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大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論

大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論

細田成嗣 Aug 22,2018 UP

黙殺された歴史

 「極北実験音楽の巣窟」を掲げ、一般的なメディアでは取り上げられることの少ないコアな音楽を数多く取り扱っているレコード・ショップ「オメガポイント」の新譜紹介コメントに、英国の即興集団 AMM がいま現在置かれている状況が端的に示されているように思う。まずはその文言を引用しよう。

説明の必要もない英国実験音楽の象徴だが、10年くらい前にピアノのティルバリーが抜けて、残りの二人だけでAMMを名乗っていた。それがいつの間にか三人に復活!(*1

 紹介文として適切だから引用したのではない。むしろここに書かれていることには致命的な誤謬が含まれている。およそ10年前に AMM を脱退したのはジョン・ティルバリーではなくギタリストのキース・ロウだ。さらに言えばティルバリーはそもそも AMM に途中から加入したメンバーであるし、結成から50周年という記念すべき節目に三人が集った極めてモニュメンタルな出来事を「いつの間にか三人に復活」とするのも正確ではない。だが何もこうした不正確さを論うために引用したのでもない。なぜこのような紹介文を引用したのかと言えば、これは AMM がすでに50年以上もの活動歴を誇りながらもいまだに無理解に晒されているということの一つの例証であり、そしてそうであるにもかかわらず、いや「英国実験音楽の象徴」と見做され得る巨大な存在であるがゆえに、「説明の必要もない」とされて正確な記述に至らないということ、こうしたことが現在の AMM がどのように受容されているのかを端的に示していると思ったからだ。たとえ多くの誤解と表層的な理解に晒されているのだとしても、すでに確立された評価があると思われていて、当たり前の存在であるがゆえに、あらためて振り返る必要はないとされてしまう。その結果半ば必然的にこうした紹介文が登場する。だがそうであればこそむしろ AMM を「説明」することは不要どころか急務であるはずだ。

 とはいえもちろん AMM 50年の歴史をすべて詳らかにすることは容易ではない。そこでまずはその成立過程をあらためて確認するところからはじめたい(*2)。主に1940年前後に生まれたメンバーによって構成されているAMMは、もともとハード・バップのグループで活動していたサックス奏者のルー・ゲアとドラマーのエディ・プレヴォー、それにゲアとともにマイク・ウェストブルックのジャズ・バンドに参加していたギタリストのキース・ロウが、1965年にロンドンの国立美術大学である「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」で週末にセッションをおこなっていたことからはじまった。この時点では彼らにグループ名は無かったものの、ほどなくしてウェストブルックのもとでベーシストとして活動していたローレンス・シーフと現代音楽の世界ですでに知られた存在だった作曲家/ピアニストのコーネリアス・カーデューが加入し、翌66年には AMM と名乗って活動をおこなうようになる。AMM というグループ名はラテン語の「Audacis Music Magistri (Audacious Music Masters)」すなわち「大胆不敵な音楽の熟達者たち」の略称だとされているものの、たとえば同時期に発足した自由即興集団のムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ(MEV)やスポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)が、略称よりもむしろ活動の方向性を体現する本来の名称で知られているのとは異なって、彼らはもっぱら AMM という三文字で知られている。グループ名については2001年のインタビューでキース・ロウが「AMMの成立過程は非常に複雑だった」のであり「何を略したのかは秘密」だと語っているように(*3)、たとえ本来の名称があったとしてもその意味に還元することはできないのだろう。かつて音楽批評家の間章はAMMを「冒険的音楽運動」(*4)の略称だとしたものの、これは「Adventurous Music Movement」をあてがって翻訳したのではないだろうか 。

 ちなみに1966年には米国に留学していたエヴァン・パーカーが英国ロンドンへと移住し、そのころニュー・ジャズ揺籃の地として賑わいをみせていた「リトル・シアター・クラブ」に通い詰めていた。同スペースにはのちにパーカーと共闘関係を結ぶことになるデレク・ベイリーや SME を先導するジョン・スティーヴンスらも頻繁に出演しており、もしも AMM のメンバーがここで盛んに交流をしていたら英国即興音楽史はまったく異なる様相を呈していたかもしれない。だが彼らはパーカーとは接近するもののベイリーやスティーヴンスとはほとんど関わることがなかった。接点だけでいえば AMM はピンク・フロイドやクリームと同じギグに参加しているほかポール・マッカートニーとも関わるなど広範に及ぶものの、英国の自由即興という文脈で同列に語られることの多い SME やその周辺の人脈と深い交流がなかったことは意外にも思える。後年ベイリーは AMM について「よく知らないな」(*5)と述べており、ロウも「私がデレクに対してそうであるように、彼はAMMについて無知なのかもしれない」(*6)と語っている。だが彼らが関わらなかったことは不幸というよりも、むしろ言語に喩えられた音楽の語法から離れようとするベイリーらの即興アプローチと、言語化以前の音響それ自体をやりとりする AMM の即興アプローチの、それぞれに特徴をなす明確な差異を形成することに役立ったに違いない。

 またカールハインツ・シュトックハウゼンのもとで研鑽を積み、その後ジョン・ケージやデイヴィッド・チュードアなどアメリカ実験音楽の成果を独自に継承し発展させることで、当時すでに現代音楽方面で名を馳せていたカーデューの名声にあやかったのか、AMM は不本意にもメディアによって初期のいくつかのパフォーマンスが「コーネリアス・カーデュー・クインテット」として宣伝されていた。67年にリリースされたファースト・アルバム『AMMmusic』も「ザ・コーネリアス・カーデュー・アンサンブル」(『Musical Times』)や「ザ・コーネリアス・カーデュー・クインテット」(『Jazz Journal』)などのクレジットで記事にされていたという(*7)。そのためかのちに「AMMはコーネリアス・カーデューが率いるグループである」という誤った認識が蔓延していくことになった。だがこれはまったくの誤解である。先のインタビューで「多くの人々はカーデューがAMMの創設メンバーだと勘違いしています」と言われたロウは、即座に「それは違う、むしろ私がカーデューをAMMに招き入れたんだ」と応えている(*8)。

 AMM の活動について多くのページを費やしたデイヴィッド・グラブスの名著『レコードは風景をだいなしにする』でさえ、「AMMは、作曲家コーネリアス・カーデューを中心に、彼と長年演奏や仕事を一緒にしてきた若手のミュージシャンやアーティスト志望の学生から成るグループであった」(*9)といったふうにこの誤った認識が共有されている(ただし後のページでは「プレヴォー、ロウ、ルー・ゲアが1965年の創設メンバーであったが、すぐにローレンス・シーフ、そして次にカーデューが加わった」(*10)と正しい記述もなされているものの)。だがグラブスだけならまだしも、それがそのままなんの引っかかりもなく翻訳され流通しているのは、はっきり言ってわたしたちの AMM に対する理解の低さを示している。それは単に AMM に対して無知であるということにとどまらず、より広い視野で眺めてみるならば、こと日本語の実験音楽と即興音楽をめぐる言説において、わたしたちがあまりにも長い間、ジョン・ケージとデレク・ベイリーというたった二人の思想を中心に置いてきたのではないかという懸念を彷彿させる。この二人を取り巻く言説の多さ、そしてそれに比したときの AMM に関する言説の圧倒的な少なさ。

 無論これから述べるように AMM に語るべき魅力や思想がなかったというわけではない。それは端的にケージとベイリーという二人に著作があり、そしてそれが手に届くようになっていたということによるのではないだろうか。AMM をめぐる言説自体が無かったわけでもないからだ。アルバムにはしばしば長文のライナーノーツが付されていたし、プレヴォーには AMM の活動を詳らかに綴った『No Sound is Innocent』をはじめ複数の著作もある。こうした文章がほとんど読まれていないことは音楽の歴史を少なからず貧しくしてきたことだろう。さらに言えばそれは AMM に限らず、たとえばアンソニー・ブラクストンの『Tri-Axium Writings』が届いていたら黒人音楽の捉え方も偶然性や不確定性の意味合いも変わっていただろうし、たとえばアルヴィン・ルシエのインタビューとスコアに加えてルシエ自身のテキストも収録された『Reflections』が届いていたら「音響派」の受容のされ方も変わっていたかもしれない。言うまでもなく歴史は単線的に進むものではない。あるいはそのように単純化されたものが歴史であるのだとするならば、わたしたちが即興音楽の系譜を歴史の外側であらためて考え直すためにも、AMM に対する理解を少しでも深めることは有意義であるはずだ。歴史に残らなかった音楽があるのではなく、特定の音楽を残さない歴史があるだけだということは、なんにせよ心に留めておかなければならない。

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