Home > Reviews > Album Reviews > Julian Lynch- Mare
インターネット時代を象徴するUSインディ......というよりもUSベッドルーム・ミュージックにおける至福の1枚。ニュージャージーを拠点に、ダックテイルなどリアル・エステイト関係の人たちと共演するジュリアン・リンチのセカンド・アルバムで、レーベルはニューヨークの〈OESB〉。なにゆえこれがインターネット時代を象徴するのかと言うと、何の情報もなしに聴いたときに、いったいこれはどこの国のどこの街の音楽なのかわからない、インド? 地中海? アフリカ? ジュリアン・リンチは大学院生で、民族音楽を専攻している。研究の対象は主にインド/パキスタンらしい。が、彼の音楽のアーカイヴは実に豊かなようで、さまざまな音楽にアクセスする。
「僕たちは、音楽の歴史を振り返ることができる時代に生きているんだ」、リンチは『タイニー・ミックステープ』の記事でなかば皮肉混じりにこう話している。「われわれは、あらゆる時代の音楽をいかに混合するか、どれほど借用するのか、あるいはどれほど割り当てるのか、あるいはいかに略奪するのか、そんなことを考えている。つまり、君は音楽家にこう訪ねるわけだ。『この音はどこから来たんですか? ガムランから? ドビュッシーから? マイケル・ジャクソンまたはトリーウッドから? モンスーン? または、マハヴィシュヌ・オーケストラから? ラヴィ・シャンカールから? ラ・モンテ・ヤングから?』って具合にね」
『メア』は、言うなればアニマル・コレクティヴのワールド・ミュージック・ヴァージョンである。大学で民族音楽と同時に堅苦しいポップの否定者として知られるテオドール・アドルノを学んでいる理屈屋は、ヒンドゥー語を習得しながら自分は"西欧のポップ"をやっていると自覚している。そしてそれは「反知性主義でもなければ、純粋な表現主義でもない」、が、しかし「音にメッセージを記述しているわけでもない」と説明する。むしろ「メッセージの記述されない音の声明を好む」、頭でっかちの青年はそう話している。社会を生きている......という感覚で音楽を解釈するのは批評であり、作り手は作っているときに必ずしもそれを意識しない。「こんなこと言うと不健康に思われるかもしれないけど......」、世界最大の音の博物館スミソニアン・フォークウェイズで働いた経験を持つリンチはそう主張する。「でも、真実だ」
ご心配なく。『メア』は卒業論文のように退屈な所業ではない。フリー・フォークを通過した『カナクシス』であり、『マイ・ライフ・イズ・ブッシュ・オブ・ゴースツ』とも言える。要するにコラージュ・ポップだが、音の触りはフォーキーで、アンビエントなフィーリングを保っている。リズミカルだがアコースティックな響きが心地よく、不明瞭で曖昧な歌は言葉を伝えることよりも音のいち要素としての歌として機能している。ドラッギーではないし、感情に左右されているわけでもない。実験的だがポップで、しかしヴァンパイア・ウィークエンドが小学生の音楽に聴こえてしまうほど素晴らしい落ち着きがある。
野田 努