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イディオムとイディオット(語法と愚者)

イディオムとイディオット(語法と愚者)

──ある即興演奏のコンサートについての11のパラグラフ

文:ジャン=リュック・ギオネ、マッティン、レイ・ブラシエ、村山政二朗   訳:村山政二朗 Jun 12,2020 UP

9 異化の政治学

社会はなぜ即興演奏家を必要とするのか? 我々即興演奏家は小企業家である。自己のマネージメントに長けているばかりか、自分自身の上司や部下として、またプロデューサーや消費者として振る舞うのもうまい。ある意味で、即興音楽がおかれた状況は、資本主義の発展の未来を予兆する小さな実験室のようなものである。というのも即興演奏家であるには資本主義的経済において評価される特徴の多くを必要とするからだ。すなわち、その特徴とは個人的な動機、強力な個性、極度の柔軟性と適応性、異なる状況に即座に対応する能力、公(おおやけ)で演奏する能力(消費者のため)、絶えざる出世欲(「私の個人的な能力や楽器の特殊な演奏法を見て下さい。私がお見せすることは他の場所では手に入りませんよ」)などである。

これらすべての理由で、自由即興演奏をこれが60年代に出現した当時の政治参加の雰囲気に再び結びつけることは重要であると我々は考える。それは、自由即興演奏の開始の歴史的瞬間から現代資本主義的文化におけるその現状までの、資本主義の発展とイデオロギーの変化の関連をより良く理解するためである。我々が把握する必要があるのは、なぜ以前の即興演奏の左翼的展望がこの実践に内在する諸問題を認めることができなかったか、である(例えば、即興演奏家が究極の資本主義者の良いモデルになるという事実)。この政治的視野の狭さを生んだロマンティックな理想化を明らかにする必要がある。さらに理解する必要があるのは、なぜ即興演奏家が実践の形態としての即興演奏の政治的可能性について、しばしばあれほど極度に粗雑で過剰に簡略化した説明を広めたかである(もちろん、実際に自由即興演奏に進歩的側面が隠されているという原則から出発するならば、であり、我々はそう考える)。

さて、演劇の再現装置との関係で、コンサートの装置のうちにある暗黙の了解の政治的な言外の意味を考えてみよう。ブレヒト〔Bertolt Brecht〕の Verfremundungseffekt (不当にも「異化効果〔effect de distanciation〕」と訳されている)は、演劇の4番目の壁を取り除こうとする試みだが、その達成のため、観客を舞台とパフォーマーから隔てる幻想を遠ざけ、中断させ、観客の「受動的」で「疎外された」状態を明らかにする。こうして、実際、状況がいかに見せかけのものであるかを、観客は理解するようになると考えられている。即興演奏においては異化効果は二重である。というのは、演奏家の状況もまた混乱したものだからである。演奏家と観客は前もって予想できなかった状態に置かれ、双方の分離はもはや余り明白ではない。

問い:今この瞬間に、どんな状況に自分が置かれているにせよ、どれほど自発的にギブアップしたいと思うか?

即興演奏において濃密な雰囲気を引き起こすこと、その意図するところは、状況(聴衆、演奏、ディレクター、オーガナイザーを含む)を成立させている保守性を明らかにし、新たな条件の組み合わせへの欲求を生むことにある。即興演奏に処方箋はない。その目標は前例のない状況を作ることである。それも誰にとっても奇妙な状況を、啓蒙的な、あるいは前もって準備された指針なしに。自著『解放された観客〔Le Spectateur émancipé〕』の中で、ジャック・ランシエール〔Jacques Rancière〕はジョゼフ・ジャコット〔Joseph Jacotot〕の例を引いているが、これは生徒に自分自身も知らないことを教えようとした19世紀のフランスの教師である。ジャコットはそうすることで、認識的習熟の自負を問題視し、知性の前の平等を自身の出発点としていたのである。ランシエールの言葉のよると、ジャコットは「民衆の教育についての標準的な考えに反対し、知的解放を要求していた」。知の権威を演じることは(ギー・ドゥボール〔Guy Debord〕の批判あるいはブレヒトの啓蒙的配慮のように)、たとえその解体が意図されたとしても習熟の論理を再現することになる。

ブレヒトは、幾つかの戦略を互いに巧みに利用し(例えば、社会主義リアリズムを叙事的あるいはロマンティックなシナリオに導入すること)、特定の技術や効果を明らかする。しかし、いずれにせよ、彼の啓蒙的配慮はたえず観客を、知らぬこと、まだ学ばなければならないことから遠ざけていた。ランシエールは、見ることと聞くことについての考え方を変えることを提唱する。それも受動的な行為としてではなく、「世界を解釈する方法〔des manières d’interpréter le monde〕」として世界を変え再構成するために、である。彼は教育的距離やジャンルや規律についてのどんな考えにも反対である。しかし、彼の説明はそこで終わり、この反対が何に至り得るのかは言わない。これらの不平等を拒絶するだけでは充分でないのであるが。

我々はこれに取って代わる経験のモデルが必要である。それは、ある状況の中で適切な知として重要なこと、その欠乏も余剰も溶かす限りにおいて、階層的な知の主張には無関係なものであるだろう。認識的権威が解釈による反論を受けることが想定される時のように、それは解釈の問題ではない。解釈には媒介が必要で、これを通じ人は状況を考察し、こうして状況への自分自身の熱中を和らげる意識的方法が得られる。目標は、演奏の即時性を解釈の媒介に対立させることよりも、知と無知、能力と無能力とのあいだの差異が明白でなくなる瞬間を突き止めること、そしてこれに専心し、それらの見分けがたさを、状況において最も言語道断な矛盾が集中する焦点へと転換することなのだ。異化と愚かさ。

10 異邦人と愚者

人がノン‐イディオマティックな音楽家になるのは、イディオムがイディオムそれ自体の再現である事実への気づきによるならば、ノン‐イディオマティックな音楽家になるということは(超)異邦人になることに等しいだろう(ホワイトヘッド〔Alfred North Whitehead〕のサブジェクト(主体〔subject〕)が「スーパー‐ジェット〔super-jet〕」であるのと同じ意味で)。

基本的には、異邦人とはある別のイディオムを持った者であるのに対し、愚者はイディオムを全く持たないか、例外的に特異なイディオムを持つ。つまり、愚者があるイディオムを持つならば、それを使うのは彼だけだ。

従って、バックグラウンド・ノイズ〔bruit de fond〕の定義を、
形態として同定できない、かつ/あるいは定義できない、かつ/あるいは聴取者が興味を引かれない、音の中にある全てとし、
そして、「ざわめき〔rumeur〕」の定義を、
記号(形態かつ/あるいは情報かつ/あるいは影響)で出来ているノイズとするならば、
異邦人とはざわめきとバックグラウンド・ノイズの境界が異なる者である。

一方、愚者にはその境界が存在しない。彼にはバックグラウンド・ノイズとざわめきは全体として一つのもの〔en-Un〕として現れる。それはまた、情報かつ/あるいは形態かつ/あるいはサウンド等々であり得る……一音としての音の世界と一情報としての音の世界を区別しないこと。

「(超)異邦人〔super-étranger〕」とは「太陽の異邦人〔étranger solaire〕」である。この異邦人がイディオム(太陽に)に光を投げかけるという意味において。

「(超)愚者〔super idiot〕」とは「闇の中で見える愚者〔l’idiot nyctalope〕(闇の中でも見える人)」である。この愚者は自身ならではのイディオムを持ち、非言語的環境の中で話す(完全な闇の中で自分自身のために光を創り出す)ことができるという意味において。つまり、愚者は非言語的な道具〔instrument〕を用いて話すのだ。

ノン‐イディオマティックは馬鹿げている〔idiotic〕! しかし、それに向かう(あるいは直面する〔le vis-à-vis〕)傾向はノン‐イディオティックな〔non-idiote〕音楽を生む。聴衆と演奏家は共に異邦人となる……

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