リー・ペリーの初来日は1992年6月、バックバンドは当時の〈ON-U〉が誇るダブ・シンジケート(スタイル・スコットにスキップ・マクドナルド、そしてルーベン・ベイリー)だった。忘れられないライヴのひとつだが、ぼくはその来日時に編集者として取材にも立ち会っている。インタヴューの最後にライターは「日本のルード・ボーイ、ルード・ガールにメッセージをお願いします」という申し出をした。記事の締めとして「俺も昔はルード・ボーイだったんだよ」みたいな共感を喋って欲しかったのだろう。しかしペリーはじつにシンプルに、笑みを浮かべてこう答えた。「良い子になりなさい」
それから30年近く過ぎたいまでもぼくはこの答えが忘れられないでいる。
8月29日、リー・“スクラッチ”・ペリーはジャマイカの病院で息を引き取った。85歳だった。死因はまだ明らかにされていない。
1936年にジャマイカのケンダルで生まれ、1961年に歌手としてデビューしてから長きにわたって活動を続けてきた本名レインフォード・ユー・ペリーは、もちろん、いまさら言うまでもなくレゲエ史におけるもっとも偉大な開拓者であるが、同時にフィル・スペクターやジョー・ミークのように大衆音楽における録音物の可能性を広げたアーティストでもあった。あるいはまた、UKのダブ詩人リントン・クエシ・ジョンソンが言ったように、「レゲエにおけるサルヴァドール・ダリ」だった。1992年の来日時に自身の最初のソロ・アルバムのために共同作業をしたこまだ和文氏もまたペリーのことを「音楽家というよりも芸術家」と言ったことがある。「ピカソ級のアーティスト」だと。
リー・ペリーの有名な曲のひとつに1968年の“ピープル・ファニー・ボーイ”がある。レゲエの時代の幕開けと言える力強いリズムをもって展開する曲で、「なんで、なんで、人はおかしいのか」と怒りを込めて日々の苦しみが歌われているこの曲には、赤ちゃんの声もミキシングされている。つまり、ここにはスカやロックステディとは違った攻撃的なリズムがあり、ジャマイカの土着性があり、ゲットー・リアリティとそしてオーヴァーダブ(ミキシング)がある。70年代ジャマイカ音楽における進化の起点だった。
この曲以降のリー・ペリーがどれほど偉大な仕事をしてきたのか……、彼のバンド、アップセッターズの魅力たっぷりの『リターン・オブ・ジャンゴ』をはじめ、初期のダブにおける金字塔『14ダブ・ブラックボード・ジャングル』、レゲエの抽象性を高めた『ミュージカル・ボーンズ』、人気作のひとつ『スーパーエイプ』……、プロデューサーとしても初期のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの不朽の名作『アフリカン・ハーブズマン』をはじめ、ジュニア・バイルズ『ビート・ダウン・バビロン』、ジュニア・マーヴィン『ポリス&シーヴス』、マックス・ロメオ『ウォー・イナ・バビロン』、ヘプトーンズ『パーティ・タイム』、そして魔術めいた『ハート・オブ・ザ・コンゴス』などなど……ほかにも個人的に好きなアルバムはいっぱいあるし、紹介しなければならない作品の数はあまりにも多い。(彼の膨大な作品については、鈴木孝弥氏が監修したディスク・ガイド『定本リー“スクラッチ”ペリー』をぜひ参照して欲しい)
リー・ペリーは1973年12月、自宅の裏庭に〈ブラック・アーク〉を建てている。そこでの彼は楽器としてのスタジオをフル活用し、数々の名作を作っているわけだが、ペリーのミックス学はコンソールの操作とエフェクトの処理だけにとどまらなかった。近くに生息していた牛の鳴き声のミックスもこの時期の彼のトレードマークだし、サウンドに霊感を与えるためにはマスターテープに大麻の煙を吹きかけたりもしたという。〈ブラック・アーク〉時代のペリーの思想は、ノアの箱舟をもじったその名から察することができるようにサン・ラーのアフロ・フューチャリズムとも似ているが、しかし1983年の夏、ペリーは〈ブラック・アーク〉をおそらくは自らの手によって焼失させてもいる。ジャマイカの状況に失望し、孤独になって欧州に渡ると、ある時期からは自分は小便であり糞だと言うようにもなった。
リー・ペリーは寓話的な話し方を好んだ。「(ダブを発明したのは)アフリカのジャングルに住むライオンがダブを通して復讐を企てた」とか、「ダブとは赤ん坊。赤ん坊には愛と正義を知って欲しいが、金や銃について教えたくはないだろう」とか、そんな具合だ。2019年に〈ON-U〉から出した『レインフォード』のある曲では、自分は「月にいるコオロギだ」と歌っている。なぜコオロギなのですか? と訊いたら、「コオロギは人間よりずっと前から地球に存在しているからだ」と彼は答えた。
彼の作品のように、ライヴで見るリー・ペリーもまた、いつだって超越的だった。彼の発言や、木の枝や小さな玩具のフィギアまで服として身体にまとったステージ上での振る舞いを見ていると、この人は永遠に生きるんじゃないかとさえ思ってしまう。2019年末にインタヴューしたときには、「(将来的には)驚きでいっぱいの、新しい3Dみたいな音」のアルバムを出すだろうと話していたが、じっさいペリーは2020年も複数枚アルバムを発表しているし、今年に入ってからもUKの〈プレッシャー・サウンド〉から〈ブラック・アーク〉時代のダブプレート曲を加えたレアトラックス集が出ている。だからどうにも、いまだに彼が死んだことが信じられないでいる。
「私はこの宇宙の赤ん坊として楽しむためにここに存在しているからだ。成長して大人にならない。いつまでもずっと赤ん坊でいる」、2019年の取材で、なぜそんなに精力的なのかと訊いたらペリーはこのように答えた。宇宙の赤ん坊——、たしかにある時期から、もはやこの宇宙そのものが彼のスタジオだったのかもしれない。そう思えるほどにリー・ペリーとは音の宇宙の、大いになる探求者に違いなかった。そしていまとなっては、たとえいつかコロナが終息したとしても、ステージ上の、あたかも妖精のようなあの姿をぼくたちはもう見ることはできないのだ。
野田努
[[SplitPage]] リー・ペリーの訃報に触れ、驚く。が、訃報は大体いつも突然で、その突然さの驚きであって、物故の驚きではない。死は最も純粋な平等であり、かつ誰の死であれ〝死の意味〟を等しく放擲する。人間の苦悩の源が死なら、死ぬことで苦悩を根源から打ち捨てるのであり、よって弔いはその意味において祝いでもある。
しかし、そうした思いがまるで湧いてこない。ペリーの訃報から、結局のところ本当の驚きを感じるのはそこであった。
親しみを抱かせ、楽しませ、何十年聴いても興味の尽きないリー・ペリーが、いくらチャーミングとはいえここまで人の心をつかんだのは、誰もリー・ペリーの心がつかめなかったからである。その深部を窺い知ることができなかったからである。我々の目で見通せるようなスケイルの存在ではなかった・・・的な陳腐な表現はピントがずれている。ペリーは最初から全部をさらけ出し、引き寄せられて接近した我々は、それが巨大過ぎて全貌を視界に収めることのないまま、ペリーのおなかに飲み込まれていたのである。本人もこっそり(聖書に記された神の言葉のように重々しく)漏らしている——「(ペリー自身をシンボライズしている)スーパー・エイプの腹の中を見ると、世界が存在している」(『ミュージック・マガジン』97年11月号、インタヴュアー/工藤晴康)のだと。
このペリーが率いたのは、ちゃちな黒船ではなく、黒箱船である。新しい人類の祖〝黒いノア〟としてそのブラック・アークを率い、自分のスタジオとした。そのサウンドは強大な重力を持ち、磁力を放ち、すべてを引き寄せ、飲み込み、また、邪悪をしりぞけた。ブラック・アークは理性を獲得したブラック・ホールだった。超猿のおなかの中の宇宙。そこに反響する、ねじれた時間軸のような、あるいは太古から連綿と伝わる信号のように不思議に心地よい揺らぎは、黒い箱船が聖なる大洪水の波をクールにたゆたうグルーヴに他ならない。
リー・ペリーは、概念であり、宇宙である。これまで我々の目に映っていた彼の、肉体と呼ばれる有機物が消滅することに、どれだけ重大な意味があろう?
2日前からの世界中のメディアの報道を見ると、天才プロデューサー、エキセントリックなパフォーマー、ダブのパイオニア、サンプリング手法の発明者、ボブ・マーリーのメンターでプロデューサー、その与えた多大なる影響はレゲエの枠にとどまらず、うんぬん、という記述に溢れている。確かにそういう即物的記述によればペリーは〝死んでしまった〟のだ。でも、次々にアルバムを聴き返していると、ペリーの偉大さを報じようとするそうしたジャーナリスティックな総括が、いかにもペリー的ではないことを思い知る。レゲエはあらゆる角度から見て思想の音楽だが、その中でもひとつひとつの音の質にまで自分の思想を投影することを考えたクリエイターである。その概念は、宇宙は、遠巻きに望遠鏡で観察して寒々しい〝データ〟に矮小化できないのである。
パフォーマーとしてのペリーのステイジを何度観たか分からない。晩年はだんだん音楽的につまらなくなっていくのと反比例的に、その、エネルギッシュなのに欲がなく、ビッカビカに輝いているのにギラつかず、卑近な表現をすれば、俗物のけがれを払い切り、洒脱は遥かに通り越した解脱の芸術家として存在のアートを完成させていくさまに、鳥肌を立てて感じ入ったものだ。そのたたずまいは無邪気の権化でもあった。ペリーが散々忌み嫌い、曲の中で叩きまくった邪気(evil spirit)を浄化した末の清廉たる無邪気。正直なところ、心の中で合掌し、拝むような気分になったことさえあった。
普通、人は死ぬことによって生の苦悩を投げ捨てることが叶い、残した人々に対しては死の具現としてレッスンを施す役目にあずかることと引き換えに、自分の人生を勝手に、往々にして爽やかに小綺麗に総括されてしまう宿命にあるが、リー・ペリーには、ゆえに、そのすべてが当てはまらず、ふさわしくない。自分の知る(もとい、まあまあ学んだつもりになっている)〝小市民的〟な死の感覚とはまるで引き合わない。ジャマイカの生まれ故郷に戻って深呼吸ひとつ、三次元の浮世から、別の次元にひょいと半歩ズレた程度……そんなところではないか。
そんなことは意にも介さず、分身のスーパー・エイプは、好物の焼き魚とコーンブレッドを貪り食い、極太のスプリフを吸いまくり、元気にこの世をアップセットし続けるだろう。で、我々は、ずっとその腹の中にいるだろう。

Lee Perry
『Roast Fish, Collie Weed & Corn Bread』

The Upsetters
『Super Ape』
鈴木孝弥
















