今年の米独立記念日、ネット上で話題になったのがフランク・オーシャンのカミングアウトだった。ヒップホップ、R&Bシーンに属するブラックのアーティストとしては異例のことである、と。しかしそれはカミングアウトというよりは、ごく個人的な愛の告白だった??「4年前の夏、俺たちは出会った。俺は19歳で、彼も同じ年だった。その夏を一緒に過ごし、翌年の夏も一緒だった。(略)彼のことを愛していると気づいたときは、もう悪性の腫瘍みたいになっていた。絶望的で、逃げ場がなく、感情を収める術もなかった。選択の余地も。俺にとって初恋で、人生そのものを変えてしまった」
これを読んだとき僕は心から感動するとともに、どうにも苦い気持ちを抑えることができなかった。カミングアウトが同性愛者にとって社会的に課せられた通過儀礼であるとしても(もちろん強制されるものではないのだが)、その告白はあまりにも無防備に思えたからだ。彼が同性愛に寛容でない場所にいるならなおさらだ。そこではペット・ショップ・ボーイズの捩れた知性もマトモスのブラック・ユーモアも持ち合わせないままに、彼の創作の源となった「ありきたりの」失恋の物語が綴られていた。しかし当の本人が、それが社会的な意味において「ありきたり」ではないと理解しているからこそ、できるだけ率直でエモーショナルなままで個人的な体験をアルバムに添えることを決意したのだろうと思うほどに......彼の勇敢さは同時に痛ましく感じられたのだ。
だが、アルバムのベストのひとつ、ジャジーなトラックに乗せて「sweet」と20回繰り返される"スウィート・ライフ"において、僕が覚えた苦さはすべて甘さに変換される。いや、曲は西海岸の豪奢な生活を幾らか皮肉をこめて歌ったものではあるのだが、そのシルキーな肌触りによってそこに溺れることをリスナーひとりひとりに許していく。あらゆる痛みを麻痺させるかように、フランク・オーシャンの歌声が耳から入って身体を撫でる。これは逃避そのものについてのアルバムである......とても切実な。しかし同時に、現実に立ち返ることへの欲望に引き裂かれてもいる。「それなのにいまさら世界を見たいんだ/ビーチがあるのに/なんで世界に目を向けるんだ」
『Nostalgia, Ultra』においてフランク・オーシャンの魅力とは、イーグルスの"ホテル・カリフォルニア"をそのまま引用しブラック・カルチャーの側から(浮かれる)西海岸の斜陽を仄めかすようなクレバーさにあったはずで、それはメジャー・デビュー作となるこのアルバムでもしっかりと生きている。シングル"シンキン・バウト・ユー"や"シエラレオネ"はスムースなヴォーカルを生かした得意のR&Bだが、"クラック・ロック"のようにほぼサイケデリック・ロックのようなトラックもあれば、"ロスト"のようにファンキーなループ・ナンバーもある。曲によってスタイルを変えるとともにオーシャンはフィクションとノンフィクションを行き来する。"バッド・レリジョン"のように「彼には愛してもらえないんだ」という直截的な失恋の歌と、男女の恋愛へと自分の切なさを置き換える曲を共存させているのは、これをあくまで創作物だとしたい彼の苦闘が見えるようだ。特筆すべきは9分を超える"ピラミッズ"で、ロウビット感が強調されたシンセ・ファンク(クラウド・ラップ周辺の成果を主張しているように聞こえる)でクレオパトラの逸話から男に搾られるストリッパーへと物語を飛躍させる。人称をぼかし、ジェンダーとセクシャリティを揺さぶり、音楽のジャンルをまたぎ、虚実入り乱れるラヴ・ソングを次々と繰り出していく。
そういった利巧さに支えられたポップ・アルバムであるという意味では、これを「カミングアウト・アルバム」と呼んでしまうことは、感情的で愚かな行為なのかもしれない。だが、その知性を担保しながらも、時折覗かせる正直さ......セクシャル・マイノリティのアーティストとして表現するという覚悟がどうしようもなく心を打つのは確かだ。アメリカのジャーナリストが「同性愛的な歌詞がある」と指摘したのはアルバムのラスト・トラックと言える"フォレスト・ガンプ"だったそうだが、歌詞を読めばすぐにわかる。それは歌の相手が「ボーイ」だから、というだけではない。そこで描かれている恋心が、あまりに生々しい切なさを伴った、男が男に恋に落ちる様を的確に表現したものだったからだ......「君のことなら知ってるさ フォレスト/カブト虫さえ殺せないんだ/筋肉隆々ですごく強いのに ナーヴァスになってる/フォレスト フォレスト・ガンプ」。彼の勇気はたんに、自分が男を愛する男だと宣言したことだけではない。同性愛の「中身」の部分、マッチョに見える男の奥にある優しさを、どうしようもなく欲望する自分をさらけ出したということだ。
ネット上でひとしきり話題になった後、かねてから同性婚の支持を表明していたジェイ・Z夫妻があらためてオーシャンを擁護し、またオッド・フューチャーの共同体としての新しさ(ブラック・カルチャーにおけるホモフォビアをパロディ化する知性があるということ)を証明したという点で、このアルバムは事実としてマイノリティの文化的状況を前に進めた。マーヴィン・ゲイの"レッツ・ゲット・イット・オン"のように、ソウルフルな愛の歌が社会を揺らしたのだ。
けれども、それ以上に本作の感動は、"フォレスト・ガンプ"の胸を締め付けるような音楽そのものに宿っている。フランク・オーシャンは歌い手としてずば抜けているとは言えないかもしれないが、彼の想いの強さが曲を特別なものにしている。それにしても、「フォレスト・ガンプ」なんて一見保守的なモチーフを使っているのはどうしてだろう。衒いのないメロディ、素朴な言葉......「君のことは忘れない/この愛は 本物なんだ/ずっと忘れないよ」
オーシャンはきっと、ここで自分の失恋の「ありきたり」さと俗っぽさに立ち返っている。スウィートなラヴ・ソングとポップスが、さまざまな境界を消していくパワーについて。だからこのアルバムは、あなたがマイノリティであってもそうでなくても、正直に愛を歌うことの根源的な感情を思い出せるだろう。「君のための歌さ/フォレスト フォレスト・ガンプ」......口笛が響く。フランク・オーシャンは、甘く甘く甘い人生の夢想に逃げ込み、初恋を葬り、そして「世界」に自分を打ち明けた。
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たとえば“サレンダー”に明瞭に表れているように、ジ・インヴィジブルにはレディオヘッドの影響が色濃い。誰もが『OKコンピューター』を思い起こさずにはいられないシークエンスを持ち、またそれを通してザ・キュアーのおもかげまでが宿る。メンバー3人がそれぞれアデルのバックを務めたりポーラー・ベアーのギタリストだったりという腕利きであることに加え、こうした音楽性がまたマーキュリー・プライズにノミネートさせるような、大きな市場への説得力となり得ることは想像に難くない。ベッドルームや小さな小屋ではなく、テレビや街頭で聴かれるに耐える大柄なボディを持った音である。
だが前作もけっして耳ざわりがよく大衆受けするポップ・チューンのならぶ作品だったわけではない。独特のローファイ感をいかしたソウルフルでジャジーなダンス・アルバム、ブロック・パーティ以降、多くのフォロワーを生みながらも空洞化していたポストパンク・リヴァイヴァルの最後の残り香といえるような雰囲気も漂わせていた。デイヴ・オクムのギターにその一端がうかがわれる。リズム隊も知的で熱情的なスタイルだった。しかし全体的にはクリアでリッチな音に仕上がっており、動画で確認できるような彼らのライヴの荒々しい熱狂や生演奏のスキルは、それほど反映されていない。とてもウェルメイドなアルバムという印象であった。
2枚めとなる今作について、ギターとヴォーカルのデイヴ・オクムは「前作のツアーの終盤でわれわれは自分たちのほんとうのアイデンティティをみつけた」と語っている。そして、2度同じことは繰り返したくない、だからメンバーで話し合いながら音を厳選して絞っていった、という内容の発言をつづける。その結論がこの『リスパ』であったのなら、それはよりエモーションを大切にしたいというようなことではなかったか。沈み込むような暗さ、神経症的で反復的な展開、複雑なアレンジをきかせる一方で、オクムのヴォーカルはより粘り気を増し、より感情の弁を開いたかのように感じられる。アート・ワークもそれを銀と朱で対照させるかのようにコンセプチュアルなたたずまいがあり、何だかよくわからないファーストのジャケットから、一歩も二歩もテーマとしてのピントを絞るべく踏み込んだ作品なのだと想像させる。(ちなみにアート・ワークのトム・スキップはニューオーダーやザ・ミュージック、カサビアンなどの作品も手掛けている。)
前作の制作時にオクムは母を亡くしており、今作はその影響についてもよく指摘がなされている。よりストレートな感情表出があるように感じられるのは、そうした話を念頭におくとよく理解できる。“ア・パーティクル・オブ・ラヴ”“プロテクション”という、冒頭と終曲に選ばれた2曲には、その葬儀の際に録音されたというケニアの伝統的な霊歌が用いられている。どちらかといえば沈痛な面もちの作品にあって、この女性たちが歌うアフリカの霊歌の奇妙な明るさや開放感は印象深い。前半は“ウイングス”や“ライフ・ライン”のように16ビートに縛りつけられるような抑圧的なアヴァン・ダンスが展開され、後半はノイジーでドリーミーなアンビエント・ポップ“ホワット・ハプンド”を区切りに(この曲にも例のアフリカン・スピリチュアルが挿入される)、哀切なヴォーカルがたっぷりとした幅をもって広がるようになる。終始リヴァービーなギターに彩られ、構造としては非常にドラマチック、曲ごとにも意が尽くされて飽きることがない。
「なによりも重要なのは、われわれのうち皆がこのアルバムをとても好きだということだ」国民的な注目を浴びた前作につづくものとして大きなプレッシャーもあったことだろうが、ジ・インヴィジブルはみごとにテーマ性を深め、そのことによって音楽性に美しい陰影をそなえることに成功している。メンバーがみなこの作品を気に入っているというのは本当だろう。次作もこのようであればやや重たすぎるかもしれないが、今作において彼らの意外なシリアスさはとても麗しく、またそうした方向に踏み出した勇気も認めたい。メジャーなマーケットにもおもしろく良質な音楽がきちんと存在しているということを証す好作である。
ホット・チップがフェンダーを掻き鳴らすギター主体の......というかベンチャーズをカヴァーしたらこうなっていたのかもしれない。実際ホット・チップは10月のギグでジャンゴ・ジャンゴを前座に迎えることになっている。ジャンゴ・ジャンゴという反復の名前を見て反射的にギャング・ギャング・ダンス(Gang Gang Dance)を思い出したのだが、ギャング・ギャングとも相容れるかもしれない程度にサイケデリックでもあるし、最近の彼らと同じく反復のリズムが据えられている。しかしそのリズムも殊更には強調されておらず、大げさに踊ることは想定されていないだろう。
シンセサイザーやリズムマシンを用いたポップスとなるとシンセサイザーが演奏の主体になっていくのがシンセポップのバンドの常だと筆者は勝手に思っていたのだが、ジャンゴ・ジャンゴはシンセをあくまで曲の味付けとして用いており演奏の主体はギターとドラムとベースといったフィジカルな音である。そしてなによりザ・ビーチ・ボーイズ(!)を思い起こさせるヴォーカル・ハーモニーを特筆すべきか。というか、このバンドが語られる際にホット・チップの名が挙げられる傾向があるのは、エレクトロニクスを用いた音楽にザ・ビーチ・ボーイズめいたヴォーカル・ハーモニーを搭載させているからだろう。リード曲"ディフォルト(Default)"でのタイトルを連呼するエディットされたヴォーカルも"Surfin' Safari"におけるマイク・ラヴのちょっと間抜けなコーラス・ワークとよく似ている(ああ、またホット・チップとザ・ビーチ・ボーイズに触れてしまった)。もしかしたらアニマル・コレクティヴ(Animal Collective)のヴォーカル・ハーモニーを思い出す人もいるかもしれない。しかし、リード・ヴォーカルが導くメロディはジョン・レノンに歌わせてもしっくりくるものがあるかもしれない。
ロンドン出身のジャンゴ・ジャンゴだが、「ジャンゴ」が映画『続・荒野の用心棒』の主人公の名前であるように──それは初期のアップセッターズのアルバム名にもなっている──音楽(とくにリード・ギター)はなぜかとても西部劇的めいている。西部劇というよりはアメリカーナ志向は、古くからブートレグで伝わっていたがようやく昨年にオフィシャルで陽の目を見たザ・ビーチ・ボーイズ『スマイル(SMiLE)』のコンセプトと接近しようとしたものであるかもしれない。そう考えるとアルバム全体が"英雄と悪漢(Heroes And Villians)"を引き延ばそうとしたものにも思えるし、ヴィンセントのリード・ヴォーカルもその頃のブライアンのすこしだけ鼻にかかった歌声と似ている気さえする。こんなこというと本人がたいそう喜びそうだ。
"ファイアウォーター(Firewater)"のカントリー・ブルース/ロカビリーっぽさ。ホット・チップの強烈なダンス・フロア・ソング"シェイク・ア・フィスト(Shake A Fist)"をリスナーの脳みそをふにゃふにゃにできるよう知能指数をすこし低めに設定して柔らかくカヴァーしたような"ウェイヴフォームス(Waveforms)"のビート。レッド・ツェッペリンの『III』っぽくもある"ハンド・オブ・マン"に吹くフォークの風。"ラヴズ・ダート(Love's Dart)"の背後にあるマントラのにおい、"ウォー(Wor)"の露骨にあらわされた「エレキ」の弦の感触。ひねりのないタイトル"ライフズ・ア・ビーチ(Life's A Beach)"に突如挿入されるパイプ・オルガン。タイトルから諸の"スカイズ・オーヴァー・カイロ(Skies Over Cairo)"のアラビアン・ナイト。"ドラムフォームス(Drumforms)"にある日本のバンド、Food BrainのサイケデリアとYMOのシンセサイザーの調合。これらすべてがいやらしさを感じさせないようにしかし記号的に配置されている。さまざまな過去の音楽から要素を抽出してくる感覚は例えばベスト・コーストのあからさまなリヴァイヴァルとも違うし、ホット・チップによる80年代の音楽の消化&昇華とも違うだろう。折衷というよりは、例えばジャンゴ・ジャンゴがベッドルームで見た音楽のジャーニー(旅)の(白昼)夢を具現化しようとしたもののように思える。これらの記号は、じっさい、意図的にプリコラージュされたにしてはサイケデリックだし、無意識的にしてはアーティスティックでよくできすぎている。ライナーノートにはジャンゴ・ジャンゴのリスペクトする無数のミュージシャンが羅列されているが、そこまで計算し尽くされ謀略的なサウンドのようには響かない。無邪気で愉しいアルバムだ。メンバーたちも他に仕事をもっているゆえにスローペースの活動とのことだが、どんなシーンにも左右されず、気楽にアーティスティックな作品を作ってくれることだろう。これならザ・ビートルズやザ・ヴェンチャーズしか聴かないようなおじいさんもすこしは耳を傾けてくれるかもしれない。次作はいつだ。
人前に身をさらすミュージシャンの、それも自分は強い人間だということをことさらにアピールする(しているように見える)ヒップホップのMCの、キャリアの重ね方というのは気になるものである。同世代や上の世代の人間に噛みついてきたMCが、上の世代と呼ばれるようになったときにどうふるまうのか。そういうことに興味がある。若いままではいられない。いつまでも若いヤンキー的な価値観でモノを見つづけて、ラップをしつづけられても、果たしてそれはどうなんだ……? と思わなくもない。自分の好きなMCにはかっこいい年の取り方をしてほしいと思う。では、かっこいい年の取り方とはどういうものなのだろうか。
MCのボス・ザ・MC(イル・ボスティーノ)とトラックメイカーのO.N.O、ライヴDJのDJダイ。この3人からなる札幌のヒップホップ・グループ、ザ・ブルーハーブはヒリヒリとした質感を覚える、研ぎ澄まされた音と言葉を放ってきた。それはストイックでハングリーなヒップホップだった。自分たちのヒップホップこそが本物だ、自分たちが信じることができるヒップホップはひとつもない、だから自分たちが本物をやる。彼らの音と言葉にはそんな思いが込められている。そう思いながら聴いていた。そして彼らはじつに理想的な4作目のアルバムを作り上げた。それがこの『トータル』だ。ボス・ザ・MCは8曲目“アンフォーギヴン”で「今は15年前とは違い/俺等をいらつかせ奮い立たせたベテランはいない」「俺等も40代になり/去っていったMCへのシンパシー/これも長距離走者の孤独の後味かい?」とラップしている。今から15年前の1997年はザ・ブルーハーブが結成された年である。キャリアを重ね、自分たちが日本のヒップホップのフィールドのなかで上の世代になったことを認めているように見える。それでいてフレッシュでポジティヴな心は失われていない。彼らはこの作品において、かっこいい年の取り方を見せてくれている。
ボス・ザ・MCは自分の身のまわりに起きた過去の出来事を落ちついてふり返っているようにも、冷めた目で見ているようにも思えるラップを3作目『ライフ・ストーリー』では聴かせていた。ここではそれに堂々とした雰囲気が加わり、横綱相撲とでも言えそうな貫禄のあるラップを聴かせている。それでいて走り出したばかりのランナーのようにフレッシュなところもある。冷めた目で見ているところはない。過去を振り返りながらも、未来をまっすぐに見つめている。前に進んでいこうとする意思が、明るくなっていくはずだという希望が、言葉には込められている。いまの音楽シーンや日本の状況を俯瞰してみているようなリリックからは、キャリアを重ねることによって生まれたのであろう余裕みたいなものを感じる。
そのようにして発せられた言葉は鋭い。言葉をそう響かせているのは、彼らのこれまでの作品にはなかったビートにある。それがボス・ザ・MCを新しい気持ちにさせ、ラップをフレッシュなものにしているように思える。この新しいビートは新しいものを求めて前に進んだ末に見つけたものだった。あるいは自分たちが前に進むために、自分たちの心を新鮮なものにするために必要なものだった。そんな印象を受ける。ヒップホップによくある重いビートとも違う。トラックだけを聴いたら、ヒップホップだとは思わないかもしれない。ミニマル・テクノやディープ・ミニマルあたりから引っ張ってきたような、硬いコンクリートに突き刺さりそうな、硬質で鋭利なビートが刻み込まれている。それ以外には冷たい質感のエレクトロニクスが吹き抜ける吹雪のように鳴らされているだけで、余分な装飾はまったく施されていない。
むき出しになったビートに言葉をぶつけるように、叩きつけるように、ボス・ザ・MCはラップする。うまさや巧みさよりも、力強さが前面に押し出された無骨なラップだ。小細工はなし。そこに横綱相撲を見ているような貫禄を感じる。力強いビートと力強い言葉がぶつかり合い、ビートが言葉を、言葉がビートを加速させる。「俺達はまだまだ高く飛べる」。2曲目“ウィ・キャン…”で放たれるこのリリックが、ビートと絡み合って勢いよく弾き出されている。堂々とした姿を見せつけながら、上へ上へと上がっていこうとする、前へ前へと進んでいこうとする音と言葉がある。
3人はルーキーとベテランの波打ち際を走っている。自分たちが上の世代と呼ばれる年齢になったことを自覚しているかのごときリリックがありながらも、ラップには若々しさがある。ヒップホップの影響下にはないビートを取り入れたトラックからは、次のステージを追い求めている姿や、新しいものに挑んでいこうとしている姿を見て取れる。1曲目“イントゥー・ロー”のドラマチックなストリングスの響きで始まるところからして、おや、これはこれまでの作品とは違うぞと予感させる。彼らはここで自分たちにとって新しいことに挑み、自分たちの心を新鮮なものにして、その新しいことを自分たちのものにしている。新しいことに挑む余裕があり、それをクリアするスキルもある。そういったところに、いいキャリアの重ね方を、いい年の取り方をしていると思わせるものがある。これはザ・ブルーハーブの4作目として申し分のない素晴らしい作品である。
新しい音楽は過去の音楽の集積のなかから生まれてくる。ロサンゼルスのビート・シーンのクリエイターはこのことを証明してくれている。マッドリブがそのいい例だ。マッドリブはレコード店の倉庫の片隅に置きっぱなしにされていた古いレコードからサンプリングしたかのような、粒の粗いビートと擦り切れそうな音でもって耳に新鮮に響くトラックを作る。それでもそこには、ただひたすらに時代の先端を追い求めているところはない。古き良き音楽を懐かしみ、楽しんでいるとも思える、おおらかな雰囲気が漂っている。それはビート・シーンのクリエイターが生み出す音楽の特徴でもある。ティーブスやトキモンスタ、シュローモの音楽を思い出してみよう。彼らの音楽は新しいのと同時に、古い――という言葉を飛び越える、太古の――と言ってもいいぐらいの、おおらかな雰囲気がある。もちろんジャンルの壁も飛び越えている。新しい音の向こう側には、膨大な数の過去の音楽のかげがある。
ビルド・アン・アークやアモンコンタクトなどの活動で知られる、プロデューサー/クリエイター/DJのカルロス・ニーニョはロサンゼルスの魅力をたずねられてこう答えている。「すべての良いところは繋がっている。マッドリブがデイデラスをサンプルして、MF・ドゥームがラップするトラックのビートにしたり、ディンテルがヒップホップのトラックを作っていたり。ロサンゼルスでは素晴らしいことがいろいろ起こりつつある」。ヒップホップからエレクトロニカ、クラシックまでを取り込んだデイデラスのトラックにある音を使って、マッドリブがトラックを作り、それがMFドゥームへと渡る。エレクトロニカのクリエイターであるディンテルはヒップホップのトラックを作る。過去の音楽は誰かの手によって掘り起こされ、新しい音楽となって姿を変えて現れる。その中で異なるジャンルの音楽同士、クリエイター同士が交錯する。ロサンゼルスではそんな光景を目にすることができる。
この作品が生まれたことも、ロサンゼルスで起こったすばらしいことのひとつである。ロサンゼルスのアンダーグラウンド・ヒップホップ・シーンにおけるレジェンドとも言えるクルー、フリースタイル・フェローシップのMCであるセルフ・ジュピターと、プロデューサー/クリエイターのケニー・シーガルによるユニットの作品。ゲストにはノーキャンドゥやサブタイトル、アブストラクト・ルードなどのMCに加えて、シンゴ02も招かれている。彼らはここでロサンゼルスの古のアンダーグラウンド・ヒップホップと最近のロサンゼルスのビート・シーンを繋いでいる。そしてフライング・ロータスが『ロサンゼルス』や『コスモグランマ』にヒップホップのMCをひとりもフィーチャーせずに、未来に向かっていくような新しいヒップホップを提示したというのであれば、ここでは多くのMCがすばらしいラップを聴かせながら新しいヒップホップを提示している。
フリースタイル・フェローシップはソウルフルであったり、ジャジーであったりするトラックを展開していた。そのクルーのMCのひとりであるジュピターが、この作品ではそれとはまったくと言っていいほど異なるトラックに挑んでいる。このことはロサンゼルスの人気パーティ、<ロウ・エンド・セオリー>のオーガナイズや、<アルファ・パップ>というレーベルの運営を行っているダディ・ケヴがDJハイヴ(アメリカのドラムンベースDJ)とともにはじめた、<コンクリート・ジャングル>なるパーティにおいて、フリースタイル・フェローシップのマイカ9やピースがドラムンベースのトラックでフリースタイルをした……、という話を思い起こさせる。<コンクリート・ジャングル>はドラムンベースをメインにしたパーティだという。ジュピターはマイカ9やピースとは違うフィールドで自身のスキルを解放している。異なるジャンルに身を置く者同士が交わっている。こんなところにロサンゼルスの音楽シーンに流れているのであろう開放的な空気を感じる。
ジュピターはアブストラクト・ヒップホップとも、ビート・ミュージックとも、ダウンテンポとも思えるトラックの上に、ドスの利いた声でもって素晴らしいラップを乗せていく。ノサッジ・シングやフリー・ザ・ロボッツ、テイクあたりのロサンゼルスのビートをユルくスローにして、古いジャズやソウルのレコードから拝借したピアノや弦楽器のフレーズなんかを織り込み、ウォンキーを思わせるエレクトロニクスを絡み付けたようなトラックが並んでいる。ダブステップやジューク/フットワークで刻まれている、複雑でせわしないシャープなビートに追い抜かれていく、のっそりとしたビートがゆっくりと進んでいく。古めかしい音と新しめのビートが交錯した、古さと新しさを行ったり来たりする、特異な印象を与えるヒップホップだ。ワルくてコミカルでユーモラスな感覚もある。ジュピターとシーガルはマッドリブと同じように、時代の前に進むことだけを考えているわけではない。たまには過去にも戻りながら、ヒップホップの新しい姿を見せつけている。ゆるやかに時代を行き来する、おおらかな雰囲気がある。この音楽とフリースタイル・フェローシップのメンバーの動きは、様々な音楽とシーン、人物が混ざり合うロサンゼルスの空気を映し出している。
チルウェイヴのバブルがはじけたあと、そのポスト・ヒプナゴジックの原野には、大きくふたつの方向へと分化する才能たちがあらわれた。アンビエントやドローンへと先鋭化していくものたちと、ダンス・ミュージックとしての純化をめざすものたちである。前者はチルウェイヴのメタフィジカルな延長であり、後者はフィジカルな延長だ。〈ヒッポス・イン・タンクス〉と〈100%シルク〉の相違に、そのひとつの例があざやかに浮かび上がっていると言えるだろう。
ティーンガール・ファンタジーもセカンド・アルバムにおいては何らかの選択をしなければならなかった。ピッチフォークのインタヴュアーが、今作への質問においてテクノやハウスからの影響を指摘することからはじめたのは、彼らが再帰的にダンス・ミュージックを指向しはじめたことを端的に物語っている。
2010年のデビュー作は、もっとあいまいでどっちつかずな作品だった。ローファイでドリーミーでダンス・オリエンティッドなシンセ・ポップ……トレンドをそつなくつなぎあわせる年若い頭脳が感じられたし、いち部のメディアからは高評価で迎えられたが、後続を生むような強靭なスタイルを持っていたわけではなく、どちらかと言えば自らが優秀な後続であったという印象だ。また、USではガールズやタンラインズ、アンノウン・モータル・オーケストラなどを擁する〈トゥルー・パンサー〉からのリリースであったことは、彼らのよって立つ基盤がインディ・ロック寄りであったことを証している。すでにオベリン大学とはべつにアムステルダムへも留学し、テクノやハウスに深く触れて帰ってきていたにもかかわらず、そうした材を直接的に表出しなかったのは時代を読む才にたけていたからなのかもしれない。ともあれ、今作『トレイサー』においてそれは全面的に解放されることになった。リリース元は〈R&S〉、そういうことである。
結果としてそれはとてもよく作用している。『トレイサー』こそ彼らの名刺となる名作だ。あのよくわからない『7AM』のジャケットに比し、つめたい薔薇のグラフィック・アートは今作のクリアで硬質なプロダクションにしっくりとかたちを与えている。けっしてメロウにならないドリーム感は、チルウェイヴの残り香を鱗粉のようにふりまきながら、ケレラのヴォーカルとともにR&Bへの軌跡も示す(やはり彼らもR&Bをつぎの射程に入れているのだ)。ケトルやボーズ・オブ・カナダの叙情をくぐり抜け、パンダ・ベアのヴォーカルをフィーチャーする“ピジャマ”では、4つ打ちを相対化しながらもアクロバティックにハウスを模索する。パンタ・デュ・プランスがパンダ・ベアを求めるのとは逆の回路で、しかし到達点としては同じ地平をみるような好トラックだ。ローレル・ヘイローに目をつけるのもうまい(というか必然だ)し、ピアノをシックにあしらう“エンド”もいい。よりベタな意味でのダンス・サイドである後半のトラック群を控え、前口上を述べるかのようである。このアルバムがいかなるものであるのか。自分たちはどこを通ってここへやってきたのか。「模倣には限界がある」と語る彼らが教育課程を修了し、いよいよ本当の進水式をむかえたと言えるこの『トレイサー』を祝福したい。卒業おめでとう。
「DJパイプスとロス・オートンは俺の最大のヒーローだ」と、トドラ・Tは話しているが、ふたりは彼にとって地元の先輩である。トドラ・Tが学校を辞めてシェフィールドのスケート場で働く「瞳孔の開いた」十代だった頃に、パイプスなる、怪しい名前のDJと会っている。このベース・フーリガンこそ地元クラブの顔役的なDJであり、そしてジャーヴィス・コッカー(パルプ)のDJチーム「ディスペレイト(絶望的な)・サウンドシステム」のメンバーでもある。彼らがオーガナイズするパーティ「ディスペレイト・ナイト(絶望的な夜)」において、トドラ・T、そしてパイプスとロス・オートンはダンスホール愛によって結ばれた。
ロス・オートンは10年前の、エレクトロ時代のシェフィールドを代表するファット・トラッカーのメンバーであり、ジャーヴィス・コッカーのバンドのドラマーでもあり、アークティック・モンキーズやなんかの曲のプロデュース、MIAのリミックスも手がけるような名の知れた音楽人だった。トドラ・Tに作り方を教えた先生である。そういう地元の先輩ふたりが、トドラ・Tのセカンド・アルバム『ウォッチ・ミー・ダンス』を再構築したのが本作「アジテイティッド・バイ・ロス・オートン&パイプス」というわけだ。
トドラ・Tは明るすぎるし、アホすぎるかもしれない。ビートたけし系のヒューマニズムに心底感動しているファッキン真面目な青年、竹内正太郎の文章を読んでいると、この国の湿度の高さが精神に与える影響もあるのでは……。「3.11以降」という彼の好きな言葉を使わずとも、昔から日本では、暗い風が吹くとファッキン内側に籠もりがちだ。島国だから? 現実が絶望的だから? 政治が大衆のために機能しないから? 『CRASS』の後書きでも書いたことだが、イギリスの若者文化は1978年の時点であたり一面の絶望に直面している。ノー・フューチャー、未来なんかない、俺にもあんたにも……ジョニー・ロットンはそう笑ってみせた。「ノー・フューチャー」を繰り返し聴かされたUKの若者文化はむしろ元気になって、ポスト・パンクの時代へと展開した。ポスト・パンクが何をしかったって? サッチャーという英国を愛する頑固なおばさんが絶対に許さない連中──たとえばジャマイカ移民に代表される──とつるんだ。英国らしさの真逆に突き進むことで、音楽も多様化した。結果、そうしたポスト・パンクの抵抗が「ノー・フューチャー」な英国に自由な領域を創造した。レイヴ・カルチャーはそのなかで生まれた。トドラ・Tがダンスホールと結ばれたのもそうした過去と無関係ではない。
それにしてもトドラ・Tのふたりの先輩は、後輩以上にアホじゃないかと思われる。「アジテイティッド・バイ・ロス・オートン&パイプス」からは……いわばガンジャ節というか、ファッショナブルでポップ・ソングを意識した『ウォッチ・ミー・ダンス』をさらに深くクラブ・サウンドのほうへと変換している。アシッド・ハウスのフレイヴァーが全体を通底しているが、これは最近のモードだ。ショーラ・アマと一緒に作った最新シングル「アライヴ」も、まあ、お洒落で良かったが、僕は先輩がいじった本作のほうを推したい。ちなみに日本にも「ノー・フューチャー」で「未来を見せる」ことのできる人たちはいる。最近で言えばドタマとか、再結成したタコとか……。
(※)文中の「ファッキン」は竹内君に毒づいているというよりは、9月からはじまる編集部が大好きなライターの新連載の予告です。さて誰でしょう。こうご期待!
この晩、きのこ帝国は最初に新曲を3曲演奏した。その3曲とも、前作からの飛躍があった。
1曲目は、クラウトロック(大げさに言えば、オウガ・ユー・アスホール)をバックにボス・ザ・MCがラップしているような……といってしまうと本当に乱暴な表現だが、BMP125ぐらいのピッチの曲で佐藤はラップもどきを披露した。早口で何を言ってるかわからないが、それが前向きさを表していることはわかる。
あとで訊いたら初めてのライヴ演奏だったという。それにしちゃあ、鮮烈なインパクトがあった。佐藤のラップ・ミュージックへの関心の高さを具体化した最初の曲でもあった。きのこ帝国がバンドとしていまどんどん動いていることがうかがえる。初演ということもあってドラミングは先走り、ピッチは速まってしまったそうだが、逆に言えば意味がわからないほどのファスト・ラップの最後で唯一聞き取れる「生きている」という言葉が、するどく胸を射貫いた。悪いことは言わない。この曲はシングルにして発表するべきだ。12インチ作りましょうよ! 良いリミキサーは日本にはたくさんいる。何よりも、この曲を必要としているリスナーはたくさんいます!
「退屈しのぎ」とは、きのこ帝国の代表曲だが、彼らのオーガナイズするイヴェント名でもある、ということをその晩僕は知った。その晩は、編集部で橋元の二次元話に付き合わされたあと、JET SETのM君の四次元話にハマってしまったおかげで、4つ出演したバンドのうちのふたつ、きのこ帝国をのぞくとひとつしか見れなかった。そのひとつ、大阪からやって来た吉野というイントゥルメンタル・ロック・バンドは、最初から見ることができた。しかし、吉野とは……佐藤と匹敵するほど検索不能なネーミングだ。吉野は、ギター、ベース、ドラマーの3人組で、エレクトロニクスを用いた導入からモグワイめいたダークなギター・サウンドへと巧妙に展開して、ライヴをはじめる。ポテンシャルの高さを感じさせる演奏で、最後のチルなフィーリングも良かった。まだ非常に若いバンドだが、ビートに磨きがかかれば、より多くの注目を集めることになるだろう。がんばってくれ。しかし、大阪人のくせに東京のラーメンが美味いと言ってはいけないよ。

きのこ帝国の物販で働く菊地君。筆者はドラマーのコン君のデザインしたピックを1枚購入。
下北沢ERAは、100人も入ればパンパンの小さいライヴ・ハウスだったが、満員だった。先述したように、きのこ帝国は、ラップの曲のあとにふたつ新曲を披露した。その2曲も良かったことは覚えているが、最初の曲のインパクトが強すぎてどんな曲だったか忘れた。バンドに音の隙間が生まれ、それによって音の空間が広がってた。それ以外のことは忘れた。こういうときは、明け方の5時でも、マニェエル・ゲッチングのライヴでメモを取っている菊地祐樹君を見習うべきなんだろう。菊地君は、物販で働きながら、お姉さんと妹さんもライヴに呼んでいた。3人とも顔が似ているどころか、誰が年上で誰が年下かわからない。しかもお母さんが僕と同じ歳という……なんということだ!
きのこ帝国の演奏が終わると、大きな拍手とアンコール。アンコールに出てきたあーちゃんは慣れないMCを続け、ジョイ・ディヴィジョンの『アンノウン・プレジャー』のTシャツを着た相変わらず佐藤はクールに構えている。最後の曲って“夜が明けたら”だっけ? “退屈しのぎ”だっけ? 忘れた。が、細かいことはいいだろう。良いライヴだった。翌日は「WIREに行くんです」と嬉しそうに喋っている菊地君をその場において、僕は12時20分過ぎの小田急線に乗った。
「よろしければどうぞ」と、告知らしい告知もなくリリースされた5lackの『情』は、非営利目的でMediaFireにアップされたzipファイルである。いま現在、ヒップホップにおける最新音源が、フリーのミックステープとしてタイムライン上を無限に流れていくものだとしても、本作を思いつきの企画ものとして聞き流すことは、少なくとも私にはできそうにない。『情』(譲)は、まぎれもなく『我時想う愛』(2011)以降のメランコリアの延長に立つ作品である。いや、もっと露骨に言おう。大ネタ使いのサービス感が吹っ飛ぶくらいの想いを、彼はこのミックステープに込めている。これはすでに削除されているので内容への言及は避けるが、7月12日ごろ、恐らくは本作のリリースと関係していたのであろう心の内側を、彼はブログで苛立つように綴っている。
思えば、とくに震災以降、You Tubeの突発的な利用やDommuneへの出演などを通じて、彼は聴き手に要求する金銭的な対価を下げていった。『この島の上で』(2011)には値段こそ付いたものの、リリースは異様なほど突然で、ほぼノン・プロモーション。「ヒップホップで自立する方法」以前にあるべき志のようなものを、彼はまず自分自身に対して強く必要としたのかもしれない。それは、あるいは理想主義者のロマンか虚勢だったのだろう。だが、私はその変化をいまでは違和感なく受け止めている。結局のところ、人生は一度きりであり、不可逆であり、その一回性の上に刻印されたあの圧倒的な破壊の余韻は、日々が隠し持つ偶然性(自分は今日、たまたま生きているのだという雑感)を顕在化させるには、十分すぎやしなかったか。その時、彼にとって、いったいどれだけの物事が不要に思えたのだろう? 例えばtofubeatsら平成以降の新世代が、無料配信の文化圏からiTunesチャートをおそるおそる(だが鮮やかに)駆け上がっていったのと逆行するように、彼はむしろ、トーナメントの階段を静かに降りて行った。
全体的な雰囲気で言えば、『情』は、『我時想う愛』にさらけ出した「不安や罪の意識」の延長線上に、私たちが共通の記憶として持つ久石譲のピアノ、そして重厚なオーケストレーションを大胆に引用した作品である。それだけでレジュメできると言えばできるだろうし、当然、スタジオジブリ作品群の断片が、記憶のそこかしこをかすめていく。さまざまな冒険や旅、恋の記憶がよみがえる。最初の数回を聴いているうちは、そうした大ネタのサービス感にこちらも調子づくが、次の数回では、そのトラックがしかし、これまでの作品となかなか矛盾しない質感だと気付き、その後の数回ではむしろ、元ネタの持つ属人的・属作品的なブランド感が、トラックの後景へと少しずつ退いていくのを感じることになる。それくらい、『情』のビート・プロダクションは彼のディスコグラフィーと整合している(例えば、メロディアスなピアノ・ループが夜遊び後の空虚さを優しく染め上げる"朝の4時帰宅"は、"東京23時"のアフター・ストーリーのようで、フィンガースナップが幻想的なアンビエンスの上に響き渡る"想い出す"は、初期のクラシック"I Know About Shit"を文字通り、想い出す)。
だが、いやだからこそ気になるのは、やはりその主題である。「何か良いことを言わなければならない、何か気の利いたことを言わなければならない」(野田努)というオブセッション、それをドメスティック・ラップの領域で仮に<パンチライン症候群>と呼ぶなら、その風潮のなかであえて「俺はテキトーである」ということを表明しなくてはいけなかったS.L.A.C.K.の辛さは、いま思えば彼の真面目さのコインの表裏としてあったのだろう。そんな彼が、震災後の言語表現におけるプレッシャーをむしろ進んで受け入れたのは、それゆえに飛躍ではなかったと思っている。あえて断じて言うなら、『この島の上で』は、リスナーを選び直し、シーンから選ばれ直そうとするような、ごくヘヴィな試みだった。そして本作『情』においても、彼はこの国を、あるいは強固に続いている(ということにされている)日々の風景を、ごく低温度で見つめている("朝の4時帰宅")。そこには、自戒と挑発が蠢く。そう、"テキトー"から出発したS.L.A.C.K.が、やがて5lack、そして"娯楽"へと当て字されていくに伴って、彼の眼差しはむしろその深刻さを強めている。
だが、震災以後という文脈に対して、頭からがんじがらめになっているわけではない。もちろん、一定の確率で今日も生きていられる人間として、彼がある種の重荷を背負ったのは間違いないだろう。だがここには、そこからもう一度パーティ(=あくびが出るほどの退屈さ)へと出かけていくための、模索の手振りが垣間見える("これがなければ")。ある程度、正常に引き継がれている日々の、表面的にはごく平和な断片を不可避なものとして受け止め、今度はその先に言葉を置いている。そして、割れるような喝采のライヴ・サンプルが飾られた"気がつけばステージの上"は、ステージという遊び場であり、また処刑台でもある場所へともう一度向かう徒労感、義務感、そしてそれでも沸き起こる、果てるような高揚感を丹念に描く。が、そんな自分さえをも外から見てしまう再帰性が、この作品に翳りを与えていることも指摘しておきたい。どれほどテキトーを気取っても、もう以前のようには笑えない。ならば、重い足取りで泥のなかを進むまでだ。
もちろん、自然主義の位相における現実描写・内省吐露という、純文学めいた詩作表現が、必ずしもポップ・ミュージックにおいて特別な効力を発揮するわけではない。あえて皮肉めいた言い方をすれば、いまもっとも安易な方向性であることもまた事実だ。だが、このセンチメンタリズムを内破したとき、彼はまた美しく、気怠そうに笑うだろう。彼の真摯な遠回りを私は楽しんでいる。いまはまだ、決して華麗ではない、撤退するようなネクスト・ステップを踏んだ(「何も怖くねえ/俺は進むyeah」"想い出す")。だが現時点でのそれは、この国のポップ・ミュージックに対する切実な疑問符でもある。ウォーク・オン・ザ・ダーク・サイド、暗闇を行け。
ザゼンボーイズの『すとーりーず』、4年ぶりの新作、これがすごい。リズミックで、フリーキーで、強力なファンクが展開されている。キャプテン・ビーフーハートの遺伝子全開といったところだが、それはいつものことか......。とにかく、欧米でマス・ロックと呼ばれているジャズとロックとのダンサブルな出会いを、ザゼンボーイズはポップに咀嚼する。
だいたい「繰り返される諸行は無常......」、お馴染みのこの言葉が、いまはまたあらたに響くでしょう。「諸行は無常......」、これは何かつらいことがあったときに現実を誤魔化し、逃避するために言葉ではない。これは何かつらいことがあったときに、そのつらさに情が呑まれて身動きが取れなくなってしまうことへの、日本人の防御反応、つまり、宗教心というよりも、自分の気持ちをラクにするための知恵だ。
おそらく、世界のほかの都市では、いろんな民族が多様な声を露わにするために、なにか大事が起きたときも自分の情は相対化されやすい環境にある。ロンドンで裕福な人たちが涙でくれているその傍らで黒い人たちが笑っていることは珍しくない。その分、連帯感など生まれようにないのだけれど。ところが、昔にくらべれば外国人の人口も増加したとはいえ、ほとんどが日本人で占められている日本という国では、あるひとつの方向性の情はマスメディアを通じて瞬く間に伝播し、ある種の力となって、多種多様な自我を覆い尽くす。みんなが泣いているかたわらで笑っているわけにはいかなくなる。わかっちゃいるけど、連帯感を欠いている人間には息苦しい。
そういう意味では、ザゼンボーイズは、土着的な日本でありながら異邦人的でもある。向井秀徳の「パンツ一丁になって踊れ」からは、おそらくは彼が理想とする社会──昨年だっけかな、iLLとのコラボ作"死ぬまでDANCE"で映像化されたような、多種多様な色の人たちが一緒に踊っている世界が見える。その強烈でケオティックな思いゆえか、彼らの音のうねり、言葉と音のファンクネスはいまも際だっている。ポテトサラダが食べたい人はもちろん、バトルスが好きな人も是非聴いてみて!
『すとーりーず』の発売は、9月5日。特典がいっぱいついたデジタル配信もある。詳しくは→(https://www.mukaishutoku.com/main.html)、視聴もできます。
