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音と心と体のカルテ

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第一回:音楽と呼吸 その1

伊達 伯欣 Nov 28,2014 UP

 どういうご縁なのか、僕の音楽作品のいくつかはアンビエント・ミュージックというジャンルにカテゴライズされ、一時期はアンビエントという括りに違和感を持っていた僕自身も、最近はそのこと自体にはあまり抵抗を感じなくなって来た。それというのも、僕がいまのようなリズムトラックや明確な旋律のない音楽を作りはじめた90年代は、70年代後半にブライアン・イーノが提唱したアンビエント・ミュージックがヒーリング・ミュージックと混同されていた部分が多くあったからだと思う。今でもそういう風潮はあるかもしれないけど、「アンビエントをやっています」というと「あぁ~、あのぼんやりとした何の主張もない感じのBGMね」という、声にならない声があった。

 ヒーリングもアンビエントも、それ以外の多くの音楽に求められるアッパーな高揚感とは全く逆の「音があることによって静寂が訪れる音楽」というダウナーなものを求められている点では同じものだ。けれどそこには明確な差がある。と、アンビエントを聴いている人は感じていると思う。僕の記憶が確かならばイーノはその差を「アク」があるかないか。という言い方をしていたが、僕の言葉で言えば、アンビエント・ミュージックには「呼吸」がある。それは音そのものにも内包されているのだが、そもそも、その「在り方」そのものが親密な関係を持っている。呼吸とアンビエント・ミュージックの関係はとても深い。

 「呼吸」というのは人間の生命活動の中でも極めて特殊で、重要なものだ。救急医療の世界では、意識を消失して倒れている人に対してまず確認することのABCは、Airway(気道確保)、Breathing(呼吸)という呼吸に関わることを何よりも先に確認して、その後にCirculation(血液循環動態)といった心拍に関わる確認をする。心拍がどんなに正常に動いていても呼吸がされていなければ人間の生命は維持できない。東洋医学においても呼気・吸気は様々な「気」が出入りする場として重要視されていて、「気」にまつわる精神と身体との東洋医学的な関わりを実際の臨床の場で実感することのできる生命活動でもある。

 例えば西洋医学で「過換気症候群」と呼ばれる症状は、不安や疲労によって呼吸回数の制御が難しくなり、1分間に20回以内という正常の呼吸回数を超えた頻呼吸が持続すると、体内の二酸化炭素が過剰に放出され、血液のpHがアルカリ性になり、手足にしびれを生じさせるという症状が起こり、救急車で運ばれてくる頻度の高い症状である。西洋医学では深呼吸をさせて呼吸回数を減らし、時には抗不安薬を用いたり、ペーパーバック法と言って吐き出した二酸化炭素をもう一度吸い込む(最近では一般的には勧められていない)という対症療法を用いるが、根本的な治療はない。これに対して東洋医学ではこの状態は「気逆」と呼ばれ、呼吸はしていて酸素も正常に取り込まれているのに、「気」が逆流しているために、空気が入って行かないような不安にかられる(そもそも不安自体が気逆や気滞によるもの)と考えられており、実際に気逆を治療する半夏厚朴湯(ハンゲコウボクトウ)のような漢方薬が数分程度で効果的に作用する。過換気症候群を繰り返す人の最初の治療は主にこの薬を用いつつ食生活の改善などを指導することで再発を防ぐことができるようになる。

 当たり前のことなのだが、「呼吸」は古今東西を問わず、人間の生命活動の中では最も大切なものであるとされてきた。しかし、その重要性について、特に精神と身体の関係が必要以上に分離されて考えられている唯物論的な科学の場ではあまり語られることがない。それは僕らの呼吸に対する認識が、その日常性ゆえに鈍化してしまっていることと、「酸素供給でしかない」という西洋医学的な側面の情報に感化されすぎてしまったせいでもある。古来より特に東洋において、呼吸は身体と精神の双方の局面からその制御が重要視されてきた。

 呼吸という活動の最たる特異性は、自分自身がそこに意識を向けることで、その活動に関与出来るという点にある。全ての人間が絶え間なく行っている幾多の不随意運動の中で、随意的にその活動を変化させられる最たる生命活動なのだ。そしてその活動は人間の肉体と精神の接点として大きな意味合いを持っている。先に挙げたように精神から呼吸が影響を受けることもあれば、呼吸から精神に影響を与えることが出来ることは科学的にも証明されている。端的に言うと、人間の自律神経には、戦闘体勢用の交感神経と休息体勢用の副交感神経があるが、西洋医学では上室性頻拍を抑制する方法として副交感神経を活性化し心拍数を下げる頸動脈マッサージが一昔前までは用いられていたが、これと同じ理屈で深呼吸は副交感神経を活性化し、心拍を抑え、気持ちを和らげるとされている。交感神経が優位になりがちな現代生活の中では、呼吸を用いて心を落ち着かせることに用いることが多いが、そういった目的としては胸式呼吸よりも睡眠時に行われている腹式呼吸の方が副交感神経を活性化させるので効果的である。

 話は少し逸れたが、この「日常的には意識されず、意識を向ければその活動に関与できる。」という随意と不随意の合間で行われている呼吸という生命活動の「在り方」が、環境としての音楽というアンビエント・ミュージックの「在り方」に通じる。アンビエント・ミュージックは本来そうした在り方を求めて生まれた音楽だ。

 アンビエントの祖と呼ばれるエリック・サティがパーティで演奏をしているときに「頼むから僕の音楽を聴かないでくれ」と言った逸話はよく語られる。サティは何故そんなことを思い立ったのか。それは表現するという行為自体が内包する自己肯定という過失への懸念と、表現者としての対話への欲求の間に生じるジレンマから生じたことだろうと思っている。音楽や音、特に生活環境の背後にある音と人間との関係を考える上では、この「音楽を聴かないでくれ」という願いは非常に大きな意味を持っている。

 そもそも表現というものはそれを不特定の他者へと向けた時点で、「自己肯定」という要素を少なからず含んでいる。特に形式や権威に抵抗し、神秘主義や東洋思想に強い影響を受けたサティは、そういった表現行為そのものに伴う違和感に対して誠実に接した結果、家具のように「環境」の一要素としてある音楽、つまり自我のない音楽という概念に辿り着いたのではないかと思う。仏教において完全なる廃絶を求められる「怒り」の背景には必ず自己肯定が存在している。サティをはじめ、ジョン・ケージやイーノと言った、アンビエント・ミュージックの祖と呼ばれる人たちが東洋思想に傾倒していることは極めて自然なことのように僕には思える。ところが、一方で人間には交換という営みが不可欠であり、表現は他者との対話がなければ成立しえない。それに加えて音楽という表現は他の芸術に比べてその場にいる他者への不可抗力的な侵襲性が高いという特殊な問題も関与してくる。

 サティが「僕の音楽を聴かないでくれ」と言ったのは、自分の表現と、そこにいる聴衆ではない人間、つまり音楽を聴いていない人たちがいる空間との対話、音楽と空間との相互浸透を実現したかった。「聴かないでくれ」というのもひとつの強要ではあるが、現在のように記録媒体による「音源」再生という文化や技術がまだ普及していない時代には、音楽が流れたとき、つまり音楽家が演奏を始めた時には耳を傾けて「音楽を聴く」という既成概念が今以上に強くあって、そこから聴衆を一度解放することも必要だったのだろう。実際に休憩時間に演奏された「家具の音楽」は、「休憩時に演奏される音楽をどうぞ聴いてくれませんように……くれぐれも」とプログラムに記してあった上に、演奏の開始と共に「おしゃべりを続けて!」とサティが叫んでも、みんな黙って座って音楽を聴いたらしい。そういった慣習からの解放というのも東洋思想的な試みと呼んでも良いのではないだろうか。

 そういった起源を持つアンビエント・ミュージックは、背後に流れていても「日常的には意識されず、意識を向けるとその存在に気付く」という呼吸的な在り方を求めている音楽と言っても良いだろう。この考え方はジョン・ケージが強く影響を受けた鈴木大拙の「妨害なき相互浸透」という言葉によって、より明確な方向性を持つに至った。妨害(自己主張・自己肯定)のない相互浸透(作品によって生じる対話・不確定性)という在り方がサティから現在に至るアンビエント・ミュージックの系譜における重要な要素であると僕は思っている。だからそもそも、アンビエント・ミュージックのライヴの在り方や、作品の在り方という話にもなってくるのだが、そういう話はまた次回以降に。

伊達伯欣/Tomoyoshi Date伊達伯欣/Tomoyoshi Date
1977年ブラジル・サンパウロ生まれ。3歳の時に日本へ移住。ロック、ジャズ、ポスト・ロックなどを経て90年代後半より電子音楽を開始。ソロ作品に加え、Opitope、ILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから作品をリリース。西洋医学・東洋医学を併用する医師でもあり、2014年10月にアンビエント・クリニック「つゆくさ医院」を開院。自然と文明、アナログとデジタルをテーマに医療と音楽に従事している。

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