「Noton」と一致するもの

天国でまた会おう - ele-king

 昨年11月からフランス全土で巻き起こったジレ・ジョーヌは過剰な「警察の暴力」が問題視され始めたけれど、抗議運動が始まってちょうど1ヶ月が経った頃、取り締まる側の警察がエリゼ宮にデモを行おうとして同じ警察組織に行く手を阻まれ、シャンゼリゼに座り込むということも起きていた。中心となったのは「怒る警官たちの運動(MPC)」で、デモに参加していた警察のひとりが「我々はマクロンを守っているのではない、共和国を守っているのだ」とコメントしたことが僕の心には強く残っている。予算を削減された警察はプロテクターやヘルメットの数が足りず、自腹で身の安全を守らなければ危険だと感じるほどジレ・ジョーヌの抗議行動が激しさを増していたということでもあり(フランス全土で監視カメラの6割が壊されたという)、彼らの帰属意識がどこにあるのかということがはっきりと伝わってくる声明でもあった。それは政府や権力ではなく、国家はどうあるべきかという理念に属するのである(この春に行われる天皇の退位が2•26事件とオーヴァーラップしてしまうのは僕だけ?)。警官が理念を語れるということは、しかし、ものすごいことではないだろうか。そして、アルベール・デュポンテル監督『天国でまた会おう』を観ながら、僕はこの警官たちの言葉を思い出してしょうがなかった。物語は警察の取り調べ室から始まる。場所はモロッコ。彼の供述はそして、勢いよく犬が砂漠を走っていく場面へと飛ぶ。

『その女アレックス』(文春文庫)が日本でもベストセラーになったピエール・ルメートルが初めてミステリー以外の小説を書き、あっという間にゴンクール賞を獲得した同名の長編小説が原作。悪趣味が複雑骨折を起こしたような『その女アレックス』とはだいぶ異なったイメージながら正義を行う主体が屈折した社会的位置にいるという設定は共通で、脚本にはルメートル自身も参加。同作の重みをリアリズムではなく、『アメリ』や『ムード・インディゴ』といったトリッキーな演出でまとめたところもフランス映画の強みを増したといえる。事件は第1次世界大戦終結の直前に起きる。やっと戦争が終わると思った兵士たちをブラデル中尉(ロラン・ラフィット)はムダな突撃に向かわせ、監督自らが演じるマイヤールを砲撃から救おうとしたエドゥアールが顔の下半分を失ってしまう(演じるのは『BPM』で鮮烈な印象を残したばかりのナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)。戦地から戻った帰還兵たちには居場所がなく、マイヤールとエドゥアールは孤児のルイーズを加えて慎ましやかな共同生活を始める。言葉を話せなくなったエドゥアールの考えていることはルイーズだけにはわかる。そして、ルイーズはエドゥアールが壮大な詐欺の計画を考えているとマイヤールに告げる。エドゥアールには類まれなる画才があり、彼の絵の才能を利用してありもしない戦没者の記念碑を売りつけようというのである。

 戦後のドイツ政府がゲーテの家を復興しようとしたことはある種の現実逃避だったとされている。それはナチスに加担したり見て見ぬ振りをしていた人たちが現実から目を逸らすための方便だったとドイツ哲学の三島憲一も指摘していた。マイヤールとエドゥアールからしてみれば、自分たちのことを受け入れなかった戦後のフランス社会が自分たちの存在から目を逸らすためにモニュメントを必要としていたことになる。彼らはそれこそどこに帰属意識を探せばいいのかわからない状態に置かれたのである。年末に保坂和志と久しぶりに食事をして、その時もなぜだったか帰属意識の話になった。あれこれ聞いているうちに、少なくとも保坂は「軍隊は嫌いだけど戦友は大事だ」という意味のことを話していた。マイヤールとエドゥアールの結びつきもまさにそれで、戦争にもしもいいことがあるとしたら戦時下の友情が尋常ならざる強固なものになることだろう。水木しげるもそれがなければ『総員玉砕せよ!』のような作品を残すことはなかったし、『少年H』のような回想も残らなかったことだろう。その結びつきがホモ・ソーシャルなものとして悪い方向へ向かうことがないようルイーズやポリーヌといった「おんなこども」の要素をうまく噛み合わせていることもこの作品の巧みなところである。それこそフランス的というべきかもしれない。とくにマイヤールが黄色いスーツを着込んでポリーヌをデートに誘うシーンは楽しいエピソードであり、彼らはいわゆる詐欺師グループであるにもかかわらず、権力に虐げられている人は誰なのかということを同時に分からせていく組み立てもよくできている。図式的といえばあまりに図式的な構成なのだけれど、それを凌駕するアイディアやウィットに満ちていて、並行して進むもうひとつのストーリーに様々な角度から食い込んでいく妙味もある。マイヤールとエドゥアールが金をだまし取ろうとしている相手は実はエドゥアールの父親で、戦争を遂行した権力の重要人物でもある。そのような人物がどうして息子を戦地に送り出したのかという疑問は残ったけれど、結果的に父と子は戦争というハプニングを挟んで向かい合い、お互いの存在意義や関係性を再確認することになる(父親のモデルはヴォクトル・ユゴー)。ありきたりな表現で申し訳ないけれど、ラスト・シーンはかなりびっくりだった。いまだに「え、なんで?」という感触が脳のどこかには残っている。

 トリッキーな演出である以上、美術が大袈裟で過剰なのは当たり前。なかでも顔の下半分を失ったエドゥアールがつける仮面の造作は当時の美術傾向であるキュービスムがそのまま反映され、題材もバスター・キートンからジャン・コクトーと、それだけで見事な一幕劇をなしている。自分の顔を失ったことでたくさんの顔を持つことができたと解釈するならば、エドゥアールはドゥルーズ=ガタリが言う「顔の解体」を経て主体性というブラックホールから脱出したということになる。かつてベトナム帰還兵がエドワード『シザーハンズ』として再生し、朝鮮戦争からの帰還兵だったディック・ホワイトマンがドン・ドレイパーになりおおせた『マッドメン』のように。戦地から戻ってきたのは本当は誰だったのか。失ったのは顔の半分というのが哲学的には少しややこしいところだけれど、なんとかして『犬神家の一族』のスケキヨに観せたい作品である。

(予告編動画)
映画『天国でまた会おう』予告編

 昨年12月、水道事業を民営化する伏線として改正水道法が成立した。いくつかのニュースサイトを見ると、大阪で地震が発生し、21万人以上が水道の被害を受けたことを理由に(というか逆手にとって)、「水道管の老朽化」問題を振りかざし、自・公、日本維新の会、希望の党など大多数の賛成によって可決されたという。ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で解き明かした、災害便乗型の新自由主義をぼくたちは目の当たりにしたわけである。

 水は……水だけを飲んでいれば良いという言葉があるように、水は人間が生きてくうえでの命綱だ。それを民営化するというのは、経済状況によっては水も飲めないひとが出てくる可能性があるということだ。こんな重要で恐ろしいことがわずか8時間の審議で可決されてしまうのが、我が国の現状だ。しかもだ……、水道事業の民営化こそサッチャリズムであり、この政策がはじまって数十年後の現在、結局のところ失敗だったという事例はすでにある。当のイギリスにだって自治体によっては倒産したという話もあり、再公営化の動きさえあるという、にも関わらず……なのだ。(日本において新自由主義が本格的にはじまったのは小泉政権から。つまり、英米よりおよそ20年遅れではじまっている)

 そういう意味でオーウェン・ジョーンズの『エスタブリッシュメント』の翻訳刊行は、日本の近未来を案ずるうえでの貴重な資料になる。新自由主義先進国のイギリスで起きたこと、そのプロセスと現状を知ること。まあしかし……もはやそんな悠長なことを言ってられないんだよというのが、日本で生活するひとたちの本音なんだろう。

 というのもつい先日、厚生労働相は9カ月にわたる実質賃金マイナスを認めた。サラリーマンの平均収入は相対的にみてアジアでも最低レヴェルじゃないのかなどと言われはじめて久しいけれど、いよいよ現実味を帯びてきているというわけだ。ちまたには日本でサラリーマンやるより香港で家政婦したほうが稼げるんじゃないかという説もあり、こと文化産業に携わっている身としては暗澹たる気持ちにならざるえない(円安政策がどれほどレコード好きにとって弊害かという話はおいておいて)。与党はしかしアベノミクスの非を認めないし、またいままでのようにだらだらと世間の関心が薄れるまで時間だけが過ぎていくんだろうなぁ。……とまれ。『エスタブリッシュメント』からは、いま読み方によっては未来に繋がるヒントが導き出せるんじゃないかとも思う。


 『エスタブリッシュメント』は、早い話、新自由主義に乗っかって、おいしい思いをしている連中のことを定義し直している。エスタブリッシュメントとは、支配的な経済エリートとも言えるだろうし、格差社会の上層部と言えるだろうし、そういう連中は、有能で高額な会計士を雇うことで巧妙な税金逃れをしながら、政治のみならずマスメディアも操作し世論すらコントロールできる立場を築いている。(ここでザ・クラッシュの“コンプリート・コントロール”でも聴いて気合いを入れよう)

 よし、気合いが入った。エスタブリッシュメントとは、ある意味リベラルでさえある。LGBTにだってアプローチする。しかもエスタブリッシュメントには(金融が良い例であるように)お互いが助け合う社会主義がある。そしてエスタブリッシュメントは、エスタブリッシュメントではないひとたちを容赦なく蹴落としていく。

 それはサッチャーが右翼というレトリックを使ってやってのけた、その後の世界の方向性を決定づける経済実験の行き着く先を象徴している。『エスタブリッシュメント』にはそのことが詳述されている。あまりにも詳細に書かれているので、イギリス政治マニアでもない限りすらすらと読める代物ではないけれど、ただし、左派も右派も呑み込んでいく新自由主義の恐ろしさを知るうえでは入魂のレポートであり、たんに自分の教養を肥やすためだけではないヒントもあるように読める。

 ぼくがもっとも興味深く読めたのは、警察の話である。これは新鮮な驚きだった。ジョーンズによれば、第一次大戦後のイギリスの警察は、自分らの労働条件に不満を抱き、労働党を支持し、政府に楯突く存在だったそうで、しかしその警察を政府への反対勢力を取り締まるための兵器に仕立て上げたのもサッチャーだった。デモがあればデモ隊を鎮圧する役目を引き受けるあの警察とは、サッチャーが作り上げたもののひとつだったのだ。サッチャーは公務員や労働者階級にむごたらしい仕打ちをしたが、警察には砂糖を与え、そして人員を増やし、みごとに手懐かせた。それは、警察が新自由主義を守るうえで重要な役割を担っていることを見越しての政策だった。

 しかしいまとなっては……たしかに、こんな文章を書いている人間は奇人であり、変わり者であり、アホであり、スマートではないマイナーな人間だと思わせてしまう世の中にしてしまえば、まあ、監視装置や対抗者撃退のために金をかけなくても済む。スリーフォード・モッズなんかのいうことはスルーして、口当たりのいい言葉をふるまうセレブの一挙手一投足に注目せよと。いや、こんなところまでジョーンズが言っているわけじゃないんだけれど。

 だが、しかし、新自由主義の勝者であるエスタブリッシュメントがメディアさえも我がモノにしたとき、もはや警察の力はかつてほど重要ではなくなった。もともと公的資金を福祉や公共事業につぎ込むくらいなら儲かる話に投資しようというのが新自由主義なので、さほど重要ではなくなった警察に対して冷淡になるのは必然といえば必然である。かくして人員削減がはじまり、民営化がはじまり、かつては激突していた労働者たちと同じ運命を彼らもたどるにいたり、そして2012年には警察のデモがはじまった。数年前までデモを包囲していた人間がデモをはじめたというわけだ。


 だれもがきつい思いをしているってことだ。右左関係なく、下の方にいる人間はきつい、『エスタブリッシュメント』を読みながらぼくが思ったのはそういうこと。ぼくはいま怒りのこもった初期のURが聴きたい。レゲエが聴きたい。パンクが聴きたい。スペシャルズが聴きたい。CRASSが聴きたい。底辺にいる人間の声が聴きたい。『エスタブリッシュメント』を読んでしまっては、そうするしかないだろう。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』も同じようにイギリスにおいての新自由主義の行き着いた現在を描いているが、フィッシャーが思想ないしは文化批評ならこちらは直球の政治ジャーナリズムだ。

 で、結局のところ世界はエスタブリッシュメントにとって好都合にしかならないように動いていると。そうかもしれないが、歪みは見え軋みも聞こえはじめている。こうした流れをぼくたちなりに表現するためにも、たったいま、『別冊エレキング』臨時増刊号として「黄色いベスト運動」に関する一冊を作っている。3月末までには出る予定です。お楽しみに!

Beirut - ele-king

 タイトルの『ガリポリ』はガリポリの戦いで知られるトルコのガリポリ半島かと思っていたら、イタリア南部に位置する海沿いの街のことらしい。ガリポリに関する知識がまったくないのでグーグルの検索に入れてみる。美しい地中海沿いの風景、城塞都市であるという旧市街、美味しそうな地中海料理の写真。なるほど、行ってみたくなる場所だ。あるいは、『ガリポリ』のタイトル・トラックを聴いてみる。ベイルートらしい8分の6のゆったりしたリズムに合わせて叩かれる柔らかい太鼓の音、大らかなブラス・セクションとともに伸び伸びと歌うトランペット、ザック・コンドンのバリトン・ヴォイス。地中海の街に立つ即席の楽団を想像してみる。どちらのほうが僕たちはより豊かに「ガリポリ」を感じられるだろう?

 ベイルートことザック・コンドンの音楽に無条件で親近感を覚えてしまうのは、彼が映画館でアルバイトしていたときに観たエミール・クストリッツァの映画を観て東欧の音楽に興味を持ったエピソードのせいかもしれない。日本にもクストリッツァの映画の影響でバルカン音楽を好きになったという人間は多いが、つまり、コンドンの東ヨーロッパ音楽への関心はとても素朴な場所から始まっている。彼はその憧憬の純度を保ったままヨーロッパを旅し、そして自分の音楽にとても素直に取り入れた。それが素晴らしいはじめの2枚になる──僕のお気に入りは哀愁がとめどなく迸るセカンド・アルバム『ザ・フライング・カップ・クラブ』(2007)だ。その終わり3曲を聴けば、いつか東ヨーロッパを旅してみたいという気持ちが何度でも鮮やかに蘇る。
 『ガリポリ』は彼にとっての5枚めのアルバムで、注目されるトピックはふたつ。ひとつが初期2作の作曲に使ったファルフィッサのオルガンを再び使ったこと。もうひとつが、コンドンがニューヨークを離れ、ベルリンに居を移したことだ。レコーディングはイタリアでおこなわれたという。前者については、サウンド・アプローチを大きく変えた前作『ノー・ノー・ノー』(2015)から引き返しぐっと初期のムードに近づいた要因だと言えるだろう。もちろんコンドンは初期2作からアルバムを重ねるごとに音楽性の幅──取り入れるサウンドの地域性やリズムのボキャブラリーを増やしてきたので、この『ガリポリ』は12年前と比べて遥かに成熟したものであることは間違いない。が、どこかで初期のような衒いのない伸びやかさが感じられ、そのことがアルバムに再びフレッシュな風をもたらしている。
 そして後者について。ニューヨークを離れた理由として、コンドンはいわゆる「大統領」の問題やストレスフルな都市のムードに嫌気が差したからだと語っている。この2年ほどのアメリカの政治と社会の混乱はミュージシャンたちに様々な反応を促したが、ベイルートは文字通り逃げた。アメリカではない場所へ。そのことが結果として、ベイルートらしさ──自分が「住まなければならない」場所から音楽の想像力で羽ばたくこと──を充溢させることとなった。ふくよかな管楽器のアンサンブル、音色を変えていく多様なリズムによる舞踏感覚、鷹揚なメロディといくらかのペーソス。ポップなヴァラエティをアピールする前半もいいが、ベイルートの音楽性の奥行きを感じさせるのはB面に当たる曲群だ。リヴァーブのこもったビート・ボックスと控えめなコーラス、柔らかなトランペットが次第に華やかなオーケストラを導いてくる“Family Curse”。南米のリズム感覚とメロディが注がれた“Light in the Atoll”はベイルートとしては新鮮だし、あるいはぐっと抽象的なエモーションへと舵を切る“We Never Lived Here”の曖昧な悲しみは、増していく音の重なりとともにゆっくりと去っていく。

 その“We Never Lived Here”でコンドンは「僕たちはここに住んでいなかった」と歌うが、それは新たな土地へと降り立った心境とも取れるし、かつて住んでいた場所が自分の心を捕まえていなかったことの比喩とも取れる。それは、いま日本に「住まなければならない」僕たちにも共感できる引き裂かれた感情ではないだろうか。シンプルに、ここにいたくないという気持ち。この社会が自分たちの心を殺していくというような恐怖。“Family Curse(家族の呪い)”はコンドンの家系に多い精神疾患に対する恐怖心についてだそうだが、それはつまり、生まれ落ちた場所や状況に縛られるしかない閉塞感を指しているとも言える。
 だが、僕たちは本当はそれに縛られなくてもいい。ベイルートの音楽が、『ガリポリ』がそのことを僕たちに語りかけてくる。彼が主宰するアンサンブルはミスタッチやミストーン、すなわち人間による偶発的なエラーも許容しながらその瞬間瞬間を受け入れ、架空の旅を続ける。その「ワールド」の咀嚼が正確なものではないがゆえにこそ、想像はどこまでも広がっていく。翻って現在の国家は人間の移動を制限しようと必死だが、しかし本質的には何者もけっしてそれを押し留めることなどできない。かつてブルックリン・シーンの「非アメリカ」を体現していたザック・コンドンはアメリカを実際に脱出し、そして彼の音楽を聴く僕たちは移動し続ける音楽の自由を知っている。

女王陛下のお気に入り - ele-king

 日本でも評判を呼んだTVドラマ『宮廷の諍い女』など中国では宮廷劇があまりに流行り過ぎて、人民に華美なライフスタイルを流行らせるため宮廷劇の製作が今後は禁止されたという。中国では富裕層がペットにお金をかけ過ぎることも度々批判の対象になり、その類のニュースに目を通していると毛沢東時代の質素な暮らしをよしとする考え方も根強く残っていることが伺える(GDPが日本の倍になったとはいえ人口比で考えると日本人ひとりに対して中国人5人の「生産性」が同じぐらいということだし、富裕層を除いた残りの平均所得は月に2万5千円ぐらいだそうで、景気の減速に伴って都市部では7万5千円の家賃を払えなくなっている人も出てきたとか)。イギリスも話題がブレクシット一色ということはなく、貴族の暮らしぶりを描いたTVドラマ『ダウントン・アビー』は9年目にしてついに映画化されることになり、ビクトリア女王やエリザベス女王を題材にした映画も次から次へと出てくるし、昨年はミーガン・マークルの皇室入りで現実の世界でも宮廷劇は最高潮に達している。スコットランド独立運動と共にメアリー・スチュワートの人気も上がりっぱなしで、もはや作品名を覚えられる量ではなく、映画の中でウインストン・チャーチルやトニー・ブレアがいちいちバッキンガム宮殿に足を運ぶので、もはやどこにどの部屋があるのか配置図が書けてしまいそうである。
 そうしたところにアン女王を中心とした『女王陛下のお気に入り』ときた。18世紀初頭、スチュアート朝最後の君主で、彼女の死後、イギリスは最盛期を迎えるハノーヴァー朝へ移行していく。これがまた凄まじい宮廷劇であった。実話だそうである。

 貴族から召使いへと転落したアビゲイル・ヒルが働き口を求めてアン女王の城に向かう場面から物語は始まる。ヒルを演じるのはこのところ『ラ・ラ・ランド』や『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』で「努力の人」というイメージが板についていたエマ・ストーン(安倍晋三がエマ・ワトソンと間違えた女優)。最初は掃除や炊事など下働きしかさせてもらえなかったヒルが痛風に苦しむアン女王に薬草を煎じ、その痛みを和らげたことから女王の「お気に入り」に加えられる。アン女王を演じるのは、現在、ネットフリックス『ザ・クラウン』でエリザベス2世を演じているオリヴィア・コールマン。巨体を揺らして、いわゆるバカ殿を演じ、君主制というものがいかにベラボーで、民主主義というものがどれだけありがたいものかを全編を持って逆説的に訴えかけてくる。そして、アン女王の参謀を務めているのがレイチェル・ワイズ演じるモールバラ公爵夫人レディ・サラ。ウインストン・チャーチルやダイアナ妃の先祖であり、彼女が残していた日記がこの映画の基底をなしている(アン女王が無能に近く描かれているのはそのせいらしい)。この時、イギリスはフランスと戦争中で、戦争の継続と増税を望むホイッグ党と戦争終結を訴えるトーリー党が対立し、アン女王は両者のバランスを見ながら諸事に決断を下していく。専制君主とはいえ、強権的に権力を振りかざす時代ではなくなっていたそうで、難しい選択を迫られたアン女王が現実から逃避し、レディ・サラやアビゲイル・ヒルから慰めを得ることがこの作品で描かれていることのほとんどといってよい(そして美術に衣装。それこそ『ゲーム・オブ・スローンズ』がTVドラマに求める女性の好みを結集させてつくられたマーケティングの集大成だったとしたら、女性の指導者やソープ・ドラマ的展開、あるいは権力者の栄枯盛衰など『女王陛下のお気に入り』にもその要素はあらかた出揃っている)。

 といったような背景がわかってはきたものの、何を描こうとしている映画なのかということが一向に見えてこない。こうかなと思っているとあっちにいってしまうし、そっちかと思うとぜんぜん違うし、ストーリーというものが指の間からポロポロとこぼれ落ちていくような体験が続く。(以下、限りなくネタバレに近いブルー)後半に入って一気に押し寄せてくるのは「政治」である。政治には「目的」と「方法」がある。議案にもよるだろうけれど、往々にして何が何でも自分の主張を通そうとする人は嫌な感じがするものだし、そのために権力にすり寄っていく人はさらに醜く見えやすい。『女王陛下のお気に入り』ではそうした「目的」と「方法」が見事に絡まり合っていて、宮廷劇の十八番である権謀術数を観客にも隠しつつ話が進行していく。ストーリーが手に取るようにわからないのはそのためであって、何が起きていたのかがわかった時にはほとんどのことは終わっている。そして、その時に初めてオープニングに続いて(ここからは本当にネタバレ)レディ・サラが目隠しをされていたシーンの意味がわかってくる。このシーンは異様なほど恐怖を掻き立てる。どう考えても怯えすぎである。しかもアン女王はレディ・サラを喜ばせようとして目隠しをさせたというのに。あれ以上のシーンはこの映画にはなかった。いってみればクライマックスは最初にあったのである。

 ヨルゴス・ランティモス監督は『籠の中の乙女』でも『ロブスター』でも、そして『聖なる鹿殺し』でも人間が自由を奪われるとどうなっていくかということを描いていた。ある意味それは人間を近代から少しはみ出した地点においてみるという実験であり、物語が終わった時点で主人公たちが近代に戻ってきたかどうかはどの作品でも観た人が考えるというつくりになっている。独裁者というのは近代にもちょくちょく現れるもので、自分の国の指導者がそのようなパーソナリティに近づいていった時に人はどう動くかという実験を『女王陛下のお気に入り』では見せられたようなもので、戦争を遂行するか回避するかなどということに関してはそれほど大きく変わっていないとさえ思える面も多々あった。それどころか、現代の政治は18世紀初頭ぐらいならばすぐにも戻れてしまうほど基盤の弱いもので、シリアやヴェネズエラのようにあっという間に国家という体裁をなさないこともあるし、ドナルド・トランプが大統領になっても司法やマスコミが機能していることを世界に知らしめたアメリカはやはり近代国家として優れているということも思わずにはいられなかった。「お気に入り」という表現を安倍政権の「オトモダチ」やちょっと前のマレーシア政権みたいに「身内びいき」と言い換えてもいいかもしれない。国会議員ではなく諮問委員会の方が立法に近い位置にいるという現状など、考えれば考えるほどこの世界はモダンから遠ざかっていく。あー。

 コメディアンのケヴィン・ハートが過去に行ったヘイト・ツイートによって司会を辞退し、MC不在という異例の事態のままアカデミー賞の発表まで1ヶ月を切った。下馬評では『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラヴィティ』のアルフォンソ・キュアロンによる『ローマ』と『女王陛下のお気に入り』の一騎打ちだということが言われている。なんとも高級な対決になったものだけれど、イニャリトゥとデル・トロに続いてキュアロンが受賞すればメキシコの映画運動、ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノから出てきたビッグ3が全員アカデミー賞を獲得したことになるし、『ロブスター』からたったの3年でランティモスが受賞するという絵もなかなかに美しい。ノミネート作をすべて観ているわけではないので、大きなことは何も言えないけれど、いつにも増して発表が待ち遠しいことは確か。ちなみに外国語部門ではカンヌでも因縁の対決となったイ・チャンドン『バーニング』と是枝裕和『万引き家族』もノミネートされているそうで。


(予告映像)
『女王陛下のお気に入り』日本版予告編

僕がアリアナ・グランデに惹かれる理由 - ele-king

 2017年の8月にリリースした“Look What You Made Me Do”のブリッジで、テイラー・スウィフトは「申し訳ございません、『古いテイラー』は電話に出られません/なぜって? 彼女は死んだから」と言っている。カニエ・ウェストとのトラブルから生まれたとされるこの曲は、どこか不穏な復讐の歌であると同時に再生の歌でもある。「ギリギリのところで私はスマートに、強くなった/死から立ち上がったの、だっていつもそうしているから」。テイラーの「古い私は死んだ」というショッキングだが力強いステートメントは、2018年を通して僕の耳にこびりついて離れなかった。

 一方、勇気づけられるというよりは打ちのめされたのがカーディ・Bの言葉で、彼女はヒット・シングル“Bodak Yellow”で「私がボス、あんたはただの労働者」とラップしていた。また、YouTube Musicの広告で100回は耳にしただろうラテン・トラップの“I Like It”ではこうだ。「バッド・ビッチは男をナーヴァスにする」。カーディは怒張した男根をへし折る女として2018年のポップ・シーンに君臨していたように思う。

 テイラーやカーディに惹かれる一方で、2018年の僕にとって最も重要だったのはアリアナ・グランデの存在だ。彼女の「神は女性だ」という、あまりにもコントラヴァーシャルな宣言は、一つの楔として僕の心に打ち込まれた。ゆったりとしたテンポのトラップ・ポップに乗せて彼女は歌う。「あなたが『なれない』と言ったすべてのものに私はなることができる/私と一緒にいれば、あなたは宇宙を見ることができる/それはすべて私の中にある」(“God is a woman”)。“God is a woman”は典型的な女性優位を主張する歌だ(この曲はセックス賛歌でもある)。時計の針を50年分巻き戻してみて、ポップ・ミュージックの歴史をさかのぼってみれば、この曲がアレサ・フランクリンの“リスペクト”の系譜に連なる一曲であることがわかるはずだろう。オーティス・レディングから「盗んだ」その曲をほんの少し書き変えることで、アレサは男性優位主義を見事にひっくり返していた。


Sweetener
ユニバーサル・ミュージック

 “God is A Woman”が収録されたアリアナ・グランデのアルバム『Sweetener』は、2017年5月にマンチェスターのコンサート会場が自爆テロ犯によって襲撃された事件を経て制作され、翌年8月にリリースされた。モノクロームだった前3作のカヴァー・アートに反して、『Sweetener』はカラー。これについて彼女は、「これは新章。私の人生は初めて色彩の中にある」と語っている。アルバムに先立ってまずリリースされたのが“no tears left to cry”で、このシングルのカヴァー・アートは暗闇の中にいるグランデの顔に虹色の光が差している様が写し取られている。シリアスなムードのイントロでグランデは「流す涙はもう残っていない」と決意を表明する。その後の彼女は軽快に、そして自然体で、まるで何事もなかったかのようなトーンで歌っていく。「私は尽き果てた、でもね、もういいの/どんな方法で、何が、どこで、誰がそれをやったのだとしても/私たちは今、ここで楽しんでいる」。

 『Sweetener』を聴くたびに僕はこう思う。自身のコンサート会場で23人もの命が失われるという、あまりにも痛ましい悲劇を経てもなお、グランデはどうして歌うことができるのだろう? そのすべてをポジティヴな、そして女性的な表現へと見事に昇華してみせるグランデの力強さは、いったいどこから来るのだろう? なぜ彼女の人生は今、色彩の中にあるのだろう?

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったのはテオドール・アドルノだが、グランデは「それでもなお」と歌っているかのように感じられる(もちろん、アドルノの言葉は単なるニヒリズムなどではないし、そもそも彼はポップ音楽なんて歯牙にも掛けないだろうけれど)。ポップ・ミュージックが聴き手をアップリフトし、鼓舞する。ポップ・ミュージックが聴き手とコミュニケートし、心の中に居場所を持ち、何かを肯定する──そういった、ものすごく平凡な言い方をすれば「音楽の力」をグランデは信じているとしか、僕には思えない。だからこそ、彼女はこの「人工甘味料」という皮肉めいたタイトルの感動的なポップ・アルバムをものにすることができたのだろう。

 例えば、イーグルス・オブ・デス・メタルはパリのコンサート会場がテロリストたちの襲撃に遭い、グランデと近い経験をしている。けれども、メンバーのジェス・ヒューズは事件の後、インタヴューでヘイトすれすれの発言を繰り返した。銃規制に反対するデモを「感傷的で悪趣味」だと批判し、ライヴ会場のスタッフがテロの共謀者だったのではないかと彼は言い放ったのだ。疑心暗鬼と憎悪――それは、グランデのあり方とはあまりにも対照性だ。月並みな表現をすれば、ヘイトとラブという二極。音楽の力を信じているのは、果たしてどちらだろう?

 『Sweetener』の後に発表し、記録的なヒット・ソングとなった“thank u, next”にしても、グランデの力強く肯定的なアティテュードは一貫している。この曲で彼女は、ビッグ・ショーンや亡くなったマック・ミラーといった“ex(元カレ)”たちを数え上げている。「ある人は私に愛を教えてくれた/ある人は忍耐を/ある人は痛みを教えてくれた」。なかには壊れて、ぐずぐずに崩れ、けっして元には戻らない関係性もあったはずだ。あるいは深く傷つき、消えない傷跡が残り、簡単なきっかけでそこから血が噴き出してしまうような関係性も、おそらくあったはずだ。それは僕の人生にも、そしてきっとあなたの人生にもあるもの。それでも、ノスタルジックなヒップホップ・ビートに乗せてアリは滑らかに歌う。「元カレたちにはファッキン感謝してる/ありがとう、次に進むよ」。優しく、包み込むように。


Thank U, Next
Republic Records

 “ex”とは「前の、元の」という意味の接頭辞だが、僕にはどうもグランデが単なる「元カレ」という意味で歌っているようには聴くことができない。あらゆる過去、過ぎ去っていった人や物、時の狭間に消えていった何か、以前はこの世界に存在していた人たち――そういったものすべてを“ex”という言葉に象徴させているようにしか思えないのだ。かつてはあったけれど、今、ここにはもうない何か、あるいは誰か。けれども、“thank u, next”で彼女が歌う“ex”は人生に憑りつく厄介なノスタルジーを喚起するものではない。グランデはその歌で、ノスタルジーを喚起する過去を糖衣でくるんでくれる。僕たちはその甘い過去を少しずつ、少しずつ飲み下して、一瞬一瞬到来し続ける未来をなんとかサーフするための推進力にすることができる。


7 Rings
Republic Records

 “thank u, next”をリリースしたのち、グランデは昨年12月に“imagine”を、そして今年1月に“7 rings”を発表した。ワルツにトラップ・ビートを取り込んだ静謐な前者は「そんな世界を想像しよう」と呼びかける、明確に未来へと意志を投げかける歌だ。一方、“私のお気に入り”のメロディを引きながらラップ・ミュージックを大胆に参照した後者は、それゆえにプリンセス・ノキアやソウルジャ・ボーイらから「フロウを盗んだ」と批判を受けている。リリックの内容も自身の財力を誇示する今時のラップをステレオタイプに模倣してはいるものの、そこには見逃せない言葉もある。セカンド・ヴァースでグランデは、「指輪をつけてはいるけれど、『ミセス』って意味じゃない/6人の私のビッチたちにふさわしいダイアモンドを買っただけ」と歌う。この一節は、既存の婚姻制度や決まりきった約束事としてのルール(「左手の薬指に指をはめていれば既婚者である」など)に一瞥をくれながら、経済的な自由を手に入れた女性たちによるシスターフッドを挑発的に称揚しているかのように聞こえる。

 マンチェスターの事件の5日後にグランデは、美しい長文の声明をツイッターに投稿した。そこにはこんな風に書いてある。「私たちは恐怖の中で立ち止まったり、行動したりはしない。私たちはあの事件によって分断されたりはしない。私たちは憎悪が打ち勝つことを許しはしない」。祈りのようでいて軽快な『Sweetener』の曲たちは、見事にそれを音楽で示している。それに、過去の悲惨さにうなだれるのでもなく、懐かしむのでもなく、それらを慈しんで乗り越えていく“thank u, next”のポジティヴィティは、何にも増して力強いものだった。街中で、コンサート会場で、ソーシャル・ネットワークのそこここで伝搬され、充満している憎悪という毒。アリアナ・グランデの歌はそれらを両手で掬い上げて優しく包み込み、甘く中和する。

Swindle - ele-king

 これまでのスウィンドルの作品には過去と現在のさまざまな音楽が参照されてきた。昔の音ならスイング・ジャズのビッグ・バンドのホーン・セクションとか、1970年代のファンクやジャズ・ファンクなどを参照し、それを自身のバック・ボーンであるグライムやダブステップに落とし込んできた。出世作の“ドゥ・ザ・ジャズ”や“フォレスト・ファンク”を収録した『ロング・リヴ・ザ・ジャズ』(2013年)はそうしたアルバムだ。また世界中のいろいろな国をツアーで訪れ、そこに根づく音楽も参照している。地元のロンドンのほか、ロサンゼルス、グラスゴー、アムステルダム、南アフリカ、フィリピン、中国、日本などの国名や都市名が曲に盛り込まれた『ピース、ラブ&ミュージック』(2015年)や、ロンドン、ロサンゼルス、ブラジルでのセッションからなる3枚のEPをまとめた『トリロジー・イン・ファンク』(2017年)は、旅先でのインスピレーションや現地のアーティストとの交流から生まれたものだ。音楽のジャンルや時代、空間を超えて新しいものを作り出すアーティストと言えるが、それは彼がもっとも影響を受けたアーティストというクインシー・ジョーンズにも共通している。クインシーがかつてビッグ・バンド・スタイルでやったジャズとラテンやブラジル音楽の融合は、確実にスウィンドルにも受け継がれていると思う。クインシーはいろいろなミュージシャンを集めてセッションするのを好み、マイケル・ジャクソンやパティ・オースティンらをヒットさせたプロデューサーでもあるが、いまのジャズ界ではロバート・グラスパーも割と近い部分を持っている。ロバート・グラスパー・エクスペリエンスの『ブラック・レディオ』(2011年)はすべての曲にシンガーやラッパーがフィーチャーされ、彼らとのセッションをラジオ・プログラム風に綴ったものだったが、そこでのグラスパーはプロデューサーとしての側面も持っていた。スウィンドルにもこうしたスタイルは当てはまり、『トリロジー・イン・ファンク』でのD・ダブル・Eやゲッツなど、彼の多くの作品にはグライムのラッパーやシンガーがフィーチャーされ、『ピース、ラヴ&ミュージック』にはラジオ・プログラム風の構成も見られる。

 このたびリリースされた新作『ノー・モア・ノーマル』の制作風景も、グラスパーが『ブラック・レディオ』でやったのとほぼ同じものだ。ピーター・ゲイブリエルのリアル・ワールド・スタジオとレッド・ブルのスタジオを2週間ほど借りて、そこにゲストが入れ替わり立ち代わりやってきて、ジャム・セッション的なものをやっていく中からできたそうだ。データ・ファイルの交換で音を作り、メールで送ってもらったヴォーカル・パートをトラックに乗せるというベッドルーム・プロデューサー的なやり方ではなく、物理的な制約がない限りは実際にミュージシャンと顔を合わせ、コミュニケーションをとりながらレコーディングするという昔ながらの音楽制作のやり方で作られたものだ。ライヴではバンド・スタイルの演奏にこだわる彼らしく、基本的に生の演奏を好むミュージシャンシップに溢れる人なのだろう。グライムやダブステップ系の作品としては珍しく、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなどのストリングスやホーン・セクションがふんだんに使われ、それらもサンプリングではなく生演奏というゴージャスさ。“ワット・ウィ・ドゥ”や“ドリル・ワーク”などにオーケストラを用いた昔のサントラ的な雰囲気があるのはそのためだ。ゲスト・シンガーにはグライムのレジェンドであるP・マニーとD・ダブル・E、昨秋にニュー・アルバムを発表したばかりのグライム界のカリスマのゲッツなど親交の深い面々に、ブリストルのスポークンワード・アーティストのライダー・シャフィーク、『トリロジー・イン・ファンク』でも共演したR&Bシンガーのデイリー、レゲエ・シンガーのキコ・バンやエヴァ・ラザルス、ブルー・ラブ・ビーツの作品などにフィーチャーされるラッパーのコージェイ・ラディカル、ロンドンのシンガー・ソングライターのエッタ・ボンドなど多彩な面々が参加。レゲエにソウル、グライムにヒップホップと、いろいろな要素が絡み合ったロンドンらしいサウンドということは、このラインナップを見てもわかるだろう。ミックス・エンジニアも旧知のジョーカーが担当するほか、随所でトーク・ボックスを披露するキャメロン・パーマーも“ドゥ・ザ・ジャズ”や“フォレスト・ファンク”の頃からの付き合いだ。

 演奏はスウィンドルがキーボードやアナログ・シンセなどを演奏するほか、ヌビア・ガルシア、マンスール・ブラウン、ユセフ・デイズ(ユナイテッド・ヴァイブレーションズ、ルビー・ラシュトン、元ユセフ・カマール)などのジャズ・ミュージシャンの参加が目につく。またマンチェスターの9人組ブラス・バンドのライオット・ジャズも参加しているが、このトランペット奏者のニック・ウォルターズはルビー・ラシュトンのメンバーで〈22a〉とも親交が深く、そうしたことも含めていまのサウス・ロンドンを中心に起きているUKジャズの新しいムーヴメントと出会ったアルバムでもある。シンガー・ソングライターのアンドリュー・アションも今回はギターとベース演奏で参加している。ユセフのドラムにマンスールのギター・ソロがフィーチャーされた“トーク・ア・ロット”は、そうしたミュージシャンの即興性溢れるプレイを引き出した作品。ヌビアがサックスを吹く“ラン・アップ”、マンスールとライオット・ジャズの参加した“カミング・ホーム”は、これまでの『ロング・リヴ・ザ・ジャズ』や『トリロジー・イン・ファンク』同様、土台のサウンドにあるのはファンクだ。アンドリュー・アションをフィーチャーした“リーチ・ザ・スターズ”もキャメロン・パーマーのトーク・ボックスが印象的なファンクで、昨年〈ブレインフィーダー〉から『レジスタンス』をリリースしたブランドン・コールマンあたりに近い印象。Pファンクからザップあたりの参照が感じられるナンバーであり、UKのダブステップやグライムの文脈にありながら、US西海岸のファンクやソウルの影響を受け、現在ならアンダーソン・パークからルイス・コールなどとの共通項も見いだせる作品と言えよう。エッタ・ボンドとコージェイ・ラディカルが歌う“カルフォルニア”はジ・インターネット的だ。今回はロンドン以外にロサンゼルスのスタジオで録音したものもあるそうで、いろいろな場所の音を体内に取り込むスウィンドルらしい作品と言える。

Bendik Giske - ele-king

 サックスはもっとも人の声に近い楽器である。そんな話をどこかで聞いたことがある。著名なジャズ・ミュージシャンの発言だったか、身近な知り合いとの雑談だったかは忘れてしまったけれど、その後もちょくちょく耳に入ってくる話だったから、きっと一般的にもそう言われることが多いんだろう。ただ個人的にはこれまで、サックスの奏でるサウンドが人声のように聞こえたことは一度もなかった。あるいは聞こえたとしても、あくまで他の楽器にも置き換えられる、比喩のレヴェルにおいてだったというか。
 コリン・ステットソン以降というべきか、ラヴ・テーマことアレックス・チャン・ハンタイ以降というべきか、近年どうにもサックスとミニマリズム、サックスとアンビエントという組み合わせに惹きつけられてしかたがない。もし仮にサックスがほんとうに人の声に近い楽器なのだとすれば、ミニマル~アンビエントの文脈に落とし込まれたそれが、いま強くこちらの耳を刺戟してくるのはなぜなんだろう。

 昨秋リリースされたシングル「Adjust」(リミキサーにはトータル・フリーダムロティック、デスプロッド、レゼットの4組を起用)で注目を集めたオスロ出身ベルリン在住のサックス奏者、ベンディク・ギスケのファースト・アルバムがおもしろい。自らを「クイア・パフォーマンス・アーティスト」と規定する彼は、ゲイ・カルチャーに関連した「surrender(すべてを与える=身を委ねる)」という行為をテーマに今回のアルバムを練り上げている。いわく、その行為は世界といかに関わるかについて、それまでとは異なる見方を提供してくれるものなのだという。
 このアルバムの制作にあたりギスケとプロデューサーのアマンド・ウルヴェスタは、マイクの設置のしかたをあれこれ工夫し、音符と音符のあいだに侵入する吐息の録音方法を新たに考え出したそうだ。その技術が他の音にたいしても応用されているのか、サックスのキイを叩く指の音だったり、中盤の“Stall”や“Hole”におけるノイズのように、微細な具体音の数々がさまざまなかたちでこのアルバムを彩っていて、ミュジーク・コンクレートとしてもじゅうぶん聴き応えのある仕上がりなのだけど、まさにそれらのノイズに寄り添いながらサックスと人声とが絡み合っていく点にこそ本作の肝がある。件のシングル曲“Adjust”やそれに続く“Up”、あるいは終盤の“Through”や“High”ではサックスが惜しみなくミニマルなフレーズを吐き出す一方、背後では意味を剥奪された人声がひっそりと唸りをあげているが、それらが絶妙に重なり合っていく様に耳を傾けていると、なるほど、サックスが人の声に近いという所感は、両者をともにノイズとして捉え返したときにこそはじめて浮かび上がってくる、オルタナティヴな聴取の可能性なのだということに思い至る。

 アンビエントの文脈におけるサックスと声の活用という点にかんしていえば、ギスケの「Adjust」とおなじ頃にリリースされたジョセフ・シャバソンのアルバム『Anne』にもところどころ惹きつけられる箇所があったのだけれど(たとえばサックスと人の声と鳥の声とその他のノイズが必死にせめぎ合う“Fred And Lil”など)、サックスがふつうに叙情的な旋律を奏でているせいか、はたまた「パーキンソン病を患った母」というテーマのためか、全体としてはセンチメンタルな要素が強く出すぎている感があった。ひるがえってギスケのアルバムには余計なものがいっさい含まれていない。シンプルに音の尖鋭化を突き詰めているという点でも出色の出来だと思う(もしかしたらそれが音に「サレンダー」するということなのかも)。
 では、なぜいまそのような試みが新鮮に響くのか? それはたぶんギスケの音楽が時代にたいする無意識的な応答になっているからだろう。たとえばオートチューンに代表される変声技術の流行は、地声とはまたべつの角度から声なるものを特権化しているとも考えられるわけで、となればギスケのこのアルバムはそれにたいするすぐれた批評としてとらえることもできる……とまあそんなふうに、耳だけでなく思考まで刺戟してくれるところもまた本作の魅力のひとつなのである。

King Midas Sound - ele-king

 2019年はダブに脚光があたりそうだ。昨年はミス・レッドのアルバムをサポートしたザ・バグとMCのロジャー・ロビソンによるキング・ミダス・サウンドが2月14日に新作を出す。フェネスとのコラボ作品『エディション1』以来の4年ぶりのアルバムだ。
 サウンドクラウドにはアルバムの冒頭の曲“You Disappear'”がすでにアップされている。「おまえは消える、おまえは消える、おまえは消える、おまえは……」、ほんとうに消えてしまいそうな、ウェイトレス・ダブ? などと思わず口走ってしまうわけだが、ウェイトレス・グライムの流れともリンクする濃厚なダブ・サウンドである。

 アルバムのタイトルは『Solitude(孤独でいること)』。
 かなり期待できる内容になりそうだ。


Abstract Orchestra - ele-king

 クラブ・ミュージックをジャズの生演奏でカヴァーするという手法は昔からあり、成功例では4ヒーロー、ゴールディー、ソウルIIソウルなどをカヴァーしたリ・ジャズとか、デリック・メイ、ラリー・ハード、マスターズ・アット・ワーク(ニューヨリカン・ソウル)などをカヴァーしたクリスチャン・プロマーのドラムレッスンなどが思い浮かぶ。どちらも2000年代のクラブ・ジャズ全盛期のユニットで、カヴァーしているのはハウス、テクノ、ドラムンベースなど当時の主流だったクラブ・サウンドだが、一方ヒップホップのアーティストによるジャズ的アプローチが目覚ましかったのもこの頃で、その筆頭がマッドリブことオーティス・ジャクソン・ジュニアだろう。彼が2000年代初頭にやっていたイエスタデイズ・ニュー・クインテットは、架空のバンドという設定(実際は一人多重録音による生演奏)で昔のジャズやジャズ・ファンクなどをカヴァーし、最終的にそこへヒップホップのビート感を注入することにより、ヒップホップ・ファンからもクラブ・ジャズ・ファンからも支持を得た。マッドリブは1960~70年代のヴィンテージ感溢れるジャズ演奏を意図的に再現しており、こうしたマッドリブによるジャズとヒップホップを繋ぐアプローチを経て、その後カルロス・ニーニョとミゲル・アトウッド・ファーガソンによるJディラ・トリビュート『スィート・フォー・マ・デュークス』(2009年)とか、スラム・ヴィレッジのエルザイがジャズ・バンドのウィル・セッションズと組んだナズのカヴァー・アルバム『エルマティック』(2011年)などが生まれてきた。アブストラクト・オーケストラの『マッドヴィレイン・ヴォリューム・1』は、そんなマッドリブをジャズ・サイドからカヴァーしたものだ。

 アブストラクト・オーケストラはイギリスのリーズを拠点とするビッグ・バンドである。リーダーはロブ・ミッチェルというサックス奏者で、彼は2000年代から活動するファンク・バンドのハギス・ホーンズのメンバーでもあり、サブモーション・オーケストラのアルバムにも客演したことがある。他にハギス・ホーンズのメンバーが加わるほか、ジャズ、ソウル、ファンクなどのセッション・ミュージシャンが総勢20名近く参加する。デビューは2017年で、その名も『ディラ』というアルバムは全編に渡ってJディラの作品(スラム・ヴィレッジやドゥウェレなど彼がプロデュースしたものも含む)をカヴァーするほか、“ディラ・ミックス”というメドレー・スタイルのナンバーもやっていた。それまでもJディラをカヴァーした作品はいろいろあったが、ビッグ・バンドによるジャズ・ファンク・スタイルでのカヴァーということで、とりわけジャズ・ファンの間で大きな話題となった。ロバート・グラスパーらの活躍を介してJディラはジャズ・ファンの間にも認識される存在だが、アブストラクト・オーケストラの演奏はグラスパーなど現在のジャズ・ミュージシャン的なものとは違い、むしろマッドリブのように1960~70年代の空気感や雰囲気を感じさせる、ある意味でレトロなもの。すなわちイエスタデイズ・ニュー・クインテットをビッグ・バンドへ拡大したのがアブストラクト・オーケストラとも言えるだろう。

 その『ディラ』に続く新作が『マッドヴィレイン・ヴォリューム・1』で、今回はマッドリブがMFドゥームと組んだマッドヴィレインのアルバム『マッドヴィレイニー』(2004年)収録曲をリメイクしている。『ディラ』の中でもJディラとマッドリブによるジェイリブのカヴァーもやっていて、今回はマッドリブ方面からのアプローチとなる。基本的にはインスト演奏によるカヴァーで、MFドゥームの代わりに一部に女性コーラスが入るという構成。『ディラ』での“ディラ・ミックス”同様に“マッドミックス”というメドレー曲もある。『マッドヴィレイニー』でマッドリブは豊富な音楽知識を駆使し、ジャズ、ヒップホップ、ソウル、ファンク、ディスコ、サントラなどいろいろなところからネタを引っ張ってきてサンプリングしていたが、アブストラクト・オーケストラはその元ネタとなった原曲も導き出す形で再現する。“アコーディオン”はデイダラスの“エクスペリエンス”という曲中のアコーディオン・フレーズが元となっているが、アブストラクト・オーケストラはそれをうまくホーン・アンサンブルでアレンジしている。マッドリブはブラジル音楽もいち早く取り入れたプロデューサーで、マルコス・ヴァーリ作曲によるオズマール・ミリート&クアルテート・フォルマの“アメリカ・ラティーナ”を“レイン”でサンプリングしていたが、その原曲とマッドヴィレインでのサンプリング・パートのふたつを踏まえたものがアブストラクト・オーケストラの演奏となっている。もちろん単なる原曲のコピーではなく、そこに自身の即興やアレンジを加えた演奏となっているので、元ネタを通過した上でのクリエイティヴィティも発揮されている。生演奏をサンプリングで解体・加工して新たな曲を作り、それをさらに生で演奏し直すという二重に張り巡らされた引用が『マッドヴィレイン・ヴォリューム・1』にはあり、ジャズのカヴァー演奏においてもっとも重要なアレンジ・センスを見せてくれる作品集となっている。

The 1975 - ele-king

 音楽においてはときに、そのサウンド以上にテーマやリリックが重要な役割を担う場合がある。去る2018年はコンセプチュアルな作品が目立つ年だったけれど、それはなにもアンダーグラウンドに限った話ではなくて、たとえばメインストリームのど真ん中を行くUKのバンド、ザ・1975のこのサード・アルバムも、そのような傾向のひとつとして捉えることができる。

 邦題は『ネット上の人間関係についての簡単な調査』。テーマは明白だ。イントロを聴き終えると、なんともご機嫌なポップ・チューン“Give Yourself A Try”が耳に飛び込んでくる。「近ごろ(modern)の議論では文脈が無視されて発言が取り上げられる」という印象的なフレーズ。続くシングル曲“TOOTIMETOOTIMETOOTIME”では軽快な4つ打ちに乗って「泣き」のコードがぐいぐいと進行し、SNSにおける恋人とのすれ違いが描写されていく。
 タイトルが端的に表しているように、オンラインで交わされるコミュニケイション、そしてそれによってもたらされる疲労やもろもろの弊害がこのアルバムの切りとろうとしている現代性である、とひとまずは言うことができる。テーマのうえで核となるのは9曲目の“The Man Who Married A Robot / Love Theme”で、Siri が「インターネットは彼の友達だった」と、ある孤独な男にかんするテキストを淡々と読み上げていく様は、すでに多くのメディアが指摘しているようにレディオヘッドの“Fitter Happier”を想起させる。一度この語りを耳にしてしまうと、一見ごくありふれたラヴ・ソングのようにしか聞こえないほかの楽曲も、すべてネットやPCについて歌っているように思えてくる。
 歌詞だけではない。イントロや4曲目の“How To Draw / Petrichor”、合衆国を諷刺した“I Like America & America Likes Me”では、昨今のオートチューンの流行に目配せするかのように加工されたヴォーカルが強調されていて、やはり今日的=モダンであろうと努めることがこのアルバムのリアリティを担保しているようだ。どこでどう繋がったのかわからないが、昨秋亡くなったロイ・ハーグローヴのトランペットがジャジーな装飾を施す“Sincerity Is Scary”では「人は極めてポストモダンな方法で自らの苦悩を隠そうとする」と歌われており、この曲からも彼らがモダンにこだわっていることがわかる。では彼らが追い求める「モダン」とは、いったいなんなのだろうか。

 ファンキーなムードが強めに打ち出されていた前作では、随所で80年代メインストリームのポップ・ミュージックを想起させる音作りが為されていたけれど、本作でもたとえば11曲目“It's Not Living (If It's Not With You)”や14曲目“I Couldn't Be More In Love”のように、レトロな音の構築が目指されている。なかでも注目すべきは5曲目の“Love It If We Made It”だろう。ここでも「誤解にもとづいたポジションを強固なものにする/あらゆるアプリにアクセスできる」と、スマホ文化から材を得たフレーズが登場するが、他方でブラックライヴズマターに感化されたと思しき言葉も顔を覗かせていて、「現代(Modernity)は俺たちを見捨てた」との歎きを経たリリックは、背後の80年代的なサウンドとは裏腹に、リル・ピープの追悼やカニエ~トランプの諷刺へとなだれこんでいく。興味深いのはその途中で「リベラルなキッチュ」という言い回しが差し挟まれるところで、これは人種差別のような深刻なテーマを、あたかも検索に引っかかることが目的であるかのように軽く歌詞のなかに滑り込ませてしまう、自分たち自身のことを揶揄した表現だと考えられる。

 ザ・1975がこのようにメタ的な態度を見せるのは今回が初めてではない。彼らはセカンド・アルバム制作時にボーズ・オブ・カナダからインスパイアされたことを明かしているが、しかしじっさいにはBOCを思わせる箇所などまったくなかったわけで(シューゲイズの要素はあったけど)、つまり彼らが参照したのはBOCのサウンドそれ自体ではなかったということになる。では彼らがBOCから受け取ったものとはなんだったのか。ずばり、ノスタルジーだろう。80年代的な音作りやアートワークのネオンサインはその何よりの証左である。ようするにザ・1975は前作において、10年代の音楽、とりわけメインストリームのロックやポップがレトロを志向せざるをえないことをメタ的に表現していたのだ。
 そう考えながら今回の新作を聴くと、いま彼らが何をやろうとしているのかがクリアになってくる。本作で聴くことのできるサウンドはそのほとんどが、合成音声など一部の例外を除けば(いやもしかしたらそれでさえ)、すでに80年代や遅くとも90年代の時点で出揃っていたアイディアに範をとったものだ。新しさはない。では既存の手法の組み合わせ方が斬新かというと、そんなこともない。このアルバムのおもしろさは、そのように懐古的なサウンドが「オンライン上のコミュニケイション」という今日的なテーマと組み合わせられるという、その不均衡にこそある。
 いまでもポップ・ミュージックにおいて、言葉の面でみずみずしいテーマを追求することはじゅうぶん可能であるが、他方サウンドの面でそれに見合う新しさを生み出すことはきわめて困難になっている──まさにそのような昨今の状況こそ、彼らが肉迫しようと試みているモダニティなのではないか。入念に練られたザ・1975のこのアルバムを聴いていると、強くそう思わずにいられない。

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