「Man」と一致するもの

interview with A Certain Ratio/Jez Kerr - ele-king

 救世軍のバザーや古着屋で仕入れたレトロなスーツやシャツをこざっぱりと着こなした彼らは、パンクに似つかわしいとは言えない銀行の支店長のような髪型で決めて、インダストリアルなファンクを演奏する。あるいは、こ洒落たサファリルックに身を包みながらノイズまじりのラテン・ジャズを奏でる。さもなければ、ファンカデリックがドナルド・バードといっしょにTGをカヴァーしたかのような面白さ。“ポストパンク”時代のUKには、パンクの灰から生まれた因習打破のインディ・バンドが多々登場しているが、ア・サートゥン・レシオ,通称ACRもそのなかの重要なひとつ。取材に応えてくれたジェズ・カーはACRサウンドの核となるベース担当であり、そしてポストパンクからダンスの時代とそれ以降を渡り歩いたシーンの生き証人のひとりでもある。
 映画『24アワー・パーティ・ピープル』で描かれているように、ACRはジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーとともに初期〈ファクトリー〉の看板バンドだった。ことACRに関しては、トニー・ウィルソンがマネージャーを引き受けるほどレーベルお気に入りのバンドだった……が、しかしその活動は順風満帆というわけではなかった。多くのヒット曲に恵まれコマーシャルな成功をおさめたNOとくらべると、ACRは長いあいだ玄人好みのバンドであり、ある種ニッチなポジションに甘んじていたと言える。2000年代初頭のポストパンク・リヴァイヴァルにおいて、ACRが再評価の中心となるまでは。


Kevin Cummins ドイツ表現主義風の初期の写真。中央に立っているのがジェズ。

 ACRがポストパンク・リヴァイヴァルの目玉となったのは、ESGやリキッド・リキッドの再評価、あるいはDFAなどディスコ・パンク勢の隆盛ともリンクしたからだが、同時に、初期ACRのモノクロームなファンク(それは“ファンク・ノアール”などと呼ばれる)がアンダーグラウンドにおけるインダストリアルへの展開とも通じていたからだ。ACRはどこから聴けばいいのかと問われたら、まずは“Lucinda”を薦めることにしている。それは同時代のブリストルのファンクとはまた違った感触を持ったマンチェスターのファンクで、初めて聴くリスナーはその冷めたファンクが21世紀のいまもまったく古くなっていないことに驚くに違いない。
 80年代よりも現在のほうがACRの存在感は増しているといったら言い過ぎだが、昨年は結成40周年を記念してリリースされた愛情のこもったボックスセット(ミュートの素晴らしい仕事のひとつ)が欧米では話題となった。トーキング・ヘッズのカヴァー曲やグレイス・ジョーンズとの共作予定だった曲などトピックもいくつかあったが、多くのメディアが書いたのは長きにわたって過小評価されてきた先駆者へのリスペクトであり、悪化する社会経済を背景に生まれた40年前のポストパンクと現在の状況との相似点である。

 12年ぶり10枚目のアルバムとなる『ACR ロコ』(ACR狂)にはあらゆる世代から特別な期待が寄せられているようだ。そしてあたかもそれに応えるように、新作にはACRの魅力がわかりやすく表現されている。シンセポップからラテンないしはジャズやハウスなどさまざまな要素がポストパンク解釈によって加工される、ACRファンクの現在形が聴けるというわけだが、目立って新しいことをしているわけではない。しかしアルバムとしての完成度はじつに高く、それぞれの曲自体にそれぞれのアイデア=魅力がある。と同時にすべての曲には滑らかなグルーヴがあり、自信をもって初期の精神を忘れない演奏は感動的ですらある。
 インタヴューでジェズ・カーは、じつに多くのことを喋っている。2万5千字以上という長めの記事になってしまったが、いままで日本ではそうそう紹介されてこなかったバンドなので、ここはひとつほとんどエディット無しで載せることにした。のんびりと読んでください。こと〈ファクトリー〉にまつわる話はひじょうに面白いし、ところどころ笑える。通訳兼質問者の坂本麻里子によればジャズ本人も本当によく笑う人だったとのこと。

トニー・ウィルソンは僕たちにぞっこんで。だから僕たちは「彼のバンド」だった、と。言うまでもなく、彼はマネージャー業には向いていなかったわけだけど。っていうかビジネスマンですらなかった。

まずは取材を受けていただいてありがとうございます。

Jez(以下、J):どういたしまして。

新宿でのライヴも見にいきました。

J:うん、MARZのショウね。

ええ。なので、3曲目の“Yo Yo Gi”を聴いたときは、ちょっと嬉しかったです。

J:ああ、うんうん(笑)。僕たちは表をうろうろしていて。歩いているうちに代々木(ジェズは「ヨーヨージ」と発音)まで行き着いてしまって、それで地下鉄に乗って戻ったんだ。で、僕はあの車内放送を録音したんだけど……っていうか僕たちふたり(おそらくマーティン・モスクロップのこと)ともあれを録音したっけな。だから、(笑)僕が「大丈夫、二駅だけだから」って言ってるのが聞こえるはずだよ。アッハッハッハッ!

しかしあれは新宿駅の構内放送なのになぜ“Yo Yo Gi”になったんでしょう?

J:うん、たしかにそうだ。ごめんごめん。でも、あの名前、「Yo-Yo-Gi」っていうのがとにかく気に入っただけなんだ。

「Shin-juku」よりもファンキーな曲名かもしれません(笑)。

J:(笑)そうそう。っていうか、ああして地下鉄に乗っていたときに代々木の駅名の標識を見て、「こりゃグレイトなタイトルだな」と思ったんだ。でまあ、あるトラックに取り組んでいて、ふと「あの音源を使ったらどうだろう」と思いついて。うん、そんな風にして出来上がった曲だよ。

でもおもしろいですよね。なぜその音楽はラテンとハウスになったのでしょうか? 日本とは全然関係のない味わいなわけですが。

J:うん(笑)。だけど、その組み合わせがうまくいったと僕は思うけどね。それに、あの曲はミュージック・ヴィデオもかなり興味深いんだ。あれを作ったのは僕たちのファンで、2、3年前にこちらにコンタクトをとってきた。彼は自作のヴィデオ映像をいくつか送ってくれて、僕たちと何かやりたいととても熱心でね。で、このアルバムを発表する段になり、よし、試しにやってみよう、どんな映像のアイディアが浮かぶかやってみてよ、とお願いすることにしたんだ。彼はあのミュージック・ヴィデオを作ってくれて、僕たちもほんとに気に入ったし、そういう運びであのヴィデオができたっていう。だから、あれはファン制作のヴィデオなんだ(笑)!

そうだったんですね。さて、今回は12年ぶり、昨年の40周年記念を経ての10枚目のスタジオ録音アルバムです。

J:かなり長く間が空いたよね、うん。ただ、僕たちはその間もずっと活動していたんだけどね。レコードこそ発表していなかったものの、いま言われた過去12年の間もギグは続けていた。どこかから声がかかるたびにギグは続けていたんだよ。で、少し前から〈ミュート〉が再発をはじめて……

ボックスセットもありましたよね。

J:そう、それも含むバック・カタログのリイシューがあって、それを機にライヴをやる機会がさらに増えて。でまあ、うん、僕たちにはずっと「もう1枚アルバムをやれる」という思い、自分たちのなかにまだ音楽が残っているという気持ちがあったし、後はもうそのレコードを出すための方法/便宜を調達できるか否かにかかっていた。で、〈ミュート〉と再発の契約を結んだ際に、よし、アルバムに向けて作品をまとめる作業をはじめようと僕たちは考えたわけ。基本的に、このアルバムは過去1年くらいの間に自分たちで形にしていった。週末ごとに集まってレコーディングをはじめて、とにかくジャムを音源にしていって。そこから半年後にそれらの音源に改めて取り組むことにし、そこで作品を完成させたわけ。
 だから──そう、僕たちは作品を自主プロデュースしたし、その上で〈ミュート〉側にこの作品をライセンスする意向はあるかと尋ねたところ、彼らも僕たちの旧作の売れ行きに満足していたし、「オーケイ、新作を我々が出そう」と言ってくれて。だからある意味……自分たちはいまこそハッピーだって言うのかな、(苦笑)クハッハッハッハッ! いやだから、これまで以上にいまの自分たちは楽しめているんだ、ほんと。もちろん、初期の頃だって楽しかったよ、若くて何も考えずに済んだから。でも思うに、中期あたりかな、あの頃から、音楽活動だけではなく人生そのものも全体的に少々難儀になっていったんだよね(苦笑)。

『ACR ロコ』は、ACRの集大成のように、40年の活動が集約されているように思いました。あなたはどんな気持ちでこのアルバム制作に臨みましたか?

J:まあ、いつもと同じだったね。要するに、どこに向かっているか五里霧中でとにかくやっていく、っていう。

(笑)。

J:さっきも言ったように、僕たちはいまから1年以上前にこのアルバムのレコーディングに着手した、というか、とにかくスタジオに集まって──メンバーはみんな他に仕事をしていたり等々の事情があるから、全員集合できるのは週末だけでね。でまあ、集まって3つか4つのトラックをモノにして、大体はベース、ギターとドラムに、なかにはヴォーカルの混じるものもあって。で、少し音源を休ませた上で、またスタジオに入ってもうちょっとあれこれつけ足していくうちに6、7曲ぶんくらい、骨格になるアイディアが生まれた。そこからツアーをたくさんやって、その後でまたスタジオに戻り、去年のクリスマスの少し前に音源の仕上げに取りかかりはじめた。あのときからだったね、ほんと、作品がちゃんと形になっていったのは。
 ただ、さっきも言ったようにちゃんとした「プラン」はなかったんだ(苦笑)。とにかく何か録音していき、それをやっているうちにみんなが「おっ、これはグレイトだ。こういう方向に持っていったらどうかな? やってみようぜ」云々と言い出すし、レコーディング作業/音源自体が変化を促していくっていうか。でも、うん、いまの君の意見には同意するけどね。たしかに今作は、僕たちのやってきた数多くの異なるサウンドをレプリゼントしているし……そうだな、このアルバムを最初から最後まで通して聴くと、ACRの通ってきた旅路を追体験できるとでもいうのかな、そこには僕も満足している。

ですよね。

J:……と言いつつ、そうするつもりはまったくなかったんだけどね(笑)!

(笑)偶然そうなった、と。

J:ああ。でも実際、僕たちのキャリアは何もかもそんな調子だったんだって! そのほとんどは偶然起きたものだったし、「前もって計画を立ててやる」ところはまったくなかった。それはさっきも話したことだし……たとえば、僕の大好きなACR作品の1枚である『Sextet』(1982)にしても、制作時間はとても限られていて。スタジオに入った時点では、まだスケッチ段階の3曲くらいしか手元になかった。だから、それ以外の要素はすべてスタジオ内で生み出されていったっていう。

そうだったんですか。

J:うん。今回のアルバムでも“Taxi Guy”や“Friends Around Us”なんかがそれと同様で、胚芽程度のアイディアはあったとはいえ実際に曲が出て来たのはスタジオのなかでだった。僕にとってはそれがベストなやり方なんだよ、というのも非常にフレッシュだし、それに曲を書いたその場でレコーディングするのはとてもいいことだとも思っている。リハーサルをさんざんやって繰り返し演奏すると、その曲にあった当初の火花やヴァイブみたいなものが二度と取り戻せなくなるんじゃないかな。以前の自分の考え方はその逆だったんだけどね、リハをえんえん重ねて完璧にモノにしてからレコーディングするものだ、ずっとそう思ってきた。だけどそうじゃない。ベストなやり方、レコーディングに対する見方というのは、はじめのうちに録ってしまう、それなんだ。

経験を積んであなたがたもある意味賢くなった、ということかもしれません。「流れに任せてやればいいんだ」と。

J:(笑)。まあ、僕たちが学んだ主なことと言えば、物事をコントロールしようとすればするほど、その新鮮さと生命力は薄まってしまうものだ、だろうな。思うに僕たちはとにかく、以前よりもっと楽しめているんだよ。その面は音楽そのものに反映される。実際にやっていて楽しいと、その楽しさが自分たちのやっていることにも反映するもので。まだ若かった頃、バンドをはじめた初期の頃だってもちろん楽しかったよ、何もかもとても目新しい経験でエキサイティングだったから。でも、僕たちは気づいたんだと思う──その要素(=やっていて楽しいかどうか)こそ、自分たちのやることに必須な部分だってことに。
 だって、もしもやっていて自分たち自身が楽しくなかったら、それは観ている側にだって伝わるものじゃない? だからなんというか、僕たちは物事を本当にシンプルに留め、とてもスピーディに進めることにした。そんな風にナチュラルであるべきだし、小難しくなる必要はない、と。

たしかに今作は、僕たちのやってきた数多くの異なるサウンドをレプリゼントしているし……そうだな、このアルバムを最初から最後まで通して聴くと、ACRの通ってきた旅路を追体験できるとでもいうのかな、そこには僕も満足している。

新作については後でまたお訊きするとして、ACRの日本のメディアでのインタヴューはかなりレアなのでこれまでの歴史についても少し訊きたいと思っています。かまいませんか?

J:ああ、もちろんいいよ!

というのは、ひょっとしたら日本の多くのファンは映画『24アワー・パーティ・ピープル』で描かれていたACRが100%真実だと思ってしまっている可能性があります。

J:ハッハッハッハッハッ!

あの映画は大好きですが、あれはそもそもカリカチュアと事実とが半々くらいの内容であって──

J:(笑)イアン・カーティスが僕たちのことを「ファッキン・クソだ」って言う場面とか?

(笑)。あれは実際に起きたんじゃ?

J:そうだったのかもね? ただまあ、あの場面は、要は彼は自分たちの方が僕たちより上だと思っていた、ということでさ(笑)。

ええ。でも誤解を招いている気もする映画です。あなたご自身もカメオ出演なさっていましたが、せっかくのこの機会に訂正したいところなど、あります?

J:まあ、「半分くらいまでは本当」という箇所は多い映画だよね、うん。ただ、僕もあの映画はほんと大好きなんだ。あの映画がやってのけたのは〈ファクトリー〉というレーベルの気風を捉えてみせたってことで、それはなんだったかと言えば、「誰ひとり自分たちが何をしているかわかっちゃいなかった」で。

(笑)。

J:誰もがとにかくちょっと楽しい思いをするためにやっていたし、そのスピリットをあの映画は本当によく捉えている。さまざまなちょっとした逸話等々が含まれているし、その多くは事実だよ。ただ、なんというか、(笑)それらをあの映画はもっとユーモラスに見せていた、と。でもほんと、かつての僕たちはあんな感じだったからね、とにかく面白がって楽しんでいただけ(笑)。さんざん笑い合っていたし、そこまで真剣じゃなかった、みたいな。

なるほど。でもACRに関してでいいので、あの映画の真実ではないところを語ってもらえますか?

J:いや、とくに「これは真実じゃない」と言うつもりはないよ。でもまあ、そうだなあ、いくつか……ほら、トニーが……(苦笑)僕たちの脚に日焼けローションを塗りたくる場面があるよね?(訳注:ACRのトレードマークでもあったサファリ・ルックのショーツ姿のメンバーの白い脚を健康的に見せるためにトニー・ウィルソンが楽屋で小麦色のローションを塗る場面)

(笑)あれは笑えます。

J:でも、あれはトニーじゃなかった。女の子の一群が、トイレでローションを塗ってくれたんだ(笑)。だから、それくらいの軽い違いで……。

起きたことの本質そのものは変わっていない、と。

J:そういうこと。

あの映画のなかでトニー・ウィルソンは盛んに「ジョイ・ディヴィジョンはロブ・グレットンのバンドだが、ACRは自分のバンドだ」と主張しますけど、あれは?

J:ああ、あれは本当だよ。最初の何年か、トニーが僕たちのマネジメントをやってくれたから。彼は僕たちのマネージャーだったし、僕たちをニューヨークまで連れて行ってくれたのは彼だったからね。彼の母親が亡くなり遺産が手に入って、そのお金でアメリカに飛ばしてくれた。だからなんだ、ニューヨークでアルバム(『To Each…』/1981)をレコーディングできたのは。

初のアメリカだったでしょうし、さぞや素晴らしい体験だったでしょうね。

J:その通り。あれはすべて彼のおかげだったし、トニーは僕たちにぞっこんで。だから僕たちは「彼のバンド」だった、と。言うまでもなく、彼はマネージャー業には向いていなかったわけだけど。

(苦笑)ビジネスの感覚には欠けていたみたいですね。

J:っていうかビジネスマンですらなかった。だから彼はとにかく、ひらめきのアイディア人だったってこと。で……僕が〈ファクトリー〉で好きなのもそこだったんだよな、あのレーベルに関わっていた連中はみんなほんと、「レーベル・ビジネスを立ち上げて儲けよう」っていう観点からはじまっていなかったから。僕たちとおんなじで、〈ファクトリー〉の連中はミュージシャンみたいだった。クリエイティヴな面々で、面白可笑しいことをやろうとしていた。ほんと、初期〈ファクトリー〉はちょっとしたファミリーだったんだよね。所属バンドも若かったし、年代的に言っても、お互いライヴァル意識を抱いてはいた。
 ただ、と同時に同胞だという感覚もかなりあって。というのも、「〈ファクトリー〉のバンド」として一緒にライヴをたくさんやったから。ジョイ・ディヴィジョン、ACR、ドゥルッティ・コラム、セクション25、OMDの顔ぶれで「ファクトリー・ナイト」としてパッケージ・ツアーもやった。だからそれが、僕たちにちょっとした……そうだな、所属意識をもたらしてくれたんじゃないかな? 
 っていうか、〈ファクトリー〉のそもそものはじまりが零細家内工業みたいなものだったわけで。たとえば(〈ファクトリー〉の第一リリースである)『A Factory Sample』(1978)にしても、バンドの連中も実際にあれを何千枚か手作りするのを手伝ったんだし。そのぶんワクワクさせられたし、そこは楽しい要素だった。だからほんと、レーベル初期はエキサイティングだったね。で、それからちょっとした成功が訪れることになって──イアンが亡くなったときに、かなり変化が起きたと思う。あのあたりから、お遊びではなく、もっとシリアスになっていったっていうかな(軽く嘆息)。彼の死は、とても多くに影響したと思う。

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あの映画がやってのけたのは〈ファクトリー〉というレーベルの気風を捉えてみせたってことで、それはなんだったかと言えば、「誰ひとり自分たちが何をしているかわかっちゃいなかった」で。

まず、ACRのごくごく初期の話から聞きたく思います。あなたたちが結成されたのはマンチェスターのFlixtonとされていますが──

J:(苦笑)僕たちがバンドをはじめたのはフリクストンではなかったよ!

そうなんですね。ちなみにそのフリクストンは大まかに言えばどんな土地柄のところなのでしょう? 大マンチェスター圏の南西部のエリアですよね。

J:うん、ストレットフォード区(トラッフォード)の街だ。ただ、バンドの結成はフリクストンでじゃなかったんだ。シンガーだったサイモン・トッピングはフリクストン出身だったし、ピーター、ピート・テレル(G/エレクトロニクス)はその近くのアームストン(Urmston)出身で、その意味ではACRの起源はあのエリアだった、と言えるけれども……人びとはよく、ACRを(苦笑)ウィゼンショウ出身と言うこともあってね。というのも、僕たちのドラマーのドナルド(・ジョンソン)はウィゼンショウ出身だから。というわけで、うん、そうやっていろんな情報が混ざってしまっているけど──きっとどこかの時点で、僕たちの歴史について本を一冊書く人が誰か出て来るんじゃない? ハッハッハッ!

なるほど。ややこしいみたいですね。

J:でも、グレイトな話はたくさんあるんだよ(笑)!

あなた自身はどんな少年時代を過ごされたのでしょうか? 

J:僕の子供時代?

はい。たとえば、JD/ニュー・オーダー絡みの記事や本で、サルフォード出身のバーニーは「自分の子供時代のサルフォードは陰鬱で寒々しくて」みたいなことをよく言っていますが。

J:(苦笑)ああ、うんうん。

あなたはどうだったんでしょう。少年時代のあなたはフットボール(サッカー)に夢中だった、と話している海外記事を読んだ記憶がありますが。

J:そうだね、僕はフットボール小僧だった。

その頃は音楽よりフットボールにもっと入れ込んでいた?

J:いや、音楽ももちろん好きだったけど、自分で音楽を演奏するというほどまでにはまだのめり込んでいなかった。僕の伯父はフットボール選手だったんだ。だから伯父の志しを継いで、11歳から17歳までマンチェスター・ユナイテッドで、MUSC(Manchester United Supporter’s Club)の学童訓練チームでプレイしていてね。だから子供時代はフットボール一直線だった。ところが17歳のときにくるぶしに大怪我をしてしまって。

フットボール人生がそこで終わりを迎えたんですね。

J:そういうことになる。でも、いまの自分からすればかなり「ああなってくれてよかった」、みたいな(笑)。それでも当時の自分にとっては大ショックだったし、そこから1年後にACRに参加した。ACRは僕にとって最初のバンドだったんだ。

時期的に考えてみて、それ以前に地元のアマのパンク・バンドで軽くプレイしたことはあったんじゃ?

J:ノー、それはない。ACR以外のバンドでプレイしたことはなかったよ。ただ、僕は当時……君は知ってるかなぁ、ジルテッド・ジョンってバンド(訳注:ノヴェルティ/パンク・パロディ・アクト。1978年にシングル「Jilted John」をヒットさせた)がいたんだけど?

(笑)はいはい、憶えてます。

J:あの「Gordon The Moron」と、僕はハウスシェアしていたんだ(訳注:「ゴードンの低能野郎」は“Jilted John”に登場するキャラで、ガールフレンドに振られた主人公ジョンの恋敵。ここではバンドの『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演時にステージでゴードン役を演じた人物を意味すると思われる)。あそこらへんの連中とはマンチェスター・ユース・シアター経由で知り合いでね、ジルテッド・ジョンのシンガーだったグレアム・フェロウズのことも知っていた。実は、グレアムは僕たちがシェアしていたあの家の居間のソファであの曲を書いたんだ(笑)。

(笑)そうだったんですか!

J:(笑)僕たちはラシュロームでハウスシェアしていて、家の住人の共通項はみんなマンチェスター・ユース・シアターに参加していたってことで。それに〈レイビッド・レコーズ〉の連中も僕は知っていた(訳注:〈Rabid〉はマンチェスターのインディ・レーベルでマーティン・ハネットのプロデュースしたジルテッド・ジョンのシングルをリリース)。僕はまだとても若かったし、あの面々のなかでは最年少のひとりだったな。ほんの17歳で、あの手の連中とつるんで遊んでいた。もっとも、当時の僕はミュージシャンじゃなかったけどね。音楽を演奏してはいなかったし、とにかく……自分をやや見失っていたんだと思う、フットボールの夢が消えてしまったところで。
 そうするうちに、ACRがピップスって名前のディスコで演奏するのを観てね。ピートとサイモンのふたりだけで、演奏後に彼らとお喋りした。そしたら何ヶ月か経って通りでサイモンにばったり出くわして、「バンドの方はどんな調子だい?」と尋ねたら、彼は「ベース・プレイヤーを探してるんだけど」と返してきて。僕はたまたまベースを持っていてね、ただし、演奏はできなかったんだけど。そんなわけで、その2日後にはバンド・オン・ザ・ウォールって会場で彼らとギグをやっていたっていう。

(笑)たった2日後に?

J:うん、リハを1回やって、2日後には本番。それで決まり。だからそれくらい、僕たちの能力には限界があったってことだよ。だけど、実はそれが僕たちの魅力でもあったんだと思う。演奏の腕前はほんとどうしようもなかったものの、僕たち3人が合わさることで何かしら興味深いサウンドを生み出していたし、そこからほんの2、3週間後にマーティン(・モスクロップ)が加入したしね。彼はそれ以前に他のバンドでプレイしていたんだけど、彼のバンドが出演した同じ晩にバンド・オン・ザ・ウォールでACRのライヴを観て。で、僕たちもマーティンのバンドを観たんだけど、そのときの彼のファッションが僕たちとまったく同じ、モッズ・スーツ姿でさ(苦笑)。バンドの方はグラム・ロックっぽい見た目で、彼はなんだか浮いてた。
 というわけで彼は僕たちのバンドに参加することになり、4ピースとして6、7ヶ月間プレイして、そのあたりだったね、〈ファクトリー〉とのシングルをやったのは。ドラマーがいない状態で作った、1枚目のシングルだ。で、ドナルド(・ジョンソン)が入ってくれて、そこからだったんじゃないかな、バンドが本格的に伸び始めたのは? というのも、僕たちはインダストリアルっぽいサウンドをやっていたわけだけど、そこにファンキーなドラム・サウンドが加わったことで──途端にふたつがハマった、うまくいった。あそこからはじまっていったね、ほんと。

僕はフットボール小僧だった。僕の伯父はフットボール選手だったんだ。だから伯父の志しを継いで、11歳から17歳までマンチェスター・ユナイテッドの学童訓練チームでプレイしていてね。だから子供時代はフットボール一直線だった。ところが17歳のときにくるぶしに大怪我をしてしまって。

あなたが加入する以前のACRはサイモンとピートのデュオだった、と。

J:うん。

当時の彼らはどんなバンドでしたか? インダストリアルなパンクというか、ノイズと騒音だけ、とか?

J:(苦笑)いやいや、とても興味深いものだったよ。サイモンがベース、ピートがギター担当で、それにサイモンは友人が作ってくれた「ノイズ・ジェネレーター」なる呼び名の小さな箱も使っていて。要はオシレーター(発振機)で、つまみをひねると(耳ざわりな電子音を真似て)イ・イ・イイィィ〜〜イィ〜ン……みたいなノイズが出て(笑)。たしか3曲、“The Thin Boys”とかを演奏したんじゃなかったかな? 僕が参加したリハーサルでも“All Night Party”に“The Thin Boys”、“Genotype/Phenotype”をやったし、それにレコーディングせずに終わった“Intro Talking”っていうトラックもあって。だけどあのトラックは、後にアルバム『Mind Made Up』(2008)収録の“Teri”になっていった。というのも、僕はまだあの1回目のリハーサルの模様を録ったテープを持っていて……実家、母親の家にしまってある(笑)。だからいま言った4曲が残っているし、あのテープはいつかディジタイズしなくちゃね。人びとがあれを聴くのに興味を持つ日がいずれ来るかもしれないし。

あなたにとっての大きな音楽的な影響はなんでしょう? バンドでプレイしはじめた頃に大きかったのは?

J:まあ、ピートとサイモンは……ピートがとくにそうだったけど、彼はブライアン・イーノにハマっていてね、とりわけ『テイキング・タイガー・マウンテン』(1974)と『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』(1977)の2枚に(編註:バンド名は『テイキング・タイガー・マウンテン』収録の“The True Wheel”の歌詞の一節から取っている)。『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』に“No One Receiving”という曲があるけど、あれを聴くと“Do The Du”(編註:初期の代表曲。がちょっと聞こえると思う。ハッハッハッハッハッ! “Do The Du”の歌詞を書いたのはピートだったし、あれは……たしか、ドナルドが加入する前にできていた曲だったはずだ。でも、彼が後からドラム・パートをつけ足してくれて。ドラム部が入るまで、ライヴであの曲はやらなかった。とにかくまあ、最初の頃の僕たちはブライアン・イーノにザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、クラフトワークあたりを聴いていたね。
 ただ、ラッキーだったのは──僕たちはパンク・バンドになるつもりはなかったんだ、バンドがはじまったのはたしかにパンク期だったけれども。ある意味、あの当時は誰もがパンクの後に続こうとしていたと思う。でも、77年にパンクはまだ本当の意味でマンチェスターに達していなかったし、人びとが「パンク・ミュージシャンはいわゆる“ミュージシャン”ではなく、立ち上がって自分たちで何かやっている連中だ」という事実を理解したのは78年頃のことで。おかげで非ミュージシャンな連中の多くにインスピレーションがもたらされたし、彼らに「自分も試しにやってみよう」という気を起こさせたっていう。僕たちはまさにそういうクチだった。誰ひとりちゃんと楽器を弾けなかったし、それでも何かやりたいと思っていた。最初の頃はドラマーすらいなかったし(苦笑)、とにかく3人で興味深いサウンドを出していただけ。その意味で、あの頃の僕たちはスロッビング・グリッスルみたいな連中に近かった。ドラムレスだったし、あの手のインダストリアルっぽいサウンドに引き寄せられていたし。うん、いまあげたような名前、VU等々が大きかったな。
 それでも、僕たちは他にも……だから、僕はあの頃どこのクラブに行ってもかかっていたノーザン・ソウルを聴いて大きくなったわけで。マンチェスターはダンスが本当に大きい土地柄だし、ウィークデイは働いて、週末になると金土の晩は踊りに繰り出す、と。誰もに「自分のお気に入りのダンス・ミュージック」があったし、言うまでもなくディスコ・ブームが訪れ、それに続いてパンクが到来し……だけどそのパンクにしても、レゲエおよびダブ・ミュージックとの連携は非常にディープなものだったんだ。僕たちのプレイした会場の多くも、パンク・バンドが出演し、詩人ジョン・クーパー・クラークが出て、レゲエ・バンドも出るって感じだったしね。そのグレイトなところというのは、本当に混ぜこぜだったってことで。
 だから、ギグを観に出かけると、ダブ・ミュージックにパンク、ダンス音楽を耳にすることになる。それらすべてがミックスされていて、すごくよかった。だからあれは、いわゆる「アフター・パンク」の結果だったし、当時はニュー・ウェイヴと呼ばれていた。本当に色んなものが許容されていたし、それくらい人びともオープンで心が広くて。とにかく自分たちにプレイできる場があること、それをみんながエンジョイしていた。大会場ではなく、スモール・タウンにちらばった小さな会場がたくさんあったし、小規模なレーベルもたくさんあったんだ。

(編註:1982年のサード・アルバム『I'd Like To See You Again』を最後にバンドを脱退するオリジナル・メンバーのサイモン・トッピングは、ハシェンダでシカゴ・ハウスを──UKにおいてもっとも早く──スピンしたレジデントDJのマイク・ピカリング率いるバンド、クアンド・クアンゴに加入。これがやがてUKで最初期のハウス・プロジェクト、T-COYへと発展する)

彼はブライアン・イーノにハマっていてね、『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』に“No One Receiving”という曲があるけど、あれを聴くと“Do The Du”がちょっと聞こえると思う。とにかくまあ、最初の頃の僕たちはブライアン・イーノにザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、クラフトワークあたりを聴いていたね。

そんな小さなレーベルのひとつが〈ファクトリー〉でした。ACRは〈ファクトリー〉がリリースした最初のバンドなわけですが、トニー・ウィルソンとはどのように出会ったのでしょう?

J:あれは、ジョイ・ディヴィジョンのマネージャーだったロブ・グレットン、彼が僕たちがバンド・オン・ザ・ウォールで演奏するところを観てね。彼ら(トニー・ウィルソン、アラン・エラスムス他)は〈ファクトリー〉をはじめたばかりのところで、ロブ・グレットンがトニー・ウィルソンに「あのバンドを絶対にラッセル・クラブに出演させろ」と進言して。ヒュームにあったラッセル・クラブという会場で、〈ファクトリー〉は毎週木曜にイヴェント・ナイトを主宰していたんだ。というわけで、バンド・オン・ザ・ウォールでの僕たちのギグを観たロブが、僕たちをラッセル・クラブに出せとトニーに言ってくれて。それでトニーも僕たちを観ることになったし、ギグの後にトニーが楽屋に来て、「シングルを1枚やろう」と提案してくれた。で、その後でトニーは僕たちのマネージャーになったっていう。ハッハッハッ!

ドナルド・ジョンソン(Ds)加入後、「Shack Up」(編註:USファンク・バンドの1975年のヒット曲のカヴァー。まさにポストパンクとノーザン・ソウル文化との交差点)のあたりからすぐにファンク・サウンドを表現しますが、ファンクはその後のACRにとってトレードマークにもなります。あなたがファンク・サウンドに拘っている理由は何なんでしょうか?

J:思うにそれは、さっきもちょっと話したけど、僕たちがノーザン・ソウルを聴いて育ったからだろうね。とくにジェイムズ・ブラウン。彼の影響は巨大だったし、何せ彼はものすごくファンキーな人なわけじゃない(笑)? 要するに、彼の音楽を聴いているとじっとしていられなくなる、そこだよね。“Get On Up”や“Sex Machine”といったレコードをかければ、その人間が誰であってもみんな、ビートに合わせて足踏みせずにいられなくなる(笑)。うん、すごくシンコペーションが効いていて、ファンキーで……で、さっきも話したように、僕たちはああいうファンキーな音楽はずっと好きだったんだ。
 ただ、実際に自分たちが演奏していたのはこの、インダストリアル調の(苦笑)、ヘヴィなノイズだったわけで。4人編成になってから6、7ヶ月くらいの間、6、7曲から成るセットをずっとやっていたのは憶えている。で、ドナルドが参加したときに彼に言ったのは、「このセットに合わせてドラムをやってくれない?」だけだったし、(苦笑)それで決まり、だった。基本的に彼は既存の楽曲に合わせてドラムを叩いたわけだけど、ばっちりで。聴き返して、「おおっ、最高じゃん!」と。(ドラムが加わって)実にパワフルな響きになった。
というわけで、僕たちはしばらくの間そんな風に演奏していたわけだけど、どうだったかと言えば──だから、ドナルドが参加する以前の僕たちは、ドラマーがいなかったから4人全員がリズムを弾いていたし、そのせいで空間を音で埋め尽くしていたわけ。ところがドラマーが参加したところで、ある意味、僕たちの側は演奏するのをやめたっていうか(笑)。というのも、ドナルドがリズムを維持してくれるんだし、彼がプレイしてくれれば、僕たちが音空間をすっかり埋める必要はないじゃないか、と。とくにそれは、“Forced Laugh”みたいなトラックに当てはまる。ああいった楽曲群を聴けば、ドナルドに何もかも任せて、僕たちは実質何もやっていないのが分かるよ(苦笑)。で、あれが僕たちの音楽的な発展だったんだ。ドナルドのファンキーなドラム・プレイももちろんあったけれども、僕たちの方もこう……おかげで、それまでとは違うやり方でプレイするようになれた。ほんと、僕たちのスタイルはああやって出て来たんだ。
 でも肝心なのは、人びとは「あれこれ考えた上でああなったんだろう」と考えるだろうけど、そんなことはなくて。とにかく僕たちはリハーサル部屋に入り、演奏をはじめ、そこで浮かんだいいアイディア、そしてグルーヴとに沿ってとにかく続けていっただけだよ。

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photo : Kevin Cummins


photo : Kevin Cummins  マンチェスターに来たときACRを訪ねたグレイス・ジョーンズといっしょに。

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僕たちがノーザン・ソウルを聴いて育ったからだろうね。とくにジェイムズ・ブラウン。彼の音楽を聴いているとじっとしていられなくなる、すごくシンコペーションが効いていて、ファンキーで……で、僕たちはああいうファンキーな音楽はずっと好きだったんだ。

2000年代初頭にポストパンク・リヴァイヴァルがあって、そのなかでとくに初期のACRの音源が再評価されました。

J:(笑)ああ、人びとももっと僕たちを意識するようになったね。

おかげで若いファンもACRを発見しましたし、〈Soul Jazz〉が編集盤『Early』(2002)をリリースし、最初のカセットテープ作品『The Graveyardされしました。あのときはどんなお気持ちでしたか? 「パンク・ファンクのオリジナルのひとつ」と改めて見直されたわけですが。

J:何であれ、評価してもらえるのはとても嬉しいことだよ。まったくねえ、我ながら信じられないよ、もうそんなに昔の話だなんて……。いや、でも、認識してもらえるのは本当に嬉しいことで。そうは言いつつ、ACRはいまだに音楽をプロデュースしているわけだし。だから……僕たちは常に前進し続けてきたってこと。同じ地点に留まることはまずなかったし、思うにそれだったんだろうな、人びとがたまに僕たちをミスることもあったのは。ACRは同じ場所に長く留まるってことがなかったから(苦笑)。初期のインダストリアル・サウンドも長く続けなかったし、そこからあのパンク・ファンク調をやりはじめ、その後にはジャズっぽいことをやり出して(笑)。聴き手からすれば「何これ?」、「どうなってるの?」ってもんだよ。彼らの反応は当然「わかんない」だし、「とにかくこっちの好きなことをやってよ」と求めてくるわけだけど、それだけは僕たちは絶対にやらなかった。僕たちは常にトライしていたし……だからなんだろうね、やっていてACRがずっとおもしろかったのは。

もしかしたらそれが、ACRが他の同期のバンドやレーベルメイトの多くよりも長続きしてきた理由のひとつかもしれません。

J:いや、そうなったのは……バンドとして存続していくのって、本当に難しいことだからだよ。僕たちはある意味、運がよかったんだろうな。はじめのうちはトニーがマネジメントを担当してくれたけど、その後の僕たちは実質自分たちでマネジメントをこなしていた。おかげで早いうちに知ることになったんだ、この業界がどんな風に動いているか、レコードをリリースするにはどうすればいいか云々を。というわけで、〈ファクトリー〉を離れた時点で、正直僕たちはバンドとして終わっていてもおかしくなかった。ところが僕たちにはまだレコードを作る意思があったし、ギグも続けていて。それでマネージャーをつけて、〈A&M〉と契約した。メジャー・レーベルと契約することにしたんだ。

たしかその頃、ご自分たちのスタジオ「SoundStation」を設営しますよね? そこもいい判断だったと思います。

J:その通り。だから基本的に、〈A&M〉と契約したおかげでスタジオを手に入れることができるようになった。自分たちで音楽をプロデュースする「場」を持てたということだし、イコール、レーベルは必要ではなくなる、と。自分たちで物事を始められるし、〈A&M〉から出たアルバム『acr:mcr』(1990)は、本当の意味で自分たちで作った最初の作品だった。制作費を出す者はいなかったし、自分たちのスタジオで、自腹を切って作った。僕たちが〈A&M〉にあのアルバムをリリースさせたんだよ、というのも向こうは出したがっていなかったし(苦笑)。

意図的にではないにせよ、あなたがたは常にインディペンデントさを、自給自足を目指していたようですね。

J:ああ。それにもうひとつ大事なのは、実際に〈ファクトリー〉を離れることになった際に──彼らは借金を山ほど抱えていたから(苦笑)、その代償として僕たちは自分たちの音源を持って出て行けたんだ。だから、僕たちの音楽作品のすべて、と言っても〈A&M〉時代の作品は契約の一部だから除くけれども(笑)、音源の権利はすべて自分たちで所有している。それができたんだから僕たちはとても運がよかった。
 というわけで、僕たちの手元にはすべてのマスター音源やマルチ・トラック群、1/4インチのマスター・テープ等々があるし、それらをみんな自分たちでディジタル音源化していった、と。それを最初にやったのは、〈クリエイション〉が僕たちの旧作を再発したときだったんじゃないかな(訳注:〈クリエイション〉による1994年のCD再発)。で……あー、いま、何を言おうとしたたんだっけ? ど忘れしてしまったな……

(笑)無理なさらず。

J:ああ、だから、23スキドゥーみたいな、いわゆるパンク/ポストパンク系のバンド群はみんな……いや、彼らもきっと、まだ活動を続けているんだと思うよ。実際、あの手のバンドのいくつかはいまも、たまにギグをやっている。ただ、とにかく、とても難しいことなんだ、バンドを続けていくのは。家族がいれば大変だしね、音楽活動は定期収入ではないから。ニュー・オーダー/ジョイ・ディヴィジョンのように運よく大成功を収め、ファンの数も巨大じゃない限り、バンドを維持し続けるのは難しい。で、自分たちはとにかく踏ん張り続けたっていうのかな。自主プロデュースで、僕たちなりのもっと小規模なやり方で活動を続けてきた。
 ラッキーなことに、〈ミュート〉は素晴らしい仕事相手でね。彼らは僕たちのバンドのことを本当に理解してくれていると思うし、〈ミュート〉の旧作再発の仕事ぶりもとてもよかった。彼らがあの『ACR:SET』の編集盤をまとめた手法にしても、あれは一種、僕たちのやってきたライヴのセットを反映するような内容だったわけで。だから、僕たちはライヴ活動をストップすることはなかったんだよ。常にライヴで映えるバンドだったし、ライヴのよさで名を馳せるようになって。バンドはまだ生きているってことだし、「じゃあひとつ、アルバムを出そうじゃないか」と僕たちも思ったっていう(笑)。「レコードを1枚やってみようよ」とね。で……うん、新作には僕たちもとても満足している。シングルは今日(9/10)発売だし、アルバムは9月25日に出る。また日本にぜひ行きたいよ、ハッハッハッ!

COVI-19状況が落ち着けば、またきっと行けるでしょう。

J:ああ、そうだよね。まったく悲惨な話だ。あれはこの業界を破壊しつつある。とりわけ小規模の会場がそうだし、というか誰もに影響が及んでいて。何千人もの人間にダメージを与えている。

それまでコンスタントに作品を出していたACRですが、90年代後半になってから新作が途絶えますよね。バンドにとってどんな時期だったのでしょうか? メンバーが家庭人になったことでの休息期だった?

J:ああ、それもあった。でも、ああなったきっかけで大きかったのはロブが亡くなったときだったね。僕たちはあの頃ロブ・グレットンの〈Robs Records〉に所属していたし(編註:ロブのレーベルからは1992年にリズミックな躍動を持った『Up in Dowsnville』、1996年にはトリップ・ホップを取り入れた『Change The Station』をリリース)、彼が亡くなったとき(1999年)の僕たちはこう、「ああ、なんてこった、これでおしまいだ……」みたいな。作品を出すレーベルがなくなってしまった、と。
それにメンバーも全員家庭持ちになったりいろいろとあったし、ここらでいったんブレイクをとろうということになって。それでも、いずれまた集まって何かやることになるだろう、そこは自分たちにも分かっていたけどね。だた、そうだな、7、8年近く、僕たちは休止期間に入っていた。ところがその間に〈Soul Jazz〉がコンピ『Early』をまとめて、僕たちにギグを依頼してきたんだ(笑)(訳注:ロンドンのElektrowrerkzでの2002年のギグ。前座はACRの大ファンだったアンドリュー・ウェザオール)。で、こっちはもう「うわ、まいったな、どうしよう??」みたいな(笑)。

(笑)。

J:でもはっきり憶えているよ、そこでどうしたかと言えば、エイブラムス・モス・センターっていう、マンチェスターにあるスタジオ兼コミュニティ・カレッジみたいな施設に入ってね。マーティンはあそこで教鞭をとっていたから、そのコネでスタジオを使わせてもらえた。で、僕、ドナルド、マーティンの3人でスタジオに入り、「さて、どうする?」と。そこで“Do The Du”をプレイしてみたんだ。あの曲は、フーッ、そうだな、25年くらい? ずいぶん長いこと演奏していなかったけど、実際にプレイしてみたらファンタスティックな響きで。僕たち自身「ワオ、こりゃ最高だ!」と思った。
 そんなわけで……まあ、〈Soul Jazz〉から頼まれたとき、僕たち自身ギグをやれるかどうか半信半疑だったんだ。だからああやって3人で集まってリハをやってみたし、でもその結果、これはイケるという手応えがあって。本当にいいサウンドが出たし、それであのギグをやった、と。あれは2002年のことだったけど、以来、僕たちはまたギグをやり出すようになって。で、あの経験は本当に素晴らしかったけれども、と同時に……さっきも話したけど、僕たちは常に前に進んでいるわけじゃない? 『The Graveyard〜』に『To Each…』曲をプレイしたけど、僕たちは前進している。僕たちのオーディエンスもよく言うからね、「こっちは発売されたばかりのアルバムを聴いてるところなのに、バンドはもう次のレコードをライヴで演奏してる」って。クハッハッハッハッ!

そうやって初期の音源が再評価されるいっぽうで、〈A&M〉時代のハウス・ミュージックの影響を取り入れた『Good Together』(1989)や『acr:mcr』も当時は人気でしたよね。時代によって変化していったACRですが、あなた個人にとって、過去作品で思い入れがあるのはどの作品になりますか?

J:個人的にもっとも満足度の高い作品は『Sextet』。もちろん、あれ以前の初期作品も気に入ってるけどね。僕たちがマーティン・ハネットとやっていた頃の、たとえば12インチ『Flight』なんかは最高だと思う! あのシングルだろうなぁ、マーティン・ハネットとACRとの結合が本当にうまくいったのは。だけど『Sextet』は自分たち自身でプロデュースした最初の1枚だったし……(苦笑)いや、何も「自分たちで作ったから好きだ」って言いたいわけじゃないんだよ。ただ、あの作品には独自の要素があって。さっきも話したように、あのアルバムをレコーディングするのに1ヶ月しかもらえなかったし、スタジオに入る前に3曲しかできていなかった。だから、制作期間1ヶ月で3曲からアルバムを作ることになったし、それ以外はスタジオのなかでのジャムから成る作品だった、と。だからだと思う、あの作品にああいう響きがあるのは。本当にフレッシュだし、他とはすごく違う響きがある。あの作品が出たとき、人びともやや虚をつかれて当惑したんだ。ほら、(笑)『24アワー・パーティ・ピープル』に、僕たちがハッシエンダ(のオープニング)で演奏する場面があるじゃない? で、誰かが「こいつら、ウィゼンショウ発の最初のジャズ・バンドじゃねえか」みたいなコメントをするっていう。

(笑)はいはい。

J:(苦笑)。だからそれくらい、あの当時は理解してもらえなかったっていう。ところが、何年か前に再発されたところで、あのアルバムは「革新的なアルバムだ」云々の新たなステイタスを獲得したわけで。うん、自分がいま聴いても、あのアルバムは「ACRのなんたるか」を捉えていたなと思う。それにマーサ・ティルトンの歌唱、彼女の声も、人生の儚さみたいなものを実によく捉えていたと思うし、うん、あのアルバムは本当に好きだね。

『ACR ロコ』は、冒頭にも言いましたが、これまでの集大成的なアルバムだと思いますし、ファンクからシンセポップ、ラテンやハウス、ACRの音楽のすべてが結集されている。とはいえ、“Bouncy Bouncy”や“Always in Love”、“Berlin”のようにメロディが際立っている曲があり、ミニマルな“What's Wrong”やクローザー・トラックの“Taxi Guy”では新境地も見せていると思います。

J:ああ、“Taxi Guy”ね、あれは僕もお気に入りの曲だよ。あの曲はパーカッション部からスタートしたもので、でも、メロディ部を弾いているのはサキソフォン。しかもその上に303が乗っかっているし、「なんだ、これ??」みたいな(苦笑)。だけど、僕からすればそこが抜群なところで。聴いた人間がつい「どういうこっちゃ?」と首を傾げる、「どうも理解に苦しむ」と思う曲だ、という点がね。ハハハッ! でも、かなりいい曲なわけだろ? そういう戸惑いは、僕からすれば素晴らしいリアクションなんだ。あの曲は基本的にはサンバ曲だけど、そこから外れていく要素を後半に加えていって、ベースや303が混じっていって。ところがその上にトニー(・クィグリー)がサックスを被せたら曲のヴァイブがまたすっかり変化して、別物へと変わっていったっていう。うん、あのトラックだね、新作で僕がいちばん好きなのは。

いくつかの曲で故デニース・ジョンソンも歌っていますね。

J:うん。

彼女は90年代のACRのメンバーだったし、思い出について語りはじめたら時間が足りないでしょうが、手短かに彼女とはどんな人だったのか喋ってもらえますか?

J:彼女はビューティフルな人物だった。正直、僕たちはいまだに動揺していいるところで……デニースはもうこの世にいない、という事実に対してね。彼女は本当に大きなパーソナリティの持ち主だった。彼女がどういう人だったかと言えば──僕たちで一緒にギグをやるわけじゃない? で、ライヴを終えてツアー・バスに乗り込んだところでも、彼女は演奏した会場のバーのスタッフやセキュリティをやってくれた人たちのことを思いやっている、そういう人だった。だから、彼女はそういう風に大きなキャラ、その場にいる誰もをギグに含めようとする人だったんだ。で……僕はまあ、1985年に歌わされる羽目になったけど、実はシンガーだったことはなくて(苦笑)。
 自分は実質、ベース・プレイヤーだよ。歌い手としての役目が突如降り掛かってきてなんとかそれをこなしていたとはいえ、デニースがACRに参加してくれたところで、僕も本当に楽になった。というのも、ライヴの場でお客さんと繫がってくれるのは彼女だったから。彼女のパーソナリティはそれくらい、本当に大きかったし……うん、とにかく、彼女は実にビューティフルな、あったかい人だった。それはもう、彼女の声を聴けば感じるだろうし、それにあの笑顔に目を見ればわかる。ファンタスティックな人だったし、僕たちみんなが、彼女を本当に惜しむだろうね。
 でも、実は『ロコ』を録り終えたとき──あの作品のミキシングは早めに済ませていたし、スタジオ時間が余って週末に2回ジャムって、そこで新音源をやりはじめたんだ。で、次のアルバム向けに5曲作っていたっていう(苦笑)。僕たち3人とデニースとの組み合わせでね。

ぜひ、発表していただきたいです。

J:ほんと、アメイジングな出来の楽曲だよ。あれらは実質『ロコ』向けのセッションの一部ってことになるけど、あれをやった時点でもうアルバム1枚分に足るトラックは仕上がっていたし。だからあの音源は、将来のどこかの時点でACRの次のアルバムの一部を成すものになるだろう、と。

楽しみです。彼女への追悼という意味でもぜひ。

J:ああ。でも、悲しくもあるけどね。というのも彼女自身は、あの音源が日の目を見るときを僕たちと一緒に楽しめないわけだから……。あれはもう、信じられない完全なショックだった。だって、彼女はバンドのなかで一番若かったからね。彼女は(ACRでは)まだ「ひよっこ」だったんだよ。

デニス・ジョンソンとACR。

“Get A Grip”はスライ&ザ・ファミリー・ストーンを思い出すんですが、あなたのルーツだったりするんですか?

J:うん、もちろん。あの手の連中はみんな僕たちの音楽的なヒーローだよ、スライ、ジョージ・クリントンにパーラメント/ファンカデリックといった……

ファンキーな人びとが。

J:そう、ファンキー・ピープル。彼らはみんな、ものすごく大きな影響だった。ドナルドのドラミング・スタイルはもちろんだけど、彼はたくさんのレコードを僕たちに聴かせてくれたし、あの手の音楽を僕たちは山ほど聴いた。で、“Get A Grip”、あの曲はたぶん、さっき話に出た“Taxi Guy”を除けば、今作でいちばん好きな曲だと思う。とにかくシンプルなグルーヴが続いていく曲だし、そこから……っていうか、あれはこのアルバムをやりはじめたときに最初にやった楽曲のひとつで。
 ところが、録ったはいいもののその後1年近く放ったらかしで、その段階ではベース/ギター/ドラムだけだった。あの曲にキーボードもヴォーカルも入っていない、そういう状態を想像してもらえばわかると思う。
 で、そのままで長いこと放置されていたんだけど、改めてあの音源に取り組むことになった段階で、新たなキーボード・プレイヤー、以前はブラン・ニュー・へヴィーズのメンバーだったマット(・スティール)が参加してくれていてね。で、一緒にあの曲をジャムってみたところ、彼があの曲にメロディをつけてくれて。そこで僕たちも「よし、じゃあヴォーカルをつけよう」と思ったんだけど、ドナルドとマーティンはあそこで別のシンガーのフレイヴァーを入れたがって、それでシンク・ユア・ティース(Sink Ya Teeth)っていうバンドのマリアに歌ってくれないかと頼んだんだ。彼女たちとは去年一緒にツアーした間柄でね。で、彼女に曲を送り「これにヴォーカルをつけてくれないかな?」と。彼女がヴォーカル部を書いて送り返してきて、その上で僕たちが楽曲とヴォーカルを若干アレンジし直して……うん、すごくうまくいったと思ってる。

ACRは常に新しい血を取り入れている、ということですね。

J:うん、っていうか、バンド外の他の人たちと一緒にやるのって、とても助けになるんだと思う。自分たちのやっていることのなかに、また別の味を持ち込んでもらえるから。キーボードのマットにサックス奏者のトニー、それにデニースにしても、彼らみんながレコーディングに何かを持ち込んでくれる。僕たちがやっているのはそれらを組み入れるってことだし、その結果生まれるのがACRの音楽だ、と。それって、多様さを持たせることになっているんじゃないかな。僕たち3人以外に誰もいない状態でシコシコ音楽をやってたら(苦笑)、音楽が安定して変化のないものになってしまうだろうし。

ちょっと生気に欠けてしまう、と。

J:うん。だから、『Sextet』にはそういうところがちょっとあったんだと思う。あのアルバムを作ったやり方にはピリッと辛い味わいがあったし、そのせいで他とはかなり違う作品になったんじゃないかと。僕たちは常に知っていたんだと思うよ、重要なパートというのは、他の人たちを助けたり、あるいは他の人たちの能力を借りて、自分たち自身の音楽を彼らに委ねることだ、と。


『Sextet』のオリジナル盤。ポストパンクの名盤で、これはマストでしょうな。ジャケットの粗目の厚紙、それからインサートもいかにも〈ファクトリー〉意匠で格好いいです。

これまでずっと自分の友だったアルバムのひとつに、『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』があるね。バナナのジャケの、あれ。うん、あのアルバムは本当に大好きで、常に僕のそばにいた。

デビューしてから40年余りのあいだ、いい時期も大変だった時期もあると思いますが──

J:(苦笑)。

あなたを奮い立たせてきた、支えてきたような音楽があったら教えて下さい。

J:そうだな、これまでずっと自分の友だったアルバムのひとつに、『The Velvet Underground and Nico』(1967)があるね。バナナのジャケの、あれ。うん、あのアルバムは本当に大好きで、常に僕のそばにいた。

どうしてでしょう? VUはいわゆる「洗練された上手いバンド」ではなかったから? 優れたソングライターのいたバンドとはいえテクニック面では荒削りですし、その意味ではパンクやDIYバンドの先駆者だったわけで。

J:そう、その通り。彼らが洗練されていない、そこが好きな理由(苦笑)。だからあのアルバムが好きなんだ。それもあるし……なんというか、とにかく僕はちょっとやぶにらみな作品を選びがちで。ルー・リードの言葉をいつも引用するんだけど、いわく「コードを3つ使っていたらそれはジャズだ」と(苦笑)。彼だってコードは2個くらいしか使っていないわけでさ。で、ACRにしても、初期音源を聴くとコード・チェンジはまったくやっていないのがわかると思う。キーはひとつだけ、と。
 そんなわけで僕はいつだって、VUのそういうところが好きでね。それに、彼らのアプローチって、こう……ディストーションとかディレイを多く使っていて、そういう風に奇妙で、ややサイケデリックになるところも僕は気に入った。しかも、彼らはそういったことを他とはちょっと違うやり方でやっていた、そういう感じがあって。思うに、それはドラムのモー・タッカーに負うところが大きかったんじゃないかと。それにもちろん、ジョン・ケイルの弾いたヴィオラの要素もあったし……だから、それらさまざまなエレメントが本当に彼らを、他とはかなり異なる存在にしていたんだと思う。彼らはユニークだった。そこだと思うよ、自分が彼らを好きな理由は。うん、曲ももちろん素晴らしいけれども、彼らのアプローチだね。一種アート的な──そりゃまあ彼らはウォーホルと関係があったから当然だけれども──アプローチだったし、僕が好きなのはその点であり、かつあの、彼らの一種アンダーグラウンドな視点だったと思う。

おっしゃる通り、VUは「一般的なバンド」像とは違いましたよね。ジョン・ケイルは現代音楽、ルー・リードは職業ポップ・ライターだったこともあり、モー・タッカーのドラムは素人っぽく単純という具合で、妙なコンビネーションだったにも関わらず、それが生きていたわけで。

J:うん。僕もそう思う。いま君の言った一種の奇妙さというかな、それぞれが別の場所から集まって生まれたストレンジさだよね。ロックンロールやファンクといった要素からも彼らは完全に外れていたわけで……初期ACRにも、そういう面が確実にあったと思う。そういう姿勢とパンクな姿勢、僕たちはそれらのアティテュードを音楽に対して抱き続けてきたんだ。要するに、「退屈なものにはなるな」みたいな(笑)。

最後の質問ですが、昔のマンチェスターの「音楽や生活にいたるまでの文化」にあっていまのマンチェスターが失ったものとはなんでしょうか?

J:それは……ぶっちゃけ、マネーってことだと思うけど。ここのところマンチェスターは本当に様変わりしていてね、ビッグ・マネーが流れ込み、新たに多くのビル/施設etcが建っている。ところがそれらは地元マンチェスター人のためのものではなく、ロンドンに通勤する人びとのためのものでさ(苦笑)。だからまあ、ちょっとロンドン化が進んでいるっていうか。金のある連中がこちらに流入している。
 ただ、いまのマンチェスターにもシーンはあると思っているよ。たとえばいまなら、ロンドンでいちばん大きいのはジャズ・シーンらしいし、盛り上がって形になってるみたいだよね。だから現時点ではマンチェスターよりロンドンの方が活況だという風に映るし、それは残念なことだ。というのも、こっちにもたくさんバンドがいて、音楽をやるのに興味がある人間がいまだに多くいるのは僕も知っているから。ただどうも、彼らはそうした勢いを発信していくアウトレットをまだ見つけていないようで。
そうは言っても、小さな自主レーベルはこちらにもいくつか存在するけどね。だから……そうだな、僕はとにかく、次の波がやって来るをの待っているところだ(笑)。

その前にまず、現在のコロナ危機が沈静化するのを待ちましょう。それが過ぎれば、何かが生まれるかもしれません。

J:(プフ〜ッ! と嘆息まじりで)ああ……うん、コロナのせいで多くがダメになってしまったよね。だから、アンダーグラウンドとまでは言わないけれども、非メインストリームなシーンの形成に関わっている人びとみんな、多くの小型ヴェニューに関わっている連中、そういう人びとはちゃんと存在するし、彼らもライヴを企画するとか、あれこれやりたがっているんだよ。ところがもちろん、現時点ではCOVID-19がそれらの活動に待ったをかけているわけで。うん……でも、僕はヘブデン・ブリッジ(西ヨークシャー)を拠点にするバンドのいくつかと仕事してきてね。あそこには素晴らしい小さな音楽シーンがあって。

話に聞いたことはあります。いいアート・シーンが育っているようですね。

J:うん、若いバンドがたくさんいるよ。僕がいま関わっているのがThe Short Causewayっていう名前のバンドで、彼らなんてまだ15歳くらいだし(笑)。でも、彼らは実に抜群でね。彼らはハリファックス出身のThe Orilelles(訳注:西ヨークシャーのハリファックスで結成されたトリオ。現在はマンチェスターに拠点を移し〈ヘヴンリー〉に所属)にインスパイアされていて、そのオーリエルズももういくつか作品を発表して好調だ。彼らはある意味「どこからともなく登場した」わけだけど、あのエリアにはザ・トレイズ・クラブ(ヘブデン・ブリッジ)という名のクラブ、そしてザ・ゴールデン・ライオン(トッドモーデン)というパブ会場があってね。数は少ないけれども、そうした会場が音楽をプレイしたがっているキッズに場を提供している。ほんと、物事がはじまるのはそこからであってさ。でも、COVID-19とそれに伴う規制でそうした小さなヴェニューの多くがドアを閉ざしたわけで、うーん、ああしたシーンも失われるのかもしれない……だから、演奏できる場所がなければ若手も苦労するし、一部の才能は消えていくんじゃないかと。でも、たぶん彼らはまた別の何かを生み出していくんだろうね。

そう思いたいですね。きっと、新たなアイディアが生まれるはずです。

J:ああ、僕もそう祈ってる。何かがここを抜けて出て来るだろう。その意味で僕たちはとても運がよかったんだね、過去にアメリカにも行けたし。ところがいまや、アメリカに行くのもヴィザetcがバカバカしいくらい大変だし、それにいずれブレクジットのせいで欧州ツアーも面倒になるだろう。カルネ等の税関申告手続きが煩雑になり、かつてのようにヴァンに飛び乗って欧州入りしてギグをやる、というわけにはいかなくなる。で、それって本当に、人びとが何かをやる、何かをクリエイトする行為を制限するものなんだよな。だから、若い、これから伸びつつあるバンドが思いつきにまかせてパッと何かやる、いまはそれをやるのがはるかに難しい環境になっていると思う。とてもやりにくくなっている。

ある意味新作のタイトル『ロコ』は、そんなクレイジーな時代にふさわしいかもしれません。

J:(苦笑)その通り。だからあのタイトルにしたんだと思うよ。でもまあ、誰かから教えられたんだ、スポティファイか何かではメキシコがACRの主要リスナー国のひとつだ、と。ACRのリスナー数の統計ではメキシコがトップらしくて(笑)。それもある意味あのタイトルを考えるのに繫がっていったし、それに『ロコ』という単語はとにかく、トランプだのブレクジットだのなんだの、いま起きているクレイジーなことすべてにふさわしい気がした。うん、僕も思う、いまの時代はクレイジーだと。
 で……僕たちは何も、特に政治色の強いバンドではないんだよ。ただ、とにかく(フーッと軽く嘆息して)、アーティスティックで、クリエイティヴで、感性の繊細な人びとにとって、世界はどんどん遠ざかっている、そんな気がする。何もかもが反動的かつ右に向かいつつあるし、「これはやるな、あれはやってはいけない」と人びとを封じていて。僕たちがバンドを始めた頃なんて、止めだてするどころか「ノー、やめるな、どんどんやれ!」って感じだった(苦笑)。はるかに自由な時代だったと思うし、それにコンピュータetcもまだなかったわけで、僕たちはその影響を大きく受けなかった。対していまの若い子たちには、「こうあるべき」みたいなプレッシャーが強くかかっているんじゃないかと思う。ネットに対して、カルチャーと接点を持つ際のやり方に対してね。
 だから昔といまではまったく違うわけだけど、それでも僕は、いまの若い子たちだっていまだに、若かった頃の僕たちが抱いたのと同じフィーリングを抱えているはずだと思ってる。ところが残念なことに、そのフィーリングを表現するための「場」が、かつてに較べてはるかに限定されているんだね。

たしかに。でもきっと新しい方法が出て来るはずです。パンク〜ポストパンクもある意味同様だったんじゃないでしょうか。

J:ああ、うんうん。

当時の貧しく若い子たちにはあまり行き場がなかったでしょうし、だからこそ彼らはDIYで場を作っていったわけで。

J:そうだよね。僕もそうなるだろうと思っている。

Boldy James / Sterling Toles - ele-king

 いざレコ評などを書こうと思うまで自分が聴いている音楽をどんな人がつくっているとか、僕はとくには調べないし、それほど気にならない。つい最近も4年ぐらい前から好きで聴いていたポスト・ロックのユニットを『エレキング別冊 カン大全』で取り上げることになって初めて調べたらライムと同一人物がやっているとわかってかなり驚いた。ドローンからダンスホールに転じたユニットだったので、ポスト・ロックまでやっていたとは想像以上に多彩なんだなーと。スターリング・トールズも2005年にCDRでリリースされた作品が最近になってアナログ化されて……とか、そんなんことぐらいしか知らなかったので、ラッパーのボールディ・ジェームズと組んでリリースしたジョイント・アルバムについて、こうしてレヴューを書こうと思い、最初にウォーミング・アップでユーチューブで何か曲でも聴いてからと思ったら、彼がデトロイトの高校で音楽の授業を教えている光景が出てきてびっくり。え、学校の先生だったの? スターリング・トールズってユニット名か何かだと思ってたけど、人の名前だったの? と、ついそのまま見ていると、いい感じで授業が進んでいくじゃないですか。生徒たちみんなでインプロヴィゼーションをやってアルバムを1枚つくろうとか、そんな話し合いをしている。とんでもない勢いでドラムを叩き、鬼気迫る音楽をやっている人とは思えず、静かに崩壊していく自分がわかるというか。さらに追っていくと、スターリング・トールズがデトロイト・ヒップホップの歴史を語るという映像は800人しか観てない。クリフトン・ペリーとスターリング・トールズはヒップホップを変えたルネッサンス・メンだか話している「デトロイト・イズ・ディフェレント」は300人。同じ趣旨でもう一本は150人しか観ていない。何も知らない時は、音楽だけを聴いていてどんなスゴい人なんだろうと思いがちなものだけど、いやあ、どんどんイメージが変わっていくなー。過剰な情報は音楽そのものを殺しかねないなー。

 それでは『Manger on McNichols』を覗いていきましょう~。ラッパーのボールディ・ジェームズは10年前にはデビューしていて、今年はすでにアルケミストと組んだ『The Price Of Tea In China』という面白いタイトルのアルバムもリリースしているものの、実はこの人のラップにはぜんぜん興味がない。『Manger on McNichols』でもMCが主導している“Detroit River Rock”まではそんなに興味がわかない。俄然、面白くなるのはトールズのドラムがフリーキーに暴れはじめる“B.B. Butcher”からで、ここからの3曲は何度も繰り返し聴いている。トールズが2005年にCDRでリリースした『Resurget Cineribus』もフィールド・レコーディングやゲットーテックがぐちゃ混ぜとなり、実に混沌としたアルバムで、とくに印象に残るのが破天荒なドラミング。トールズの演奏がとにかくスゴいんだと漠然と何年も思っていた。そう、こうしてレコ評を書きはじめるまでは。デトロイト再建を意味する『Resurget Cineribus』は1967年のデトロイトをテーマとしたもので、トールズの父親、デニス・エドワード・トールズがマーヴィン・ゲイのレコードに合わせてたわごとを喋るという行為からスタートしたらしい。トールズは1967年のデトロイト暴動を楽譜に起こせないかと模索しはじめ、リサーチの段階でデトロイトを再建するスローガン「Resurget Cineribus」にたどり着く。それはもともと1805年に起きた大規模な火災からデトロイトから立ち上がるためにつくられたもの(Rebuilding Detroit→https://www.youtube.com/watch?v=M3sGZsQZx80)。彼の父親が依存症から回復しようとしている時にこのスローガンが彼のなかでなんらかの意味を持っていると判断したトールズは67年のニュース映像からサンプリングした音と父親が葛藤しながら吐き出し続ける言葉をスコア化するという方法で音楽をつくり進める。ミュジーク・コンクレートがポップ・ミュージックのフィールドに降りてくる直前の時期だったと思うけれど、トールズ自身もそれは意識し、オーネット・コールマンやジョン・ケージがやるようにデトロイトを表現し、デトロイトが持っている「美しく弾力のある精神(the beautiful and resilient spirit )」に「肉と顔を与えた(to give flesh and a face)」のだという。言葉がわからないので半分以上意味不明だけど→https://sector7grecordings.bandcamp.com/album/resurget-cineribus

 『Resurget Cineribus』を聴いたDJアゾールトとミスター・ディー(Mr. De)は「まるでインディーズ映画を見ているようだった」と感想を残し、この作品はデトロイトの活動家たちに愛され、カイル・ホールダキムのような「境界を突破しよう」と試行錯誤しているミュージシャンたちにインスピレーションを与えたと評価されている。そして、僕が漠然と「最近になってアナログ化された」と思っていたのは、それがデトロイト蜂起から50周年を記念していたということも初めて知った。なるほど。そういうことだったのか。さすがにこれを知ると、もっと身構えて聴くものだったという反省的な気分に。そして、『Resurget Cineribus』の作業が終わるのを待ちかねていたボールディ・ジェイムズがすぐに『Manger on McNichols』のレコーディングを開始しようと言い始め、そこからレコーディング作業は12年にも及んだという。「マクニコルズ」というのは鉄鋼メーカーのことのようで、アルバム・タイトルは格子状になっている鉄の上で食事をしているという意味か(?)。よくわからない。ジェイムズもトールズも音楽産業だったり、他人に聞かせることを目的とせず、自分たちのためにレコーディングしていたそうで、とはいえ、個人的なトラウマが集団的なカタルシスとして共有されることには疑問がなかったという。レコーディングが伸びまくっている間にベースを弾いていたアンプ・フィドラーの兄は亡くなり、トールズの説明は読むのが面倒なほど長く多岐にわたっている(ので省略)。ゲストはその間にかなりの数まで膨れ上がり、“Welcome to 76”で侘しげなサックスを吹いているのはマッド・マイク。同曲ではエレクトリファイン・モジョの声もサンプリングされている。全体を通して聴くと、デトロイト・ヒップホップという文脈しか存在せず、それ自体がどんなトレンドにも属していないといえ、クエル・クリスなどと同じく単独で独自のヒップホップをやっていますよという感じ。トラップは5秒と聴く気がしなくなっている僕としてはもちろん彼らの方が興味深い。

Bruce Springsteen - ele-king

 エレクション・イヤーにこの男が動かないはずがない。2019年に(ロックというより)「ポップ・レコード」と宣言された『ウェスタン・スターズ』を発表したブルース・スプリングスティーンが、以前から噂されていた通り、大統領選挙直前にEストリート・バンドと再び集結したロック・アルバムをリリースする。アルバム・タイトルは『レター・トゥ・ユー』、すなわち、きみへの手紙。伝えたいことがあるということだ。
 すでに発表されている先行シングルにしてタイトル・トラック “Letter to You” は、あか抜けなくて泥臭いロック・ソング。あまりにもスプリングスティーンらしい力強い曲だ。そこでボスは、明らかに自分が老齢にあることを意識しながら、いま、きみに伝えることがあるんだと繰り返す。
「きみへの手紙に、俺が見つけた困難のすべてを。きみへの手紙に、俺が知った真実のすべてを」──。

 スプリングスティーンがいま、わたしたちに伝えたいことは何だろう。『ウェスタン・スターズ』ではおそらく「リベラル」とされる陣営の外をも射程にして、アメリカの夢から滑落した人間たちの痛みや悲しみがポップ・ソングに託されていた。であるとすれば、COVID-19以降の生活基盤のあり方、ブラック・ライヴス・マターの渦中で人権と秩序のバランスをどうするかが大きな争点だとされている今年の大統領選において、「争点」などと言っていられない、ただ毎日を生き抜くのに懸命な庶民のためにこそ、いまなお残酷な資本主義経済のなかで周縁化される弱き者たちのためにこそ、『レター・トゥ・ユー』の「手紙」は綴られたのではないだろうか。そう思えてならない。
 熱い男たちの熱いロック・ソング。そんなものがとっくの昔に古くなっていることは、きっとスプリングスティーンもわかっている。だけど、時代に取り残される人間たちのことを彼はけっして忘れない。繰り返そう。2020年、ブルース・スプリングスティーンのロック・レコードがリリースされる。(木津毅)

復活! ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンド、新曲「レター・トゥ・ユー」公開!


photo by Danny Clinch

急遽10月23日緊急発売となることが発表されたブルース・スプリングスティーンが盟友Eストリート・バンドと再びタッグを組んだ待望のニューアルバム『レター・トゥ・ユー』。新作からの第一弾シングル、タイトル・トラックでもある「レター・トゥ・ユー」のビデオが公開され、雪の荒野に佇むスプリングスティーンの姿と自宅スタジオでEストリート・バンドの仲間と再会し笑顔で曲を作り上げていく姿が対照的に描かれている。映像に映し出された歌詞をもとにした、第一弾対訳が公開された。

「厳しい時代と良い時代を経験して知ったこと、それらすべてをインクと血で手紙にしたためた」「すべての恐れと迷いを受け入れ、見つけた困難なことのすべて、真実だと知ったことのすべてを手紙に入れて君に送ろう」と、この困難な時代に生きるすべての人々に贈る、ボスからの「励ましの手紙」。ボスの真摯で誠実な歌の数々とEストリート・バンドのエモーショナルなサウンドは、信頼、友情、絆という大切な気持ちを思い出させ、未来への夢と希望を与えてくれる。

米国大統領選挙直前の10月23日発売となる、2020年最重要アルバム『レター・トゥ・ユー』の再生・ご予約はこちら。
https://SonyMusicJapan.lnk.to/LetterToYou

●Bruce Springsteen - Letter To You (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=AQyLEz0qy-g

●「Letter To You/レター・トゥ・ユー」

たくさんの雑種の木の下で
俺は面倒ごとを起こしてしまった
ひざまずいて祈り、ペンをひっつかみ
こうべを垂れた
俺が呼び起こそうと努めたのは
自分の心が真実と認めたものすべて
俺の手紙にそれを入れて君に送ろう

厳しい時代と良い時代を経験して知ったこと
それらすべてをインクと血で手紙にしたためた
自分の魂を深く掘り下げ、名前を正しく署名した
俺の手紙にそれを入れて君に送ろう

君への手紙では、俺はすべての恐れと迷いを受け入れた
君への手紙では、俺が見つけた困難なことのすべてを
君への手紙では、俺が真実だと知ったことのすべてを
俺の手紙にそれを入れて君に送ろう

俺はあらゆる日差しを浴び、雨にうたれた
俺の幸せのすべてと痛みのすべて
夕闇の星と朝の青空
俺の手紙にそれを入れて君に送ろう
(訳:五十嵐正)

【作品情報】
未来への夢と希望を高らかに謳う、ボスから君への励ましの手紙。
盟友Eストリート・バンドと再びタッグを組んだ待望のロック・アルバム!

ブルース・スプリングスティーン / レター・トゥ・ユー
Bruce Springsteen / Letter To You

発売日:2020年10月23日発売予定
品番:SICP-6359 
価格:2400円+税

Bruce Springeteen featuring The E Street Band! 誰もが待っていた、これぞボス&Eストリート・バンドの王道サウンドが炸裂。彼らならではの「心臓が止まりそうなほど刺激的で、会場を大いに盛り上げる」サウンドに煽られた12曲を収録した待望のロック・アルバム。スプリングスティーンはこう語る。「エモーショナルな作品だ。Eストリート・バンドがスタジオで完全にライヴ録音したサウンドもとても気に入っている。今までやったこともなかった手法で、オーバーダブもしなかった。たった5日間で作ったアルバムが、結果として自分史上最高のレコーディング体験のひとつになったんだ」。書き下ろし新曲9曲と共に、1970年代からの伝説的だが、今まで未発表だった3曲(*)が全く新たな解釈で収録。スプリングスティーンがEストリート・バンドと演奏を共にしたのは、2016年に世界で最も成功したツアーと認定された「ザ・リバー2016」ツアー以来。

Eストリート・バンド:ロイ・ビタン、ニルス・ロフグレン、パティ・スキャルファ、ギャリー・タレント、スティーヴ・ヴァン・ザント、マックス・ワインバーグ、チャーリー・ジョルダーノ、ジェイク・クレモンズ
プロデュース:ブルース・スプリングスティーン、ロン・アニエロ
ミキシング:ボブ・クリアマウンテン マスタリング:ボブ・ラドウィック

収録曲 
01. One Minute You’re Here / ワン・ミニット・ユア・ヒア
02. Letter To You / レター・トゥ・ユー
03. Burnin’ Train / バーニン・トレイン
04. Janey Needs A Shooter / ジェイニー・ニーズ・ア・シューター *
05. Last Man Standing / ラスト・マン・スタンディング
06. The Power Of Prayer / ザ・パワー・オブ・プレイヤー
07. House Of A Thousand Guitars / ハウス・オブ・ア・サウザンド・ギターズ
08. Rainmaker / レインメイカー
09. If I Was The Priest / イフ・アイ・ワズ・ザ・プリースト *
10. Ghosts / ゴースツ
11. Song For Orphans / ソング・フォー・オーファンズ *
12. I’ll See You In My Dreams / アイル・シー・ユー・イン・マイ・ドリームズ

政治で音楽を救う(音楽で政治を救う?) - ele-king

「音楽はただの音楽だ。政治を持ち込むな」
 Ele-kingのようなメディアの読者であれば、すでにこの声明には反対している可能性が高いだろう。
 2020年という惨憺たる年が、世界中の人びとの人生をこれまでにないほど揺るがし続けるいま、この考えをさらに推し進め、問いかけてみる価値がある──「そもそも音楽は、政治的でなくても妥当性があるのか?」と。

 第一に、“政治的”が何を意味するのかを少し考えてみる必要がある。政治はしばしば、“問題(イシュー)”や“アクティヴィズム(行動主義)”の同義語として(たいがい否定的な意味合いで)、政府や社会の問題に直接の関与を示唆する言葉として理解される。例えば、ビリー・ブラッグ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやラン・ザ・ジュエルズなどの一部の音楽は、たしかにその意味では政治的である。しかし音楽は、人間の生活や経験──人間関係、日々の葛藤、仕事、友人、家族との関係などについて語っている時点ですでに政治的であり、これらのすべてのことが労働時間、ジェンダー的な役割、給与などへの目に見えない政治判断という形で影響を受けているのだ。メインストリームか、アンダーグラウンドであるかの違いは、単純に文化の支配的な美学や価値観によってどの場所を占めているかということで、政治的なのである。人が何かを政治的なものにしたくないと言う場合の本当の意味は、単に政治的な関わり合いについて、深く考えたくないということだ。

 しかし多くの人は、政治が生活におよぼす影響について考えている。身の周りで目にする恥知らずな正義の欠如と、不正を実行した権力者たちが招いた重大な結果に、責任を負わないことに激怒している。この春、安倍首相が法制度を自分の身内で固めようとしたことで噴出した激しい怒りと、シンガーのきゃりーぱみゅぱみゅがこの問題をめぐりツイッターで安倍首相を批判した投稿を、あっという間に削除するよう追い込まれたスピード感は興味深いものだった。これは、国全体の関心を引く政治的に大きな意味合いを持つ問題だったが、エンタメ業界は制度的にこのような感情に反応することができなった。

 COVID-19の危機により、政治は我々の方に押し出され、目の前に突き付けられた。コンビニに徒歩で行くこと、行き交う歩行者たちのマスクの使用状況をチェックすること、歩道を通る際にスペースを確保すべくうまく通り抜ける術、我々の愛する音楽をサポートするため、ライヴ会場に出かけていくかどうかの判断などはすべて、我々の生活への政治の介入なのだ。この危機はまた、世界中の不平等や不正をあぶり出し、パンデミックにより人種的マイノリティが立場の弱いサービス業を不均衡に押し付けられた影響から、Black Lives Matter運動への重要な筋道をつけた。

 音楽そのものから、またはアーティストのオフィシャルな声明を通じて、その感情と関わりを持つということは、音楽の役割の一部だと思う。それは社会として我々がどう考え、感じるかということで、個人としてのみならず集団としての自分を見る鏡であり──我々が独りではないということを教えてくれる。メインストリーム(主流派)が無能であると、その役割はインディーズやオルタナティヴ・シーンが担うことになる(そうでなければ、彼らはいったい何から独立したのか?何の代わりなのか?)。

 UKチャートで成功を収めたストームジーやスリーフォード・モッズのようなインディーズ・バンドの破壊的な台頭は、人びとの日常生活における政治と結びついた時の音楽のパワーを示している。

 Black Lives Matterのようなものは、アメリカの問題であって、日本の問題ではないように見えるかもしれない。これには議論の余地はあるが、仮にそうだとしても、それが社会に提起する、人種、民族、ジェンダー、セクシュアリティや社会的背景などによって、どのように人を受け入れるか除外するかという問題はここにも存在し、解決していくべきことだ。大きな問題であれ、個人的な相互関係であれ、我々が特に考えもせずに踏襲する社会的慣習こそ、芸術による探究を必要としている最たるものだ。音楽には、これらの問題について考える社会的責任があるばかりでなく、音楽は表面的にどうであれ、“あるべき姿”を当たり前に思わないことで、より豊かにはなっても、陳腐にはなりにくいものなのだ。

 芸術と政治の関係性は、別の意味でも重要だ。ラディカルな思想やオルタナティヴ・カルチャーの創造性と未来へのヴィジョンを伝える能力を制限するような制度の壁が、数多く存在する。単純にメディア側の風景も、それらの独立した声が挑戦しようとするのと同じ方向で利益を得て、成長を遂げてきたからだ。個人である彼らのパワーは、コンサート、集会、ソーシャル・イベント(社交的な催し)や会合などで集まって、声を上げる能力にある。しかしCOVID-19は、その能力を破壊する。中国は香港でのロックダウンを利用して、抗議活動に野蛮な一撃を加え、ドナルド・トランプは、来るアメリカの大統領選で、人びとが安全に投票できる方法を制限するよう、公然と郵政サービスを利用している。

 賭け金(リスク)は低く、はるかに暴力的ではないが、オルタナティヴ・ミュージックのカルチャーも、それなりに、これらの力の影響を受けている。今回のパンデミックは、文化を生き永らえさせるための、人びとが集うこと、口コミのネットワークや物理的なミーティング・スポット(集合場所)をも奪ってしまった。ただでさえ、メディアの所有権の問題、タレントの事務所の影響力、Spotifyのアルゴリズムなどで、幅広い議論や言説からは除外されているにも関わらずだ。パンデミックによってもたらされた制約のなかで、どのように組織化し、情報発信し、声を大きくしていくかということは、芸術および政治の分野の、相互的な緊急課題であるべきだ。

 もっとも個人的なレベルでは、根底に政治的な意識があるだけで、ラヴソングのようなパーソナルなものさえも豊にし、ありふれたものとしてではなく、リスナーにフレッシュな方法で感動を届ける一助になる。より広い社会的なレベルでは、アーティストが日常生活における政治的な問題に直接取り組む自由を感じている場合、音楽は人びとがすでに抱える不安や怒り、懸念などと結びつき、未来へのより楽観的な可能性を明確に表現することができる。純粋に現実的なレベルでは、政治活動と創造的なカルチャーは同じ障害の多くに直面しており、それらを乗り越えるためのツールの構築などで、お互いに助け合えるはずなのだ。その意味では、「音楽は政治的でなくても、妥当性を維持できるのか?」という問いかけでは不十分なのかもしれない。むしろいま、私たちが問うべきは、「音楽は政治的でなくても、存在できるのか?」ということなのではないだろうか。


Saving Music with Politics (Saving Politics with Music?)

by Ian F. Martin

“Music is just music. Leave politics out of it.”

If you’re reading a magazine like Ele-king, there’s a strong chance you already disagree with this statement. But as this disastrous year of 2020 continues shaking up lives around the world in ever more ways, it’s perhaps worth pushing this idea further and asking, “Is music even relevant if it’s not political?”

Firstly, we should think a little about what we mean by “political”. Politics is often understood as synonymous with “issues” and “activism”, words that suggest (often with negative connotations) some direct engagement with matters of government and society. And some music, whether Billy Bragg, Rage Against the Machine or Run the Jewels, is certainly political in that sense. But music is also already political in the sense that it talks about human lives and experiences — relationships between people, their daily struggles, navigating work, friends, family: all these things are invisibly influenced by political decisions that affect working hours, gender roles, salaries. The fact of being mainstream or underground is political simply by virtue of occupying one place or another in relation to culture’s dominant aesthetics and values. When people say they don't want something to be political, what they usually mean is simply that they don’t want to think about its political implications.

But many people do think about how politics touches their lives. They are enraged by the shameless lack of justice they see around them and the total lack of consequences for the powerful purveyors of those injustices. The flood of anger that erupted this spring at Prime Minister Abe’s attempts to stack the legal system with his allies was interesting, as was the speed at which the singer Kyary Pamyu Pamyu was pushed to erase her Twitter criticism of Abe over the issue. This was a specific issue with big political implications, attracting wide engagement across Japan, but the entertainment industry is institutionally incapable of reflecting those sorts of feelings.

The COVID-19 crisis has pushed politics right up to our front doors and pressed it against our faces. The act of walking to a convenience store, the assessments we make over fellow pedestrians’ mask usage, the negotiations we make over space as we pass on the sidewalk, the decision over whether to go out to a venue and support the music we love — that’s all politics intervening in our lives. The crisis has also accentuated inequalities and injustices around the world, with an important thread of the Black Lives Matter narrative coming from the pandemic’s disproportionate affect on racial minorities and the inequalities that push them into vulnerable service jobs.

Whether through the music itself or an artist’s public statements, engaging with those feelings is part of music’s role though. It is part of the landscape of how we think and feel as a society; it’s a mirror that lets us see not just ourselves individually but also collectively — it shows us that we aren’t alone. And when the mainstream is incapable, that role falls to the independent or alternative scenes (because if not, what are they even independent from, an alternative to?) The UK chart success of acts like Stormzy and the subversive rise of indie bands like Sleaford Mods shows the power music can carry when it connects to the politics of people’s daily lives.

Something like Black Lives Matter may seem like an American problem and not really a Japanese issue. This is debatable, but even if we take it as true, the issues it raises about society and how we include or exclude people based on their race, ethnicity, gender, sexuality or social background exist here and deserve to be untangled. Whether in big issues or personal interactions, the social conventions we follow without thinking about are the ones most in need of exploration by the arts. It’s not just that music has a social responsibility to consider these matters: it’s that music, regardless of what it’s about on the surface, can be richer and less prone to cliché, when it doesn’t take “the way things are” for granted.

The relationship between the arts and politics is important in another way too. There are numerous institutional barriers that limit radical thought and alternative culture’s ability to communicate their creativity or visions for the future simply because media landscapes have grown up around the same interests that those independent voices seek to challenge. Their power instead lies in the ability to gather together and amplify their voice — whether in concerts, meetings, social events or rallies — but COVID-19 disrupts that ability. China took advantage of the lockdown in Hong Kong to strike a savage blow against the protest movement there, while Donald Trump is openly using the postal service to restrict people’s ability to vote safely in the upcoming US election.

While the stakes are lower and far less violent, alternative music culture too, in its own way, is affected by these forces. The pandemic has closed down people’s ability to gather, the word of mouth networks and physical meeting spots that keep the culture alive when it is already locked out of wider discourse by media ownership, talent agency influence, Spotify algorithms. The matter of how to organise, disseminate information and amplify voices under the restrictions brought on by the pandemic should be a matter of mutual urgency to both artistic and political spheres.

On the most intimate level, an underlying political awareness can enrich something as personal as a love song, helping it slip free of clichés and touch listeners in fresh ways. On a broader social level, artists feeling a greater freedom to directly address the politics of our daily lives can help music connect to the anxieties, anger and concerns people already have, as well as help articulate more optimistic possibilities for the future. On a purely practical level, political activism and creative culture face many of the same obstacles and could could well look to each other for help building the tools to help overcome them. In that sense, perhaps asking if music can retain its relevance without politics is not strong enough. Perhaps instead, we now need to be asking, “Can music even exist if it is not political?”

Blu & Exile - ele-king

 90年代から脈々と続いているLAのアンダーグラウンド・ヒップホップ・シーンのなかで、そのDNAをいまも強く引き継いでいるアーティストのひとつがこのヒップホップ・デュオ、Blu & Exile だと個人的には思っている。西海岸特有のドライな気候や人種が入り混じった街の空気感であったり、芸術面で進歩的なコミュニティがあるすぐ隣にギャング・カルチャーが根強く存在していたりと、そういったLAならではの土地の事情が、リリック的にもサウンド的にもLAのヒップホップ・シーンを形作ってきた。そこから生まれた、Project Blowed の中心的存在であった Freestyle Fellowship や、あるいはワールドワイドな人気も得た Jurassic 5 が築いたレガシーは、のちに Low End Theory などにも継承され、さらに間接的にではあるが、Kendrick LamarAnderson .Paak といったいま現在のトップ・アーティスト達にも間違いなく影響を与えている。そして、いまでもどっぷりとアンダーグラウンドに根を張って活動を続けている Blu & Exile による、通算3枚目となる本作『Miles: From an Interlude Called Life』こそ、その伝統を最も色濃く残す最上のLAヒップホップ・アルバムだと強く主張したい。

 前作『Give Me My Flowers While I Can Still Smell Them』から約8年という期間に、様々なプロデューサーと組んで1年に1、2枚のペースでアルバムを発表してきた Blu と、クルーかつレーベルでもある〈Dirty Science〉を運営しながら、自らもメンバーである Dag Savage としてのアルバムや、〈Dirty Science〉のメンバーである Choosey のソロなど、プロデューサーとして数々の作品を生み出してきた Exile。一方で多くのファンが Blu & Exile 名義での作品を切望するなか、初期の未発表曲を集めたアルバム『In The Beginning: Before The Heavens』を経て、ようやく昨年、先行シングル「True & Livin’」をリリースし、今年、ついに発表された本作はなんと20曲収録、トータル1時間半超というボリュームで、さすがに筆者も驚いた。実は40曲作ったなかから絞った上での20曲ということであるが、この半分のボリュームでアルバムがリリースされるのが当たり前となっているいま、いい意味での彼らの頑固さが貫き通されているというは微笑ましくもあり、また嬉しくもある。

 “Miles Davis” という曲が収録されていることからも分かるように、本作のタイトルは誰もが知る(Blu の祖父が好きだったという)ジャズ界の巨匠と、同時に同名のファースト・ネームを持つ、Blu の息子にも捧げられているという。加えて、“Miles Away” という曲では距離の単位である「マイル」にもかけられており、これまで決して平坦ではなかった彼らの通ってきたキャリアの道筋も表わす。つまり Blu のパーソナルなストーリーから、LAのヒップホップ・シーンのなかで戦ってきた Blu & Exile の活動そのもの、さらにジャズなども含めた豊かなブラック・ミュージックのヒストリーや、BLMムーヴメントとも連動するような人種的な事柄や黒人が作り出してきたカルチャーなども交えて、Blu は全20曲を組み立てている。そして、サウンド面に関して言えば、MPCマスターとしても知られる Exile のサンプリング・オリエンテッドなトラックと Blu のラップとの相性の良さはやはり格別だ。前述したように、様々なプロデューサーと組んで作品をリリースしてきた Blu であるが、Exile ほど Blu のラップの声質やフロー、さらに感情的な部分とも波長がピッタリ合うプロデューサーは他にいない。

 1曲目の “Blue” では、「青」という色をテーマに Blu ならではのリリシストぶりが発揮され、続く “When The Gods Meet” では人種問題なども交えながら、ソウルフルなサンプリングが散りばめられた実に美しいトラックが全てを優しく包み込む。そして、トラックの素晴らしさで言えば、ピアノのメロディが最高にハマっている “Miles Davis” は間違いないく前半の一つのピークであろう。音楽およびヒップホップそのものをテーマにした “Music Is My Everything” から “Bright As Stars” への流れは Choosey、Jimetta Rose、Aceyalone (Freestyle Fellowship)、Iman Omari といった彼らとも繋がりの深いゲスト・アーティストとの絡みも大きな聞きどころであるし、逆に意外な組み合わせとも言える、イギリス在住のレゲエ・アーティスト、Gappy Ranks をフィーチャした “Troubled Water” でのストロングなスタイルもストレートに格好良い。アルバム中盤のピークである、9分以上にわたる “Roots Of Blue” では、アフリカン・ビートに乗せて、人類の成り立ちから偉大な黒人指導者、様々なミュージシャンの名前を次々と連呼し、タイトルの通り Blu 自身のルーツが紐解かれる。この流れは、再び登場の Gappy Ranks に加えて、盟友である Aloe Blacc が参加した “African Dream” にも繋がっていくが、さらに対とも言えるタイトルの “The American Dream” では、Miguel をゲストに迎えて、ポジティヴなマインドでひたすら自らの夢を語ったりと、曲によってのテンションのアップダウンもまた心地良い。ラストを飾る “The End” では、Dag Savage として Exile もラップを披露し、ハードなマイクリレーでアルバムを締めくくる。この曲のなかで Blu の「I walked to Japan」というラインにニヤリとさせられたが、このアルバムを提げて、いつかまた彼らが日本でライヴをする日が来ることを強く願いたい。

interview with Phew - ele-king

 Phewがアーカイヴ・レーベルをあまり評価していないことは、驚くにはあたらない。関西のパンク・グループだったアーント・サリーの解散後、これまで日本で出されたなかで(ついでに言うなら、それ以外のどこもすべてひっくるめたなかで)もっとも際立ったソロ・デビュー・アルバムをリリースしてからの40年、彼女には、過去の栄光を利用するという選択肢もあったはずだ。が、そのかわりにPhewは、ここ数年間、キャリアのなかでいちばん強力な音楽を制作している。それも2010年代にエレクトロニック・ミュージシャンとして注目に値する再生を遂げたあと、続けざまにだ。

 2015年に『ニュー・ワールド』をリリースしたあと、Phewが作りあげてきたのは、完全に異彩を放つもので、ドローン・シンセサイザーやスケルタルなリズムや不気味なヴォーカル・シンセが押しよせるサウンドだった。好評だった2枚の海外リリース『Light Sleep』や『Voice Hardcore』に加えて、彼女は大規模な海外ツアーをおこない、パンクの同輩であるザ・レインコーツのアナ・ダ・シルヴァとのデュオも試みている。

 Phewの最新のアルバム『Vertigo KO』〈Disciples〉には未発表音源と2017年から2019年にレコーディングされた新曲が収録されている。ライナー・ノーツでPhewが「無意識の音のスケッチ」と言い表しているこのアルバムは、私たちが生きている不安な時代において、力強く響き渡っているのだ。

実はコロナは関係なくて。ここ5年くらい、日本だけじゃなくてツアー先の各地で格差が広がっているのを目にし、本当に生き辛い世界だと、思っていました。だから、「なんてひどい世界」だと、コロナ前から思っています。

まず、このコロナ禍で、どのように毎日を過ごしていらっしゃいますか。

Phew:3月に全部のライヴの予定がキャンセルになってしまって、自分のペースが壊れてしまい、戸惑いもあったし、これからどうしようかと、まず思いました。非常事態宣言期間中はそのような感じでした。でも、そのペースにも慣れてきて。私はもともと家に居るのが好きなんですよ。本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たり。だから、外に出られないというのは全然苦ではなくて、いまはそのペースにも慣れてきたところです。ただ、これまで通り、生活して音楽を作る日常を繰り返すということに、意識的になりました。寝て、起きて、買い物に行って、食べて、みたいなことって以前はすごく退屈だったけど、それを意識的に繰り返しています。ライヴはまだできない状態ではあるけど、できるような状況になれば、またライヴもはじめると思います。

このアルバムが発表されたときもっとも印象に残ったのは、隠されたメッセージの「なんてひどい世界、でも生き残ろう」という言葉でした。素晴らしい言葉だと感じました。

Phew:ふふふ(笑)。実はコロナは関係なくて。ここ5年くらい、日本だけじゃなくてツアー先の各地で格差が広がっているのを目にし、本当に生き辛い世界だと、思っていました。だから、「なんてひどい世界」だと、コロナ前から思っています。

最近作っている音楽、とくに5年前から作っている音楽はすごく独りぼっちで作られたイメージでした。世界から離れたところで作っているような。家に居て、家で音楽を作ることが変わってないけど、このコロナ禍が作る音楽に影響を受けているような感覚はありますか?

Phew:それは、後になってわかることだと思います。いまは本当に、日常を繰り返すこと。それを自分に決めています。むしろ、いま起こっていること、大変なことがあちこちで起こっていますけど、それにいまは反応できないですね。だけど、そこから敢えて目を背けているわけではなくて、見えているけど、敢えてネットとか時代の大きな流れに乗らない。そこに向かっていかない。時代へのアンチテーゼというか。でも、反時代って、言い換えれば、こんな現実はなかったらいいのにということですよね。いままであったこともなかったことにしたい、一方で、なかったことにはできないということを、私自身よく理解しているつもりです。いまの現実の状況は自分が集められる情報を見て、少なくとも理解しようという姿勢ではいます。その両方の感覚があるなかで、日常を繰り返して、そこで生まれてくるアイロニー、諧謔性というか、その感覚がいま、自分のなかで音楽を作るということに対するスタンスですね。

たしかに。ロンドンの〈Cafe OTO〉のTakuRokuというレーベルで、Phewさんの書いた説明と似ているところがありました。ご自身の音楽を通して、未来を描くというか。

Phew:別に音楽だけではなくて、「未来」というものはいま考えていることだから。「過去」もいま考えていることであるし。だから、決して「いま」は何もなくて、過去と未来しかないっていう言い方。「いま」っていうものはすごく空虚。だから、いま起こっていることをいま伝えることはできない。

そうですね。

Phew:だから、たいへんな状況ではありますけど、先のことって……考えても仕方ないとまでは言わないですけど、私は「未来に向かって」というような考え方はできないんですよ。せいぜい、1~2週間から2~3日という単位で具体的な予定を立てて、みたいなことくらいですね。

私、実は今日久ぶりに『ニュー・ワールド』を聴いたんです。最初に聴いたときはそのアルバムはのちの活動の入口のように感じましたが、久しぶりに聴くとむしろPhewさんが昔やっていたことに繋がっていると感じて。ある意味、『ニュー・ワールド』でいったん終止符がついたという風に感じました。いかがでしょうか?

Phew:どうなんだろう……。実は私、自分の昔の作品は聴かないんですよ。でもね、人の昔の曲を聴いていて、聴くたびに印象が変わったり、発見があるという経験はありますよね。とくに、世代的にもアンチ・ヒッピーで、私が夢中で音楽を聴きはじめてやりはじめた頃って、60年代の音楽は避けていたというか、なんてもったいないことしたんだろうと感じることはありますよね(笑)。

わかります(笑)。

Phew:ほんとに。実際に、グレイトフル・デッドも活動していたけど、耳を閉じて逃げていたというか(笑)。若いときに聴いて「これは、ヒッピーだ!」と決めつけることって間違っていましたね(笑)。でも、若いときに好きになって、いまはさらに好きだと感じるものもありますよね。クラフトワークとかはまさにそうです。ヒッピーは嫌だったけど、カンとかクラフトワークは別だと考えていました。

アンチ・ヒッピーというのはどこかで影響をうけて、そう感じるようになったんですか?

Phew:10代の頃にその光景を実際に目撃していたんですよ。60年代の戦いに負けてその後どうなったかも含めて。70年の半ばくらいのロック・ミュージックって、本当に何もなかったんです。私が中学生のとき、デヴィッド・ボウイを自分から聴きはじめたのは『アラジン・セイン』くらいからですけど、すごくギラギラでね、あとT・レックスも好きだったけど、これもぎらぎらで空っぽな感じ。日本だけかもしれないけど当時、人気があったバッド・カンパニーとかディープ・パープルとかも嫌だったんです。服装や、音楽も嫌だし、女の子向けのミーハー心をくすぐるような記事や雑誌も嫌でした。そういうものが中学生のときから好きではなかったんです。で、バッド・カンパニーのファースト・アルバムを姉が持っていて、中袋に同じレコード会社〈アイランド・レコード〉の他のアーティストのジャケット写真が載っていたんです。そこに、スパークスがあって、『キモノ・マイ・ハウス』の写真を見て、ジャケ買いしました。はじめは、すごく変な人たちがいるなという感覚だったんですが、彼らはデヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』とも違うし、成功してぎらぎらになったマーク・ボランとも雰囲気が違う。聴いてみて、即、大好きになりました。ハード・ロックのディープ・パープルとかが主流ではあったけど、片隅にあった音楽を自分で探して聴くようになったのは、その辺りからですね。でも、スパークスも〈東芝EMI〉から日本盤が出ていたんですよ。それで近くのレコード屋で買うことができたんです。そこから、次第にニューヨークのパンクにも繋がっていきましたし。こんな昔話しちゃった(笑)。

いや、全然いいですよ! 『Vertigo KO』のライナーのなかで、「無意識的に音楽を作る」という言葉をよくおっしゃっていますが、音楽を作るときは意識的のときと無意識的のときの違いはどのような点にあるのでしょうか?

Phew:例えば、人から依頼があって、頼まれて仕事として、「こういうものを作って下さい」という仕事は、すごく意識的に作ります。制約もたくさんありますし。自分のソロ・アルバムのときは自由に作れるので、無意識的というか何も決めずにまず音を出して、作業を進めていきます。でも、100%無意識的というのはあり得ないことでもあって。アルバムにするためには、曲を編集したりしますから。演奏自体は半ば無意識的で、出した音によって次の音が決まってくるというやり方で音楽を作ることが多いんですけど。でも、それをパッケージにするのは極めて意識的な作業です。

でも、若いときに好きになって、いまはさらに好きだと感じるものもありますよね。クラフトワークとかはまさにそうです。ヒッピーは嫌だったけど、カンとかクラフトワークは別だと考えていました。

今作の中でレインコーツのカヴァー(2曲目“The Void”)はわりと意識的に作っていたようにも感じました。

Phew:そうです。あれはラジオ局からの依頼があって、「1979年にリリースされた曲のなかから、カヴァーしていただけませんか」という制約がありました。そのときはちょうどアナとのアルバムができたばかりの頃で、レインコーツも好きだったので、なかでもとりわけ好きだった、“THE VOID”を選びました。それをカヴァーするときはいろいろと考えました。例えば、ポストパンクやニューウェイヴの文脈でレインコーツは語られていますが、ひとつの文脈やムーヴメントとして語られることに、うんざりしているんです。私も当事者のひとりではあるけど。そう語られること、その文脈からどのように逃げ出せるか、ということを考えてカヴァー曲を録音しました。

そのカヴァーはアンナさんも聴きましたか?

Phew:はい。もちろん、すぐに送りました。

反応はどうでした?

Phew:面白がってくれました。

アナさんの新しいアルバムをリリースして、もう1枚のアルバムも作っているという話を伺いましたが……。

Phew:アルバムというか、いま、進行中のロックダウン中に作った音楽をアップするというプロジェクトがあり、そこで新作を発表すると思います。

アルバムを制作して、それと並行して海外のツアーもおこなうなかで、アナさんとのコラボレーションはどのように進化していますか?

Phew:去年はアナとツアーもしましたが、どちらかというと合間に自分のソロ・アルバムをずっと作っていました。ツアーが多かったので録音する時間をあまり作れませんでした。で、今年になってから、アナとまたコラボレーションしましょうかという話になり、6月に〈Bandcamp〉で1曲だけアップしました(“ahhh”)。本来ならば、ふたりで6月にツアーする予定だったんです。でも中止になってしまって。いまのところ、前回同様に手紙を交換するような形で制作しています。ただ、1枚のアルバムにまとめられるかどうかはちょっとわからない。それがコロナ禍以降の変化かもしれないです。
 先ほどは「未来に目標を設定にしない」と言いましたけど、アルバムを作る目標は常にあって、去年まではそれに向けて曲を作っていました。でも、今年は物流もストップしてイギリスやアメリカから荷物が届くのにすごく時間がかかるし、日本からも船便しか送れなかったり。こういった具体的な状況が積み重なって、アルバムをリリースすることを考えるのが難しくなっています。

アルバムというと、Phewさんが日本でリリースしている作品と海外でリリースしている作品がすこし解離しているように感じています。日本では『ニュー・ワールド』をリリースされていましたが、海外ではそれはほとんど知られてなかった。『Light Sleep』は編集盤で、『Voice Hardcore』は海外でも発表されていましたが日本盤とは違うし、今作の『Vertigo KO』も編集盤的だと思いました。

Phew:今作の『Vertigo KO』は、〈Disciples〉というレーベルの方がアナとのライヴを観に来てくれて、手書きのメモをもらいました。私の最近の作品をよく聴いてくれていたみたいで、音源をリリースしたいということが書かれていました。で、その次にロンドンで実際に行ったときに、レーベルの方に会って、話が進んでいきました。そのレーベルのコンセプトは、新譜ではなく未発表音源を編集してリリースするというもので、最初は、ちょっと警戒しました。未発表音源のリリースってあまり良い印象がなかったんです。80年代のレアでもないですけど、そのようなものを集めて出すというビジネスをあまり良く思っていなかったんです。でも、〈Disciples〉は昔のモノじゃなくて、ここ4~5年の音源、私がソロになってからの音源にすごく興味を持ってくれていたんです。「あ、これはなんか珍しいな」と思いましたね。いままでだったら、80年代のファースト・アルバムや、『アーント・サリー』、坂本龍一さんがプロデュースした最初のシングル(「終曲(フィナーレ)/うらはら」)だったりのお話が多かったんですけど、〈Disciples〉は違ったので、これは新しいなと思って(笑)。
 それで、日本に帰ってから、未発表音源を送って、向こうが選曲してきたんですよ。その選曲が新鮮で、1枚のアルバムにするために、新しい曲を2曲足しました。だから、『Vertigo KO』はレーベルとの共同作業ですね。私は自分の昔の曲を聴かないんですけど、でも聴かざるをえない状況になって、自分の曲をリミックスしているような感覚でした。それはすごく面白い体験にもなったし、レーベルの方とのやり取りで出てきたアイディアもたくさんあったし、タイトルとかも含めてね。

この経験後、また同じようなプロセスで制作したいと思われましたか? 今回だけですか?

Phew:今回のプロセスは楽しかったし、また機会があれば是非やってみたいですが、ずっと録音しているので、次は、この1年で録音したものをまとめてアルバムとしてリリースしたいです。

それは、今作の最後に出る “Hearts and Flowers”みたいな感じになりますか?

Phew:その続きのような形で1枚のアルバムを作るだけの曲はできているんですよ。でも、さっきも言ったように、いまは1枚のアナログ盤やCDなりを作って販売するは難しいし、思案しているところです。でも、自主制作でもやるつもりですけどね。来年になりますけど。

〈Disciples〉は昔のモノじゃなくて、ここ4~5年の音源、私がソロになってからの音源にすごく興味を持ってくれていたんです。「あ、これはなんか珍しいな」と思いましたね。

『Voice Hardcore』は自主レーベルでリリースされていましたが、それは意図的でしたか?

Phew:どうせどこも出してくれないだろうと自分で決めてしまったのもあったかもしれない(笑)。レーベルを探そうともしなかったし。ちょうど、ヨーロッパ・ツアーに行く前になんとか形にしたいという想いがあって、自分ひとりでやるとその辺は早いじゃないですか。どこかからリリースすると、時間が最低でも2ヶ月、3ヶ月かかるでしょ。でも、自分やると1ヶ月くらい。でも、『Voice Hardcore』を出してくれるようなレーベル日本にあったのかな(笑)。

『Voice Hardcore』の評価は海外では良かったと思いますよ。

Phew:日本でライヴをするとしても1000~2000人とかのキャパではやらないじゃないですか。小さなスペースで、お客さんの顔が見える所で日本ではライヴをやっていますけど、海外でも一緒ですね。ただ、世界中に聴いてくれる人が散らばっていることがわかって、ホッとはしました。だから、一緒かなとは思いますね(笑)。例えば、ロンドンやニューヨークで『Voice Hardcore』を評判が高かったといっても1000人や2000人のお客さんの前で演奏するわけではないし。規模としては一緒だと思いますよ。ただ、ニューヨークとかは実験音楽や即興音楽をサポートする団体や機関の選択肢が日本よりも多いという違いはありますけどね。

日本でも80年代とかは、大きな会社が実験音楽や即興音楽の文化を支援していたという印象がありますが、もしその時代だったらPhewさんが世界と交わっていなかったかもしれませんよね。

Phew:80年代は日本でいろいろなものが観れたんですよ。音楽だけではなく、演劇やダンス、現代美術、世界中のものを観るチャンスがたくさんあったんですよね。とくに東京は。お金があったから人は来たけど、それをいまに繋げられていない、そこから何も残っていないと感じています。私はその時代に生きてきたわけだけど、まさに80年代は反時代というスタンスで活動していました。その時代を見てはいたけど、渦中にはいなかった。

この話と繋がるかわかりませんが、コロナ禍になって、ライヴハウスや映画館がすごく苦しんでいますよね。実際、Phewさんも4月から5月にその件でツイートされていました。この状況のなかでライヴハウスに何か応援できることはあると思いますか?

Phew:自分にできる範囲で、ドネーションしたりグッズを買ったり、そうするしかないですよね。うーん……。休業補償は手厚くしなければならないと思います。ただ、コロナ禍で無傷な業種はほとんどなくて、ほぼ全業種じゃないですか。だから、ほそぼそと自分のできることをするしかないですね。俯瞰して語れないし、渦中でこれからどうなるのか見えない。だからこそ、私は毎日の繰り返しってすごく貴重なことに思えています。GDPが27%下落というニュースを昨日読みましたが、EUやアメリカはもっとですよね。先のことは全くわからないし、悪いことしか考えられない(笑)。短いところで、日常を続けていくしかないですよ。その日常がちょっとずつ変わっていくこともあるかもしれませんけど。
 ライヴハウスに関しては……心苦しいし、辛いですよね。自分の音楽を発表する場所としてだけではなくて、人がフランクに集まれる場所がないのは、辛いですよね。私は何よりもそういったクラブやライヴハウスの雰囲気が好きだったんです。オールナイトのイベントで3時とか4時になったらみんな床で寝ているじゃないですか(笑)。あの無防備さというか、みんな野良猫みたいで(笑)。クラブ以外ではありえない。音楽好きな人が集える安全な場所が危機に瀕しているのは辛いし、なくしてはいけないと思います。

インタヴューは少なくともインタヴュアーの顔が見えて、質問があって、一生懸命答えています。でも、私は顔の見えない人に向かっては何も言うつもりはないです(笑)

『Voice Hardcore』に入っていた4曲目の“ナイス・ウェザー”という曲で、天気について触れられていて、今作でも天気について触れられていましたよね。私はイギリス人でイギリスでも日常会話のなかで天気の話題はよく出てくるんです。日本では天気について触れるとき、どのようなメタファーがあるんですが?

Phew:もう、天気の話しかできないんじゃないかというのはあります。ふふふ(笑)。自由に発言できるのはごく限られた場所しかなくて、ちょっとしたことでも言葉尻だけ取られて、変な風に解釈されるし。天気だったら大丈夫だろうと(笑)。季節の移り変わりについて語ることは、誰も文句をつけられないでしょう。イギリスの場合だとわりと早い段階から多様な人たちが共存してきた国ですし、文化の違う人たちが一緒に住んでいて、一番安全な話題が天気だと解釈されているということはありませんか?

イギリスではすぐ政治の話をする人が多くて、その点で日本との違いがありますが、一番安全な話題として天気があることは共通していると思います。

Phew:政治の話とかは顔が見える人とはできますけど、公に向かって話したくはないと思います。

Phewさんは単刀直入な方だと思っていました。それはインタヴューだけでしたか。

Phew:インタヴューは少なくともインタヴュアーの顔が見えて、質問があって、一生懸命答えています。でも、私は顔の見えない人に向かっては何も言うつもりはないです(笑)。それに、顔の見えない人に向かって発せられたメッセージは政治家であれ、アーティストであれ、その言葉は一切聞くつもりはないですね(笑)。聞かないです。

良いポリシーだと思います(笑)。では、ここで終わりにしましょうか。

Phew:はい。またどこかで直接お会いできたらと思います。ありがとうございます。

(8月19日、skypeにて)

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Interview/translation: James Hadfield

It comes as no surprise to discover that Phew doesn’t think much of archival labels. Four decades after she emerged with Osaka punk group Aunt Sally, then released one of the most striking solo debuts ever to come out of Japan (or anywhere else, for that matter), she could easily have chosen to cash in on past glories. Instead, she’s spent the past few years making some of the most potent music of her career, following her remarkable rebirth as a solo electronic musician in the 2010s. Since the release of “A New World” in 2015, Phew has created an utterly distinctive sound, defined by synthesizer drones, skeletal rhythms and eerie vocal swarms. In addition to two well-received international releases, “Light Sleep” and “Voice Hardcore,” she’s toured extensively overseas, including in a duo with fellow punk survivor Ana da Silva, of The Raincoats. Phew’s latest collection, “Vertigo KO” (Disciples), compiles unreleased material and a couple of new tracks, recorded between 2017 and 2019. In the liner notes, she describes it as an “unconscious sound sketch,” and it resonates powerfully with the uneasy times we’re living in.

JH:How have you been spending your time during during the pandemic?

PHEW:All my live dates were cancelled in March, which knocked me off my stride. While the state of emergency was in effect in Japan, there were times when I felt confused, and wasn’t sure what to do with myself. I’m already accustomed to living like this, though. I like being at home―reading books, listening to music, watching films―so not being able to go out hasn’t been so hard. But it’s made me really conscious of how I was spending my everyday life. All those daily routines that used to bore me, like sleeping, getting dressed, shopping and eating―I’m doing them more intentionally now. I’d like to start playing gigs again too, once that becomes possible, though we’re not quite there yet.

JH:When “Vertigo KO” was announced, I was really struck by what you described as the album’s hidden message: “What a terrible world we live in, but let’s survive.” It felt like a wonderful way of putting it.

PHEW:(Laughs) In fact, that doesn’t have anything to do with the coronavirus. For the past five years or so, I’ve seen for myself how disparities are widening―not just in Japan, but also in places I’ve visited on tour―and this left me feeling that it’s a really hard world to live in. I was already thinking “what a terrible world” before the coronavirus came along.

JH:I feel like your music―especially your recent work―evokes a strong sense of solitude, like it’s being created in isolation from the world. You were already making music at home before the pandemic, but are you aware of it influencing your work in other ways?

PHEW:I think I’ll realise that further down the line. I’m just taking one day at a time―that’s what I’ve decided to do. There are lots of awful things happening at the moment, but I can’t respond to them right away. That’s not to say that I’m averting my eyes from all of that: I know what’s going on in the world, I’m just not getting too caught up in the current moment. It’s like (I’m creating) an antithesis to the era. Then again, rejecting the present is like saying you wish reality was different, and I appreciate it’s impossible to change what’s already happened. So I take a position of trying to understand at least something about the current state of the world, based on information I can gather myself. I’m maintaining these two forms of awareness as I go about my daily life, and the irony and humour that comes from that is reflected in the music I make. (Laughs) Did you get all that?

JH:I think perhaps this ties in with what you said about your release for Cafe OTO’s TakuRoku label (“Can you keep it down, please?”)―about how you’re creating your own future through your music?

PHEW:That’s because I’m thinking about the future at the moment, not just in relation to music. I think about the past, too. There’s no “now”: just the past and the future. What we call “now” is really a void. That’s why I can’t convey now what’s happening now.

JH:Right…

PHEW:So even though things are bad… I don’t want to say you can’t help what happens, but I can’t think too much about the future. I’m only able to make definite plans a few weeks ahead, or even only a few days.

JH:I went back to “A New World” this morning, for the first time in a while. I’d thought of that album as a gateway to the music you’ve created since, but revisiting it now, I felt it had a stronger connection with your past. In some senses, it's like it was marking the end of something, rather than the beginning. Would you agree with that?

PHEW:I wonder about that… I don’t listen to my old releases, but I’ve had times when my impressions of other people’s music have changed, and I’ve discovered something new. I’m from the “anti hippy” generation, so when I first started getting obsessed about music, I particularly avoided stuff from the 1960s. I’ve come to realize that was a real waste. (Laughs)

JH:I know what you mean!

PHEW:Seriously! The Grateful Dead were active at the time, but I’d closed my ears to it. When I was young, I jumped to the conclusion that it was all hippy music, which was a mistake. But there are things I liked when I was younger that I like even more now. That’s definitely true of Kraftwerk. I hated hippies, but Can and Kraftwerk were different.

JH:Was that anti-hippy stance something you absorbed from others, or did you come upon it by yourself?

PHEW:I’d seen everything with my own eyes as a teenager: how the battles of the 1960s ended in defeat. Rock music during the first half of the 1970s didn’t do anything for me. David Bowie dazzled me when I first heard him at junior high; I think it was around “Aladdin Sane.” I got into T-Rex, which was also dazzling, but totally empty. Maybe this was just a Japan thing, but Bad Company and Deep Purple were really popular here at the time, and I hated them! I hated the clothes, the music, the way they were marketed to girls with these titillating articles in the music press. I haven’t liked that since I was at junior high. My older sister had a copy of Bad Company’s first album, on Island Records, and there was an insert introducing the label’s other artists. There was a photo of Sparks’ “Kimono My House,” and I bought it based on the album cover. My first impression was that they were real oddballs: they weren’t like Bowie, they had a different vibe from Bolan’s glittery thing. When I listened to them, it clicked immediately. The mainstream at the time was hard rock like Deep Purple, but I started searching out music in the corners. Sparks were released in Japan, too. I was able to find them at my local record shop, and then that tied in with the New York punk scene. Sorry, I’m just rambling on about the past!

JH:No, it’s fine! In the liner notes for “Vertigo KO,” you talk at a few points about making music unconsciously, or without thinking. Can you tell me a bit about that distinction?

PHEW:For instance, if someone asks me to make something, it will be a very conscious process. There are a lot of constraints, too. When I’m making a solo album, I can work freely, so it becomes more unconscious, making sounds without deciding anything in advance. But it’s impossible to make something completely without conscious input, because I’ll still be editing tracks in order to make an album. The performance itself is partly unconscious; a lot of times, I’ll let the sound dictate what comes next. But when I have to turn that into a finished package, obviously that becomes a conscious act of creation.

JH:I take it that the Raincoats cover on the album (“The Void”) is an example of a consciously created track?

PHEW:That’s right. It was a request from a radio show, which asked me to cover a song that was released in 1979. I’d just done the album with Ana, and I liked The Raincoats, so I picked one of their songs which I was particularly of fond of, “The Void.” I put a lot of thought into how I’d cover it. For instance, The Raincoats are talked about in terms of post-punk and new wave, but I find it so boring when things are always framed in the same way―and this has happened with me as well. So when I covered the song, I was looking for a way to liberate it from that particular context.

JH:Has Ana heard it?

PHEW:Yes, I sent it to her right away.

JH:What did she think?

PHEW:She appreciated it.

JH:You’ve already released one album with Ana, and I saw that you had another one in the works…

PHEW:I’m not sure you’d call it an album. We’re doing a project at the moment where we’re uploading tracks created during lockdown, and I think we’ll compile those into a release.

JH:How has the collaboration evolved in the course of working and touring together?

PHEW:I toured with Ana last year, but my main focus was working on my solo album. I didn’t have much time for recording, as I was touring so much. We started talking about doing another collaboration earlier this year, and we uploaded a track to Bandcamp in June (“ahhh”). We’d originally planned to go on tour in Europe during June, but that got cancelled. At the moment, we’re sending files back and forth to each other, like we’re exchanging letters. I can’t really say if it will lead to a standalone album. Maybe that’s one thing that’s changed since the start of the pandemic. I was talking earlier about not setting goals for the future, but until last year, it was normal for me to work towards making an album, and I’d create music with that in mind. But physical distribution has ground to a halt this year: it takes forever for deliveries to arrive from the UK and US, and you can only send things via surface mail from Japan. Given the facts of the situation, it feels hard to think about releasing an album right now.

JH:Speaking of albums: there are some variations between the releases you’ve put out in Japan and internationally. “A New World” came out here, but not many people overseas seem to have heard of it. “Light Sleep” was a compilation, the international edition of “Voice Hardcore” is different from the Japanese one, and “Vertigo KO” is also kind of a compilation…

PHEW:Right, right. “Vertigo KO” started when the guy from Disciples came to watch Ana and me play, and slipped me a hand-written note. He’d been listening a lot to my recent work, and said he wanted to release some of my recordings. The next time I went to London, we met up and talked about it. The label’s concept is to release collections of unreleased recordings, rather than new material, so I initially had some reservations. I didn’t have a good impression of archival releases. Even if it’s not rarities from the 1980s (laughs), I don’t think much of releasing that kind of stuff as a business. But Disciples weren’t talking about music from a long time ago: they were interested in the solo material I’d recorded over the past 4 or 5 years, which was unusual. Up until then, I’d had lots of people ask about my first album (“Phew”), Aunt Sally, or my debut single that Ryuichi Sakamoto produced (“Finale”), but Disciples were different―which was a change! When I got back to Japan, I sent them some unreleased recordings and they decided the track selection. The tracks they picked felt fresh, and since it was going to be an album, I threw in a couple of new songs. So it’s really a collaboration with the label. Like I said earlier, I don’t listen to my old music, but in this case it couldn’t be helped, and it turned out to be a really interesting experience: it was like remixing my past. A lot of ideas came out during my exchanges with the label, the album title included.

JH:So do you think you’d like to do the same sort of thing again, or was it a one-off?

PHEW:I enjoyed the process this time, and I’d happily do it again given the chance, but what I really want to do now is release an album of the new material I’ve recorded over the past year.

JH:Is that going to be in the vein of “Hearts and Flowers” (the closing track on “Vertigo KO,” which Phew has described as the genesis for her next album), or something different?

PHEW:I have an album’s worth of material that’s like a continuation of that. But like I was saying earlier, it’s hard to make and sell records and CDs at the moment, so I’m still weighing up my options. I’m planning to self-release something, but that won’t be until next year.

JH:Out of interest, was your decision to self-release “Voice Hardcore” in Japan made out of necessity or choice?

PHEW:I think I’d probably come to the conclusion that nobody was going to release it for me! I didn’t even try looking for a label. I wanted to put something together before I went on tour in Europe, and figured it would be quicker to release it myself. When you release something through a label, it’s going to take a minimum of two or three months, but I could cut that down to a month or so if I did it myself. I’m not sure there were any labels in Japan that would have released “Voice Hardcore.” (Laughs)

JH:I wonder about that. It seemed to get a really good response overseas.

PHEW:When I do shows in Japan, it’s not like I’m playing at 1,000 or 2,000 capacity venues, is it? I’m doing gigs at places that are small enough for me to see the audience’s faces, and it’s the same in other countries. It was a relief to realise that there were people who’d listen to my music scattered all over the world. So it’s not a question of Japan being better or worse: I think it’s the same everywhere! Even if “Voice Hardcore” got a good reception in London or New York, I’m not going to be performing in front of 1,000 or 2,000 people over there. I think the scale is the same. The main difference is that in places like New York, there are more funding options from groups and organizations that support experimental and improvised music than in Japan.

JH:I have the impression that there was a lot more corporate sponsorship available in the 1980s in Japan, but I guess you weren’t associating much with that world at the time?

PHEW:You could see all kinds of stuff in Japan in the 1980s. There were lots of opportunities to experience culture from around the world―not just music, but also theatre, dance and contemporary art, especially in Tokyo. During the Bubble era, there was the money to bring people over, but I don’t feel like it left any kind of legacy: there’s no connection with what’s happening now. I lived through that whole period, but during the 1980s I was living in opposition to the era. I could see what was going on, but I kept my distance.

JH:I’m not sure if this is related, but venues and cinemas have been really struggling during the coronavirus pandemic. You were posting about this on Twitter back in April and May, but do you think there’s more that should be done to support them?

PHEW:I’m not sure there’s much I can do personally, besides making donations and buying merchandise. I think there has to be more financial assistance, but there are hardly any industries that haven’t been affected by the pandemic―it’s basically hit everyone, hasn’t it? We all just have to do what we can to scrape by. It’s hard to take a broader view: we’re so caught up in the midst of this that we can’t see what will come next. That’s why I’m treasuring daily life so much. I saw yesterday that Japan’s GDP had dropped 27%, and it’s even worse in the EU and US. I have no idea what’s going to happen next… and all the possibilities I can think of are bad! (Laughs) For now, all I can do is carry on with my daily life, although that might gradually change over time. With live venues, my heart goes out to them―it’s really tough. They aren’t just places for showcasing your own music: it’s hard not having somewhere for people to gather informally. More than anything, I’ve always liked the atmosphere of clubs and live venues. When it’s an all-night event, by 3 or 4 in the morning, everyone’s sleeping on the floor, right? They’re so defenceless: everyone looks like stray cats! (Laughs) That wouldn’t happen anywhere else, except at a club. It’s painful seeing these safe spaces for music lovers in such a critical state, and we can’t let them disappear.

JH:Finally: this is a weird question, but my favourite track from “Voice Hardcore” is “Nice Weather,” which features pleasantries about the weather (“Nothing happened / The weather was nice”), and you return to the theme again on this album. I’m from the UK, and it’s a regular topic of conversation there too, but what do you think Japanese people are really talking about when they talk about the weather?

PHEW:It’s like we’re not able to talk about anything other than the weather! There are only limited opportunities for people to speak freely, and the smallest thing might be misunderstood or taken out of context. It’s safe to stick to the weather, or the changing seasons. (Laughs) Nobody’s going to take issue with that! With the UK, you’ve got quite a long history of people from different cultures living together, so perhaps the weather is the safest topic of conversation?

JH:I think there’s something to that. One difference with Japan is that people in the UK are more willing to talk about politics, but I’d agree that it’s safest to stick to the weather.

PHEW:I’m happy talking politics face to face, but I don’t want to make public pronouncements about it.

JH:I thought you were pretty direct about those things. Or is that just in interviews?

PHEW:With interviews, if I can at least see the person I’m talking to, then if they ask me about these things, I’ll give them a straight answer. But I don’t want to say anything to someone I can’t see. When people start addressing messages to an invisible audience, whether it’s politicians or artists, I tune them out. (Laughs) I won’t listen!

JH:I think that’s a good policy! Shall we wrap things up here?

PHEW:I hope we’re able to see each other in person next time! Thank you.

East Man - ele-king

 順序が逆になってしまったけれど、7月に入って聴いたアルバムで後半期のトップを飾ると思ったのがイースト・マンのセカンド・アルバムだった。1ヶ月以上経ってもそのインパクトは揺るがない。ザ・フォールの曲名からつけたというアルバム・タイトル「プロレタリアによるアートの脅威」は労働階級出身のマーク・E・スミスが独学であれだけの言語感覚を身につけたことに敬意を表したものらしい。日本と違って芸能界から労働階級がいなくなってしまったと言われるイギリスで(役者でいうとジャック・オコンネルが久しぶりに現れたワーキング・クラス・ヒーロー)、労働階級が文化的な表現で脅威になると宣言することはザ・フォールが活躍できた80年代とも違う意味を持つ。アントニー・ハートは自分が起用したMCたちの言葉によほど感銘を受け、自信を持ったのだろう。

 イースト・マンことアントニー・ハートについてはこれまで当サイトでは何度も触れられている。そのほとんどは米澤慎太郎のレヴューによるもので、編集部の原稿などと合わせてこれまでの経過を簡単にまとめると、アンソニー・J・ハートはまず2010年代にイマジナリー・フォースというインダストリアル・テイストを含んだドラムン・ベースのプロジェクトで10枚近いアルバムをリリース。それらはドローンやミュジーク・コンクレートとも親和性を持つようになり、彼のサウンドはどんどん抽象化していく。実験音楽の牙城とも言える〈アントラクト〉からリリースされた『Low Key Movements』(15)はその道に詳しいデンシノオトの耳に止まっている→https://www.ele-king.net/review/album/004805/

 しかし、パイレーツ・ラジオでDJを務めた経験が彼をストリート・サウンドへと引き戻したようで、現在までのところイマジナリー・フォース名義で最後となるアルバムがリリースされる前に、ベイシック・リズムという新たなプロジェクトがスタートし、彼の表現はベース・ミュージックやグライムをメインとするものに様変わりする。ここからは米澤慎太郎の独壇場である。米澤いわく「初期ジャングルの感覚を現代にアップデートし、140bpm に落とし込んだアルバム」だと→https://www.ele-king.net/review/album/005653/

 ベーシック・リズムとしていままでのところ計3枚のアルバムをリリースし、その3枚目からハートは〈プラネット・ミュー〉にレーベルを移している。そして、恐らくはインストゥルメンタル主体のベーシック・リズムと並行して複数のMCを大々的にフィーチャーしたイースト・マンも始動させる。デビューから9年目にして言葉を表現の核としたのである。ロンドンのあらゆるエリアから集まったMC陣もさることながら米澤が詳細に紹介している地下鉄のインタビュー“Drapsing”はとても興味深い。一読を→https://www.ele-king.net/review/album/006189/

 また、同アルバムのライナーノーツをポール・ギルロイが書いていると編集部が興奮気味に伝えるニュースも→https://www.ele-king.net/news/006029/

 イースト・マン名義のデビュー・アルバムはとても意義深いものだったし、MCをフィーチャーしたせいなのか、ベーシック・リズムまでははっきりとサウンドに残っていたインダストリアル・テイストが表面的にはほとんど消えていたことも僕は印象深かった。言葉をきっちりと届けたいという判断からだったのだろうか。ベーシック・リズムではいまひとつインパクトに欠けていたサウンドが確実に蘇ったことはたしかで、そのひとつはダンスホールの導入による効果だったと考えられる(“War”ではゴムを取り入れている)。ベーシック・リズムで音数を減らしていたことがMCと絡み合う上では大きな成果につながったということもあるだろう。ロンドンのイースト・エンドが再びライズしてきたのである(イースト・マンというのはそういう意味かなと?)。

 2作目となる『プロル・アート・スリート』はひと言でいえばMCたちとの絡み合いがさらに有機的となり、勢いが増しているということになるだろう。オープニングからアフリカン・ドラムにあっさり持っていかれる。サウンドはスッカスカ。確信を持って音数は減らされたまま。残酷で分断された都市を底辺から描いていくという視点はロンドンだけではなく、ブラジルのMCフェルナンド・ケップを“Ouroboros”で起用することで「インターナショナル」な現実として膨らませていく。途切れ途切れに入っているとしか思えないドラムはまるでMCの合いの手である。♩ウロボロス・ボラ・パラ・デ・オンダ プカ・エ・ボア・ノス・パサ・ナ・ロダ……って何を言ってるかまるでわかりません。「私は誰?」とシンプルに問いかけるのはフィメールMCのナイ・ナイ(♩ナイ・ナイ、フー・アム・アイ?と少年隊みたいに韻を踏んでいる)。ストリーマ、マイクロフォン・タイソン、イクリプス、ワッカイ……名のあるMCはリリカル・ストローリーことYGGぐらいしかいない。前作から引き続き参加しているのはダーコス・ストライフぐらいで、アントニー・ハートはいわば都市のエピソードをラップというフォーマットで取集している面もあるのではないだろうか。

 後半は少し勢いが落ち、“Machine Gun”ではクラウトロックみたいにただマシンガンみたいなサウンドを鳴らすだけ。ロンドンで起きているギャングの抗争はナイフの斬り合いがほとんどなので、これはさすがにリアリティがない。バイリ・ファンキ(ファベーラ・ファンク)が一時期、銃声をスネアの代わりに使うという流行りを見せたことがあったけれど、そのような痛々しさもなく、これだけはよくわからない(ポーティスヘッドの“Machine Gun”とかなり似ているし……)。ハードは自らの音楽をイマジナリー・フォースの頃から一貫して「ハイ・テック」と称していて、最後はすべてのキャリアをまとめたということなのか、“Hi Tek Theme”というタイトルが付けられていて、これが“Machine Gun”パート2のような曲になっている。う~む。最後の2曲だけ、ちょっとわからないのであった。

Bob Dylan - ele-king

 5分31秒間、僕は神を信じたことがある。といっても困ったときについ頼んでしまう「神さま」のことじゃない。ユダヤ教とキリスト教で等しく信じられているあの「神」だ。見た目は、ルネサンス期の絵画によれば、カリフラワーライスでダイエット中のサンタ・クロースって感じ。
 へんな話だけど、神はポップソングにのってやってきた。僕が11歳のときだ。
 ポップソングということは、中学校でのダンスタイムとか、ガソリンスタンドでのトイレ休憩中とかに、スピーカーから流れ出てきた神に出くわしてもおかしくなかったわけだけど、さすがは全知全能の神、きっちり礼拝堂シナゴーグで現れた。
 日曜学校でヘブライ語の授業を受けているときの出来事だった。
 僕たちは毎回、聖典トーラーの重苦しい物語を読まなくちゃならない。それで時々、司祭ラビは教室の雰囲気を盛り立てようとユダヤ系ロッカーの曲をかけてくれた。
 この日もラビが1本のカセットテープをラジカセに突っ込み、再生ボタンを押した。流れてきたのは、ボブ・ディランの“ミスター・タンブリン・マン”。
 アコギのシンプルなストロークではじまった。DからG、Aと行きDに戻る。
 そこへディランの声が重なる。忘れ去られたいにしえの街のこと、そして一夜にして砂へと崩れ落ちた帝国のことを歌いだす。
 ディランの詞が僕の脳に、不思議なじゅつをかけたようだ。1番を聴きはじめたとたん、サイケデリックな砂漠文明の光景が目の前に広がった。僕は遠くから、その古代文明が勃興し衰退していく様を早送り再生で眺めている。アリの巣みたい。僕は壮大な物語のジオラマから目が離せなくなった。
 なんだか少し怖かった。
 でも、ディランの穏やかな声が気分を落ち着かせてくれる──そう思ったのもつかの間、今度は僕の空想が翼を広げて空高く舞い上がっていく。よくあるたとえに聞こえるけれど、実際その通りのことが起きた。“ミスター・タンブリン・マン”の2番と3番の歌詞には、「魔法の渦巻き船(マジック・スワーリング・シップ)」で太陽を目指す旅が出てくる。この詞とともに、僕の心の目はシナゴーグを飛び出し、空を突き抜けて、宇宙まで行ってしまったのだ。
 僕はそこでたしかに神の存在を感じた。
 最後のコーラスにさしかかる頃には、ディランの“ミスター・タンブリン・マン”がモーセの「割れる海」や「燃える柴」と同じくらい、いや、それ以上の奇跡といえる気がしていた。
 ラビが停止ボタンに指をおく。ハーモニカの音がやわらかにフェイドアウトして、曲はおわりを告げていた。

 2020年になったいま、僕は先祖代々の信仰を手放して久しいけれど、ディランはハーモニカに奇跡を吹き込みつづけている。最新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』も奇跡のひとつ。このアルバムのなかの曲で、79歳のシンガーソングライターは自身初となるビルボードのシングルチャート1位を獲得した。しかも驚いたことに、この曲は約17分もある。
 COVID-19パンデミックのさなかにリリースされたから、聴く側はかつてないほど時間をかけて、自宅でじっくりディランを堪能しているだろう。近年のビルボードヒット曲は、あきらかにどんどん短くなる傾向にあった。2019年の平均は約3分、ディランの大作に比べると6分の1程度だ。
 コロナウイルスへの不安とともに生きるなかで、ディランの新しいアルバムに流れるゆったりとした時間は心地よく感じる。ハーブティーみたいに気持ちを落ち着かせてくれる。
 だけど穏やかなサウンドとは裏腹に、詞は挑発的で刺激に満ちている。男性器のジョークあり、陰謀論あり、死についてもあり余るほど語られる。みんながよく知る人物も登場する。インディ・ジョーンズ、アンネ・フランク、ジークムント・フロイトにカール・マルクスまで。
 ヴォーカルはこのアルバムの要だ。演奏をバックに、歌詞がスポットライトを浴びた名画のように掲げられる。
 79歳を迎えたディランの声はひびわれて揺らいでいる。音程補正ソフトが当たり前の時代だからこそ、その魅力はいっそう際立つ。
 歌い方もクールだし、年齢を重ねたしゃがれ声と相まって、もはやトム・ウェイツよりもトム・ウェイツっぽい。
 昔から変わらない部分もある。本作でもディランは自分が影響を受けたものを見てくれと言わんばかりだ。おなじみのモチーフがときに姿を変えながら、アルバムのあちこちで顔を出す。1940年代のウディ・ガスリーのスタイルに、アパラチア音楽文化の影。グレイト・アメリカン・ソングブックに手を出したかと思えば、アラン・ローマックスの収集音源もちらり。象徴派の詩、自身のフォーク・ソングのロックンロール・アレンジ、それからジャーナリスティックな語り口。もう挙げ出したらきりがない。
 『ラフ&ロウディ・ウェイズ』は、傘寿を迎えるディランの輝かしい到達点だ。繰り返し聴きたくなるのはもちろん、底が知れない。あらゆる方向へ広がり、さまざまなものを含みもつ。
 ディランはこれまでに何度もポップ・カルチャーの価値をより高みへと更新してきたけれど、今回もそれに成功している。もしも万が一(そうなりませんように!)、本作が最後のアルバムになったとしたら、まさに有終の美というにふさわしい。でも僕はまだまだディランが嬉しい驚きを届けてくれると期待している。2020年のいまも、1964年の頃と変わらず、唯一無二の存在だから。
 それに、ディランのような年齢のポップ・アーティストがこんなにも独創的な歌詞を書いているのをみると、すごく励まされる。
 僕はもう何十年もディランの文学的な歌詞に心を奪われている。お気に入りの作家や映画監督と同じように、ディランは、未熟な僕が見逃してしまいそうな物事にいつも気づかせてくれる。だから、11歳のときにシナゴーグのラジカセを通じてディランと出会えた僕は、本当に運がいい。
 そして、振り返ってみるとちょっと妙な話ではあるけれど、ディランの詞が(ほんの数分間とはいえ)僕に信仰をもたせたというのはちゃんと筋が通っている。だって、結局、歌というのは僕らが神とつながるすべなんだから。音楽と無縁な宗教というのは聞いたことがないし、人類史上ずっと、歌うことは霊的な儀式の中心的な役割を担っている。
 俗な世界に生きる現代の僕らもいまだに神経言語的なレベルでは、ポップ・ミュージックを宗教的なものに結びつけている。このアルバムには「ソウル」がある、なんて言ったりするし、ディランみたいなロックスターを「神」と呼んだりもする。
 いまだって、僕も心のどこかでディランの詞に神聖なものを感じている。新しいアルバムで聴くあのしゃがれ声には、あらゆるものの解が入っているのだろう。


by Matthew Chozick

For five minutes and thirty-one seconds, I once believed in God. Not just any deity, but the Judeo-Christian one, who, in Renaissance paintings, looks like Santa Claus on a cauliflower rice diet.
   Oddly, He came to me in a pop song ― I was eleven.
   Although I might’ve found the Almighty in the stereo of a junior high dance or speakered into a gas station bathroom, remarkably, He appeared to me in synagogue.
   At the time I was in a Sunday Hebrew school class for children.
   Every weekend we kids studied gloomy Torah stories, and sometimes a rabbi would lighten the mood with music from Jewish rockers.
   During a lull one Sunday, my rabbi inserted a cassette tape into a boombox, pressed play, and out came Bob Dylan’s “Mr. Tambourine Man.”
   It began with simple acoustic guitar chords: D to G to A to D.
   Then Dylan started to sing of forgotten ancient streets and of an empire that, in one night, crumbled to sand.
   The lyrics did something weird to my brain. The first verse conjured a psychedelic vision of desert civilizations that, from afar, looked like ant colonies. They rose and fell, in time-lapse, on a massive, geological scale.
   It was a little scary.
   But Dylan’s gentle voice relaxed me ― until it sent my imagination soaring, literally. The second and third verses of “Mr. Tambourine Man” included a journey towards the Sun on a “magic swirling ship.” The lyrics carried my mind’s eye up, out of the synagogue, through the sky, into space.
   I felt the presence of God.
   By its final chorus, “Mr. Tambourine Man” seemed no less a miracle than the Burning Bush or the parting of the Red Sea.
   And then my rabbi readied his finger above the boombox’s stop button, right before the track ended with a soft fadeout of the harmonica.


Now, in 2020, long after I left my ancestral religion behind, Dylan is still packing harmonica with miracles. One such miracle is that the singer-songwriter’s new record, Rough and Rowdy Ways, has given the seventy-nine-year-old his first chart-topping Billboard single ever. And extraordinarily, the hit is some seventeen minutes long.
   Released amid our COVID-19 pandemic, listeners have had an unprecedented amount of time at home to parse Dylan. Tellingly, in recent years Billboard hits had been shrinking in size. In 2019 they averaged about three minutes ― roughly 1/6 of Dylan’s 2020 opus.
   The new album’s gentle pacing feels soothing in our era of coronavirus anxieties. It relaxes like a cup of herbal tea.
   But the record’s sonic mildness belies provocative lyrics. There’s a penis joke, a conspiracy theory, plenty of death, and notable references to Indiana Jones, Anne Frank, Sigmund Freud, and Karl Marx.
The vocals serve as the centerpiece of the album; lyrics hang like spotlit paintings in front of instrumental accompaniments.
   Dylan’s voice at seventy-nine cracks and wavers, which makes the record even more compelling in our age of autotune and pitch correction software.
   The singing sounds cool; Dylan’s gotten gravellier with age. He’s now more Tom Waits than Tom Waits.
   Some things haven’t changed; Dylan still wears his influences on his sleeve. His old muses are reflected and refracted on the new album ― familiar 1940s Woodie Guthrie stylings, Appalachian refrains, forays into the Great American Songbook, hints of Allen Lomax’s field recordings, symbolist poetry, rock n’ roll covers of his own folk music, journalistic storytelling, and oh so much more.
    Rough and Rowdy Ways works as a bold culmination of the near-octogenarian’s career. It warrants many relistens and it feels bottomless, expansive. It contains multitudes.
   Like Dylan has done time and time again, the new album elevates pop culture orders of magnitude. And if ― knock on wood ― this turns out to be Dylan’s final release, it would be a brilliant note to finish on. Yet I expect more pleasant surprises to come from Dylan. He is still as peerless in 2020 as he was in 1964.
   To be sure, it’s heartening to see such lyrical originality from a pop artist of Dylan’s age.
   For decades Dylan’s writerly lyrics have captivated me. Like my favorite novelists and filmmakers, Dylan has continually helped me notice things about the world that, in my own stupidity, I would have otherwise missed. So I’m very lucky that, at age eleven, I discovered Dylan in a synagogue boombox.
    And while it seems a little weird now, it makes sense that Dylan’s lyrics made me a believer ― if only for a few minutes. After all, good songs are how we communicate with the divine. Every major faith uses music, and singing has been central to spiritual practice throughout human history.
    In our secular era today, we’re still neurolinguistically wired to experience pop music as religious. We discuss albums as having “soul” and we refer to rock heroes, like Dylan, as “gods.”
    Even now part of me finds Dylan’s songwriting to be divine. His gravelly voice on the new record sounds as if it has all the answers to life’s questions.


KGE THE SHADOWMEN - ele-king

 ラッパーとして、すでに20年以上のキャリアを持つ KGE THE SHADOWMEN (カゲ・ザ・シャドメン)。ソロとしてはもちろんのこと、千葉出身のアーティストを中心に結成されたクルー、TEAM 44 BLOX の一員としての活動や、DJ/プロデューサーである HIMUKI とのユニット、KGE & HIMUKI では通算3枚のアルバムをリリースするなど、様々な形で作品制作やライヴを行なってきた。その一方で、彼のことをいわゆる「客演キング」として認識している日本語ラップ・ファンも多いだろう。特に印象深かったのが仙台のグループ、GAGLE のアルバムに収録されたふたつの曲 “舌炎上” (2014年『VG+』収録)と “和背負い” (2018年『VANTA BLACK』収録)だ。日本のヒップホップ・シーンでもテクニカルなラップで評価の高い GAGLE の HUNGER と互角に渡り合い、さらに “和背負い” では天性のスキルと強烈な個性を持つラッパー、鎮座DOPENESSを交えた3MCによるセッションが実にスリリングかつ凄まじい格好良さで、個人的にも KGE THE SHADOWMEN のソロを待ちわびていた感すらある。そのタイミングでリリースされた、ソロ名義では11年ぶりのリリースとなる2ndアルバム『ミラーニューロン』だが、こちらの期待を軽く上回る素晴らしい快作である。

 KGE THE SHADOWMEN のラップの魅力は巧みなフロウとラップが映える声の良さで、そこに説得力あるリリックが重なれば、もはや怖いものはない。アルバムの冒頭を飾る “俺のHIPHOP” はそれらの要素が全てが合わさった1曲で、16FLIPISSUGI)によるキックの効いたトラックに乗せて、ヒップホップに捧げた紆余曲折な人生を振り返りながら、自らの深い覚悟を宣言する。この曲に限らず、本作での彼のアティチュードは実に自然体で、無理に虚勢を張ったりもせずに、自分の弱ささえも包み隠さず言葉にする。決して短くはないアーティストとしてのキャリアが、いまの自然体な彼を作り上げているのは間違いないが、そんな嘘のない言葉だからこそ、彼のリリックは実にストレートに心に突き刺さってくるし、特に30代、40代と年を重ねたリスナーであれば共感できる部分も大いに違いない。特に家族へ捧げた “こんな俺だけど” や “ジャム&マーガリン” での KGE THE SHADOWMEN の言葉が持つ力と暖かさは、決して誰にでも表現できるものではないだろう。

 「客演キング」であるがゆえに、本作にも当然、ゲスト勢が多数参加しており、注目はやはりすでに名前の出ている HUNGER と鎮座DOPENESSだろう。HUNGER と GOCCI (LUNCH TIME SPEAX)が参加した “葉隠” でのハイプレッシャーなマイクリレーは迫力十分。さらに度肝を抜かれたのが鎮座DOPENESSとの “TRANCE注意報” で、Grooveman Spotの金属質でエッジの効いたトラックにふたりが変幻自在に言葉を放ち、カオスな空間を作り出す。他に SONOMI、CHIYORI、菅原信介と3人のシンガーをそれぞれゲストに迎えているのだが、いずれも異なるタイプの曲でいずれも見事な出来だ。ちなみにプロデューサーも多彩なメンツを揃えているのだが、個人的には DJ Mitsu the Beats のシンプルなループが実に心地良く響く “毎日Walkin'” がラスト・チューンとしても実にしっくりきて、好みな一曲。実は7分以上もあるのだが、この曲のように、良い意味でマイペースに彼のラッパーとしての活動がこれからも続いていくことを期待したい。

KURANAKA 1945 × GOTH-TRAD × OLIVE OIL - ele-king

 KURANAKA a.k.a 1945 主催のパーティ《Zettai-Mu》が9月13日に梅田 NOON にて開催される。GOTH-TRAD、OLIVE OIL、mileZ ら豪華な面々が出演。5月にはライヴ・ストリーミングで「Zettai-At-Ho-Mu」が開催されていたが、今回はリアルに会場へと足を運ぶもの。コロナ時代における音楽やダンス、クラブのあり方を探っていくイヴェントになりそうだ。感染拡大防止対策をとりつつ、ぜひ参加してみてください。

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