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「あんにー、うちらの地元はクジラ獲ってすぐ食べるからなー」
大学生のとき、和歌山から通っていた友だちがそう言っていて、妙に印象に残っている。確か「岬」だっただろうか、中上健次の小説を読んでいても鯨が出てきて、読んだときはちゃんとした知識がなくわかっていなかったのだが、どうやら紀伊半島の太地町周辺では捕鯨文化が根づいているらしい。それまで捕鯨については、親の話やTVなどで見聞きするだけで、もちろんそこに複雑な問題が絡んでいることは知っていたものの、身近な友だちが実家では鯨を獲ってすぐ食べているのに驚いた。人は、頭では複雑さを理解しているつもりでも、それを目の当たりにするとたじろいでしまう。
和歌山出身のMIKADO『Re:Born Tape』を繰り返し聴いていると──今年の国内ヒップホップで最も重要な作品のひとつだ──、“Syachi” という曲で「本当の話ここらへんじゃみんな食べる鯨」というリリックが出てきて、和歌山の友だちのことを思い出した。野暮を承知で説明すると、「Syachi=シャチ」は鯨と同様に和歌山の地に名残が深く、多くの数で群れるが一頭ずつも知能が優れた、海の中においては敵がいない存在である。その強さと賢さの象徴であるシャチを、ラッパーとしての自分(と仲間たち)に重ね合わせているのがMIKADOというわけだ。ちなみにシャチは、音を言語のように使い分け高度なコミュニケーションを展開し、母親がリーダーシップをとりながら群れを形成する。銃撃によって父親を亡くしたことで母親しかおらず、ラッパーとして言語を巧みに操りながらラップ・ゲームを勝ち抜こうとしているMIKADOは、まさしくシャチのような存在なのだ。自身の置かれた状況を、地元を象徴する文化に重ね、「いつも隣仲間たち/だけど1人ずつのシャチ/群れてるけどださいのなし」と抜群の脚韻でラップするこの曲は、7やTOFUといった才能(=仲間たち)を次々と輩出する和歌山シーンの顔・MIKADOの鋭さを凝縮したような曲である。そして「Syachi」を聴いていると、捕鯨文化を享受する一方で、獲物とされる生き物の強さやたくましさに対する畏敬の念も同時に伝わってきて、ますます文化というものの複雑さを感じ考え込んでしまう。
さて、前置きが長くなったが、本稿の主役はレマの『HEIS』だ。2023年に “Calm Down” がセレーナ・ゴメスとの共演によって全米アフロビーツ・ソングスチャート58週連続1位&ストリーミングで10億回再生を記録し、目下バーナ・ボーイ、ダヴィド、ウィズキッドのアフロビーツBIG3を〈BIG4〉へ書き換えようとしている、ナイジェリア出身のスターのセカンド・アルバムである。私とレマの出会いは “Dumebi” (2019、EP「Rema」収録)という曲で、何かでMVを観たのがきっかけだった。随所でカラフルな色使いが映えていて、音源のアートワークもアニメ調のトーンだったこともあり、なんとなくデビュー当初のリル・ヨッティみたいだと思った記憶がある。ゆえに、アフロビーツ云々というよりも、軽快なラップ・ソングとして聴いていた。その後も曲単位では聴いたり聴かなかったりを繰り返しながら、はっきりとレマのアーティスト性について認識したのは、昨年11月にロンドンのO2アリーナにておこなわれたショウ──の、ニュース記事であった。そこでは、レマのステージでの演出や振る舞いを観た観客が、悪魔崇拝主義者ではないか、あるいはイルミナティの一員ではないかなどと騒ぎ、一部で炎上しているという内容が記されていた。なるほど、そんなことになっているのかと思いライヴ映像を観てみると、確かにややサタニックなムードではある。冒頭から妖しく光る馬に乗り仮面をかぶってステージに登場した彼は、その後 “Addicted” を披露する際にはバンド・サウンドに乗りながら巨大なコウモリの上でパフォーマンスを見せていた。どこかアイアン・メイデンのステージ・セットみたいだと思い、個人的には嫌いな世界観ではないので、やはりトラヴィス・スコットやプレイボーイ・カーティのような耽美~ホラー感覚を取り入れるラッパーの存在に近い匂いをかぎ取り、現行のヒップホップに影響を受けているのだ、と解釈した。
しかし、その後レマの口から、ライヴ演出について反論が語られることになる。馬もコウモリも、彼の出身であるナイジェリア・ベニンシティの文化にルーツがあったらしい。仮面は、16世紀のベニン王国の文化的象徴であるイディア女王にインスパイアされたもので、しかも女王の有名な彫刻を含むアフリカの芸術作品をイギリスが買い占め続けていることに対する異議申し立てでもあったようだ。ローカル性がメインストリームの文脈に持ち込まれることの怖さが露呈した出来事だった。それに、レマを聴いてライヴ映像まで観たにもかかわらず、単なるアメリカのヒップホップの文脈になぞらえて解釈するしかなかった自分の安易さを恥じた。
という事件が起きてからのアルバムということもあり、『HEIS』は、レマの怒りと反骨精神が詰まったハイカロリーでこってりした作品になっている。オルタナティヴR&Bの優雅さと感傷すらも垣間見えた前作『Rave & Roses』と比較し、今作はとにかく燃えたぎっていて暑苦しい。トラップやダンスホール、エレクトロニック・ミュージックとアフロビーツ、さらにはアラブやインド音楽のようなメロディまでもが混在した音楽性を彼は「アフロレイヴ」と呼ぶが、そういった雑多なサウンドの融合を実現しているのは、ヴォーカルの力が大きいのではないか。不気味さと野性味を両立したバリトン・ヴォイスはさらに磨きがかかっており、背景に流れる様々な歴史的文脈を包括するような雄大さも備えている。しかも、そこでは英語はほとんど使われず、母国語が貫かれている。“Benin Boys” では同じくナイジェリアのスターであるシャリポピと共演し、ベニン文化を賞賛する。さらにサウンドを磨き上げている助っ人は、Producer XにLondonなど、これまでもレマ作品を担ってきたナイジェリア人、あるいはナイジェリア系イギリス人のプロデューサーたち。ルーツをかなり意識して作り上げたアルバムということがわかるだろう。
ただ、軸足は故郷の文化に根ざしているものの、やはりレマの射程とする領域は途方もなく広範に渡っているのも確かだ。“VILLAIN” ではラナ・デル・レイの “A&W” をギミック的にサンプリングし甘美で退廃的なアメリカを引用しながら、目の前の金と女性の話に終始する。“OZEBA” ではがなり立て不安感を煽るプレイボーイ・カーティのような低音ヴォイスをぶん回しながら、性急なクドゥロのビートを乗りこなす。全編に渡って下部を支えるのはアフリカの地/血を感じさせるパーカッシヴなドラムであり、ヴォーカル表現や表層的な味付けにおいては頻繁にアメリカの断片が配される。ルーツを起点にしながらもジャンプする跳躍力こそが、本作におけるレマの独自性だろう。そして、そのジャンプの過程においては、つねにヒリヒリした殺気が発されている。
もともと教会でゴスペルを歌い、ラップにも関心を持った彼は、14歳の頃には子どもたちにラップを教えるリーダーとして地域で人気を得たそうだ。その後ドレイクの影響を受け、自身の作る曲に歌を取り入れていったという。レマの『HEIS』は、そういった彼の音楽的背景が如実に表れていると同時に、ローカル・カルチャーとアメリカのポップ・ミュージックのミックス、それが世界規模での認知を獲得する中で生じる摩擦がありありと表現されている。これこそがリアルであり、いまのポップ・ミュージックが抱える複雑さそのものなのだ。
そして私は『HEIS』を聴く度に、「あんにー、うちらの地元はクジラ獲ってすぐ食べるからなー」というあの方言を、「あんにー(=あのね)」というぶっきらぼうに放り出されたような一言を、思い出している。MIKADOを聴き、その耳でレマも聴く。どこかで、それらはゆるやかにつながっている。