「Noton」と一致するもの

Sam O.B. - ele-king

 オベイ・シティ名義で2010年代初頭から作品をリリースし、ベース・ミュージックの中でもフューチャリスティックかつポップな作風で人気を博するサミュエル・オベイ。フォルティDLマシーンドラムなどに続き、ニューヨークにおけるベース・ミュージックの発展に貢献してきた彼だが、もともとヒップホップのトラックから作品制作を始め、トラップやR&Bにもシンクロするスタイルを持っている。マシーンドラムに紹介されてグラスゴーの名門〈ラッキミー〉と契約を結んでからは、「シャンペーン・サウンズ」(2013年)と「メルロー・サウンズ」という2枚の12インチEPをリリースしているが、それ以前の作品に比べてメロディアスで器楽性が高まっていった。DJ/トラックメイカーで、〈アストロ・ノウティコ〉というレーベルも運営する彼だが、デスクトップで作品制作をする以前はバンドを組んでベースを弾いたり、小学生の頃は学校のオーケストラに参加していたそうなので、もともとミュージシャン的な資質を持つアーティストだ。また、彼の父親は『ローリング・ストーンズ』誌などでコンサルタントを務めていた人で、幼い頃はそんな父のレコード・コレクションに触れ、ロック、ソウル、ジャズなどを愛好して聴いていたという。Seihoと組んで2014年にジャパン・ツアーを行なったこともあるが、その頃のインタヴューを読むとスティーヴィー・ワンダー、プリンス、トッド・ラングレン、スティーリー・ダン、ジョージ・デュークからの影響を述べており、彼の作品の断片からは確かにそうした音楽性も感じられる。「メルロー・サウンズ」はケレラなどのシンガーをフィーチャーした曲が多く、よりR&Bに接近した作品集だった。同年にはケレラのEP「ハルシオーネ」で、ガール・ユニットやキングダムらと組んで“リワインド”の楽曲プロデュースを行なっていたが、この頃のオベイ・シティはキングダムはじめ〈ナイト・スラッグス〉や〈フェイド・トゥ・マインド〉のアーティストたちと通じるサウンドだった。

 「メルロー・サウンズ」まではほとんどトラック制作のみだったが、その後は自身で歌う曲もいくつか作り始め、今回サムO.B.名義で初めてのフル・アルバムを作り上げた。名前を変えているのは、トラックがメインのオベイ・シティとの棲み分けということだろう。この『ポジティヴ・ノイズ』はシンガー、及びソングライターとしての側面がクローズ・アップされたものである。以前のインタヴューでも、1970~80年代のクインシー・ジョーンズのように自分の音楽をいちから作り上げるプロデューサーでありたいと述べ、そのクインシー・ジョーンズがプロデュースしたマイケル・ジャクソンを理想のシンガー像に挙げていたが、そうしたサミュエル・オベイの念願が叶ったアルバムだと言えよう。ヴォーカルにベース、ギター、キーボードなど各種楽器演奏、トラック制作を全てひとりで行っており、敬愛するスティーヴィー・ワンダーのようなマルチ・プロデュースぶりである。“ニアネス”はプログレとフュージョンを混ぜたような演奏で、トッド・ラングレンのユートピアあたりを彷彿とさせる。レイドバックしたブギー・フィーリングを感じさせる“コモン・グラウンド”は、ロック、AOR、ソウル、ディスコなどの折衷した作品で、ポップながらも捻りのきいたメロディ・センスはスティーリー・ダン譲りと言える。中性的に変調させたヴォーカルとシンセ・ポップ風のトラックによる“バランス”、メロウネスに富むミディアム・スローのシンセ・ブギーの“ソルト・ウォーター”や“リヴォルヴ”など、全体的に80sテイストの作品が多い。“サイレンズ”はハウ・トゥ・ドレス・ウェルあたりの方向性に近いR&Bで、ポップなメロディ・ラインと実験性を同居させている。“サムライ”は日本びいきの彼らしいタイトルで(サミュエルは大学時代に日本に9ヶ月ほど住んでいたことがあるそうだ)、ゲスト・シンガーのエリサのキュートなヴォーカルがフィーチャーされる。この曲や“ミッドナイト・ブルー”などはR&Bとも異なるインディ・ポップで、サミュエルが幅広い音楽的バックグラウンドを持っていることを示す。“ファイアーフライ”はニューウェイヴとエレクトロとAORディスコがミックスされたような不思議な魅力を持つ楽曲。“273 AM”はマリンバの音色がミニマルな雰囲気を漂わせ、ベーシストとしてのサミュエルの演奏が際立つ作品。ロフト・クラシックスとして知られるサン・パレスの“ルード・ムーヴメンツ”を思い起こさせるムードだ。R&Bの枠に収まらないポップ・ソングとしての幅広さを持ち、ソングライター、メロディ・メイカーとしての才能に満ちたこのアルバムは、近年で比較するならブラッド・オレンジの『キューピッド・デラックス』(2013年)や『フリータウン・サウンド』(2016年)にも匹敵する作品だと言える。

女神の見えざる手 - ele-king

 主演がジェシカ・チャステインだから観たいと思った。邦題も気を引いた(原題は『Miss Sloane』)。経済の話ではなく、ロビイストが立ち回る話なので、だとしたらジャンルが違うのではないかと思い、実際、上映が終わった刹那は違和感が残ったものの、時間が経ってみると、なるほどと思えてきた。ジェシカ・チャステインは『ゼロ・ダーク・サーティ』で上司の言うことを聞かなかったCIA役を踏襲するようにエキセントリックなトラクター役に挑んでいる。そのことを考えるとリーダーとしての成長ぶりを示すにはこのタイトルはメタ的な面白さも含んでいる(完全に術中にはまっているとも言える)。そう、ここ数年、経済的な痛手からニューエイジ志向へと進んだハリウッド映画が底を打って反転し、詐欺師でもなんでもいいから金を稼ぐ人物像に焦点を当て(『ele-king』15号参照)、そこで醸成されたリーダー像を『マネー・ショート』や『スティーヴ・ジョブズ』と言った合法的レヴェルに割り当てたのち、この作品ではさらに異常ともいえる領域に踏み込みんでいく。「神の見えざる手」に引っ掛けた邦題をそのまま経済の文脈で捉えてしまえば主体は人間ではないと思いがちだけれど、人間の定義からはみ出したリーダー像を思い描ければその限りではないという意味で「なるほど」と思ったのである。

 ジェシカ・チャステイン演じるエリザベス・スローンは冒頭、ロビイストの極意をゆっくりと暗唱し始める。その内容は最後のカードを切ったものが勝つという方法論で結ばれる。この映画を観ている人たちは必然的に最後にどんなカードが切られるのか、それを推測しながら観続けることになる。どの場面を観ていても、これかな、これかなと、「最後のカード」という言葉が頭から離れない。
 物語は公聴会を舞台にしてスローンが取った方法論を振り返る形で進められる。最初はスローンが所属していた会社に銃規制を弱めて欲しいという依頼が持ち込まれ、スローンはこの依頼を拒否したことで同社からの辞職を余儀なくされる。そして、別な会社に移って銃規制を強化するという反対のイニシアティヴを取って議員たちへの働きかけを行い始める。どうやって世論を動かすか。中盤の展開は押したり引いたりの繰り返しで、テニスやサッカーの試合でも観ているようにスリリング。とはいえ銃規制の議論自体はとくに深められない。法案の成立に至るプロセスだけがここでは緻密に描かれる。

 このところ欧米では盛んにサイコパスの有用性ということが論じられている。犯罪者として収監されているサイコパスはそのポテンシャルをマイナスに振り切っただけで、むしろ企業の経営者などには多くいるタイプだという研究が脚光を浴びているのである(あなたのサイコパス度チェックあり→https://www.youtube.com/watch?v=KApgaC_hI7M)。スティーヴン・ソダーバーグが『インフォーマント!』で扱った双極性障害や北欧ドラマ『ザ・ブリッジ』が人物造形に取り入れたアスペルガー症候群と同じく、サイコパスも資本主義のネクストには必要なものであり、新しい経営者像を探ろうという機運が高まっているのだろう。これまでの経営理念や哲学ではさらなる資本主義は召喚できないし、そのような資質のものを犯罪者として無駄にするのは社会の損失になるという判断である。そう思うと、『女神の見えざる手』はあまりにもタイミングが良すぎる。ミス・スローンが切った「最後のカード」はさすがに常軌を逸しているし、私生活では男娼を買い続けるという習慣だけが、むしろ、彼女に人間味を残すという展開はそれこそ皮肉が効きすぎている。

 しかし、この映画を観て、僕はドナルド・トランプの存在意義について考えざるを得なかった。トランプの支持率は現在、底だと言われている(55歳以上の大学を出ていない女性が岩盤支持らしい)。今年のエミー賞授賞式にクビになったスパイサー報道官が現れ、「就任式の聴衆の数は過去最大」というフェイク報道の名ゼリフをリピートし(目の前には彼のモノマネで大爆笑を取ったメリッサ・マッカーシーもいた)、まるで現職の時からトランプは支持していなかったと言わんばかりだったのを始め、トランプ・タワーをモスクワに建てる計画から経費の問題まで、あらゆる角度からトランプは信用を失っているかに見える。ウクライナや日本に武器を買わせるのは成功しているみたいだけれど、ホワイトハウスはいまだに職員が集まらないそうで、職員ひとり当たりの労働量には尋常ではないものがあるらしい。これはしかし、サイコパスとしての資質が裏目に出ているだけであって、そのことにみんなが慣れてしまうのではなく、一気にひっくり返ってしまう可能性を秘めているような気がしてきたのである。

 スローンが取った戦略はトランプ政権の現在とまったくの相似形を描いている。そのような窮地に自分を追いやっていく。そもそも公聴会を開かせることさえ計算済みだったのだろう。そして、これかな、これかなと、「最後のカード」について考えながら観ていた観客には、これは、ほんと、思いもよらない展開であった。そして、ドナルド・トランプに、もしもこの先、「勝ち」があるとしたら、この手があると思わせる映画なのである(粉川哲夫氏の「雑日記」でトランプに触れられている項目を読んでいると、だんだんそういう気にもなってくる→https://utopos.jp/diary/)。わからないのは、現実の世界でトランプがそれによって何を得るかであるけれど、この映画では、ミス・スローンは当然のことながらロビイストとしての「勝ち」を得る。クライマックスを過ぎ、静かなエンディングを迎えても、それがまたダーティー過ぎて、ほんと、すっきりしなかった。

 ドナルド・トランプが就任式で引用した……というか、ベインのセリフを丸パクリした『ダーク・ナイト・ライジング』を始め『ダメージ』や『Mr. ロボット』など、いまから思えば多くのサブカルチャーがトランプへの流れを予見していたにもかかわらず、こんな世界がやってくるとはまったく思ってもいなかった。『女神の見えざる手』はそんな気分に追い打ちをかけてくる。なんか、違うジェシカ・チャステインが観たくなってきた。


1967年、予定通りリリースされていたら『サージェント・ペパーズ』を凌駕したと語られてきた幻のアルバム、それは世界でもっとも有名な未発表アルバム――、しかしその真の姿は、より素晴らしいものだった――

萩原健太が精魂込めて描くビーチ・ボーイズと『スマイル』物語

ビーチ・ボーイズは時代を超えて輝く永遠のカリフォルニア・ティーンエイジ・ドリームを懐メロ寸前のところで歌い継いでいるんだ、と。そう思った。彼らが60年代に構築したその夢を、時代を超えて正当な権利とともに受け継ぐことができるのは、他の誰でもない、彼ら自身、ビーチ・ボーイズしかいないのだから。 (本書より)

●著者について
1956年、埼玉県生まれ。音楽評論家。ディスクジョッキーなど。ライナーノーツは数え切れず、音楽プロデューサーとして米米クラブ、ユースケ・サンタマリア、山崎まさよし、田原俊彦、憂歌団の諸作も手掛ける。著書には『はっぴいえんど伝説』『70年代シティ・ポップ・クロニクル』『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』『アメリカン・グラフィティから始まった』など。


元売春婦、麻薬中毒者、そして最初の「プロテスト・ソング」を歌った女性、偉大なるジャズ・シンガーの壮絶な人生を描いたコミック・ノベル

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この本は一冊のブルースだ。イントロで始まり、アウトロで終わる。各章のタイトルは、私のお気に入りのレディ・デイの曲名からとった。ブルースについて語るのは、身の回りで起こったこと、生きてきた人生の断片などについて語ることだ。ブルースが、私たちを解き放ち、意思を表現するのだ。ブルースは、エンターテイメントであり、語りである。そして、ブルースは政治的表明でもある。 (著者あとがきより)
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南部の木々には奇妙な果実がみのる……

稀代のイタリア人グラフィック・アーティスト=パオロ・パリージによる
スピリチュアル・ジャズ・コミック第2弾が描くのは、
不世出のジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイ。
しかしなぜいまビリー・ホリデイなのか?

前著『コルトレーン』は2009年にイタリアで出版され、
その後計7ヶ国で出版されるなど世界中で好評を集めた。
それを受け次の作品を描き進めていた著者パオロ・パリージは、
急遽予定を変更し、ビリー・ホリデイをとり上げることを決意。

ブラック・カルチャーが煮えたぎるいまだからこそ読みたい1冊、
待望の日本語訳が登場!

解説:平井玄

パターソン - ele-king

 私はパターソンに足を運んだことはないが、ニューヨーク州の隣のニュージャージー州の北部、パサイク郡の郡庁所在地であるかの地は、それがオールロケであってもなくても、画面に映りこんだ街並みから空想するに、都市の喧騒に遠い、いくらかとりのこされた、緑の多い住みよい街のようである。郊外に向かう電車の窓に映る景色がごみごみした都心を抜けた途端にひらけるあの感じ、あるいは金沢とか仙台とか札幌とか、涼しげな土地を連想してしまうのはおそらく、街の情報以上に映像にとらえられた光と空気のせいである。光の差す位置は低く事物の陰影は深い。デジタルでありながら、その色彩感覚はきわめて写真的、ことに70年代のニューカラーを髣髴したのはイメージがエグルストンやショアに似ているからではなく、この世界における映像イマージュの階層が変質したなかにあってこの映画の映像の位置関係がニューカラーが写真史にもたらしたそれに近似するからである。フィルムに色を感光する行為はモノクローム基調の写真史の飛躍のひとつだったが、初期のニューカラーの写真には表現と技術の不安定さからくる、色彩を得ることと同時に喪失することのゆらぎがあった。色はあらかじめ褪せることを含意し、イメージはそれが過去のものであるという形式がもたらす事実以上に圧倒的に非在だった――と思わず間章っぽくなってしまうほど、3DやCGやVRやARやMRがはびこるイマージュによる象徴界で、ジム・ジャームッシュの80年の『パーマネント・バケーション』から数えて12作目の劇映画『パターソン』のフレーム内の色彩と陰影と構図は端正であり、つまるところそれは古典的である。

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 筋書きはいたってシンプル。ジャームッシュはパターソンを舞台に、街とおなじ名前の主人公パターソン(アダム・ドライヴァー)とその妻(ゴルシフテ・ファラハニ)、そこに暮らすひとたちの一週間を淡々ときりとっていく。撮影監督はフレデリック・エルムズ――ジャームッシュ作品では『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年)をかわきりに、2003年の『コーヒー&シガレッツ』を担当した人物だが、古くはリンチの『イレイザー・ヘッド』(1976年)を撮っていた。彼との直近の仕事は2005年の『ブロークン・フラワーズ』といえば、『パターソン』のトーンをご理解いただけるだろうか。あの作品のビル・マーレーはジャームッシュ作品では比較的クセのないほうだったが『パターソン』でのアダム・ドライヴァーはそれに輪をかけて淡泊である。午前6時には目をさまし朝食をとり仕事にでかけていく。あとにする自宅は、私はアメリカの住宅事情に詳しくないが、おそらく子どものいない若夫婦と犬一匹が暮らすには広すぎず狭すぎない、典型的な物件である。職場までは徒歩でゆく。職場についたパターソンは出発前のバスの運転席でノートになにやら文字を書きつける、そこに同僚がやってきて手は止まる、バスは発車しパターソンの市街を横切っていく、フロントガラスに映る市街地の風景は構図のなかの消失点に吸いこまれるかのよう。古い街なみ。その街にまつわる話を、乗客がする声が運転席のパターソンの耳にとどく。ある日のそれはひとを殺したボクサーの話でありべつの日にはドーナツ屋のいかした女のこともある、パターソンに住んでいたアナキストについて話す学生たちが乗り合わせることもあるだろう。仕事が終わった食後には愛犬マーヴィンの散歩の途中でなじみのバーによることもある。そこで交わす会話は音楽ネタとユーモアをちりばめたいかにもジャームッシュらしいものだが、80~90年代諸作とくらべると、かつて編集がもたらしたオフビートな感覚が役者の演技の間に置き換わっており、いくぶんゆったりと、とてもまろやかである。彼らとの出来事ともいえない出来事がパターソンを触発するともなく触発する、月曜から次の月曜までくりかえす日々にふれられることでパターソンは詩人になる。

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 うかつな私は書きもらしましたが主人公パターソンはバスの運転手であるとともに詩人でもある。すてきというしかないこの設定が『パターソン』の奥行きである。私は詩については門外漢だが、詩が最初の一行のイメージにはじまりついでイメージをイメージへ橋渡すものなら、『パターソン』の構造そのものが詩である。ところがそれは詩的といったときに、私をふくめ多くのひとが思うような感傷とは無縁であり、作中にコインランドリーのラッパー役でワンシーンだけ登場するメソッド・マンが、詩人としてのパターソンのモデルになったウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩作哲学を借りてつぶやくように、「事物からはじまる観念」なのであり、マッチ箱や靴箱などとわかちがたい、現実に潜ったイメージの群れのようなものを、かつて詩を学んだジャームッシュは映画という、やはりイメージの連なりである形式のなかでたどり直している。むろん映画は詩であるという命題は蕪雑にすぎるが、きりとる視点によっては現実は映画になり文学になり音楽になる、つまりアートになる――などというそっくりかえった言い方をしなくとも、私たちのおくる日々には一日たりともおなじ日はない、とジャームッシュは『パターソン』で種々のイメージをいつくしむようにとらえていく。ときにそれはパターソンの名勝であるグレイトフォールズの水のイメージのもたらす広大無辺さであり、ポール・ローレンス・ダンバーやフランク・オハラやエミリー・ディッキンスン、パターソン生まれのアレン・ギンズバーグやウィリアム・カルロス・ウィリアムズといった米国の詩人の命脈である。それらは符牒となり作品全体に交響していくのだが、そこには桂冠詩人の厳かさや壮麗さに遠い、自由(律)の(オフ)ビート感覚がある。一節ひいてみよう。

「冷蔵庫のスモモを食べた
たぶん君の朝食用だね
許してくれ
おいしかった
甘くて
よく冷えてたよ」
(ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ「言っておくよ」)

 作中後半でパターソンは妻ローラに彼女が好きだというこの詩を朗読する。うかつな私は詩にうといので詩と散文のちがいも定義できないが、このような唯物観は、広津和郎の散文性とはいわぬまでも、たとえば谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」とか田村隆一の諸作とか、ある種の韻文が散文にひらかれるさいにはらむ質朴な力感と余白を思わせるだけでなく、『ダウン・バイ・ロー』でのホイットマン、『デッドマン』でのウィリアム・ブレイクら、ジャームッシュがこれまでの作品で言及してきた詩人の諸作と響き合い、ことばとイメージがアメリカのみならず世界に波及しやがて覆い尽くすジャームッシュのヴィジョンの根拠にもなっている。むろんブルースマンとロッカーとラッパーの列席も欠かせない。その意味でノーベル財団は40年はおくれている。と書きながらいまふと思ったのだが、上述のW・C・ウィリアムズの詩の一節に出てくるスモモ(plums)は『ミステリー・トレイン』(1989年)で永瀬正敏と工藤夕貴のカップルが持参し、ホテルのフロントにいたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが丸呑みしたスモモの暗喩なのではないか。この詩を読んだ翌日、あることで失意の底に沈んだパターソンはグレーとフォールズの前で日本人の詩人(永瀬)と束の間の出会いをはたす。この「浄化」を思わせる場面、なんなら「癒し」といってもいいこのシーンでしかしジャームッシュは感情を昂ぶらせない、それを押しつけないのはこの映画を彼自身「解毒剤」とみなすからだろう。なんにとっての? スペクタクルとしての映画がはびこる昨今の状況にとっての。むろんこの一文の映画はあらゆる文言と置換可能であり、おそらく現在のアメリカの政治/状況とも無縁ではない。タッチは禁欲的で円熟も感じさせる。ロン・パジェットの手になる作中の三編の詩も見事である。音楽はジャームッシュがその一員であるSQÜRLが担当している。アンビエントを思わせつつもパターソンの思考に同期したようなゆるやかな起伏をもつサウンドトラックは当初「著名なエレクトロニック・ミュージシャンのアーティストのトラックを集めて、映画音楽にする予定だった」というのだが、私はそれがOPNではなかったかと邪推している。というのも―― (以下『ギミー・デンジャー』評につづく



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 ライアーズがニュー・アルバム『TFCF(Theme From Crying Fountain)』をリリースした。アーロン、ジュリアンが抜け、アンガス一人になった今作は、抑圧ヴァージョンだが、明らかにライアーズである。何作もライアーズを聴き続けているが、ライアーズはいつも違って、いつも同じなのだ。あまりにも独特で、いまだにファンを惹きつけている。

 初期2000年代のアート・パンク/ノイズ・パンクから、そしてグリッジー、そしてダンサブルな変態エレクトロ・ポップを経ての今作は、ある意味ライアーズ史において一番おとなしい。とはいってもライアーズなので、1、2曲聴いただけでは全体の物語はつかめない。まずはライアーズのお得意の、急き立てられるダーク・エレクトロあるいはフォーキーなサイドが耳に入る。

 8月最終月曜日の夜に、グリーンポイントのブルックリン・ナイト・バザーで、『TFCF』のリスニング・パーティがあった。アルバムのカヴァー・アートのテーマを踏襲して、会場は赤白の風船とウエディング・ケーキ、白鳥の花瓶などが飾られていた。アンガス自らがフロントで、ウエディングドレスとベールを着てのDJをはじめる。

 アンガスのセットはハイパーな折衷主義で、キンクス、クリス・クロス、ファクトリー・フロア、グレゴリアン・チャンターズ・エニグマ、ジョン・ホプキンズなどをプレイ。自分の曲もかけていたが、DJ中は真剣な顔で画面に向かい、ニコリともせず、そして10時ぴったりに最後の曲を終えると、何も言わず会場を去った。
 お客さんは、フロアで踊っている人もいたが、ほとんどがウエディングドレス姿のアンガスを、ウエディング・ケーキのお裾分けを食べながら凝視しているという、なんとも奇妙な光景だった。招かれざるウエディング・パーティに足を踏み込んだ感じで、その居心地の悪さがじつにライアーズらしい、と笑ってしまった。会場には、今回のツアー・バッキング・バンドであるバンバラのメンバーや音楽ブログのエディターなどが勢ぞろいしていたが、みんなこの奇妙な状況を面白がった。いかにもいまの時代らしいね、と。

 ライアーズは、数週間前(ヨーロッパツアーの前)にアルファヴィルという小さな会場でシークレット・ショーをしたばかり(その時は満員!)。この後は、アメリカを周り、ブルックリンには9/21に帰ってくる。会場のワルシャワは、以前アンガスが怪我をして、座りながらショーをした事も記憶にあるが、ライアーズにはお馴染みの会場である。新メンバーでどういったショーを見せてくれるか、いまから楽しみである。

Portico Quartet - ele-king

 昔からUKではエレクトロニック・ミュージックとジャズの融合が盛んで、1990年代後半から2000年代にかけてのクラブ・シーンでも、カーク・ディジョージオ、イアン・オブライエン、ジンプスター、イアン・シモンズ、スクエアプッシャー、マックス・ブレナン、ハーバート、フォー・テット、シネマティック・オーケストラ、トゥ・バンクス・オブ・フォーなどの作品にそうした傾向が見られる。現在でそうした融合を引き継ぐアーティストというと、シネマティック・オーケストラ、ホセ・ジェイムズ、フライング・ロータスとも共演し、最近はセカンド・アルバムの『ザ・セルフ』を発表したばかりのドラマー、リチャード・スペイヴンが思い浮かぶ。昨年アルバム『ブラック・フォーカス』を発表したユセフ・カマールもそうだし、フローティング・ポインツの作品の一部にもエレクトリック・ジャズの要素は見られる。また、形態としては純粋なピアノ・トリオのゴー・ゴー・ペンギンも、最新作『マン・メイド・オブジェクト』においてはロジックやエイブルトンを用いて作曲するなど、エレクトロニック・ミュージック的なアプローチも取り入れている。ゴー・ゴー・ペンギンはマシュー・ハルソール主宰の〈ゴンドワナ・レコーズ〉からデビューしているが、このたびその〈ゴンドワナ〉から新作『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』を発表したのがポルティコ・カルテットである。

 東ロンドン出身のジャズ・バンドのポルティコ・カルテットは、ゴー・ゴー・ペンギンよりもキャリアが長く、2007年にファースト・アルバムを発表している。今までにメンバー交代があったが、現在はジャック・ワイリー(サックス、フルート、キーボード、エレクトロニクス)、ダンカン・ベラミー(ドラムス、パーカッション、エレクトロニクス)、マイロ・フリッツパトリック(ダブル・ベース、エレキ・ベース)、キア・ヴェイン(ハングドラム、キーボード)という編成である。彼らの特徴はハングドラムという特殊な楽器(スティールパンを逆さにしたような形で、音色もそれに近い金属的なものがある)を用い、その音色も含めてジャズに民族色を持ち込んでいる点で、楽曲にはミニマルや現代音楽、ポスト・ロックの要素を感じさせるものが多い。2009年から2013年にかけてはピーター・ガブリエル主宰の〈リアル・ワールド・レコーズ〉に所属し、3枚のアルバムを残しているが、その中の1枚の『ポルティコ・カルテット』(2012年)ではプログラミングと生演奏をシームレスに繋ぐなど、エレクトロニック・ミュージックの比重がかなり高まったものとなった。そのリリース・ツアーをライヴ・アルバム化した『ライヴ/リミックス』(2013年)は、そうしたエレクトロニック・ジャズが最高のパフォーマンスで発揮されると共に、SBTRKT、LV、DVAなどポスト・ダブステップ~ベース・ミュージックのアーティストによるリミックスで、ジャズをまた新たな領域へ導いていた。その後、2015年には〈ニンジャ・チューン〉に移籍し、ポルティコ名義で『リヴィング・フィールズ』を発表。この移籍は大いに期待を膨らませたのだが、実際にはジャズの要素は後退し(と言うより、ほとんどなくなってしまっていた)、ジェイミー・ウーンやジョノ・マックリーリーなどのシンガーをフィーチャーしたダブステップ寄りのアルバムとなっていた。この変化については、ハングドラム担当のキア・ヴェインがバンドを抜け、3人となってしまったことも関係していたようだ。結果的にあの特徴的なハングドラムの音色も聴けず、正直なところ『リヴィング・フィールズ』はエレクトロニック・ミュージックとしては凡庸なアルバム、という域を出ていなかった。

 その『リヴィング・フィールズ』から2年経ち、キア・ヴェインがバンドに復帰し、〈ゴンドワナ〉へと移籍してリリースしたのが『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』である。ゴー・ゴー・ペンギン以外でも、ママル・ハンズ、ジョン・エリスなど、エレクトロニクスをジャズに取り入れた意欲作を出す〈ゴンドワナ〉なので、この移籍はポルティコ・カルテットにとっても本来の音楽をやる場を獲得したと言えよう。4名のバンド・サウンドに立ち返ると共に、ヴァイオリンなどストリングスを加え、アコースティックな生演奏とエレクトロニクスの融合に再び挑んでいる。なお、一部アディショナル・ベースでトム・ハーバート(ジ・インヴォジブル、ポーラー・ベアーなど)も参加している。エスニックな響きを持つストリングスとサックスによる“エンドレス”は、ダブ効果やエフェクトの残響音によって深遠なムードを高めたジャズ・ロック調の作品。UKならではのダークで陰影に満ちた音像は、続くダウンテンポ調の“オブジェクツ・トゥ・プレイス・イン・ア・トム”へと引き継がれる。この曲は途中でリズム・チェンジし、ブロークンビーツ調の躍動的なドラミングが披露される。全体的にシンセが効果的に用いられたアルバムだが、たとえば打ち込みのハウス・ビートと生ドラムをシンクロさせた“ラッシング”では、人工のコーラスのように聴かせたりする。硬質なジャズ・ロックの“ア・リムジン・ビーム”は、生演奏のダイナミズムとエレクトロニクスによるコズミックな質感を融合させ、フローティング・ポインツにも通じるような作品となっている。“RGB”も同系の作品で、こちらではジャック・ワイリーの電化サックスが活躍する。“ビヨンド・ダイアログ”はハングドラムの浮遊感に満ちた音色から、ダブステップを取り入れたような変則的なビートも導入されるダビーな作品。“カレント・ヒストリー”や“ラインズ・グロウ”は、変則ビートながらもミニマルなグルーヴを備えた曲。生ドラムとプログラミングの融合だからこそ生み出せるものだろう。“アンダーカレント”はゴー・ゴー・ペンギン同様に叙情的なピアノと律動的なドラムがリードし、シンセによるレイヤーが壮大なサウンド・スケープを形成していく。かつての『ポルティコ・カルテット』でも、プログラミングが生演奏へとシームレスな移行する様を見せていた彼らだが、『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』ではさらにその融合が高度となり、またバンド・アンサンブルや楽曲の完成度もより洗練化されたと言えよう。

第1回:アメーバの記憶をとりもどせ - ele-king

いくぜ共謀、キャッツアイ
ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!!

 おひかえなすって。栗原康ともうします。こんかいは連載の1発目なので、おもに自己紹介を。わたしは単細胞だ。いまハヤリのミドリムシを食べているとか、そういうことじゃない。たんに細胞レベルでバカなのだ。なにか好きなことができると、サルのようになんどもなんどもおなじことをくりかえしてしまう。それこそおぼえたてのオナニーのように、無闇やたらとおなじことをくりかえしてしまうのだ。たとえば、ずっとハマっているのがドラマをみることだ。毎日、昼すぎにおきて、朝ドラの再放送をみて、テレ東の海外ドラマをみて、午後のロードショーか、相棒の再放送をみて、フジテレビのドラマの再放送をみて、ちょっとだけ夕寝をして、夜ごはんを食べて、また9時からのドラマをみる。それでフロにはいって、ビールを飲んで、深夜ドラマをみて、睡眠をとって、また昼すぎにおきるのだ。毎日、毎日、おなじことのくりかえし。日々精進だ。
 もちろん、はじめからのぞんでそうしたわけじゃない。15年くらいまえからだろうか。大学院にはいって、授業数もすくないので大学にいく機会もへり、しかもカネがないので、外であそぶこともできやしない。埼玉の実家にひきこもった。大学院をでてからは、ほとんど仕事もなくて、奨学金で借金まみれになったので、なかなか東京にでることもできなくなって、ひきこもりに拍車がかかった。それでなにをしたのかというと、ドラマだ、ドラマをみまくったのである。正直、しんどいときもあった。親からもかの女からも友だちからも、おまえそろそろはたらけよ、成長しろよ、大人になれといわれて、ヘドがでるぜとおもいながらも、グッタリしてテレビをつけたら、再放送でみたことのあるドラマがまたやっているわけだ。なんか成長どころか、過去にもどったというか、どうあがいても先へはすすめないとおもわされる。オレの人生、ずっとこのくりかえしか。あたまがグルグルまわって、めまいがする。いきぐるしい。
 でもおもしろいもんで、これをさらにくりかえしていると、きもちよくてしかたがなくなってくる。ドラマが現実になるというのだろうか。いっとき深夜になると、宮藤官九郎脚本のドラマがひたすら再放送されているときがあったのだが、これがまたいい具合に郊外の若者をえがいていて、それこそ『木更津キャッツアイ』(2002年)なんかは、なんどみたのかおぼえてないくらいだ。ちょっとだけあらすじを紹介しておくと、主人公・岡田准一が演じるぶっさんは、20代前半にして無職、地元の木更津でただブラブラしていた。でも、とつぜんガンで余命半年の宣告をうけてしまって、生きかたのみなおしをせまられる。ガーン。こりゃもう死んだつもりで生きるしかない。ということで、やりはじめたのが窃盗団だ。オレ、キャッツアイにあこがれてたんだよといって、地元の野球仲間をあつめて、じゃんじゃかじゃんじゃか、金持ちのものをかっぱらい、ビールを飲んではしゃいでおどる。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! ひゃあ、サイコーだ。とちゅう、ホームレスの友だちがチンピラにゴミみたいにぶっ殺されて、検死にきた警察にもゴミみたいなあつかいをうけて、ぶっさんが猛烈にブチキレたりと、ド迫力のシーンもあったりするのだが、とはいえ全体としてはコミカルで、ぶっさんが死ぬ、死ぬといって、なかなか死なないというのが肝のドラマだ。死ぬまえにいちどはといって、ぶっさんが東京にいく回もあるのだが、うごく歩道に驚愕して、なんじゃこりゃあ、ウキャキャキャッとサルみたいにはしゃぎまくったりもする。そういうのもみどころだ。くりかえすと、テーマは死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんの心意気が友だちの心をうって、みんなに伝播していく。そんなものがたりだ。いくぜ共謀、キャッツアイ。ニャア。

過去にむかって進撃せよ
アメーバの記憶をとりもどせ

 そんなドラマをみつづけていたら、いつしか自分もぶっさんの生きかたがあたりまえになっていた。オレもおまえもキャッツアイ、友だちだ。というか、だれだっていま死ぬかもしれないのに、成長だ、成長だ、かせげ、かせげ、もっとかせげと、そんなことやらなきゃいけないなんて意味がわからない。ああ、めんどくせえ。そうおもったら、パッと体がかるくなっていて、この先どうこうじゃない、いまつかえるものをつかって、なんでも好きにやっちまえばいいんだとおもうようになった。親のSuicaをかっぱらって東京にでたり、友だちがやっている大学の授業にもぐらせてもらったり、ゴミ箱からなのか本屋からなのか、どこからともなく友だちが本をひろってきて、それを借りてむさぼりよんだりした。カネがあったらビールを飲んで、なければないでビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! とはしゃいでいると、だれかがかならずおごってくれる。こんどはそのくりかえしだ。ムダなことしかマジになれない。無闇やたらと本をよめ。
 きっとドラマをみるというのは、そういうことなんだとおもう。もじどおり、単細胞になるといってわかるだろうか。ふだん、わたしたちは時間のながれを、未来にむかって上に、上にすすんでいかなくちゃいけないとおもわされている。成長、進歩、あめあられ。子どもから大人へ、野蛮人から文明人へ。もっと文明的に、もっと文明的に。いそげ、いそげ、カイゼン、カイゼンといわれて、そのスピードがどんどんはやまっている。いまだったら、スマホから片時もはなれずに、時間のムダなく情報をつめこんだり、たれながしたりするのが文明的というところだろうか。かせいで、ホメて、ホメられて。自由だ、自由だ、リベラル、リベラル。情報に情報で着飾っていく。
 もはや人間はスマホのデータみたいなもんだ。これ冗談じゃなくて、マジでそうおもっている連中がふえているからこそ、役たたずというか、ずっと街でブラブラしていたり、はたらこうとしなかったり、はたらけなくてグッタリしていたりしたら、つるしあげられたり、襲撃されてぶっ殺されたりするようになっているのだ。家にもいられず、公園にもいられず、ネットにもいられず、施設にいてもやられてしまう。有害なデータは消去せよ。みんなに迷惑かけるから。いそげ、いそげ、ムダをはぶいて、カイゼン、カイゼン。文明社会を防衛しよう。データをとって、不穏分子を事前にハイジョ。抑圧、抑圧、いきつく先はファシズムだ。どうしようもねえ。
 で、はなしをもどすと、単細胞だ。アメーバでもなんでもいいが、単細胞はチマチマなにかをたくわえて成長するんだとか、上昇するんだとか、そんなことは考えていない。だって、なんかグニャグニャうごいているとおもったら、体がバンッとはじけて、ふたつのアメーバに分裂してしまうのだから。しかもひとつの母体から、もうひとつがうまれるわけじゃない。まえのアメーバは消滅してしまって、まったくべつのアメーバがうまれているのだ。そこには、上昇もカイゼンもありゃしない。いつだって、ゼロからはじまるいまこのとき。死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんだ。ぶっさんが死ぬまえに窃盗団をつくりてえといったのとおなじである。よく考えてみると、むかしもいまも革命や暴動がおこったとき、群衆は自分の命をかるがるとなげすてて、警察や軍隊とバトルしているが、それもおなじことなんじゃないかとおもう。そうだ、人間の身体には、太古から単細胞の記憶がやどっている。あとは、それを覚醒させればいいだけのことだ。きっと、ドラマにはそれをよびさます力がやどっている。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! リベラルもファシズムもクソくらえ。そもそも文明社会なんていらないんだ。過去にむかって進撃せよ。子どもだ、サルだ、野蛮人。アメーバの記憶をとりもどせ。ドラマをみるということは、文明人の皮をひっぺがすのとおなじことだ。1枚、1枚、ゆっくりとやろう。細胞レベルでさけんでみせる。ドラマバカ一代。ニャア。

ハテナ・フランセ - ele-king

 シモーヌ・ヴェイユとジャンヌ・モロー、最近亡くなった一見あまりつながりのない2人を取り上げたい。

 シモーヌ・ヴェイユは1927年、ジャンヌ・モローは1928年生まれとほぼ同じ歳の2人は正反対のやり方ながら、フランスの女性観を大きく変えた。
 日本語読みでは「重量と恩寵」の哲学者と同じや読み方だが、苗字の綴りが違うフランスの政治家シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系のブルジョワな家庭に生まれ、第二次世界大戦中はアウシュビッツ強制収容所に一家で容され妹と彼女だけが生き延びるという凄絶な少女時代を過ごした。ジャック・シラク、レイモン・バール両内閣で保健相を務め、1975年に妊娠中絶を合法化し、その法は彼女の名を取ってヴェイユ法と呼ばれた。そのことにより彼女は「女性の権利を守った重要な政治家」として亡くなるまで高い評価と尊敬を集めた。だが、シモーヌ・ヴェイユは実は先進的なフェニミストではない。元々保守的なブルジョワジーの家庭に育ち、政治家を目指す夫と3人の子を成し添い遂げるという、保守的なスタイルを生涯に渡って貫いた。もともと政治家への道は実は彼女の夫が目指していた道だったが1974年にその夫を差し置いて保健相のオファーを受け、夫は逆に政治の世界から退き彼女をサポートした。だが、それでも彼女の保守的な姿勢は変わることなく、保健相として妊娠中絶を合法化したのも女性の権利という観点ではなく、違法な中絶を受けることにより損なわれる健康被害という観点から取り組んだ法案だったという。政治界を退いて久しい2012年、オランド政権が同性婚法を成立させようとする中、シモーヌ・ヴェイユは法案に反対の立場を表明したのだった。完全に今の政治的正しさの逆を行く発言に「そんなピント外れな発言をわざわざして輝かしく保っていたキャリアにミソをつけなくても……」とフランスの多くのインテリ層はがっかりした。シモーヌ・ヴェイユは保守的な政治的信条を曲げぬまま、フェミニズム史上に名を残す業績を残した稀有な女性政治家なのだ。

 対してジャンヌ・モローは、生涯を通じて社会の枠組みの中で女性にかけられていた制限をことごとく壊し、自由を標榜し続けた女性だ。彼女はシモーヌ・ド・ボーヴォワール、カトリーヌ・ドヌーヴらと並んでヴェイユ法を通すための署名をした有名人の一人だが、”イズム”という枠組みにはめられたくないということでフェミニストではないと公言していた。1975年、テレビのインタヴューに応えたジャンヌ・モローの映像は今でも度々メディアで引用されるほど伝説のものとなった。Youtubeなどでも見られるが、ヴェイユ法を通すための署名になぜ参加したのかなどを、階級社会であるフランスにおける貧しい女性たちの置かれた過酷な状況へ鋭く言及しつつあくまで個人的な視点を保ちながら話している。緑のドレスを着てタバコを燻らせながらアンニュイに、時にジャーナリストの挑発に反抗的な色を目に宿しながら反論するジャンヌ・モローは美しく痺れるほどかっこいい。結婚を2回し子供を1人持ったが、子供は欲しくなかったとメディアで堂々と話し物議を醸し、出産も2時間という超特急で済ませ分娩室から戻った途端に監督に電話し18日後には撮影現場に戻れると宣言したという。離婚後も自他共に認める誘惑者たるべく、幼い息子と一緒に暮らしながらもいつでも恋人を招けるように大きな家に住み、そのせいで一人息子のジェロームは子供の頃から孤独に苦しんだという。従来男性にとっては勲章であり、女性にとっては侮蔑にもつながりかねない誘惑者のレッテルを堂々と引き受け謳歌すること、それがフランス映画界のトップ女優によって発せられることによって、フランスにおける女性のあり方そして女性観は確実に変わったと言えるだろう。そしてシモーヌ・ヴェイユがインテリ層をがっかりさせたのと同じ最晩年の2013年、ジャンヌ・モローはロシアで拘束されていたプッシーライオットのメンバーの解放を求め声明を発表する。それにより老いてもなおジャンヌ・モローの知性と政治的姿勢は少しも揺るぎないことにフランス国民は尊敬を新たにしたのだ。

 6月末に4人の閣僚が身内雇用疑惑などで相次いで辞任するとともに、これまでの大統領と結局変わらないのではという失望感を持たれ始めている現マクロン政権だが、政権発足当時閣僚の半数が女性、そして重要なポストをバランスよく占めたことをフランス国民は高く評価した。ここに至るまではシモーヌ・ヴェイユやジャンヌ・モローらのような女性たちの戦いが日の当たる場所当たらない場所で数かぎりなくあったに違いない。

Toro Y Moi - ele-king

 夏の夕暮れどきのビーチにピッタリの音楽が今年もいろいろとリリースされた。『ele-king』のレヴュー・コーナーで取り上げたものだと、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』やピーキング・ライツの『ザ・フィフス・ステイト・オブ・コンシャスネス』がそれにあたる。そして、かつてウォッシュト・アウトと共にチルウェイヴの旗手として鮮烈に登場したトロ・イ・モワことチャズ・バンディック(チャズ・ベアー)。彼の新作『ブー・ブー』も2017年の夏を彩る1枚だ。ウォッシュト・アウトもトロ・イ・モワも、いつも夏シーズンにアルバムをリリースすることが多いが、そのあたりはもう確信犯的とも言える。そして、両者には共通項も多い。初期のシューゲイズ的な作風から、次第にディスコなどを取り入れたダンサブルなサウンドへと変化していった点がそうだ。

 トロ・イ・モワについて言えば、そうした変化の兆しは既にセカンド・アルバムの『アンダーニース・ザ・パイン』(2011年)の頃から見られ、EPの「フリーキング・アウト」(2011年)ではシェレールとアレキサンダー・オニールのクラシック“サタデー・ラヴ”をカヴァーし、1980年代前半のブラコンやシンセ・ブギーをリヴァイヴァルするデイム・ファンクあたりともリンクしていた。サード・アルバムの『エニシング・イン・リターン』(2013年)では、そうしたダンサブルな傾向はハウス・サウンドとの融合という形で表れている(チャズの別名義のレ・シンズは、この路線をさらに強化したエレクトロニック・ダンス・プロジェクトである)。この年はダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)がリリースされるのだが、そうしたディスコ/ブギー回帰とも同期した作品と言えるだろう。その後、第4作目の『ホワット・フォー?』(2015年)は1970年代のトッド・ラングレンやチン・マイア、コルテックスなどにインスパイアされたというように、ロックやポップ・ミュージック、AORに改めて向き合うような作品が目に付いた。彼の作品中でもっともロック~シンガー・ソングライター色が濃い作品で、チャズのギターを中心に、バンド演奏が前面に出た録音である。

 今年2017年に入るとチャズは、双子のジャズ~ポスト・ロック~サーフ・ミュージック・コンビのマットソン2とのコラボ作『スター・スタッフ』を発表する。『ホワット・フォー?』の路線をよりエクスペリメンタルなジャム・バンド風セッションへと導き、ジャズ、ロック、ファンク、ディスコなどが融合した内容で、チャズのギタリストとしての魅力も最大限に発揮されている。今までのチャズの作品の中でも毛色の変わったコラボ作品となったが、その反動としてメイン・プロジェクトであるトロ・イ・モワの新作『ブー・ブー』は、セルフ・プロデュースでほぼひとりで全楽器を演奏している。ほとんどインスト集だった『スター・スタッフ』に対し、チャズのヴォーカルが多く配され、またギターではなくシンセを中心とした80sサウンドを軸とした作りとなっている。バンド作品的であった『ホワット・フォー?』とも異なり、『エニシング・イン・リターン』以前のセルフ・スタイルへと回帰している。サウンド的には『ホワット・フォー?』でのポップスやAOR、『エニシング・イン・リターン』の頃のブギーやディスコが結びつき、トロ・イ・モワ作品中でも極めてソウルフルでメロウなアルバムとなっている。たとえば“ミラージュ”はボビー・コールドウェルやデヴィッド・フォスター路線のAORディスコ。山下達郎など和モノ・ディスコにも繋がる曲だし、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』と同じ方向を向いていると言えよう。“インサイド・マイ・ヘッド”も同系のナンバーで、よりエレクトリック・ブギー色が強い。“モナ・リザ”は日本好きの彼らしく、日本語の天気予報ニュースのSEを配しているのだが、楽曲自体は80sシンセ・ポップ的な作品。“ラビリンス”は80年代のポリスとかティアーズ・フォー・フィアーズの曲などと遜色ない作品だ。先行シングル・カットされた“ガール・ライク・ユー”はじめ、“ウィンドウズ”や“ユー・アンド・アイ”は、そうした80年代のシンセ・ポップやエムトゥーメイなどのブラコンと、現在のフランク・オーシャンやブラッド・オレンジなどのアンビエントなR&Bを繋ぐ曲である。“ノー・ショウ”や“W.I.W.W.T.W.”は、アルバム全体を貫くメロウネスとチャズの実験的な側面がうまく融合している。特に“W.I.W.W.T.W.”は曲の途中から前半と全く異なるアンビエントな展開を見せる。“ミラージュ”や“インサイド・マイ・ヘッド”でのポップな側面と、この“W.I.W.W.T.W”における実験性の落差。そんな両面を有するところがチャズの最大の魅力だろう。

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