「Noton」と一致するもの

ムーンライズ・キングダム - ele-king

 ウェス・アンダーソンの新作『ムーンライズ・キングダム』の舞台の島を襲うハリケーンにはメイベリーンと名前がつけられていて、それはチャック・ベリーの"メイベリーン"であろうと、そのことに日本でもっとも反応していたのは僕の知る限り樋口泰人氏だが、とにかく、ウェスのほうのアンダーソン監督はつねにポップ・クラシックスへの憧憬を隠そうとしない。ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズ、それにキャット・スティーヴンスやザ・フェイシズ、ザ・フー......がスクリーンを満たすとき、物語もエモーションもそれらの曲と不可分となってしまう。『ダージリン急行』などはスローモーションでカメラがパンするなかザ・キンクスを流すためだけの映画だと言ってよく、彼らの"ディス・タイム・トゥモロウ"を語る旅が3兄弟の未熟なインド旅行そのものであった。「明日のこの時間、僕らはどこにいるんだろう」......そんな少年性を、ウェスは彼が愛する黄金期のポップ・ミュージックに託してきた。
 ロアルド・ダールへの幼少期からの愛と再会した前作『ファンタスティックMr.FOX』が結局のところ、隅から隅までウェス・アンダーソン映画でしかなかったことからも証明されているように、彼は同じ主題を反復させながら子ども還りしているように見える。「厄介な息子」と「出来損ないの父親」の和解。それはアメリカ映画のクラシックからの反復でもあるだろう。

 『ムーンライズ・キングダム』では初めて年齢的な意味での「子ども」を主役に置きながら、しかし実際のところ少年サムの初恋と冒険はこれまでのウェスの映画で主人公たちが繰り広げてきたそれとまったく同質のものであろう。けれども、時代を65年と明示して政治の季節直前の「思春期」としているように、これまででもっとも子どもであることを真っ直ぐに謳歌している作品ではある。なんてことのない、かつてのポップ・ミュージックに登場する少年少女のラヴ・ソングのように、甘くてノスタルジックな逃避行。ウェス映画の様式がここでは完成を遂げている。少年少女が森を分け入るときにはハンク・ウィリアムスが歌い、ふたりがビーチでダンスするときにはフランソワーズ・アルディが彼らをキスへと誘う。そのスウィートな感覚を、身体的に味わうための映画である。
 僕が本作で惹かれたのは父親の描き方であった。『ファンタスティックMr.FOX』のダメな父親ギツネをジョージ・クルーニーが演じたときの「おや」という感覚を、この映画のブルース・ウィリスにも感じたのだ。これまでジーン・ハックマンやビル・マーレイが演じてきた父親から、少し世代が降りたこととも関係しているかもしれない。ここでのブルース・ウィリスは最近『ダイハード』などでタフガイとして復活を遂げている彼ではなくて、ただの「悲しい(sad)」中年男である。しかしながら映画はウィリスのアクション・スターとしてのキャリアも踏まえながら、彼をヒーローへと変貌させ、そしてたとえ出来損ないであろうとも、たしかに少年のたったひとりの父親へとしていく。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』や『ライフ・アクアティック』のように、身勝手な父親をいくらかの諦念でもって赦すというものでもなく、『ダージリン急行』のように父親を喪うわけでもない。『ファンタスティック~』の父親ギツネがか弱いコミュニティをそれでもどうにか統べたように、頼りないヒーローであることをささやかながらも祝福するような。

 ウェス・アンダーソンにとって父親でありヒーローであるのは、チャック・ベリーでありハンク・ウィリアムスでありザ・キンクスでありザ・ビートルズでありザ・フーでありビーチ・ボーイズであり、彼らのポップ・ソング・コレクションそのものなのだろう。本作で言えば、フランソワーズ・アルディのナンバーだってそうだ。ウェスは自らの「子ども」の部分へとさらに立ち返っていくことで、自分を育てた父親たちへの愛を包み隠さなくなっているように思える。だから、フィルモグラフィを「チャーミング」「キュート」「スウィート」という形容で彩ってきたウェス・アンダーソンの作品群のなかでも『ムーンライズ・キングダム』がその度合いをもっとも高めているのだとすれば、それはわたしたちが音楽を聴いて心躍るあの感覚を「ポップ」としか名づけようのない不思議に、少年ウェスがまた近づいているということだ。

予告編


Circuit Des Yeux - ele-king

 揚げ足を取るようで後ろめたいが、許せ。編集部にはつねに火花が必要なのだ。橋元優歩の「月刊ウォンブ!」のライヴ評におけるfailureは、現場レポートなるドキュメントで、「城戸さん」というフィクションを挟み込んだことではない。仮に松村正人がオオルタイチのライブ評で宇宙人ポールとの対話を用いたとしても、それは文章表現のひとつのレトリックである。ひとつ、あの文章にfailureがあるとしたら、せっかく彼女はひとりで行ったのに、ひとりで行ったという事実を濁したことだ。
 僕の女友だちのベテラン・クラバーによれば、最近は、ヒップホップのクラブにはひとりで遊び来る女の子が増えているそうである。これは、なかなかの変化だ。10年前は、ヒップホップのクラブに来る女といえば、いかつい(いかのも腕力の強そうな)男と一緒にいる、やけに綺麗な女と相場は決まっていた。が、いまでも毎週のようにナイトアウトしている僕の友だちの報告によれば、若い女の子ほどひとりで行く率は高く、しかも、行く手を阻むかのように待っているナンパ攻撃をかわすように、ひとりで来ている女の子同士が仲良くなってしまうらしい。むしろ、いまでは群れていないと行動できないのは男に多いそうで、たしかに僕も、「月刊ウォンプ!」には小原君、ワラ君という、いかつい男ふたりと一緒に行っている。いつの間にか遊び方のジェンダーは逆転しているのだ。

 ヘイリー・フォールは、ひとりで行き先を選び、ひとりで行動を決めて、ひとりでことを成し遂げる、現代っ子的な女性である。
 なにせ彼女はまだ23歳なのだ。しかも借金は5万ドル。彼女が18歳のとき、ハイプ・ウィリアムスの初期のリリースで知られる〈De Stijl〉からサーキット・デス・ヤックス名義で3枚のアルバムを出している。借金取りから逃げるように彼女は音楽家になった。インスピレーションは「恐怖」と「絶望」だ、とヘイリーは話している。


 大学を出て間もない。ベーグル屋で週に50時間バイトしている。ヘイリーの回想によれば、インディアナ州にある実家は彼女の進学に経済的な援助をしなかった。知識を得る機関(大学)の価格の格差に彼女は腹を立てている。彼女は、アメリカの平等と自由が欺瞞であることを知っている。卒業後の人生は「ストラッグル(戦い)」だ、と彼女は言う。つまりヘイリーにはスプリングスティーン的な資質もある。
 だから彼女は、エリザヴェス・フレイザーやグルーパーのように囁き声を使わない。ニコのような低めの声で、時折『ムーン・ピックス』の頃のキャット・パワーのような(つまり思春期的な)メランコリーと、時折USガールズのようなノイズを注いでいる。

 『CDY3』は、サーキット・デス・ヤックス名義の最新10インチで、3曲入り。彼女も参加しているコズミック・サイケデリック・ロック・バンド、スリー・オープン・セックスのアルバムとも共鳴しているようだ。つまり、松村正人が、いや、倉本諒が宇宙人ポールと一緒にアモン・デュールIIのライヴに行ったとしよう。「どうだい、ポール、これは?」「うん、まあまあだね」「こないだのよりも良いだろう?」「まあ、悪くはないね」「おいおい贅沢言うなよ」......これはまだコンサート会場に到着する前段階である。
 「女性である前に人間であればよかった」と、ヘイリー・フォールは話している。ひとりでクラブに行く女の子も、「女性である前に人間」として、「女性である前にひとりの音楽ファン」として、そこに出かけているわけだが、どうやらジェンダーに振り回されているのは男のほうなのかもしれない。
 そして、インドの修道院で暮らすことなくコズミックでいられることは、音楽のひとつの可能性である。B面の"Helen You Bitch"は、彼女のわめき散らすようなフィードバック・ノイズがひたすら続くサイケデリック・ロックだ。フォーク・ロックの心地よさから逃げるように、彼女はひとりで飛んでいく。レコード針からはものすごいエネルギーがカートリッジを伝わり、トーンアームへと、そしてケーブルを伝わってアンプへと、さらにまたスピーカー・ケーブルへと伝わって、コーンから、飛び出てくる。猫は髪を逆立て、犬が吠える。また新しい女、いや、人間の音楽家が出てきた。


The Buddha Machine - ele-king

 前作がスケルトンだったが、今回は蛍光色。黄色、赤、オレンジ、緑の4色。だいたい蛍光色というのは、なぜか人を虜にする。しかもブッダ・マシーンのオモチャ感がまた所有欲を掻き立てるのだ。手の中にすっぽりおさまるほど小さいのに、これは、北京在住の電子音楽アーティスト、「FM3」ことクリスチャーン・ヴィラントとザン・ジアンによるアンビエント作品でもある。
 ブッダ・マシーンに単三電池2個を入れて、スイッチを入れる。音量を上げると電子音の反復が聴こえる。9つのループを楽しめる。しかも、ピッチも変えられるし、ヘッドフォン(イヤフォン)の端子もあるので、外でも聴ける。イーノが大量に買って、デヴィッド・バーンも音楽の未来の兆しとして絶賛だとか。たしかに、これは、色違いを集めたくなるような、そしてコンセプチュアルな、そしてかわいい音楽作品。2台揃えてミキシングするのがマニアの聴き方だが、複数台を部屋のいろんな場所においてなりっぱなしにしておくのも気持ちいいそうだ。
 重要なことを言い忘れた。新しい9つのループも良いです。


教会内部に設置されたサーカス・テント

 2/2(土)、NYのミッドタウンの教会で、ミュージック・テープスの「トラヴェリング・イマジナリー〜空想の旅」ツアーが行われた。ジョン・ケール、バトルズ、ロウ、ライアーズ、ダーティ・プロジェクターズなどのショーを企画する〈ワードレスミュージック〉のオーガナイズ。雪の降るなか、普段は来慣れない教会に入ると、目の前にデーンと、サーカス・テントがあり、周りにも催し物のサインが出ている。
 日本の初詣(屋台やゲームなどがある)のガヤガヤ、ワクワク感に少し似ている。7:30pm、9:30pmからの2部形式で、著者は9:30pmの部に来た。「1部を見た」という男の子と話をするが「内容は言わないで」と口止めをする。「トラヴェリング・イマジナリー」はミュージック・テープスが、10数年間あたためてきた、夢のツアーなのである。簡単に種明かしはされたくない。


バンダナで目隠しをするオーディエンス

 9:30pmきっかりにドアが開き、紺色のバンダナがお客さんに渡される。教会なので、ドリンクは売っていない。最後の人が入り終わると、左方から、ピアノの音が近づいてくる。バンジョーを弾くジュリアンが、グランド・ピアノの上に座って、クルクル回されながら、教会中を練り歩いている。ピアノを歩きながら弾くのがアンディで、ピアノを押して、回して引っ張っているのがイアン。どちらも、前回のクリスマス・キャロリングにもいた。
 何か面白いことがはじまる予感。

 テントの左側で「ザ・ペニー・アンド・ザ・ベル」というゲームがはじまる。目隠しをして(ドアでもらったバンダナの登場)、カップに入ったペニーをベルめがけて投げ、ペニーがベルに当たった人の勝ち。これが難しい。
 真ん中の方でも別のゲームがはじまっている。こちらは、お手玉見たいな布玉を、穴にいれるゲーム。


なかなか難しい「パリ・イン・ベルス」

「ペニー・アンド・ザ・ベル」の後は、ベルつながりで、「パリ・イン・ベルス」というゲームがはじまった。目隠しした人が円になり、ベルを持つ。当たりのベルを決め、鳴らしながら左側の人にベルを渡していく。ジュリアンが「ミラノ」、「東京」、「上海」などいろんな都市の名前を言っていくのだが「パリ」と言ったときに、当たりベルを持っていた人と、真ん中の人が音だけで当たりベルを当てたら勝ち。これもなかなか高度なのだが、勝者はふたり出た。ジュリアンは幼稚園の先生のようにみんなにゲーム参加を呼びかけ、率先してゲームを行い、賞品を用意し、司会をしてと大忙し。


テントのなかはとても楽しい!

 ゲームでウォーム・アップした後は、サーカス・テントが開いてショーのはじまり。みんながどんどん前から座っていくので、いちばん前には行けなかったが、セットや流れの全体が見渡せた。ステージに白いスクリーンが張られ、フィリックス・ザ・キャット風の白黒アニメが始まる。ヴィンテージのアナログ・フィルム上映である。
 アニメ鑑賞の後は、スクリーンが落ち、ミュージック・テープスのショーのはじまり。ジュリアン、ロビー、アンディ、アンディG(マシュマロウ・コースト)の4人で、イアンが大道具周りを担当。もちろん、7フィート・メトロノームやオルガン・タワー、スタティックTVなどの手作り楽器仲間も健在。今回は、ジュリアンのトーク部分が多く「祖父が子どもの頃にサーカスに行ったが、人気者の牛がまったく動かなかった」、という話や、「雪の日に子どもたちがみんな突然いなくなった」、など、子供を寝かすときのベッドタイム・ストーリーのようだった。


ステージに出現した巨大雪だるま

 ショーの間にも、はしごが出てきて、その上で歌ったり(足長人として)、巨大雪だるまが出現し、その雪を投げて、客席に設置した月を割るゲーム、テントの上にぶら下げられたプレゼント(中身はミニチュアのサーカス・テント!)を開けるゲームなど、オーディエンス参加型の、ディズニーランドのようなワクワク感が持続した。

 童心やピュアネスをごちゃ混ぜにした、夢いっぱいのショーには、ジュリアンの頭のなかの地図がそのまま表されている。ここしばらく、これほど心から純粋に楽しめることなんてあっただろうか......いや、楽しめずにいたのではなく、単にこの感情を忘れていただけだったのではないか? ジュリアンは終始笑顔で、何よりもいちばん楽しんでいるように見えた。入り口で、バンダナを回収しながら、ひとりひとりのお客さんと話しているジュリアンを見ながら、自然に笑顔が溢れていた。

アナログに導かれ、翻弄され、カートリッジの相性に迷い、逆相に驚かされ……その先に見えてきたものは!? 総ページ320P、図版約1千点、リスニング・セッション延べ100時間以上をかけて盤を聴いて聴いて聴きまくり、片っ端から解説した世紀の奇書、音盤迷宮の果てしない旅! リマスターボックスももちろん聴いてます。

きのこ帝国 - ele-king

 アキ・カウリスマキの映画に出てくる人たちは、まず、笑わない。あの映画の、人びとの笑わなさ、坂本慎太郎的な抑揚のなさが、多くのドラマと一線を画している。そして、あの、徹底的な笑わなさが、愛情表現の押し売りの戸棚の底から、その目立たないずっと奥から、何か美しいものを引っ張り出したのだ。基本的に、僕は笑いのある表現を好むが、作り笑いは必要としない。そして、ときとして、容赦なく笑いを剥奪するものに心惹かれることがある。自分もまた、カウリスマキの映画に出てくる人たちのような、笑いを奪われた人間のひとりであることを意識する。きのこ帝国は、そして佐藤の歌は、僕から笑いを奪う。

 "夜鷹"は、滑らかで、トランシーで、サイケデリックなエレジーだ。この1曲は、佐藤がラップに触発された曲だと思われるが、トラックからは、オウガ・ユー・アス・ホールを彷彿させる柔らかい音響空間が広がっていく。佐藤の、魅惑的な、確固たる"孤独"は変わらない。しかし、彼女の歌詞......だけで語るのが野暮なほど、演奏されるすべての楽器の音色が夜空の星々のように煌めいている。宮沢賢治の天体趣味が、モータリック・ビートと出会ったとでも喩えられそうな、ロマンティックな曲。きのこ帝国のセカンド・アルバム『ユーリカ』の決定的な曲である。続く"平行世界"にも、バンドの真新しい響きを感じることができる。この曲も音数の少ない演奏を活かした空間的な録音によって、佐藤の詩世界をひと際輝かせている。
 
 とはいえ、『ユーリカ』は、決してまとまりの良いアルバムではない。歴史上の多くのロック・バンドのセカンドのように、彼女ら彼らは、あーだこーだといろいろやっている。"国道スロープ"から"Another Word"への展開は、このアルバムのもうひとつの表情だ。抑揚があり、ドラマティックで、ときに感情を噴出させる。クールにはなりきれないのだ。
 バンドがセカンド・アルバムで可能性を探ることそれ自体はしかるべき態度だ。その探り方が、ただがむしゃらなのか、それとも考慮の末の結実なのか、それとも......。ひとつ言えるのは、きのこ帝国は、もはや、忌々しくも、寒々しくも、苛立たしくも、腹立たしくもないということだ。来る日も来る日も泣いていた彼女は、ある朝、起き上がり、靴のひもを結び、歩き、あるいは少しずつ、走り出したのかもしれない。卑俗な人たちのいない場所などないことがわかっていながら。

 "風化する教室"や"Another Word"、"明日にはすべてが終わるとして"......といった曲ではポップ・ソングを試みている。これらの曲を最初に聴いたとき、僕は、きのこ帝国もいよいよ音楽産業との妥協点を見いだしたのかと勘ぐってしまったが(もちろんそうは思っていない)、そうしたネガティヴな早とちりは、僕がふだん灰色の音楽ばかり聴いているからというだけではあるまい。
 きのこ帝国というバンドには、まだ本人たちが気づいていない以上のポテンシャルがある。その大きさが小さく揺らいでいるとき、リスナーは引き裂かれ、困惑するのだ。"Another Word"など、最初の32小節までは、ファイスト風の爽やかなアコースティック・サウンドではないか。葬送のための陰鬱な音楽とはほど遠い......が、それでも、きのこ帝国は簡単に笑顔を売らない。"ミュージシャン"など、失恋中の友人にはとても聴かせられない曲だが、それ以上に、たとえば「狂った頭でいろいろ考えて/不安を抱えて老いぼれていくんだろう」という言葉に同意する人も少なくないだろう。
 
 それは、アルバムにおいて、もうひとつの笑えない曲だ、が、しかし、非情さもない。『若きウェルテルの悩み』の系譜のスローバラードである。これが3番目、"春と修羅"が2番目、いや、"平行世界"が2番目に好きな曲かな、僕は。その2曲のみが、ビートがダンサブルだというのも大きい。振るのは頭ではない、腰だ。踊ってばかりの国だ。
 佐藤がステージで見せる、あの傲慢さ、あの苦悩、あの冷淡さ、あの誠実さも、"夜鷹"のなかに美しく凝縮されている。自信を持って僕はこの曲を推薦する。それが、『ユーリカ』を聴いた僕の感想である。

殺すことでしか生きられないぼくらは
生きていることを苦しんでいるが、しかし
生きる喜びという
不確かかだがあたたかいものに
惑わされつづけ、今も生きてる
"夜鷹"

Local Natives - ele-king

 『(500)日のサマー』が自分の周りでけっこう話題になったとき、そのいかにもアメリカン・インディっぽい恋愛映画を観る層が日本にもまだ一定数いることに少なからず驚いたのだった。イマドキの文化系男子はほぼ全員オタクになっているという偏見を持っていたので、オシャレだけれども冴えない男が主人公で、キュートだが奔放な女の子に振り回される......というような、かつてのサブカル界隈では典型のラヴ・ストーリーが日本ではもはや受けないと思っていたのである。僕がかつてもっとガキで偏狭だった頃、そういうインディ・サブカル男子のことはどうにも「かわいい女の子に振り回されるボク」を正当化しているフニャモラした男に見えて、敵視していたものだった......それならば70年代のギャング映画を観るぜ、と。ガキだったということです。けれども、『(500)日のサマー』を観たときは、インディ男子のアイコンであるズーイー・デシャネルに振り回されたい願望の炸裂っぷりに一言物申したい気持ちはやはりありつつも、頼りない青年の成長譚としては真っ当でいいのではないかと「彼ら」とようやく和解できたのである。オシャレなサブカル・インディ男子だって、この国ではもはや少数派になりつつあるか、もはやたんなる趣味だと見なされるようになっているのだから......(偏見だが)。

 ローカル・ネイティヴスが登場したときにも、これはオシャレなインディ男女の好みにパーフェクトにフィットするバンドなのではないか......と反射的に身構えてしまった。西海岸版のフリート・フォクシーズ、素朴なグリズリー・ベア、60年代風のアニマル・コレクティヴ......形容はいろいろあるだろうが、トライバルなリズム解釈による躍動感と流麗なコーラス・ワークがこのバンドの大きな売りであることは間違いなく、それは当時のUSインディのなかにあってあまりにも優等生的な振る舞いだったのである。彼ら自身の強い個性や主張はない。フリート・フォクシーズの厳格さも、グリズリー・ベアの不穏さも、アニマル・コレクティヴの明るい壊れ方もなく、マジメにトーキング・ヘッズのカヴァーをやる辺りも何だか利口な回答に思えた。演奏もアレンジも巧みで、ルックスが良く、しかもファッショナブルな服装のメンバーが並んだときの佇まいもバッチリすぎて、10代の僕ならきっとイチャモンをつけていたことだろう。
 が、彼らの2枚目である『ハミングバード』はザ・ナショナルのアーロン・デスナーをプロデュースに迎えて、弱点であったサウンドの平坦さに立体感を与えることに成功している......という、あまりにも真っ当なバンドの成長を見て、この素直さは愛されてもいいのではないかと思い直すことにした。オープニング・トラックのタイトルは"ユー・アンド・アイ"、つまり"キミとボク"で、歌っていることは「きみとぼく/ぼくらいつだって強かった/それだけでやる気が出た/信じて」という、ちょっと幼すぎるのではないかというモチーフだが、音としては陰影のあるギターとピアノが濃淡をもたらしている。前作よりもはっきりと曲の構成がダイナミックになり、耳を楽しませてくれる箇所が多い。得意のトライバルなパーカッションとコーラス・ワークを敢えて減らした結果だそうだが、"ブレイカーズ"では結局それらが伸び伸びと躍動していて、自分たちのいいところも見せたかったのだなと微笑ましい。いっぽうで"スリー・マンツ"や"マウント・ワシントン"、"コロンビア"などのバラッドはよく抑制されており、このバンドにこれほど情感に満ちた歌があったのかと驚かされる。歌詞にも内省や迷いが目立つようになった。
 それでも、アルバム全体から立ち上ってくるフィーリングは、キュートだが頼りない青年たちの精一杯さである。そのむず痒さこそがローカル・ネイティヴスを聴くことであり、何だかんだ言ってもブローステップで騒ぐマッチョな連中が結局アメリカでは強いようなので、彼らのような優等生は現在やや劣勢を強いられているのだろう。サマーに振り回された挙句フラれたトム青年にインディ男子が大いに共感したように、ローカル・ネイティヴスの素朴な頑張りとスウィートな歌に勇気づけられるのは、決して悪いことではないだろう。
 そう言えば、『(500)日のサマー』には、インディ男女の次なるアイコンの筆頭であるクロエ・グレース・モレッツが『キック・アス』よりも幼い姿で出ており、既に「彼ら」の目を奪っていたのだった。

月刊ウォンブ! - ele-king

 ステージをリングに見立てる趣向は、間違いなく成功していると思った。フロアの中央付近にほとんどやぐらのように構えられたステージには、ボクシングのリングを模して柱が立ち、ロープが張られている。360°というわけにはいかなかったが、ステージの後ろの方にまわりこむこともできる。わたしにはそれが新たな祭りを呼び込むための装置であるように見えた。
 ともすれば発信側の一方通行にもなりかねないライヴ空間から、ショウとしてのダイナミズムを最大限に引き出したい......音響を台無しにしてまでこのコンセプトを優先したこと(いや、ほんとにそういう意図であるのかどうかわからないが)には、ひとまず意味があったと言えるだろう。演奏者はオーディエンスを食う、オーディエンスもヘタなものを聴かされたら承知しない。そしてジャンルを異にする演奏者同士もリングの上では残酷なまでにひとしく比べられるライヴァルだ。そんな3方向の本来的な緊張関係をコミカルに可視化することで、会場には独特の求心力が生まれていたように思う。ステージだけに集中するのではなく、リングをふくめた会場全体へ視野が広がっていくようなところがあって、そのぶんワクワク感が伝播しやすく、増幅されやすい。ビールを手にスポーツ観戦をするようなほどよいリラックス感もあった。第1回めということだが、どういう意図でこうしたかたちを目指したのか、主催側の前口上を聞き逃してしまったのが残念である。(付記:実際に前口上をされていたのは名司会の長州ちから氏。すみません!)


ミツメ

 さて、渋谷で駅からTSUTAYA以上の距離を歩くのが苦手なわたしは、WOMBまでの長い道すがらをエア同行者を作ってなぐさみとしたので、非実在の同行者・城戸さん(憧れの先輩設定)との会話にも都度ふれることをお許しいただきたい。

城戸「いったいなんて場所に立ってるんだ、WOMBとやらは。」
わたし「ふふふ...」

 こんな要領である。ホテル街の細い路地を急ぐ影が、数メートル間隔でちらほら続いていた。いずれライヴハウスもエキナカになる時代が来るかもしれないが、ライヴ空間へ接続するまでの「歩く」という導入部は、かったるいながらも確実に重要な役割を果たしていると感じる。

 さて、今回のイヴェントに集められた3つのアーティストのいずれもにヴァンパイア・ウィークエンドやアニマル・コレクティヴの面影を認めたので、そのことも先に書いておきたい。ユーフォリックなトロピカル・サイケとして、そのなまあたたかさをほどよく脱臼させるアフロ・ポップとして、彼らの面影はそれぞれの演奏のふとしたところに顔をのぞかせた。ある意味では、00年代の音楽をリアルに消化した世代が、その次に何をプレゼンテーションできるのかということを観察できる機会だったのかもしれない。

わたし「ですよね? 城戸さん。」
城戸「ああ。ミツメはすばらしいな。」

 ミツメはすばらしい。残念な音響のことは割り引くとして、完全に世界標準の10’sインディが鳴っていた。やりたいことは明確で、アニマル・コレクティヴやヴァンパイア・ウィークエンドなど00年代USにおけるもっとも大きな成果のひとつが、のちの世界に何をもたらしたのかということをまざまざと見せつけられる。

 余談だが、00年代のはじめには、もう海外の音楽シーンが、たとえばグランジやブリット・ポップ以上の規模で日本に影響を及ぼすことはない――それは音楽のみにとどまらない、社会構造や文化全般の問題も含むわけだが――のではないか、両者は文化として溶け合うことなく、翻訳されないまま個別に存在していくのではないか、などと思ったものだったけれど、そうでもないようだ。ブルックリンや西海岸のアヴァン・フォーク勢が残したもの、それがひるがえってチルウェイヴへと接続していったもの、あるいはカレッジ・チャートの明るく軽やかな知性、等々のディテールをしなやかな筋肉に変え、彼らは日本の土を蹴って走っている。じつにシャイな印象で、ふだんのライヴはわからないが、まるでスタジオでのリハをのぞき見しているような、客のいないところで演奏しているかのような、インティメットな空気感がある。
 それもよい。ミツメの音楽には誰かの耳を無理やり開かせようというところがない。北風と太陽で、太陽が自然に人の上着を脱がせるように、彼らの音はただ遠くの方で誘っているだけだ。3曲めくらいだったか、トム・トム・クラブのような小粋なファンク・ナンバーがはじまったときに、人々は控えめに、心地よさげに、身体を揺さぶりはじめた。上着を脱ぐ――われわれが完全にこのイヴェントへとスイッチした瞬間である。

城戸「さあ、われわれも乾杯だ。」
わたし「ハイ、城戸さん。」

 おいしく乾杯しました。城戸さんは彼らのトレーナーやカーディガンといった服装も気になったようだ。「イェール時代を思い出すな」と言って目を細めていたけれど、たしかに学生っぽい、生真面目さと自由さがないまぜになったようなたたずまいにも、まぶしいようなストーリー性を感じる。彼らはそれをファッションとしてではなく、ユニクロのように着ているのかもしれず、それもまた好ましい。


アルフレッド・ビーチ・サンダル

 アルフレッド・ビーチサンダルはさすがの一言。バンドでのセットの方がよいという話も聞いたが、ギター1本でしっかりフロアの心臓をつかんでいた。声も比類ないが、彼にとっての翼はその文学性だろう。むろん、名義からしてあまりにびりびりくるセンスを放っているわけで、はじめてその名を聞いたときは幻の歌人フラワーしげるの「俺は存在しないお前の弟だ」を思い出し、「お前」がアルフレッド・ビーチサンダルであってくれればいいと思った。「ついに夏がきた」「僕はビーチサンダルを見つけなければならない」(“ファイナリー・サマー・ハズ・カム”)と歌い出して典雅に完璧に挨拶をきめ、ボトルシップで行くような奇妙でサイケデリックな物語の小世界を開いていく。ちょっとしたインスタレーションのようなイヴェントも行うようだが、こうした場所でシンプルに魅力を伝えられるアーティストでもあるのだなと感服した。ギターのことはわからないが、実に神経に心地よい鳴りで、ルート音が電子音のように響いている。テクニックが言葉と世界観をひかえめに支えている。

城戸「音響はつくづく惜しいのだがな。」
わたし「それは仕方がないですね。」

 われわれは素敵に酔いながら、フリー・マーケットのスペースへと向かった。上のほうの数階はそれぞれ喫煙スペースやフリマを含む物販スペースなどになっていて、ぶらぶらと回遊していられる。

わたし「きゃっ、城戸さんだめです。パンツです。」
城戸「なっ......!?」

 パンツを売っていた。


シャムキャッツ

 シャムキャッツは本当に輝いている。そして華があった。きっと、アイドルにすっかりお鉢を奪われたテレビの音楽番組のなかでさえ輝けるだろう。いまロック・バンドというフォーム自体にかつてほどの存在感やエネルギーは感じづらい。しかしすくなくとも「彼らは」生き生きと、貪欲に生きていて、生きてやるぞという腹の底のエネルギーがバンド・サウンドにリアリティを与えているように思われる。そして同様のバンドが地下には存在し、夜な夜な少なからぬ人々を楽しませているということまでをしのばせる。
 もちろん、生き生きと生きることは当世風の賢さから導き出された彼らの批評性そのものでもある。無邪気な「生きよう!」ではない。「(おもしろくない世の中をあえておもしろく)生きよう!」なのである(https://www.ele-king.net/interviews/002701/)。そうした複雑な屈折と意志を含むかれらの全力の遊びに、われわれは乗るのか、乗らないのか。
 時折ダンゴのようにもつれるアンサンブルの強烈な愛嬌、ペイヴメントのヨレヨレ・ポップからストーンズへと突き抜けるような猥雑さと強さ、クラスでまぶしすぎる人たちの持つ圧倒的な輝き。彼らは人を乗せ人の心を持っていくことにあまりにも慣れている。ミツメは音楽自体の持つグルーヴで人を動かそうとしていたが、シャムキャッツはその無敵感あふれるバンド・ケミストリーによって人を動かすというところだろうか(もちろんベースとドラムの功績を称えないわけにはいかない。ファンキーな曲になると突如として彼らの顔と身体はキレを増す)。ラス前をスペーシーなインプロで盛り上げ、“なんだかやれそう”などのアンセムへとつなげていくステージングも実に堂に入っている。それに、『ゴースト・ワールド』についての長めのMCもよかった。たしかにイーニドやレベッカが日本人ならこの会場にいただろうし、シャムキャッツを10代の傲慢さで冷笑したかもしれない。しかしその10代の傲慢さは、シャムキャッツの音楽に巻き込まれずにはいられないものでもあるのだ。

わたし「城戸さんはどう思います......?」

 ライヴの余韻のなかで気がつけば、わたしはひとりである。いっしょに帰りたかったのに、いつもつれない城戸さんは今日も通常運転であった。

Scissor Lock - ele-king

 本作の話題性は、ひとつにはジャケットのアート・ワークにある。これがジャスティン・ビーバー"ビューティー・アンド・ザ・ビースト"のPVから借用して加工したものであるということに触れないレヴューはないだろう。当のビーブズの顔はフレアのような加工で消されているわけだが、わたしが読んだなかでこれを権利関係の問題として解題する記事はなく、もっぱら制作者がジャスティン・ビーバーに寄せる(オブセッショナルな)思いであるとか、ポップとエクスペリメンタリズムとの間の葛藤であるとかなかなか大層な解釈が加えられていた。うまいじゃないか......過大解釈を上積みさせる、クリティカルなジャケット。トイ・カメラのような色合いは久々に見るチルウェイヴ・マナーで、これをいまのタイミングで召還することも、ビーブズに掛け合わせることも、何か狙いがあってのことと考えざるをえない。それに、対象をぼやけさせるのは彼らの十八番であり、自画像でもあった。となれば、ジャスティン・ビーバーがぼやけていることにも意味を見つけ出したくなる。
 チルウェイヴはドリーミーな自閉空間を、屈託や釈明なくきわめて自然に肯定する音であったし、そのことでもってベッドルーム・ポップに新しい局面を拓いた。その彼らがアンビエント、ハウス、R&B等々、思い思いに散開していったのちにどんなものに行き当たり、どんな在り方を示すのか。向後10年はずっとそれを気にしているはずのわたしのようなリスナーには、なにかとかしましいアート・ワークなのである。

 さて、本作の制作者はシザー・ロックことマーカス・ホエール。オーストラリアはシドニーのプロデューサーで、もしかするとコラーボーンズというエレクトロニック・デュオの片割れとしてご存知のかたもいるかもしれない。本作はそのホエールのソロとして初めてまとまったかたちで発表された4曲だ。"チューン"は、彼の初のソロ・リリースとして昨年発表されている(トーマス・ウィリアムスとのコラボ作)。コラーボーンズ自体がすでにポスト・チルウェイヴ的ないくつかの方向性を含んだユニットで、2枚のアルバムにはクラウドラップやトリルウェイヴ、90年代風のR&B、ハウ・トゥ・ドレス・ウェルらのようなウィッチハウスの展開形、シンセ・アンビエント、ドローンなど多彩な音を聴くことができる。チル・アウトなフィーリングと切なげなエモーション、そしてビーブズへのこだわりも(!)ホエールズのソロと共通している(EP『タイガー・ビーツ』に"ワン・タイム"のカヴァーを収録)。
 『チューン』は、全体としてはアンビエント作品ということになるだろうか。曲ごとにさまざまな工夫がなされながらも、声やヴォーカルというものに対する執着が感じられるのが特徴だ。スクリューを応用してジュリアナ・バーウィックの男性版ともいうべき声と光の祝祭的コラージュを編み出す"アウター・スペース"。インダストリアルなテイストをわずかにしのばせたノイズ・アンビエントに裸のヴォーカルが乗る表題曲"チューン"。"ナン"は、今度はメデリン・マーキーの男性版かというヴォコーダー使いのエクスペリメンタルなア・カペラ独唱。最後はチラチラというベルがパンサ・デュ・プリンスを思わせ、儀式的な唱和と土木作業かなにかのサンプリングが中世的な意匠をもって差し挟まれるドローン風のトラック。いみじくもタイニー・ミックス・テープスが「ヴォーカル・サイエンス」と名づけて遊んでいるが、言い得て妙である。
 また、先鋭的な女流と方法を交えるところも興味深い。女性的という意味ではないが(彼女らもまた女性的と言えるかどうかわからない)、ジュリアナ・バーウィックやメデリン・マーキーらと並べられるしなやかでつよいエモーションがある。彼はコラーボーンズの楽曲解説においてゲイであることをほのめかすような発言をしているが、そうした彼の在り方に関係する部分もあるかもしれない。それから、理に勝るよりも情動に賭けたいというようなところが感じられる。そういう感じ方が理知的な精神から生まれることは疑いないが、情動について彼の音のディレクションは間違わないというか、瞬間瞬間の感情の動きを写し取ることに大きな注意が払われていることがわかる。声を重視するのも同じ理由ではないだろうか。"ナン"で大風のようにひときわつよい発声がなされるとき、われわれの心もその動きに合わせてとても感じやすく自由になるだろう。

 最後にビーブズの本家PVについて。そこではまるでセレブなリゾートの狂騒が描かれるが、どことなくクリーンで他愛もない感じがするところには好感を持ったし、新しいフィーリングがあるようにも思った。そのことはホエールのなかでもおそらく肯定的に、共感的にとらえられている。どぎつい色使いなどもいっさいない。ネオンには透明感があり、画面をすべる光の感覚はシザー・ロックのジャケットの風合いともともとほとんど変わらないのだ。だが、このジャケットを見る前に同じように感じられたかどうかはわからない。その意味ではとくにお騒がせなアート・ワークではなく、ホエール自身の純粋な共感と解釈がこめられたものとして彼の音楽を補完するものであると感じられる。

You'll Never Get To Heaven - ele-king

 Head of Chezzetcook......という言葉をそのままコピペして画像検索する。〈ディヴォース〉すなわち「離婚/別離」を意味する言葉を名前としたレーベルは、カナダと言ってもずっと東、出島のように北米大陸から大西洋に突き出ているノヴァ・スコアシア州の海外沿いの小さな村、シェゼットコックにある。ダーシーは海でサーフィンするかたわら1993年からレーベルを運営しているらしい。昨年はマイ・キャット・イズ・アン・エイリアンのようなイタリアの電子音楽デュオのアルバムや、母国カナダのディーオンのカセットも出している。基本的にはエクスペリメンタルな方向性を好んでいる。昨年末にリリースしたユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・へヴンのデビュー・アルバムは、このレーベルにとってポップにアプローチした数少ない1枚となったわけだが、これが日本でかなりの数売れた。と、ダーシーからメールが来た。

 ユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・へヴン=バート・バカラックの作曲したなかでもよく知られる1曲だ。60年代の、ディオンヌ・ワーウィックが歌っているヴァージョンが有名だが、ジム・オルークのカヴァー・アルバムにも当然収録されている。
 ユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・へヴン(YNGTH)は、シェゼットコックとは反対側の、モントリオールを越えて、トロントも越えて、そしてデトロイト方向に向かって進んでいくとある、ロンドンという町を拠点とする男女ふたり組だ。バカラックの曲名を引用していることから、レトロないまどきのドリーム・ポップを予想されることと思うが、それはたぶん正解で、たぶん間違っている。この、繭のなかのようなくぐもった音響とチリノイズとの協奏曲は、ザ・ケアテイカーを彷彿させる......ところもあり、同時にコクトー・ツインズめいたゴシックなニュアンスも含んでいる。
 近代社会の完成に抗うようにネオゴシックも際だったという論を読んだことがあるが、ローファイやリヴァーブというよりも、この"籠もった感覚"が昨今のDIY電子音楽の多くに共通しているもののひとつだ。そしてこの感覚は、3月上旬に発売予定の粉川哲夫と三田格の共著『無縁のメディア』で解明されていることかもしれない。

 先日、ある雑誌社から「渋谷」についてのエッセイを依頼された。僕は、90年代後半を渋谷と代官山のちょうど中間にあった集合住宅で暮らしていたので、渋谷、代官山、恵比寿あたりは散歩コースだったのだけれど、しかし、そこは、現在の渋谷、代官山、恵比寿あたりとはまるで別の町だった。景観も、住人も、家賃も、空気も、そして町というトポスの意味においても。僕が渋谷を歩かなくなったのではなく、僕が歩く渋谷がなくなったのだということをあらためて感じながら、YNGTHのぬるいダウンテンポを聴き続けた。この作品が日本で売れたのは、必然だったと言えよう。歩く町を失った人たちが彷徨う場所は......たとえ天国に行けなくても。

 それにしてもカナダの音楽シーンは、この10年素晴らしい。GY!BEやアーケイド・ファイヤー、グライムスばかりではない。ゲイリー・ウォーグルーパーUSガールズ、ブラック・ダイスのエリック・コープランドもカナダのアンダーグラウンド・シーンと深く関わっている。詳しくは『Weird Canada』をチェック。

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