Home > Reviews > Album Reviews > Dave Liebman, Billy Hart, Adam Rudolph- Beingness

「ジャズ、聴きたいんだけどどこから入ったらいいか分からないんだよね」という相談をよくもちかけられる。毎回答えに窮するが最近はこう返す。「とりあえず、マイルス・デイヴィスのアルバムを一通り聴いてみたら? ジャズの歴史が大体わかるから」と。一通りって一体何枚アルバムを出しているんだって話だし、それ人にとっては苦行でしょっていうツッコミが入りそうだ。でも、ジャズの歴史を大掴みするには有効な方法だと思う。マイルスはカメレオンのように変わり続けた音楽家だからだ。
聴く枚数を少なめに見積もってみると、こんなルートになるだろうか。『クールの誕生』(クール・ジャズ)➝『ディグ』(ビバップ)➝『クッキン』(ハード・バップ)➝『マイルス・アヘッド』(ジャズ+スモール・オーケストラ)➝『カインド・オブ・ブルー』(モード・ジャズ)➝『イン・ア・サイレント・ウェイ』(フュージョンの開祖/アンビエントの萌芽)➝『オン・ザ・コーナー』(エレクトリック・ジャズ/ファンクやロックとの融合)➝『ドゥー・バップ』(ヒップホップ)。
思いっきり図式を簡略化したし、個々の音楽性や順序については異論もあろう。また、筆者が最も愛聴する『ネフェルティティ』なんかは割愛している。あまりにも特異なアルバムで括弧内にひとことでは説明を入れられないし、その革新性と画期性を説明するのにかなりの紙幅が必要だからだ。
前置きが長くなったが、『オン・ザ・コーナー』(72年)におけるデイヴ・リーブマンというサックス/フルート奏者のプレイが好きだ。混沌と猥雑の中から立ち昇ってくるサックスは音数こそ少ないものの、確かなプレゼンスを示し、この畢生の名盤に大きな爪痕を残している。『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(74年)では、抽象的なリズムのうえでジョン・コルトレーンの衣鉢を継いだ雄弁な“シーツ・オブ・サウンド”を展開。その卓越したフルート・ソロは狂気すら感じさせる。
そんなリーブマンは自己のグループを経てリッチー・バイラークと度々共演してゆくのだが、どうもマイルス・スクールの頃と較べると影が薄い。いや、影が薄いと評価されがちである。保守化してゆく、なんて書かれているのも目にした。だが、野田努にレコメンドされた『Beingness』を聴き、さらに、90年代以降のアルバムを訊き直してみて、認識を新たにした。彼は彼なりに時代に適応するサウンドを模索し、アップグレードを繰り返してきているのだと得心したのである。
『Beingness』でそのリーブマンと組んだのは、ビリー・ハートとアダム・ルドフ。いずれも打楽器奏者で、ビリーは通常のドラム・セットを、アダムはコンガやジャンベやタリジャ、親指ピアノやゴング、更にはピアノやエレクトロニクスも使用する。ビリーはリーブマンと同じく『オン・ザ・コーナー』でマイルスに抜擢されたドラマーだが、正直、同作での彼は精彩を欠いている。理由は単純。マイルスが理想としたドラマー、ジャック・ディジョネットのパワフルなプレイの影に隠れ、存在感が希薄になってしまったからだろう。
だが、リーブマンもビリーも、本作では実に活き活きとしている。マイルスのような専制君主に怯えることなく、実にのびのびと自らの必殺技を繰り出しているのだ。リーブマンはやはり音数こそ少ないが、そのぶんいち音いち音の濃度が著しく高い。ここにはこの音しかない、という確信をもって鳴らされているからだろう。絶妙なタイミングで吹き切ることで、フリー・ジャズに寄りがちな場面でも、アンサンブルに緊迫感を与え、全体の引き締め役を担っている。
ビリーとアダムはふたりでひと組という印象を受ける。いくつものレイヤーが折り重なるような重層的なビートは、複数の拍子が同時進行するポリリズムやクロスリズムを含み、アルバムに奥行きと厚みをもたらしている。アフリカ起源の土着的でプリミティヴなビートは本作の基層を成していると言っていい。
リーブマンもビリーもエレクトリック・マイルスの呪縛に悩まされた時期があったのではないだろうか。マイルスとの共演はプレッシャーも相当なものだっただろう。時代の節目に位置するアルバムへの参加で時に低評価をくだされたことにより、自信喪失したとしても不思議ではない。
だが、ふたりはその後も着実に歩を進めてきた。本作はその最良の成果である。尖鋭的なフリー・ジャズとトライバルなグルーヴと多楽器主義が混然一体となったサウンドは、なかなか類を見ないものだ。敗者復活といったら言い過ぎだろうが、成熟したリーブマンとハートの姿が浮かび上がる力作である。
土佐有明