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大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論

大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論

細田成嗣 Aug 22,2018 UP

AMM を特徴づける要素

 これまで「コーネリアス・カーデュー在籍時代」「第一次分裂時代」「ジョン・ティルバリーの参加」「『音響的即興』との共振」「第二次分裂時代」と、おおよそ年代ごとに五つに区切ることで AMM の足跡を辿り直してきた。それぞれの時代には異なる特徴があるものの、ほぼすべてに一貫している「決まりごと」もある。それは他でもない、AMM のパフォーマンスは決して計画されることがなく、リハーサルもしなければライヴの後にその日の演奏について議論することもなかったということだ。つまりその時その場にしか起こり得ない完全即興を貫いてきたわけだが、同時代の多くの自由即興演奏と比したとき、AMM のアプローチは非常に独創的でもあり、それはしばしば次のような言葉によって語られてきた。

 AMMがきわめてユニークなのは、彼らが目指しているのが、音を、そしてそれに付随する反応を探求することであり、音を考え出し、用意し、つくり出すことではないからだ。つまり、音を媒介として探求を行なうことであり、実験の中心にいるのはミュージシャン自身なのだ。(*20

 明晰かつ当を得た指摘である。だが実はこの文章はコーネリアス・カーデューによる1971年の論考「即興演奏の倫理に向かって」(*21)の一節が元になっており、自らがメンバーとして活動していたカーデューだからこそ言い得た表現だったのだろう。いずれにしても AMM は音をあらかじめ用意するのではなく、むしろその時その場に発生した音を通して探求をおこない、ミュージシャンはそうした出来事の只中にその身を置いていた。それはまずは楽器を非器楽的に使用することからはじめられた。非規則的であったとしてもリズムを形成するフリー・ジャズ的なドラムスとは明らかに異なるプレヴォーの演奏や、ギターを卓上に寝かせた「テーブルトップ・ギター」によってボウイング奏法やさまざまな音具を駆使してギターを音響生成装置として扱うロウの演奏。こうしたことは SME やデレク・ベイリーがあくまでも器楽的演奏によって即興的自由を模索していたこととは好対照をなすだろう(*22)。音楽批評家の福島恵一が慧眼にも指摘したように、「AMMは、フリー・ジャズ演奏における主要な構成原理である対話(コール&レスポンス)に頼ることなく、サウンドの次元での複合的/重層的な重ね合わせのみを構成原理としている」(*23)のである。それは必然的に「非正統的な音響の探求に没頭」(*24)することになり、「圧縮されたミクロなポリフォニーを聴き取ろうと耳を澄まし、対話もなく、リズムの構造もなく、演奏の全てをサウンドの次元へと送り返し、空間へと捧げた」(*25)音楽になる。つまり音は何かを伝達するための道具ではなく、むしろ音それ自体が AMM の音楽を構成しているのであり、演奏家は発することより聴くことを、そして時間を構成することよりも音の行き交う空間を意識することが要求される。こうした「聴くこと」と「空間性」から生まれるサウンドの層状の自由即興が旧来の音楽の三要素とは別の原理に従っていることについては、ロベールも「ミュージシャン間の全面的な相互作用と『拡張的実践』にもとづいた複数の層の重なりによって、複雑な音の絡まりはアクシデントさえも組み込み、その音楽は電子音響に近い抽象性を帯びながら、メロディや、ハーモニーや、リズムの概念は忘れ去られてしまう」(*26)と書きあらわしている。

 またこのようにジャンルはもちろんのこと音においても正統性を索めることのない活動は、とりわけコーネリアス・カーデューにとって「いかにして対等な関係性を取り結ぶか」というテーマ、すなわち音楽における社会的/政治的な課題へと流れ着いていった。AMM 加入時期に並行して「Treatise」を完成させたカーデューが、脱退後は非音楽家による演奏集団スクラッチ・オーケストラを創設し、音楽の民主的な参加の可能性を探ることを中心的なテーマに据えるようになったことにも、AMM での経験が大きな影響をもたらしていたことは疑いないだろう。音楽批評家/大正琴奏者の竹田賢一が述べるように AMM はカーデューに対して「音楽と社会の関係に眼を開かせることにな」(*27)ったのである。いわば「社会的作業としての音楽の制作」(*28)であり、単なる楽しみや美しさに還元し難いアンサンブルのプロセスには「一人一人の、そしてメンバー全体を規定する文化の歴史的段階が透視され、各々の精神界も含めた生活が反応される」(*29)ことになる。カーデュー自身も「私が以前には見付けられずに、AMMの中に発見したものの一番よい見本は、ちょうど、私がそこへ行き、演奏することができる、それも、まさしく欲しているものが演奏できる、ということ」(*30)だと述べていたが、それは AMM が参加メンバーに等しく自由をもたらすような音楽の開かれたありようを体現していたことを物語っている。

 他方ではカーデューの参加はジャズを出自に持つ他のメンバーにとっても大いなる刺激をもたらした。振り返ってみるならば、カーデューだけでなく、クリスチャン・ウォルフ、クリストファー・ホッブス、ロハン・デ・サラム、そしてジョン・ティルバリー等々、AMM には現代音楽を出自に持つミュージシャンが作曲家ではなく演奏家としてつねに参加していた。それはグループが複数の視点を保つための方策だったとも言えるが、キース・ロウ自身が「AMMにおいて重要なことの一つは現代音楽の演奏家を引き入れたことだった」(*31)と述べているこうした重要性は、具体的な音としても、現代音楽の演奏家が不在だった「第一次分裂時代」の時期に収録された音源が、AMM らしからぬ音楽を奏でていたことからも逆照射できるだろう。

 こうしたなか、現代音楽との差異として注目に値するのが AMM に特徴的な要素の一つであるラジオの音声の使用である。正体不明の音響の層が重なり合う AMM の音楽のなかでふと訪れる、ニュースのナレーションやポップスからクラシック音楽までの具体的で意味が認識できる響き。それは不確定性をもたらす要素というよりもグループの外部にある音の具象性をもたらす手段だった。「実験音楽における初期のラジオの使用が、音楽のコンテンツの並置(……)によって新奇だったのに対して、AMMの音楽におけるラジオは、どうしようもなくわけのわからないグループが演奏する音のレパートリーに対して、認識可能な音響を提示するという意味がある」(*32)とグラブスが述べるように、AMM の音楽においてはラジオの使用それ自体に意味があるというよりも、むしろラジオのサウンドそのものが明確な役割を果たしていた。それは非正統的な音響の重なり合いにおいて、その非正統性を照らし出すことに貢献する。グラブスはラジオが参照する世界を「日常」と捉えているが、そこでポップスやクラシック音楽が流されるとき、それらは「ノイズ」を排除してきた「楽音」であり「音」を体系化してきた「音楽」であり、そうした正統性が AMM の世界ではむしろ「ノイズ」でありアンサンブルの彼岸にある「音」であるといったふうに逆転しているところに、その役割の過激さがあると言うことができるだろう。

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