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野田努
昨日ネットのニュースを散見したところ、どうやら9月5日、ホルガー・シューカイがケルンの自宅で死んでいるのをアパートの隣人によって発見されたそうだ。79歳だった。
シューカイは、クラウトロックにおけるもっとも重要なバンドのひとつ、カンの主要メンバーであり、パンク以降のロック・ミュージックおよびエレクトロニック・ミュージックに多大な影響を与えた人物である。
ぼくに限らず、カンをいまでも好きな人は世界中にいるし、サルバドール・ダリに似たホルガー・シューカイを心から尊敬している人もたくさんいる。彼は前衛であり、同時にポップだった。戦争を記憶している世代であり、それがゆえの国境の無さ/アイデンティティの刷新力が、非西欧音楽への好奇心にも繋がり、1960年代末の時点ですでに作品にも残している。できないこと(can't)をやってのけ(can)、実験的でありながら商業的にもヒットしたし、知的であり、ダリのようにユーモアも忘れなかった。
1938年ポーランドのダンツィヒ生まれのシューカイは幼い頃からピアノを習っていた。ほどなくして第二次大戦の戦場となったその地から疎開し、西ドイツに移住しても、彼の音楽への好奇心と探求心は変わらず、それはラジオの受信機の修理にまで及んだという話は有名である。
シューカイは、1963年からおよそ3年、カールハインツ・シュトックハウゼンのもとで学んでいる(カンの拠点となったケルンは、50年代に、それこそ“少年の歌”や“コンタクテ”が演奏されることになるケルン電子音楽スタジオが建てられている)。
2005年の『remix』の取材において、彼はこう言っている。
「私はいつもラジオでシュトックハウゼンを耳にしていたんだが、ある日ライヴを見に行った。そこで彼が聴衆に向かって自分の作曲した作品について説明していると、突然ひとりの客が立ち上がり、『シュトックハウゼンさん、あなたのやっていることはすべて衝撃的すぎます。あなたはこうやって人びとにショックを与えることで金儲けをしようとしているのではないのですか?』と言った。すると彼は『これだけははっきりと申し上げておきましょう。私がお金のために音楽をやることは絶対にありません。なぜなら、私には金持ちの妻がいるからです』と答えた。それを聞いて私は『素晴らしい! この人についていこう!』と心に決め、さらに金持ちの妻をさがすことにしたのだ」
慣れ親しんだ音楽にばかり惑溺するリスナーを許さなかったアドルノとも似たシュトックハウゼンには堅苦しい印象を持っていたぼくは、シューカイのこうした余裕あるユーモラスな発言に笑った。だいたい同じことの繰り返しを否定したシュトックハウゼンに逆らうかのように、1968年に結成されたカンは、繰り返しを強調したのだった。
バンドを組んだときのシューカイは、スイスのジュネーヴ周辺で音楽の教師をしていた。クラシック、現代音楽(そしてミュジーク・コンクレートや電子音楽)、あるいはいくらかジャズを知っていたシューカイだったが、ロックに関しては、もはや若者とは呼べない30を前にして初めて知った。イルミンはクラシックの指揮者で、ヤキはプロのジャズ・ドラマーだったわけだが、ビートルズよりも年上の良い大人たちが、いままで学んできたことをまっさらにしてロック・バンドをやる。ただし、音楽を作るのではなく、音楽の作り方から作ること──それがカンだった。
また、こうも言えるだろう。クラフトワークがエレクトロやミニマルの原型を作ったと言えるなら、カンはジャングルの原型を作っている。
シューカイはカンのメンバーのなかではもっとも精力的なソロ作品を発表している。数々のアルバムのなかで1枚選べと言われたら最初のソロ・アルバム『Movies』だろう。(『On The Way To The Peak Of Normal 』や『Rome Remains Rome』も捨てがたいが)『Movies』に収録された4曲は必聴である。
さらにシューカイは、ジャー・ウォーブルやデイヴィッド・シルヴィアンとの共作、Phewの最初のアルバムへの参加でも知られている。2015年にはカンの『The Lost Tapes』とも似た、まったく聴き応えのある未発表音源集『Eleven Years Innerspace』も発表している。
ふたたび2005年の『remix』からの引用になるが、シュトックハウゼンは生前こんなことを発言したという。「私の教え子は誰も成功しなかったが、ひとりだけ例外がいた。ホルガー・シューカイだ。彼だけが私の真似をしなかった」
シューカイは、自分の音楽のなかにいろいろなものを取り込んだ。それこそ68年のパリの暴動から短波放送から流れるベトナムの民謡、旧ソ連の音楽……、あるいは、ラジオ、カセットテープ、電話までもが彼の楽器だった。彼は自らを「ミューシャンではない」と言い切った。そうではなく、「ユニザーサルなディレッタントなのだ」と。ぼくもこういうことが言えるようになりたいものだ。
TVのCMで使われたことで日本でもヒットした“ペルシアン・ラヴ”を聴いていると、いったいこれはどこの国のいったいなんという音楽だろうかと思った。そしてなんて美しいのだろうと思う。昨晩はこの曲を聴いた人が多かったことだろう。ぼくも家に帰って、ビール500mlを空けて、まっさきにこれを聴いた。
「私たちが音楽を演奏させたのではない。音楽が私たちを演奏させたのだ」──ホルガー・シューカイ
野田努、松村正人
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