「過去をコントロールするのは誰だ」と言ったのはジョージ・オーウェルだが、音楽作品における未発表曲集というのは、ときに過去の意味を変えることができる。じっさいはもっと違った音楽がプロデューサーやレーベルの意向によってひとつの局面にのみ焦点が当てられた場合は、とくにそうだ。1980年に大阪の〈Vanity〉から『R.N.A.O Meets P.O.P.O』なるアルバムをリリースしたR.N.A.オーガニズムという佐藤薫がプロデュースしたプロジェクトの未発表音源集を聴いていると、思い通りに発表できなかった過去が現在において新鮮に聴こえることもありうるのだと、あらためて思う。高価に取引されている1980年の〈Vanity〉盤をユーチューブで聴いてみると、なるほどたしかに時代を感じさせて面白いのだが、棚からキャバレー・ヴォルテールの“Nag Nag Nag”を引っぱり出していることは明白で、しかし佐藤薫のレーベル〈φonon〉からリリースされる未発表音源集『Unaffected Mixes ±』においては、より抽象的で、このプロジェクトの遊び心と実験性がより際立っている。ときには(それこそその後のEP-4に通じるところの)露骨なまでの政治性もあり、R.N.A.オーガニズムのラディカルで、アイロニカルな表情は際立っている。暗い時代に虚飾の明るさを描くのではなく、むしろ悪夢を描いて逆説的に夢を見るというメソッドは、それこそ70年代末のUKポスト・パンクの多くがやったことだった。
以下のインタヴューは、今年の2月にZOOMにて収録したもので、R.N.A.オーガニズムや今回リリースされる『Unaffected Mixes ±』についての話以外にも、ぼくにとって佐藤薫は近くて遠い人だったこともあって、作品のこと以外にも、個人的に知りたかったことも脈絡なく訊いている。散漫になってしまったことをお詫び申し上げるとともに、その全貌がいまだ不明瞭なままの日本のポスト・パンク期における重要な記録(ドキュメント)に注目していただけたら幸いである。(敬称略)
ティアックのカセットマルチトラックレコーダーが79年に出るんですよね。それによってかなり状況が変わりました。まず、スタジオではなく家でも自由な時間に音を作れるようになった。それで、どんどん断片を作っていった。
■R.N.A.オーガニズムのことはまったく知らなかったんですけど、今回聴かせていただいてまず思ったのは、いまの音だなと。たとえば〈Edition Mego〉や〈Diagonal〉みたいなレーベルから出ても全然不自然ではない音ですよね。佐藤さんもそう思ってリリースするのでしょうけれど、まず、この作品をお出しになることの経緯みたいなところから教えてください。
佐藤:ちょっと複雑でしてね。基本的にこれらは〈Vanity〉での音源なんですよ。〈Vanity〉で録った1枚目のアルバム(『R.N.A.O Meets P.O.P.O 』)の音源をもとに、ぼくたちが自分たちで勝手に作っていたやつなんですよね。要するに、阿木譲が諸々の事情によってリジェクトし、出さなかった音源です。
■もともとは〈Vanity〉で出すつもりで録音したものだったということでしょうか?
佐藤:いや、〈Vanity〉で出した作品を録ってるときに、仮落としとかの音源をカセットコピーしていろいろ自分たちでカットアップ/ダビング/編集などアレンジしていたんです。でも一応〈Vanity〉でスタジオも用意してもらって録ったものですから、好き勝手にするつもりはなかった。阿木譲との関係がもっとうまくいってれば早いこと出せてた気もするんですけどね。まあ、当時出たアルバムのほうは、阿木譲の好みによってストレートな感じのミックスのアルバムになってるんですね。その意味ではボツテイク集ということになります(笑)。
■今回この未発表音源を出すにあたって、佐藤さんのほうである程度リマスタリングはされたと思うんですけど、若干の、音の加工みたいなことはされたんですか?
佐藤:曲の頭出しで削ったりしたほかには加工はほとんどしてないです。あと断片を多少つなげたりしたトラックも入ってますね。で、カセットで残っていたので、すべて一度しっかりアップコンバートしてからリマスタリング的作業をしただけです。
■R.N.A.における佐藤さんの役割は、全体のプロデュース、サウンドのプロデュースですか?
佐藤:そうです。録りはじめたのが78年くらいで、初期の音源も入ってるんですけど、みんなでリハーサルスタジオで遊びで録ってた音源も含まれています。〈Vanity〉で出すという話になった段階で録音したものもありますし、大阪でのレコーディング中に録音したものもあります。
■佐藤さんはもともとは京都でずっとDJをされてたんですよね。R.N.A.の人たちは佐藤さんのDJに来るような人たちだったんですか?
佐藤:ではないです。美大の学生であったり、ひとりはディスコの従業員というかそんな感じで(笑)。みんな音楽家ではない。好きに集まって遊んでいた一部がユニット名を名乗ってやりはじめた感じですね。
■いまだとこのサウンドはグリッチとかミニマルとかインダストリアルとか呼ぶと思うんですけど、冒頭にも言ったように、いま聴いて充分に魅力があるサウンドだと思いました。だからこの先駆的作品が、佐藤さんとバンドのメンバー3人のあいだでどうやって作られていったのかを知りたく思います。
佐藤:アルバムのリリースが決まったころ、ティアックのカセットマルチトラックレコーダー(CMTR)〈タスカム244〉が79年に出るんですよね。初代ウォークマン発売と同じ年です。それによってかなり状況が変わりました。まず、スタジオではなく家でも自由な時間に音を作れるようになった。それで、どんどん断片を作っていった。あらかじめ曲があって作っていたわけじゃないんですよ。それまでは、オープンテープやカセットテープを再生しながら音を重ねてダビングしたりと、面倒で涙ぐましい作業を練習スタジオで繰り返していたわけです。宅録黎明期の到来です。大音量のアンプ出力や繊細な生音はスタジオにCMTRを持ち込んで録音。それを自宅であれこれいじりまくるという。それにCMTRだと、ちょっとした過大入力でサチッたり特定の音源で隣の別トラックに音漏れしたりと、ピグマリオン効果というか実験者効果がおもしろくて。CMTRはプロやプロの卵の音楽家に貢献したのはもちろんですが、アマチュアや非音楽家にとっては革命的ツールでした。
■ちょっとエキゾティックな感覚のコラージュも試みていますよね。1981年にはイーノとデヴィッド・バーンの『マイ・ライフ・イン・ブッシュ・オブ・ゴースツ』が出て来ていますが、ああいうの出たとき俺らのが早かった、とか思いませんでした(笑)?
佐藤:そこまでは思いませんでしたけど(笑)。ただ、ぼくはDJでそういうことをやっていましたね。
■クラフトワークやカンと同時にフェラ・クティやブラジル音楽なんかもかけたりしていたそうですね。
佐藤:そう。それ以外にも、かけ方であったりとか、BPMを合わせるとかそういう単純なことではなく、エフェクトを入れたり、LチャンとRチャンで違う曲を流したり、そういう遊びをぼくは70年代から相当やっていたんです。だからサウンドをコラージュするということに関しては、ぼくのなかでは自然だったんですよね。
■DJだったということが大きかったんですね。
佐藤:いまから考えるとそういう気はしますね。
■率直にいってキャバレー・ヴォルテールからの影響を強く感じたんですけど、実際はどうでしたか?
佐藤:みんな好きでしたからね。アイドルと言ってもいいくらい(笑)。
■〈Vanity〉から出ているアルバムはキャブ色が強いですよね?
佐藤:そうですね、それは阿木さんの好みも大きい(笑)。〈Vanity〉のアルバムでは、曲の体を成さないような感じのミックスやDJ仕様のビートトラックを使ったものは、全部リジェクトされてしまったんです。今度出す未発表トラック集にはたくさん入ってるんですけどね。
■今度〈φonon〉から出るアルバムの音源は、かなりアブストラクトですもんね。
佐藤:そうですね。
■阿木さんがボツにしたという今回の未発表のほうが圧倒的に尖ってます。
佐藤:阿木さんはライヴもしてほしかったんで、最初のアルバムではわかりやすい曲をピックアップしたということだと思いますよ。
■でも、当時じっさいのライヴはやらずにカセットテープだけ流したんですよね?
佐藤:そう、そうなんですよ(笑)。なにも説明せずに流れるもんだから、インターミッションのBGMのように通り過ぎて、メンバーが客席にいても誰も気づかないし気にも留めないという事態となりました(笑)。
■それはもう、佐藤さんらしい発想じゃないですか? いかにもEP-4的な。
佐藤:そうですね(笑)。まあ、本人たちもまったく音楽家でも何でもなかったんでね。だったらそういう形でやってみようかと。
[[SplitPage]]■佐藤さんの場合はシステムに対するテロリズムじゃないですけど、音楽のメタなところから揺さぶりをかけるみたいなことをしてきたと思います。R.N.A.にもその感覚があるのかなと思いましたが、先ほども言いましたが、DJだったことが大きかったように思います。
佐藤:非常に大きいと思います。いろんな箱でまわしましたから。六本木でもやっていたし、関西に移ってからはパートタイムで何件か回るみたいなことをやってたんです。だから、ほかのDJがやっていないようなこと、違うことを意識して、工夫してやるようになった。いまでは当たり前ですけど、当時はあまりそういう考え方はなかったと思います。選曲もそうですけど、どういうミックスをするか、そういうことには人一倍気を使ってたところはありますね。
■当時の佐藤さんの選曲リストとかみたいですね。
佐藤:75年くらいまでは基本的にブラック・ミュージックばかりだったんですけどね(笑)。
■しかしなぜ佐藤さんは、ディスコから離れてパンクやポスト・パンク、あるいはクラウトロックみたいなとこにいったのでしょうか?
佐藤:ひとつ大きかったのはアフリカ音楽とブラジル音楽でした。それに当時のディスコには制約があって、70年代前半からかけたいけれどかけられないというフラストレーションがずっとあったんです。同時にアメリカのリズム&ブルースがどんどん判で押したようなディスコ・ミュージックになっていってしまった。そういうことが重なったんでしょうね。
■佐藤さんにとって、クラフトワークやポスト・パンク的なものの魅力とは何でしたか?
佐藤:黒くないのに踊れることと、汗をかかないこと(笑)。単純にダンス・ミュージックとして新しいという直感。そこがいちばん惹かれたところじゃないかな。
■失礼な言い方になってしまいますが、ぼくのなかで佐藤さんはリチャード・カークとすごく重なっているんです。
佐藤:ははは。
■だって、あの人たちはもともとブラック・ミュージックが大好きですよ。それがああいうインダストリルなサウンドになった。インダストルになってからも、キャブスには強いビートがあるじゃないですか。同じように、ブラック・ミュージック的なものは佐藤さんにもずっとあるんだと思います。だからEP-4にはファンクがあるわけだし、じっさい数年前にユニットでやったライヴでもパーカッションを取り入れてリズムには注力されていた。決してホワイティ―な音楽とも思えないんですけど、ブラックネスがないところに共感したとはどういう意味でしょうか?
佐藤:おそらく黒さって言い方がちょっと違うのかもしれませんが、どういったらいいかな……、ビートがこう埋没していくような音楽が、まぁいわゆるブラック・ミュージックのなかから生まれてきたら面白いなと、いまそう思ってるんですけどね。波形としては明らかなリズムを持たない音楽がブラック・ミュージックのなかから出て来たら面白いんじゃないかと、ぼくはずっとそう感じているんです。わかりやすい音の例だと、サン・ラや電子マイルスの弾くシンセサイザーかな。クラフトワークにはそれがあった。ノイにもそれを感じたんです。これで踊ったら気持ちいいなと。まあどちらも現代音楽的遺伝子の濃い音ですから、特殊なウイルスが情報交換に関与したのかも──というのがR.N.A.オーガニズムのスタートアップコンセプトの中核です(笑)。
■やっぱり、佐藤さんにはダンス・ミュージックというコンセプトはひとつありますよね?
佐藤:それはありますね。だから、ダンスにはけっきょくビートがなくてもいいんじゃないかとなってきたんですよね。70年代の終わりから80年代くらいにクラブ・モダーンでDJをしていたとき、その前後にはいろいろ違う曲もかけましたけど、完全なノイズ・ミュージックでも人が踊りはじめたんですね。そのときの状況をみて、やっぱりそういうことだったんだと確信しましたね。まあ、外から見ると異様な光景でしたけどね。
■でもひょっとしたらそれが20年早いことをやってたかもしれない。
佐藤:ははは、まぁそうですね(笑)
■メビウスとコニー・プランクの『Zero Set』が1983年だから、アフリカ音楽とヨーロッパ的なるもののミクスチャーは70年代末から80年代初頭にかけてあったひとつの共通感覚なんでしょうね。京都では佐藤さんがそれを実践されていて、ほかの都市でもそうしたことが起きていた。
佐藤:そう思いますね。ただぼくの場合は、踊りを突き詰めて電子パルスに行ってしまった。リズムを切り刻んだり圧縮/伸長してるうちに、人間の技では認識不可能なハイパーポリリズムや、数年に一拍刻まれるような日々の生活に埋没したリズムというか、リズムではなくパルスに行きついたというね。『Zero Set』の名が出たので補足しておきますが、オーネット・コールマンの『Dancing In Your Head』なんかも複雑なバイアスのかかったミクスチャーとしての共通感覚を感じますね。『Zero Set』のひと時代前の作品ですが、オーネットは母国よりヨーロッパで圧倒的人気があったし、特にドイツでは現代音楽を学んだりしていてクラウトロック周辺には影響力があったと思います。
でも当時これを出していたらやっぱり厳しかったなっていう感じはします。アナーキックなパンクのように受け取られて、そのままでは理解されなかったんじゃないかな。やはり適切な時間というのは必要かと。長いか(笑)。
■佐藤さん個人としては今回R.N.A.オーガニズム出すにあたって、どのような感想を持ってますか?
佐藤:けっきょく記憶との戦いになっていて、俺ほんとにこんなんやっていたのかなっていう(笑)。まったく記憶にないものもあったり面白い。でも当時これを出していたらやっぱり厳しかったなっていう感じはします。アナーキックなパンクのように受け取られて、そのままでは理解されなかったんじゃないかな。やはり適切な時間というのは必要かと。長いか(笑)。
■でも〈Vanity〉って、当時3〜400枚とか、そのぐらいの枚数しかプレスしていないじゃないですか。しかも海外には熱を入れてプロモーションしたようですが、おそらく国内ではほとんどされていませんよね。こういう音楽がもっとしっかりした流通のもとプロモートされてリリースされていたら、日本の音楽シーンも少しは違ったものになっていたんじゃないかなと思いますけどね。ぼくなんか全然知らなかったし。佐藤さんにとっては、いまこうやって評価されることは複雑だったりしますか?
佐藤:阿木譲は意図してなかったと思いますが、はなから〈Vanity〉は日本の音楽シーンに向けて音を発信していたレーベルではなかったように思います。R.N.A.の場合も明らかに海外からのオファーが多くて、R.N.A.は〈Vanity〉のなかでも特殊なのかなという感じはしますけどね。だいたい〈Vanity〉はいろんなものを出していて、それこそプログレからパンクまで。ヴァイナル・コレクター向けのショーケースみたいな。そこでもR.N.A.はちょっと特殊だったと思います。
■この時代の佐藤さんにとってなにか大きな影響ってありましたか?
佐藤:このころは本当に目まぐるしい時代だったので、とにかく場所のことや音のこと、そういうものを支えるための組織を作ったりだとか、そっちのことをより考えていましたね。自分たちでオーガナイズして演奏できる場所をもっと広げていくということですね。音楽に関しては、ぼくは自分でやる音楽と聴く音楽があまりに違うので人は驚くんですけど、聴いていたすべての音楽から影響されているんじゃないでしょうか。
■それでは別の質問にいきます。佐藤さんにとって阿木譲さんとはどういう存在でしたか?
佐藤:ぼくと阿木さんの関係は、あんまり触れちゃいけないと思われているみたいです。でもじっさいは、ぼくと阿木さんと特別なにかあったわけでもなんでもないんです。むしろいい関係にあったんじゃないかな、とぼくは思っているんだけど。ただ、周りからはね、阿木さんからこうされた、ああされたという話ばかりでね(笑)。
■佐藤さんがそこであいだに入ったりしたんですか?
佐藤:それでぼくが煙たがられる存在になってしまった。だから『ロック・マガジン』にはEP-4のことはまったく書かれていないんです。
■ポスト・パンク時代に日本からは良い作品がたくさん生まれているんですけど、いくつかのレーベルに関しては問題があったという話は聞きますね。UKの〈ラフ・トレード〉みたいなレーベルはアーティストとの契約の仕方まで公平にするよう変えましたけどね。
佐藤:阿木さんはもともと歌手だったから、歌手時代に自分がやられたことと同じことをやってしまったんでしょうね。ただね、亡くなるちょっと前にも同じようなことがあったんですよ。〈Vanity Records〉の音源に関しては全部自分だけのものだって言い張るわけです。歌謡界と同じ発想で日本初を謳うインディー・レーベル運営しちゃうのはまずい。いくらなんでもそれはない、少なくともアーティストとレーベル半分半分だと思います。
■少なくとも著作権は曲を作った人のものです。
佐藤:基本はアーティストのものですが、阿木さんはスタジオ代を払っているから、そういう意味では一緒に作ったようなものじゃないですかと言ったんだけど、死ぬまで譲らなかったですね。だから曲が切り売りされていたこともあったりして。しかも無断でやるんです。ほかのアーティストも同じことをさんざんされている(笑)。いくら音楽を聴く耳が先端でも、そんな態度では音楽もDIYもへったくれもないですからね。まあ晩年はずいぶん落ちついたようですが。
■今回、R.N.A.についての当時の阿木さんの文章(https://studiowarp.jp/kyourecords/r-n-a-organism-%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88-1980/)を読ませていただいたんですけど、何を言いたいのかぼくには理解できない文章でした。ただ、熱量は感じますけどね。
佐藤:音楽の紹介誌としては先端をいっていたとは思います。
■それはたしかにそうですね。それでは、松岡正剛さんは佐藤さんにとってどんな存在ですか?
佐藤:松岡さんはもう、お兄さんみたいな存在ですね。
■松岡さんは佐藤さんのことが大好きなんですよね。いまでも佐藤さんのことを話しますから。
佐藤:77〜78年ぐらいですかね、松岡さんが京都に遊びに来てらしたときに初めて会いましたね。別人だと思っていたDJをやっている人間と音楽を作っている人間が同一人物だったことが松岡さんには面白かったそうです。松岡さんが京都に来るといっしょに遊んでもらって、ぼくが東京にいたときには泊めてもらったりしていました。
■佐藤さんは一時期音楽活動から遠ざかってましたが、この十年間は精力的に動いています。レーベルも始められていたり、活動を再開されていますけど、現在のようにはじめた理由はなにかあったんですか?
佐藤:いちばんの理由は居所を探し出されてしまって、音源を形にしてくれる〈ディスク・ユニオン〉がアーカイヴとしてちゃんと取り上げてくれたことがきっかけです。以前にもそういう話はぽつぽつあったんだけど、一切応じなかったんです。自分で作ってきた音は自分たちでやりたい形で表に出したかった。EP-4以外の仕事を形にしてくれるんだったら活動を再開しましょうという話で始まったんです。
■2018年から〈φonon〉もスタートされていますが、レーベルをはじめたのはどんなきっかけがあったんですか?
佐藤:2013年くらいからレーベルのやり方をいくつか考えていました。アナログがやりやすくなってきたということで、当初はアナログ盤のレーベルを考えていたんです。同時にEP-4の新作を作りたいと思っていましたから、アーカイヴがひと段落したところで、そういう作業に入りつつあったんですけど……、一身上の都合というか、家族の介護にシフトしなければいけないことになって、いま信州に住んでいます。だから、移動しないでレーベルをやる方法を考えはじめたんです。ネットと知り合い関係をうまく繋いで、制作費基本ゼロの現物支給でという最低限のシステムを考えて、これだったら電子系の人たちとか、すでに音源を持っている人に声を掛けたらなんらかのかたちでやっていけるんじゃないかなと。それで始めたのが〈φonon〉です。
だから、一般的なバンド形態の音はちょっと無理なんです。制作費もないから、録音スタジオを使うのも難しい。フィジカルで出したいと思うものがあれば聴かせてもらって、ぼくの方でも面白いと思ったら出すという。レーベル側でのネット配信による販売は基本ありませんし、すべての権利はアーティストが持つので配信したい場合は自由にしてもらっています。お金をかけないで、最低限の流通は確保して、なおかつアーティストは現物支給で手売りすれば、最低限の収入にはなる。だいたいそういうシステム・モデルができたので、なんとかここまで続いてます。
■もうそろそろEP-4の新作が出てもいいんじゃないかなと(笑)。
佐藤:いまのところどうしようもないです。EP-4の命運は家族の案配にかかっているとよく言われます(笑)。
■そうですか、でもシングルぐらいはそろそろ聴きたいですね。今日はどうもありがとうございました。
(2月26日、ZOOMにて)
試聴リンク(シェア可):https://audiomack.com/sp4non
φononレーベル・サイト:www.skatingpears.com














