Home > News > RIP > R.I.P.:エンニオ・モリコーネ
リカルド・ヴィラロボスと『Hubris Variation Parts 2 & 3』をリリースしたばかりのオーレン・アンバーチは「チャオ・マエストロ」とツイッターに短く投稿。イタリアの保健大臣も「アデュー・マエストロ」と投稿し、91歳で亡くなったエンニオ・モリコーネに別れを告げた。「マエストロ」というのはエンニオ・モリコーネの通称で、転倒による大腿骨骨折が原因の合併症と世界に伝えられる一方、現地の新聞には呼吸器疾患とも書かれているらしい。いずれにしろ去年もコンサートで舞台に立っていたというのだから健康に大きな問題はなかったようで、急逝は寝耳に水。イタリアの音楽界は大きな存在を失った。
主に映画音楽の製作で知られるモリコーネは“続・夕陽のガンマン(The Good, the Bad, and the Ugly)”など1960年代に流行ったマカロニ・ウエスタンで名を挙げ、サイケデリック・ロックと同期したケレン味のあるギター・サウンドと情緒たっぷりのオーケストレーションが最大の特徴だった。“続・夕陽のガンマン”以外だと“荒野の用心棒”“ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ””アンタッチャブル”といったあたりが曲としてはすぐに思い浮かび、80年代後半にDJカルチャーがサンプリングという手法を取り入れるやそれらの曲の断片を聞かない日はなかったと思うほどDJたちはモリコーネをつぎはぎにしていた。ジ・オーブ”Little Fluffy Clouds”やビーツ・インターナショナル(ファットボーイ・スリム)“Dub Be Good to Me”をはじめ、ボム・ザ・ベース、コールドカット、トーマス・フェールマンズ・レディメイド、デプス・チャージ……。おかげで子どもの頃に軽く耳にしただけの原曲をフルで聴こうとLP盤を探し回る日々が続くことに(代表作以外がCD化されるのは2000年代後半から)。著作権法が改正されてサンプリングが違法(有料)となってからも、ディミトリ・フロム・パリ、デペッシュ・モード(のリミックス)、スーパー・ファーリー・アニマルズ、ピタ……とモリコーネの使用頻度は衰える気配がなく、最近ではフライング・ロータスが”Turtles”で”Piume Di Cristallo ”をサンプリング。さらにはヒップホップで、“Blueprint””So Ghetto””Can't Knock the Hustle”とジェイ~Zの代表曲は多くがモリコーネを元ネタとし、映画音楽を多用するRZAやウータン・クラン周辺でもモリコーネの引用は多い。モリコーネのメロディはわかりやすい疎外感を強調し、現代アメリカの寂寞とした無常感を引き出すのに最適だったということだろう。“続・夕陽のガンマン”はそれこそヴェンチャーズやイレイジャーにカヴァーされ、バスタ・ライムやディー・ライト、ヒカシューやスケプタに至るまでサンプリングされ続けた。
モリコーネがイタリアのエスタブリッシュよりもアメリカやイギリスのアンダーグラウンドで生き延びたというのはさすがに言い過ぎだろうか。イタリアではモリコーネの存在感が霞んでしまった時期も実際にはあり、『ツイン・ピークス』の成功によってイタリアの映画音楽ではアンジェロ・バダラメンティの名声が高まり、ほとんどの人がそっちになびいてしまったのである。マイ・キャット・イズ・アン・エイリアンのマネージャーを務めていたラモーナ・ポンツィーニがトリノから日本に遊びに来た際、なぜかモリコーネの話になり、彼女が「イタリアの若い人は誰も知らないわ」と言ったのに驚いて、そんなバカなと返すと、名前を知ってるだけましと言いたそうな表情で「過去の人ですよ」と一蹴されてしまったこともある。確かに僕も『ミッション』や『ニューシネマ・パラダイス』といった80年代の作品を最後にモリコーネの作品は何も挙げられなかった。そして、久々にモリコーネの名前を聞いたのは2016年にクエンティン・タランティーノ監督『ヘイトフル・エイト』でモリコーネがアカデミー音楽賞を受賞した時だった。考えてみればわずか4年前である。『ヘイトフル・エイト』は低調だったタランティーノが久しぶりによくできた作品をつくったもので、「死んでしまうにはこの世界は甘美すぎる」というセリフがどこかモリコーネの音楽と合っていたことを思い出す。タランティーノはモリコーネの訃報を受けて「キング・イズ・デッド」とツイートした。
ほとんどのメディアでは映画音楽家としての側面しか語られないけれど、モリコーネのキャリアはミュジーク・コンクレートやインプロヴァイゼイションなどの実験音楽にも遡ることができる。1966年から彼はグルッポ・ディ・ インプロヴィゼオ・ヌオーヴァ・コンソナンツア(Gruppo di Improvvisazione Nuova Consonanza)のメンバーとなり、近年はどれほどの参加率だったのかは知らないけれど、1968年に行われたパフォーマンスが2014年にようやく陽の目を見るなど、死ぬまで脱退は表明していない。さらにはデムダイク・ステアが2年前にグルッポ・ディ・ インプロヴィゼオ・ヌオーヴァ・コンソナンツアの音源からサンプリングしたデータをループさせるなどして『The Feed-Back Loop』として再構築し、イタリアの60年代と現在のイギリスが直線で結ばれていることを見事に証明してみせた。ここでもモリコーネがアンダーグラウンドで生き延びた感は否めない。グルッポ・ディ・ インプロヴィゼオ・ヌオーヴァ・コンソナンツアのデビュー・アルバムがラウンジ・ミュージックで知られるイタリアの<スキーマ>から再発されたのは2018年。野田努によればポップスにも優れた作品が多いそうで(これは僕は知らなかった)、その関係だと思えばそれほど奇妙な再発ルートではないのかもしれないけれど……(『アンビエント・ディフィニティヴ1958ー2013』を編集した時に、このアルバムをどれだけ探したことか)。
最後に、僕が個人的に最も好きな曲はジョン・ブアマン監督『エクソシスト2』に提供された“Magic And Ecstasy”。スネークフィンガーのカヴァーでも知られる同曲はモリコーネのケレン味とドライヴ感が頂点に達したディスコ・ナンバーで、エイフェックス・ツインが復活させたブラック・デヴィル・ディスコ・クラブの原点ともいえる。洗練された悪趣味と無類のエンターテイメント性。音楽メディアでもほとんど触れられることのない70年代のエンニオ・モリコーネを聴いてくれ!
三田格