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またしてもリビアやエジプトからはじまり、イエメン、チュニジアとイスラム圏全体に拡大している反米デモは、奇しくも9月11日にリビアでアメリカ大使以下4名が殺されたほか、いまだに被害者を増やしているにもかかわらず、さらにイスラエルや「アラブの春」とは無縁だったモロッコにも飛び火しているという。問題となったのは(最初はサム・バーシルと名乗っていた)ソフト・ポルノの映画監督、アラン・ロバーツ(65歳)がイスラム教の開祖ムハンマドにセックス・シーンを演じさせた自主映画『イノセンス・オブ・ムスリム』から予告編をユーチューブにアップしたことで、多くのマスコミがまだ内容を正確に把握できないまま、監督も「イスラムはガンだ」と言い残したまま姿をくらましたという経過を辿っている(大統領選を控えたバラク・オバマも慌てて同作を非難する声明を出している。15日現在、東南アジアやオーストラリアでも抗議デモが起こり、スーダンではドイツ大使館も襲撃されている(ムハンマドのカリカチュアを描いたことがある画家にメルケルが賞をあげたからではないかと推測されている)。
少しばかり驚いたのは、そのとき、僕がレヴューしようと思っていた対象が『サフィーヤ』だったことである。ユニット名およびタイトルにもなっている「サフィーヤ」とは、メディナに住んでいたユダヤ女性の名前で、ムハンマドがバーヌ・ナティールと呼ばれるユダヤ部族を打ち破ったときに連れてこられ、そのまま10番目の妻として迎えられた人らしい(12~22人ぐらいの妻がいたらしい)。彼女はそのために改宗までしたにもかかわらず、他の妻たちからいじめられ、また、ほかの男とセックスがしたいと思っていたためにムハンマドに殴られたり、政治的な話し合いの場ではそれなりに活躍もしたらしい。よくわからないけれど、数奇な一生を遂げた女性のようで、シルク・スクリーンで刷られたスリーヴには彼女をさして「バーヌ・ナディールの宝石」という表記と、ハイバルの戦いから引き上げてくるときにムハンマドたちが休息をとった地名が記されている(その場所でサフィーヤは奴隷から妻に身分が変わっている。いわば、ユダヤ人の運命が変わった場所である)。
サフィーヤを構成しているのはノー・ネック・ブルース・バンドのオリジナル・メンバー、パット・ムラーノと、オクラホマで〈ディジタリス・レコーズ〉を運営するブラッド・ローズ(ザ・ノース・シーほか)である。このところ急激に活動を活性化させているムラーノが新たに設立したケリーパからのリリースで、ふたりともどちらかというと暗くて重いゴシック・タイプだったのが、明るくて軽いとはいわないけれど、その間をとって明るくて重い作風を導き出し、その種のドローンとしては意外な面白さを展開している(でなければ、こんなにあれこれと調べてみようとは思わない)。ドローン状に引き伸ばされた「華やかな重み」はジ・オーブとノイズ・ドローンが融合し、地獄と天国が相互環流を起こしているような景色を想像させる。重量級のE.A.R.といえるかもしれないし、曲調は彼女の劇的な生涯や目まぐるしさを想起させるに余りある。ドローンというと、どこか一点突破のイメージがあるけれど、全体にどこか気が散っていて、雑多な要素が一気に加速度をつけていく展開はかなりサイケデリック。あるいはあからさまに快楽的で、アラベスクを思わせる細やかな音の配置はたしかに中東への思いから生まれたものかもしれない。
後半に入ると、どことなくコーク的になり、それこそ一気呵成に宇宙空間を滑り倒していくような展開に。サフィーヤがほかの男とセックスがしたいと考えていた女性だということは文学の題材にもなったことがあるらしく、その自由さというのか、7世紀という時代における型破りな存在感は充分に音に置き換えられている。渦巻くシンセサイザーにエンディングめざしてパッセージを早めていくベースと、あまりにも混沌としたドローンは優雅なストリングスの響きを加えてついに大団円を迎える。実際のサフィーヤは死んでからが、その遺産を巡ってひと騒動あったらしいのだけれど......。それにしても、どうして「サフィーヤ」をテーマにしようと思ったのだろう。ひとつ思い当たるのは08年にイギリスで一時、出版差し止めの騒ぎに発展したシェリー・ジョーンズ『メディナの宝石』という小説のことで、そこではムハンマドの妻たちのなかでは唯一、処女だったとされるアーイシャのことが取り上げられ、彼女は史実として6歳で婚約し、9歳で結婚したとされているため、ムハンマドが幼児性愛者であったという誤解が広まることをイスラム教徒は恐れたらしい。この騒ぎから(かえって)ムハンマドの妻たちやそのセクシュアリティに興味を持った人たちがいてもおかしくはないし、『メディナの宝石』はそのまま「バーヌ・ナディールの宝石」に通じている。あるいはムラーノやローズがそもそもユダヤ系の視点を持っていたのかもしれないし、こればかりは本人に訊いてみないとわからない。
2011年にはデシムスの名義で10枚近くのアルバムをリリースしてきたムラーノは、『サフィーヤ』と前後してラージマハールという、これまたイスラム文化を想起させる名義でもフォーク・ドローンのアルバムをリリースしている。ホーリー・アザーやハウ・トゥ・ドレス・ウェルとも共振するようなウィッチネスを蓄えた『ラージマハール』は、打って変わって荒涼とした風景を描き出し、なにもかもすべては終わったかのような気分にさせる静かなアルバムである(なぜかフリートウッド・マック"ドリームス"をカヴァー)。手法の幅よりも気分のレンジが広いことに驚かされるムラーノは、ここではボアダムズやドゥーム・メタルとは対照的にグルーパーやモーション・シックネスら女性たちの奏でるドローンに共感を示しているようで、悲しみから抜け出したようなエンディングではどこか包容力のある優しい曲調で全体を優美に締めくくる。デシムスでは暴力的な音の乱舞が縦横に展開されているだけに、このキャパシティの広さには驚かされる。
大したパロディでもなさそうだし、『イノセンス・オブ・ムハンマド』やサム・バーシルことアラン・ロバーツの肩を持つ気はまったくない。とはいえ、原理主義者の行動にも僕は共感は覚えない。殺されたリビア大使は本当にリビアという国が好きな人だったという記事も読んだし、そもそもいままで抑えつけられていたイスラム原理主義を広範囲に解き放ったのは「アラブの春」で、それ以前だったら、このような行動は考えられなかったという見解もある。やはり08年にイランと日本の合作で公開されたアボルファズル・ジャリリ監督『ハーフェズペルシャの詩』などは実在するイランの詩人を扱ったものだというけれど、まるで既存のイスラム教を批判し、ムハンマドに代わる新たな預言者を待望しているかのような内容の映画だった。ハリウッドを目指して奮闘するオダギリジョーとは対照的に麻生久美子が地味に遠方から迎えられる妻(それこそサフィーヤだ)を演じた同作は砂漠ばかりが映っていたせいか、『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー)を思わせるシュールな作品で、どうとでもでも受け取れるようなつくりではあるけれど、実在した詩人のエピソードに仮託して監督が語ろうとしたテーマがもしもイスラム教に対するなんらかの疑義である場合、むしろ原理主義者たちが騒ぐとしたらこの映画ではないだろうかとさえ思ってしまう。そう、証明されたのはやはり反米感情のただならぬ根強さである(ここへきてアメリカをはじめとする先進国が石油依存から脱却し、天然ガスの導入に切り替えたことも大いに関係しているに違いない)。グローバリゼイションとそれを拒む原理主義の対立はまだまだ高まっていくのだろう。こういうことはもっと増えていくに違いない。
PS サフィーヤの読みは、最近、中東音楽好きが高じてアラビア語を勉強し出した赤塚りえ子に教えてもらったものです。感謝。
三田 格