「Noton」と一致するもの

Animal Collective - ele-king

 『センティピード・ヘルツ』をはじめて聴いたときに戸惑ったのは、いったいどんな精神状態で聴けばいいのかわからなかったからだ。慌ててバンドの過去のカタログを聴き直してみたが、これまでアニマル・コレクティヴを聴くときに無意識に入っていたスイッチがこの新作には通用しない。『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』のコマーシャルなフォルムをいま一度初期のジャンク感で潰したようでもあるが、音の情報量がこれまでより遥かに多い。ノイジーにやかましく、躁的で、けれどもメロディックで、カオティックなエネルギーに満ち満ちている。むろんサイケデリックだが、白昼夢ではない。なにしろリヴァーブがほとんど聞こえないのだ。心地よくまどろむ......アルバムではない。

 いま思えば、本作より先に発表されたシングル"ハニカム"(国内盤のボーナス・トラックに収録)にその兆しはたしかにあった。ただ、「ハチの巣」なんていういかにもアニコレらしいモチーフと、多重コーラスで展開されるメロディの得意の路線に気を取られて、すっかり『メリウェザー~』の先の地平を見たつもりになっていたが、それらよりもプニプニ、ポヨンと弾むファニーな音こそがバンドの新しいモードを予告していた。"ファイアワークス"、"ウォーター・カーセズ"、"マイ・ガールズ"と近年のアニコレは実はシングル曲でキャリアの節目を印象づけてきたと僕は思っているが、『フォール・ビー・カインドEP』随一の佳曲"ホヮット・ウッド・アイ・ウォント? スカイ"から"ハニカム"まで至る飛距離を見直せば、バンドが脱皮する欲望を募らせていたのだろうと想像できる。
 強調されているのはビートと、メタリックあるいはデジタルな質感だ。これまでのように森のなかの陽光を思わせるような柔和さはほとんどなく、生物のモチーフにしても「百本足」というタイトルがついているように、どこかしらグロテスクな異形を感じさせるものだ。とくにオープニングの"ムーンジョック"、シングル"トゥデイズ・スーパーナチュラル"、それに6分以上高音の電子音とピコピコとダンスする"モンキー・リッチズ"などに顕著で、ギラギラした光沢とエイヴィーの無闇にアッパーなヴォーカルが曲のエンジン・メーターを振り切ってしまう。中盤、"ニュー・タウン・バーンアウト"のようにパンダ・ベアの『トムボーイ』とムードを近くする曲もあるし、もちろん6/8拍子や変拍子、メロディの癖などにアニマル・コレクティヴの印は刻まれている。だが、まるでひとつひとつキャラクタライズされたかのように奇妙な音色の応酬や、祭で踊りまくっているうちにネジが吹っ飛んでしまったような弾けぶりが尋常でない。アルバムとしてのまとまりもどこか度外視しているような奔放さもある。

 だが、はじめこそこの騒ぎぶりに面食らったのだが、音の種類と量の多さに慣れてしまえば、放たれているフィーリングはあまりにもアニマル・コレクティヴ的だという感慨に至る。というのは、橋元優歩が言うところの「ひとり遊び」的な悪戯っぽさとイノセンス、それで何も問題がないというような開き直った肯定の力......それらはここで、近作よりもいっそう強固なものになっているように思える。久しぶりにディーケンが参加し、バンドのアイデンティティを見直したこともあるのだろう。この10年でアニマル・コレクティヴがアメリカのインディに新たなシーンを切り拓いたのは、紛れもなくその遊びがとても楽しそうだったから、である。それはパンダ・ベア『パーソン・ピッチ』で極みに達しそのアートワークによって可視化され、リヴァーブはその象徴のひとつとして後続の「子どもたち」に繰り返し用いられた。が、次号の紙エレキングにおいても語られているように、バンドは自分たちが発生させた潮流をじゅうぶんに認めた上で、そこからは距離を置いて、シーンという共有される空間ではない「アニマル・コレクティヴ」という領域の純度の高さを追求し守っているように見える。道具と場所を変えて、彼らは彼らたちだけで大いに遊んでいる。それは、とても楽しそうに。
 そして何度も『センティピード・ヘルツ』を聴いていて僕が連想したのは、『ドラえもん』......それも、日常のエピソードではなく大長編のほうである。中期の傑作、『日本誕生』『雲の王国』あたりの前半部分、子どもたちが道具を使って自分たちの王国を作るあの高揚感である。そこには空想上の動物もいれば、ロボット(ドラえもんはほぼ「人間」扱いなので違う)たちもいる。そこは外の世界から無邪気に隔絶している。ただし、大長編『ドラえもん』においては、藤子・F・不二雄の物語への欲望によって、子どもたちの王国は外の世界との軋轢や摩擦を生み、少年のび太は困難に満ちた冒険によっていくらか成長するだろう。動物集団の国ではそうはならない。あの前半部分が来る日も来る日も繰り返され、4人はその祭の喜びを手放そうとしない。
 見事なまでに子どもの人称で幕を開ける本作にもまた、はたしてこれでいいのだろうか......と首をかしげる大人たちが少なからずいることだろう。だが、クロージングの"アマニタ"の最後2分の反復による祝祭は、永遠に引き伸ばされて続いていくかのようだ。つまり『メリウェザー~』における"ブラザースポート"とまったく同じ役割、その態度を変えることはない。だからきっと、これでいいのだろう......結局のところ、そう納得してしまう自分がいる。この10年において、アニマル・コレクティヴとは何だったのかを鮮やかに差し出してみせる1枚である。

Cooly G - ele-king

 ブローステップのおかげか、『ミュージック・マガジン』が無理して酷評したおかげか、『マーラ・イン・キューバ』は、日本では、ブリアル以外でけっこう売れているダブステップ作品のひとつとなったようだ。
 ブローステップにしろポスト・ダブステップにしろダルステップにしろ、拡張していくダブステップの手綱を引き締めたのは、結果としてゴス・トラッドの『ニュー・エポック』や〈ディープ・メディ〉だったかもしれないといまなら思えるが、オリジナル・ダブステッパーとしては〈ディープ・メディ〉と双璧を成している〈ハイパーダブ〉も、ハイプ・ウィリアムスローレル・ヘイローといった冒険を押し進めながら、クーリー・GやDVA、LVなどUKアンダーグラウンド・シーンからの才能もしっかりフックアップしている。それらは目立たないかもしれないが、とても良いアルバムなので紹介しておきたい。

 DVAは、2010年、ちょうどUKファンキーが最高潮だった時期に、〈ハイパーダブ〉から「ガンジャ」という12インチ・シングルを出している。これも当時の下北沢のZEROで「なんか良いファンキーください」と訊いたら教えられたもので、なるほどこの曲を聴けばファンキーがソカとUKガラージ、そしてハウス・ミュージックのハイブリッドであることがわかる。



 その年DVAは、スクラッチャDVA名義でクーリー・Gとのスプリット・シングルを自身の〈DVA Music〉レーベルから出している。
 またクーリー・Gのほうは、2010年、〈ハイパーダブ〉から「アップ・イン・マイ・ヘッド」をリリースしている。それは美しいストリングスとR&Bヴォーカルを擁したUKガラージで、UKファンキーよりもさらに、クラブ・ミュージックとしての汎用性の高いトラックだった。
 さらにまた、翌2011年にDVAが〈ハイパーダブ〉から発表したシングル「マッドネス」は、アンダーグラウンドでのこうした動きをアーバン・ポップにまで導く作品だったと言える。



 いずれにしても〈ハイパーダブ〉は、ピアソン・サウンドから2562やマーティンまで、とにかくこの2~3年のあいだの多くのポスト・ダブステップがミニマル・テクノやディープ・ハウスもしくはデトロイト・テクノといったクラシカルなスタイルに"ネクスト"を求めていることに対して、あくまでもオリジナル・ダブステップすなわちUKガラージの発展型としての"ネクスト"にこだわり続けている。そこがこのレーベルの、ある種の硬派的な姿勢から来るもうひとつの面白さだ。
 そうした成果が、今年の夏前までにリリースされたDVAの『プリティ・アグリー』とクーリー・Gの『プレイン・ミー』、最近出たばかりのLVのセカンド・アルバム『セベンザ』、そしてテラー・デンジャーのセカンド・アルバム『ダーク・クローラー』の4枚にある。

 DVAは出自がドラムンベースにあり、ちょうどディジー・ラスカルやワイリーが脚光を浴びていた時代のグライムの主要レーベルのひとつ、テラー・デンジャー主宰の〈アフター・ショック〉に関わっていたという経歴からも読めるように、この10年のUKのアンダーグラウンド・ミュージックの証人のひとりとも言える。
 『プリティ・アグリー』には、そんな彼のキャリアゆえか、7人のヴォーカリストがフィーチャーされている。そのなかにはくだんの"マッドネス"で歌ったベテランのヴィクター・デュプレ(古くはジャザノヴァやキング・ブリットとの共作で知られる)も含まれている。
 今日のR&Bブームにも積極的にアプローチしていると思えるほど歌モノが目立つアルバムで、僕がジェシー・ウェアに期待していたものはむしろこちらにある。あるいはディジー・ラスカルの『ボーイ・イン・ダ・コーナー』がメロウに、そしてクラブ・フレンドリーに、ソウルフルに展開した結実のようだ。プリティ=メロディアスで、アグリー=ストリート・ミュージック臭がとても良い感じで漂っている。

 女性プロデューサーにしてシンガー、DJにしてフットボーラーのメリサ・キャンベル、クーリー・Gを名乗る彼女の『プレイン・ミー』からも『プリティ・アグリー』と同じく街のにおいがある。あたかも深夜バスに揺られながら聴こえてくるR&Bのようだがビートはかなり凝っていて、DVAと同様に、今日的な──UKガラージの発展型としての──ブロークン・ビーツを提示している。
 それでも彼女は、オリジナル・ダブステップのダークなムードを確保している。DMZを彷彿させるハーフステップがあり、ブリアル系の都会の人気のない通りの街灯のような、いかにもUK風の薄明かりの叙情主義がある。ザ・XXの『コエグジスト』の沈んでいくアンダーグラウンド・ヴァージョンとでも喩えたくなるような、ロマンティックな気配さえある。コールドプレイのカヴァーが収録されているけれど、それは言われなければわからないほどに、ダブステップの悲しいメロドラマへと変換されている。ちなみに2010年の名曲"アップ・イン・マイ・ヘッド"は、アルバムのクローサーを務めている。



 ロンドンを拠点にする3人組のLVは、昨年リリースされたファースト・アルバム『ルートス』が、それこそ寂しい通りの街灯をデザインした、ブリアル系のロマンティックな作品だった。ところが、南アフリカ出身のMC、Okmalumkoolkat(オクマルムクールキャット)とRuffest(ラフィスト)、Spoek Mathambo(スポーク・マサンボ)の3人をフィーチャーした新作は、前作とはまったく別のアプローチを見せている。
 LVも一時期はUKファンキーに手を染めていたほど、ある意味柔軟な姿勢でシーンと関わっている。『セベンザ』はヨハネスバーグのクワイト(kwaito)と呼ばれる、ハウスとヒップホップが混合された"アフロ・ロービット・エレクトロニック・ダンス・ミュージック"に触発されたアルバムで、南アフリカを旅したメンバーが2年前から着手しているプロジェクトの成果だ。
 『マーラ・イン・キューバ』や『シャンガーン・シェイク』のような、旅するダブステップという試みのひとつだが、LVによるこれはマーラや〈オネスト・ジョンズ〉の2枚よりもずっといなたく、逆に言えばクワイトの生々しさが保存されている。威勢が良く、訛りむき出しの、気迫のこもったMC、そしてカラカラに乾燥した電子音、南アフリカのゲットー・ミュージックに突き動かされたチープな音は生き生きと躍動している。ドラムンベース~UKガラージのスリリングなビートと低音に注がれるクワイトの野性的な香り、ポリリズミックなパーカッションや彼らのMC、ダイナミックに素速くチョップされる声から生まれるグルーヴは実に魅力的だ。
 最近のUKのクラブ・ミュージックは、こうした今世紀のワールド・ミュージック的展開において、現地の音楽へのリスペクトを示しつつも、自分たちがやってきたことの文脈(ここで言うならダブステップ/UKガラージ)をうまくミックスしていると僕は思う。



 未聴だが、USの〈サブポップ〉も、最近スポーク・マサンボのアルバム『Father Creeper』をリリースしている(オクマルムクールキャットも参加)。
 グライムのプロデューサー、テラー・デンジャーのセカンド・アルバムについては機会をあらためて紹介したい。

Ombre - ele-king

 夏の終わりを飾る企画モノだと、とても楽しみにしながらもどこか高をくくっていたのだが、反省しなければならないようだ。ジュリアナ・バーウィックとヘラド・ネグロ、〈アスマティック・キティ〉の提案した心憎いコラボレーションが、2年の歳月をかけて完成した。かたや自身の声を素材としてミニマルで即興的なサンプリング・パフォーマンスを試みる女性アーティスト、かたやアイデンティティでもあるラテン音楽をシックに活けながら、緻密な音響的アプローチを試みるプロデューサー。ツアーをともにしたことが直接的なきっかけであったようだが、なるほどそうしためぐり合わせでもなければ結びつかない、個性的な出会いである。

 バーウィックのほうはイクエ・モリとのコラボが記憶に新しいが、基本的には自ら述べるように「ローン」なアーティストだ。ヘラド・ネグロことロベルト・カルロス・ラングは、プレフューズ73での活動でよく知られるが、多くのアーティストと関わりながらキャリアを編んでいくまさにプロデューサー型の才能。よっておおまかにはバーウィックが攻め、ラングが受けに回るセッションを想像していた。しかしことはまったく単純ではない。たがいの音に対する深いリスペクトと理解が、コラボという目的のもとにではなく、このアルバムという作品世界のもとに溶けあっている。相手の土俵を借りて自分の技をアピールするような、よくあるタッグマッチ的企画とは一線を画するものであることをまず強調しておきたい。

 彼女と彼、1:1比のサウンド・デザインにぐっとくる。バーウィックがけっして歌姫ではあり得ないことを、ラングはじつに奥ゆかしいやり方で示す。アルバムは波状に、バーウィックの無時間的なアンビエンスと、ラングのコズミックな音響構築とを迎え入れ、エレクトロニカ、あるいはフォークトロニカの彼岸を描き出している。ジム・オルークらが拓き、多くの才能が耕してきたこの畑......研がれ、覚醒するように異常な鮮やかさをもってえぐり出されるアコースティックの響きを、ラングもまた受け継いでいるのだが、バーウィックとの出会いによって、彼の音響にはまた新しい角度がついたようだ。空間的な広がりを持ち、わずかな物音をも見逃さず、すべて巨視的なサイズへと磨き出し艶がけるかのような彼の方法は、すべての影を光でとばして同じ白色へと変えていくようなバーウィックの音作りとは、本来は相反するものであるように思われるのだが、両者は交互にあらわれ、またときに重なり、じつにミスティックなサウンド・プロダクションを生んでいる。

 冒頭の曲ではバーウィックの音がラングによって思いがけない艶と奥行きを与えられて登場するし、"センス"のローファイ感、もしくはグリッチーなノイズ・センスはバーウィックの手になるものだと思われる。"ウェイト・ドーズ・ワーズ"は、ディヴェンドラ・バンハートの近作に濃厚な、枯れた味わいの洒脱なラテン・ポップスにバーウィックのコーラスをかぶせる。

 彼女の声がポップス的なフレーズ感を持ちながら一定のビートの内に収まったこと自体がかなりの萌えを誘発したが、"トルメンタス"においてはふつうにヴォーカルをとっていて、なんというかこんな形でのデレを予想していなかった筆者には刺激が強すぎた......。この曲はラングのプロダクションのテリトリー下で、サム・アミドンにも通じるような独特の浮遊感を獲得している。こっそり何度も聴きたい。

 そしてアルバムは先行して公開されていた"カーラ・ファルサ"へとつづく。白く飛ばされたバーウィックの音世界にクリアな電子音が介入し、機械的なビートを空気ポンプのようにゆったりとやさしく送りこんでいく。リピートされ重ねられていくバーウィックのいつもの呼吸に、それが慎重に同期していくさまがすばらしい。彼らはつきあっているのかもしれない。じつに心地よく波がかみあっている。

 短い子どもたちの声のサンプリングが挿入されて終曲がはじまるが、すべての尊敬すべき抑制はここでようやく解かれ、彼はシンプルなギター伴奏を、彼女はシンプルなヴォーカルを披露する(筆者がここで2度死んだのは申し添えるまでもない)。これを最後までやらなかったことがこのアルバムのプライドと良心をよく物語っている。しかしまた、これがなくても完成はしなかったのだ。よくよくの注意をはらって編まれ、じっくりと対話とセッションを重ねたのだろう。すべては心地よく、万物に逆らわない。が、アート・ワークに色濃いオーガニックさともちがう、繊細な人工物ともいうべきものをここに見出すことができる。ぜひとも一聴をおすすめしたい名盤の誕生だ。

Outer Space - ele-king

 〈ミュート〉傘下の〈ブラスト・ファースト〉からアウター・スペースの新作、カセットや編集盤やCDRをのぞけばセカンド・アルバムにあたる『II』がリリースされた。ジョン・エリオットは何よりもまず......、そう、エメラルズのメンバーのひとりであり、マーク・マグワイアと並ぶ多作家であり、ヴィンテージの機材の蒐集とその音色へのこだわりでも知られている。
 そういえば、カリブーことダン・スナイスのレーベル〈ジャイアログ〉が今年エメラルズの「Does It Look Like I'm Here? 」のテクノ・クラブ仕様のリミックス盤を出していたことを最近知った。なので、決してリンドストロームが先ではありませんでした、すいません......
 まあ、でも、ほぼ同時期に交流がはじまっているようだ。先日は日本のレイヴにも呼ばれ、ドミューンにも出たそうだし(あー、見逃した!)、ヨーロッパのレーベルとしては、〈ブラスト・ファースト〉(ファクトリー・フロアのシングルを出しているところ)は、この手の音に敏感だった歴史を持ちながら、いまようやく合流......といったところだろうか。銀色を地にしたアートワークは、グレアム・ランプキンが手がけている。気合いがはいってる。

 繰り返そう。アウター・スペースのひとつの個性は、アナログ・シンセサイザー、メロトロン、アナログ・エフェクターといったアナログ機材の音色への執着にある。『II』でも、彼ら(今作のメンバーはジョン・エリオット+5名)がいかにも気持ちよさそうにオシレイターを操作しながら、フィルターやエンベロープ、LFOのつまみをいじっているような音響が広がっていく。たびたびタンジェリン・ドリームと比較されるが、タンジェリン・ドリームほどクラシック音楽のロマン主義めいた展開(ないしは音色)はなく、現代っ子らしいミニマルなセンスが全体をコントロールしている。2曲目、3曲目などは、ドラムマシンが入っていないだけで、マッガイアと同様にダンサブルなうねりを持っている。下手したらジェフ・ミルズやドレクシアへとも接近しそうだ。
 この音楽がDJカルチャーと親和性が高いのは自明の理だ。いずれは、より両者の流れの交わりは加速していくのだろう(NHKyxによれば、こういうのは、クラブ的なダンスではなくライヴハウス的なダンスだと言えるらしい)。

 アウター・スペース──そのネーミングからして、この音楽がトリップ・ミュージックを志していることがわかる。ジョン・エリオットは、マーク・マッガイアよりもずっと無邪気にそれを追求している感がある。フライング・ロータスのような物語性はなく、ただひたすら夢中に夢想している音楽だ。メッセージはない。本当にどこまでも、どこまでも、そう、どこまでも飛んでいく......

 音楽は聴覚範囲のなかでエクスタシー状態に導かねばならない。──スティーヴ・ライヒ

Jessie Ware - ele-king

 アデルはどうしてこんなに売れたのだろう。エイミー・ワインハウスのフォロワーとしてデビューした彼女は、ワインハウスのような突き刺さる情熱も破天荒さもないが、周知のようにすさまじく売れている。良くも悪くも、そつなく歌がうまいだけの彼女こそ『ガーディアン』が「新しい倦怠としての2011年」と呼んだ年の象徴のような存在だろう。ワインハウスの死への反動からか、ほかに際だったポップ・ソングがないからだろうか、とにかく、結果、アデル(あるいはエド・シーランなんか)にスポットが当たった。

 そもそも『ガーディアン』が嘆くほど2011年は退屈だったのだろうか。サンプル盤とジェームズ・ブレイクしか聴いていないメディアにはそうかもしれない。だが、あんたらUKにはダブステップってものがあるじゃないか。ジェシー・ウェアといえば、SBTRKT(サブトラクト)の"ナーヴァス"(2010年)ジョーカーの"ザ・ヴィジョン"(2011年)と、シーンのふたりの人気プロデューサーが、それぞれアルバムをリリースする前のシングルでヴォーカリストとしてフィーチャーされた新人ディーヴァだ。ケイティ・Bのような、実際にシーンのキーパーソンたちと関わってきた人物とも言える。今年の初夏には、ディスクロージャー(まさに今日のポップのデフォルトと言える、R&Bデュオ)のリミックス入りのシングル「ランニング」も出回っている。彼女のデビュー・アルバムがリリースされたというのなら、聴かない手はない。

 ハイティーンの頃からドラムンベースのパーティに通っていたというジェシー・ウェアにとっての夢は、彼女曰く「誰かのバック・コーラス隊になること」だった。まあ、彼女が歌手を目指していたわけではないのは事実だろう。大学の英文科を出た彼女が目指していたのはジャーナリストだったというが、こうしたバイオグラフィーが、ケイティ・Bともアデルとも違っている。僕はもうちょっとダブステップよりのアルバムを期待していたのだけれど、『デヴォーション』は直球なソウル・アルバムだった。

 ジ・インヴィジヴルのデイヴ・オクムがこのアルバムの多くをサポートしている。マシュー・ハーバートの〈アクシデンタル〉にフックアップされて、現在〈ニンジャ・チューン〉に移籍したという、ある意味UKの音楽界においては優秀なキャリアを歩んでいるアフリカ系の血を引くイギリス人だ。ジェシーと同じように、いわばアンダーグラウンド・シーンで頭角を出してきたオクムがポップに挑むという構図は、ベンガとスクリームとケイティ・Bの関係に重なる。『オン・ア・ミッション』の再来かと。
 が、『デヴォーション』は『オン・ア・ミッション』とは別の方向性にアプローチする。それは、アデルとエイミー・ワインハウスの関係に似ている。いや、アデル以上の謙虚さを『デヴォーション』からは感じる。
 これは、ポップ・スターになりたいとは思わなかった女の子のソウル・アルバムだ。彼女が歌手になったのはちょっとした偶然、運命のいたずらだった。旧友に持ちかけられたBBCでのバックコーラス隊への誘いを通じてSBTRKTと知り合い、"ナーヴァス"の歌手を務めることになった。すべては予定外だったが、ポスト・ダブステップの熱波のなかで彼女の声は注目を集めてしまった。

 そんなわけでジェシー・ウェアのソロ・デビューは、UKでは温かく迎えられている。彼女もデイヴ・オクムも、初めてポップスにアプローチしながら、ポップの傲慢さ、偶像崇拝を否定する。ナイトクラビング文化が生んだディーヴァとも言えるが、クラブ・ソングよりもポップ・ソングを選び、アル中になるために音楽はやらないとエイミー・ワインハウスの幻想を打ち砕くような意見も言っている。個人的には複雑な気持ちだが、アルコールの大量摂取が身体に悪いことは僕も身をもってわかっている。
 彼女はポップスを歌ってはいるが、ナイトクラビング文化における生な人間関係でそれを作っている。アティチュードはインディなのだ。また、白人女性シンガー+黒人プロデューサーというコンビは、ハイプ・ウィリアムスのようになにかと未来を感じる。こうしたバックボーンが、彼女への一票をうながしているのだろう。
 そして、もうひとつ付け加えることがあるなら、ここには昨今のR&Bムーヴメントの目立った傾向である、ドリーミーなフィーリングが展開されていることだ。もちろん、あくまでもポップスとして。倦怠ではない、デヴォーション=献身的なそれとして。

Safiyya - ele-king

 またしてもリビアやエジプトからはじまり、イエメン、チュニジアとイスラム圏全体に拡大している反米デモは、奇しくも9月11日にリビアでアメリカ大使以下4名が殺されたほか、いまだに被害者を増やしているにもかかわらず、さらにイスラエルや「アラブの春」とは無縁だったモロッコにも飛び火しているという。問題となったのは(最初はサム・バーシルと名乗っていた)ソフト・ポルノの映画監督、アラン・ロバーツ(65歳)がイスラム教の開祖ムハンマドにセックス・シーンを演じさせた自主映画『イノセンス・オブ・ムスリム』から予告編をユーチューブにアップしたことで、多くのマスコミがまだ内容を正確に把握できないまま、監督も「イスラムはガンだ」と言い残したまま姿をくらましたという経過を辿っている(大統領選を控えたバラク・オバマも慌てて同作を非難する声明を出している。15日現在、東南アジアやオーストラリアでも抗議デモが起こり、スーダンではドイツ大使館も襲撃されている(ムハンマドのカリカチュアを描いたことがある画家にメルケルが賞をあげたからではないかと推測されている)。

 少しばかり驚いたのは、そのとき、僕がレヴューしようと思っていた対象が『サフィーヤ』だったことである。ユニット名およびタイトルにもなっている「サフィーヤ」とは、メディナに住んでいたユダヤ女性の名前で、ムハンマドがバーヌ・ナティールと呼ばれるユダヤ部族を打ち破ったときに連れてこられ、そのまま10番目の妻として迎えられた人らしい(12~22人ぐらいの妻がいたらしい)。彼女はそのために改宗までしたにもかかわらず、他の妻たちからいじめられ、また、ほかの男とセックスがしたいと思っていたためにムハンマドに殴られたり、政治的な話し合いの場ではそれなりに活躍もしたらしい。よくわからないけれど、数奇な一生を遂げた女性のようで、シルク・スクリーンで刷られたスリーヴには彼女をさして「バーヌ・ナディールの宝石」という表記と、ハイバルの戦いから引き上げてくるときにムハンマドたちが休息をとった地名が記されている(その場所でサフィーヤは奴隷から妻に身分が変わっている。いわば、ユダヤ人の運命が変わった場所である)。

 サフィーヤを構成しているのはノー・ネック・ブルース・バンドのオリジナル・メンバー、パット・ムラーノと、オクラホマで〈ディジタリス・レコーズ〉を運営するブラッド・ローズ(ザ・ノース・シーほか)である。このところ急激に活動を活性化させているムラーノが新たに設立したケリーパからのリリースで、ふたりともどちらかというと暗くて重いゴシック・タイプだったのが、明るくて軽いとはいわないけれど、その間をとって明るくて重い作風を導き出し、その種のドローンとしては意外な面白さを展開している(でなければ、こんなにあれこれと調べてみようとは思わない)。ドローン状に引き伸ばされた「華やかな重み」はジ・オーブとノイズ・ドローンが融合し、地獄と天国が相互環流を起こしているような景色を想像させる。重量級のE.A.R.といえるかもしれないし、曲調は彼女の劇的な生涯や目まぐるしさを想起させるに余りある。ドローンというと、どこか一点突破のイメージがあるけれど、全体にどこか気が散っていて、雑多な要素が一気に加速度をつけていく展開はかなりサイケデリック。あるいはあからさまに快楽的で、アラベスクを思わせる細やかな音の配置はたしかに中東への思いから生まれたものかもしれない。

 後半に入ると、どことなくコーク的になり、それこそ一気呵成に宇宙空間を滑り倒していくような展開に。サフィーヤがほかの男とセックスがしたいと考えていた女性だということは文学の題材にもなったことがあるらしく、その自由さというのか、7世紀という時代における型破りな存在感は充分に音に置き換えられている。渦巻くシンセサイザーにエンディングめざしてパッセージを早めていくベースと、あまりにも混沌としたドローンは優雅なストリングスの響きを加えてついに大団円を迎える。実際のサフィーヤは死んでからが、その遺産を巡ってひと騒動あったらしいのだけれど......。それにしても、どうして「サフィーヤ」をテーマにしようと思ったのだろう。ひとつ思い当たるのは08年にイギリスで一時、出版差し止めの騒ぎに発展したシェリー・ジョーンズ『メディナの宝石』という小説のことで、そこではムハンマドの妻たちのなかでは唯一、処女だったとされるアーイシャのことが取り上げられ、彼女は史実として6歳で婚約し、9歳で結婚したとされているため、ムハンマドが幼児性愛者であったという誤解が広まることをイスラム教徒は恐れたらしい。この騒ぎから(かえって)ムハンマドの妻たちやそのセクシュアリティに興味を持った人たちがいてもおかしくはないし、『メディナの宝石』はそのまま「バーヌ・ナディールの宝石」に通じている。あるいはムラーノやローズがそもそもユダヤ系の視点を持っていたのかもしれないし、こればかりは本人に訊いてみないとわからない。

 2011年にはデシムスの名義で10枚近くのアルバムをリリースしてきたムラーノは、『サフィーヤ』と前後してラージマハールという、これまたイスラム文化を想起させる名義でもフォーク・ドローンのアルバムをリリースしている。ホーリー・アザーやハウ・トゥ・ドレス・ウェルとも共振するようなウィッチネスを蓄えた『ラージマハール』は、打って変わって荒涼とした風景を描き出し、なにもかもすべては終わったかのような気分にさせる静かなアルバムである(なぜかフリートウッド・マック"ドリームス"をカヴァー)。手法の幅よりも気分のレンジが広いことに驚かされるムラーノは、ここではボアダムズやドゥーム・メタルとは対照的にグルーパーやモーション・シックネスら女性たちの奏でるドローンに共感を示しているようで、悲しみから抜け出したようなエンディングではどこか包容力のある優しい曲調で全体を優美に締めくくる。デシムスでは暴力的な音の乱舞が縦横に展開されているだけに、このキャパシティの広さには驚かされる。

 大したパロディでもなさそうだし、『イノセンス・オブ・ムハンマド』やサム・バーシルことアラン・ロバーツの肩を持つ気はまったくない。とはいえ、原理主義者の行動にも僕は共感は覚えない。殺されたリビア大使は本当にリビアという国が好きな人だったという記事も読んだし、そもそもいままで抑えつけられていたイスラム原理主義を広範囲に解き放ったのは「アラブの春」で、それ以前だったら、このような行動は考えられなかったという見解もある。やはり08年にイランと日本の合作で公開されたアボルファズル・ジャリリ監督『ハーフェズペルシャの詩』などは実在するイランの詩人を扱ったものだというけれど、まるで既存のイスラム教を批判し、ムハンマドに代わる新たな預言者を待望しているかのような内容の映画だった。ハリウッドを目指して奮闘するオダギリジョーとは対照的に麻生久美子が地味に遠方から迎えられる妻(それこそサフィーヤだ)を演じた同作は砂漠ばかりが映っていたせいか、『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー)を思わせるシュールな作品で、どうとでもでも受け取れるようなつくりではあるけれど、実在した詩人のエピソードに仮託して監督が語ろうとしたテーマがもしもイスラム教に対するなんらかの疑義である場合、むしろ原理主義者たちが騒ぐとしたらこの映画ではないだろうかとさえ思ってしまう。そう、証明されたのはやはり反米感情のただならぬ根強さである(ここへきてアメリカをはじめとする先進国が石油依存から脱却し、天然ガスの導入に切り替えたことも大いに関係しているに違いない)。グローバリゼイションとそれを拒む原理主義の対立はまだまだ高まっていくのだろう。こういうことはもっと増えていくに違いない。

PS サフィーヤの読みは、最近、中東音楽好きが高じてアラビア語を勉強し出した赤塚りえ子に教えてもらったものです。感謝。

Liz Christine - ele-king

 簡単に地図を描いてみよう。ライブラリー・ミュージック・レコードは、もともとは放送局が番組で使用するためのBGMとして作られたものだが、それは1980年代にレア・グルーヴの一種として再発見され、同時にモンド/ストレンジなる別称によって蒐集家のアイテムのひとつとなった。それは今日、一種のアンビエント・ミュージック、プライヴェートなBGMないしはラウンジーなトリップ・ミュージックとして再々解釈され、復刻されている。
 スフィアン・スティーヴンスのレーベルが手がけている「Library Catalog Music Series」はそのひとつの例だが、この手のものはほかにもいろいろある。その傍流には、テクノ・プロデューサーのアンディ・ヴォーテルが経営に加わるロンドンの〈Finders Keepers〉のような、超ナードなレア音源の復刻(それがB級であろうとレアであることが重要)を販売するレーベルもある。
 こうしたモンド/ストレンジな感性がワールド・ミュージックとして展開すると......〈サブライム・フリーケンシーズ〉のような東南アジアの歌謡曲の編集盤へと、アーティなサンプリング・ミュージックとして展開するとピープル・ライク・アスのようになる。ハウスのビートを加えれば初期のジ・オーブ、そして最近では、ネットで見つけたホントどうでもいいようなネタをループさせるとヴェイパーウェイヴになるのだろう。

 リオデジャネイロで暮らすリズ・クリスティーンは、街のレコード店で集めたさまざまなレコード(サントラ、ラウンジ、効果音、ムード歌謡などなど)のコレクションをカット・アップして、なんとも奇妙で、美しく、そして愛らしい音楽を作り上げた。それが彼女のデビュー・アルバム『スウィート・メロウ・キャット』だ。
 古いレコード盤のパチパチ音、針飛び、そこに刻まれた音楽のサンプリング、ルーピング、電子ノイズ、そして加工、ミキシング......手法的にはミュージック・コクレート/サウンド・コラージュで、ザ・ケアテイカーグレアム・ラムキンやなんかと、つまりザ・ビートルズの"レヴォリューション・ナンバー9"やザ・レジデンツの『サード・ライヒン・ロール』やなんかとも同じで、いまさら珍しいものでもなんでもないが、ここには月並なベッドルーム・ミュージック以上の魅力──音を聴くことのみずみずしい楽しさがある。太古の人類が風や木の音を面白がったように、リズ・クリスティーンは名もない音の記録=レコードの溝から鳴る音に新鮮に反応している。彼女とターンテーブルに載せられたレコードとのあいだには、ロマンティックな関係がある......と思う。
 空想的なこの音楽はある意味シュールだが、日々の営みの悦びを表現しているに違いない。題名に「猫」とあるのは彼女の家に住んでいる4匹の猫もこの作品に参加しているからだ。音の合間から、絶妙なタイミングで「にゃーにゃー」と声が聴こえてくる。犬の声や鳥のさえずりも聴こえる。これもアイデアとしては特別なものでもなんでもないが、とにかくまあ、『スウィート・メロウ・キャット』は嬉しい発見の連続のように時間が流れる。生き生きとしていて、いわゆるジョワ・ド・ヴィーヴルを有する音楽。視聴はこちら→https://soundcloud.com/flaurecords/liz-christine-sweet-mellow-cat
 
 リズ・クリスティーンは、2008年にベルリンの〈モニカ・エンタープライズ〉(三田格が持っているすべてのレコードにサインをもらったという、元マラリア!なる女性ポスト・パンク・バンドのメンバーが運営する)からリリースされているコンピレーション『4ウイメン・ノー・クライ vol.3』(ele-king vol.6参照)に、ジュリア・ホルターとともに参加している。本作をリリースしている〈flau〉は、自らも作品を発表しているausが主宰する東京のレーベルで、今年は女性アーティストのCuushe、エレクトロニカの新星Madeggなど、基本ドリーミーなエレクトロニック・ミュージックで、質の高い作品をリリースしている。

John Frusciante - ele-king

 ギタリストとしての彼と同等かそれ以上に、ジョン・フルシアンテは彼という存在自体に心酔するファンを多く引き寄せるようにみえる。カリスマ・ギタリストとはそういうものかもしれないが、彼の場合は生き方のロールモデルとしても強固に支持され、それも女性より男性を惹きつけてやまないといったところがある。

 何がそうさせるのか。その理由のひとつは一種のストイシズムだと言えるかもしれない。みずからの理想とする音のために、人気も名声もほしいままのスーパー・バンド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを脱退し、音楽以外のことにはほとんど金も時間も使わない。そこには非常に情熱的な思いもあふれている。

 それから、筋骨隆々としたバンドにあって、どこかはかなく、危うい精神性を感じさせる部分も魅力的だった。彼のヘロイン中毒は、自堕落のためではなく、過度のプレッシャーやデリケートな性質ゆえのものとしてファンには記憶されているだろう。2004年前後にたてつづけに7枚ものソロ・リリースを重ねたことも、彼の情熱に加え、そうした危うさをわずかに感じさせる。

 さらにはエモーションゆたかな演奏スタイルやソングライティング、そこにぎりぎり表れるナルシスティックな雰囲気が、彼をある種の人びとにとっての神に押し上げる。ストイシズムはあるときナルシシズムを生むし、逆もまたしかりだ。長髪のフルシアンテの姿にときおり磔刑の像が重なるのは筆者ばかりではあるまい。(このナルシシズムについては「女性が沢尻エリカに心酔するのと同じ?」と指摘した友人がいたが、そうかもしれない)

 であればこそ、フルシアンテの音楽を評するのはじつにむずかしい。それは音楽というよりも彼自身であるからだ。今作『PBXファニキュラー・インタグリオ・ゾーン』最大の争点は、彼が大胆にエレクトロニクスを導入し、プログラミングを行い、これに先立つEPにはRZAらMCを迎え、ドラムンベースまでがきこえてくる、本人いわく「プログレッシヴ・シンセ・ポップ」を制作しようとしたことである。しかしわれわれはその「プログレッシヴ・シンセ・ポップ」を微分していったところで、あまり実りのある批評を引き出せるとは思えない。もっと言えば、ここに鳴っている音には音楽史的な新しさや未知のヴィジョンが示されているわけではないし、その意味での重要性もさほど感じない。しかしほかならぬフルシアンテ史として、フルシアンテの作品として非常におもしろく、感動的なものであることもまた間違いない。作品をはかるものさしはひとつではない。彼の取り組みやその真剣さには、真似のできない、敬意を抱かずにはいられないものがある。前作『ザ・エンピリアン』の時期に、すでに彼はアシッド・ハウスやエレクトロニック・ミュージックにしか興味がないという旨の発言をしていたようだし、ブレイクコアの雄、あのヴェネチアン・スネアーズやクリス・マクドナルドとも新たなプロジェクトを立ち上げるなど、本作への伏線となるような一貫した流れが彼のなかでは組み上げられていたのだ。

 では彼がシンセやビート・コラージュに期待したものはなにか。おそらくそれは彼のなかのロックを対象化する作用である。EPにMCを起用したのも同様だ。自身に深くしみついた音楽性を外側から眺めることで、自身をも見つめ直したい。そして自分にまだ残されている未知の可能性を探りたい。そうした生真面目な理由からではないかと思う。「手と楽器の密接な関係性は、ミュージシャンが作り出す音楽の基礎となっているが、ポップ/ロックを演奏する上で、自分の頭が手によってコントロールされている傾向が強いことに気づいて、それを修正したいと強く願っていた」(https://www.ele-king.net/columns/002355/index-2.php)つまり手クセや、ロックというフォーム自体が強いてくる制限性をうち破りたいということだ。そして「マシンの知能と人間の知能が刺激し合って、その相互作用によって生まれる音楽に僕は強い関心を抱くようになった」身体がおぼえている慣習に、純粋な思念やアイディアがからめとられてしまうことを克服したいということだろう。そこに人工知能を噛ませることがはたして解決になるのかどうかはともかく、ここでも非常に彼らしい、まじめな問いが問われていると感じる。彼はおそらく、あの過大なエモーションをギターと歌とによって放出させることを抑えたいのである。

 さてアナログシンセをサウンドの核として楽曲構成すること自体が、当代随一ともいえるギタリストのフルシアンテにとってはエポック・メイキングな取り組みであるわけだが、そのもくろみがもっとも成功しているのは"イントロ/サバム"である。ふだんは雄弁すぎる彼のギターがシンセの影として動き、アブストラクトなビートによってその情緒を解体されている。冒頭のゴーストリーなコーラスもよいし、ピアノのサンプルもうまく配されている。"バイク"などは、ドラムンベースからジュークにまで突き抜けそうな奇怪な高速トラックでおもしろい。全体が非常にせわしなく落ちつかないビート感覚に支配されていることも本作の大きな特徴だ。"サム(Sam)"も同様の趣がある。

 しかし、気がつけばすぐに彼は歌ってしまう。声でも歌うし、弦でも歌う。そして今回導入した「マシンの知能」を自分で食ってしまう。終曲"サム(Sum)"は冒頭から朗々とヴォーカルが入る。彼が自身とマシンとをポジティヴに拮抗させているのは先に挙げた数曲のみだ。こうしたことは、ジョン・フルシアンテというアーティストの業をふかく抉りだしていてしみじみとさせる。この強烈なエモーションは、やはりどのような策によってもねじ曲げ、封じることはできないのだろう。彼は、まさにこのようであることにおいて、このようにしか生きられないことにおいて、いっそう愛され、尊ばれていく存在ではないだろうか。そしてそこにまったく嘘や手抜きがなく、厳しい自己鍛錬ばかりがあることを筆者も疑わない。

HPrizm - ele-king

 思わずビールを吹き出してしまった。世田谷区の環八をちょっと入ったところの、周囲は畑に囲まれた小さな神社だ。蒸し暑い日曜日の夕暮れ時に、友だちが祭の演目で踊るというので、子供と一緒に出かけた。和服を着た友だちは祭り囃子に合わせて練習した踊りを踊っている。それが終わると、続いて5~6人の小学生の女の子が登場、おそろいの真っ赤なバスケのユニフォームには大きな英語で「remix」と記されている(笑)。
 しかし本当に笑うのはこの後だった。神社の舞台に設置されたBOSEのスピーカーが低音を鳴らすと、ブローステップがかかりはじめた。ぶんぶんうなるベースとダークなビートの隙間からは「マザファッカ」という英語が連呼されている。「マザファッカ」「マザファッカ」......、もっとも汚い英語であり、僕がアフリカ系アメリカ人の友人にふざけて言っても、本気で嫌がるような卑語だが、女の子たちは楽しそうに踊り、父兄や老人はニコニコしながら団扇を扇いでいる。女の子たちが踊っている背後には、「絆」という文字が大きく描かれている。

 R&Bとヒップホップはいま旬だ。それらはいつだって旬だとも言えるが、ハウスがいまイケているのと同じ次元において旬だ。この10年で広がっていたアンダーグラウンドとオーヴァーグラウンドの溝が埋められつつあるし、何より他ジャンルへの波及がすごい。〈ハイパーダブ〉のクーリー・GのアルバムにもR&Bテイストは注がれ、ジェームズ・ブレイクの新作はロール・ディープ(グライムと呼ばれるUKヒップホップの初期からのでっかいグループ)のラッパーとの共作だ。クラウド・ラップ以降の動きは面白いし、フランク・オーシャンのアルバムは出る前から騒がれていた。チェット・フェイカーのアルバムも良かったし、来月にリリースされるハウ・トゥ・ドレス・ウェルのセカンドがとにかくやばい(デルフォニックスのアンビエント・ヴァージョンのようだ!)。

 R&Bとヒップホップはいま旬だが、これらブラック・カルチャーはステロタイプについても考えなければならない。本作は、アンチ・ポップ・コンソーティアムやジ・アイソレーショニストのメンバー、ハイ・プリーストによるHプリズム名義によるソロ作品で、スイスの真新しいレーベル〈スヴェクト〉からの第一弾リリースだ。
 アンチ・ポップ・コンソーティアムにはすでに名声がある。ギャング文化を商標としながら、芸能界化するヒップホップ・シーンと前向きに決裂していった、アンダーグラウンド・ヒップホップへと分派する先頭集団だった。彼らを紹介するうえでもっとも有名な言葉に「ヒップホップとIDMの溝を埋めた」というのがある。のちに〈ワープ〉と契約するように、アンチ・ポップ・コンソーティアムにとってのヒップホップへの疑問符は、たとえるならエイフェックス・ツインやオウテカへのアプローチとなっている。もしくはゲットー・ミュージックの露悪主義(卑語の多用)に振り回されない、ステロタイプ(お望み通りの黒人像)に甘んじない......という、ある種内なる相対化が彼らにはある。

 ハイ・プーリストの1曲20分にもおよぶ新作は、シカゴのフットワークが大胆に取り入れている。というか、フットワークをやってみたくて我慢できずに作ったようなはじまりだ。ハイピッチのビートではじまり、やかましい声ネタがくどくどしくミックスされる、いつものフットワークだ。が、しかし、それは3~4分で終わらない。オーネット・コールマンの『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』のようにフリーキーな展開を見せる。アフリカン・パーカッションへと突き進み、アシッド・ハウスの恍惚と寒々しいインダストリアル・サウンド(世界の終わり系産業グルーヴと呼ぶらしい)をダイナミックに往復する。終盤はノイズ/ドローンへとまっしぐら。
 El-pとオウテカに強くインスピアされたというこのレーベルからの次のリリースは、アオキ・タカマサだとアナウンスされている。


 ハイ・プーリストやアオキ・タカマサとの共作者でもあるNHKyxは、先日、アヴァンギャルド系を得意としているベルリンのレーベル〈パン〉からSNDとのスプリット盤に次ぐ作品として、『ダンス・クラシック・ヴォリューム・ワン』をリリースしている。故コンドラッド・シュニッツラーとの共作、〈スカム〉レーベルやUKラフトレードからのラヴコールなど、彼=NHKyx=マツナガ・コーヘイはここ数年、ポストIDM時代のキーパーソンとしてあらたな脚光を浴びているが、今回の全10曲はその題名が言うようにダンス・ミュージック集、彼なりのハウス/テクノが収録されている。
 腰に力の入ったダンス・ミュージックでありながら、NHKらしいひょうきんさ、ユーモアがある。初期のエイフェックス・ツインや初期のプラッドのような透明感、無邪気なムード、音響工作的な面白味を持っていながら、ヒップホップから来るベースがうなっている。パーティ・ミュージックではない、が、確実にダンス・ミュージックだ。すでに大量のリリースをほこるマツナガ・コーヘイだが、このアルバムは親しみやすさにおいてベストな1枚に思える。

 音楽文化はいま、ただ曲を作って、それを人が聴くという単純な構造のものではなくなっている。発表の仕方もひとつの態度表明になっている。〈パン〉にしても〈スヴェック〉にしても新しいレーベルだが、ともにヴァイナル(アナログ盤)にこだわっている。アートワークへの充分な配慮もある。ヴェイパーウェイヴが積極的にデジタル環境で遊んでいるのに対して、こちらは距離を置こうとしている。ヨーロッパにおけるポストmp3時代は、彼らのようなIDM以降の領域で顕在化しているようだ。昔、〈リフレックス〉を揃えていた人、最近〈プラネット・ミュー〉が好きな人はチェックしてみて。

Patti Smith - ele-king

 パティ・スミスが『Banga(バンガ)』収録曲の解説をしているヴィデオを見ていると、アート系企業とか、ちょっとエッジーな建築事務所とか、そういう組織の女性幹部がクライアント企業の重役にプレゼンしている映像を見ているような錯覚に陥ってしまう。
 映像中のこの女性幹部の説得力は相当なものだ。プレゼンのベテランであるのは間違いない。しかも、業界の酸いも甘いも知った上で、自らの組織の染みも汚れも知り抜いた上で、それでもまだ自分の仕事を愛しているような感じが伝わる。企業の創設者のひとりなのかもしれない。「汚らしい倉庫にね、寝袋持ち込んでスクワッターみたいに泊まり込んで、そうやってはじめた会社だったの。もう30年以上も前の話だけど」と、ワイン片手に微笑しながら部下に話したりすることもあるかもしれない。
 思えば、このパンク界の女性幹部のプレゼン力は、経験によって洗練されたとは言え、昔から確実にそこにあったのだ。Articulate。という言葉があるが、わたしにとってパティ・スミスの魅力は常にそれであった。エモーショナルなポエトリーを叩きつけて来るイメージの一方で、彼女が感情に流されて聞き取り不明の言葉を吐くことはなかった。詩人にしてはロジカルでArticulateで、説得上手だった。女性幹部の座まで駆け上れたのも、その能力があったからだろう。

 エイミー・ワインハウスの死や日本の震災といった時事ネタ的な楽曲のモチーフからは、子供たちを育て上げ、夫も亡くしたパティが、ひとりで居間のソファに座ってCNNを見ている姿が浮かんで来る。寂しい。という時期はとっくに過ぎ、満たされて、幸福なのだろう。それは、加齢とともに、優しく深く澄んで来た彼女の声を聴いているとわかる。
 レニー・ケイやジェイ・ディー・ドハーティなど昔ながらの馴染みの面子を集めて、自宅近くのElectric Lady Studiosで録音したという『Banga』は、サウンド的にはひたすらシンプルにローリング・ストーンズであり、ボブ・ディランだ。タイトル曲『Banga』でのジョニー・デップとのコラボにしても、ジャック・スパロウ船長の父親がキース・リチャーズであることを考えれば、一貫性はある。
 ひとりでぼんやりCNNを見たり、感動した本や映画や友人たちのことを考えてみたり、旅先で撮った写真を見ながら空想に耽ったりしつつ書いたポエトリーに、昔から大好きなバンド風の音をつけて、家の近所のスタジオで歌ってみたの。というアルバムは、まるで自宅の居間の延長である。が、「俺はベッドから革命をはじめる」と歌ったバンドがいたようにロックに自宅性はつきものだし、そう言えば、英国には好きなバンドや映画、友人などの写真を集めた"マイ・フェイヴァリッツ"のコラージュを作って部屋に飾っている女の子がよくいるが、『Horses(ホーセス)』がそうだったように、『Banga』もパティ・スミスの女子コラージュなのだろう。で、女がそのコラージュをもっとも綺麗に作成できるのは、まだ男や子供に振り回されずに済む時期か、それら全てが終了してひとりになる時期か、のどちらかなのかもしれない。ゴダールの映画に出演したり、本を書いたり、TVドラマに出たりする合間に、タルコフスキーや『ハンガー・ゲーム』、マリア・シュナイダーなどの写真を切り取って、彼女はせっせとコラージュを作っていたのである。

 ところで、その女子コラージュに付けられた『Banga』というタイトルは、ロシア作家の本に出て来る犬の名前だそうで、この犬の飼い主は、キリストを殺した男として有名なローマ総督ピラトだという。小説中のピラトは、キリストを死なせてしまった罪の許しを2000年間待ち続ける設定になっているそうで、Bangaという犬も、飼い主の傍らに2000年間辛抱強く寄り添い続けるという。
 要するに、忠犬ハチ公みたいなタイトルではないか。『Horses』で自由奔放でしなやかな荒馬のように登場したパティも、ついに老年は忠犬ハチ公に落ち着いたか。と思いながら何十年ぶりかで『Horses』を聴いてみると、一発目の彼女の肉声がこう言っていた。

 Jesus died for somebody's sins but not mine.

 偶然にしてはできすぎだろう。
 が、そう言い切ることもできないのは、どうもパティ・スミスという詩人は、いろんな局面でこういう辻褄が宿命的に合ってしまう人のような気がするからだ。
 いずれにしろ、馬とハチ公は呼応するアルバムのようだ。もう何十年も『Horses』なんか聴いてない。という中年の方々には、併せて聴くことを強くお勧めしたい。

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