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追悼・阿木譲
4年前、前に飼っていたネコの最後を看取ってくれた獣医さんから生後3日の子ネコが4匹いるから見にこないかという連絡があり、さっそく見に行った。気に入ったネコがいたら1匹もらおうかなと軽く考えていた僕は、その子ネコたちが視野に入った瞬間、思わず「2匹下さい」と言っていた。気にいるとか気に入らないという振り幅は一瞬で吹き飛んでいた。僕は即座に黒く見えた子ネコを選び、彼女は少し考えてから白い子ネコに決めた。高校生の頃、『ロック・マガジン』の編集部に押しかけたところ、編集部には10匹近くの黒猫がいて、それまでイヌ好きだった僕は、憧れの存在だった阿木譲が黒猫たちと暮らしていると知り、自分もネコ好きに変わろうと決めたのである。それ以来、犬を嫌うようになり、ネコを飼うなら黒猫がいいと思い続けていた。その願いが叶ったのである。白にはクリン、黒く見えた子ネコにはクランと名付け、半年であっという間に大きくなると、黒猫だと思っていたクランはドット模様が密集しているだけで、実際には黒猫ではないことがわかってきた。黒猫じゃなかった……。クランの模様を見るたび、僕は「阿木譲は遠い存在だな」と思わずにはいられない。そして、10月21日、本当に阿木さんは遠いところへ行ってしまった。実は少し予感があったので、驚いてはいない。最後にお会いしてからは30年近くが経っている。遠い記憶。誰とも重ならない思い出。いつから僕は阿木譲を見失っていたのだろう。
『ロック・マガジン』は1976年に創刊されている。僕が読みはじめたのはその翌年で、パンクの記事が目当てだった。ほかにパンクのことを載せていた雑誌は『詩の世界』ぐらいしかなく、ブライアン・イーノやデヴィッド・アレンといったパンク以前の人たちに興味を持ったのも『ロック・マガジン』が彼らのインタヴューを載せていたからだった。合田佐和子が描いたジャン・ジャック・バーネルやリチャード・ヘルなど表紙のデザインも圧倒的に洒落ていて、高校生の僕には寺山修司の「地下演劇」とともにすぐにもハイブローな背伸びアイテムになっていった。下北沢の五番街というファッションビルにレコード・ショップがあり、そこでバックナンバーを買うこともできたので、ジャーマン・ロック特集なども読み耽った。そして、大阪で行われている『ロック・マガジン』のイベントが修学旅行と重なっていることを知った僕は修学旅行の最終日に「父親が危篤なので東京に帰ります」とウソをついて京都から大阪に向かい、学生服のまま心斎橋で行われていた『ロック・マガジン』のイべントに潜り込んだ。そして阿木さんの話を聞いたり、アシュ・ラ・テンペルのレコードを聴いているうちに夜中になり、東京へ帰る新幹線がなくなっていることには気がつかなかった。時すでに遅かった。阿木さんはイベントが終了してから「東京から来てくれたのは君か」と声をかけてくれ、「今夜は編集部に泊まって行けばいい」と言ってくれた。しかも、その日はアーント・サリーのライヴがあるからそれも見ていけという。そう言いながら、阿木さんは出口に向かっている女の子にひと言声をかけ、何を言ったのか聞こえなかった僕に「あれだけで彼女は理解したね」と言った。どうやらナンパしたらしいのだ。素早いなんてもんじゃなかった。
ニュー・ウェイヴの時代になっても『ロック・マガジン』はぶっちぎりだった。チャート・ミュージックもアンダーグラウンドも区別せず、毎号、魅力的なレコードが山のように紹介されていた。その後、ネオアコという名称に落ち着く音楽はウォーター・ミュージックとして取り上げられていた。視点の中心にあるのはモダンかどうかで、シャーマニズムとモダンをどのように折り合わせていくかということが阿木譲の問いであり、世界観のすべてといってよかった。僕は完全にそれに染まってしまった。僕が最も悩んだのはザ・ポップ・グループだった。いまでもよく覚えているけれど、『ロック・マガジン』で大きく取り上げられていた『Y』をシスコの御茶ノ水店で見つけた僕は、さすがにあのジャケットを見て躊躇してしまい、『Y』を抱えたまま1時間も店内をうろうろし続けた。どうしても踏ん切りがつけられず、本当にこのレコードにモダンの要素があるのかと疑い続けた。クラフトワークのそれとはまるで様相が違うし、僕にはまだ表面的なモダンしか見えていなかったのである。しかし、最終的には阿木譲に対する信頼が僕をレジへと向かわせた。スロッビン・グリッスルしかり、リエゾン・ダンジュオーズしかりである。『ロック・マガジン』がなければその種の音楽が日本にここまで浸透したかどうかは実に怪しい。ジョイ・ディヴィジョンやザ・フォール、ノイエ・ドイッチェ・ヴェレやボディ・ミュージック。阿木譲になかったのはブラック・ミュージックの要素だけで、それもある種の美学として徹底的に排除していたように見えたし、そこには時代の要請もあれば、そこまで偏向しなければ辿り着けなかった境地もあっただろうから、ひとりの表現者がとった態度としてはある種の必然だったのだろうと思う。僕はだんだん鵜呑みにはできなくなってしまったので、おそらくはアシッド・ハウスの解釈を巡って進む道も異なってしまったのだとは思うけれど、モダンとシャーマニズムを拮抗させた音楽に対する愛着はいまでも充分に受け継いでいると思う。
新しい雑誌の名前を一緒に考えてくれと言われたり、アメリカ村にオープンしたレコード・ショップに遊びに行った際は、こんなものが見つかったと言って演歌歌手時代に出演した『てなもんや三度笠』のヴィデオを本人の解説付きで見せてもらったりと、阿木さんとの思い出は少なくはない。復刊した『ロック・マガジン』を何冊か手渡され、これを東京で有効に使ってくれと言われたり、借金取りからかかってきた電話に「ないものは返しようがない」と、むしろ阿木さんの方が高圧的にやり返していた場面に出くわしたこともある。その中でも阿木さんが東京にきた時、ピカソに行こうということになったはいいけれど、ファッション・コードなのかなんなのか誰も中に入れてもらえず、仕方がないので、六本木の路上に座り込んで雑談に花を咲かせ、「阿木さんはじゃあ、どんな曲で踊りたいんですか?」と訊いたところ、即答で「コイルだね」と返されたことはとくに印象深い。ニュー・ウェイヴが下火になり、バブル直前のディスコといえばどこもブラコンばかりで、つまんねーなーと思っていた矢先に、この人はなんてカッコいいことを言うんだろうと思い、いまから思えば、その数年後にはまるでブラコン全盛に反旗を翻すようにしてイギリスではセカンド・サマー・オブ・ラヴが勃発したのである。阿木譲はこの動きを受けてすぐにも大阪でマセマティック・モダンをオープンし、僕と野田努、そして、石野卓球がロクにできもしないのにDJをしに行ったこともある(初対面だった阿木さんと石野卓球はまるで親子が再会でもしたかのような盛り上がり方だった)。そして、阿木さんが最初にかけた曲は忘れもしないエース・ザ・スペース“9 Is A Classic”だった。ブラック・ミュージックを避けてレイヴ・カルチャーを推進させるなら、そこしかないという選択である。あの意志の強さには舌を巻いた。
阿木譲がどんな晩年を過ごしたのか僕は何も知らない。10代の時に受けた影響があまりに大きく、そしてそれは良いところだけでなく、悪いところも受け継いでいる気はするので、そのことをもって阿木譲は自分のなかで生き続けているとイージーに思うことにしたい。阿木さんに対しては常に両義的な気持ちが渦巻いてしまうので、自分としては「合掌」などと書いてきれいにまとめてしまうこともどこか嘘くさいとは思うけれど、洋楽を扱った日本のメディアであれだけの仕事をしてきた人にはやはりご苦労様でしたというのが適切だし、その功績は褒め称えられてしかるべきだろう。
阿木さん、お疲れさまでした。どうぞ安らかにお眠りください。
三田格