「Low」と一致するもの

interview with jan and naomi - ele-king

 2014年、デビュー直後のjan and naomiのライヴに偶然接することが出来たのだが、美しく儚げな男性ふたりが、極めて繊細にコントロールされた弱音の響きを紡ぎ出す様に、非常なインパクトを受けたのだった。ファッション・モデルをもこなすというその出で立ちのシャープさ、そして奏でられる音楽の圧倒的幽玄。アートの匂いを強烈に振りまきながらも、まるでこの街でないどこかからふと現れた超俗的な佇まい。
 その後もEPリリースやフジロックへの出演などを経て着実のその特異な存在感を浸透させていくなかで、彼らの表現は「狂気的に静かな音楽」とも称されるようになっていったという。なるほどこのファースト・アルバム『Fracture』は、その言葉に強く頷くことの出来る出色の内容だ。

 広がりあるサウンドケープや抑制のきいたエレクトロニクスの用法からは、所謂チル・ウェイブ以降のサイケデリック感覚が強くにじみながらも、ジェイムス・ブレイクやキング・クルールといったサウンドメイカー達とも共通するような透徹した音響意識を感じさせる。しかしながら、メロディーとそれを届ける歌はあくまでインディー・フォーク的であり、その意味で、かつてのサッド・コア~スロウ・コアのアクト達に通じるような、静謐な「うたもの」としての快楽性も備えている。

 また、ほぼ全曲が英語詞で構成されているその歌詞世界も、彼らの「狂気的に静かな音楽」を創り出す重要な要素となっている。全編において、神(逆説的に、ときに悪魔的なものへの憧憬も隠さない)や愛といった形而上学的存在への問いかけが染み出す。しかし、ゴスペル音楽のような、熱狂的な覚醒や躍動は締め出され、その変わりに、甘く物憂げな静謐がメロウネスとなって全体を浸す。

邦訳:あなたがいないと、大空を羽ばたく羽をなくしたようだ/何度あなたがこの世界に存在したかと思っただろうか/何度あなたが実存すると思っただろうか、/何度もそう思った ‘Forest’

 こういったペシミスティックなヴィジョンは、近代以来の放蕩への回心・贖罪を経て救済へと向うべきだったはずの現代の文明が、むしろ日々自らの手で神を葬り、救済を遠ざけてしまったことで代わりに引き寄せることとなったニヒリズムに強く培養されているようにも見える。一方で、そういった諦念の淀みの中でも、

邦訳:ここはあなた夢の入り口、今までのことには別れを告げて/この折れた骨で、エスの街から抜け出すのだ/私たちの夢のためにその約束は守って、今まで見てきた罪に別れを告げて ‘Fracture’

 とタイトル曲に歌われるように、これまで重ねてしまった罪を見つめつつも、新たなフェイズを切り開こうとする心性を垣間見せもする。


jan and naomi
Fracture

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 耽美的音楽と審美性から、ある種「浮世離れした」存在と見做されそうなjanとnaomiによる音楽は、その実、「諦念」と「希求」、「破壊」と「再生」の間に揺れる生活者の告白として、極めて実直で真摯なものだとも言える。
 この、蠱惑的なほどに極めて静謐な音楽は、静寂に取り囲まれるとときに静寂そのものが我々を圧するような不安を喚起するように、静謐であるがゆえ我々を内省へと誘い、内省の果には実存世界の外延へと連れ出しもする。熟れ、爛れ、饐えを抱えながら、それでも今、救いを希求する。破壊を受け入れながら、そこから新たな物語を紡いでいく。
 卓越した現代のレクイエム集であるとともに、賛美歌集とも言える本作『Fracture』をリリースしたjanとnaomiのふたりに話をきいた。

naomiさんと一緒に音楽を作りはじめた時期、反骨精神のある音楽がすごく好きで。そのなかで何がいちばんパンクなのかって考えたときに、もちろん大きい音を出して真正面からぶつかっていくのもすごくカッコいいんだけど、東京の渋谷で、絶えず様々な音が無秩序に鳴っているところで、それを「フッ」と止めるというようなことがもっともパンクかな、と思ったんです。

2016年の前作EP『Leeloo and Alexandra』のリリース以降、フジロックやロシアのフェス(V-ROX FESTIVAL)への出演や、映画『Amy Said』の音楽担当など、いろいろなフィールドで活動してきたかと思うのですが、そういった経験は今作に制作に影響を与えていますか?

jan(以下j):いちばん大きかったのは映画音楽制作の経験ですね。

naomi(以下n):劇伴すべてとエンディング・テーマを、という依頼で。限られた予算内で多くの楽曲を作らなくてはいけなかったので、レコーディング・スタジオに入る予算も無くて、自宅で完パケまでもっていけるようなやり方をしっかりしなくてはいけなかった。だから自然と俺もjanもDTM的に制作する環境が整ってきて。それは今作の制作を進める上で影響がありましたね。今までは、生ドラムと、アンプから出しているギターの音を主軸にしていたものが多かったんですけど、そういうプロセスではない楽曲が増えたというのがあります。

いままでは普通にプリプロを制作して、それをスタジオへ持っていって、というようなスタイル?

n:そうですね。

今回はふたりがお互い事前にデモを投げあって、みたいな感じ?

j:お互いに交換するっていうよりは、基本スタジオに入るまでは別々に形を作って、スタジオに入ったらふたりでいろいろ遊ぶっていうやり方だったかな。

そういうプロセスがアルバムの音にも反映されている気がしますね。これまでに比べてギターよりもピアノが目立ってきている感じとか、エレクトロニクス音の比重も増えている気がしました。

j:naomiさんが打ち込みで作るものもあれば、俺がシンセサイザーを使うということもあったり。あと家でヴォーカルも取れる環境になったことも大きかった。

新作についての話に本格的に入る前に、映画『Amy said』の音楽制作について訊いておきたいんですけど、おふたりの音楽は所謂映像喚起力が強いなという気がしていて。基本英語詞であるにも関わらず、特定の風景を喚起させるというか。監督の村本さんとしても、そのあたりを汲んでのオファーだったと思いますか?

j:たぶん最初は監督もそういう気持ちだったと思うんだけど、徐々に監督にも明確なヴィジョンがあるっていうことがわかってきて。

n:打ち合わせのときにラフの映像を見ながら「具体的に思っていることがあったら教えてください」って言ったら、めちゃ具体的で(笑)。

「こういう音をここに入れてください」的な?

n:そうです。「何年代の誰々みたいな音楽が欲しい」とか、「ここはテクノで言うとあの時代の感じ」とか、「バーで鳴っているBGMも欲しい、このマスターはこの年代の音楽に影響を受けているから、たぶんかかっているのはこういう音楽だ」といったような。

そういう意味では、アーティストっていうよりプロの映画音楽作家さん的な感じですね。それが経験としては大きかったと。

n:そうなんです。いままでトライしなかったこともできたし。「トミー・ゲレロみたいな曲で」というようなオーダーとかもあったな。

映画音楽って、監督によって全然やり方違うみたいですよね。厳密に音符レベルで指定してくる人もいれば、「ふわっとした感じでお願いします」みたいな人もいる、と。いろんなミュージシャンに映画音楽制作の話を聴くと、みなさん「大変だけどいろいろ鍛えられる」というようなことを言いますね。

n:それはかなりありますね。

j:結局、僕らも映画音楽のプロじゃないから、作ったものにはjan and naomiらしさはやっぱり残ってはいるんですけどね。

今回のアルバムはとくに映像喚起力が強いなと思いました。各曲、何か具体的な映像世界を想定した上で曲作りしていくんでしょうか?

j:前作までは割と、イメージや言葉の輪郭を帯びていないものを曲のなかに投げ込んで聴き手にそのエッセンスを自由に解釈して欲しい、というのがあったんですが、今回、自分が歌詞を書いたものに関しては具体的にして、抽象表現は抑えてストーリーテリングする感じでやりたいなあ、と思いました。聞き手によってはもしかしたら以前より映像性がなくなったと思うこともあるかも知れないけれど、割と自分的には具体的なヴィジョンが見えたものを投げ込んでいるというイメージです。

場面設定的がしっかりある感じを受けました。

j:劇っぽくつくれたらな、と思っていました。

各曲、曲ごとにテーマを先に設定して、そこから作っていく、という形ですかね?

j:俺が作った曲は最初に歌詞書いてという感じだったんですけど、naomiさんは?

n:はじめはテーマはとくに決めないですね。何か映像にあてはめるような作り方もしていない。

曲を作っていく段階で徐々にテーマのようなものがあぶり出されていく、と。

n:そうですね。

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janの声は独特で、音程がなくても成立するような感覚があって。ひとりで活動していた頃やjan and naomiの初期にはそういう曲がけっこうあるんですが、音程が合っていないないというかズレているのかな、というのも含めて味にするような歌声と歌い方もできる。


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Fracture

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先ほどデモは各人で作っていくと言っていましたが、その後のふたりのキャッチボールってどうやっているんでしょう?

n:普通のバンドと違うところだと思うんですが、僕たちはデモをつくったら基本的にはそれで完成というイメージ。今回は、その後レコーディング・スタジオで録っていくなかで、もう一方がその上でいろいろと遊ぶ、みたいな感じでした。家で8割9割仕上げて、スタジオでしか録れないものを録り直したというようなやり方が多かったですね。

j:その遊び方もまったく定形があるわけじゃなくて。例えばお互いが作った曲について、演奏的にはほぼ何もしてなくても、意見をひとつの楽器として織り交ぜていく、というか。例えば俺が演奏して歌ったものに、naomiさんが「ああしたほうが良いと思う、こうした方が良いと思う」と言うことが、jan and naomiの音楽の色というか、ひとつのフィルターとなっていると思います。

細かなアレンジとかもほぼ作曲者の主導で?

n:俺の曲はそうでした。janのものは、弾き語りのデモが用意してあって、セッションしながらレコーディングしていく、みたいな感じでしたね。

j:割合コラージュっぽく部分的に、っていうのが今回はとくに多かったかな。

一般的な、Aメロ固めて、Bメロ固めて、構成作り込んでいって、プリプロ作って、スタジオにもっていって、録って、ラフミックスして、みたいな感じで作っていないのだろうな、というのは感じました。音の差し引きなども当意即妙にその場でやっているのもけっこうあるんだろうだとうな、という。非常に作り込まれているのに一方でセッション感もあるという、不思議なバランスだなと思いました。

j:ミックスがはじまってから音を足すこともありましたね。

ミックスはエンジニアさんと?

j:メールベースで意見を言い合ってという感じですね。

音像の部分でも、一聴して全体にすごく深さと広がりがありつつ、曲ごとの緩急もあって、構成的なこだわりも感じました。

j:最近になって思い出したのは、互いの曲が徐々にビルドアップされていく上で、この曲はEQ的にビルドアップしたから、あの曲のこの部分をちょっとマイナスしてみようとか、そういうことがあったな、ということ。例えばnaomiさんがある曲のなかでシンセサイザーにリバーブを深くかける判断をしたときに、俺のこの曲のリバーブは逆にもう少しカットして、マットな曲の響かせ方にしようかな、とか。それがレコーディング~ミックスのプロセスのなかで多くあった気がしますね。

それぞれすごく空間的な処理なんだけど、1曲1曲の粒立ちというか個性みたいなものがちゃんとありますよね。曲ごとでBPMに幅があるとかじゃないのに、そういう各曲の個性がある。

j:たしかに自然とbpmだけはそんなに離れていない形になりましたね。

野田:音響はすごく独特ですよね。俺も聴いて思いますね。

「ダーク」といえばいいのか……重いけど広がりのある空気感というか。おふたりの音楽的趣向が音響デザインに反映されてるんでしょうか?

j:あまり何かに影響されてこうなったというのはないかな。それより、日々naomiさんとライヴをして一緒にお酒飲んだりとか、そういう普段の生活のなかから得たことが大きいかもしれない。大概そういうことって歌詞にしか影響しないと思うんだけど、お酒を飲んでいるところでかかっていた音楽とかが無意識に影響しているのかも。

もともとおふたりは、渋谷の百軒店で別々で活動している中で知り合ったらしいですね。例えば学生時代に出会って、とかいうような場合、お互いどんな音楽が好きとか話をする中でバンドに発展するというのが一般的かなと思うのですが、おふたりの場合は、どういう形で音楽的ルーツの共有といったことが行われたのでしょうか。

j:「これが好き、あれが好き」っていう音楽の話をする前に、曲を一緒につくる機会があって。それで出来た曲がいい感じだったんです。

n:もともとjanの音楽が好きだったし、janももしかしたら俺の音楽を好きでいてくれたのかしれない。だから最初に曲を一緒に作ってみても上手く行ったということなんじゃないかな。

野田:性格的に気があったとか?

n:俺のほうが年上で、ちょうど良い年の離れ方だったっていうのもあるかもしれないですね。物事を決める時にもケンカしないし、素直に譲れるし、janも譲ってくれることもあるし。

野田:性格を陰と陽に分けるとすると、どちらがどちらですか?

n:場面によるんですけど、基本的には通常時はjanの方が陽で俺が陰。でもお酒を飲むと俺のほうが陽になる。janは逆にお酒を飲むとどんどん陰に向かっていく(笑)。

野田:そういう観点からもバランスが良いんですね。お互い陽になっちゃうとね(笑)。

j:取り留めのないことに(笑) 3年に1回くらい稀にふたりとも陽になるときもありますけどね(笑)

ふたりとも歌声の面でもまったく違った個性を持っていますよね。naomiさんはハイトーンヴォイス。janさんは、レナード・コーエンなども思わせるような低い声。お互いの歌声の魅力を挙げるとしたら?

j:naomiさんの声は怖いくらい透き通っていて、そのホーリーな感じに感動します。

n:janの声は独特で、音程がなくても成立するような感覚があって。ひとりで活動していた頃やjan and naomiの初期にはそういう曲がけっこうあるんですが、音程が合っていないないというかズレているのかな、というのも含めて味にするような歌声と歌い方もできる。今回は歌い方を試行錯誤してヴォーカルのテイク数も重なっていきましたが、以前は1回録っても5回録っても全部OKという感じだった。厳密に言うと外れているけど、それがむしろ良い、っていう。

j:今回のように抽象性が薄い曲の場合、いままでの歌い方だとどうしても説得力がなくて、歌い方を変えた曲もありました。

ちなみに、技術的な影響を受けているかどうかは別として好きなシンガーっていますか?

j:エルヴィス(プレスリー)かな。

おお、意外な気がしつつ……でもわかる気もする……。

野田:ほんとに? 冗談とかではなくて(笑)?

j:本当ですよ(笑)。子供の頃から好きで、いまも変わらず好きかな。

どんなところが好きですか?

j:なんといえばいいか……聴いた瞬間に自然とゾワッとするというか。神聖なときもあれば、すごく悪魔的なときもある。そういったものに魅了されるんです。そういった振れ幅があるものは、エルヴィスに限らず好きですね。でも、エルヴィスはその究極形といえる歌声だなあと個人的に思います。

どこかでjanさんの歌声が「スコット・ウォーカーを思わせる」と評されいてるのを見ましたけれど、彼の歌にもそういう振れ幅がある気がしますね。

J:そうですね。でもスコット・ウォーカーの歌声も美しくて好きなんですが、甘さがないかな、と。エルヴィスにはそれもあるな、と感じます。

naomiさんは?

n:玉置浩二。

また意外な。

n:あとASKA。

おお……。

n:歌がいいって思う人って誰かなあ、っていまずっと考えてて。一番最初に出てきたのが玉置浩二。

それは親の影響で聴いていたとか?

n:2年くらい前に、僕らがよくいく渋谷の「カラス」でケヴィンさんっていう常連さんが、玉置浩二をずっとかけて歌の魅力を店中の人に語っていた夜があって。安全地帯含め玉置浩二の存在は知っていたけど、「歌が良い」っていう耳で聴いたことはなくて。で、「ああ、良いな」と。

ASKAは?

n:ASKAの歌もやっぱり本当に独特で、歌い出して2秒で「あ、これASKAだ」って思わせる声の独特さ。歌上手い人っていうのはたくさんいるけど、玉置浩二も含めその人だけの「節」があるな、っていう人に憧れる。

自分の声の帯域に近いとかは関係なく……その人だけの個性がある歌声が好きということですね。

n:正直ジェイムス・ブレイクとボン・イヴェールのヴォーカルの差とかわからないですよ。好きな人はわかるんでしょうけど。自分の歌に関しても、「あれだったら誰が歌っても一緒じゃん」ってなったら嫌だな、っていうのはあります。

野田:jan and naomiを聴いて日本的だとは全然思わなかったし、言われなければ日本のアーティストだって気づかずに聴いてしまえると思うんですよね。だからいまの「玉置浩二の歌が好き」っていうのは無理して言ったんじゃないかなと疑っていますけどね(笑)。本当はジェイムス・ブレイクやボン・イヴェールが好きでしょ! ライバル心があって言えないんじゃないんですか(笑)?

n:いや、そんなことないですよ(笑)。

j:でも今回のアルバム、外国人の友達に聞かせると、「アニメっぽい」って言うんですよ。

へえ~。

j:微妙な細かいところに、アニメ的にニュアンスがある、と。

無意識で出てしまう日本固有の土着性みたいなことなんでしょうか……?

j:おそらく。歌謡曲感ということの延長線上なのかもしれないですけど、アニメっぽいメロディだったりピアノのフレーズが入っていると言われて、確かにそういう耳で聞き直したら、そうなんですよね。ジブリっぽさというか…久石譲的なものを連想させる要素が意外と入ったりしているのかもなあ、と思いました。

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勇気づけられたのはSTRUGGLE FOR PRIDE。音源ももちろん聴いてますが、やっぱりライヴですかね。

おふたりとも育ちは日本ですか?

n:俺はニュージーランドに90年代の5年間くらい住んでいたことがあります。

J-POPが日本から耳に入ってきて意識したりとかは?

n:当時はJ-POPを聴きたかったですけどインターネットもなかったから簡単に聴けなかった。憧れはありましたけど。

janさんは?

j:俺は幼少期から日本です。

では日本の音楽には10代のときから普通に触れていて。

j:それがあんまり……母が好きな洋楽が家ではよくかかっていましたね。ニルヴァーナとかPJハーヴェイとかその当時のリアルタイムなもの。

それでも滲み出てしまう日本の土着感というのがある意味魅力ということですかね。何かミーム的に受け継がれているものが無意識に入っているのかも知れないと……。ちょっと話を変えて、アルバムのタイトルについてですが、「Fracture」という単語には「骨折」とか「硬いものが玉砕する」とか、ちょっと物騒な意味であったり、または「複雑性」という意味もあるみたいですが。

j:辞書をひいて大体初めに出てくる意味は「骨折」ですね。

n:これは実際の経験談から来ているタイトルです。

骨折の経験ってこと?

n:そうなんです。このアルバムのジャケットの打ち合わせも兼ねてアートワークをやってくれたChim↑Pomたちと飲んだ日の帰りに、泥酔していて高円寺の住宅街で足を折ったんです。

野田:もう治ったの?

n:大体。まだボルトとか鉄板入ってるんですけど。

え、けっこうな骨折だ。

n:で、アルバム・タイトルをどうしようって考えていたときに、「骨折」って英語で何ていうんだろう、って調べて。単純に「broken bone」だと思っていたけど、「fracture」っていう言葉があると知って。しかも、janが過去に映画に出ていることがあって、そのタイトルもまた「fracture」で。あ、これタイトルに良いかもなって思ってすぐjanに相談しました。骨が折れる、硬いものが壊れる……破壊、と連想をしていくなかで、僕らがいま生きている2017年~2018年の渋谷を見ると、ビルがどんどん壊されて再開発されている。そこから、時代とも「fracture」というワードが共鳴しているかも知れないと思って、俺の肉体とこの街との繋がりもある、と。初めはそんなに意味を持たせるつもりもなかったんですけど、自然とそうなっていった。

仮にこの曲たちからひとつ言葉を抽出せよとなったとき、「fracture」ってすごくピッタリなワードだと思いました。

n:そうですよね。その気もなく歌詞書いていたら、破壊と再生というイメージが立ち上がってきたというか。終わりからまた物語がはじまるといったイメージ。

いきなり1曲目のタイトルが“THE END”という。ドアーズの同名曲はアルバムの最終曲でしたが、今作では幕開けの曲として置かれている。これにはなにかこうした意図があると思うのですが。

n:そう。曲順上これだけはこうした理由があって。アルバムを作るとなると、いままで作ってきたEPよりちゃんと曲順を考えなくてはならない。けれど、各曲歌詞も「これが最初で、これが次で、これがその次で」といったように時系列的に並べる感じではないし、どうやって決めようかなって思っていたんです。けどこのM1を“THE END”というタイトルにしたとき、ふと、映画も最後に“THE END”となって終わるけど、その映画の世界では明日もあるはずだ、と思って。終わりからはじまるなにかもあるはずだ、と思ったんです。

ネガティヴなモチーフ、終焉、破壊、そして罪の意識、喪失、諦念が散りばめられながら、そして一方で再生への希望も求めている……。実際に「神」という言葉も出てくるし、キリスト教的世界観を強く感じたんですが、それはやはり意識して?

j:とくに意識的というわけではないかもしれません。宗教ついても興味を持っていろいろ勉強もしたんですけど、教義そのものというよりキリスト教美術のあり方が好きで、そういう文献を読んでいたりするから、自然とそれが反映されているかもしれない。そういったなかで、人が何かにすがったり祈ったりするプロセスが凄く美しいなと思うことがあって。地獄から天国へ這い上がる願望だったり、人間の根本的な祈りの心性に魅了されることが多いです。

そういった祈りの賛美という感情がある一方で、諦めというか、すごく膿み疲れている感じというか……ある種の厭世的世界観とのバランスが興味深かったです。日本語訳詞を読んで「こんなダークなことを歌っていたのか」と驚きました。いま自身がそういうモードなのか、前々から本質的ににそういう傾向があるのか。

j:うーん。諦めがあって、しかし祈る気持ちが生まれて、けれどまた諦めて、みたいなエンドレスなループが常にあるかもしれないですね。

衝撃的だったのが「悪魔」というモチーフが頻出でした。しかもその誘惑に惹かれている自己というのが描かれている気がして。歌詞のなかにそういった表現を入れるというのは勇気あることだなと思いました。これは、自らの弱さを表明しているのか、それとも純粋に「悪」というものへ憧れがあるのか。

j:いや、憧れと言うより、悪魔も神もどちらも美しい、という視点で物事をみたいということの現れだと思います。「神も悪魔だし、同時に悪魔も神である」という思いでいます。

naomiさんもそういう世界の見方に対しては共感できる?

n:俺は直接的にはそこまで共感することはなくて……。俺の曲の場合は、あくまで物語というか、そこに作者たる俺の本心や主観的な感情が表れているっていうわけではないですけね。

そのときに物語を駆動させるものは?

n:例えばさっきも話に出た渋谷の再開発で見えてくる破壊と再生というもの……。僕らが制作に至るまで、そして歌詞が完成するまでの日々の歩みですね。それこそ、こうやってみなさんと知り合って話すなかで感じたこととか、友だちと飲んで骨折ったこととか、飲みすぎちゃったこととか、そういったことがベースにあるんでしょうね。

いまの時代これくらいダークな力がある歌詞って珍しいなという気がしました。アメリカン・ゴシックのような世界、例えばある時期のジョニー・キャッシュとか、デヴィッド・リンチとか……それを渋谷っていう風景にオーヴァーラップさせると、ここで描かれているような世界になるのかな、とも思いました。

j:どこにでも潜んでいる伝統的な悪のエネルギーみたいなもの、絶対に変わらない悪のようなものが少しでも輪郭化されて、認識することができれば、逆に恐れがなくなるんじゃないかな、って思うことがあって。無視することでは恐れは解消できないけど、認識することで怯えがなくなるのではないか、というような。

見ないことによって却って知らぬうちにその悪に取り込まれてしまうかも知れない、というね。怖いものをあえて見ることで強くなる、という感覚は分かる気がします。いまの「恐れ」ということで思い出しましたが、やはりこの音楽の、特異ともいうべき静かさについても伺いたいです。静かさって、リラックスもさせるけど時にすごく不安を喚起させもしますよね。子供の頃、周りが静か過ぎることで逆に泣き出してしまったりとか。

J:わかります。

「静か」というのは心地いいということだけではない、という意識があるのかなと思ったのですが。

j:naomiさんと一緒に音楽を作りはじめた時期、反骨精神のある音楽がすごく好きで。そのなかで何がいちばんパンクなのかって考えるときに、もちろん大きい音を出して真正面からぶつかっていくのもすごくカッコいいんだけど、東京の渋谷で、絶えず様々な音が無秩序に鳴っているところで、それを「フッ」と止めるというようなことがもっとも、パンクかな、と思ったんです。

なるほど。コデインとかロウとか、かつてスロウコアと呼ばれたバンドたちも、ポスト・ハードコア的文脈から出てきたということを思い起こさせる話ですね。わちゃわちゃしたものがレベル・ミュージックの主流だと思われがちなところに、カウンター加えてやろう、というような?

j:そうですね。

野田:では自分たちが勇気づけられた音楽ってなんですか?

n:STRUGGLE FOR PRIDE。音源ももちろん聴いてますが、やっぱりライヴですかね。

野田:いつ観たんですか?

n:「RAW LIFE」の頃に初めて観て。

それはどういう意味で勇気づけられたんでしょう?

n:「音楽をやろう!」って思ったんです。「俺もやりたい!」って。みんなが楽しそうにしていて。「RAW LIFE」とか「CHAOS PARK」とかで、大きな規模じゃなくても、自分たちで手作りの楽しい空間が作れるんだ、っていう気持ちを持った。僕らもいつも飲食店とかでライヴをするけど、店の人と俺たちとお客さんだけで勝手にやっている感じ。そういうのはあの時の経験に勇気づけられているかもしれないです。

janさんは?

j:具体的に「この出来事」というのはないんですけど、聖歌かな。いろんな音楽を聴いて、ああだこうだいろいろ考えはじめちゃうときに、ふとグレゴリオ聖歌のレコードをかけたりする。自分の心臓の鼓動だけ聞いて、それに正直にいれば良いんだという気持ちに戻れる。

僕は聖歌を聴いていると美しいなと思うと同時にちょっと空恐ろしくなってくることもあって……。

j:そういう風に感じるプロセス自体も一気にフッとなくなって、子宮のなかにいる胎児のような気持ちになる。完全に無意識に状態になれる。瞑想とは違うんですけど。普段の生活で人と話したことなどは、記憶としては蓄積されていくんだけど、その記憶のなかにだけに埋もれないようにする。その、埋もれないでいられるというこが喜び。

お話しているとふたりで本当にタイプが違いますね。

野田:そうだよねえ。SFP v.s.聖歌だもんね(笑)。

違いもあるけど、でも一緒に演っていると。

野田:むしろ違いがあるからこそ合うんじゃないですかね。

具体的な方向性は違えど、ふたりともエクストリームなものが好きってことは共通しているということですかね?

n:ハッとさせられるものが好き。

変にバランスを取ろうとしているものより振り切れたものが好き?

n:うん。

j:エクストリームなもの、例えばノイズとか聴いていても、俺は聖歌と同じ様に聞こえることもあったりしますね。

音楽以外にもいろいろファッションやアートにも興味があって実際にも繋がりがあると思うのですが、それらについてもやはりエクストリームなものが好きですか?

j:うん。

n:好きですね。

例えばさっきも話に出た渋谷の再開発で見えてくる破壊と再生というもの……。僕らが制作に至るまで、そして歌詞が完成するまでの日々の歩みですね。


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野田:アートワークをChim↑Pomにお願いしようと思った理由は?

n:Chim↑Pomとは去年の夏に出会って、彼らのイベントに呼んでもらってライヴをやって。ジャケットは自分たちがやるよりも誰か外部の人に頼みたいなってずっと思っていて、誰か面白い人いないかなって考えていた時、年末に新宿で演ったライヴにまたChim↑Pomが観に来てくれて。ちょうどレコーディングも中盤に差し掛かっていて、そろそろアートワーク周りの話を本格的にしなきゃなってときに彼らに再会したから、その場のインスピレーションで「ジャケの制作とかやるんですか?」って訊いてみたら「いいよ」って言ってくれたので、お願いすることしたんです。

内容はChim↑Pomに一任って感じ?

n:そうですね。いくつか提案してもらって、その中から一つだけ選ばせてもらいました。

(ジャケットを見ながら)これって、琥珀ですかね……? 琥珀のなかに何かが入っている…?

j:いや、ドラム缶なんですよ、それ。

n:ドラム缶の中にエリイちゃんが入っているのを実際に上から撮ったらしいです。

え! そんなんだ。全然気づかなかったけど、そう言われてみるとたしかに人間が入っている。

j:ドラム缶に閉じ込められている女性っていうのが、寂れゆく都市、再生していく都市というこのアルバムの世界観に合っていると思います。

なにかの動物の受精卵のようなものかな、とも思いました。

n:そういう解釈もいいですよね。蓄光印刷にしてもらったので、これが暗闇で光るんですよ。それも受精卵とか、かぐや姫のような感じがあっていいなと思う。

野田:俺は繭のなかに人間がいる、と思ったんだよね。jan and naomiの音楽はどこかシェルターっぽいから、そのなかにいる女の子というふうな見方だった。まさかドラム缶だったとは。Chim↑PomとかSFPとか、渋谷の話とか、基本的にjan and naomiはアティチュードがパンクなんだね。

n:そうだと思います。だから、ジェイムス・ブレイクとボン・イヴェールに対して興味ないのも理解してくれました(笑)?

◎ツアー情報

【Fracture tour 2018】

2018年6月23日(土) 北海道・札幌PROVO
前売り:¥2,500 (税込・1Drink別)
PROVO電話予約:011-211-4821
メール予約:osso@provo.jp ※お名前・人数・連絡先をメールにてお送りください。
【問】PROVO 011-211-4821

2018年7月14日(土) 福岡・UNION SODA
前売り:¥2,500 (1Drink別)
チケットぴあ P-コード: 118-465
Live Pocket : https://t.livepocket.jp/e/4dw_4
メール予約 : info@herbay.co.jp ※お名前・人数・連絡先をメールにてお送りください。
【問】HERBAY 092-406-8466 / info@herbay.co.jp

2018年7月16日(月祝) 京都・UrBANGUILD
前売り:¥2,500 (1Drink別)
Urbanguild HP予約:https://www.urbanguild.net/ur_schedule/event/180716_fracturetour2018
ePlus:https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002262177P0030001
【問】Urbanguild 075-212-1125

2018年7月21日(土) 東京 ドイツ文化会館 OAGホール(6/9チケット発売)
前売り: 立ち見¥2,500・座席指定¥3,500 (1Drink別)
ePlus:https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002262177P0030003
【問】Slowhand Relation inc. 03-3496-2400


◎イベント出演

7/6 TOKYO CUTTING EDGE vol.02
@ liquidroom open/start 24:00
ticket now on sale
Line Up:長岡亮介 / jan and naomi / WONK DJ:SHINICHI OSAWA(MONDO GROSSO) / EYヨ(BOREDOMS) / DJ AYASHIGE(wrench)
https://cuttingedge-tokyo.jp/

Jon Hassell - ele-king

 ブライアン・イーノとジョン・ハッセルの『ポッシブル・ミュージック』がリリースされて38年が経った。「アンビエント・ミュージック」のシリーズを立ち上げて、すぐにもセールス的に行き詰まったイーノが続けさまにローンチした「第4世界(Fourth World)」というラインの起点となった作品である。ジョン・ハッセルのトランペット・ドローンをメインに「エスニック・サウンドとエレクトロニクス・ミュージックをどう融合させるか」がテーマとなり、批評的には多くの媒体で年間ベストに選ばれるほど大成功を収めたものの、イーノが続いてデヴィッド・バーンとつくった『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースト』をジョン・ハッセルが商業主義的だと批判したことでふたりはそのまま仲違いしてしまう。「フォース・ワールド」は「プリミティヴ・フューチャリズム」を標榜したジョン・ハッセル主導のコンセプトだったため、シリーズ2作目となるジョン・ハッセル名義『ドリーム・セオリー・イン・マラヤ』をもって終了となり、二度と再開されることはなかった。しかし、昨年、〈オプティモ・ミュージック〉は『ミラクル・ステップス(Miracle Steps)』と題された14曲入りのコンピレーション・アルバムをリリース。これには「ミュージック・フロム・ザ・フォース・ワールド 1983-2017(Music From The Fourth World 1983-2017)」という副題がつけられていた。「フォース・ワールド」が終了したのが1981年。その2年後から2017年まで、36年間にわたって「フォース・ワールド」は続いていたのだと主張する編集盤である。「なんとかディフィニティヴ」みたいな発想だけど、これが実に興味深かった。オープニングはメキシコのアンビエント作家、ホルヘ・レィエスによる“Plight”(96)で、彼が得意としてきた厳かなダウンテンポでしっとりとスタート。続いてロバート・A・A・ロウとエリアル・カルマが〈リヴェンジ・インターナショナル〉の新旧コラボ・シリーズに登場した“Mille Voix“(15)やグラスゴーの新人で〈オプティモ・ミュージック〉からデビューしたイオナ・フォーチューン、ポスト・インダストリアルのオ・ユキ・コンジュゲイト、あるいはデヴィッド・カニンガムやリチャード・ホロヴィッツといった〈クラムド・ディスク〉勢にラプーンと続き、全体にやや重怠くまとめられている。〈オプティモ・ミュージック〉らしい歴史の作り方である。

 『ミラクル・ステップス(Miracle Steps)』にはハッセル自身が86年リリースの『パワー・スポット』に収めていた「Miracle Steps」も再録され、これがコンピレーションのタイトルにもなっている。そして、このことがきっかけとなったのか、〈ECM〉からの『Last Night The Moon Came Dropping Its Clothes In The Street』以来、9年ぶりとなるハッセルの新作『Listening To Pictures』がこのほどリリースされた。どうやら純然たる新作のようで、81歳になって〈ワープ〉傘下に新たなレーベルを立ち上げたものだという。演奏スタイルも、これまでのバンド形式からスタジオでミックスを繰り返すなど『ポッシブル・ミュージック』と同じ方式に回帰し、もしかするとクレジットはされていないけれど、ブライアン・イーノが参加しているのではないかという憶測も飛び交っている(だいぶ前に和解はしたらしい)。一応、演奏はギターにリック・コックス、ドラムにジョン・フォン・セゲム、ヴァイオリンにヒュー・マーシュが柱となり、エレクトロニクスにはミシェル・レドルフィを起用。ミックスマスター・モリスにサンプリングされ尽くした水の音楽家で、最近になってデビュー作が〈エディション・メゴ〉から復刻されたミュジーク・コンクレートの重鎮的存在である。また、ドラム・プログラムにはダブステップのベース・クレフからラルフ・カンバーズの名も。これまでライ・クーダーと組んだり、アラブ音楽に接近したりと、それなりに多種多様なアプローチを重ねてきたものとは違い、やはり音響工作の面白さが前面に出ていて、海外のレヴューでOPNを引き合いに出していた人が何人かいたのもなるほど。言われてみるまでそうは聞こえなかったけれど。

 オープニングから意表をついている。コード進行がある(笑)。わかりやすいジャズみたいだし、それがだんだんとドローンに飲み込まれていく。“Dreaming”は見事な導入部をなし、続いてダブステップを意識したような“Picnic”へ。接触音の多用はアルヴァ・ノトを思わせ、ノイズとピアノのオブスキュアなアンサンブルへと連れ去られる。アフリカン・ドラムを駆使した“Slipstream”は『ポッシブル・ミュージック』を坂本龍一が『B2ユニット』風にリミックスしたようで、同じく“Al-Kongo Udu”もノイジーな音処理はダブステップ以降のレイヤー化された美意識を優先させたものだろう。ジュークを思わせる”Pastorale Vassant”は……たしかにOPNっぽいかもしれない。“Manga Scene(マンガ・シーン?)”ではテリー・ライリーのオルガン・ドローンが原型をとどめずに流れ出すなかをムード・ジャズ風のトランペット・ソロが響き……いや、これが本当にジョン・ハッセルなんだろうか。連続性はもちろんあるんだけれども、ここまで変貌できるとはやはり驚きである。プロデュースもジョン・ハッセル本人なんですよ。『絵を聴け』と題されたアート・ワークはマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブリュー』や自身の初期作を飾ったマティ・クラーワインの手になるものだそうです。

Leslie Winer & Jay Glass Dubs - ele-king

 ユーチューブにアップされている「ポップ・ミュージックの歴史まとめ」みたいな動画を見ていると、題材によってはそれなりに同じような時間をかけて同じものを見ているはずなのに、こんなにも違って見えているのかということがわかって、なかなかに面白いし、音楽について誰かと話をすることの無力さを再確認させてくれる。ヒップホップでいえば、昨年は若い世代が盛んに2パックをディスったり、聴いたこともないという発言が相次いで揉めに揉めていたけれど、意外と多かったのが「知らない方がいいサウンドをつくれることもある」というヴェテランたちの意見で、歴史とクリエイティヴを秤にかければクリエイティヴに軍配があがり、退廃をよしとするのはなかなかに潔いなとも思わされた。あるいは、この数年、再発盤の主流となっているのがプライヴェート・プレスの発掘で、実はこんなサウンドがこんな時期につくられていたというスクープの効果みたいなことも「再発」の意味には多く含まれている。これは言ってみれば、歴史というのは世に出て多くの人の耳に届いたものを限定的に歴史扱いしているだけで、そのことと実際のクリエイティヴには確実なエンゲージメントは保障されていないということでもある。それこそ再発盤が1枚出るたびに歴史が書き換えられていくに等しい思いもあるし、ポップ・ミュージックの歴史というのは勝ったものの歴史でしかなく、それによって隠蔽されてきたものがあまりに多すぎるとも。なんというか、もう、ほんとにグラグラになっているんじゃないだろうか、歴史というものは。

 ギリシャを拠点とするジェイ・グラス・ダブスことディミトリ・パパドタスは事実とは異なるダブ・ミュージックの歴史的アプローチ、つまり「ダブ・ミュージックの偽史」をコンセプトに掲げ、これまでに7本のカセット・アルバムをリリースしてきたらしい(ちゃんとは聴いてない)。この人が昨年のコンピレイションや「ホドロフスキー・イン・デューン・イン・ダブ」などという空恐ろしいタイトルのシングルに続いてレズリー・ワイナーと組んで、なるほどダブの偽史をこれでもかと撒き散らした見本市のような6曲入りをリリース。レズリー・ワイナーというのがまたよくわからない人で、アメリカのファッション・モデルとしてヴァレンティノやディオールと仕事をしていた人らしく、ゴルチエをして「初のアンドロジーニアス・モデル」と言わしめた人だという。彼女がそして、ウイリアム・バローズやバスキアと知り合ったことでファッション業界から離れ、ミュージシャンへと転向してロンドンに移ってZTTからデビューした後、ジャー・ウォッブルとつくったアルバム『ウィッチ』(93)はトリップ・ホップの先駆として後々にも評価されるものになる(その後はレニゲイド・サウンドウェイヴを脱退したカール・ボニーと活動を続け、ボム・ザ・ベースのアルバムで歌ったりも)。つまり、ダブ・ミュージックの偽史を標榜するパパドタスにとっては彼女が格好のコラボレイターであったことは間違いなく、なるほどレイヴ・カルチャーの到来とともにどこかで迷子になったダブ・インダストリアルのその後をここでは発展させたということになるだろうか。

 アンビエント・ドローンあり、レイジーなボディ・ミュージックにウエイトレス紛いとスタイルは様々。ダブという手法はジャマイカを離れ、イギリスのニューウェイヴと交錯した時点で、偽史として構築するしかないものになっていたとも思えるけれど、それにしてもここで展開されている6曲は歴史の闇を回顧しているようなサウンドばかり。どこに位置付けられることもなく、これからも迷子のままでいることだろう。それともジェイ・グラス・ダブスにはダブステップを経た上でここにいるというムードもありありなので、ことと次第によっては自分のいる場所に歴史を引き寄せてしまうことも可能性としてはないとは言えない。まあ、ないと思うけど。ちなみにアルバム・タイトルの『YMFEES』は“Your Mom’s Favourite Eazy-E Song”の略だそうです。なんでイージー・E?

Laibach - ele-king

 米朝、と言っても桂ではありません。昨夜の首脳会談、ふたりの満面の笑みからはきな臭い匂いが漂っています。いったい裏でどんな取引を交わしたのやら……。
 そんな米朝首脳会議を記念して、〈Mute〉所属のライバッハが朝鮮民謡のカヴァー曲を発表しています。7月14日からは、彼らが北朝鮮でライヴを催すまでを追ったドキュメンタリー映画『北朝鮮をロックした日 ライバッハ・デイ』の公開も控えています。聴き手に考えることを促すスロヴェニアのバンド=ライバッハは、いまどんなふうにあの会談を捉えているのでしょうか。
 いやしかしきな臭い。じつにきな臭い……。

ライバッハ、歴史的な米朝首脳会談の開催を記念し、朝鮮民謡“アリラン”のカヴァー曲を発表。
ドキュメンタリー映画『北朝鮮をロックした日 ライバッハ・デイ』は、7/14より公開。

ライバッハは、シンガポールでおこなわれた米朝首脳会談を記念して、朝鮮民謡“アリラン”のカヴァー曲を発表した。

https://youtu.be/w_PCdJ3Dn9E

ライバッハと北朝鮮の関係は、2015年8月15日の北朝鮮「祖国解放記念日」に、北朝鮮政府がライバッハを招待したことから始まる。1980年にスロベニア(旧ユーゴスラビア)で結成して以来35年、革新的な表現活動をおこなってきたインダストリアル・ロック・バンドが北朝鮮の大切な記念行事に招待されたことは、それも初めて招待した外国のミュージシャンが彼らだということは、世界中に衝撃をあたえた。

ライバッハによる“アリラン”のカヴァー曲は、朝鮮民謡“アリラン”と、北朝鮮で広く親しまれている“行こう白頭山へ”を融合させたもので、平壌クム・ソン音楽学校のコーラス隊が参加している。後に、彼らは南北統一を祈願して、韓国の全州でもコンサートをおこない、北朝鮮と韓国の両国で演奏した最初のバンドとなった。


©VFS FILMS / TRAAVIK.INFO 2016

またライバッハが北朝鮮で奇跡のコンサートをおこなうまでの悪戦苦闘の1週間を追ったドキュメンタリー映画『北朝鮮をロックした日 ライバッハ・デイ』が、7月14日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開する運びとなっている。彼らが所属する〈MUTE〉レーベルの創始者ダニエル・ミラーも北朝鮮ツアーに同行し映画に出演している。

「ユーモラスで異形、示唆に富みながら時折現実を超えた社会主義の世界へどっぷりと入り込んでいく」 ――MOJO

映画公式HP:https://kitachousen-rock.espace-sarou.com/

いまから35年以上前、当時ユーゴスラビアの工業の町トルボヴリェで結成して以来、ライバッハはいまでも中央や東ヨーロッパ旧社会主義国出身としては、世界的に最も評価の高いバンドである。ユーゴスラビア建国の父チトーが亡くなったその年に結成され、ユーゴスラビアが自己崩壊へと舵を切るのとときを同じくしてその名を知られるようになる。ライバッハは聴くものを考えさせ、ダンスさせ、行動を呼びかける。

最新アルバム『Also Sprach Zarathustra』(2017年)

[Apple Music/ iTunes] https://apple.co/2ENp7CL
[Spotify] https://spoti.fi/2sVQtj1


www.laibach.org
www.mute.com

 2009年にはじまったノースサイド・フェスティヴァルは、SXSWのブルックリン版とも呼ばれている。ブルックリンのノースサイド(グリーンポイント、ウィリアムバーグ、ブッシュウィック)で行われ、これまでもこの連載でも何度かカヴァーしてきた
 10年目に突入した今回は、イノヴェーション(革新)と音楽に的を絞り、300のバンド、200のスピーカーがライヴ会場からクラブ、教会からルーフトップ、ピザ屋およびブティック・ホテルなどに集まり、朝から晩までの4日間に渡るショーケースが催された。


Near Northside festival hub


Innovation panel @wythe hotel

 2018年のイノベーション・テーマは「未来を作る」。この先5年後の世界を変えるであろう、スタートアップの設立者、起業家、デザイナー、ジャーナリスト、マーケッターなどがパネル・ディスカッション、ワークショップ、ネットワーキングなどを通し、未来について熱く語った。
 登場したのは、imre (マーケッター)、バズ・フィード(メディア)、ディリー・モーション(VR)、メール・チンプ(メディア)、ニュー・ミュージアム( メディア)、パイオニア・ワークス(メディア)、レベッカ・ミンコフ(デザイナー)、ルークズ・ロブスター(フード)など。WWEBD? (what would earnest brands do?/真剣なブランドは何をするか?)という主題について、経験や物語などを通して語る。ブランドの力や自分のケースなどを例に出し、ブランドに必要な物をアドバイスするという。スピーカーとモデレーターも真剣勝負で、人気パネルは立ち見もあったほど。ちなみにイノベーション・パスは$599。


Innovation panel @williamsburg hotel

 昼間にイノベーションが行われ、その後に音楽プログラムがはじまる。今年のハイライトはリズ・フェア、ルー・バロウ、パーケケイ・コーツ、ピスド・ジーン、スネイル・メール、ディア・フーフという、90年代に活躍したバンドが目立った。地元の若いバンドは、ブッシュウィックのアルファヴィル、リトルスキップに集中していた。野外コンサートは今年はなかったが、パーケット・コーツとエチオピアのハイル・マージアが出演する3階建てのボート・クルーズが追加された。時代はファンシーである。


Thu June 7 th

Corridor
Lionlimb
Snail mail
@ Music hall of Williamsburg

Lau Barlow
@knitting factory

NNA tapes showcase:
Erica Eso
Tredici Bacci
@ Union pool

Fri June 8th

NNA tapes showcase:
Jake Meginsky
Marilu Donovan
Lea Bertucci
@ Film noir

Sat June 9th

Brooklyn vegan showcase:
Deerhoof
Protomartyr
@ Elsewhere

Wharf cat showcase:
Honey
The Sediment club
Bush tetras
@ El Cortez

 木曜日は8時ごろリズ・フェアーに行った(彼女の出番は9時30分)が、2ブロックほど長ーい行列があるのを見て早速諦める。隣のミュージック・ホールでコリドーとライオン・リムを見る。モントリオールのコリドーは初NYショーで、ジャングリーな勢いを買う。ブッシュウィックにミスター・ツインシスターやピル、フューチャー・パンクスなどを見に行きたかったが、時間を考えると無理だと諦め、代わりに近所の会場をはしごした。
 スネイル・メールに戻ると、会場はぎゅうぎゅうになっていた。この日は彼女のニュー・アルバム『Lush』の発売日。白いTシャツに黒のテイパーパンツ、スニーカーだけなのに、超可愛い! 彼女の唸るような声は特徴的で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、なんでも大げさに反応するオーディエンスに「クレイジー」と言っていた。その後ルー・バーロウの弾き語りを見て、NNA tapesのショーケースに行く。ライアン・パワーとカルベルスは見逃したが、エリカ・エソとトレディシ・バッチを見た。


Snail mail @MHOW

 エリカ・エソは、アートポップ、シンセ・アンサンブル、ギターレスの現代的R&B、クラウトロックなどを織り交ぜた白人男子と黒人女子のツイン・ヴォーカルがシンクロする、新しい試みだった。
 トレディシ・バッチ(13 kissesの意味)は、トランペット、サックス、オーボエ、3ヴァイオリン、キーボード、ドラム、ヴォーカル、フルート、ベース、ギター兼指揮者の14人編成のオーケストラ・バンドで60、70年代の、イタリアン・ポップ・カルチャーに影響されている。フロントマンのサイモンはスツールに立ち、みんなを指揮しながらギターを弾き、オーディエンスを盛り上げ、ひとり何役もこなしていた。彼のハイパーぶりも凄いが、ついてくるバンドも凄い。必死にページをめくっていたし、ヴォーカルの女の子は、すましているのにオペラ歌手のような声量だった。


Erica Eso @ union pool


Toby from NNA Tapes


Tredici Bacci @union pool

 金曜日、2日目のNNA tapesショーケースは、「新しい音楽と映画が出会うところ」というテーマで、ミュージシャンとヴィジュアル・アーティストがコラボする試みだった。会場は映画館。ジェイク・メギンスキーは、ボディ/ヘッドのビル・ナースともコラボレートするエレクトロ・アーティストで、宇宙感のある映像をバックにメアリール・ドノヴァン(of LEYA)は、アニメーションをバックにハープを演奏。リー・バーチューチは、自然の風景をフィーチャーした映像をバックに天井も使い、サックス、エレクトロニックを駆使し、ムーディなサウンドトラックを醸し出していた。映像を見ながら音楽を聞くと、第六感が澄まされるようだ。可能性はまだまだある。


NNA Tapes merch

 最終日は、写真でお世話になっているブルックリン・ヴィーガンのショーケースにディアフーフ、プロトマーダー(Protomartyr)を見にいった。ディアフーフは、ドラムの凄腕感とヴォーカルの可愛いさのミスマッチ感が良い塩梅で、全体的にロックしていてとても良かった。プロトマルターはナショナルみたいで、ごつい男子のファンが多かった。


Deerhoof @elsewhere

 それから近くの会場に、硬派なバンドが多いワーフキャット・ショーケースを見にいく。ハニーは見逃したが、セディメント・クラブは無慈悲なランドスケープを、幅広く、残酷にギターで表現していた。ブッシュ・テトラス、NYのニューウェイヴのアイコンが、10年ぶりにEPをリリースした。タンクトップ姿のシンシア嬢は、年はとったがアイコンぶりは健在。80年代CBGB時代のオーディエンスとワーフ・キャットのミレニアム・オーディエンスが、同じバンドをシェアできるのはさすが。
 その後アルファビルに行くが、シグナルというバンドを見て、すぐに出てきた。この辺(ブッシュウィック)に来ると、ノースサイドの一環であるが、バッジを持っている人はほとんどいない。


The sediment club @el Cortez

 今年はハブがマカレン・パークからウィリアム・ヴェール・ホテルに移動し、会場もブッシュウィックやリッジウッドが増えた(ノースサイドからイーストサイドに)。日本にも進出したwe workは、ノースサイドのスポンサーであり、ウィリアムスバーグのロケーションをオープンすることもあり、この期間だけイノベーションのバッジホルダーにフリーでデスクを提供していた。
 ハブにもデスクがあり、コーヒー、ナチュラルジュース、エナジーバー、洋服ブランド、ヘッドホンなどのお試しコーナーもある。ウィリアムスバーグ・ホテル、ワイス・ホテル、ウィリアム・ヴェールの3つのホテルを行き来し、合間に原稿を書く。ノースサイドの拠点は、豪華なブティック・ホテルが次々とできているウィリアムスバーグ。高級化は止まらず、それに応じてフェスが変化し、イノヴェーションが大半を占めるようになった。時代はデジタルを駆使し、いかにブランドをソーシャル・メディアで爆発させるかで、音楽のヘッドライナーも懐かしい名前が多かったが、若いブルックリンのインディ・バンドたちはDIYスペースで夜な夜な音楽をかき鳴らし、「ノースサイド・サックス」と言いながら別のシーンを創っている。とはいえ、こういうバンドなどを含めてすべて巻き込むノースサイドの力こそが、いわゆるブランド力ってものなのかもしれない。

Yoko Sawai
6/10/2018

John Coltrane - ele-king

 すでにご存じかと思いますが、ジョン・コルトレーンの未発表スタジオ録音アルバムがリリースされる。6月29日、55年前に録音されていたという『ザ・ロスト・アルバム』が世界同時発売されるということだが、ソニー・ロリンズが完な言葉でこのリリースを言い表している。いわく「これはまるで、巨大ピラミッドの中に新たな隠し部屋を発見したようなものだ」
 つまり、こんなところに宝があったと。
 それはニュージャージーのヴァン・ヘルダー・スタジオにおける1963年3月6日のセッションで、コルトレーン史におけるもっともクラシカルなメンバー──ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・タイナーという黄金のカルテットによる。この録音のマスターはリリースの時期を見計らっていたインパルス・レーベルが管理していたが、70年代初頭に保管費用の節約のための破棄のひとつとなったという。
 ところが、コルトレーンは同じテープを後に離婚する妻のナイーマにも預けていた。それがなんと、彼女の家族にまだよい状態のまま保管されていたのだった。これがようやくレーベルのもとに戻ってきたことで今回のリリースが実現した。
 まだコルトレーンが脇目もふらずフリー(スピリチュアル)に突き進む手前の、彼がその美しいメロディを吹いていた頃の演奏だ。彼の作品でももっとも人が親しみやすい『バラード』『゙ョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ ハートマン』と、そして精神の旅に出かけた『至上の愛』のあいだに位置するアルバム。7曲のうち2曲は、未発表のオリジナル曲。デラックス・エディションには別テイクまで収録した2枚組。
 55年を経て見つけられたとんでもない埋蔵物である。ぜひチェックして欲しい。



ジョン・コルトレーン
ザ・ロスト・アルバム(通常盤)

ユニバーサル・ミュージック
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ジョン・コルトレーン
ザ・ロスト・アルバム(デラックス・エディション)

ユニバーサル・ミュージック
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Bruce Gilbert - ele-king

 実験は永遠に続く。なぜか。生きるとは実験と実践の継続と同義だからである。そしてひとつの生が終わっても、別の生がその実験を継承する。永遠に。むろん音楽も同様だ。だからこそ日々、新しい音楽が生まれ続けている。先端音楽もエクスペリメンタル・ミュージックもポップ・ミュージックもロック・ミュージックもジャズも現代音楽も南米音楽も、いやあらゆる世界で実践と実験が繰り返されている。生の証のように。それゆえ人生というときのなかでつねに未知/自己のサウンドを追求し続けるアーティストが存在する。前衛と継続、逸脱と継承、この相反する状態を長い時に渡って追求したときアーティストは、ひとつのレジェンドになる。

 1946年生まれで、現在72歳(!)、ブルース・ギルバートもまたそんな畏怖すべき永遠の実験・前衛音響作家である。ポストパンク・グループのワイヤーのメンバーだったブルース・ギルバートだが(2000年の再始動後も参加し、20004年にグループから脱退した)、その音楽性はロック/バンドの形式にとらわれるものではない。彼は70年代以降、マテリアルな質感の音響作品を数多く生みだし続けているのだ。
 そんなブルース・ギルバートの新作『Ex Nihilo』が実験音響レーベルの老舗〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた(https://brucegilbert.bandcamp.com/album/ex-nihilo)。ちなみに〈エディションズ・メゴ〉からは2009年に新作『Oblivio Agitatum』が発表され、同年に『This Way‎』(1984)、2011年に『The Shivering Man』のリイシューがリリースされている。
 加えて同レーベルはワイヤーのグラハム・ルイスとのユニット、ドームのリイシュー・ボックス・セット『1-4+5』も発売する。私見だが〈エディションズ・メゴ〉は、ノイズからグリッチというエクスペリメンタル・ミュージックの歴史的な視座を持ってブルース・ギルバートの新作および再発を10年代初頭に行ったのではないかと思う。
 さらに、ブルース・ギルバートは英国のエクスペリメンタル・レーベル老舗〈タッチ〉から、2013年にブルース・ギルバート・アンド&BAWで『Diluvial』を送り出してもいる。この1946年生まれの実験音響音楽家は、00年代以降も、つねに前衛的存在/音響を示し続けてきた。

 本作は、『Diluvial』から5年ぶり、ソロアルバムとしては『Oblivio Agitatum』以来、じつに9年ぶりの新作である。聴けばわかるように、いまだ過激かつ実験音響を鳴らしている。ラテン語で「ゼロ、無から」を意味するというアルバム・タイトルそのものともいえるマテリアルな質感のノイズ/ドローン作品だ。
 じじつ、全9曲、どのトラックも聴き手の感覚のむこうから鳴ってくるような物質的なノイズによって、「音/楽の極北」のような響きを生成する。これほどまでに非=人間的なドローンやノイズも稀だ。論理や明晰さかも逸脱しており、人間と世界の中間領域で鳴り響くようなハードコアでマテリアルな音響である。まさに「人間」から遠く離れて。

 なかでもA1“Undertow”、A4“In Memory Of MV”、B2“Black Mirrors”、B5“Where?”などは、まさに電子ノイズ/ドローンの極北ともいえるような音が蠢いており、聴き手の耳を音楽と非音楽のボーダーラインへと誘発する。そして無機的なドローン曲“Change And Not”などは、音楽の実験・前衛の最前線を40年以上にわたって走りぬけてきた御大だからこそ行き着いた音響空間が生成しているように思えた。
 本作においてノイズは音楽/音階とは別次元でサウンドの高低を変化させ、音楽へと抵触する直前に鉱物のような音響を放っている。音=ノイズに対するフェティシズムすらも冷たく引き離すような感覚があるのだ。ブルース・ギルバートが生成する音響は、端的に言ってノイズや音響の快楽を無化する。いわば、「音楽」から遠く離れて。

 現在、電子音楽やノイズ音楽は変化の只中にあるという。すでに過去(20世紀的な)言説では語り切れない領域へと至っているともいわれる。当たり前だがすでに20世紀は終ったのだ。しかし、その「現在」もまた数秒後には過去になる。やがて無効になる。ゆえに「失語症」を恐れるがあまり、現代性を強調した正論を繰り返すようになる危険性もある。そのような言説は空虚である。だからこそ、われわれは「変化」とは「人生」であり、「実験」とは「生の条件」でもあることを再認識すべきだ。世代も時代も超えた地点にあるもの、つまりは実験や前衛に、流行やモードとは無縁のものを見出すこと。

 本アルバムはマスタリングをラッセル・ハズウェル、カッティングをラシャド・ベッカー (ダブプレート・アンド・マスタリング)という鉄壁の布陣で制作されており、〈エディションズ・メゴ〉の250番目のリリース作品(!)に相応しい作品といえる。ポストパンクからグリッチへ。そして10年代的なエクスペリメンタルへ。延々と受け継がれてきた前衛と実験精神の結晶が本作なのである。

interview with TAMTAM - ele-king


TAMTAM
Modernluv

Pヴァイン

R&BPopDub

Amazon Tower HMV iTunes

 2016年リリースの前作アルバム『NEWPOESY』で、そのタイトル通り、まったく新しいバンド像を提示してみせたTAMTAM。この勇気ある音楽的旋回で彼らは、我々の想像し得なかったような新たな魅力を知らしめることになった。おおまかな見取り図を描くなら、「レゲエのテイストを湛えたオルタナティヴ・ロック・バンド」というそれまでのキャラクターを潔く打ち捨て、「当世のインディR&Bやジャズ、ヒップホップなどの音楽的語彙に下支えされた音楽家集団」への華麗なる転身、とでも言うべきものであったかもしれないが、その転身劇以上に我々を歓喜させたのは、もちろんその音楽内容の充実ぶりであった。
 さまざまな実験精神が注ぎ込まれたミックステープのリリースを挟み、いよいよ2年ぶりとなるアルバム『Modernluv』をリリースする彼ら。その音楽的視野はさらに広範に及び、肥沃さ・深度の面でも極めて大きく前進した。
 前作以降の音楽的興味や、「バンド」という組織体ならではの創作のダイナミズム、各人のテクスチャーへの繊細なこだわり、そして「現代の愛」という「カッコつけ切った」タイトリングと、稀なる歌詞世界。作詞作曲とヴォーカルを手掛けるクロ、ドラマーにしてバンドのブレインともいうべき高橋アフィのふたりに話をきいた。


もともと僕はノイズとか、なかでも、パワー系ではなく弱音的なものが好きだったんですけど、そういうエクスペリメンタル系の流れのものと、いまのR&Bとかヒップホップのアンビエントなものが、なんとなく音響的に共通するメロウな気持ち良さがあると思っていて。 (高橋アフィ)

〈Pヴァイン〉に移籍後の前作リリースから2年弱を経て、さらにバンドの周りの環境が変わったということはありましたか?

高橋アフィ(以下T):大きく変わったことはそんなになくて。ただ、前作から中村公輔さんにエンジニアリングをお願いしているのですが、ミックスなどのポストプロダクションはもちろん、今回はより曲のコアなところまで関わってもらいました。もちろん僕たちから希望を出すこともあったんですが、中村さんのアイデアでどんどん変わったりして。昔からいろんな音楽を聴いてはいたんですが、「いまこういう音楽がカッコいいと思う」とか、「こういうものが面白いと思う」といったコミュニケーションをするなかで、よりスムーズにやれるようになったな、と。

クロ(以下K):だんだん自分たちとしても、やりたいと思っていることを100用意したら100近くできるようになってきている気がしていて。それは外部環境の変化もあると思うのですが、自分たち自身の変化もあると思います。

コミュニケーションの際の音楽的語彙も、じっさいの録音への取り組み方も深化した、と。

K:そうですね。

今回はイメージの共有が中村さんとも最初からできているような感じだったんでしょうか。

K:そうですね。普段からLINEでコミュニケーション取ったりしながら。

前作ももちろんアイデア豊富で、それをひとつひとつ実現していく感じだったと思うのですが、今回は目標の共有の度合いが明らかにレベルアップしていて、それが成果として表れていると感じました。

K:『NEWPOESY』のときは、それまでと大きく音楽性が変化したりメンバーが変わったりとか、「これがいまのTAMTAMだ」という自我をアピールするということに力を注いだ感じだったんですけど、そこはもう卒業できたというか、考える深度を深めていくことが今作ではできたと思います。

『NEWPOESY』を出したあと、自主制作でミックステープ『EASYTRAVELERS mixtape』をリリースしましたよね?

K:当初は、ラフなものを1作挟んでからフル・アルバムを出そう、という感じだったんですが……結果的に結構丁寧に作り込んじゃって。

T:海外のミックステープっぽいものを、何を演って何を録っても良いっていうラフな感じでやってみようと思って始めたんですが、制作を進めていくうちに、「この曲はふざけてあの感じでミックスしよう」とかやりはじめたらすごい時間がかかってしまって。けれど、それを経たこともあり、だいぶ変なことやってもカッコよくまとめることができるんだな、と思うこともできました。

じゃ、ある意味で『EASYTRAVELERS mixtape』が今作『Modernluv』の習作的存在ということですかね。そこでいろいろアイデアを出した結果、アルバムで目指すべきものが研ぎ澄まされてきた?

T:そうですね、いろんな所まで広げても音楽の強度は保てるし、そっちのほうが面白くなるだろうな、と思って。あとは機材が増えたこともあったり。

K: たしかに『Modernluv』に入っている曲で、ミックステープと制作期間が被っているものもあるので、ホント地続きで来ている感覚です。

どの曲?

K:“Fineview”と……

T:“Deadisland”がそう。

別室でみんながミックスをやっているときに、ブースだけ借りてひとりでずっとダビングをして、気がついたら半日経ってました(笑)。 (クロ)

TAMTAMは、初期からレゲエを重要なルーツとして活動してきたと思うのですが、今回は結構その色が薄くなってきたんじゃないかなと思いました。その点、ミックステープには割とはっきりとレゲエっぽいものが収録されていたりして。で、いま挙げてくれた2曲は、トロピカルさもあってレゲエ的テイストも残っているかなと思うんですが、それ以外の曲については、現在のオルタナティヴなR&Bとかに対してバンドがフォーカスしているのかな、というのを思いました。

K:たしかにそうかも。

T:ただ、ヴォーカルとベースとドラムで基礎を作って、その上にキーボードとギターを重ねていって、という作り方自体は今回もそれまでとあまり違いはなくて。だから、新しい興味とより混ざっていった、というのが感覚としては近いかもしれません。

K:元からラスタマンではないですし(笑)、同世代の他の人たちの平均よりレゲエが好きだった、というくらいの話かもしれないです。

だから、元々好きだったレゲエも、そして新たな興味も、別け隔てなく等距離で見ている感じなのかなと思いました。

K:そうかもしれないですね。

以前のインタヴューで、前作の制作に向けての転機となった曲として“星雲ヒッチハイク”を挙げていましたが、今回も「こういう方向性でアルバムをまとめていこう」というキーになったような曲はあるんでしょうか?

K:個人的には“Esp feat. GOODMOODGOKU”ですかね。リード・トラックだからというのもありますが、制作の早い段階でできた曲で、これが核になるかなという感触があった。デモの段階ではもっとアップテンポな曲だったんですが、BPMを落としてスタジオで試してみたら「おっ」という感じになって。こういうちょっとローなダンス感をバンド・サウンドで演奏するというのが面白いかもと思って、そこから発展させていきました。

たしかにこの曲はリード・トラックなのもすごく納得できるな、と思いました。アルバム全体的にもBPM抑え目の印象を受けたので、その象徴という感じもします。GOODMOODGOKUさんの参加はどういった経緯で?

K:彼とはそもそもなんの繋がりもなかったので依頼するのは賭けでした。GOODMOODGOKU & 荒井優作として去年リリースされた『色』が好きだったので、ダメ元でお願いしてみよう! と。

T:その時点で曲自体はもうできていたんですが、ラップのパートのところはまだできてなくて。客演が決まってから付け足す形で作りました。

リリックを含めて作ってくれませんか? という感じで?

T:そうですね。

K:まくし立てるタイプのラップの人も良いかもな、とか、たくさんラッパーをフィーチャーするっていうのも面白いかなとも思ったんですが、GOODMOODGOKUさんはもっとも自分たちのやっていることと地続きの感覚でやってくれそうな感じがあったので。

メロウなラップというか……とても巧みに溶け込んでいると思います。

K:GOODMOODGOKUさんが参加してくれると決まってからは、彼の持っているエレガンスも意識して楽曲制作をしたかもしれません。

このところ、いろんなジャンルで「メロウ」というタームが浮上してきて、国内外シーンでも重要なものになっていると思うんですが、今作『Modernluv』もやはりとてもメロウだと思いました。おふたりが普段聴いている音楽も反映されているのかなと思うんですが、「メロウ」とか「メロウネス」って感覚って、自分たちにとってどんなものでしょう?

T:もともと僕はノイズとか、なかでも、パワー系ではなく弱音的なものが好きだったんですけど、そういうエクスペリメンタル系の流れのものと、いまのR&Bとかヒップホップのアンビエントなものが、なんとなく音響的に共通するメロウな気持ち良さがあると思っていて。先述の『色』のトラックを作っていた荒井優作さんもどこかのインタヴューで言っていたんですけど、「クラブ以降のアンビエント」みたいな話をしていて、そういう感覚というか。

フランク・オーシャンに代表されるような……

T:そう。あとブラッド・オレンジや、80年代っぽいものも含めて。スクリュー系の音楽も好きで聴いていたし。音としての快楽を高めていくと、ビートの有無に関わらず、ちょっとメロウな感覚が出てくるというか。だから自分のなかでは、エクスペリメンタル寄りのアンビエントの流れとしてメロウなものが存在している気がします。

例えば70年代のソウルとかAORとかいう流れの「メロウ」ではなくて。

T:そうですね。でも、ヴェイパーウェイヴも聴くようになって、80年代のフュージョンやAORも、音響的にメロウな作品として聴くようになりましたけど(笑)。

現在何気なく言われる「メロウ」って複数の流れがある気がしていて。レア・グルーヴ~アシッドジャズ由来の90年代型DIG文化を反映したフリー・ソウルとかからの流れ。ヴェイパーウェイヴからフューチャーファンクに繋がる流れ。それと、多少領域も被るけれど、いまおっしゃったエクスペリメンタル的文脈も汲みつつアンビエントとブラック・ミュージックが融合していく流れとか……。そういう論点で考えると、今作は、はっきりとどの流れから出てきた、と言い切れないようなハイブリットな面白さがあると思って。それは、メンバーみなさんが聴いてきた/聴いている音楽が反映されているんだろうなって思うし、その上、レゲエも含め、プレイヤーとしてずっと演奏経験を積んできたっていうのもやっぱり単純な傾向付けから抜け出ている要因なのかな、と思いました。

T:クロちゃんは、90年代のR&Bとかルーツ?

ミッシー・エリオットとかネプチューンズとか?

K:そうですね。あとR・ケリーとかめちゃくちゃ好きでした(笑)。

T:ちょっといま絶妙に出しづらい名前ですね(笑)。

K:高校生の頃とか聴いてました。

みなさんが聴いてきたそういった音楽がとても有機的に消化されている感があって。いわゆる「メロウネス」にもいろいろな種類や傾向があるけど、みなさんのなかでストレスなく混合しているんだろうな、と。

T:それと……アルバムを作っているなかで「メロウ」とは、と考えたとき、元ライのロビン・ハンニバルがプロデュースしている、デンマークのオーガスト・ローゼンバウムというピアニストのソロ作にはとても影響を受けました。ロビンのクアドロンや周辺のアーティストたち……。ヴェイパーウェイヴ風の80年代的ゲートリヴァーブ、生音のシネマティックな音響、それとポスト・クラシカル的というか、現代音楽っぽい感覚。そういったメロウネスも参考にしたかもしれません。

そういった音像のコントロールの話になると、やはりエンジニアの中村さんの活躍は相当大きいんだろうなという気がしてきます。リズム面についてですが、作曲やデモ段階から途中でアレンジを変えたりするんでしょうか?

T:クロちゃんからデモが来る段階では大体全パートできているんです。完コピは難しいのである程度はもちろんその後変わりはするんですけど。大幅に変わった曲は“Esp”と“Morse”と“Goooooo”と……あ、結構変わってますね(笑)。

最初から「はいリズムはこれで行きます」という感じで決めて臨んだわけではないように感じたんですよね。おそらく、コミュニケーションのなかで「あ、これは変えちゃって良いんじゃないか」とか、それ位のスポンテニアスさがないと、なかなかこういう風な仕上がりにはならないだろうな、と思って。

K:“Morse”とか“Goooooo”とかはもう、10転11転くらいした。デモの跡形もない。

T:すごく変わりましたね。無難な落とし所として、ちょっと遅めのテンポで柔らかな4つ打ちベースに16分っぽいのをアクセント的に入れるっていう、いわゆるトロピカル・ハウス的なパターンがあまりに使いやすくはあるんですが、いまやってもあまり面白くないな、と。だからといって、R&Bをそのままやるバンドでもないですし。リズム・アレンジはかなり考えたな、という気がします。

クロさんはデモをバンドに共有する段階で隙間とかアレンジの余地を残しておいたりするんですか?

K:そうですね。TAMTAMのデモ制作には、トラックとしてひとりで一旦完成近くまで持っていきたいときと、まったくそうでなく大雑把に、部分的に作るときがあって。でもどっちの場合も最終的には演奏する人物の解釈・変更はむしろあったほうが嬉しくて。ポジティヴなものだと思っています。あくまで自分はメンバーのなかで少しフレーズ出しや構成が特異なポジションという認識で。それと、打ち込みだと、特にギターの音がイメージしづらいので、ギターは固定フレーズのたたき台になるようなものだけ作って、結構丸投げしちゃうことが多いかもです。

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自分はそういうタイプではないなと思っているからこそ、じゃあカッコつけ切った方ほうが良いなというのがあって。 (クロ)

メロディと構成だけは固めるけど、アレンジは基本余白のある状態で、と。


TAMTAM
Modernluv

Pヴァイン

R&BPopDub

Amazon Tower HMV iTunes

K:基本ベースとドラム、そして歌ですね。それ以外は結構変わっちゃうかも。でも“Morse”はバンドで合わせてみたときにぜんぜんハマらないなあと思ったので、メロディも全て変えました。それから、レコーディングでカリンバ音源などの重ねをたくさんしていった。これはライヴを想定していない作り方なので、7月以降レコ発やツアーでバンドで演奏する準備をこれからやらなきゃなんですが(笑)。

T:生バンドと打ち込み感の融合ということで言うと、このアレンジ「チルくていいよね」みたいな感じで盛り上がっても「でも、それならバンドじゃなくていいかも……」と迷ったりするんです。そういうときにムラ・マサを聴いて。ムラ・マサはバンドじゃないですけど、トラックは生音っぽいニュアンスが出ている。なおかつ打ち込み特有の圧のある感じで、リズムのシンプルな強さが際立っていて。

打ち込みと生っぽさの融合。

T:それならバンドでやれるかも、と思って。

K:ただ、ムラ・マサの感覚をバンドに置換するのはさほど苦労なくイケるだろうと思ったんですけど、じっさいはぜんぜん一筋縄にいかなくて。

プレイが難しいという意味?

T:それもあるんですけど、それ以上に、彼はもう2個くらい何かしら違う技を使ってると思うんですけど。

K:意外とバンドらしさとの共存が難しいのかも。受けた影響をそのままやってみようとすると「あれ? なんか情報量足りない?」ってなっちゃったんですよね。

でも結果的には、ムラ・マサの感覚をバンドで再現するというところに拘りすぎなくて良かったと思います。いい意味で、みなさんのプレイの手癖みたいなものが引き出されることで、個性も出てくるわけで。
 そういう意味で“Morse”などは、バンド・サウンドのダイナミズムが聴けるので、例えばジャズ・ファンが聴いても面白いと思うだろうし、“Fineview”もファンク的だったり、プレイヤビリティに根付いた快感もちゃんとある。特定の質感を狙いすぎると、肉体的な要素を削ぎ落としすぎてしまうこともままあると思うのですが、それがしっかり残っているというか、全面的に聞こえてくる。だからもしかすると、いまのUKジャズのシーンとかにもバランス感覚が近いのかな、と思ったりしました。
 今日いらっしゃらないメンバーの方々の音楽志向についても教えてください。まずギターのユースケさんは?

K:かつては結構普通にロック少年だったと思うんですけど、最近はDJで引き合いが多いようで、元からクラブ・ミュージック全般的な部分には詳しいですね。

T:バレアリック寄りというか、生音のレア・グルーヴっていうより、辺境系のサイケ色が強い感じの。

K:ここ最近はニコラ・クルーズにハマっているみたいで。「今作でも影響を実践した」と言ってました。本人に言われて作った後に気づきました(笑)。

たしかに、フレージングとかはすごく巧みなんだけど、なんというかギター・キッズ感はなくて、自身の演奏を俯瞰的に捉えている感覚を覚えました。DJとしても活動しているというのはなるほどという感じです。キーボードのともみんさんは?

K:彼は一言で言うなら、ポップスとして精度が高いものが好きという感じだと思います。

宇多田ヒカルとか?

K:そう。それと、ディズニー映画のサウンドトラックとか。あんまりバンド活動をしていてもなかなか会わないタイプの……

T:ぶれずにずっと好きだよね。学生の頃から。出会ったころは、槇原敬之とか。

K:学生の頃に一緒に演っていたラテンとかカリプソ、レゲエも彼の嗜好を捉えたみたいです。

T:ラテンとかもよくあるんですけど、80年代っぽいというか、逆にいなたいくらいのゴージャスな音を狙いたいとき、「そういう音色で」っていうと、ぱっとすぐ弾いてくれたり。そういう勘所がすごくあって。そういうポップスのアクっぽいところを即座に理解してくれます。

なるほど。かなり客観的にポップスを聴いているということですね。ウェルメイドなものを目指すという点においては皆さん同じだから、ユースケさんやともみんさんのなかにある蓄積や引き出しが混交することでTAMTAMのバンド・サウンドが形作られている、と。

T:そうですね。

次にクロさんの歌唱のことについてお訊きします。前作『NEWPOESY』での変化が大きいかと思うんですが、以前に比べると相当に歌い方が変わりましたよね。

K:そうかもしれないですね。

今回、前作よりさらにソフトというか、抑制されたヴォーカリゼーションに感じたのですが、やはりこれは音楽性の変化に合わせて、ということなんでしょうか?

K:普通に歳を取っただけかもしれないですけど(笑)。昔の自分の音源や『NEWPOESY』も含めて、ちょっとキンキンするなって。そこをもっと無理しないように歌うのは意識したかもしれないです。

先ほど90年代のR&Bがルーツというお話をしていましたが、だからといって、張りまくって歌い上げる系とはまったく違って、よりクワイエットというか、ちょっとフォーキーさも感じました。

K:最近は「どうだ、歌い上げてやるぞ」というような人よりは、抜き方がうまい歌い方の人が好きで。歌い手はもちろん、最近だとノーネームとかラッパーにも好きな人が多くて。

それはリズム感というかフロウというか?

K:それもそうだし、声の使い方が面白い。

その声の使い方ということで言うと、個人的にそういった女性ラッパーからの影響以上に感じたのは、ダーティ・プロジェクターズのコーラス処理に似た感覚というか……。吉田ヨウヘイgroupではコーラスを担当されていますが、そういったことを通じて歌に対する意識が変わったりしましたか?

K:そうですね。吉田ヨウヘイgroupでは、一般的に言うコーラスより地を出してメインと同じくらいの存在感を出すというなかなか珍しい形態なので、そういう意味では使える声を日々発掘してます。

じっさい今作のコーラス・アレンジもすごく凝っているなあ、と思いました。

K:もともと重ね録りが好きだったのでそこはなんの苦でもないですね。家でデモ録音しているときも、放っておくとコーラスの重ねが止まらなくなります。

オケとコーラスの関係性が高い意識で突き詰めるられているというのはTAMTAMの音楽の特徴のひとつだと思いました。

K:すべて、メインの歌を録ってコーラスも必ず2~3本は重ねるという流れでした。1曲目のタイトル曲はいちばん最後の曲のBPMを落としているだけなんですが、あれに関してはひたすらコーラスをその場で適当に10何本とか重ねて。

たしかにすごい音像でした。声というより何か……。

K:別室でみんながミックスをやっているときに、ブースだけ借りてひとりでずっとダビングをして、気がついたら半日経ってました(笑)。ムー(MØ)とかのような、簡単には知覚できないところにいっぱいコーラス・トラックがあったというのをやりたくて。シンセとか環境音みたいに鳴らしたり、喋っている声を入れたり、じつは細かくパンを左右行き来させたり、とか。

インディR&Bの人たち、フランク・オーシャンとかもそうなんですけど、等身大っちゃ等身大なんだけど、パートナーを誘う言葉がすごいカッコつけているってことに気づいて。 (高橋アフィ)

最後に歌詞の話を。全体的になんというか……。言葉にしちゃうと俺がアホみたいなのですが(笑)……「都市の大人の恋愛観」というのが色濃くある気がして。

一同:(笑)。

「アーバンなラブ・アフェア」という感じ? 言い方を変えるなら、「平成の終わりのラグジュアリー」というか。それはアルバム通した要素としてある気がするんですけど、何か意識して書いているんでしょうか?

K:私田舎者なので(笑)、アーバンかどうかはわからないんですけど……。いまの自分から、あんまり距離がないものにしようと思っていました。

題材を自分に相応のものから選んでいる、と。

K:そうですね。男か女かはわからないけれどパートナーが存在して、その関係性についてを書くところが多かったというか。それこそ前作でそうやって書くのが楽だなあと気づいて、自分の言葉が出てくる感じになって。

その前はかなり壮大な世界観というか、宇宙をモチーフにしたりしてましたよね。

K:そう。単純にSFが好きだから、それをネタ元にしてて。いま思えば見よう見まねで歌詞を書いてた時期で、自分のメソッドもないから、歌詞書くのは好きだけど「上手く伝えられた」と思うことが少なかった。さっきのサウンドの話とも一緒かもしれないのですが、作曲も自分でやるようになって、作曲面の自我が固まるにつれて歌詞もメロディもすごく乗せやすくなってきた。パーソナルなことも、開いた感じで書きやすくなった気がします。

全体的にものすごい気怠そうというか……(笑)。大人ならではの甘美な疲れ、みたいな……熟れたラグジュアリー感ということなのかもしれないけど、『なんとなくクリスタル』のような感じとももちろん違っていて。自分の周りの題材を素直に扱ってこういう作風になるっていうことは、非常にアーバンな生活をされている方なのかな、とか思いました(笑)。

K:そんなこともないんですが(笑)。狙ってアーバンにしている曲もありますね。

なんというか、かつてのプロの作詞家的っぽさもあるんですよね。2000年代半ばくらいがピークだと思うんですけど、等身大の自分をピュアにさらけ出す、的なものが素人作家主義のようなものとしてかつてあったと思うんです。そういうのっていま聴くと結構キツかったりするんだけど、今作の曲からは言葉の使い方とか含めていい意味での職業作家性やストーリーテラーとしての意識を感じました。

K:たしかに、自分の近くにいる相手に何かのきっかけで思ったりしたこととか、をとっかかりにするという意味では「等身大」ではあるけど、リアルにさらけ出す、というものは目指してなくて。たしかに自分の好みとしても作家っぽい人は好きです。小西康陽さんとか。

ユーミンとか。

K: そうそう。自分のなかで歌詞について迷っていたときに、「好き・嫌い」「自分にフィットする・しない」の2軸で世のなかの歌詞を分類してみたことがあって。「好き」でいうと、じつは強烈な個性をさらけ出す、痛烈でリアルな言葉を吐くといったタイプも好きで、自分ができないから憧れるところもあるんですけど。自分はそういうタイプではないなと思っているからこそ、じゃあカッコつけ切った方ほうが良いなというのがあって。それでまたR・ケリーが出てくるんですけど(笑)。

そこに繋がるんだ。

K:R・ケリー、そんなに持ち上げても仕方ないんだけど本当に最近また参照したからな(笑)。こういうの好きだったなって。歯の浮くようなことを言い切るとか……それこそGOODMOODGOKUさんも、そういう視点で「うわ! カッコいい!」と思いました。

T:ああ、言ってましたね。シド(ジ・インターネット)もそんな感じだって。

K:そうそう。ちゃんと気取ってて好き。

T:良いなという歌詞を探していたとき、インディR&Bの人たち、フランク・オーシャンとかもそうなんですけど、等身大っちゃ等身大なんだけど、パートナーを誘う言葉がすごいカッコつけているってことに気づいて。恋愛ものだったら、愚直な感情をすごく詩的な表現で伝えるみたいなのは多いですよね。フランク・オーシャンの“Super Rich Kids”とか、本当にそのときフランク・オーシャンがそうだったかというよりも、「俺たちSuper Rich Kidsだ」って言うこと自体カッコつけているけど、カッコつけているからこそリアルさが出るといったような、あの感じは結果的に参照してたかものしれない。等身大だけど、言葉遣いまで等身大にしなくてもいいっていう。

K:R&Bは金の話か女の話か犯罪の話かをイキって歌うみたいなのが多いと思うんですけど、トピック自体はともかく、歌うときのカッコつけ方自体は、いいなと思っていて。

そのカッコつけが、いまの日本の都市文化的な風土を経由して表現されている気がして。本作の曲からは、どうしても東京の夜の街並みが浮かんでくる。それはもちろんかつてのバブル期の風景とも違って。カッコいい言葉を使いながらも、心象風景は現代っぽいという。一方で、ストリートに根ざした音楽は社会的なイシューと繋がっているべきだという論調もあるじゃないですか。その論調を拒絶するわけでもなく、個人の関係のなかへ逃避するときに発生してしまう気怠さを、なるべくベタつきのないカッコよさで見据える行き方というのは、現代に生きている都会人として気負いのない真摯な態度であるとも言えると思います。「メロウ」というのはそもそも「メランコリック」と親和性があると思うし。そういう意味ではみなさんと同じくらいの世代、30代で、自立しつつもそろそろ生活に膿み始めている大人たちとかは絶対共感できるだろうなって(笑)。

T:良かったです(笑)。

K:浮かばれました(笑)。

最後にアルバム・タイトルのことを。『Modernluv』っていうのは、まさにこれまで話してきた通り、この2018年の……多レイヤー化する社会に揺られながら、日々を生きる大人がする気怠さと憂鬱を孕んだ恋愛、という意味なのかなって勝手に解釈してたんですけど……あってますかね?

K:素敵な解釈で嬉しいです。それをカッコつけて看板を付けてあげたみたいなことかな。

めちゃハマってますよ。「LUV」だしね。カッコつけ切ったな、と(笑)。

K:なんか……バンドとして、いきなり「LOVE」はまだ恥ずかしいかなっていう(笑)。


Oneohtrix Point Never - ele-king

 作者が死んだのはちょうど50年前のことである。テクストは作者の考えていることを表したものではないし、ましてや作者の人間としての内面を吐露したものなどでは断じてない。テクストは引用の織物であり、内面なんてものはそれが言語によってしか説明されえない以上、すべて事後的に構成されるものである。
 もちろん、そのように人間を縮減していく試みは、19世紀の終わりから20世紀半ばにかけて何度も試みられてきた。詩人は言葉に主導権を譲らねばならないと主張した詩人、書物は日常生活を営む自我とはべつの自我によって生み出されると考えた小説家、ゲームや無意識など主体のコントロール外にある偶然的要素を創作に活かそうとした文学・美術グループ、あるいは「この女」と言うためにはその女から実態を剥奪し殺戮してしまわなければならないと説いた批評家。けれど、よりわかりやすい形で人間としての作者に死が与えられたのは、やはり1968年ということになるだろう。ようするにそれは、なんらかの対象について語るとき、それを生産した人間に着目するのはいい加減やめませんか、という提案である。そのような反人間的な発想が現れてから、もう半世紀ものときが流れたのだ。
 どうやらワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンもまたこの問題について考えを巡らせることがあったようで、先日公開された最新インタヴューにおいて彼は、われわれはついつい「この人間そのものの表現だ」と思えるような「苛烈なまでにパーソナルな表現」を賞賛しがちだけれども、自分は「演奏する人間が排除されている」ような「音楽機械」にこそ心惹かれる、と語っている。つまり、いままさにここでおこなわれているように、彼という人間をとおして彼の鳴らす音を説明しようとするのはもうやめませんか、ということである。たいせつなのは人間じゃなくてそこで鳴っている音でしょうよ、というわけだ。アンチ・ヒューマニズムである。

 とはいえOPNは、その発言によって自らの作品をパフォーマティヴに変容させていくタイプのアーティストでもある(同じインタヴューで彼が録音物ですら変化しうると言っているのは、そういう外在的な効果を念頭に置いてのことだろう)。その作品の強度と発言をつうじて、いまや10年代でもっとも重要な電子音楽家と言っても過言ではないほどの存在にまでのぼり詰めたOPN、あまりに大きな期待を背負って発表されたその8枚目のアルバムは、われわれの予想をはるかに超えるアイディアとサウンドをもって、いまふたたび彼のキャリアを更新している。
 どきどきしながら再生ボタンを押すと、すぐさまチェンバロの音が耳に飛び込んでくる。その響きと音階はバロック音楽の雰囲気を醸し出しているが、そのムードは幾度か差し挟まれる叫びとノイズ、そして中盤で30秒ほど挿入されるインスト・ポップ・バラードとでも呼ぶべき謎めいたパートによって破壊されてもいる。異なる時代を強制的に接合するコラージュ。冒頭のこの表題曲の時点ですでにロパティンの勝利は確定したも同然だが、続けざまに「バビロ~ン♪」という加工された音声が流れてくるのを耳にした瞬間、われわれはさらなる驚異と遭遇することになる。歌である。それも、ダニエル・ロパティン本人による歌だ。
 その旋律はポップ・ソングによくある「いかにも」な進行を見せる。押韻もわかりやすい。途中でプルーリエントによるスクリームが挿入されるものの、それでも曲はクリシェであることを全うしようともがき続ける。「ヘルプ・ミー」という高い声が乱入する。クレジットを確認して初めてそれがアノーニによるものであることがわかる。助けて。しかしロパティンは歌うことをやめない。「わかったよ/なんで君が僕らがバビロンにいると思うのかを」。助けて。「わかったんだ/なぜ君がこのバビロンから離れられないのかを」。そしてトラックは解決らしい解決を見ないまま唐突に終わりを迎える。バビロン。それはいったいなんの比喩だろう。インターネットか。資本主義か。それとも、常世すべてか。

 OPNらしい鍵盤とシンセが横溢する3曲目へと至ってようやく、われわれはこれがあのOPNの新作であることを思い出す。アッシャーのために書かれながらもアッシャーには使ってもらえなかったという“The Station”は、前半のロパティンによる歌を否定するかのようなミニマルなギター音の反復をもってリスナーに先を急がせる。ミュージシャンがよく口にする「架空のサウンドトラック」というクリシェを試したという“Toys 2”は、卓球のような具体音と『アール・プラス・セヴン』で展開されていた賛美歌風音声ドローンの断片、『ガーデン・オブ・ディリート』のような強烈なノイズと東洋風の旋律によるかき乱しを経て、初期のOPNを思わせる穏やかなシンセ・ミュージックを響かせる。そしてアルバムは先行公開された問題曲“Black Snow”へ到達する。吐息とフィンガースナップに誘導され、「盲目のヴィジョン/盲目の信念」と、ロパティンは静かに歌いはじめる。リリックはニック・ランドが設立に関わったCCRUの論集からインスパイアされている。バッキングに徹するアノーニ。東洋的なモティーフとノイズの手前で、ダクソフォンが不気味な唸りを上げる。

 アルバムはふたたびチェンバロを呼び込み、大規模なアート・プロジェクトを成功させるためには金融業者と仲良くならなければならないことを諷刺した小品“myriad.Industries”をもって、その後半を開始する。『R+7』の延長線上にあるトラックのうえでプルーリエントが雄叫びをあげる“Warning”や、ミュジーク・コンクレートとインダストリアルを同時に試みたかつてない作風の“We'll Take It”、ようやくアノーニがそれらしい歌声を披露する“Same”など、最後まで聴き手を飽きさせないトラックが続く。『R+7』から目立ちはじめ、『GOD』において突き詰められた、ポップ・ミュージックのメタ的な解体作業。『エイジ・オブ』ではそれがより尖鋭的な手法をもって実践されている。あるいは逆の見方をすればそれは、いわゆる大きな物語が機能しなくなり、幾千の島宇宙がそれぞれに閉じたサークルを形成するポストモダン以降の情況にあって、電子音楽の冒険を電子音楽ファンのなかでのみ完結するものにはしないという強い意志と捉えることもできる。
 ともあれ本作の肝をなす自身の歌唱と、アノーニやプルーリエントといったゲストの参加、あるいはダクソフォンの活用は、前作でチップスピーチを導入していたロパティンにおける声への志向性が、いま、ますます高まっていることを示している。けれどもそれらの声は著しく加工され変調され切り刻まれ、歌い手のキャラクターを尊重しない。声そのものへのアプローチを突き詰めつつもロパティンは、けっしてその人間性には依拠しようとしないのである。それはたとえばジェイムス・ブレイクの起用法にも表れていて、あくまでも彼はキイボーディストおよびミックス・エンジニアとして参加しているにすぎない。
 ロパティンはこれまでも本名名義での作品やプロデュース作品、あるいはサウンドトラックやリミックスなどでじつにさまざまな相手とコラボを繰り広げてきたわけだけれど、他方で自身のメイン・プロジェクトであるOPN名義のソロ・アルバムにゲストを招くことだけは頑なに拒み続けてきた。多くの客人を招待した『エイジ・オブ』はだから、彼のディスコグラフィのなかで大きな転機となるはずで、であるならばいっそ大々的にアノーニやジェイムス・ブレイクの歌声をフィーチャーしたポップ・ソングを作ってもよかったはずである。だがロパティンはそうしなかった。それにはおそらく、現在の彼が人間に対して抱いている二律背反的な、複雑な思いが関与しているのだろう。
 アノーニとの口喧嘩を経て、自分はニヒリストなのかと問いはじめたところからすべてがスタートしたという本作は、他方でわざわざクレジットにCCRUの名を掲げてもいる。ロパティンは揺れている。半分は無意識的に、そしておそらく半分はきわめて意識的に。思い出そう、先に引いたインタヴューにおいて彼が、人間が排除されたような「音楽機械」もまた「とても人間的なものに感じられる」と述べていたことを。「ハートから生み出された感じがする、そういう音楽」こそが好きなんだと、それこそクリシェのような発言をしていたことを。そしていままさにわれわれは、彼という人間をとおして『エイジ・オブ』を理解しようと試みている。

 いまさら人間に全幅の信頼を寄せるようなかつての発想には戻れないし、戻るべきでもない。かといって人間の縮減ないし抹消によってもたらされる種々のほころびをそのまま歓迎することもできない。急速にテクノロジーが変容し、人工知能や人新世といったタームが脚光を浴びる今日、人間と反人間とのあいだで揺れ動く現代、ポストモダンという言葉さえレトロスペクティヴに響き「ポスト・ポスト」という言い回しでしか名指すことのできないこの時代、それこそが『エイジ・オブ』の切り取ろうとしている生々しいバビロンの姿だろう。「オブ」以下が言葉を欠き、大いなる余白を残すゆえんである。

小林拓音

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 その人が資本主義の犠牲者だろうとそうじゃなかろうと、音楽には2種類ある。ひとつは気持ち良ければある程度は完結する音楽=EDM、AOR、MOR、シティ・ポップ、ほとんどのハウスとテクノとヒップホップ、多くのポップスやロックやファンクやジャズ……etc。もうひとつは気持ち良いだけでは物足りないと思っている人の音楽だが、OPNは後者を代表する。ポップのフィールドにおいて、いまこの人ほど思わせぶりな音楽をやってのけている人はいない。

 たとえば『リターナル』というアルバムがある。19世紀のフランスの画家、アンリ・ルソーに触発されたという話はファンの間では知られているのだろうが、ただしダニエル・ロパティンの解説によれば、それはルソーの絵画そのものに触発されたというよりも、自分が行ったことのない風景を人からの伝え聞きによって描いたというルソーの行為への関心によってもたらされている。それは、実際にアフリカを旅行してアフロをやるのではなく、自分が伝え聞いたアフリカをもとにアフロをやるということで、メディアによって拡張された身体が感応しうる世界を捉えるこということだろう。が、あの作品を聴いただけでそこまで想像できるリスナーがいるのだろうか。ロパティンは、自らの言葉で自らの作品に仄めかしを授け与える(その観点でいけばザ・ケアテイカーと似ているし、自己解説が作品に付加価値を与えるという点ではイーノにも似ているのかもしれないが、ロパティンほどアブストラクトではない)。

 『エイジ・オブ』におけるオフィシャル・インタヴューのロパティンの思わせぶりな発言を読んで、この1ヶ月、ぼくのなかにはどうにも釈然としないモヤモヤが生まれている。彼は、本人が歌う“Black Snow”という曲の歌詞がイギリスの思想家、ニック・ランドの影響下にあることを明かしているのだ。正確には、かつてニック・ランドが主宰したCCRU(Cybernetic Culture Research Unit)という研究グループの発表した出版物に触発されているとのことだが、おいおい、これは大いに問題だろう。インタヴューではCCRUのウィリアム・S・バロウズ的な手法が気に入ったと説明しているが、それならバロウズの影響下で作詞したと言えばいいはずだ。さすがにロパティンがアンチ・リベラルの右翼であるはずはないだろうけれど、わざわざブックレットのクレジットにまでCCRUの名前を入れた理由は知っておきたい。

 現代思想に詳しくもないぼくがニック・ランドを知ったのはほんの数年前のことで、UKの音楽メディアでオルタ右翼のイデオローグとして紹介されている記事を読んだからだった。また、彼の提唱する加速主義という思想がやはりUKの音楽メディアにおいてヴェイパーウェイヴの論考に活用されてもいることも気になっていた。ポップ・カルチャーは、かちかちとクリックしながら音楽制作することが普通になった21世紀になった現代でも極端な考え方に惹かれてしまう側面があるらしい。
 ヴェイパーウェイヴがその初期においてひとつの論説として成り立ったことの根拠には、資本主義としての音楽の終わりにあるジャンルだというマルクス主義的な仮説にある。亡霊めいた音響(スクリュー)を特徴としたそれは、当初は無料配信/無断サンプリングが基本で、マーク・フィッシャーいうところの「文化が経済に溶解してしまった」現代においては、たしかにそんな幻想を抱かせるものではあった(〈Warp〉のサブレーベルもヴェパーウェイヴの12インチをリリースし、Macintosh Plusのアナログ盤がインディーズのコーナーに陳列されている今日ではその仮説も紛糾されたわけだが、もちろんそれはそれで良い。ほかのジャンルと同じように認められた=商品になっただけのこと)。
 しかしながら、そうした仮説がまかり通った時代を記憶している者として言えば、ある時期アンダーグラウンドのエレクトロニック・ミュージックのシーンが何かの「終わり」に憑かれていたことはたしかだろう。安倍政権をはやく終わらせたいという願望はもっともな話だが、この「終わり」の舞台は主に英米の音楽シーンにある。つまり、レイランド・カービーが〈History Always Favours The Winners〉をはじめたのも、『フローラルの専門店』もOPNの『レプリカ』もジェームス・フェラーロの『Far Side Virtual』も2011年、ジャム・シティの『Classical Curves』とアクトレスの『R.I.P』は2012年、〈Tri Angle〉や〈Blackest Ever Black〉の諸作が脚光を浴びたのもこの頃だよね。ジャム・シティに関しては、あたかも人類が滅亡した後のオフィスビルのフロアを彷彿させるあのアートワークを見て欲しい。サン・ラーによる世界の終わりとはずいぶん違う。それらはおもに資本主義リアリズムの恐怖に反応したものだと思われる。

 あるいはそれがジョナサン・クレーリーいうところのインターネットが招いた「24/7」消費社会への抵抗かどうか、あるいは加速主義的な、さっさとこの世界を終わらせたいという苛立ちなのかどうか、なんにせよロパティンは少なく見積もっても『レプリカ』以降はディストピックなヴィジョンから逃れられないでいる。
 音楽は答えではない。それは問題提起であり、気づきや揺らぎへの契機となりうるものだ。釈然としないその気持ちをそのまま露わにすることにだって意味がある。ロパティンに対する疑いのひとつに、彼がいまどきのネット時代に特有の情報おたく/オブセッシヴな情報収集家ではないかということがある。どんなに知識を振りかざしたところで、当たり前の話だが、音楽それ自体に訴える力がなければ知識のひけらかしに過ぎない。「ブルーカラー・シュールレアリズム」とロパティンが言うのは、自分の音楽がハイブローな人たちだけではなく、「ブルーカラー」にも聴いて欲しいということなのだとぼくは解釈している。ゆえに『エイジ・オブ』で彼がR&Bやポップスに挑戦したことをぼくは評価したい。が、もうひとつの問題は、しかしこのアルバムの魅力がロパティンのポップ・センスに依拠してはいないということにある。

 彼の発言によれば、『エイジ・オブ』の制作は環境問題をめぐるアノーニとの会話からはじまっている。1万年後には人類は終わるのだから環境のことなど考える必要はないという彼の発言に対して彼女は怒り、ニヒリストという言葉でロパティンを罵倒した。俺はニヒリストなのか? アルバムはその自問自答からはじまっているという。『エイジ・オブ』にセンチメンタルなフィーリングがあるとしたら、人類の未来を案じてというわけではなく、アノーニによって引き裂かれたロパティンのなかの揺らぎに依拠するんじゃないだろうか。
 『エイジ・オブ』は間違いなく前作『ガーデン・オブ・デリート』より魅力的なアルバムで、『R・プラス・セヴン』よりイケてるかもしれないが、この新作はロパティンひとりでは完結していない、他者=アノーニ&ジェイムス・ブレイクが介在しているという点においてもOPNにしては異例の作品だ。アノーニの素晴らしい声を知る者たちが憤慨してもおかしくないほどに彼女の声は加工されているが、それでもアノーニの存在は重要であり、作品のなかに活きているというわけだ。
 アルバム1曲目の“Age Of”からしてニューエイジめいたメロディの背後で不吉なノイズが鳴っている。続く歌モノ“Babylon”はいきなり終わる。ニューエイジ的な陶酔を拒否しているかのように。4曲目“The Station”から“Toys 2”、そして“Black Snow”へと続く美しい流れとは対照的に、7曲目“myriad.industries”からはじまるアルバムの後半には暗い予感が渦巻いている。
 1枚のアルバムには往年のプログレッシヴ・ロックを思わせる“物語”がある。バロック音楽にオペラと、これらもプログレ的な折衷感ではあるのだが、本作のスリーヴにデザインされている3人の女性の絵は、伝説のプロトパンク・バンド、デストロイ・オール・モンスターズのオリジナル・メンバー、ジム・ショウによるものだ。エレキングにおける三田格のインタヴューでもパンクである自分を主張しているが、それは自己確認であり、本作に対するエクスキューズに思えなくもない。こんなところにもある意味どっちつかず、ある意味分裂的な本作の本性が垣間見られる。
 この物語には矛盾があり、引き裂かれている。それがぼくの解釈だ。その引き裂かれ方には、「終わり」に憑かれたロパティンとアノーニがもたらすヒューマニズムとの葛藤と同期するかのように、アンチ・ポップとポップが衝突している。いや、そんなことは誰かほかの作品でも聴けるわけだが、OPNにおけるその衝突は思いがけないマジックを生んでいるかもしれない。

※6月末発売の紙エレキングでは、社会学者の毛利嘉孝氏にイギリスにおける現代思想の大雑把な流れについて教授してもらいました。ニック・ランドを持ち出すことのマズさについてももちろん触れているので、こうした議論の入口、とっかかりとして読んでもらえればと思います。ちなみに「中世に帰れ」という展開も近代的ヒューマニズムを否定するこの流れにあります。また、ダニエル・ロパティンのインタヴューは、webで紹介したのはほんの序の口で、作品の核心に触れているディープな箇所は紙エレキングに掲載されます。また、ほかにも(いい意味で)頭でっかちなアーティストのインタヴューを取りました(笑)。はっきり言って、編集しながらぼくも勉強になりました。どうぞ、お楽しみに。

野田努

Dedekind Cut - ele-king

 北カルフォルニアのサウンド・プロデューサー、フレッド・ウェルトン・ワームスリーIIIによるデデキント・カット名義の新作『Tahoe』がリリースされた。リリースは老舗〈Kranky〉。近年これほどまでに身体に作用するアンビエント/ドローンは稀ではないか。
 『Tahoe』は〈Hospital Productions〉からリリースされた前作『$uccessor』から約2年ぶりのアルバム(EPとしては『American Zen』や『The Expanding Domain』などを発表)である。そのサウンドはまるでアンビエントな音響が脳内でサラウンド化するような感覚になってしまうほどに進化=深化している。同時に現行のニューエイジ・リヴァイヴァルにも適応するかのごとき繊細な音のタペストリーも生成しており、聴き込んでいくにつれ意識が飛んでしまうような心地良さがある。

 そもそもドローン、ノイズ、インダストリアル、ニューエイジなど、いわゆる「2010年代以降のエクスペリメンタル・ミュージック(先端的な音楽)」は、20世紀後半以降の実験音楽やポスト・パンクの領域で応用された手法をクラブ・ミュージックの領域でリサイクルした同時代的なフォームだった。
 それはフレッド・ウェルトン・ワームスリーIIIにしても同様で、たとえばリー・バノン名義で〈Ninja Tune〉からリリースした『Alternate/Endings』(2013)などを聴けばわかるとおり、ドラムンベースを基調としたクラブ・ミュージックのアーティストであった。「あった」というのは、だがそのサウンドは先端的音楽の潮流の中で次第にクラブ・ミュージックの定型から逸脱しはじめたからである。とくに2015年に〈Ninja Tune〉からリー・バノン名義で発表した『Pattern Of Excel』あたりから、どこかJ.G.バラードの後期作品を思わせるような不穏なムードを称えたミュジーク・コンクレート/シネマティックなアンビエント・サウンドへと変貌していったのである。
 その最初の達成がドミニク・ファーナウ主宰〈Hospital Productions〉からリリースされたデデキント・カット名義の『$uccessor』(2016)だろう。ちなみに2016年はミュジーク・コンクレート的なサウンドにモードが完全に変化してきた時期である。例えば2016年リリースのジェシー・オズボーン・ランティエ『As The Low Hanging Fruit Vulnerabilities Are More Likely To Have Already Turned Up』などを思い出してみたい。
 そして、この『Tahoe』は「2016年的なミュジーク・コンクレート・サウンド」以降のアンビエンスをはやくも実現している。ここではノイズもドローンも「救済」のような質感を生んでいるのだ。本作と対比すべきアルバムは、やはり『As The Low Hanging Fruit Vulnerabilities Are More Likely To Have Already Turned Up』だろう。『As The Low Hanging Fruit Vulnerabilities Are More Likely To Have Already Turned Up』は、ノイズ系ミュジーク・コンクレートによる戦争/爆撃の果てにあるレクイエムのような音響音楽作品だったわけだが、『Tahoe』は、その世界のさらに果てにある安息の世界に鳴る音響音楽の讃美歌である。破滅の音像から救済のアンビエントへ?

 『Tahoe』には全8曲が収録されている。冒頭の1曲め“Equity”から2曲め“The Crossing Guard”、そしてアルバム・タイトル・トラックである3曲め“Tahoe”へと繋がる流れは水流のようにスムーズだ。この曲では不意にサウンドの中に水流のような音が紛れ込まされていることに気がつくはず。
 ちなみに「Tahoe=タホ」とは「アメリカ合衆国のカリフォルニア州とネバダ州の州境にあるシエラネヴァダ山中の湖」の名のようで、同時に「この地に先住するワショー族のインディアンの言葉で大きな水(つまり湖)を意味する言葉らしい。つまりこのアルバムは「水」が主題となっているのだ(思い返せばフレッド・ウェルトン・ワームスリーIIIも北カリフォルニアの出身である。その意味で、自身の出自を神話的な音響で表現したアルバムといえるかもしれない)。すると、本作のアンビエンスが、どうしてこうまで心身に効く音響なのかわかってくる。「水」のアンビエンスが、人間の感覚に効くからではないか、と。
 アルバムは以降、ミストのようなアンビエンスと鳥の声などの環境音などがミックスされる“MMXIX”、クラシカルな旋律を響かせる“De-Civilization”、ドラマチックな“Spiral”、森の中のようなフィールド・レコデーィング・サウンドに不穏な持続音がレイヤーされ聴き手を別時間へと連れ去っていく長尺アンビエント/ドローン“Hollowearth”、アルバム終曲“Virtues”に至るまで、考え抜かれた構成で最後まで聴かせる。どうやらリリースが当初の予定からやや遅れたようだが、アルバム全編に横溢する凝りに凝った音響と構成を聴き込むにつれ、それも納得できるというものだ。

 このアルバムには神話的ともいえるアンビエンスが生成されている。同時に現代の世界・社会の変化によって生まれている人心のストレスを水の中に溶かしてしまうような音響が生まれてもいる。それはインターネットなどのメディアを通じて、あらゆる種類の音響・音楽が聴覚へと融解・浸透してくる現代的な感覚の生成にも近い。そう、この『Tahoe』には、破滅的なノイズ系・ミュージック・コンクレート「以降」の「安息/終局」の浸透的な音響が鳴り響いているように思える。
 なんという心身に染み入るようなアンビエントだろうか。この音響/音楽には10年代のエクスペリメンタル・ミュージックが行き着いた到達点のようなものを強く感じた。

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