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不思議な夜だった。今年もっとも美しいアルバムをリリースしたこの「ロック・バンド」らしからぬ「ロック・バンド」、ステージにいるキャロラインのメンバー8人について写真家の野田祐一郎は、たまたま同じ学校のクラスになった8人みたいだ、という言葉で喩えていたけれど、ほかの大人数の「ロック・バンド」、たとえばBCNRと決定的に違っているのもそこだろう。運命共同体というよりは、なんか偶然いっしょになったかのようなあの8人からは、ステージ上からふっと消えてしまいそうな気配、つまり〝はかなさ〟を感じたと、彼はライヴが終わったあとしきりに話していたけれど、もしそうだとしたら、それはキャロラインが奏でる音楽がそう思わせていたのだ。
なるほど魔法のようなライヴだった。ステージの両脇から半円状に並ぶこの8人に、中心はない。半円状の中心には、誰もいないのだ。その誰もいない「空」に向かって、メンバーは互いに視線を交わしたり、相づちを打ったりしながら、楽器を演奏する。
面白いことに、この8人は演奏する楽器も曲によって変わる。どう変わるのかいえば、この曲では俺がギターだったけど、次の曲ではおまえがギターね、といった風に、同じ楽器を別のメンバーが使うという、なんとも奇妙な、というか、たしかに学校の教室で、限られた楽器を順番に使って演奏しているようにも見える。しかも、歌を歌うメンバーも固定されていない。この曲では私が歌うけど、次の曲ではあなたが歌ってね、といった感じで、誰かが歌えば、次の曲ではまた別の誰かが歌っている。ここまで徹底してリードメンバーという存在を消去し、中心を不要のものとしたこの8人のかなでる音楽に、これまで経験したことのない感覚をおぼえるのも避けがたいことだったのだろう。
この8人は服装もまったくバラバラだった。教会の古着のバザーで買ってきたような古めかしいスーツ、よれよれのシャツとか、まあたしかにイギリスのバンドは昔から、ストーンアイランドのウィンドブレーカーなどには目もくれない古着好きが多いことで知られるが、もうちょっと小洒落ている。キャロラインは、ざっくばらんだ。田舎の教会で演奏している大所帯バンドのように見える。そしてバラバラなのに妙なまとまり感があるのは、このバンドの民主主義的なあり方から来ている雰囲気の温かさゆえだろう。おそらくは、ひろい公民館のようなところで車座になって見れたら最高のバンドなのだ。
演奏したほとんどがセカンド・アルバムからの曲だったけれど、ライヴでは、もともとがアパラチア・ミュージックを演奏していたところからはじまったというこのバンドの原点もよく見えた。ちなみにひとりは、かのショヴェル・ダンス・コレクティヴのメンバーで、主にヴァイオリンを担当。ほかのメンバーも曲によってヴァイオリンを弾くし、トロンボーン、クラリネット、エレキギター、アコースティック・ギター、べースとドラム、そしてわずかなエレクトロニクスで構成される。そして、この「ロック・バンド」らしからぬ「ロック・バンド」の、数時間にもおよぶかなり綿密なリハーサルを終えてからの本番の演奏はみごとなもので、壮観だった。録音物にはない生々しいエネルギー、静寂と躍動、即興と調和が超満員のフロアの耳を離すことがなかったと、そう思えるのは、ぼくがいた出口付近に人の流れがほどんどなかったからである。8人が演奏するすべての楽器の音がそれぞれクリアに聞こえたことも、このバンドの特徴をより鮮明に告げていたと言える。ここでは誰もが、そしてどの音も平等なのだ。
ファースト・アルバムからは(そのころは労働党だった)ジェレミー・コービンの応援にリンクした曲“Good morning (red)”を演奏し、「おはようございます、幸せになってもいいですか?」というシーケンスが繰り返されるなか、東京のオーディエンスからも歓声が沸いた。
当然のこと、がんがん盛り上がって熱狂するようなライヴではないが、バンドが最後に“Total euphoria”を演奏したときは、このライヴで唯一、ロック的なカタルシスがあった瞬間だったと言えるかもしれない。あれはたしかにライヴ映えする曲だった。アンコールがなかったことは、この「ロック・バンド」らしからぬ「ロック・バンド」の志の高さを顕わしているように思う。大きな余韻を残してバンドはそのままステージに出てくることはなかったけれど、ライヴ終了後にメンバーのひとりが機材を取りに出てくると、居残った数人の客の握手に応じていた。それは少々照れくさそうな、気さくな握手だった。
文:野田努