Home >  Regulars >  音と心と体のカルテ > 第六回:「身に纏う音楽」

音と心と体のカルテ

音と心と体のカルテ

第六回:「身に纏う音楽」

文:伊達伯欣  イラストレーター:ヨシオカワタル Oct 01,2015 UP

 最近はまっている携帯型スピーカーがある。LuxSoundというスピーカーで、充電式ワイヤレスで、左右分離しているスピーカー(https://nuzeestyle.jp/products/detail.php?product_id=4)。音質が特別良いわけではない(そこまで悪くもなく、価格相応)し、結構不具合もあって開発段階であることは否めない。だけど、旅先や野外で、音楽を聞いて過ごしたい人には、このスピーカーはオススメできると思う。

 ワイヤレスなので、屋外でも屋内でもLとRのスピーカーを、その空間に合わせて、自分の好きな場所に、好きな距離で好きな音量で配置ができる。そして、何より僕が面白いと思っているのは、このスピーカーが洋服のポケットに収まる。ということだ。

 胸ポケにi-podを入れて音楽を再生すると、両サイドのポケットからはずっと音楽が流れ、やろうと思えば1日中、そこから流れる音楽に包み込まれて過ごすことができる。

 もちろん、このスピーカーは他人を不快にする可能性がある。その危険性はどんな場所でも、音が発生する場である限り、全ての時間に孕まれている。けれど逆に言えば、このスピーカーで流すことのできる、他者を妨害しない音楽あるいは音を「アンビエント・ミュージック」と呼ぶのではないかと思うのだ。だから僕は、「アンビエント・ミュージシャン」が「ステージに立つ」ということには、どうも抵抗がある(ちなみに僕や友人がライヴで演奏している音楽はアンビエント・ミュージックではないし、僕自身が作ってきた音楽も、アンビエント・ミュージックと名乗るには、まだまだ随分遠いところにあると思っている)。本来、僕が考えるアンビエント・ミュージシャンは、存在として無であるべきだと思う。少なくとも僕自身が日常生活のなかで身に纏う音楽は、無のような存在であってほしい。何もない静かな無のなかにさす、ほんのり浮かぶ、ほのかな灯りであってほしい。

 例えば、あるコミュニティーのなかで、そこに住む人の多くがこのスピカーを身につけて、その日に自分の世界を包む音を選べるようになったとしたら。それは服とかマフラーとか靴とかに、音の発生する機械が着いているのかもしれない。するとある人とある人がすれ違ったり、あるいは話し合ったりしているときに、その2人の音楽が絶妙なバランスで混ざったり、混ざらなかったりする。3人とか4人とか集まったときに、それぞれの音楽や音が、うまく調和したりしたら、それは分かり合える親友と、語らい合っているときのような特別な喜びを覚えるだろう。

 もちろん、問題はそこで流れる音楽が、「録音物」という過去の時間軸である。という問題はある。本来であれば、それがそのときにその人から生まれた音楽であるとしたら、それは録音物よりも、どんなに素晴らしい音楽がそこに発生しうることになるだろうか。と想像するだけでも楽しい。

 でも、考えてみれば、音楽でなくても、自分自身のそういった何かしらの周波数のようなものは、音楽以外の情報として、つねに発信されている。ファッションにしても、言葉にしても、表情や「所作」ひとつひとつにしても。そういう周波数が、合うときもあれば合わないときもある。それは音楽のセッションをしているときと、同じことなんじゃないかと思う。どんなに仲が良い友だちでも、長い生涯を考えてみれば、その周波数が合う時期も、合わない時期もある。それは悲しむべきことではないし、またいつか、来世かもしれないけど、それはそれでいいじゃないか。と思える。

 それにしてもすごい時代になったもんだ。

 僕は、人類の歴史、こと身体の歴史というのは、生物学的なある方向性を持って動いていると思っている。そういうなかで音楽が生まれて、それが「録音された」ということは、音楽史にとって、とてつもない出来事だと思う。とくに「アンビエント・ミュージック」について考えるときは、ひとしお大事だ。

 アンビエント・ミュージックというのは、環境として在れる音楽で、他者を妨害することなく空間を変えることのできる音楽。だと僕は思っている。そういった音楽が現代に、ある程度の生物学的な方向性を持っているものだとしよう。そうするといま、アンビエント・ミュージックというものが、都会のなかから生まれて来たということの意味があるのではないか。というのを前々々回までに書いた。

 そう考えると、「アンビエント・ミュージック」というのは、「演奏者がそこにいない」ということが、非常に重要な要素になる音楽だと思う。だから、「録音する」というテクノロジーが生まれなければ、「アンビエント・ミュージック」という概念も音楽も生まれなかった。僕はサティが家具の音楽の構想を実現できなかった理由には、そこに演奏者がいたからである。という理由が一番大きいんじゃないかと思っている。

 それがね、今度はポケットから音楽を1日中流すことすら可能にしたテクノロジーっていうのも、それはすごいことだなぁ。と思うのです。これから、そういうテクノロジーの発達とともに人間と音楽の存在し合い方も変わってくるだろうし、変わるのが当たり前なのです。


伊達伯欣/Tomoyoshi Date伊達伯欣/Tomoyoshi Date
1977年ブラジル・サンパウロ生まれ。3歳の時に日本へ移住。ロック、ジャズ、ポスト・ロックなどを経て90年代後半より電子音楽を開始。ソロ作品に加え、Opitope、ILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから作品をリリース。西洋医学・東洋医学を併用する医師でもあり、2014年10月にアンビエント・クリニック「つゆくさ医院」を開院。自然と文明、アナログとデジタルをテーマに医療と音楽に従事している。

COLUMNS