「IO」と一致するもの

Vladislav Delay - ele-king

 サウンドによる黙示録か。ノイズによる終末論の終焉か。リズムによる世界への闘争/逃走か。いや、崩壊する世界への黙祷か。

 ソロとしては2014年の『Visa』以来となるフィンランドの電子音楽/音響を代表するヴラディスラフ・ディレイの新作『Rakka』は、暴風のごときノイズが吹き荒れる極限のインダストリアル/テクノに仕上がっていた。例えるならば極北のインダストリアル/テクノ。そのミュータント的音響が時代の終わりと始まりを告げるだろう。
 もちろん彼の音は、00年代初頭にリリースされた〈Mille Plateaux〉や〈Chain Reaction〉よりリリースされたアルバムからして通常のミニマル・テクノやミニマル・ダブの音響を逸脱するものでしあったし、続く10年代も同様である。〈Raster-Noton〉からリリースされた『Vantaa』『Kuopio』はレーベルカラーどおりの重厚な電子音響テクノに仕上がっていたし、ミカ・ヴァイニオ、デレク・シャーリー、ルシオ・カペーチェらとのヴラディスラフ・ディレイ・カルテット(Vladislav Delay Quartet)のアルバムはノイズとダブに塗れた強度に満ちた実験ジャズの混合体だった。自身の〈Ripatti〉から発表したソロ前作『Visa』も真冬の音響のようなエクスペリメンタルなアンビエンスを生成する作品であった。

 だがこの『Rakka』は、それらの作品すべてを越境するようなノイジーなアルバムへと変貌を遂げていたのである。これには心底から脅かされた。ミニマル・ダブと、その音響工作が行き着いた先とも思った。いささか大袈裟な言い方を許して貰えれば、ベーシック・チャンネルとモノレイクの音響を越えようとする意志すら感じられほどだ(10年代の先端/尖端音楽はミニマル・ダブ以降のサウンドなので、本作はその意味では2020年代のサウンドとも言うことはできる)。
 どうやらヴラディスラフ・ディレイは『Visa』以降、所有した機材をすべて売却し北極圏へと旅に出たらしい。おそらくは人の存在を無化するような大自然のなかで彼の耳と知覚は大いに刺激を受けたのだろう。そこで得られたさまざまなインスピレーションによって本作品は制作された。
 確かに本作のサウンドスケープは北極圏の気候そのもののように過酷である。だが乾いた音の質感は極めて人工的だとも感じた。じっさい本作には環境録音の素材は使われていないらしい。つまり完全に人工的な音によって、ヴラディスラフ・ディレイは大自然の咆哮を生み出したわけだ。加えて強烈な音の横溢の向こうに掠れたビート(の残骸?)が反復している。このアルバムは極めてエクスペリメンタルなサウンドでありながらダンス・ミュージックであることを捨て去ってもいない。ノイズやサウンド、ビートが身体に与える影響を長年のキャリアから熟知しているベテラン・アーティストならではのエクスペリメンタル/フィジカルな音響がコンポジションといえる。

 アルバム1曲め “Rakka”、2曲め “Raajat” は本作を代表するようなトラックだ。ノイズ・アンビエントと不規則な打撃音による強烈な音響空間が耳を拡張する。壊れたマシンが再想像したような崩壊的なEBMのごとき3曲め “Rakkine” はさらに覚醒的である。5曲め “Rampa”、6曲め “Raataja” は打撃音のようなリズムが全面化するトラック。剃刀のような鋭利なノイズとビートが交錯し、ミニマル・テクノとノイズがミックスされていく。本作のクライマックスを明示する曲といえよう。
 アルバム全体から感じられることは、構築への意志が即座に崩壊へと至るような感覚だ。ノイズの構築からビートの崩壊へ。音響の生成から音楽の消滅へ。崩壊空間のさなかに吹き荒れる暴風のごときノイズの蠢き。すべてをゼロへと遡行させるような強靭な意志が本作の隅々に鳴り響いている(サウンド・アーティストAGF(ヴラディスラフ・ディレイの妻でもある)によるアートワークも本作の終末論的なイメージをうまく表現している)。

 リリース・レーベルはシェイプドノイズが主宰する〈Cosmo Rhythmatic〉。これまでもミカ・ヴァイニオとフランク・ヴィグルーの共作、シャックルトン、キング・ミダス・サウンド、ダイ・エンジェルなどのアルバムを送り出しており、リリース数は多くはないもののエクスペリメンタル・ミュージックの最先端を提示する貴重なレーベルである。その最新カタログにヴラディスラフ・ディレイの最新作が加わったことはことのほか重要に思える。この作品はテクノ、ミニマル・ダブ、ノイズなどのアマルガムであり、その終末論的なムードも含めて現在進行形の尖端音楽の見本のようなアルバムなのだ。同時に、同じくフィンランドのミカ・ヴァイニオ亡きいま、彼の意志とノイズを継承する作品ではないかとも思った。そのような意味でも〈Cosmo Rhythmatic〉からリリースされたことも当然といえよう。

Nicolás Jaar - ele-king

 急に精力的になった? この1月にアゲインスト・オール・ロジック名義でリディア・ランチおよびFKAトゥイッグスとのコラボEP「llusions Of Shameless Abundance」を発表し、立て続けにアルバム『2017 - 2019』を送り出したばかりのニコラス・ジャーが、今度は本名名義で、2016年の『Sirens』以来となるニュー・アルバムをリリースする。タイトルは『Cenizas』で、スペイン語で「灰」を意味するそう。どうやら彼自身の人生を反映した内容に仕上がっているようだ。現在 “Sunder” が先行公開中。発売は3月27日。

artist: Nicolás Jaar
title: Cenizas
label: Other People
catalog #: OP055
release date: March 27th, 2020

tracklist:
01. Vanish
02. Menysid
03. Cenizas
04. Agosto
05. Gocce
06. Mud
07. Vacíar
08. Sunder
09. Hello, Chain
10. Rubble
11. Garden
12. Xerox
13. Faith Made of Silk

bandcamp

ハテナ・フランセ 第21回 - ele-king

 みなさんボンジュール。大変ご無沙汰しておりますが、本日はフランス映画界を騒然とさせている#MeToo関連の2つの事例をお話ししたく。

 去る2月28日にセレモニーが行われたフランス版アカデミー賞、セザール賞。1月29日にノミネーションが発表されて以来、物議を醸したのがロマン・ポランスキー監督作品『アン・オフィサー・アンド・ア・スパイ』が12部門にも及ぶカテゴリーにノミネーされたことだ。ご存知の方も多いと思うが、ポランスキーは1977年、当時13歳だった少女への法定強姦罪で有罪判決を受け、42日間服役したのち、仮釈放中にアメリカから逃亡した。彼が正式に起訴されたのはこの一件のみだが、他にも12人の女性から性被害で訴えられている。なかでも2019年11月の写真家で元女優のヴァレンティナ・モニアからの告発は、メディアでも大きく取り上げられた。新聞『Le Parisien』紙上で行われたインタヴュ―でヴァレンティナ・モニアは、スイスにあるポランスキーの別荘で行われたレイプの様子を詳細に語った。この一件の直後に公開されたポランスキ―の新作『アン・オフィサー・アンド・ア・スパイ』はボイコット運動も起こったが、公開を見送った映画館はなかった。フランスでは、「作者そのものと、その作品は分けて考えるべきだ」という芸術擁護論があることと、言論や表現の自由を守るための「アンチ検閲主義」という考え方が根強い。そのことがどう働いたのか、働かなかったのか不明だが、『アン・オフィサー・アンド・ア・スパイ』は100万人を超える動員を記録し大ヒットとなった。とはいえポランスキ―に関しては、12人もの女性から性被害で訴えられているということもあり、さすがのフランスでもメディアや世論で、ポランスキー作品をここまで擁護するセザール賞主催のフランス映画芸術技術アカデミーに対する批判も多く聞かれた。そして映画関係者200人がフランス映画芸術技術アカデミーに対して「抜本的な改革」を求める公開書簡を発表したために、授賞式の2週間前にアカデミーの理事全員が辞任することになった。

 こうしてアカデミー理事会が崩壊、ポランスキー本人も出演者も一人も出席しないなか、セザール賞授賞式は行われた。司会のフロランス・フォレスティはDV被害女性支援団体をサポートしているコメディエンヌだ。オープニングから「今夜は12回気まずい瞬間が待ってるわねー。どうする? 例の小さい人(ポランスキーは低身長)の件は? 私一人で背負うなんて真っ平だからね!」とポランスキーを揶揄して会場の気まずい笑いを誘った。作品を紹介する際には、真っ先に18世紀ブルターニュの孤島を舞台に女性同士の愛を描いたセリーヌ・シアマ監督『ポートレイト・オブ・ア・レディ・オン・ファイア』を紹介。フランソワ・オゾンのカソリック教会神父による児童への性的虐待を描いた『バイ・ザ・グレース・オブ・ゴッド』を「教会内での小児性愛者を描いた作品」と紹介した後、「アン・オフィサー・アンド・ア・スパイ」を「70年代の小児性愛者の作品」とバッサリ。本当はこの作品は、19世紀末にフランスで実際に起きた冤罪事件、ドレフュス事件を描いているのだが。

 セレモニー終盤、最高賞である作品賞に続く栄誉である監督賞が発表された。エマニュエル・ベルコとクレール・ドゥ二の2人の女性監督によって発表された名前は、ロマン・ポランスキーだった。会場は拍手とブーイングで異様な雰囲気に。そんななか一人の女優が席を立ち「恥だ!」と言いながら会場を後にした。それが『ポートレイト・オブ・ア・レディ・オン・ファイア』の主演女優アデル・エネルだ。彼女とともに監督セリーヌ・シアマ、共演のノエミ・メルランら『ポートレイト・オブ・ア・レディ・オン・ファイア』チームは会場を去った。司会のフロランス・フォレスティもインスタグラムに「ムカつく」という一言を投稿し、監督賞の後ステージに戻ることはなかった。

 1月6日に行われたゴールデングローブ賞の外国語映画賞にもノミネートされ、カンヌ映画祭でも脚本賞を獲った『ポートレイト・オブ・ア・レディ・オン・ファイア』は2019年のフランスを代表する映画の一本だ。そして主演女優アデル・エネルは、フランス映画界で今一番人気の女優の一人。2007年セリーヌ・シアマ監督作『水の中のつぼみ』に主演してブレイクした彼女は、これまでセザール賞で新人賞と女優賞をそれぞれ獲得し、カンヌ映画祭には15本の出演作が出品されている。2019年はなんと4本も出演作がカンヌに出品された。いまやフランス映画界になくてはならない存在となったこの実力派女優が、フランス映画界の#MeToo運動中心人物として今メディアやSNSでもっとも注目を集めている。

 そのきっかけとなったのは、2019年11月4日に「Mediapart(メディアパート)」というウェブ・メディアで発表された告発だ。12歳の時に初主演した映画『クロエの棲む夢』の監督クリストフ・リュジアを「不適切な身体的接触を含むセクシャル・ハラスメント」で告発、瞬く間にフランスのメディアを騒然とさせ、そしてフランス映画界を大きく揺さぶった。

「メディアパート」が記事の公開後にポストしたアデル・エネルのインタヴュー

 「メディアパート」は以前このコラムでも2度ほど取り上げた大統領のボディ・ガード、アレキサンドル・ベナラの暴行事件にまつわるスクープや、2019年7月に辞任した環境大臣フランソワ・ドゥ・リュジの公金不正使用の告発などスクープを連発している独立系ウェブメディアだ。左右問わず政治家や権力者の不正などを、時間をかけ徹底的に調査することに定評がある。そのせいで、多くの政治家や、権力者からは目の上のたんこぶ扱いされている。アデル・エネルのこの件に関してはマリン・チュルシという女性記者を中心に、7ヶ月の時間をかけて20人以上の関係者への聞き込み調査や検証を行なった。フランスのメディアで、現在時間をかけ徹底的に調査をするのは、やはりこれも独立系新聞『Le Canard Enchainé(ル・カナ・オンシェネ)』くらいのものだ。現在フランスのメディアの90%は9人の大富豪に買収されている。例えば、LVMHの会長ベルナール・アルノー、通信会社フリーの創始者グザヴィエ・ニエル、通信会社SFRのパトリック・ドライ、コングロマリット、ラガルデール・グループのアルノー・ラガルデールらだ。昔は調査を行なっていた『Le Monde(ル・モンド)』や『La Liberation(ラ・リベラシオン)』などの大手の新聞は、今やそれぞれグザヴィエ・ニエル、パトリック・ドライらの所有となっている。恐らくその影響で合理的な経営や忖度が働くようになり、どちらも時間を掛けた調査検証を行うことはほとんどなくなっている。「メディアパート」と「ル・カナ・オンシェネ」がこのような姿勢を貫くことができるのは、読者の購読料のみで、大手メディアや出資者などもいないからこそできることなのだろう。

 さて、肝心のアデル・エネルの告発について。映画『クロエの棲む夢』は、アデル演じる自閉症の妹と、ヴァンサン・ロティエール演じる兄の幼い孤児兄妹の過酷な人生と近親相姦的愛を描いた作品だ。幼い二人のヌード・シーンなども含むため、準備期間に多くの時間を割いたという。オーディション、準備期間、プロモーションを含めて約3年間に渡ってアデルはこの作品に関わったことになる。そして、監督のクリストフ・リュジアの行動がアデル曰く「度を越してきた」のは、撮影が終わってからだった。撮影が終わった後も週に一度、監督の家に呼び出され「今後の俳優としての方向の指導」があり、勉強のために映画を見たりしていたという。その内に太腿を撫で回したりTシャツのなかに手を入れるなど行動がエスカレートしていき、「愛している」などと口にしたり手紙を書いてきたりするようになっていったという。当時のアデルは自己嫌悪に陥り「自分を汚いもののように感じた」と回想している。リュジアの行動がそれ以上エスカレートしないように、アデルはなるべく彼の側に近寄らないようにしたが「それでも必ず隣にくっついてきたので、隣に座れないように小さな足置きに座るようになった」そう。15歳になったアデルは「こんなことは間違っている」と思うようになり、リュジアに「もう会いたくない」と告げたという。そして、エージェントも辞め俳優になる道も諦めたそうだ。18歳になったアデルを再び演技の世界に呼び戻したのは、セリーヌ・シアマ初監督作品『水の中のつぼみ』だった。この作品を通して、アデルとセリーヌは「長い恋愛関係」を育み、その関係が「私を救ってくれた」とアデルはメディアパートとのインタヴューの中で語っている。

 彼女はこの告発の際、「性暴力の被害者の女性、男性、子供たちに、私はあなた達の言葉を信じる、私はあなた達をサポートする、と表明するために今回話すことにした」と彼女自身の決意を表明し「今日の私の業界での恵まれた立場ゆえに、そのことが可能になったの。無名の人が有名人を告発すると必ずついてまわる“ああ、話題になりたかったからでしょ”という心ない否定がどれだけ暴力的か」とはっきりとフランスにおける#MeToo運動における自身の立場を表明した。彼女の告発はマリヨン・コティアール、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピーら有名女優やオマール・シィらの男優にまで支持された。

 アデルはその言葉通り、彼女の告発から程なくして行われたヴァレンティナ・モニアからの告発を支持。授賞式前に『ニュー・ヨーク・タイムズ』のインタヴューで「ポランスキーに賞を与えるのは、被害者の顔に唾を吐きかけるのと同じこと。女性をレイプすることはそれほど重大な問題ではないというメッセージ」と答えている。一連のアデルの言動を見れば、セザール賞の授賞式での退場も納得のいくものではないだろうか。


「小児性愛者ブラボー!」と声を上げながらロビーを去っていくアデル・エネルとセリーヌ・シアマ、ノエミ・メルランらの様子。

  授賞式が終わった途端にSNS上ではアデルを支持するポスト、セザールへの批判で溢れかえった。カソリック教会内の児童への性的虐待を描いた『バイ・ザ・グレース・オブ・ゴッド』で助演男優賞を受賞したスワン・アルローは受賞後のインタヴューで「もちろん(アデルに)賛成。しない方がおかしいでしょう。告発はされるようになってきたけれど、闘いはまだ終わっていないのだから」とはっきりと表明。またジュリエット・ビノシュも数日後のウェブ・メディア「コンビニ」のインタヴューで「もちろん理解できるわ。彼女の経験を思えば、耐えがたいことだったでしょう」と答えた。だが、フランス映画界を代表するような人物のなかには、ポランスキー擁護を表明する者もあった。例えば、フワンソワ・トリュフォー監督作品『隣の女』『日曜日が待ち遠しい!』などでも知られる大女優、ファニー・アルダンは授賞式の後「ロマン・ポランスキーが本当に大好き。彼が受賞して嬉しいわ。私は好きな人にはギロチン台までついて行く人間よ。人を裁くのは大嫌い」と堂々と宣言。フランス映画界を代表するかは意見が分かれるだろうが、『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』『キャットウーマン』などにも出演しているフランス人俳優ランベール・ウィルソンは授賞式の数日後にラジオ「フランス・アンフォ」のインタヴューに答え「ポランスキーに受賞して欲しくないなら、最初から受賞式に来なければいい、途中で退場するなんてなんなんだ!」とアデルを批判。そして「この一連の公開リンチは本当に忌まわしい!」とポランスキーを擁護。また、『そして僕は恋をする』『キングス&クイーン』のアルノー・デプレシャン監督はポランスキーがノミネートされた時点で「見たくない人の気持ちも理解できるけど、僕は『テス』を撮ったポランスキーに大して永遠なる尊敬の念を抱いているから、彼の作品を見逃すことなんてできなかった。僕は人でなく作品を評価する」とラジオ「ヨーロッパ1」のインタヴューで語った。これは先述したフランスでポランスキーを語るときに必ず出てくる「作者そのものと、その作品は分けて考えるべきだ」理論だ。

 このような考えに対して数日後のTV番組「C à vous」で自らも性被害者であるジャーナリスト、ジュリア・フォイは「強姦されている時に、この人の職業はなんだろう、いい仕事をするだろうか?と考えるとでも? 私たちを強姦した人物は私たちを強姦した人物でしかない」とまっとう至極に答えた。またアデル本人も「メディアパート」のインタヴューに「(セザールは(ポランスキー)本人とアーティストとしての彼を解離したかったのでしょう。でも彼ら(セザール)がやったことは、世界とアーティストを乖離させたに過ぎない。そして、昨日彼らがやったことは、私たち(性被害者)を黙らせようとする行為に他ならない」とはっきりと語った。

 今回の一連の騒動を振り返って、ゴンクール賞受賞作家のレイラ・スリマニは「10年前はなんでもないこととして、受け入れられていたことが、今日は受け入れ難いこととして認識されるようになった。そのことは進歩」とラジオ「フランス・インター」のインタヴューで評価している。フランスのダメ人間への寛容さ、アーティストへの特別な憧憬などがフランスで#MeToo運動が遅々として進まないひとつの要因では、と個人的には思っている。だが今回のような件で、少しでも#MeToo運動が前進するならば、それは歓迎するべきことなのだろう。

セザール賞授賞式会場外のポランスキーへの抗議の様子

R.I.P. Genesis P-Orridge - ele-king

野田努

 ジェネシス・P・オリッジが3月14日の朝に他界したと彼/彼女の親族が発表した。白血病による数年の闘病生活の末の死だった。

 いまから70年前の1950年、マンチェスターに生まれたジェネシスは、大学のためにハルに引っ越すと70年代初頭はコージー・ファニ・トゥッティらとともにパーフォーマンス・アート・グループ、COUMトランスミッションのメンバーとして活動し、1976年からはロンドンを拠点にコージー、クリス・カーター、ピーター・クリストファーソン(2010年没)らとともに後のロックおよびエレクトロニック・ミュージックに強大な影響を与えるバンド、スロッビング・グリッスル=TGのメンバーとして音楽活動を開始する。

 TG解散後の1981年、ジェネシスはあらたにサイキックTVを結成、そして2019年の『The Evening Sun Turns Crimson』まで、同プロジェクトを通じて数え切れないほどの作品をリリースしている。(80年代末には、クラブ・カルチャー以外のところで派生したアシッド・ハウスのプロジェクトとしてはかなり先駆的な、Jack The Tabも手掛けている)

 コージーの自伝『アート・セックス・ミュージック』における悲痛な告白には、一時期は恋仲にありながら虐待を受けていたことが赤裸々に綴られており、横暴で自己中心的でもあったジェネシスは決して誉められた人格の持ち主ではなかったのだろうけれど、まあ、21世紀の現代からは遠い昔のTG時代のジェネシスにカリスマ性があったのも事実だった。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』やウィリアム・バロウズをバンドに持ち込んだのはジェネシスだったろうし、コージーが主張するようにTGとはメンバー全員平等のバンドであり、誰かひとり抜けてもTGとしては成立しないわけだから、やはりジェネシス抜きのTGはあり得なかったのである。

 TGはたしかにロックを常識では計れない領域まで拡張し、エレクトロニック・ミュージックに毒を盛り込んだ張本人で、残された作品はいまでも新しいリスナーに参照されいているが、彼らのルーツは60年代にあり、ことにジェネシスはその時代のディープな申し子だった。彼/彼女にはブライアン・ジョーンズに捧げた曲があり、初期のサイキックTVにはサイケデリックなフォーク・ソングもある。彼/彼女の手掛ける電子音響による暗黒郷や全裸姿もさながら反転したジョン&ヨーコの『Two Virgins』だ。そして、アレスタ・クローリーの悪魔崇拝をはじめ猟奇殺人やナチスの引用、オカルトや神秘主義の実践やカルトや原始的なるものへの憧憬もまた、社会基準を相対化しようとした60年代的自由思想の裏返った過剰な回路でもあった。

 良くも悪くも常識という縛りのいっさいを払いのける生き方は、やがて自分を妻と同じ容姿にすることによる同一化へとジェネシスを駆り立て、じっさい性も容姿も変えてみせた。それもまた、TGやサイキックTVと同様に彼/彼女にとってのアート・プロジェクトだった。ジェネシスは妻が先立つ2007年まで彼女と服も化粧も共有していたというが、子供のPTAの会議には、ジェネシスは父親として銀色のミニスカートとブーツ姿で出席したそうだ。

 ぼくがジェネシスを見たのは一回キリで、1990年に彼/彼女が(たしかZ'EVなんかと)芝浦ゴールドに来たときだった。SMコスチュームで身をかためて、鞭に打たれながら這いつくばっている彼/彼女をフロアにできた人垣に混じって呆然と見ていたことをいまでも覚えている。ただ、そのときどんなサウンドが鳴っていたかはもう忘れてしまった。ただ、ジェネシスの姿だけがいまでも脳裏に焼き付いているのだ。

野田努

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三田格

 1979年当時、“We Hate You”というタイトルに何かを感じたのだけれど、うまく思い出せない。ルル・ピカソのアートワークに包まれて<ソルディド・センティメンタル>からリリースされたスロッビン・グリッスルのセカンド・シングルで、正確には“We Hate You (Little Girls)”と副題がついている。曲にはあまりインパクトはなく、歌詞は少女たちに向かって「憎い」と叫ぶだけ。前の年にジョン・ライドンがパブリック・イメージ・リミテッドのデビュー・アルバムで「僕たちは愛されたかっただけ」という歌詞を繰り返していたので、パンクスが共同体への回帰願望を表明しているようで、それはどうかなと思っていたこともあり、“We Hate You”にはそれとは正反対のメッセージ性を感じたということかもしれない。「Hate」という単語がポップ・ミュージックに使われた例は意外と少なくて、ハンク・ウイリアムズの“My Love For You (Has Turned To Hate)”(53)やアルバム・タイトルではレナード・コーエンの『Songs Of Love And Hate』(71)など、まったくないわけではないし、1988年にモリッシーが『Viva Hate』をリリースした時もけっこうなインパクトがあった(1995年にはプリンスがThe Artist (Formerly Known As Prince) ‎として“ I Hate U (The Hate Experience)”をリリース)。ちなみに単語検索をかけてみると、使用頻度では2000年代が最も多く、2005年をピークとして、そのあとは少しずつ減っている。

 いずれにしろ“We Hate You”はスロッビン・グリッスルのキャラクターを端的に印象づけたことは確か。社会に対して攻撃的で、パンクスが退潮した後もアティチュードは死に絶えていないと、そのことは日本にまで伝わってきた。スロッビン・グリッスルがあっという間に解散してもジェネシス・P・オーリッジはピーター・クリストファーソンと共にサイキックTVとして活動を持続させ、彼がその動きを失速させるつもりがないこともよくわかった。だから、当時はセカンド・アルバムとしてリリースされた『Dreams Less Sweet』(83)が僕にはよくわからなかった。イギリスではかなり評価の高い『Dreams Less Sweet』はとても美しい蘭の花にジェニタル・ピアス(性器ピアス)のイメージを重ね合わせたゾディアック・マインドワープとピーター・クリストファーソンによるアート・ワークがあまりにも素晴らしくて、しばらく壁に飾ったりもしていたのだけれど、肝心な音楽に関してはどこか散漫な印象が残るばかりで、良さがわかるまで何度でも聴く癖のある僕にしては早々に投げ出し、クリストファーソン脱退後のセッション・アルバム『Those Who Do Not』(84)ばかり聴いていた記憶がある。さらにいえば、クリストファーソンがジョン・バランスと結成したコイルである。螺旋階段をアナルに見立てるなど、実にユーモラスなゲイ表現とは対照的に強迫的なインダストリアル・サウンドを打ち出してきたコイルはあまりにカッコよく、“We Hate You”を継承しているのはむしろこっちだと思ったのである。

 事態が変化するのはサイキックTVが1984年に「Godstar」と1986年に「The Magickal Mystery D Tour E.P.」をリリースしてから。前者はブライアン・ジョーンズをテーマとし、後者にはビーチ・ボーイズ“Good Vibrations”のカヴァーが冒頭に収録されていた(7インチ2枚組のヴァージョンにはセルジュ・ゲーンスブール“Je T'aime”のカヴァーも)。1986年にNMEがサイケデリック・ムーヴメントの回顧記事を書いた時、それは跡形も残っていないものとして認識され、まったくもって過去の出来事でしかなかった。あれだけ迅速に音楽情報を伝えていたNMEもマンチェスターや北部の諸都市にレイヴ・カルチャーが浸透しつつあることは察知できず、初めてアシッド・ハウスが紙面に取り上げられたのは88年2月だった。明らかにジェネシス・P・オーリッジの方が動きは早かった。“Good Vibrations”のカヴァーを聴いて僕は初めてビーチ・ボーイズに興味が湧き、翌年に入ってジーザス&メリー・チェインが“Surfin' USA”をカヴァーしたことがダメ押しとなってビーチ・ボーイズのアルバムを一気に15枚も買ってしまった。そして、『Pet Sounds』(66)を聴けばどんなバカにもわかったことが僕にもわかった。『Dreams Less Sweet』はビーチ・ボーイズを意識したアルバムだったということが。ビーチ・ボーイズとまったく同じポップ・ミュージックと実験性の共存。サイケデリック・ミュージックはジーザス&メリー・チェインによって復活し、アシッド・ハウス・ムーヴメントへと拡大したというのがニュー・ウェイヴの定説かもしれないけれど、ポップ・ミュージックの文脈で誰よりも早くそれに取り組んだのは『Dreams Less Sweet』だったのである。

 インダストリアルを引きずりつつも、ノスタルジックなベースラインにタンバリンやオーボエ、チューバ、そして、まろやかなコーラス・ワークにヴァン・ダイク・パークスを思わせるメロディ・センスが『Dreams Less Sweet』の中核をなしている。アシッド・ハウス・ムーヴメントとともにようやくそのことを僕は理解した。ジェネシス・P・オーリッジの大言壮語はアシッド・ハウスを最初にやったのは自分だというもので、いくらなんでもそれは言い過ぎだったけれど、『Dreams Less Sweet』をつくっていたことでサイキックTVがインダストリアル・ミュージックからアシッド・ハウスに伸ばした導線が表面的なものではなかったことは実に納得がいく。それどころかジェネシス・P・オーリッジは本気でやっていたとしか思えない。『Jack The Tab』であれ『Tekno Acid Beat』(共に88)であれ、彼らがその当時、量産したハウス・レコードは初期衝動に満ちていて、いま聴いても実に楽しいし、後にはザ・グリッドとして国民的な人気を得るデイヴ・ボールとリチャード・ノリスが当時のメンバーを務めていたことも見過ごせない。あるいは匿名を使わなくなった『Towards Thee Infinite Beat』(90)では彼らなりにアシッド・ハウスを次のステージへ向かわせようと様々な試行錯誤に努めた痕跡も聴き取れる(結果的にクリス&コージーみたいなサウンドになっているけれど)。そう思って調べていくと『Dreams Less Sweet』には60年代の象徴がちりばめられていたことにも思い当たる。特異な録音方法はピンク・フロイドの踏襲、”Always Is Always”はチャールズ・マンゾン、"White Nights”は人民寺院で知られるジム・ジョーンズの言葉をベースとしていて、これはレニゲイド・サウンドウェイヴ”Murder Music”でオリジナル・スピーチがそのままサンプリングされている。とはいえ、それらはラヴ&ピースではなく、イギリスでは魔術師としても知られるジョン・バランスと結成したテンプル・オブ・サイキック・ユースの活動にも顕著なようにサイキックTVの表現はサマー・オブ・ラヴのダークサイドからの影響が濃厚で、“We Hate You”が単純に“We Love You”へとひっくり返らなかったことはアシッド・ハウス・ムーヴメントにおける彼らの位置を得意なものにした要因といえるだろう。なお、テンプル・オブ・サイキック・ユースの背景をなすケイオスマジックについては→https://ja.wikipedia.org/wiki/ケイオスマジック

 また、ジェネシス・P・オーリッジがポップ・ミュージックにおけるトリックスターとしてさらなる役者ぶりを示したのは自らがトランスジェンダーと化したこと(=The Pandrogeny Project)で新たな様相を呈することとなった。噂には聞いていたけれど、ブルース・ラ・ブルース監督『ラズベリー・ライヒ』(04)でその姿を初めて認めた時は僕もかなり驚かされた。その異様さはスロッビン・グリッスルの時よりインパクトがあったかもしれないし、旧左翼と新左翼の対立を描いたハンス・ウェインガートナー監督『ベルリン、僕らの革命』(04)をゲイ・ポルノの文脈で先取りしたような『ラズベリー・ライヒ』(04)はそれこそジェネシス・P・オーリッジはまだストリートに立っている証しのように思えた。最初は反逆者でも結局は規制のポストに収まってしまう人たちとは異なる迫力を感じたことは確かで、トランスジェンダーとして彼(女)はケンダル&カイリー・ジェンナーの父(母)であるケイトリン・ジェンナーのインタビューにも応じ、グランジ・ファッションの祖であるマーク・ジェイコブスのファッション・ショーにも出演している。ヴォーグの編集長アナ・ウィンターの側近ともいえるマーク・ジェイコブスのショーに出たということはニューヨークではかなりなセレブレティにのし上がっているということを意味する。ニューヨーク・タイムスはジェネシス・P・オーリッジをカルトと評し、アヴァンギャルドの宝と讃えていたことがあり、現在はマシーン・ドラムやゾラ・ジーザス、そして、ローレンス・イングリッシュやコールド・ケイヴなどなかなか広範囲の人たちから追悼の声が上がっている。

三田格

石原洋 - ele-king

 まず述べたいのは石原洋の「遠さ」が音の響きの傾向ではないこと。すなわちウェットとかデッドとかではない。音のバランスや定位は関係するにはするが、この論点に、たとえば一般的なレコーディングの技術論や方法論からちかづこうとすると、もっとも重要な部分を「欠落」させる──あるいはもっとも「欠落しなければならない」部分が欠落しないままに終わる──結果をまねく、おそらくカフカの『城』に似た「遠さ」を音楽の時空間内にかたちづくるには二通りの抵触の方法がある。ひとつには音楽という形式にたいするもの、他方に事物としての録音にむかうもの。石原は先日のインタヴュー記事の文中で前者を「コンセプチュアル・アート」と呼び、『formula』とのちがいをやんわりと指摘し、後者との親和性をほのめかしたのち、本作の自身の感覚にちかい既存の作品の作者としてフェラーリやエロワの名前をあげている。この両者はともにテープ音楽~ミュジーク・コンクレートに功績をのこしたフランスの作曲家で、石原のいうフェラーリの「プレスク・リエン」や、作品名こそあげていないがおそらくエロワではNHK電子音楽センターで制作した「Gaku-no-Michi」に耳を傾ければ、あなたは膝をはっしと打たれるであろう。というのも、この2作では具体音と電子音がマテリアルの中心をなし、前者は文字どおり「ほとんどなにも(おこら)ない(プレスク・リエン)」ことで聴くことが前景化し、作曲作品に現実音がまぎれこむ後者では電子音と環境音の差異と近似が作中からせりあがる、その方法論の歴史的な展開と考察は拙著『前衛音楽入門』の第Ⅴ章に述べたのでここではくりかえさないが、石原のいう「遠さ」がたんに音響現象面での距離感をいうのか美学的な意味でのそれをさすのかは留意が必要である。あの裸のラリーズに「記憶は遠い」と題した楽曲があるように、遠さはときに主体の心理のあらわれをさす。すなわち遠さとはなつかしさであり、なつかしさとはノスタルジーである。なぜなら録音にかぎらずすべての記録の対象は特定の過去であり、ことにフィールド録音による音源はかつて世界のどこかでその音が鳴ったことのあかしである──との確信は、しかしその音が匿名的ではなりたたない。森の木々のざわめきや雨音、よせてはかえす波の音はそれだけではライブラリーの収蔵用の音源にすぎない。それらが記名性をもつには「自然」という不変の法則からはみだすものがなければならない。私はひとつには人間、人間は人工と言い換えてもいい、音の記録のなかにそれらが存在することの差異が音の記名性を励起する。ところがそれを聴く人間にはすぎさったものを慈しむ文化的な習性がある。ひとはこれをノスタルジーといい、フェラーリのラジカルさはフィールド録音にわずかばかりのゆらぎを加えることでそのような主体の認識を異化する点にある。これは作品内の現実音が電子音にせめぎあうエロワ──『ヒュムネン』のシュトックハウゼンしかり──とは似て非なる志向性ないしは作者の位置をもつのだが、『formula』の石原洋はどちらの側にたつのかといえば、おどろいたことに両方に足をかけているのである。
 とはいえ『formula』は前衛音楽ではない。作者にはロックへのこだわりがある。こだわりというより刷りこみというべきだろうか。おそらくそこには信仰めいたものとは無縁の探究があった。その遍歴はインタヴュー記事でご確認いただきたいが、リヴィング・エンドを前身に1985年に結成したホワイト・ヘヴンにはじまりソロの前作にあたる23年前の『Passivité』をへてザ・スターズへ、ゆらゆら帝国やオウガ・ユー・アスホールのプロデュース業と並行した石原洋の道程はきらびやかさともちがう鈍色の輝きだった。私はホワイト・ヘヴンの演奏にはいまはなき仙川のゴスペルなどで何度かふれたが、失礼ながらお客さんもそんなに多くはなかったし盛大にもりあがっていた記憶もない。曲はすべて英詞なのもあって「海外と国内での評価差がもっとも激しいバンド」というのがモダーン・ミュージックの店主でレーベル〈PSF〉を運営した生悦住英夫氏をはじめ、ホワイト・ヘヴンを語るにあたっての枕詞のようになっていたが、当人にはたしてその実感があったかどうかはさだかではない。さえぎるもののない正午の庭に佇むとき、不意におとずれる真空のようなハレーションをサイケデリックと呼ぶなら彼らはその典型だが、表現のつよさに重きを置く世相に埋もれがちだったというか地味に映った。いや滋味があったというべきであろうが、科学調味料めいた音にまみれた耳には彼らのサウンドは文字どおり遠かった。その一方で、石原の弁によれば、1980年代初頭に新規性が頭打ちになったロックの形式にとどまる音は速さもかねていた。この「速さ」なる概念にはあの阿部薫の「僕は誰よりも速くなりたい」にはじまる神秘的なセンテンスを彷彿するが、石原の「速さ」はおそらく阿部の念頭にある主体における体感の絶対性ではなく、他者との関係から導く相対速度のニュアンスにちかい。あたかも私たちのより遠くの銀河がより速く遠ざかるように──

 さいわいホワイト・ヘヴンのレコードとしてははじめてのリリースである1991年の『Out』は〈PSF〉のカタログをひきついだ米国西海岸の〈ブラック・エディション〉がさきごろリイシューしたので、未聴の方はぜひご堪能いただきたいが、リマスターによりダイナミックに生まれ変わったサウンドを耳にしてあらためて思ったのは、巧みな曲づくりと抑制をきかせながらもはげしくうねるアンサンブルの妙味である。気をてらうところはないが、趣味性と批評性からくる内的必然性にきわめて忠実な石原洋の方法論は『Out』以降のホワイト・ヘヴンの諸作にも通底し、フランス語の「受動性」を表題に冠したソロ作『Passivité』を緩衝地帯に、ここに参加した栗原道夫やゆらゆら帝国の亀川千代もメンバーに名を連ねたザ・スターズでは作品の意図が直截的になったきらいがあった。能動的(アクティヴ)になったとまではいわないが、音楽はどのように聴かれ伝わるのかという意識(の「速度」の何割か)をプロデュース業にふりむけたことで、作品が負う荷が逆説的に軽くなったというか、楽器を手にとり曲をつくり演奏することと他者と協働で録音物を制作する行為がまったく等価になったというか。この考えを敷衍すれば、その両面をみわたさなければ石原洋はつかめない。知名度のわりになにをしているひとかいまひとつわかりにくいのも、おそらく石原のこのような立ち位置に由来する──のだとしたら、両者を調和する『formula』こそ、秘めた全貌をはじめて世に問う作品ではないか。
 との見立てのもとに『formula』を手にとられた読者はロックの領野ではすこぶる独創的な構想の前で右往左往されるかもしれない。先に述べたとおり『formula』を構成するおもな要素はフィールド・レコーディングと楽曲パートである。数え方にもよるが、楽曲のパートは五つないし六つ、それがフィールド録音と融合する、その全体がひとつづきの曲なのだという石原の言を念頭に『formula』を再生すると、地の底からわきあがるようなノイズが雑踏の喧噪に溶解し、1分半すぎの「プレスク・リエン」風のフランジャーにあなたはいま聴いているのは窓の外の騒音ではなくスピーカーからの音だと気づくだろう。ほどなくバンドの合奏がはじまって聴き手はひと安心だが、おずおずと雑音に踏み入るような曲調はアルバムの幕開けにありがちな威勢のいいものではない。石原のほかに盟友栗原ミチオ(ギター)、山本達久(ドラム)と北田智裕(ベース)のリズム隊に、レコーディングスタジオであるピースミュージックを運営する中村宗一郎らが参加する演奏はそれだけとりだしてもすばらしいにちがいないが『formula』の世界ではなんら特権的な存在にはあたらない。
 それにしても私たちはふだんなんと多くのノイズにとりまかれていることか。またノイズなる言い方ですぐそばにある無数の情報をいかにのっぺりした概念におとしこんでいることか。『formula』を聴いて、あなたが最初に思ったのはそのようなことではなかったか。そのことは足音ひとつとっても、男性のそれとヒールを履いた女性の靴音では音色にちがいがあるのでわかる。さらにそれらの音色は足の運びからくる個別のビートをもち、よりあつまれば、都市の、人間の生活空間をかたちづくる。本作の制作にあたって、石原はいくものフィールド録音に耳をとおしたという。そのことは電車の音、子どもたちの声、バイクの発進音、モーターらしき音など、五線譜に乗らない音がたんに異化作用のためだけでなく、楽曲パートとゆるやかにシンクロし、地も図もないだまし絵のような音響空間を構築するのでもわかる。たとえば元キャバレー・ヴォルテール~ハフラー・トリオのクリス・ワトソンら、フィールド録音の作者たちが取捨選択という透明な人為で録音に介入するのに比して、石原洋は録音物の内と外をこれみよがしに行き来する、その
公式フォーミユラ
はしかしメタ性語りで語り尽くせるほど簡便なものではない。作者の自意識や、インタヴューでも言及するヒューマニズム(人間中心主義)への違和とも深くかかわる表現におけるヒューマニティの変質が兆していたはずだが、そのことについて述べはじめると長々とした文章がさらにのびそうなので別稿にゆずる。

D Smoke - ele-king

 昨年10月、Netflix にて配信されて話題を大きな呼んだラッパー・オーディション番組『Rhythm + Flow』にて見事、チャンピオンとなった D Smoke。LA・イングルウッドにて育ち、同番組出演時には地元の高校でスペイン語と音楽の先生を務めていたという彼は、同番組で終始圧倒的とも言える存在感を示し、コンテスト中に一部リリックを忘れるというミスを犯しても、審査員のひとりである T.I. に「最高のパフォーマンス」と言わしめるほどの実力の違いを見せた。特に最終回であるエピソード10にて披露した、Sounwave プロデュースによるオリジナル曲 “Last Supper” のパフォーマンスは非常に素晴らしい出来で、自らピアノを弾きながらラップする冒頭の部分から、ダンサーを交えたパワフルな後半のステージの流れまで全てが完璧であった。アーティストとしてのアティチュードや醸し出す雰囲気なども含めて、同じLAのゲットー出身である Kendrick Lamar と重なる部分もあるのだが、審査員からも高く評価されていた流暢なスペイン語を交えたバイリンガルでのラップなども彼の大きな魅力のひとつになっており、オリジナリティの高さは疑いようがない。ちなみに、番組中では伏せられていたが、Kendrick Lamar と同じ〈TDE〉の所属アーティストであるシンガーの SiR が彼の実弟であり、実兄もまた本名の Davion Farris 名義で2013年にメジャー・デビューを果たしている。そして、D Smoke 本人も20代前半のときに Jaheim のシングル「Never」(2007年リリース)のプロデュースを手がけるなど、実は10年以上に亘って音楽業界に携わっていたことが後に明らかになっている。現在、33歳という D Smoke であるが、『Rhythm + Flow』で掴んだ名声(と賞金25万ドル)を糧に、彼がこれまで積み重ねた経験とキャリアがこのファースト・アルバム『Black Habits』に込められている。

 『Rhythm + Flow』最終回の配信翌日にEP「Inglewood High」を発表した D Smoke であるが、タイトルにもある彼が務めていた高校での教師としての経験が反映されたこのEPと比べて、本作はより広い視点で描かれており、本人曰く「自らの家族の経験を通じたストーリー」がテーマになっているという。その証拠にアルバム冒頭の “Morning Prayer” での家族の会話であったり、あるいは曲間での刑務所に服役中の父親からの電話に母親が応答する場面など、彼の実体験と思われる描写が随所に見られる。一方で、『Black Habits』(=黒人の習慣)というタイトルが示す通り、本作で描かれているストーリーは家族という枠だけに留まらず、地元であるイングルウッドを含む、アフロ・アメリカン全体のヒストリーにも繋がっている。先行シングルとなった “No Commas” では、アフロ・アメリカンとしての不幸な宿命に対するある種の怒りが、ハードなウェストコースト・サウンドに乗せて強烈に放たれているが、そういったネガティヴな感情だけではなく、タイトル・チューンである “Black Habits I” などで表現されているように、そこにはアフロ・アメリカンとしての誇りと強いプライドがアルバム全体を覆っている。加えて、前述したスペイン語によるラップも本作にはスパイスとして効果的に盛り込まれ、知的なリリシストという彼の側面をより際立たせることにも成功している。

 アルバムのカバーは彼の幼少時代の家族写真だと思われるが、このうち父親以外の3名が本作に参加しており、これもまたアルバムのテーマに則している。母親である Jacki Gouche は『Rhythm + Flow』でも語られていたように Michael Jackson や Tina Turner のバックコーラスとしてのキャリアがあり、ゲスト参加した “Black Habits I” のフックでもしっかりと実力の高さを示している。タイトル通りの浮揚感漂う “Fly” での実兄 Davion Farris とのコンビネーションも見事であるが、やはり注目は SiR をフィーチャした2曲だ。オルガンのメロディが神々しい “Closer to God” も面白いが、個人的には〈TDE〉関連の作品にも多数関わっている J.LBS がプロデュースを手がけた “Lights On” に強く惹かれており、“The Look Of Love” のフレーズが絶妙に引用されたトラックに D Smoke の英語とスペイン語によるメロディアスなラップ、さらに SiR のコーラスも見事にハマって、ダンサブルでありながら、実に深く染み入る曲に仕上がっている。加えて、大物ゲストとして Jill Scott が参加した “Sunkissed Child” も Battlecat の手がけるウェストコースト・ヒップホップど真ん中なトラックも含めて最高に素晴らしいのだが、『Rhythm + Flow』にも審査員のひとりとして参加していた Snoop Dogg をフィーチャした “Gaspar Yanga” はさらにそれを上回る。日本人も含めてこれまでも複数のアーティストが使用してきたブルガリア民謡のサンプリングが実にインパクト大なこの曲であるが、Snoop Dogg、D Smoke それぞれがそのトラックを見事に乗りこなして、強烈なセッションを繰り広げる様は圧巻だ。

 ちなみに Spotify の再生回数などを見る限り、おそらく本作は期待していたほどの結果は残せていないと思われる。それは教師というキャリアを持つ彼ならではの真面目な部分がある種のマイナスに作用しているのかもしれないし、あるいは一部で言われているような Kendrick Lamar との類似性が足を引っ張っているかもしれない。とはいえ、その壁を超えるポテンシャルを D Smoke は確実に備えており、彼のさらなる魅力を次作でも披露してくれることを期待したい。

ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ - ele-king

 けだるいギターのループが耳から離れない。メランコリックでビター・スゥイートなメロディ。「開場 Opening」と題された主題はアレンジを変えて何度も繰り返される(「穿過黑暗的漫長旅途 貳 Long Day's Journey Into Night (II)」)。人には必ず思い出せないことがある。そして、思い出せないことの集積によって押しつぶされていく人もいる。ギターのループは催眠術のようであり、自分にはコントロールできない領域があると何度も言い聞かせられているかのよう。映画の始まりはまるで精神分析の始まりである。ホアン・ジェ演じるルオ・ホンウはベッドに仰向けになって横たわっている。父の死をきっかけに彼は故郷に還ろうと起き上がるものの、もしかすると彼は最後までベッドから一歩も動かずに記憶の断片を遡行していただけなのかもしれない。それこそこの作品はストーリーが中心にあるというより自由連想のようにしてシークエンスが連なり、12年ぶりに戻った故郷で昔の「女に会う」という目的がいつしか本当になっていく。映画の前半は努力すれば意識化できる記憶。いわゆるフロイトの「前意識」を本人に都合のいいストーリーとして組み立て直し、捏造記憶にすり替えているだけなのかもしれない。話が展開しているのに同じメロディが繰り返されることによって元の場所に引き戻されたように感じるのはそのせいではないだろうか。「女に会う」前も「会っている」時もルオ・ホンウは常に憂鬱げで、心に揺れが感じられず、感情の主体はどこかほかにあるとでもいうように。唐突に差し挟まれるナレーション(独白)では「映画と記憶の違いは、映画は常にニセモノで、記憶は真実と嘘のミックスだということ」だと告げられる。

 他の映画監督の名前を上げることはあまりしたくないのだけれど、水浸しの部屋や錆びた鉄の塀、あるいはテーブルの振動でコップが落ちるシークエンスなど『ノスタルジア』(83)から借りたイメージが表面的には横溢するにもかかわらず、タルコフスキーが権力や制度疲労を暗喩として作品に忍ばせていたのとは違い、全体を覆っているのはむしろデヴィッド・リンチの「思わせぶり」に近いものがある。ヒッチコックなどを過剰に引用したデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督『アンダー・ザ・シルバーレイク』(18)と同じく、伏線を撒き散らしてどれも回収せず、主人公があたかも「ストーリーの牢獄」から抜け出していくように行動する展開は誰よりもデヴィッド・リンチに通じ、毒々しい色使いや見世物文化を前景化する姿勢にもそれは感じられる。このところ「based on a true story(この話は事実に基づく)」というクレジットが作品の品質を保証するキャッチフレーズのように多発されていることに対して反発を感じる映画の作り手が現れてもおかしくはない状況にあったことを思うと、『ロングデイズ・ジャーニー』や『アンダー・ザ・シルバーレイク』がデヴィッド・リンチを召喚することになんの疑問もないわけだけれど(つーか、本人が『ツイン・ピークス』でカムバックしたばかりでした)。そして、何よりも『ロングデイズ・ジャーニー』がデヴィッド・リンチを想起させるのは音楽の使い方である。映画自体にリズム感がなく、映像とまったく関係がない音楽を流すことでそれなりに長いシーンを持続させてきたデヴィッド・リンチの手法はまさにMTV時代の申し子といえ、異様なほどのミスマッチを恐れない『ロングデイズ・ジャーニー』にも音楽に対する過信は増幅して感じられる。リン・チャンとポイント・スーによる多幸感あふれるドローン(「監獄訴說 Confession from Prison」)が延々と流れる刑務所での面会シーンは特に異様で、印象深かった。

 ルオ・ホンウが再会を果たす女、ワン・チーウェンには山口百恵という役名が当初は考えられていたらしい。ワン・チーウェンを演じるタン・ウェイは、そして、アン・リー監督『ラスト、コーション』(07)でデビューした際、あまりにもセックス・シーンが多く、しかも日本軍のスパイという役柄だったせいで中国では批判の的となり、以後の作品も放送禁止や出演シーンがカットされるなど波乱含みのスタートを切った女優である(彼女を起用したことについて後悔しているというアン・リー監督とハリウッド進出に当たって性器を露出する役だった菊地凛子は対談をしたことがあるそうです)。タン・ウェイはその後、香港の市民権を取得するなど、それなりに時間をかけて復活を果たしたものの、言ってみれば名前ばかりが有名な女優といえ、虚構に足を取られた人生がそのまま『ロングデイズ・ジャーニー』における「ヤクザから逃げられない女」という設定に重ねられている。ルオ・ホンウがワン・チーウェンを自由にしようとするトライアルと絶望感の上塗りがイメージの洪水を呼び起こす中盤はかなり見応えがあり、象徴を読み解きたい人たちの議論が尽きないパートにもなっている。また、日本軍のスパイ役を汚点とせず、ケータイの着メロなどで中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」が流れるなど、もしかするとビー・ガン監督は中国で「精日(=精神日本人)」と呼ばれるタイプの人なのだろうか。「精日」というのは単純な「日本かぶれ」から「反政府的」とされる傾向まで解釈に幅のある言葉で、どのあたりということは簡単に言えないけれど。

『ロングデイズ・ジャーニー』の白眉と言われるのは後半である。チェン・ヨンゾン演じるヤクザの親分を撃ち殺すために映画館に入ったルオ・ホンウがサングラスをかけるタイミングで観客はあらかじめ3Dメガネをかけるように指示されている。ここからの64分はワン・カットで撮影されていて、『トゥモロー・ワールド』(06)に始まり、『アバター』(09)や最近では『バードマン』(14)に『1917 命をかけた伝令』(19)といった流行りと同じ手法を用いることで「意識の流れ」を追跡してみたということになるのだろう。ここでは前半にあったような話の整合性はまったくなくなってしまう。流れや脈絡といったことはあっても論理や法則といったことからはどんどん離れていく。僕の解釈ではここからは「前意識」から「無意識」に分け入り、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でいえば「世界の終り」の章だけを凝縮したようなものになっている(『ロングデイズ・ジャーニー』の中国原題は『地球最後の夜』)。実際、観客が3Dメガネをかけるとルオ・ホンウは洞窟の中にすとんと落ちている。そして、少年と卓球をしなければそこから出られないという条件を押し付けられ、以後も境界線を意識させるエピソードが繰り返される。前半には曲がりなりにも行動に目的のあったルオ・ホンウは「閉じ込められて脱出する」というパターンを反復してから(以下、ネタバレ)一気に夜空へと飛び上がり、いわば虚構による虚構の解放が試みられる。ルオ・ホンウが一緒に空を飛ぶカイチンはタン・ウェイが二役を演じている女性で、いかにも身分を変えてヤクザから逃げられたかのようでもあるし、着地地点で開かれている歌謡ショーはヤクザの親分のカラオケと対をなしていると見做すことで、音楽と権力の結びつきが解かれたかのようにも感じられるけれど、すべてがどうとでも解釈できることであり、そもそも解釈の必要さえないのかもしれない。そして、この映画は現実には戻ってこない。

『ロングデイズ・ジャーニー』の原型となる『凱里ブルース』も追って4月18日から公開予定。


『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』WEB限定版予告編

Joy Orbison, Beatrice Dillon & Will Bankhead - ele-king

 きたきたきたー! ファッション・ブランドの C.E がまたもやってくれます。彼らが仕掛ける2020年最初のパーティは〈Hinge Finger〉および〈The Trilogy Tapes〉との共催で、両レーベルからおなじみジョイ・オービソンとウィル・バンクヘッドが出演、さらに、先月〈PAN〉よりすばらしいアルバム『Workaround』をリリースしたばかりのビアトリス・ディロンが加わります。前売りチケットは出血大サーヴィスの1500円。これは行かない理由がありません。4月10日は VENT に集合。

C.E、〈Hinge Finger〉、〈The Trilogy Tapes〉共催によるパーティが VENT で開催に。Joy Orbison、Beatrice Dillon、Will Bankhead が出演

C.E (シーイー)による2020年度初となるパーティが、2020年4月10日金曜日に表参道の VENT を会場に、Joy Orbison (ジョイ・オービソン)、Beatrice Dillon (ビアトリス・ディロン)、Will Bankhead (ウィル・バンクヘッド)の3名をゲストに迎え開催となります。

洋服ブランド C.E が〈Hinge Finger〉(ヒンジ・フィンガー)、〈The Trilogy Tapes〉(ザ・トリロジー・テープス)の2レーベルと共催する本パーティのラインナップは、音楽プロデューサーDJ、英国の音楽レーベル〈Hinge Finger〉主宰の Joy Orbison、今年2月に初のソロアルバムをベルリン拠点の音楽レーベル〈PAN〉(パン)よりリリースしたばかりの Beatrice Dillon、そして Joy Orbison と共同で音楽レーベル〈Hinge Finger〉、個人として〈The Trilogy Tapes〉を運営する Will Bankhead の3名です。

Joy Orbison は昨年19年の9月にデビュー10周年を迎えた、英国を拠点とする音楽プロデューサー、DJ、そして音楽レーベル〈Hinge Finger〉の主宰です。昨年19年には Joy O 名義で、〈Hinge Finger〉から「Slipping」を、〈Poly Kicks〉から「50 Locked Grooves」をリリースした他、Overmono (Truss&Tessela) とのユニット Joy Overmono として「Bromley / Still Moving」をリリースし、Off The Meds の楽曲のリミックス「Belter (Joy O Belly Mix)」をてがけました。

Beatrice Dillon は、UKはロンドンを拠点とするアーティスト、ミュージシャン、DJです。前述した〈The Trilogy Tapes〉や〈The Vinyl Factory〉、〈Where To Now?〉、〈Boomkat Editions〉などより楽曲をリリースするほか、Call Super や Kassem Mosse、Rupert Clervaux との共作、多種多様なアーティストの楽曲のリミックスも行っている。今年20年2月には、Kuljit Bhamra や Laurel Halo、Batu、Untold、Kadialy Kouyaté、Jonny Lam、Verity Susman、Lucy Railton, Petter Eldh、James Rand、Morgan Buckley らが参加し、マスタリングを Rashad Becker がてがけた、自身のキャリア初となるソロアルバム『Workaround』を〈PAN〉から発表しました。

Will Bankhead はダンスミュージックのファンだけでなく多くの音楽愛好家が信頼をおく英国の音楽レーベル〈The Trilogy Tapes〉の主宰で、前述した Hinge Finger の運営を Joy Orbison と共同でおこなっています。イギリスのインターネットラジオ局、NTSではマンスリープログラムを担当しています。

C.E, Hinge Finger, The Trilogy Tapes present

JOY ORBISON
BEATRICE DILLON
WILL BANKHEAD

開催日:2020年4月10日金曜日
開催時間:午後11時〜
開催場所:VENT (https://vent-tokyo.net/
当日料金:2,500円
前売り料金:1,500円 (https://jp.residentadvisor.net/events/1402254

※20歳未満の方のご入場はお断り致します。年齢確認のため顔写真付きの公的身分証明書をご持参願います。(Over 20's Only. Photo I.D. Required.)

yukifurukawa - ele-king

 成熟したプロダクションになんとも色鮮やかな詩情──ギター/キイボード/ヴォーカルの古川悠木を中心に、ソロでも活動するコルネリ、サラダマイカル富岡製糸場グループのサラダらが集合した東京のバンド、その名も yukifurukawa が、4月1日にファースト・アルバム『金貨』をリリースする。どこかテニスコーツやマヘル・シャラル・ハシュ・バズを想起させつつも、よりクリアな音響がそっとやさしくリスナーの耳を包みこんでいく……まずは先行公開された “ハイキングコース” を聴いてみてほしい。これはチェックしておくべきでしょう。

[3月24日追記]
 まもなくリリースされるアルバム『金貨』より、もう1曲 “サマー” が現在公開中です。とても軽快で元気のわいてくる曲ですね。なお、4月4日には SCOOL にてレコ初ライヴも予定されています。ヒップホップ・グループの E.S.V が共演。詳細はこちらから。

yukifurukawa
『金貨』
WEATHER 80 / HEADZ 245

「yukifurukawa」は古川悠木の曲を無為に演奏すべく2019年5月に活動を開始したが、コルネリ(Maher Shalal Hash Baz / のっぽのグーニーBad medicines)の加入をきっかけに、当初から参加するサラダ(サラダマイカル富岡製糸場グループ)と共に元々シンガーソングライターとしても活動している二人の曲も持ち寄ってライヴ演奏をしていくこととなった。その後、突き進む勢いで完成したのがこの『金貨』と題されたファースト・アルバムである。

『金貨』は古川悠木、サラダ、コルネリという、三人の作曲家によるそれぞれテイストの異なる楽曲が併存して収録されており(“ムーン” が唯一の共作曲)、ワクワクさせられたり、寂しさや諦めを感じたり、それでいてどこかに望みがあるかのような、さまざまな心象世界が描かれている。
古川悠木による丁寧なサウンド・プロダクション、ベース森田哲朗とドラム久間木達朗による渋く手堅いリズム隊の演奏、サラダとコルネリによる美しいコーラス・アレンジが全編に渡って施され、非常に効果的なアクセントになっており、さらに三人のカラーの違う個性的なヴォーカルが見事に調和することで新たな化学反応が起き、予想以上に熟達した作品となった。
ゲストとして、シンガーソングライターの mmm がエレキベースで参加しており(過去に一度、yukifurukawa のライブにサポートとして参加している)、素晴らしいグルーヴを醸し出している。

マスタリングは折坂悠太、入江陽、さとうもか、Taiko Super Kicks、TAMTAM、本日休演などの作品のエンジニアリングも行なっている中村公輔が担当。

フロント・カヴァーのドローイングは若き画家・森ひなたが描き下ろし、デザインはグラフィックデザイナーの浅田農が担当(彼が手掛けた、おさないひかり詩集『わたしの虹色の手足、わたしの虹色の楽器』は東京TDC賞 2020のブックデザイン部門に入選)し、yukifurukawa の世界観をより引き立たせるようなアルバム・ジャケットに仕上がっている

アーティスト:yukifurukawa
アルバム・タイトル:『金貨』
規格番号:WEATHER 80 / HEADZ 245
価格:[税抜価格 ¥2,000]+税
発売日:2020年4月1日(水)
レーベル:WEATHER / HEADZ

01. ハイキングコース
02. どこかの窓
03. 遡行不良
04. サマー
05. 海と犯人
06. 庭
07. 話したくない
08. 蟹の思い出
09. Les méchants
10. ムーン

yukifurukawa
古川悠木:ボーカル(M2,3,5,8,9)、ギター(M1,2,3,5,6,9,10)、ピアノ(M1,2,4,7,8)、オルガン(M3,4)、口笛(M3,5)
サラダ:ボーカル(M4,5,8,10)、ギター(M1,4)
コルネリ:ボーカル、ギター(M7,8)
森田哲朗:コントラバス(M1,2,5,6,8)
久間木達朗:ドラム(M1,2,4,5,6,8)

mmm:ベース(M4)

編曲:古川悠木
コーラスアレンジ:サラダ(M4,10)、コルネリ(M2,3,5,8,9,10)

録音:古川悠木、西村曜(StudioCrusoe)
ミックス:古川悠木
マスタリング:中村公輔
録音場所:StudioCrusoe、七針、柳瀬川、阿佐ヶ谷、天沼、池袋、高田馬場

絵:森ひなた
写真:梨乃
デザイン:浅田農

RC SUCCESSION - ele-king

 RCサクセションとはコンセプトではない。それが良いか悪いかでもない、それはただ基本だった。ゴールにボールが入れば1点、フィールドプレイヤーが手を使ったら反則、RCとはそういう次元のものだった。
 あらゆるものが詰まっていた。初期のロックやポップ・ミュージックといったもので見られる夢の、その後否定されるべきものも含むおおよそすべて。エゴ、愛、セックス、ドラッグ、反抗、自由、怒り、疎外感、虚無、別れ、悲しみ、反体制、理想、成長……そういったもの。
 また、日本も嫌だしアメリカも嫌だしという、はっぴいえんど以降の日本のロック/ポップスが無意識にせよ模索し独創したアイデンティティの更新を、このバンドはたったひと言の「イエー」や「ベイビー」などという、じつにバカっぽい言葉の威力でやってしまった。痛快という言葉は彼らのためにあった。
 世の中に疑問を持った若者がいる。性欲も好奇心もギラギラしている。そういう中高生にとってRCは福音でありマントラだった。ぼくたちはライヴに行って、いつも爆笑した。この人たち、おもしれぇー。振り切れている。きっと、デトロイトにおけるPファンクもこうだったに違いない。

 ここに紹介するのは、今年はバンド結成から50年ということで発売されたシングル集である。CD3枚組、もっとも初期の「宝くじは買わない」(1970)から最後の「I LIKE YOU」(1990)までの、公式にリリースされた全21枚の7インチ・シングルA面/B面、計42曲がオリジナルマスターからリマスタリングされて収録されている。言うまでもないことだが、シングルでしか聴けない名曲が聴ける。“よごれた顔でこんにちは”とか、“君が僕を知ってる”とか、“窓の外は雪”とか。いま聴くと意外によかった“どろだらけの海”とか。それから、これはいまさら言っても仕方がないことだけれど、チャート狙いの曲をA面、野心作をB面に擁した2曲入り7インチというフォーマットをポップ産業は手放すべきではなかったとあらためて思う。こんなキラキラしたベスト盤は、いまのアーティストには作りたくても作れないのだ。

 年齢に関係なく、音楽を詳しく知れば知るほど狭量かつ教条的になってしまう人がいる。これはホンモノかどうか、これはジャズかどうか、……俗に言う権威主義だ。RCサクセションというバンドは、その見かけはエキセントリックで、音楽スタイルは決してオーセンティック(ホンモノ)なリズム&ブルースではなかったが、しかしその感情はホンモノだった。RCサクセションにはフォーク時代の70年代から隆盛を極める80年代にいたるまで、一貫して妙なハイブリッド感があった。ローリング・ストーンズほどにはブルースという確固たる音楽的土台がなかったかわりに、日本特有の私小説的なフォークをブルースやロックが表す心の痛みや悦びに近づけ、あるいはそこに甘い理想と毅然とした反抗心をたたき込んだ。 
 おそらく彼らが最初からマニアックな音楽集団だったら、あんなに雑多なオーディエンスを得られなかったのだろう。「バカな頭で考えた/これはいいアイデアだ」と歌ったように、敷居の低いところで敷居の高い連中にはできないことをやったのが彼らだった。ぼくはすっかり夢中になって、初めて見にいった16歳の夏から子どもを連れていった忌野清志郎の最後となってしまった武道館ライヴまで、ただのひとりのファンとして接した。
 出来の悪い子どもたちの側であることを貫いた彼らのようなバンドが、エリート層と貧困層に二分される格差社会が定着したいまの日本にいてくれたらどんなに良いことだろうか。“トランジスタ・ラジオ”(電気グルーヴもカヴァーした曲)はいま聴いても、ますます不思議な曲だ。ハードロック調のギターからはじまって、しかし柔らかい綿で包みこむように、あの曲はつねにぼくを基本に立ち戻らせる。それはコンセプトではない。良いか悪いかでもない。ただの基本であり、つまりボールは足で蹴るという次元の話なのだから。

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