Home > Interviews > interview with Kensuke Ide - サイケ詩人、空想の物語
「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。
■つまり一枚のアルバムを通して物語を提示しようと考えたということでしょうか?
井手:ある意味ではそうですね。ただ、アルバムではそんなにはっきりとストーリーを提示してはいないんです。映画でもそうなんですけど、ストーリーを伝えることがメインになりすぎてはいけない。それよりも作品内時間のそれぞれの瞬間に快楽があるものにしたいと思っていて。とはいえ、実は裏にはちゃんと物語があるので、曲順もすべて意味があるんですよね。物語の内容はバンド・メンバーにも共有しています。
■映画的であり、演劇的でもありますよね。演劇って、役者がそこにはいないはずの人物を演じて、あたかもいるかのように観客に思わせるというパフォーマンスじゃないですか。井手さんの作品には、これまで「幽霊の集会」や「ポルターガイスト」など幽霊的なものがテーマとして出てくることがありましたが、幽霊というのも「本当はいないはずのものを、あたかもいるかのように感じる」という意味で演劇と似たところがあります。井手さんはなぜ、幽霊的なものに対して興味を抱いているのでしょうか?
井手:映画でも音楽でも、サイケデリックな感覚、つまり「今・ここにいる場所からどこかに飛んで、今・ここではない場所に行ける」という快楽を求めて観たり聴いたりしているんですよ。なのでそうした体験をもたらす要素を自分の作品にも取り入れたいとは思っています。幽霊という存在においては「目には見えないけれど、いる」という存在の仕方が成立しますが、そういう現実の成り立ちが揺らぐような感覚を音楽に取り入れられたらと思っています。
■幽霊的なものを感じるという意味で影響を受けたミュージシャンや作品はありますか?
井手:色々あります。このアルバムを作るうえで影響を受けた音楽はたくさんあるんですが、映画も結構あるんです。「この曲ってあの映画みたいだな」とか、「この曲順はあの映画のエンディングだよな」とか、そういうふうに、つねに頭の中で映画と結びつけると、僕にとっては制作が進めやすいところがあるんです。このことは石原さんとも話してて、セカンドを作りはじめた最初のころに「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。また、ロバート・ゼメキスという映画監督がとても好きなんですが、セカンドを制作しているときは彼の作品がなんども頭のなかに浮かんでいましたね。なかでもいちばん結びつきが大きいのは『コンタクト』(1997年)というSF映画でした。あの作品からはものすごく影響を受けたと思います。
■どういう点で影響を受けたのでしょうか?
井手:『コンタクト』は地球外生命体と人類の接触をテーマにした物語なんですが、これから観る人の楽しみを損なわないように簡単に説明すると、最終的にジョディ・フォスター演じるエリー・アロウェイが宇宙に行ってものすごいトリップ体験をするんですよ。そこで、会うことがありえない存在に会う訳ですね。でも、同時に、見る人から見たら宇宙には行っていないとも言えるような、とにかくそんなトリップなんです。僕はこの映画がとても好きで、そこから着想を得たのがセカンド・アルバムの2曲めの “妖精たち” っていう曲なんです。他にも4曲めの “ポルターガイスト” や9曲めの “ぼくの灯台” もそうなんですが、「もうここにいない存在に会う」というのがアルバムの節々でテーマになっていきました。なので『コンタクト』からはものすごく影響を受けていて、アルバム・タイトルにも「コンタクト」という言葉を入れているんです。
■たしかにタイトル(『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists』)にも「コンタクト」というワードが入っていますよね。ちなみにタイトルにあるエクスネ・ケディという名前も映画と関係があるんでしょうか?
井手:内緒です(笑)。これは石原さんと話している間に偶然生まれました。ロックをテーマにアルバムを制作するにあたって、僕が僕のままではダメで、僕以外の誰かになる必要があると思ったんです。自然体ではなく、自分に何らかの圧を加えて歌ったり、グラム化した楽曲が求める歌手を演じたいと思ったときに、別人格を作る必要があったんですね。自然な流れでそう考えたので、「あ、おそらくジギー・スターダストもマーク・ボランもこうだったんじゃないか」と思ったりしました。とにかくエクスネ・ケディという別人格が生まれて、そして曲のアレンジもまるで別人格を持ったように生まれ変わっていきました。不思議だったのは、どんなにアレンジを変えて、いろんなものがそぎ落とされていっても、曲が持つ純粋な部分だけは残ったんです。むしろ、たとえば寂しい曲を明るく歌うことで、逆にその寂しさが浮かび上がってきた。「架空の自分を通して本当の自分を見つける」という体験ができたことは非常に新鮮でした。
高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。
■セカンド・アルバムでは楽曲ごとに異なる歌い方に挑戦されてますよね。それも「演じる」という意味で意識的に取り組んでいるのでしょうか?
井手:そうですね。石原さん、レコーディング・エンジニアの中村宗一郎さんとみんなで模索しながらやった結果、ああいうかたちになりました。歌い方を曲ごとに変えるというのは初めての試みでした。
■楽曲ごとにモチーフとなるような歌手はいたのでしょうか?
井手:基本的にはいませんでした。とにかくロック的なるものとはなんだろうということを考えていて。それは自然体ではなく人工的なものだろうと思っていました。歌について石原さんが言っていたことでなるほどなと思ったのは、一見どんなに優しげな声で歌っていても、その中にある種の怒気や苛立ち、歪みを内包しているべきだ、と。
■いろんな歌い方をされたなかで、井手さんにとっていちばんしっくりくるものはありましたか?
井手:1曲めの “イエデン” のファルセット・ヴォイスは、なかなか気持ち悪いんですけど(笑)、その気持ち悪さが気持ち良いなとは思いました。逆に4曲めの “ポルターガイスト” は、気持ち悪さがそのまま気持ち悪さとして出てるというか(笑)。あと今回は曲によって、自分が歌わなくてもいいと思ったものもあるんですよね。それは自分よりも作品に奉仕しようと思っているからです。僕よりも mmm (ミーマイモー)やメイちゃん(mei ehara)が歌った方が良い作品になると思ったら、僕はあくまでも後ろでかすかに歌うだけにしたり。そういうふうに、曲によって何がいちばんふさわしいかを考えていましたね。
■ファーストのときも井手さんの個性を前面に押し出すというよりは、当時のメンバーと協働作業をおこなうなかで初めて生まれてくるような作品だったと思います。その意味では、自己表現よりも作品を重視するというセカンドのあり方と共通しているのではないでしょうか。
井手:そうですね。それは基本的には変わってないと思います。とはいえ一方で今回は架空の自分を演じるというところがあったので、自己表現でもありましたが。架空の自己表現。“イエデン” で僕はファルセットで白痴のように歌ってますけど、バンド・メンバーはそれを無視するように淡々と演奏しているんですよ。そういう、ロック・バンドとして面白いかたちはなんだろうと探しながら制作しましたね。
■プロデュースを務めた石原洋さんの存在が今回のアルバムでは非常に大きいと思うんですが、サウンド面で石原さんの味が出ているなと井手さんが思うポイントはどういったところになりますか?
井手:やっぱり石原さんのプロデュースでアレンジが大きく変わりましたね。石原さんがあっと驚くようなイメージを伝え、それを中村さんが捉えて具現化する、僕やメンバーは演じる。マジカルな瞬間がたくさんありました。それまでの自分の曲が、より都会的に、退廃的に、流麗に、人工的になりました。なんて言ったらいいんでしょう、いい意味でサウンドに「軽さ」が出るっていうか……。僕の曲にまとわりついていた余計な重みが全て石原さんによって剥がされましたね。そしてキッチュな服を着て、夜の都会に出ていきました。あとは、石原さんは常にアルバム全体の流れ、起承転結を考えていらっしゃいましたね。先にできてきた曲を見ながら隣接する曲のアレンジを変えていく感じです。「僕はコンセプト・アルバムしか作れない」とおっしゃってました。
■楽曲制作のときに石原さんと交わした言葉で特に印象に残っているものはありますか?
井手:それはいろいろありますよ。まさしく自分の財産になるようなものです。石原さんが今回よくおっしゃっていたのは「ギラギラした感じ」という言葉と、あと「安っぽさ」「野卑なムード」ということでした。それは非常に新鮮でしたね。作曲者である僕は、どうしてもアート作品としてかっこよく見える方を選んでしまうんですが、石原さんは、高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。
■石原さんと井手さんで意見が衝突することもあったのでしょうか?
井手:もちろん意見が異なることはありましたけど、今回は「脚本と主演が僕で、監督は石原さん」ということがその都度拠り所になりました。石原さんがアレンジをいろいろと提案してくださって、自分の提案と組み合わせながらやっていったんですが、やっぱりメロディと歌詞は脚本なのです。アレンジがどれだけ変わっても残る、曲の本質の強さみたいなものがあるんだなと思いました。あと僕はもともとコーラスワークが好きで、よくメロディにハモりをつけるんですけど、今回はとにかく徹底的にハモリが排除されましたね(笑)。何曲かに残っているだけです。ほっとくと僕はすべての曲にほぼ無意識にハモりを入れてしまうので、その度に石原さんに却下されました。でもいまアルバムを聴いてみるとやめて正解だったと思います。
■最後にひとつお訊きしたいことがあります。アルバムの話から外れてしまうんですが、現在、音楽業界をはじめ社会全体が大変深刻な状況に直面しています。スペースの運営に携わった経験があり、音楽家でもある井手さんにとって、いまの事態はどのように見えていますか?
井手:うーん……今回のことは本当にどうしたらいいかわからないですよね。芸術が生命維持に必要不可欠である、と自国の政府は言ってはくれませんが、僕は必要不可欠であると思います。本当に信じ難い政府だなと思いますね。ただ、自分はレベル・ミュージックをやることはないでしょう。しかしそれでもなお、この嘘みたいな現実の中に、こういった壮大な狂った冗談のようなフィクションが、存在してもいいのではないか。難しいですけど。
■急に難しい質問を投げかけてしまい、失礼いたしました。本日はどうもありがとうございました。
井手:ありがとうございました。初めてテレビ電話で取材を受けたんですけど、なかなか慣れないですね(笑)。やっぱり喋るときは同じ空間にいた方がやりやすいです。話を盛り上げていくうえで、ちょっとしたタイムラグがコミュニケーションにおいて結構大きな壁になるような気がします。
取材・文:細田成嗣(2020年5月07日)
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