Home > Reviews > Book Reviews > エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する- オーウェン・ジョーンズ 著 依田卓巳 訳ブレイデ…
昨年12月、水道事業を民営化する伏線として改正水道法が成立した。いくつかのニュースサイトを見ると、大阪で地震が発生し、21万人以上が水道の被害を受けたことを理由に(というか逆手にとって)、「水道管の老朽化」問題を振りかざし、自・公、日本維新の会、希望の党など大多数の賛成によって可決されたという。ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で解き明かした、災害便乗型の新自由主義をぼくたちは目の当たりにしたわけである。
水は……水だけを飲んでいれば良いという言葉があるように、水は人間が生きてくうえでの命綱だ。それを民営化するというのは、経済状況によっては水も飲めないひとが出てくる可能性があるということだ。こんな重要で恐ろしいことがわずか8時間の審議で可決されてしまうのが、我が国の現状だ。しかもだ……、水道事業の民営化こそサッチャリズムであり、この政策がはじまって数十年後の現在、結局のところ失敗だったという事例はすでにある。当のイギリスにだって自治体によっては倒産したという話もあり、再公営化の動きさえあるという、にも関わらず……なのだ。(日本において新自由主義が本格的にはじまったのは小泉政権から。つまり、英米よりおよそ20年遅れではじまっている)
そういう意味でオーウェン・ジョーンズの『エスタブリッシュメント』の翻訳刊行は、日本の近未来を案ずるうえでの貴重な資料になる。新自由主義先進国のイギリスで起きたこと、そのプロセスと現状を知ること。まあしかし……もはやそんな悠長なことを言ってられないんだよというのが、日本で生活するひとたちの本音なんだろう。
というのもつい先日、厚生労働相は9カ月にわたる実質賃金マイナスを認めた。サラリーマンの平均収入は相対的にみてアジアでも最低レヴェルじゃないのかなどと言われはじめて久しいけれど、いよいよ現実味を帯びてきているというわけだ。ちまたには日本でサラリーマンやるより香港で家政婦したほうが稼げるんじゃないかという説もあり、こと文化産業に携わっている身としては暗澹たる気持ちにならざるえない(円安政策がどれほどレコード好きにとって弊害かという話はおいておいて)。与党はしかしアベノミクスの非を認めないし、またいままでのようにだらだらと世間の関心が薄れるまで時間だけが過ぎていくんだろうなぁ。……とまれ。『エスタブリッシュメント』からは、いま読み方によっては未来に繋がるヒントが導き出せるんじゃないかとも思う。
『エスタブリッシュメント』は、早い話、新自由主義に乗っかって、おいしい思いをしている連中のことを定義し直している。エスタブリッシュメントとは、支配的な経済エリートとも言えるだろうし、格差社会の上層部と言えるだろうし、そういう連中は、有能で高額な会計士を雇うことで巧妙な税金逃れをしながら、政治のみならずマスメディアも操作し世論すらコントロールできる立場を築いている。(ここでザ・クラッシュの“コンプリート・コントロール”でも聴いて気合いを入れよう)
よし、気合いが入った。エスタブリッシュメントとは、ある意味リベラルでさえある。LGBTにだってアプローチする。しかもエスタブリッシュメントには(金融が良い例であるように)お互いが助け合う社会主義がある。そしてエスタブリッシュメントは、エスタブリッシュメントではないひとたちを容赦なく蹴落としていく。
それはサッチャーが右翼というレトリックを使ってやってのけた、その後の世界の方向性を決定づける経済実験の行き着く先を象徴している。『エスタブリッシュメント』にはそのことが詳述されている。あまりにも詳細に書かれているので、イギリス政治マニアでもない限りすらすらと読める代物ではないけれど、ただし、左派も右派も呑み込んでいく新自由主義の恐ろしさを知るうえでは入魂のレポートであり、たんに自分の教養を肥やすためだけではないヒントもあるように読める。
ぼくがもっとも興味深く読めたのは、警察の話である。これは新鮮な驚きだった。ジョーンズによれば、第一次大戦後のイギリスの警察は、自分らの労働条件に不満を抱き、労働党を支持し、政府に楯突く存在だったそうで、しかしその警察を政府への反対勢力を取り締まるための兵器に仕立て上げたのもサッチャーだった。デモがあればデモ隊を鎮圧する役目を引き受けるあの警察とは、サッチャーが作り上げたもののひとつだったのだ。サッチャーは公務員や労働者階級にむごたらしい仕打ちをしたが、警察には砂糖を与え、そして人員を増やし、みごとに手懐かせた。それは、警察が新自由主義を守るうえで重要な役割を担っていることを見越しての政策だった。
しかしいまとなっては……たしかに、こんな文章を書いている人間は奇人であり、変わり者であり、アホであり、スマートではないマイナーな人間だと思わせてしまう世の中にしてしまえば、まあ、監視装置や対抗者撃退のために金をかけなくても済む。スリーフォード・モッズなんかのいうことはスルーして、口当たりのいい言葉をふるまうセレブの一挙手一投足に注目せよと。いや、こんなところまでジョーンズが言っているわけじゃないんだけれど。
だが、しかし、新自由主義の勝者であるエスタブリッシュメントがメディアさえも我がモノにしたとき、もはや警察の力はかつてほど重要ではなくなった。もともと公的資金を福祉や公共事業につぎ込むくらいなら儲かる話に投資しようというのが新自由主義なので、さほど重要ではなくなった警察に対して冷淡になるのは必然といえば必然である。かくして人員削減がはじまり、民営化がはじまり、かつては激突していた労働者たちと同じ運命を彼らもたどるにいたり、そして2012年には警察のデモがはじまった。数年前までデモを包囲していた人間がデモをはじめたというわけだ。
だれもがきつい思いをしているってことだ。右左関係なく、下の方にいる人間はきつい、『エスタブリッシュメント』を読みながらぼくが思ったのはそういうこと。ぼくはいま怒りのこもった初期のURが聴きたい。レゲエが聴きたい。パンクが聴きたい。スペシャルズが聴きたい。CRASSが聴きたい。底辺にいる人間の声が聴きたい。『エスタブリッシュメント』を読んでしまっては、そうするしかないだろう。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』も同じようにイギリスにおいての新自由主義の行き着いた現在を描いているが、フィッシャーが思想ないしは文化批評ならこちらは直球の政治ジャーナリズムだ。
で、結局のところ世界はエスタブリッシュメントにとって好都合にしかならないように動いていると。そうかもしれないが、歪みは見え軋みも聞こえはじめている。こうした流れをぼくたちなりに表現するためにも、たったいま、『別冊エレキング』臨時増刊号として「黄色いベスト運動」に関する一冊を作っている。3月末までには出る予定です。お楽しみに!
野田努