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この記事を書くにあたって、釈迦坊主について調べていて驚いてしまった。作品のレヴューらしいレヴューが存在せず、表向きにはほとんど語られていない状況になっているのだ。SNSやYouTubeのコメント欄を見てみても、語りの多くはネタ化されたものばかりで、釈迦坊主という人物は、どこか口承でしかニュアンスが伝えられない奇妙な存在になってしまっている。確かに、彼のリリックやサウンドは意味にも物語にも回収できない断片の集積に近いし、それゆえ、言葉で語ろうとするとかえってその音楽が持つ輪郭がこぼれ落ちてしまう気もする。語りにくいというより、語ろうとすればするほど、感覚がするりと逃げていくようなタイプなのだと思う。とはいえ、「アンダーグラウンドの神」などという安易な枠に押し込んで長らくすませておくのもいかがなものか──だからこそ無粋を承知で、彼の打ち立ててきた偉業を振り返りつつ、およそ7年ぶりとなる(!)アルバム『CHAOS』について書き残しておきたい。
まず結論から言うと、釈迦坊主のすごさとは「先駆性」である。だからこそ、それは「いま」語られなければならない。彼が切り拓いてきた感性や手法はいまや多くのアーティストが当然のように身につけており、それが当たり前ではなかった時代に、先んじて形にしていたのが彼だったからだ。
筆頭に挙げられるのは、精神世界とサブカルチャーを結びつけるような美学の展開だろう。アルバム『HEISEI』(2018年)などで表現されていたアンダーグラウンドとスピリチュアルを橋渡しするようなアプローチは、「病み」「闇」「天使」「瞑想」「死生観」といった形に変容したうえで、2020年代のオルタナティヴ・ヒップホップにおいてもはや前提の共有テーマとなっている。しかも彼の場合、自らトラックメイキングを手がけてきたという点も重要だ。それもいまとなっては特段珍しいことではないが、釈迦坊主は早熟なトラックメイカー兼ラッパーとして、クラウド・ラップ~トラップ~アンビエントを横断しながら、自身の感性をオカルト的宗教性へと結びつけてきた。当時としては先駆的であり、クラウド・ラップ~トラップ〜アンビエントを横断するビートに詩的で断片的なリリック、エフェクトのかかった声が重なり、トラックとラップの分業制では生まれえない美学先行のアウトプットを実現していた。あのとき異端とされていたものが、いまでは感覚的なスタンダードになっているというわけだ。
さらに画期的なのは、そういった感覚を場所性と接続させてきた点である。元ホストという出自の延長線上として作品を新宿・歌舞伎町と重ね合わせ、青年と都市の境界線的なまどろみを表現してきたことはもちろん、彼の自主企画〈TOKIO SHAMAN〉が果たしてきた功績も語り尽くせない。初期の頃、Tohjiらとともに作り上げていたあの空間は、個人という枠を超えたある種の思想・集合体としての文化的磁場だった。言うまでもなく、前者はトー横キッズ的トライブの感性へ、後者は多様なオルタナティヴ・パーティ文化へと、それぞれ形式を膨らませている。
こうした彼の先駆的試みは、「神秘性の再発見」とも言うべき現在の動きと地続きだ。宗教的な信仰というよりは、魂や霊、宇宙、死後といった目に見えないものへの畏れ・憧れ、自分という存在の輪郭が溶けていくような体験、またはそれを求める欲望──によって、自己を定義していくこと。それは、「私とはまだわからない存在」であり「何かとつながっていて変化しうる存在」であるという、未定義性の肯定である。そういった2010年後半を起点とした潮流が、いま実を結びはじめているのはとても興味深い。先日のTohjiのアリーナ単独公演の成功はその物理的・動員的な到達点だと言えるし、今回の釈迦坊主のアルバム・リリースは、預言者としての帰還とも言えるだろう。
そう考えると、アルバム・タイトルが『CHAOS』であり、音楽性も混沌としているのは、「未定義性の肯定」が釈迦坊主流に爆発した結果だと言える。ダンス・ミュージックの要素が強まったものの、躍れる曲がほとんどないというのも重要だ。ただただドラッギーに鳴る、彼の内的宇宙がそのまま詰まったようなサウンドは、現行シーンを騒がせているエレクトロの再燃やハイパーポップ的BPM感とは明らかに異なるアンサーとして、オーディエンスを「躍らせる」というよりも「溶かす」役割を果たしているように見える。捻じれたダンス・ミュージックを密度低い音数で表現することによって80sニューウェーヴの香りも漂っているし、エロ・グロ・ナンセンスのなかに突如ふと「愛」や「祈り」といった言葉が挿入される歌詞も含めて、どこか90s後半のBUCK-TICKらヴィジュアル系バンドのルーツも感じられる。どの曲も冗談とマジが次から次に押し寄せる展開の中で、ふと優し気な歌を聴かせる “Metropolis” などは、不意打ちの感動だ。解釈よりも没入が先立ち、意味と無意味を交互に織り成すことによって「この世」と「あの世」を行き来する、まさしくそれが本作の醍醐味。釈迦坊主が提案するのは「踊ろう」というアクションではなく、「踊るとはどういうことか?」「ダンス・ミュージックとは肉体的なものなのか、精神的なものなのか?」「そもそも私は何者なのか?」といった問いかけなのかもしれない。
ゆえに、2025年の派手なビートの喧騒のなかにおいて、『CHAOS』は静かな中毒性を持つ作品であると言えよう。ここには、わかりやすいフックや爆発的な展開はない。音のアタックや音圧よりも余白が際立ち、空間と残響で構築されている。ラップはあくまでトラックと一体化していて、ヴォーカルが主役という構造にはなっていない。釈迦坊主というアーティストは、やはりラッパーである前にトラックメイカーなのだと改めて思うし、「曲」というよりも、「状態」としてデカダンスな音が存在している。そう考えると、音像の演出美学にも、やはり一部のアヴァンギャルドなヴィジュアル系の影響を感じ取ってしまう。本作は一見するとヒップホップの形式を取っているが、その深層にはニューウェーヴ寄りのヴィジュアル系が持っていた幻想性と退廃美が脈打っているのだ。ポスト・ヴィジュアル系を体現する(sic)boyとの共作 “Agares” は、その象徴のような楽曲だろう。
つまり『CHAOS』は、2020年代のオルタナティヴ・ヒップホップが持つ神秘性の再発見という動きを回収しながら、未定義性の肯定をさらに突き詰め、釈迦坊主自身のルーツのひとつであるヴィジュアル系にまで遡行する作品として聴くことができる。この国の30年にわたるサブカルチャーを見通すような視座こそ、彼が「アンダーグラウンドの神」と呼ばれる内実なのだ。
つやちゃん