Home > News > Donna Summer R.I.P. - さらば、ディスコの女王
「ベルリン3部作を録音していたときのこと。イーノが『これは未来のサウンドだ』と言いながら走ってきた。彼が手にしていたのはドナ・サマーのシングル「アイ・フィール・ラヴ」だった。「『これだよ。もう探す必要はない。このシングルは向こう15年のクラブ・ミュージックを変えてしまうよ』。その意見は多かれ少なかれ正しかった」(デヴィッド・ボウイ)
「スゴいビートだと思ってさ。コピーもしたんだよ」とは忌野清志郎。「アイ・フィール・ラヴ」を初めて聴いたとき、それがプログラムされたサウンドだとは思いもしなかったという(映像で観ると、バンドがシンセサイザーに合わせて演奏のマネをしているので、余計にそう思ってしまったのかもしれない)。忌野がその衝撃をカタチにしたのは22年後。『ラフィー・タフィー』に収められた"テクノ・クイーン"まで待つことになる。
"アイ・フィール・ラヴ"は初めてエレクトロニック・サウンドだけで作られたディスコ・サウンドだとされている。シンセサイザーを使ってポップスをつくることに興味を持っていたジョルジオ・モロダーとピート・ベロットは折からのディスコ・ブームにこの方法論を重ね合わせてみた。ちょうどミュージカル『ヘアー』のために代役でミュンヘンまで来ていたドナ・サマーのデモ・テープに関心を示したのはフランスのレーベルで、これがオランダでヒットしたため、サマーのデビュー・アルバム『レイディ・オブ・ザ・ナイト』はオランダでリリースされる。続いて『ラヴ・トゥ・ラヴ・ユー・ベイビー』がアメリカでもヨーロッパでも大ヒット(内容がエロ過ぎたか、広範囲で放送禁止)。サマー、モロダー、ベロットはアメリカに渡って『ラヴ・トリロジー』『フォー・シーズンズ・オブ・ラヴ』『アイ・リメンバー・イエスタデイ』を立て続けに制作する。そして、50年代を意味する"イエスタデイ"のラストに2~3時間でつくったという"アイ・フィール・ラヴ"が収録され、例によってつくった当人たちはそれほどの曲とは思わず、マスターも破棄してしまったらしい。午前3時に乱交パーティを繰り広げていたレーベルのボス、ニール・ボガートがこの曲をゲイに売ろうと考えなければ、世に出るのはもっと後のことになった可能性も高かった。
(http://www.soundonsound.com/sos/oct09/articles/classictracks_1009.htm)
マーク・アーモンド(ソフト・セル)をフィーチャーしたブロンスキー・ビートや意外なところではシューゲイザイー・バンドのカーヴもカヴァーし、レッド・ホット・チリ・ペパーズや最近ではマドンナもライヴで取り上げる"アイ・フィール・ラヴ"は、シングル・カットされるとすぐにも全英1位をマークし、瞬く間にサマーをディスコ・クイーンの座に押し上げた。しかし、ゴスペル・シンガーになるのが夢で、セックス・シンボルに祭り上げられたことで苦しんだサマーは潰瘍で入院までしてしまい、2年後の"バッド・ガールズ"ではクリスチャンであることを強調し、悔い改めて生きたいと宣言、カサブランカ・レコーズとも揉めてゲフィンへ移籍することになる(サマーが「AIDSはゲイに対する天罰である」と発言したというデマが流れ、ゲイからの支持を失ったことはこの辺りの騒動と関連があるのかも?)。80年代に入ってソングライターとしての才能も開花させ、ヒット曲もそれなりにはあったものの、全米1位をマークした"マッカーサー・パーク"や"ホット・スタッフ"ほど成功した曲はなく、グラミー賞5回は意外といえば意外。とはいえ、最後となったアルバム『クレヨンズ』からも複数のスマッシュ・ヒットはあり、デリック・メイが早くから"アイ・フィール・ラヴ"をDJセットに組み込んでいたように、いちどもダンス・チャートから見放されたことはなかった。総じて愛され続けたシンガーだったといえるだろう。
63歳。ガン。新作の準備中だった。
文:三田 格