Home > Interviews > interview with KGDR(ex. キングギドラ) - 1995年、曲がり角の名盤。
日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。(Kダブシャイン)
■日本では〈メジャー・フォース〉のように、本来、オルタナティヴであるはずのものがメインになってしまっていたということでしょうか?
Z:イメージとしては、やっぱり、ファッションな感じがしてたかな。たとえば、オレがどーしても受け入れられなかったのが〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉。だから、あれがイイと言っているひとたちとは感覚がちがうわっていうのはあった。オレは〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉だったら、〈フットロッカー〉のほうが好きだったから(笑)。
■タイニー・パンクス時代の藤原ヒロシはヴィヴィアンにアディダスを合わせたりしていましたよね。
Z:オシャレだとは思うけど、オーセンティックな、ストレートなヒップホップではないっていうところが自分の好みとはちがったな。
K:クイーンズ・ブリッジじゃそんな格好してるやついないよ、みたいなさ。
■〈メジャー・フォース〉系には「ブラック感」が足りない。ディスコ系には「いま感」が足りない。自分たちがど真ん中だと思うもの〝だけ〟が日本のラップ・ミュージックからは欠けていたと。
K:ただ、オレはいとうせいこうさんがCMでやってた「ネッスルの朝ごはん」のラップ(87年)、あれは許容範囲だったんだよね(笑)。あと、88年か89年の年末に、横浜にあった〈グラン・スラム〉ってプリンスがプロデュースしたディスコでB-FRESHのライヴを観て、「こっちは〈メジャー・フォース〉よりはありだな」と思ったな。立ち居振る舞いとかも含めて。
Z:ちょっと悪そうだったもんね。
K:ブラザー感出てるっていうか、ファンキーな感じがして、可能性を感じた記憶がある。
Z:それで言ったら、オレは『ダンス!ダンス!ダンス』(フジテレビ、90年)を観てたらクラッシュ・ポッセが出てきて、オケが“ワイ・イズ・ザット?”(ブギー・ダウン・プロダクションズ、89年)か何かを使ってたのかな? 「おー、こういうやつらいるんだ!」ってアガったな。
K:実際には、いろいろなタイプのラッパーが出てきてたんだろうけど、自分のことで精一杯だったから目がいってなかったのもあるのかもしれないね。
■ただ、〈メジャー・フォース〉は日本ならではのヒップホップの形を模索していたようなところもあったと思うんですよ。また、『ZEEBRA自伝』には、80年代のことを振り返る、「一時期、黒人になりたくて、なりたくて、しょうがなかった/もちろん無理なんだけどさ」という一節がありますが、ZeebraさんもKダブさんも、当初は英語でラップしていたのが、ある時期から日本語にスウィッチして、独自の表現を目指していきますよね。
Z:もちろん、それはいちばんはじめからわかっていたことであって、オレもブレイクダンスからヒップホップに入ってるし、「黒人ばかりじゃねぇよな」って印象はあって。「プエルトリカン、多いな」とか、何だったらアジア人のブレイカーだって、白人のブレイカーだっていたわけだし、オレは、もともと、この文化を黒人だけのものとしては捉えてない。だからこそ、「日本人の自分だって入っていけるはずだ」と思ってたっていうか。デカかったのは、88年に初めてニューヨークに行ったときに、ボビー・ブラウンとニュー・エディションとアル・ビー・シュアの3組がいっしょにやるっていうんで〈マディソン・スクエア・ガーデン〉に観にいったんだけど、真ん中のPA・ブースはエリック・Bをはじめヒップホップ・スターだらけで、「わー、ハンパねー」って感じで。それで、フロアは見渡す限りシスター。しかも、いまのビヨンセみたいな感じじゃなくて、みんな、格好が小汚いんだよ(笑)。そんな中で本編がはじまる前にビースティ・ボーイズがかかったら、どーん! どーん! って超盛り上がって。しかも、“ファイト・フォー・ユア・ライト”(87年)とかじゃなくて、“ポール・リヴェア”(86年)とかだよ? そのときに、「あ、ビースティ・ボーイズはちゃんと受け入れられてるんだ? ……ほう」と思った。オレはそれにだいぶ、背中を押された感じがある。
■なるほど。つまり、名誉黒人になりたかったから英語でラップすることを選んだわけではなく、アメリカのヒップホップ・シーンは人種を問わず参戦可能だと思ったからこそ、共通言語である英語でラップすることを選んだのだと。
K:オレなんかは、高校の頃からアメリカで黒人とつるんでたし、なんとなく自分はもうアメリカ人だって気分でヒップホップを聴いてたんだよね。
Z:オレもそうだったな。
K:だから、キング・ギドラにしても、アメリカのヒップホップから枝分かれした存在というイメージで、対して日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。
O:ふたりの話を聞いてて思ったのは、『ソラチカ』をつくる上で、もちろん、刺激を受けた音楽が同じだったっていうのも重要なんだけど、昔の日本語ラップを聴いたときの違和感が同じだったっていうのもデカいのかなって。
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■『空からの力』は、いまでこそ「名盤」だとか「教科書」だとか「王道」だとか言われますけど、やはり、リリース当時は日本のシーンに対するカウンターとしての側面も持っていたということですよね。
K:うん、そうなんだよね。
黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。(Kダブシャイン)
■Kダブさんが、「日本語でラップをやること自体、不可能なんだなって決めつけちゃったんだ。英語もわかりはじめてたし、そもそも、文法がちがうじゃんって」というところから方向転換をしたのはどうしてだったのでしょうか?
K:やっぱり、アメリカのラップを聴いてると、みんな、メイン・ターゲットが自分のコミュニティの人たちなんだよね。ブルックリンの奴らはブルックリンに向けて、クイーンズの奴らはクイーンズに向けて、サウスブロンクスの奴らはサウスブロンクスに向けてラップしている。西じゃ「ウェッサーイ!」とかさ。そういうふうに、自分の地域をレップして、その地域の奴らに聴かせるっていうのが基本なんだなっていうことがわかってくると、「〝日本から来て、アメリカに住んでいる日本人〟みたいなアイデンティティでは限界があるなぁ」と思いはじめて。あと、黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。その意見が、自分の中で「どうするんだ、お前は?」っていう自問自答の声になっていってさ。それで、ある日、「じゃあ、日本語でやってみようかな」ってリリックを書きなぐってるうちになんとなく原型になるものができて。「あ、こういう感じで続けていけばいいのかな」って気づいたときにはもう夢中になっていて、半年とか1年とかひたすらやりつづけてたっていう感じかな。
■つまり、先ほど、Zeebraさんが言っていたようにラップはマルチ・エスニックな、あるいは、グローバルなカルチャーでもあるわけですが、同時にローカルなカルチャーでもあって、それについて考えている中で、「やはり、日本語でやるしかない」という動機づけがされていったと。
K:そうだね。あと、やっぱり、アメリカに長くいることで、望郷の念みたいなものも膨らんでいってさ。日本人でいることを意識するようになったし、もちろん、アメリカにもいいところはいっぱいあるけど、「こういうところは日本のほうが良いよなぁ」と思うことも多くて、より日本を好きになっていったわけ。一方で、日本に帰るたびに、友だちがジャンキーになってたり、パクられてたり、死んじゃってたり、「ええー? 日本、大変なことになってるじゃん」って感じて。「いま、渋谷でこうなってるってことは、そのうち、全国的にこうなっていくんだろう」と思ったし、あるいは、アメリカでスラムを見て、「日本がこうなったらどうしよう」っていう危機感も持つようになった。そういうふうに、変わっていく日本に対して自分ができることはなんだろうって考えはじめた時期と、日本語のラップに取り組みはじめた時期がちょうど重なったんだよね。
■アメリカがある種のディストピアに思えた。日本がこれから向かっていくような。
Z:当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。
当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。(Zeebra)
■『空からの力』に顕著な雰囲気ですよね。
Z:それと、賛否両論はあると思うんだけど、当時、『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり、92年~)とか、実際、おもしろかったし。
K:あぁ、オウムとか薬害エイズについて描いてたころだよね。
Z:隠されている真実をあからさまにするっていうことを、ヒップホップではパブリック・エナミーだったりがやってきたわけだけど、当時、『ゴー宣』にはそれに近い感覚があると思ったし、日本でもそういうものがパブリッシュされることで、そういう目線で物を見るひとが増えてるってことは、逆に言えば、「いま、パブリック・エナミーみたいなことを日本でやってもいけるんじゃねぇの?」って思わせてくれたし。
K:本当のことを言ったり、言いたいこと言ったりするのは当たり前だろうっていう。
■『空からの力』をつくるにあたって、『ゴーマニズム宣言』に刺激を受けたようなところがあった?
Z:すごいでかいなぁと思って。たとえば、自虐史観みたいなことに関しても、「本当のことに気づかせてくれたな」っていう感じが、正直、オレはしたし。どこまでが真実で、どこまでが誰かがつくった虚構なのかっていうことはわからないけど、100%悪くないわけじゃないし、100%悪いわけじゃないしってことを知るだけでも、本当に意識が変わった。台湾のひとたちが日本をリスペクトしてるんだって知ったのも『ゴー宣』だったりするから。「あぁ、こういうことを、エンターテイメントとして世の中に伝えていくやり方があるのか。だったら、オレらもラップでそれをやればいいんじゃないか」っていうことは、当時、すげぇ思った。
■なるほど。では、日本語でラップをはじめた頃に話を戻すと、『ZEEBRA自伝』には、「T.A.K THE RHHHYMEの家にたまに遊びに行った時に、(略)/「そういえば、この前、コッタ君(Kダブ)から電話あってさ」みたいな話になった。/「コッタ君、ラップ始めたらしいよ」/「しかも日本語でやってて、結構ライムがちゃんとしてたんだよ」って。/(略)その当時、Kダブはオークランドに住んでいたから、国際電話でラップを聴いたのかな。/あっ、これはこれまでの日本語ラップとは違うな。/聴いた瞬間に、そう思った」というエピソードが書かれています。そして、感化されたZeebraさん自身も日本語のリリックを書きはじめるという流れですよね。
Z:そうだね。(Kダブのラップは)ライムヘッド邸で聴いたんだと思う。
■それって具体的に何年だったか覚えていますか?
Z:たぶん……92年くらい?
K:アメリカで黒人の友だちに聴かせて「何言ってるかわからないけど、いい感じだよ」みたいなことを言われたりとか、アメリカに住んでる日本人や、日本の友だちにも感想を求めたりとか、そういうふうにして、試行錯誤しながら自信をつけていってたんだよね。その流れでヒデにも聴かせたんだと思う。
■ちなみに、『渋谷のドン』には、「次第にアメリカでオレの日本語ラップが認められるようになり、帰国した際にも、それを友だちに披露していたりした。その頃、汐留のレイブパーティでヒデ――Zeebraと再会」という記述があります。この、〝レイブパーティ〟とは?
Z:えー、何だっけそれ?
K:ああー、その電話のあとで偶然会ったのが、汐留っていうか、新橋の線路の下みたいなところでやってたレイヴで。
Z:はいはい。日本ではレイヴがまだこれからっていう頃だったんだけど、それはゲスト・リストに載ってないと入れないようなクローズドのパーティで、オレは友だちがみんな行くっていうからついていったら、たまたま、コッタくんに会って。
K:オレがうんざりして、「アメリカから帰ってきたばっかりなのに、こんな音楽聴くのエグいんだけど」って言ったら、「車の中でヒップホップ聴こうよ」みたいな話になったんだ。
■いい話ですね!
K:当時、オレはオークランドの地元のファンク・バンドとかラッパーと交流があって、ちょうど、ベイエリアのシーンが目立ちはじめていた時期だったから、その車の中で、「とりあえず、日本よりはおもしろいことになってるよ。ラップやるなら、オークランドに来れば?」みたいに誘ったんじゃないかな。あと、同じ頃、友だちの結婚式の二次会で、ヒデとノリでワン・ヴァースづつラップしたらすげぇ場が盛り上がって、いいケミストリーだなっていうのを感じたこともあった。
オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。(Zeebra)
■ところで、ZeebraさんがKダブさんのラップで惹かれたのはどんな部分だったのでしょうか? 『ZEEBRA自伝』には、Kダブさんにラップを聴かされた当時、「RHHHYMEは3Aブラザーズっていうグループを組んでいて、UBG(アーバリアンジム)のINOVADERと1-Low(イチロウ)というMCと一緒に日本語のラップをやってたんで、たまに聴かせてもらったりしてた。/でもライムに関しては、もっと違うやり方があるんじゃないかって思っていた」という一文があるように、周囲でも同時多発的に日本語による新しいライミングの仕方が模索されていたと思うのですが。
Z:当時のライムヘッドたちはまだ最後の1文字を合わせるぐらいで。それに対して、コッタくんが聴かせてくれたのは、単語単位で、3文字とか4文字とかで踏んでたから、「あ、ちゃんと韻として成立してるじゃん」と感じた上に、「これだったらオレにもできるじゃん」と思わせてくれたんだよね。
■ただ、それまでの日本にも、単語で踏んでいたラッパーはいましたよね。たとえば、いとうせいこうのアルバム『MESS/AGE』(89年)に付属されていた、〝福韻書〟と題したアルバムの中で使ったライミングのインデックスには、単語がずらっと並んでいます。
Z:いや、それまで、3文字、4文字の単語で、すべて母音を合わせるってことをやってたひとは、そんなにはいなかったんじゃないかな。4文字の単語で、最後の2文字が合ってるとかはあったかもしれないけど。たとえば「~の剣幕」と「~が開幕」とか。
K:「逆境」と「東京」とか。
Z:でも、「剣幕」と「円卓」みたいな踏み方はあまりなかった。
K:オレは、それまでの日本語ラップは、語尾を毎回、「あ~」とか「わ~」とか「ど~」とか延ばして響きを似せることを韻と定義しているという印象があって、ただ、それは韻じゃないって英語のラップを聴いてわかっていたから、自分としては英語の韻の構造を日本語に当てはめたみたんだよね。
Z:オレたちとそれまでのひとたちとは韻に対する考え方がちがったんじゃないかな。オレたちにとっては踏むことがメイン。だから、それまでのひとが「ここは踏めないけど、言いたいことがあるからいいか」ってスルーしちゃうのは、オレらにとってはおもしろくも何ともない。そこをなんとか踏んで、なんとか意味を通すことがアートだって考えてるから。
K:それまでの日本のラップは、作文の途中に韻を踏む言葉が入ってたりするぐらいの感じだったと思うんだよ。
Z:以前、ラキムが「ラップのデリヴァリーは、ジャズでトランぺッターやサキソフォニストがソロを吹くときのパターンと同じだ」っていう話をしてたんだけど、まったくその通りで、たとえば、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪の〝パララ♪〟ってところがラップにとっては韻なんだ。そういうふうに、オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。
■ライミングをひとつの演奏として捉える。
K:欧米で詩を書くときに使う思考法を、それまでの日本人が持ち合わせていなかったのに対して、たまたま、アメリカに行って、英語でものを考えるくせがついていた若者がその思考法をパッと日本語に置き換えたのが、当初のオレのラップだったと思うんだよね。
■『渋谷のドン』には「日本語のラップが成立するかもしれない。そう思い、ひとりで研究をはじめた。そして、中国の漢文が韻を踏んでいることを思い出す。漢文にならって音読みを用い、倒置法や体現止めを試してみた」とも書かれていますね。
K:うん。大学生のときに、日本語って「~です」とか「~でした」とか「~ました」とか、いわゆる韻ではないけれど、韻律を合わせた語尾で終わるようになっているから、そもそも、韻を踏む必要がない言語だっていうことに気づいたのね。でも、新聞の見出しみたいに体現止めにして、漢文みたいに熟語で踏んで行けば、日本語でも韻のおもしろさがわかりやすく伝えられるんじゃないかと思ったんだ。ただ、研究しているうちに、「~なった」と「~あった」でも踏めるとかさ、「有り触れた言い回しでも、しっかりしたラインだったらOK」とか、自分の中でのルールができていって。だって、“スタア誕生”の「スターになる夢見育った/素直でかわいい女の子だった」とか、ぜんぜん、体現止めでもないし、普通の1ラインじゃない。だから、体現止めや熟語で踏むことにこだわってると思われがちだけど、そうではなくて。
Z:でも、「育った」と「子だった」って、ちゃんと、「そ」と「こ」から踏んでるんだよね。
K:そうそう。そこが気がきいてるのを汲み取ってよ、みたいなさ(笑)。
大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。(Kダブシャイン)
■『空からの力』のいちばんのメッセージは「韻を踏むことがモラルである」ということだと言っていいと思うんですけど、それが、日本のラップ・ミュージックを変え、ひいては日本語を変えていったわけですよね。
K:オレがアメリカに行った頃、ラップしてるらしきやつに会うたびに、当時の拙い英語で「Do You Rap?」って訊いてたのよ。そうすると、大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。実際、向こうのラップを聴くと、「Rhyming」「Rhyming」「Rhyming」ってみんな言ってるからさ。それで、オレの中で韻を踏むっていうことが大前提になっちゃったんだよ。
■OASISさんは、最初にKダブさんとZeebraさんのラップを聴いたときどう思いましたか?
O:まず、「日本語でもこういうふうになるんだ」と思ったし、同時に「ラップってこういうことなんだ」とも思った。それまで、パブリック・エナミーのラップを聴くにしても、対訳を読んだり、辞書を引いたり、理解しようとはしてたんだけど、やっぱり、ちゃんとは理解できてなかったし、どうしても、音として聴いてるようなところがあって。でも、コッタくんとヒデのラップは、向こうのラップがそのまま日本語になっているような感じで、それを聴くことによって、ヒップホップっていうものをより深く理解できたし、もっとヒップホップを聴きたいって欲が出てきた。そういうことは、それまでの日本語ラップではなかったよね。
■そして、OASISさんもラップを始めます。
O:うん。『ソラチカ』を聴いて「ラップをやりたい」と思ったひとがたくさんいたのと同じように、オレはリリースの1年前とか2年前にそれを体験していて。ふたりのラップを聴かなければ、自分がマイクを持つようなことにはならなかったんじゃないかな。
Z:オレらも、その後、先人たちがやってきたことを振り返って、「あぁ、もうこの段階でこういうことをやってるんだ」「あぁ、こういうこともやってるんだ」って気づいたし、ただ、当時のオレらにそれが届かなかったのは、たとえば〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉を着てたからとか、フロウがちょっと古かったとか、それだけのことだったのかもしれない。あるいは、彼らが試行錯誤を公開してくれたからこそ、オレらは同じ轍を踏まずに済んだし、オレらは試行錯誤を公開せずにスタイルが完成した後、『ソラチカ』として世に出したからこそ、あのアルバムがラップの教科書として機能したのかもしれないよね。
取材・文:磯部涼(2015年6月17日)