、アルバムの向こうからは、そんな声が聞こえる。クローザーとなる“A Long Road”という曲は、リスナーへのお別れの挨拶のようだとぼくには思える。「長い道が続いている。君は俺の命を連れてどこにでも行けるだろう。俺は、自分のベストを尽くしてみるよ、大丈夫オッケーだ」
 これが彼の最後の言葉である。当方、ぜんぜん大丈夫オッケーではないが、ベストを尽くすしかない。2023年4月、ぼくたちは偉大なアーティストを失った。だが、失ってはならない魂はここに、いや、すべての作品に残されている。

(*1)https://www.theguardian.com/music/2017/mar/05/sleaford-mods-guide-to-modern-britain-lots-of-pain-english-tapas

(*2)アドルノの辛辣さは、いまも生きている。その例をひとつ言うなら、ビヨンセの『レモネード』を「よくできた資本主義の商品だこと」と両断したベル・フックスだ。

(*3)パンクもまた急進的左派からファシスト呼ばわりされている。コーネリアス・カーデュー[*英国にジョン・ケージを紹介し、イーノに影響を与えたひとり]が1977年に刊行した機関誌『コグズ・アンド・ホイールズ』の創刊号で「パンク・ロックはファシストである」という記事を掲載したことはその筋ではよく知られた話だ。いわく「若者の怒りの資本化で、それはガス抜きにしかならず、ザ・クラッシュは反動的」……。ロック・アゲインスト・レイシズムが立ち上がってから、カーデューたちはその言葉を撤回したが、しかし英国の急進派たちの一途さもパンクに対する疑いを失うことはなかった。ザ・ポップ・グループが「ナショナル・フロント」を歌詞のなかで名指しで批判しているにも関わらず、である。
ちなみに、ファシズムに陥りやすい人間のことをアドルノは次のように表現している。「伝統的価値基準の衰退に異様に取り憑かれ、変化への適応力を欠き、自分たちの『内集団』に属さない他者への憎悪に囚われ、退廃から伝統を『守る』ためと称して暴力的行動に出る」ような人物。

(*4)「We are all Prostitutes」を「左翼の説教」だと真っ先に批判したのは『Y』を絶賛したイアン・ペンマンである。マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズに影響を与えたポスト・パンク時代の『NME』の人気ライター。『For How Much Longer〜』は、当時の第三世界における欧米の植民地主義をかなり具体的に批判した内容なので、これまた賛否両論だった

(*5)鏡像関係を意味していていると思われるが、ブレイクの「虎」の訳に関しては、岩波文庫の『ブレイク詩集』でもそうとうご苦労されている。「汝の恐ろしい均斉」では、難しい漢字を使っているだけで意味がようわからんです。ちなみに「虎」とは、ヴァルター・ベンヤミンが革命家のメタファーとしても使っている。

 2025年1月、ロサンゼルス(以下、LA)を襲った山火事は現地に住む多くの音楽家たちの生活を奪い、コミュニティを離散させた。そんななか、LAの音楽シーンを支えてきたインターネット・ラジオdublabの日本ブランチであるdublab.jpは、支援と連帯を示すためのチャリティ・コンピレーションを制作。『A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-』と銘打たれた作品には、岡田拓郎、王睘 土竟(荒内佑 + 千葉広樹)、食品まつり a.k.a. FoodmanBUSHMIND、Daisuke Tanabe、Albino Sound & Daigos (D.A.N)、SUGAI KEN、優河、Ramza×hotaru、TAMTAM嶺川貴子、白石隆之など、主に日本の有志たちによる楽曲が収録されている。

 ここまでジャンルレスに多彩な顔ぶれが揃うコンピレーションも珍しいが、それこそがLAの音楽文化の豊かさを表しているとも言える。そして、あまりに豊かで横断的であるがゆえに、シーンを俯瞰的に観測することは容易ではなく、相関図を作ってみたところで線が入り組みすぎてしまうだろう。

 では、現地の事情に詳しい人たちに、彼らの視点でシーンを切り取って語ってもらおうというのが今回の鼎談企画だ。語り手は、コンピレーションにも参加している岡田拓郎、dublab.jpの発起人であり自身のレーベル〈rings〉から現行LAシーンの作品もリリースしている音楽評論家の原雅明、そしてコンピレーションのプロデューサーでありdublab.jpの現代表の玉井裕規。なぜ私たちはLAの音楽に惹かれるのか、その答えが朧げに見えてきた。

LA的感性の根底にある「リスニング」志向

レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。(岡田)

玉井:今年1月にLAの山火事が起こった当初、報道からは断片的な情報しか入ってこなかったので、dublab.jpではLA現地のdublabやその周辺のコミュニティから状況を教えてもらって、よりリアルな実態を把握するための記事や支援団体に繋げるための記事を出したりしたんです。
それから、現地のメンバーと定期的に連絡をとるなかで、現地でも報道が減って風化していたり、保険金や支援金を受けるのにも複雑で長期的な対応を迫られるだとか、家を失った人たちのその後の生活とか、それこそ壊滅状態になってしまった音楽シーンのことなど、たくさん課題をたくさん聞いていて。
大金を集められるわけではないけれど、我々から現地の音楽コミュニティに対して、音楽によって支援できることはないかと考えてチャリティのコンピレーションを作ろうということではじまったのが今回の「A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-」です。準備期間も要しましたが、結果として発生から5ヶ月が経ってからのリリースになったことは、ニュース性よりも長期的な支援を訴える上では良かったんじゃないかと思っています。

 参加アーティストは、dublabと関係があったり、LAの音楽カルチャーに影響を受けている方々に声をかけていった結果、本当に幅広い顔ぶれになりました。昨年LAでレコーディングされてらっしゃった岡田拓郎さんもその参加アーティストのひとりです。


玉井裕規(dublab.jp)

岡田:僕がLAに行ったのは2023年の5月が初めてです。Temporal Drift の北沢洋祐さんとは繋がっていて、元々2020年にちょろっと行ってみようと予定していましたがパンデミックになってしまい、ちょうど渡航のためのPCR検査などが必要なくなったのがそのタイミングでした。アメリカに行くのもそのときが初めてで、パンデミックが落ち着いてきて、生きてる間にいろんなところ行ってみよう! みたいな気持ちで向かったので、特にレコーディングのために行ったわけでもありませんでした。
 現地に着いたら、たまたまいろんなミュージシャンに会えたり、集まれば演奏したり録音しはじめたりみたいな感じで、もう音楽の生活への根づき方にびっくりして。
 Yohei(鹿野洋平)さんのことも知っていたので連絡して自宅にお邪魔したら、ちょうどPhi-Psonicsのセスさん(Seth Ford-Young)が「近くにいるから遊びに行くよ」ってことでコントラバスを持って来てくれて。
 Yoheiさんの家は庭がスタジオなんですよ。そこでせっかくだからセッションして録音しようよって、旅の写真を撮るような感じで半日ジャムって遊んでもらいました。そのときの録音のひとつが今年リリースした「The Near End, The Dark Night, The County Line」に収録されてます。


岡田拓郎

玉井:LAでは庭にスタジオを構えることは珍しくないですよね。Yoheiさんは素晴らしい作曲家でありプロデューサー、かと思えばローディーとしてブレイク・ミルズや斉藤和義、ロバート・プラントのツアーに参加していたりと、すごくフットワーク軽く活動している人で僕も正体がつかめていないのですが(笑)、元々はレコードの再発レーベルをやりたくてアメリカに渡った人なんですよね。

岡田:僕が個人的に好きなLAのシーンに対して抱いているイメージって、レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。そういう場所って世界を見てもあまりないと思うんです。すごく実験的なことをやったとしても、最終的にはリスニング・ミュージックとして楽しめる録音物に落とし込むというか。
 エクスペリメンタルと呼ばれるような音楽も僕は好きですが、そういった音楽は例えばインディ・ロックやポップス好きにはときに厳し過ぎる側面があると言いますか。LAではそういう音楽でも、あくまでリスニング作品として楽しめるものが多いように感じます。LAのいまのシーンで活躍している人たちが持っているおおらかなムードが、そういう作品づくりを可能にするんじゃないかと思います。ああいう空気感があると、出てくる音楽は当然変わってくるだろうなと。

原:dublab.jpで放送をスタートさせた2013年当初、LAのメンバーからは「どんな放送でも必ずアーカイヴしろ」としつこく言われたんですよ。まだ慣れないなかで内容がグダグダな番組もあって、こんなの残したくないよって言ったんですけど(笑)。当時はすべてのデータをLAのサーバーに保存する決まりになっていたので、提出しないわけにはいかなくて。渋々やっていたけれど、続けていくうちにアーカイヴすることの価値の大きさがわかってきました。LAには、必ずレコーディングして残す、という習慣のようなものが根付いているように感じます。例えば、カルロス・ニーニョは即興的なセッションをやったとして、その素材を使ってあれこれ編集したものをプライベートプレスでもいいから必ずレコードとして残すんですよ。そういう、リスニングの楽しみがわかっているというか、リスナー側のことをしっかり理解している人が多いなと思いますね。
 ミュージシャンって、どうしても演奏することがゴールになってしまいがちな節があると思うんですが、LAでは演奏とレコーディングが対になっている。その大切さをよくわかっているから、優れたレコーディング・エンジニアが育つし、質の高いスタジオが維持されてるんではないでしょうか。


原雅明

コロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。(原)

そういう文化の源流になっているものは何なんでしょうか?

玉井:まずLAにはジャズやポップスなどのシーンと平行して、映画産業に紐づいた音楽産業がありますよね。

岡田:映画の(劇伴などの)仕事があることで、ミュージシャンたちがクラブ回りをする以外の食い扶持を得ることができたというのはLAらしい環境ですよね。

玉井:譜面が読めるミュージシャンが圧倒的に多いエリアとよく言われてたそうですからね。

原:仕事があるからLAにいる、ということは大いにあると思います。いまだったら、例えばNetflixから仕事をもらえるとか。コマーシャルなものとインディペンデントなもの、両方があって往来できるから、ネイト・マーセローやブレイク・ミルズみたいな人たちが大きい仕事もしながら実験的な作品も自由に作れているわけですよね。
日本でもそういう状況がもっとあればいいなと思うんですけどね。そうすれば、それこそ岡田さんみたいなアーティストがもっと活動しやすくなる。

岡田:そうですね。シカゴ時代のジム(・オルーク)さんのように、自分の作品を作りつつ、プロデュース、エンジニア業を行ったり来たりできたらなあとこの10年間やってきたところはあります。僕みたいなタイプのミュージシャンはLAにいけばいくらでもいると思いますが、日本の土壌だとまあまあ大変ですね(笑)。
 LAはコミュニティという単位で動くという意識も強いと思うので、コマーシャルなところにもクリエイティヴなまま関わることができている気がしますね。例えばプレイヤーはその現場に合わせてスタイルをいろいろ変えて合わせていくというよりは、そのプレイヤーのカラーが欲しいからその現場に呼ばれ、集まると言いますか。ジェイ・ベルローズとかメジャーな人とやっても、小さなクラブでプレイしても全然スタイルは変わらない。これって当たり前のようでいて、いざ自分の国のプロダクションの仕組みを省みるとなかなか難しいことだったりもする。これはLAに限ったことではありませんが。

原:なぜLAに音楽家が集まるのかということについては、気候が温暖で居心地がいいこともやっぱり大きいと思いますね。古くはストラヴィンスキーやマイルス・デイヴィスもキャリアの晩年はLAに移住していたりするわけですけど。ニューヨークのような場所は緊張感があってそれはそれで良いけれど、それが辛くなってきた人はLAの穏やかな環境に移っていくという動きが、近年のアメリカのジャズシーンでも現れていますよね。

岡田:LAとニューヨークで、やっぱりミュージシャンのカラーの違いは明らかにありますよね。

原:ありますね。ニューヨークはヒエラルキーがあって、ランク付けがつねにされているようなところがあります。それが収入にも直結していくような緊張感がある。それがやりがいと感じられる人もいるけれど、疲弊する人も当然いるわけです。それがコロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。スピリチュアルな方面に目覚めるミュージシャンも多かったですし。

玉井:そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。火災発生直後から、多くのアーティストたちは「GoFundMe」というクラウドファンディングのプラットフォームを使って各々が支援金を募る動きが活発だったんですけれど、いま、そういう形で資金を得ていた人々が政府からの補助金を受給しにくいという事態になっていたり、申請作業自体が非常に煩雑でそのやりとりだけで相当の時間を要するということも言われていたりするんですよ。
 そうなってくると、人材がどんどんLAから出ていってしまうんですよね。例えば、日本でもファンが多いファビアーノ・ド・ナシメントなども。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。

岡田:僕が面識のあるLAの人たちは、みんな直接火災の被害は受けていなくて家屋も無事なんですけど、灰の被害がひどすぎて結局土地を離れてしまっている人が結構いますね。Tenporal Driftのパトリック(Patrick McCarthy)さんは火災の直後、しばらくは家を離れなくてはならなかったと言っていました。

原:マッドリブの家も焼けてしまって、機材やレコード・コレクションも失われたらしいですが、ちょっと信じられない損害ですよね。

岡田:ジェフ・パーカーとよく一緒にやってるポール(Paul Bryan)も、同じくスタジオの機材が燃えてしまったと聞きました。

原:この火災が今後どういうかたちで、どれくらいの損失を出すのか、まだ全く予想がつかない。

玉井:にもかかわらず、現地でも山火事に関する報道はほとんどされなくなってしまっているらしく、支援の動きが盛り下がってしまうことが心配です。

改めて振り返る、2000年代〜2010年代のLAシーン

そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。(玉井)

原さんがLAのシーンを意識したり、関わりはじめた当初のこともお聞きしたいです。

原:LAのdublabが立ち上がるのが1999年ですが、それよりも前に、dublab創設者のフロスティ(Mark “Frosty” McNeill)とは知り合っていたんです。彼はその頃から日本のアンダーグラウンドな音楽をやたら掘っていて。そういう作品のリリースに僕が携わっていたからか、直接コンタクトしてきたんですね。Rei Harakamiを聴かせたらのめりこむようにファンになってた。dublabがスタートしてからは、すぐに竹村延和を出演させたり。

玉井:それ、99年の放送ですよね。当時聴いていました。

原:その後、コーネリアスが初めてアメリカ・ツアーをしたときにもdublabに出てましたね。
LAに初めて行ったのは2008年。当時雑誌だったTOKIONからの依頼で、世界の各都市の音楽シーンを巡る企画の一環でした。僕はLAを希望したら行かせてもらえた。良い時代ですよね(笑)。ちょうど「LOW END THEORY」がスタートした年で、J・ディラが亡くなってから2年経っていたタイミングですね。そのときに行った「LOW END THEORY」には〈Warp〉からリリースする前のフライング・ロータスが出ていました。ほかにも、ラス・Gが働いていた〈POO-BAH-RECORDS〉やdublabのスタジオに行ったり。
 そこから 2010年になると、いろいろなことが爆発的に生まれていくわけです。フライング・ロータスの『Cosmogramma』が出て、それまでも盛り上がっていたビート・ミュージック・シーンから、アリス・コルトレーンのようなスピリチュアル・ジャズの源流につながっていくものも現れて。一方で、カルロス・ニーニョはジェシー・ピーターソンと『Turn On The Sunlight』を出して、ビート・シーンとは離れた場所でアンビエントやフォークっぽいアプローチに行く。
 『Turn On The Sunlight」は僕がレコードも出したんですが、カルロスいわく「ジョン・フェイヒーとブライアン・イーノが出会ったらこんな音楽になる」って言っていて、当時はそれがよくわからなかったというか「これはどこに向かっている音楽なんだろう?」と思ったりしました(笑)。でも、そこからほどなくして、ニューエイジ・リヴァイヴァルと言われる音楽に注目が集まり、『I Am The Center: Private Issue New Age Music In America, 1950-1990』のようなコンピレーションが〈Light In The Attic〉から出るようになった。
 そして、そういう動きと並行して、カマシ・ワシントンとかオースティン・ペラルタとか、ジャズ・ミュージシャンたちも当時はビート・ミュージックのレーベルだった〈Brainfeeder〉からジャズのアルバム(2015年にカマシ・ワシントン『The Epic』がリリース)を出すということも起きはじめる。
 さっき岡田さんが言っていたような、プレイヤー的な音楽もリスナー的な音楽もすべてが混ざり合っていくような土壌は、こういう動きのなかで完成されていったように見えるんですよね。

アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。(原)

そういうクロスオーヴァーな動きを牽引するようなミュージシャンたちは、どんな現場で育成されているのでしょうか?

原:例えば、LAジャズのメッカといわれるレイマート・パークにあるThe World Stageという老舗のジャズ・クラブはワークショップもおこなうコミュニティ・スペースでもあって、カマシやテラス・マーティンなんかも演奏していた。カマシたちが台頭したことで、The World Stageが綿々と続けてきたことにスポットライトが当たるようになりました。その後も、新しいプレイヤーを輩出し続けていて、いまのLAシーンで活躍している人たちにもここで地道に演奏してきたミュージシャンがいます。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAもThe World Stageのあるサウス・セントラルという地域で生まれていて、そうしたローカルなコミュニティからジャメル・ディーンのような新しい才能が出てきていますよね。

原:The World Stageはコミュニティをサポートして、教育の場になっているイメージですね。UKのトータル・リフレッシュメント・センターにも近い感じかな。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAのメカラ・セッションというドラマーのドキュメンタリー作品をdublabのフロスティとアレ(Alejandro Cohen)がプロデューサーとして制作しているんですが、ジャズ・スピリットがどうやって継承されていくか、みたいなことが語られていて。その系譜のなかにカマシやジャメル・ディーンたちがいるんだということがわかります。

https://www.pbssocal.org/shows/artbound/episodes/the-new-west-coast-sound-an-l-a-jazz-legacy
The New West Coast Sound: An L.A. Jazz Legacy

音楽が静かになっていく、その心とは?

昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロス・ニーニョが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。(岡田)

原さんから語られた2010年代の動きがその後向かった先のひとつが、昨今のジャズとアンビエントが接近したようなサウンドということにもなるわけですね。

原:「アンビエント・ジャズ」という呼称が適切なのかはわからないのですが、アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。象徴的だったのはやはりアンドレ3000がカルロス・ニーニョたちと作った『New Blue Sun』です。ヒップホップ・アーティストがスピリチュアル・ジャズやニューエイジにアプローチしたような作品で、もうこれが決定打になった感じがします。

 こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。80年代にはLA郊外のさらに広大な土地に移って、商業的なリリースに背を向けてヴェーダ聖典を学ぶ人びとに向けて音楽活動をおこなっていた。
 フライング・ロータスや、アンドレ3000のバンドでキーボードを弾いているスーリヤ・ボトファシーナなんかは、アシュラムに出入りしていた人たちなんですよ。スーリヤはアリスの愛弟子で、アシュラムで育ったあとに名門のニュースクール大学に行ってジャズを学んでもいる。彼のようなミュージシャンも登場していて、カルロス・ニーニョと当然のようにつながっているわけです。
 『Cosmogramma』もそのきっかけのひとつだけど、アリス・コルトレーンのような音楽が再評価されて、一般的なリスナーにも聴かれるようになったことというのが、大きな流れのなかで影響を及ぼしているんじゃないかと思いますね。

岡田:クラブ・ジャズの文脈でスピリチュアル・ジャズの再評価がされた時代がありましたけれど、今日の視点は少し異なりますよね。それこそアリスの音楽はそこからも漏れてしまっていたと思いますし。

原:カルロスがビルド・アン・アーク(Build An Ark)をはじめたときはそういうクラブ・ジャズの流れで評価されていたわけだけど、それ以降のカルロスはビートを外す方向に行くわけです。おそらくですが、カルロス本人の考えとして、ビートを外さないと次にいけないと思ったんじゃないかと思うんですよね。ビルド・アン・アークはミュージシャンの集まりで、カルロスはほとんど演奏しないけどバンド・リーダー的な影響力があって、例えるならキップ・ハンラハンみたいな存在でもありました。でも、そのままプロデューサーに進むのではなく、プレイヤーとリスナーの中間みたいな居場所を見つけようと模索していたんではと思います。だから、ニューエイジやアンビエント的なものに振り切れば、いろいろなことができると思ったんじゃないかと。

玉井:カルロスが『ユリイカ』のインタヴューで語っていたことですが、「人は成熟するにつれてビート・ミュージックから離れていくものなんだ」みたいな、なかなか過激なことを言っていましたね(笑)。フィジカルに高揚するものではなくて、より自由な音楽の形を自己の内側に求めていたということなんでしょうね。

岡田:アンビエント・ジャズのようなサウンドは、まさにリスニング視点から生まれたものとも言えますよね。例えばマイルス・デイヴィスの黄金クインテットなんかは流動的に伸縮する身体性が注目される印象です。ですが、スタジオ作品においては抑制されていると言いますか、非常にプロデュース的な作品であったりもします。言わずもがな黄金クインテットのライヴは極上ですが、ここにおけるある種のプレイヤーズ・ミュージック的なセッションの部分がその後のプレイヤーや評論家に過度に注目され語られ引き継がれていった部分も少なくないように感じています。
 カルロス・ニーニョがビートを外したっていうのは、こうしたジャズにおけるこういった意味での火花が散るようなプレイヤーズ・ミュージック的なセッションへの再考と実践でもあるように感じています。そしてこれは必ずしも身体性との訣別というわけではありません。ビートこそありませんが、近年の彼の音楽の持つ身体性や自然環境のような流動性は作品を追うごとに増しています。熱を必ずしも外側に放射するのでなく、内的な熱にフォーカスすることもできる。前者が熱を帯びた会話や議論だとするなら、後者は会話もするけど、そんな大きな声も出さなくても会話ができるしそのなかにはビーチベッドでチルしてる人がいても良い感じと言いますか(笑)
 昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロスが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。大きい声を出さなくても会話ができる環境といいますか。

玉井:そういうアプローチはウェストコースト・ジャズでは昔からあるように思っていて、例えばジミー・ジュフリーがやっていたような絶妙な均衡で成り立っているアンサンブルのサウンドって、静謐で、ともすれば眠たくなるような演奏だけれど、それこそ現代のアンビエント・ジャズ的な耳で聴くとすごく良い。そういう音がジェフ・パーカーとか、いまのLAのジャズ・ミュージシャンに継承されているんじゃないかという気もしますね。

岡田:思えば、ジェフ・パーカーがETAでやっていたような(ETA IVtetの)セッションって、チコ・ハミルトンとかガボール・ザボのような、ドローンが基調にあってハーモニー的な起伏はできるだけ何も起こらない、当時のジャズ好きからしたら退屈とされてしまった音楽を思い起こさせますね。そしてこのミニマルな感覚は現代のLAジャズに通底するトーンを想起させます。

原:ジェフ・パーカーのソロ・ギター作品について「フリー・インプロヴィゼーション」ではなくて「フリー・コンポジション」とプレスリリースで説明されていた。即興演奏ではなくて、作曲しながら即興演奏しているんだと。それは言い得て妙ですよね。

岡田:これは本当に面白いですよね。カルロスがビートを外したことを踏まえて、その上で再びビートを取り入れ、複数人でお互いの演奏に耳を傾けながら即興的に組み立てていく。一見静かだけど、本当にスリリングで刺激的なサウンドだと思います。

ベーシックな文脈の上に、新たな行き先を提示する

僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で。(玉井)

みなさんがいま追っているLAのアーティストやコミュニティについてもお聞きしたいです。

玉井:僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で、ジョシュア・エイブラムスの新譜とかもかけていて、ジョシュのルーツにシカゴ音響派と呼ばれたような時代の音楽もやはりあるんだろうか、とか。

https://www.dublab.com/archive/frosty-w-josh-johnson-celsius-drop-10-10-24

岡田:トータスをはじめシカゴの音響的な音楽を聴いていたジャズマンがミニマルなジャズをやったら絶対おもしろいじゃん、とかそういうことを考えている人が当たり前にいる世界なんですよね。ゴリゴリにジャズができるけど、タウン・アンド・カントリーも吉村弘も好きみたいな人がたくさんいる。僕もそういう話だけをしていたい……(笑)。

玉井:(ジョシュの選曲のなかで)あとはダニエル・ロテムとかもかけていて。

岡田:多重録音で作ってるひとですよね。すごく良かった!

原:ダニエル・ロテムの作品を出している〈Colorfield Records〉というLAのレーベルはすごく良いですよね。アンビエント・ジャズっぽいものも出しているレーベルなんですが、例えばマーク・ジュリアナやラリー・ゴールディングスの作品も普段の作風とは異なる音響感になっていたりする。レーベルのプロデューサーがピート・ミンという人なんですが、彼は必ずアーティストとマンツーマンでスタジオに入って一緒に作品を作り上げるというスタイルらしくて。

岡田:理想的ですよね。優れたジャズ・プレイヤーにこんな演奏をしてほしい、っていうコミュニケーションをしながら作品を作っていくというのは。ジャズの人たちはみんな演奏力が高いから、言ったことをなんでも体現してくれる。

原:プロデューサーとして正しいことですよね。とりあえず一緒にスタジオ入ろう、っていうのは。

岡田:一対一の〈ECM〉みたいな。

玉井:マンフレート・アイヒャーとマンツーマンは怖いですね(笑)。

最後に、岡田さんが注目しているアーティストは誰でしょうか。

岡田:ディラン・デイというギタリストですね! 彼は本当に面白いギタリストです。日本にはサム・ウィルクスのライヴで来ていましたけど、やばい音を出す人だなと思ってステージの足元を見に行ったら、チューナーしか置いていなかった(笑)。いわゆるデレク・トラックス的な上手さもある人なんですが、マッチョな演奏ではなく、すごく抑制が効いていて。スライド(・ギター)のプレイも時にサイン波の電子音のように聴こえたり。

 プリミティヴなアメリカーナがルーツなんだと思うんですけど、サム・ウィルクスみたいな未来的な志向のあるサウンドにエフェクターなしで入り込めちゃうというのは、ちょっとショックですらありますね。Phi-Psonicsの次の作品にも参加しているらしく、自分のかたちを変えないでどんな音楽にでも入っていけるというのは、いまの時代に珍しいスタイルだと思います。
 ディラン・デイしかり、SMLなどに参加しているグレゴリー・ユールマンとか、ジャクソン・ブラウンの来日公演で観たメイソン・ストゥープスとか、すごく面白いギタリストがLAからたくさん出てきている。トラップが全盛だった2010年代というのは、多くのギタリストはギターの役割について向き合わなくてはいけない時代で、自分もそういうことを考えていた。いま一度、ギターという楽器を楽曲のなかでどう位置づけるか、どうやって新しいサウンドを見つけるかという模索を、彼らもこの10年してきたんじゃないかという気がします。それを経て2020年代に入って新しい可能性を提示しているんじゃないかと。

彼らに共通している特徴を見出すことはできますか?

岡田:いまはエフェクターでできることが拡張しているなかで、テクノロジーを使ってどんな音を出すかを模索するうちに、どんな変わった音を出すかというペダリストに陥ってしまいがちな時代だと思います。ときに鳥の鳴き真似合戦になってしまっていないか、とか(笑)。彼らはユニークな音も扱うけど、極めてギターをギター的に弾くことで勝負できる人たち。ブルース、ジャズ、カントリーというベーシックなアメリカの音楽史の流れのなかでのエレキ・ギターが、ギターについて本当によく知っていますし、現代の音楽に対してこの古典的な楽器でどうアプローチすれば、どこに向かっていけば面白いのか、について本当によく考えていると思います。そういう文脈がないと、音楽自体がどこへ向かっていけばいいかわからなくなってしまうようにも思う。文脈がないと、結局ペダリストになってしまうとも言えるし。だから彼らのことは、120%支持したいですね。

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