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夢で逢えたら:デイヴィッド・リンチへの思い

夢で逢えたら:デイヴィッド・リンチへの思い

文:坂本麻里子 Feb 07,2025 UP

 日本では、例えば誰かに「自分は、昨日の晩にこんな夢を見た」と言う。これは、英語では「夢」を「見た」ではなく、「Last night I dreamt that…」になる。「I saw a dream」ではない。日本語の表現の方が理にかなっているんじゃないか、ずっとそう思ってきた。眠っている間に夢を見ている時、POVは自分にある。ドリーマーは主役/カメラマン/監督を兼任する。

 映画館で映画を観るのは夢を見るのに似ている。光の芸術であるゆえに、この媒体はヴューワーに90分~2時間ほど(最近は3時間近い大作も珍しくないが)、闇の中で自発的にじっと座ることを求める。人間は普通闇を避ける生き物なので、その意味で妙なメディアだ。ホームシアター設備を備えている家庭は多いだろうし、携帯で映画をストリームできる今の時代、闇はもはや必要ないのかもしれない。しかしCMや他の映画の予告編が終わって淡く灯っていた客電が落ち、静寂が訪れ、映画本編上映が始まってからしばしの間、観客は起きたまま夢の中に入り込む。たとえ、外はまだ昼間であっても──デイヴィッド・リンチの訃報に触れて以来、そんなことを考えていた。

 「リンチの思い出を書いてみませんか」と声をかけていただきこの文章を書いているが、リンチ作品との最初の出会いは実は細かく憶えていない。恐らく『エレファント・マン』(1980)のテレビ放映だったのだろう。最後でおいおい泣いた。次はリンチ唯一の大予算巨編『デューン/砂の惑星』(1984)になるが、当時日本のSFアニメが好きで洋物実写に興味の薄かった筆者は公開時に観ていない。リンチの名前をちゃんと意識したのは、だから『ブルー・ベルベット』(1986)になる。ただしこれも、最初はビデオで観た。

 今とは違い、映画は劇場公開からしばらく経ち、地上波テレビ放映されれば御の字、あとはビデオソフト化(DVDではなくビデオカセット)を待つほかなかった。しかしソフトは高価だったので、レンタルビデオが隆盛した。『ブルー・ベルベット』は、映画評を読むとやばそうな内容だった。あの頃親から「お前はネクラだ」とたしなめられていたので、こっそり借りて、深夜にひとりで観た。正解だった。

 80年代は日本で単館〜独立系ミニシアターが増えた時期でもあった。大手系列館ではカバーできないアート/インディ映画やアングラ映画は、そうした水脈&土壌にも保護されていた。筆者が品揃え豊かなレンタルビデオ店やミニシアターの恩恵に与ったのは上京後。『このビデオを見ろ!(別冊宝島)』他をガイド役に個性的なビデオ店をはしごし、『ぴあ』をチェックして英国美少年映画祭オールナイト上映、六本木シネ・ヴィヴァン、新宿武蔵野館のやくざ映画二本立て、東中野シネマシオン、渋谷ユーロスペース、各種名画座/上映会等、ハイ/ロー入り乱れて色んな「闇」にもぐり込んだもの。中でも、ミッドナイトムーヴィー(あるいはカルト映画)は独特な磁力を放っていた。

 ミッドナイトムーヴィーの起源には諸説あるが、特に70年代にアメリカで盛り上がった現象とされる。問題作、アート/インディ/海外映画、ジャンル映画、エクスプロイテーションもの等が、物好きなお客相手に深夜に単館上映された。「観てはいけない」と言われると観たくなるのが人間の病的な性(さが)であり、人目を忍ぶように夜に観るのも背徳感がある。そのカルチャーが「ジャンル」として日本に波及したのは80年代だったと思う。

 リンチの長編処女作『イレイザーヘッド』(1977)を筆者が遂に観ることができたのもその流れだった。しかし、『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)や『リキッド・スカイ』(1982)といったひいきのカルト作品とはまったく趣きが違ったので驚いた。構想は1970年にスタート、撮影開始から公開まで実に5年かかったこのモノクロ作品、当時のトレンドやサブカルチャー(ニューシネマ運動、キッチュ/キャンプ美学、グラム〜パンク〜ポストパンク等)と絶縁した、あまりにパーソナルに閉じた映画だった。

 主人公ヘンリー(ジャック・ナンス)のルックスはセルゲイ・エイゼンシュテインとジャン・コクトーと事務員の中間だし、一方で他の登場人物も含めミザンセーヌは40〜50年代アメリカ映画のノリ。映像のトリックや夢のロジックは、ジョルジュ・メリエスやシュルレアリスト映画(コクトー『詩人の血』/1932年、マヤ・デレン『午後の網目』/1943年、ハンス・リヒター『金で買える夢』/1947年等)の系列にある。唯一コンテンポラリーな要素は、荒廃した屋外の通りとインダストリアルなサウンドスケープ、そして2年後の『エイリアン』のゼノモーフを予期させる「赤ちゃん」のエグいデザインおよび特殊効果くらいだろう。

 それくらい、『イレイザーヘッド』の出来事が起こる空間は現実界とシンクロしていない。若くして父親となったリンチ本人の自伝的背景や、美大生時代を過ごしたフィラデルフィアのトポロジーも作用している(70年代のフィラデルフィアの雰囲気は1976年公開の『ロッキー』を観れば少し掴める)。とはいえ、主人公の部屋──その、壁紙、床板、カウチ、フロアランプから成るインテリアのヴァリエーションは以後繰り返し登場する──が最たるものだが、目に見える/耳に聞こえるすべてはリンチの想像力あるいは夢の世界の具現化と言える。

 実在人物を描いた物語(『エレファント・マン』、『ストレイト・ストーリー』/1999年)と架空の世界(『デューン』)を除くと、彼の映画およびテレビ作品の大半はこうした彼個人の想像力/無意識/オブセッションの現出だった。夢を真摯に、明晰に描いたがゆえに、その世界は常にどこかが「ズレて」いたのだし──リンチ映画のセリフや設定の陳腐さ、独特なペース、役者の超フラットあるいは激エキセントリックな演技は、他の監督の手に掛かったら成り立たないだろう──、普通に辻褄の合う映画を期待して観ると、「なんで?」の連続になる。だがそれは、自分でも気づいていなかった心の闇の部分を刺激される、「意味は分からないけど、もう一度観たい」と引き込まれる唯一無二な世界だ。

 その不可思議さが「味」として確立されたのが、『ブルー・ベルベット』と『ツイン・ピークス』の第一シーズン(1990)だろう。クラブ他でシンガーが歌うダイジェティックな場面、時の止まったごとき平和な町と不健康な暗部の共存、常識はずれの悪(evil)、オフビートなユーモア。それらが相まって形成される、アナクロニズムの魅惑(オールドスクールなロックンロールやジャズが占めるリンチの世界では、1964年のビートルズ米上陸──リンチ本人は64年にビートルズのライヴを観ているものの──は起きなかったかのような錯覚に陥る。そこから先はコンテンポラリーな90年代メタル/インダストリアルにジャンプしてしまう)。『ツイン・ピークス』は日本でも盛り上がり、関連書籍も色々と出た。筆者はレンタルで観たが、毎回コーヒーとドーナツを用意して鑑賞したものだった(チェリーパイは当時日本では見かけなかった)。

 この2作で主役兼ヴューワーの身代わり(=謎を探る主体)を務めたのはリンチのオルター・エゴであるカイル・マクラクランだ。リンチはよく、『スミス都へ行く』(1939)や『素晴らしき哉、人生!』(1946)といったヒューマニスト映画で名を馳せた「ミスター・ナイスガイ」、ジェームズ・スチュワートに似ていると言われた。そのイメージにひねりを効かせたのがヒッチコックで、特に『裏窓』(1954)と『めまい』(1958)で覗き魔/探偵の境界線をぼかし、夢の女にフェティッシュな執着を抱く役柄をそれぞれ演じたスチュワートは、『ブルー・ベルベット』のジェフリー(『裏窓』の主人公の姓名はジェフリーズ)と『ツイン・ピークス』の堅物捜査官デイル・クーパー(「最も美しい死体」と称されたローラ・パーマーに、彼は魅入られたと言える)がだぶる。

 すれたところがなく誠実そうなマクラクランは、「善VS悪」を軸とするリンチ世界で善とその戦いを体現するヒーローと言える。しかしスモール・タウン〔※〕を出て、リンチがアメリカ映画の別のトロープ、すなわちロード・ムーヴィー(およびそのリミックス)を撮り始めたところで、モラルの境界線は錯綜していく。『ワイルド・アット・ハート』(1990)の主役のひとり=ルーラ(ローラ・ダーン)が言うように、「This whole world's wild at heart and weird on top(この世って根っから荒っぽくて、その上妙ちきりん)」なのだ。

 『ワイルド・アット・ハート』のもうひとりの主人公セイラー(ニコラス・ケイジ)は、マーロン・ブランドを思わせるヘビ革ジャケットを愛用しプレスリーを歌う、マクラクランの好青年とは真逆のアンチヒーロー。この善悪の反転はメビウスの輪へとねじれ、「ハリウッド三部作」=『ロスト・ハイウェイ』(1997)、『マルホランド・ドライブ』(2001)、『インランド・エンパイア』(2006)で加速していく。リンチにしか説明できないロジック&抽象を押し進めた、ハルシネーション(幻覚)とハレーションの交響楽──美/醜、感傷/怪奇、アイデンティティが錯綜するこれら3作は、「感じる」映画だ。オチがつかず、しかも抜け出せない悪夢にうなされる時のように、じかに感覚が揺さぶられる。

 そんな濃厚な夢に付き合うには観る側もそれなりの覚悟がいる。リンチの劇場映画はどんどん長くなっていった(雇われ仕事である『エレファント・マン』や『デューン』も2時間越えだが、原作の性質上仕方ない。『デューン』が長編1本で収まらないサーガなのは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版でご承知の通り)。『ワイルド・アット・ハート』で2時間の線を破り、『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』(1992)と『ロスト・ハイウェイ』は134分、『マルホランド・ドライブ』で147分、映画では最後となった『インランド・エンパイア』に至っては180分だ。

 その意味で、実験/アート映画の方向をとるのではなく、リンチが2017年に『ツイン・ピークス The Return』で大衆向けのドラマに久々に立ち戻ってくれたのは、英断だったし溜飲が下がった。18話に及んでハルシネーションを展開することでロングフォームTVの可能性を広げたのはもちろん、様々な「盟友」と再会を果たし、ライトモチーフやお家芸やテクニックを洗練・更新したあの作品は、彼の現役ぶりを示すと同時に総決算でもあった。

 もはや彼の新たな夢を見ることがかなわなくなった現在、謎(エニグマ)の山をどっさり残してくれたあの合計約17時間は貴重だ。ポリマスなアーティストだったゆえに、音楽、絵画、写真、書籍、ウェブ等、その感性はマルチなアウトレットを通じて発された。しかしリンチの遺した10本の劇場映画および『ツイン・ピークス』は、やはりそれらを集約した「総合芸術」であり、稀に見る夢の映像化だったと思う。

 『ツイン・ピークス』に出て来る用語に「青いバラ」というのがある。「Blue rose」は自然界に存在しない=「不可能/ミステリー」の意味でもあり、作品中では異界のフォースや超常現象を指すが、これはリンチというエニグマにもぴったりな気がする。彼は2010年にディオールのハンドバッグ、レディ・ディオールの連作広告のひとつ『Lady Blue Shanghai』篇を作った。主演のマリオン・コティヤールは記憶が混乱したまま、ホテルの部屋に鎮座した謎のバッグを開ける。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ!』(1955)を想起せずにいられない場面だが、しかしその中に彼女が見つけるのは──記憶の中の恋人から渡された青いバラ、愛のシンボルだ。

 バラと言えば、『ブルー・ベルベット』の冒頭で鮮やかに咲き乱れる赤いバラのイメージも有名だ。しかし「Red rose」は「Dead rose(死んだバラ)」と韻を踏みたくなるし、対して「Blue rose」は「New rose(新たなバラ)」と思える。『エレファント・マン』のラストにはテニスンの詩「Nothing Will Die」が引用されるが、テニスンはその対を成す無常を歌った詩「All Things Will Die」も書いていた。そう考えるとリンチは、なんだかんだ言って善や愛が最後に勝つ、再生を信じていた人だったと思う。だから彼の夢の中に入るのは怖くないのだ。幕はいったん引かれたかもしれないが、映画館で、テレビで、ウェブで、彼の青いバラはどこかの闇の中で繰り返し花開き続ける。そんな風に何度でも夢で逢えるのは、素敵なことだ。

〔※〕『ブルー・ベルベット』の舞台ランバートンのあるノースカロライナ州、および『ツイン・ピークス』の主な舞台であるツイン・ピークスのあるワシントン州は、いずれもリンチが子供時代に暮らした州。

Profile

坂本麻里子/Mariko Sakamoto
音楽ライター。『ROCKIN'ON』誌での執筆他。ロンドン在住。

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