「IO」と一致するもの

Stereolab - ele-king

 未来を見つめるために過去を振り返るのは、つねにステレオラブの習慣の一部だった。アートワークには1960年代の実験的なステレオ・テスト・レコード盤の要素を取り入れ、音のルーツはクラウトロックの攻撃的でモータリックなモダニズム、フランス現代思想や戦後のマルクス主義の変種などの緩めの解釈、ルチア・パメラやノーマン・マクラレン等の創造力豊かな変わり者たちによるポップ・カルチャーの難解な奥義などの多岐にわたる過去から引き出したあらゆる要素が、政治批判、技術楽観主義、そして子どものようなクリエイティヴな遊びを融合させた、進歩の土台となる精神を構築してきた。
 
 だが、その進歩という考え方が、なかなかトリッキーではある。ステレオラブの新譜があなたを本当に驚かせたのはいつが最後だっただろうか? 私にとって、それはおそらく2001年の『Sound Dust』だったのではないかと思うが、すでに1997年に『Dots and Loops』がリリースされた時点で、ステレオラブのアルバムを思い浮かべるときに必要なすべての要素が揃ったと感じていたことにも言及しておきたい。とはいえ、それ以降の作品に創造性が欠如していたわけではない。グループはしばしば、自分たち自身で障害物をこしらえて、グルーヴを壊し、プロセスを複雑化して、お決まりのパターンに陥るのを防ぐことを繰り返してきた。2004年の『Margerine Eclipse』で特にその手法が際立っているが、このアルバムは“デュアル・モノ”方式で録音され、ふたつの独立した録音が各チャンネルにあり、それらが組み合わさって音が聴こえてくるというものだった。

 『Instant Holograms on Metal Film』の制作過程でもそのような仕事がなされたのかは知る由もないが、2008年の『Chemical Chords』のセッションからの音源で編まれた2010年の『Not Music』以来の今回の新譜は、まさにステレオラブのアルバムらしい音に聴こえる。完璧なメロディの再構築、音楽的要素やテーマなど、愛聴家たちが期待するものが揃っている。私の周りの人びとの意見はというと、眩暈がするような興奮を覚えた人と、期待はずれだったという人に二分されている。ある人は“自動操縦(オートパイロット)化されたバンド”という表現で総括した。
 私はその批判は、的外れであると思う。何よりもその精緻な再現性だけで、“オートパイロット”化という言葉がほのめかす怠惰という疑いを晴らすことができるからだ。それよりも私が感じとったのは、17年ぶりに集まったミュージシャンたちがこの“ステレオラブ”と呼ばれるものの記憶を呼び覚まし、再構築するために懸命に努力する様子だった。最後に一緒に奏でた音楽から彼らを隔てた長い時間自体が、そのプロセスを複雑化する障害物として機能し、再びステレオラブになるという行為がその概念の枠組みとなっているのだ。
 これは、単なる技術の実践を超えたもののように感じてしまう。長い時間、離れていた音やプロセス、そして人同士が再接続を果たすという感情的な行為なのだ。

 冒頭から、“Mystical Plosives”の電子的なアルペジオが“Aerial Troubles”へと突入すると、何か強烈なものの存在を感じる。ビートが予想より一瞬だけ早く始まり、ポップなフックに辿り着こうと焦っていかのようだ。メロディとテーマだけで、アルバム発売前のシングル“Melodie Is A Wound”が“Ping Pong”と同じ作曲者によるものだとわかるが、いずれも、より広がりのある密度の濃い作品となっている。この曲とA面全体が、新しい家のすべての部屋を見せたくてたまらない、無我夢中な案内人に連れまわされているような感覚だ。
 ティム・ゲインとレティシア・サディエールはどちらも前回のアルバム以来、活発な活動を続けており、この再構築されたステレオラブの構造にも、それぞれの作品の要素が絡まっている。ティムのプロジェクトであるキャヴァーン・オブ・アンチ・マターのホルガ―・ツァップもゲスト参加した、インストゥルメンタルな“Electrified Teenybop!”はふたりのアルバムの一枚にも違和感なく収まりそうな曲だ。一方、レティシアが頻繁にコラボレートするマリー・メルレ(アイコ・シェリーの)がバック・ヴォーカルで参加している。
 ある意味、ティムとレティシアの、その間の数年にわたる活動が、彼らが自分たちの過去を振り返るというプロセスを必要とした大きな理由のひとつかもしれない。キャヴァーン・オブ・アンチ・マターがシンセティックなモダニズムのサウンドに激しく傾倒したのに対し、レティシアの方は、特に昨年の『Rooting For Love』では物理的なものと精神的なものに対峙していた。ステレオラブの開発ツールは、両者が再び一緒に演奏できるようにするだけでなく、それぞれの創造的なこだわりを追求する余地を提供しており、その枠組みのなかで両者のアプローチが絡み合うことが織り込み済みなのだ。

 『Rooting For Love』では、現代政治がかなり強調されていたが、それはより抽象的な形で詩的に表現されていた。だが『Instant Holograms on Metal Film』 では、資本主義の破壊的なダンスと、機能不全を好む独裁体制を、執拗に、鮮明に描いている。

「Is there some form of justice possible or (なんらかの正義の形というものは実現可能なのだろうか、それとも)/So long, public’s right to know the truth(国民の真実を知る権利の終焉か)/Gagged, muzzled by the powerful(権力者に口を塞がれて封じられ)/Cultivate ignorance and hate(無知と憎しみを増殖させる)」

 と、レティシアは「Melodie Is A Wound(メロディとは傷である)」で問いかけ、こういった率直な真剣さを嫌がる人たちの目を白黒させる。

 A面の、歌詞を通じて現在の混乱した社会情勢に対する社会的、政治的、そして経済的な批判をアルバムの基盤とするやり方は、音楽のより理論に基づいた側面と結びつき、彼女の宇宙的な進歩の処方への、ある程度の具体的かつ抽象的な入口を構築している。
 そして、おそらくここが A面の政治に対する真剣さに賛同していた人のなかでも、レティシアの政治観が精神的なものばかりでなく、ニューエイジの領域に近い要素にまで密接に結びついているために、離れてしまう人が出てくる分かれ目になっているのかもしれない。とはいえ、このアルバムは、ステレオラブがこれまで表現してきたなかでもっとも完全な、政治的かつ個人的な宣言となっている。全体を貫いているのは、ただ問題点を明らかにする
だけでなく、ある種の解決策への道筋を示そうとする献身である。 

「Juncture invites us to provide care (この岐路は私たちにケアの提供を促している)/Palliative (一時しのぎの緩和ケアを)/ For dying modernity (死にゆく現代性に)/While offering antenatal care for the inception of the new, yet undermined future (一方でまだ定まっていない新たな未来の始まりに産前ケアを提供しながら)/ That holds the prospect for greater wisdom (より大きな英知の可能性を持つ未来のために)」

 レティシアはこのように“Aerial Troubles”で語り、『Rooting For Love』の歌詞は、彼女の革命的な実践において、対立ではなく愛と共感を中心に据えていると言及している。

 “Wisdom(知恵・英知)”は彼女が繰り返し使う言葉だが、その使い方は“明晰さ”と大体一致しており、社会という名のフィルターを通して見る訓練がなされる前に世界を見透かしてしまう、子ども特有の純真さのような感覚のことなのかもしれない。おそらく、多少はフランス左派の哲学者、コルネリュウス・カストリアディスの影響もあるのだろう。彼はイド、自我と超自我に分割される前の子どもの精神を、精神的な単子(サイキック・モナド)と説明し、健全な社会には、内省のための精神分析的なツールが不可欠であると考えた。そのような自己分析なしでは、私たちは自分たちの意欲に気付けないばかりか、真の自律性を獲得することができず、自治制のない社会は機能しないからだ。
 フランス語のつづりによる“Monade”は、もちろん、レティシアが自身の名前のみを使って活動するようになる前に音楽をリリースする際に使用した名称だが、これは単なる精神分析学的な用語ではなく、グノーシス主義とも強く結びついた神秘的な言葉である。
 アルバムのB面へと進み、とくに豊かでサイケデリックなC面になると、歌詞の社会批判は、診断的な内容から治療の段階へと進み、彼らが描く救済への道には、だんだんとグノーシス主義的な宇宙論が映し出される——資本主義の現実主義的支配者、デミウルゴス(“Vermona F Transistor”の神のふりをするジョーカー)が、人類が英知や啓発を得て、モナドの高潔で純粋な光の中で真の人間性を手に入れるのを妨げようとするが、その神聖な一部の火花は本来、我々がそれぞれ内包しているものなのだ。

 だが、ここで重要なのは、これらの表現方法のすべてが、本質的には個人的なものへと行き着くことなのだ。レティシアが“Vermona F Transistor”で「The architect, our higher self (建築家という私たちの高次なる自己)」と歌うその言語は霊的なものであり、「Explore without fear the rhizomic waves (恐れることなく、根茎状の波を探索せよ)」と歌うところでは、ドゥルーズとガタリの批判理論を想起させるが、“Esemplastic Creeping Eruption”のタイトルでは、コールリッジの詩の言葉を引いており、一体感(wholeness)と結合(union)という繰り返されるテーマは、宗教、心理学、政治と愛における語彙の核心的な部分だ。  「統合」のテーマは、バンドの再結成という文脈において、特に心に迫るものだ。“Esemplastic Creeping Eruption”のエンディングの歌詞

「It is because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Eternally entwined, mirage of separateness(永遠に絡み合った、分離と言う幻影)/Meeting with a stranger, a lost part of myself (見知らぬ人との出会い、失われた自分の一部) /It’s because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Two halves of one(一個の二つの半身)/Union, compound (結合、複合)」

は、人間に共通する普遍的なテーマとしても解釈できるが、ステレオラブ自身にとっても、強力な響きを持つ文脈となっている。

 アルバムの最終面は、注目を集めたがるA面や暗さのあるB面、サイケデリックなC面とは対照的に軽やかで、爽やかさと安心感のある音調になっている。最終面より前の面でも探求された多くのテーマを再訪するが、アルバムと同様に、次へと漕ぎ出す出発点として過去に焦点を当てている。“Colour Television”が「Open are the possibilities(可能性は無限に広がっている)!」と宣言し、“Flashes From Everywhere”では、「冒険的な進み方」を約束している。

 最終的に、政治批判や哲学、心理学、宇宙論といった深遠な風景を駆け抜ける、目の回るような旅の後にステレオラブが『Instant Holograms on Metal Film』で提示する前進への道は、決して不明瞭なものではないし、大袈裟なものでもない。彼らはただ、こう言っている。「自分自身の意欲と偏見について熟考し、明晰さと自律性を獲得しよう。その明晰さで異なる可能性を探求し、自分自身と他者を、精神的、社会的に、あるいは長年離れていたポップ・グループとして、同一のものの一部として結びつき、大胆に、自由に創造しよう」


by Ian F. Martin

The idea of looking back in order to look forward is one that’s always been a part of Stereolab’s praxis. The artwork that drew from 1960s experimental and stereo test records, their sonic roots in the aggressive, motorik modernism of krautrock, various loosely interpreted strains of French Theory and postwar mutant Marxism, the pop cultural esoterica of creative eccentrics like Lucia Pamela and Norman McLaren — it all drew from the past to construct an ethos combining political critique, technological optimism and childlike creative play as a platform for progress.

That idea of progress is a tricky one, though. When was the last time a new Stereolab album really surprised you? For me, perhaps that was 2001’s Sound Dust, although I’d argue that all the key elements you need to imagine a Stereolab album were in place with the release of Dots and Loops in 1997. That’s not to say there was a lack of creativity at work beyond that point, though: the group would often construct roadblocks for themselves to throw themselves off their groove, complicate their process and prevent themselves from falling into patterns. They do this most strikingly in 2004’s Margerine Eclipse, which was recorded in “dual mono” with two independently coherent recordings, one in each channel, that combine to create the song you hear.

Whether there was some process of that kind at work behind the scenes of Instant Holograms on Metal Film, I don’t know, but this first new album since 2010’s Not Music, which was itself pieced together from recordings made during the 2008 sessions for Chemical Chords, sounds exactly like a Stereolab album: an immaculate recreation of the melodies, musical elements and themes a fond listener would expect. Opinions among people around me have been split between giddy excitement and disappointment: a feeling one person summed up as of “a band on autopilot”.

I think that criticism misses the mark. The meticulousness of the recreation alone absolves the band of the suggestion of laziness “autopilot” implies. Rather, the sense I get is of musicians working together for the first time in seventeen years, working hard to remember and reconstruct this thing called Stereolab — the gulf of time that separates them from their last music together itself functioning as a roadblock that complicates their process, the act of becoming Stereolab again its own conceptual framework.

It feels more than just a technical exercise, though. It’s an emotional process of reconnecting with sounds, processes and people after a long time.

From the start, as the electronic arpeggio of Mystical Plosives bursts into Aerial Troubles, there’s something insistent, beats kicking in just a moment before you’re expecting them, almost an impatience to get to the pop hook. Both in melody and themes, early single Melodie Is A Wound is identifiably the same songwriters who wrote a song like Ping Pong, but it’s both more expansive and densely packed. The song, and the whole of side A, really, feels like being swept along by a deleriously enthusiastic guide, eager to show you all the rooms of their new house.

Tim Gane and Laetitia Sadier have both been active over the years since their last album, and elements of both their own work twine through the structure of the reconstructed Stereolab. Holger Zapf from Tim’s project Cavern of Anti-Matter makes an appearance, and the instrumental Electrified Teenybop! would fit just as easily into one of their albums. Meanwhile, Laetitia’s frequent collaborator Marie Merlet (of Iko Chérie) joins on backing vocals.

In a way, Tim and Laetitia’s work in the intervening years may be a big part of what makes this process of looking back on their own past necessary. Where Cavern of Anti-Matter leaned hard into the sound of synthetic modernism, Laetitia, especially on last year’s Rooting For Love, sought to engage with the physical and the spiritual. The Stereolab toolkit allows them both to play together again, offering space for each to explore their own creative obsessions within a framework where the intertwining of those approaches is baked in.

Where contemporary politics underscored much of Rooting For Love, they do so lyrically in a more abstract way. Instant Holograms on Metal Film, though, lays out with urgent clarity the destructive dance of capitalism and its dysfunctional lover authoritarianism.

“Is there some form of justice possible or / So long, public's right to know the truth / Gagged, muzzled by the powerful / Cultivate ignorance and hate,” Laetitia asks on Melodie Is A Wound, no doubt causing all the sorts of people who cringe at such direct earnestness to roll their eyes.

The way Side A grounds the album in a social, political and economic critique of the current troubled climate both links the album lyrically with the more theoretical side of the music, and constructs a more or less tangible entry point for her more cosmic prescription for progress.

This is probably the point where even some of those who were OK with the political earnestness of Side A begin to check out, because Laetitia’s politics are woven intimately with something spiritual, even new age-adjacent. However, the album maps out what might be the most complete political and personal manifesto Stereolab have ever expressed. What underscores it all, throughout, is a devotion to not just identifying problems but mapping out some sort of route to a solution.

“The juncture invites us to provide care / Palliative / For dying modernity / While offering antenatal care for the inception of the new, yet undetermined future / That holds the prospect for greater wisdom,” she says on Aerial Troubles, and ss on Rooting For Love, the lyrics here centre love and compassion rather than conflict in her revolutionary praxis.

The word “wisdom” is one she returns to again and again, used in a way that seems to be roughly congruent with “clarity” and perhaps the sense of childlike innocence that sees the world clearly through eyes that haven’t yet been trained to see through society’s filters. There’s perhaps the influence of French leftist philosopher Cornelius Castoriadis in this, who describes a child’s psyche before it is broken up into the id, ego and superego as the “psychic monad”, and saw the psychoanalytical tools of self-reflection as crucial to a healthy society, because without such examination, we cannot be conscious of our motivations and therefore be truly autonomous, and a society cannot function without autonomy.

Monade (in the word’s French spelling), of course, was the name Laetitia used to release music under before settling into using her own name alone, and it’s not just a psychoanalytical term but a mystic one with strong connections to gnosticism.

As the album moves into Side B and especially the richly psychedelic Side C, and the lyrics’ social critiques move from the diagnostic to the curative, the route they sketch out towards salvation increasingly mirrors gnostic cosmology — the archons of the capitalist realist demiurge (“the joker who pretends a God to be,” of Vermona F Transistor) holding humanity back from attaining wisdom or enlightenment and experiencing their full humanity in the incorrubtible pure light of the monad, part of whose divine spark we each contain.

Importantly, though, all these modes of expression come down to something fundamentally personal. The language is spiritual on Vermona F Transistor when Laetitia sings “The architect, our higher self”, it recalls the critical theory of Deleuze and Guattari where she sings “Explore without fear the rhizomic waves”, it draws language from the poetry of Coleridge in the title Esemplastic Creeping Eruption, and the repeated theme of wholeness and union is a key part of the vocabulary of religion, psychology, politics and love.

That theme of union is a poignant one in the context of the band’s reunion. The ending of Esemplastic Creeping Eruption with the lines “It is because I am you, it's because you are me / Eternally entwined, mirage of separateness / Meeting with a stranger, a lost part of myself / It’s because I am you, it's because you are me / Two halves of one / Union, compound” can be read as a general statement about collective humanity, but rings powerfully in the context of Stereolab itself.

The final side of the album takes on a lighter, breezier, more reassuring tone than the attention-hungry Side A, the darker side B and the psychedelic Side C. It revisits many lof the points explored on the earlier sides, but perhaps like the album itself, its focus is on summarising the past as a kicking off point for where to go next. “Open are the possibilities!” declares Colour Television, with Flashes From Everywhere promising an “Adventurous way to proceed”.

For all the giddy journey they take you on through this esoteric landscape of political critique, philosophy, psychology and cosmology, the route forward Stereolab offer on Instant Holograms on Metal Film isn’t an obscure one, in the end. It’s not a grand one either. It simply says: reflect on your own motivations and biases in order to achieve greater clarity and autonomy; use that clarity to explore different possibilities; see yourself and others united as part of the same thing, whether spiritually, as a society, or maybe even as a long-separated pop group; and create boldly and with freedom.

Nick León - ele-king

 レゲトンのサブジャンルにネオペレオ(Neoperreo)がある。簡単にいえば少し陰のあるレゲトンで、10年代前半にチリのトマサ・デル・レアルとアルゼンチンのミズ・ニーナがハッシュタグに用いたことでジャンル名として定着したという。ペレオというのはレゲトンと呼ばれる以前のレゲトンのことで、レゲトン自体がいつ始まったのか定かではないために(ノリエガでよくね?)どの時期までを指すのか人によってまちまちだけれど、いずれにしろネオペレオという呼称自体はレゲトンの新たな展開を意味している(ネオ・ペレオ=ニュー・レゲトン)。ちなみに黎明期のレゲトンに回帰する動きはペレオコアなどとも呼ばれたり。勃興期のネオペレオは女性中心で、セクシュアリティに言及する歌詞が多く、すぐにもスペイン系のバッド・ギャル(Bad Gyal)やロザリオ、ホンジュラス出身のロウ・ジャックがプッシュするクララ!などヨーロッパの女性プロデューサーへと飛び火していった。10年代後半に入ってネオペレオがL.A.で隆盛を極めるとブラック・アイド・ピーズやバッド・バニーなどメジャーへと波及し、その一方で、ジャム・シティやケルマン・デュランなどアンダーグラウンドなプロデューサーたちがデコンストラクティッド・クラブとしてマイナー・チェンジを重ねたものがより音楽的な面白さにフォーカスしていった。僕が最初に興味を持ったのもコード9とベリアルによるミックスCD『Fabriclive 100』に収録されていたウルグアイのレチュガ・ザフィロ(Lechuga Zafiro)で、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音をビートに使った“Agua y puerta”は実にシュールで、ヴィデオも鮮烈な印象を残した。レタス・サファイアという意味のレチュガ・ザフィロが同じ年にリリースした「Aequs Nyama Remixed」では早くも700ブリスがリミックスに起用されていて、音楽的な広がりに対する期待が一気に加速したことも忘れがたい。さらにはアルカである。コロナ禍に5枚連作でリリースされた『Kick』にはシリーズの前半でレゲトンとともにネオペレオがフィーチャーされ、ストリート・ミュージックとして発展してきたネオペレオがそれはもう見事なほどグリッチと手を結んでいた。アルカはその後もシングルで“KLK”(20)、“Prada/Rakata”(21)、“Chama”(24)、“Puta”(25)、“Sola”(25)とネオペレオを連発。優雅で高貴な世界観を増幅させることに余念がない。バッド・バニーとアルカは同じ2020年のリリースであり、メジャーにもアンダーグラウンドにも広がっていたネオペレオはコロナ禍でやや減少傾向に転じたものの音楽的な勢いが衰えた印象はなく、ニコラ・クルズ&イザベル・ラヴストーリー、フロレンティノ、デング・デング・デング、シャイガールと様々な方向に触手を伸ばし、ビリー・アイリッシュやビョークともコラボレイトしたロザリア『MOTOMAMI』(22)やリズ『Extasis Silicone』(23)などメジャーでも充実作が続いている。トキシャ(Tokischa)“CANDY”やLSDXOXO(エルエスディーエックスオーエックスオー)“Freak”のヴィデオを観ていると『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の人気がどこから来たものなのかよくわかるというか。

 12歳でレゲトンに人生を変えられたというニック・レオンによる9年ぶりのセカンド・ソロでもネオペレオは大々的にフィーチャーされている。 マイアミ・オールスターズによる『Homecore!』で書いた通り、「マイアミを音楽都市として再浮上させたプロデューサー」として高く評価されるニック・レオンはかねてからDJパイソンやケルマン・デュランと同じくレゲトンとアンビエントの接点を探ってきたこともあり、ここでもネオペレオから陰の部分を多く引き出すことに成功している。冒頭から初期のソフィを思わせるザンダー・アーマドのヴォーカルを起用した“Entropy”。ファヴェーラ・ファンク(バイレ・ファンキ)を基本としながら仕上がりはマイアミ流のバブルガム・ベースといった趣で、これにアトモスフェリックな浮遊感をたっぷりと混入させ、後半はパーカッションを強調。続く“Ghost Orchid”と“Metromover”はその余韻を受け継ぐかたちでネオペレオとUKガラージの接点を模索しながらゆらゆらと水の中を漂っていく。前者にはダンスホールのエラ・マイナスが起用され、カリブ海文化に対するレオンの強い執着を窺わせる(ニック・レオンはオークランド出身説もある?)。『熱帯の無秩序(A Tropical Entropy)』というタイトル通りヘンな効果音にまみれた“Millennium Freak”はアグレッシヴなチャンガ・トゥキ。中南米産とはかけ離れたシャープなプロダクションが臨場感を掻き立て、勢いを増したパーカッションはM.I.A.を彷彿させる。
“Hexxxus”、“Crush”とソリッドでクールな展開が続き、“R.I.P. Curren”で少しテンポ・ダウン。海中を疾走していくようなイメージに変わる。珍しく男性ヴォーカル(Lavurn)を起用した“Product of Attraction”は竜宮城を巡るイメージでしょうか。“Ocean Apart(海から離れて)”でも男性ヴォーカル(Casey MQ)が続き、ビートが後退してメランコリックなムードに沈んだバブルガム・ベースを展開。短くまとめた“Broward Boyy”を波打ち際の音で締めくくり、エンディングにはヴォーカルにエリカ・ドゥ・キャシエを起用した先行シングル“Bikini”を再録。全体の出発点となった曲なのか、この曲が最も無邪気なムードにあふれている。この曲だけはなぜかマスタリングがラシャド・ベッカー

 レオン自身は彼のサウンドを建築を意味するアルキテクトロニカ(Arquitectronica)と称している。マイアミの建築物を指す典型的な用語だけれども、おそらくクラブ・ミュージックを自在につなぎ合わせたデコンストラクティッド・クラブと同じ意味なのだろう(?)。『A Tropical Entropy』の元になったイメージはジョーン・ディディオンの異色ルポルタージュ『マイアミ ― 亡命ラテン・エリートのアメリカ』(87)で、ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件、レーガン・ドクトリン、イラン・コントラ事件などを通してキューバ革命でカストロに祖国を追われたキューバ人たちが亡命先となったマイアミでアメリカの外交政策にどのような影響を与えたかを考察した本だという。ドナルド・トランプの横にいつも立っているマルコ・ルビオ国務長官がまさにそうした出自を持つキューバ系で、祖国を憎むあまり、共産主義を憎み、イランや中国に対してかなり強硬な姿勢で臨む外交政策を現在進行形で続けているところである。『A Tropical Entropy』にはさらにドラッグ体験と睡眠不足によって引き起こされたオルタード・ステーツから得たインスピレーションも反映されているそうで、社会の崩壊にともなって人生が崩壊していく様を目撃したという個人的な体験が重ね合わされているのだという。さすがにそこまでは聴き取れなかったw。

マーク・スチュワートが永眠したのは2023年4月のことだった。そしてここに、彼の最後の言葉が綴られた遺作がリリースされた。

 昨年、思うところあってフランクフルト学派について、ほんの少し……ほんのひとかけらでありますが、でも勉強したことがあった。こと文化批評に関心がある人なら、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン、マックス・ホルクハイマー、ユルゲン・ハーバーマスといった、いかにも気難しそうなドイツ人の名前にどこかで出会っているだろう。20世紀初頭、正確には1923年にフランクフルト大学との提携関係で生まれたマルクス主義(およびフロイトの精神分析学)の研究機関を通して論じられた資本主義批判および先駆的な文化批評は、こんにちでも、とりわけ悲観的な社会論評でしばしば引用されている。より身近なところで言えば、いまから8年前に我らがジェイソン・ウィリアムソン(スリーフォード・モッズ)がこの学派の本を読んで、歌詞のなかに活かしたことはコアファンの間では知られている(*)。また、マーク・フィッシャーの「アシッド・キャピタリズム」ではマルクーゼが再訪されているが、それは心が病むような労働からの解放を期して書かれた、フィッシャー最後の論考のほとんど下地になっている。

 フランクフルト学派はドイツ革命後に始動した、言うなれば(具体的な党派性には依拠しない)「文化系マルクス主義」、その先駆けだ。のちに実践派マルクス主義(肝心ななことは変革というマルクスの言に従った実力行使派)からの批判を大々的に浴びながら、彼らの研究は止むことなく数年後にはドイツを支配するファシズムへと向けられる。当然のことながらユダヤ系ドイツ人たちにとって、自分たちの生存のため、アメリカへの亡命は避けられなかった[*ベンヤミンのみ欧州で自害]。
 マルクス主義のドイツ人たちが1940年代のアメリカで歓迎されたのは、批判の矛先が両者ともにナチスにあったからだが、興味深いことにフランクフルト学派は、ファシズムを否定した精神をもって、自分たちを歓迎したアメリカへも批判の眼差しを向けるのだった。のちにマルコムXが「私たちはだまされていたんだ」と憤慨したり、ザ・レジデンツが「サード・ライヒン・ロール」と皮肉ったり、パブリック・エナミーが「ハリウッドなんて燃えちまえ」とラップしたように、もちろんムーディーマンがアメリカを「地上最大の盗人」と呼ぶよりもずっと前に、この理論家たちはアメリカに対して、ドイツから逃げてきたけどなんだかここにもファシズムの匂いがするぞと、おおよそ同じようなことを(マルクスという言葉を隠しながらも)遠慮なく言っているのだ。
 これら怒れるドイツ人たちは、戦争が終わってドイツに帰国しても資本主義への批判を緩めず、そしてまた、自らも大いに批判されもした。とくに学派の中心人物で、もっとも辛辣な皮肉屋として知られるアドルノは、実践こそを重視する新左翼にとっては批判の的だった。この頑固じいさんがジャズにケチを付けている話は有名だが、プロテスト・ミュージックも格好の批判対象で(*2)、当然ビートルズに対してもいい顔などしなかった。書を捨て町に出ようだと? そんなものは考えることを諦めた人間の自己憐憫だ、アドルノならそう言っただろう。嫌われて当然というか、それでもぼくは、アドルノが「理論を爆弾に変えること」を「安易」だと批判し、急進派のあまりの一途さを警戒した点については理解できる。ハーバーマスにいたっては、60年代後半に「左翼ファシズム」(*3)という言葉を発しているが、気難しいドイツのオヤジ連中は革命的衝動が全体主義へと、わりと容易に変貌してしまうことを知っていたのである。
 ただし、それがすべてではない。ここ10年で、スリーフォード・モッズやフィッシャーが蘇らせたマルクーゼは60年代末、若い実践派たちを擁護したどころか、新左翼の思想的支柱となり、自らも運動に参加した。おそらくベンヤミンも生きていたら同じことをしただろう、というのが識者たちの大方の見解だ。
 いずれにせよ、みんな同じなわけではなかった。活動家たちからは「所詮あんたらは、アカデミアという安全圏から不毛な批判理論を見せびらかせているだけ」と糾弾されても、ひたすら理論の研磨を続けたアドルノと、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの拠点たるカリフォルニア大学に在籍し、その熱狂のさなかにいたマルクーゼは激しい論争をしている[*ちなみにその頃のマルクーゼのもっとも高名な教え子のひとりに、アンジェラ・デイヴィスがいる]。とにかく賛否両論、つねに矛盾をはらんでいたと言えるフランクフルト学派が、ではなぜいま関心を集めているのかと言えば、文化系マルクス主義者としての彼らが、誰よりも先んじて、文化産業や消費社会への容赦ない批判を繰り広げていたからにほかならない。アドルノたちが提示した資本主義がもたらす精神的荒廃は、現代ではスリーフォード・モッズがストリート言葉に翻訳しているのだ。

 少々乱暴に言う。労働者階級が自分の好きなブランドの服や車を買えるようになった時代においては、革命の主体となるはずだったプロレタリアートはすでに満足しているのだから、もはや世界を変える必要はない。そうなのか、いや、違う、マルクーゼが提起したのはこういうことだった──資本主義社会のなかで、車や洗濯機、しわになりにくいスラックスに囲まれて暮らしている者こそ、もっとも貧しい存在であり、そればかりか、もはや正気を失いかけてすらいると、そういう話だ。「貧困」とは生々しい経済のそれを指していると同時に、抑え込まれた可能性への意識も意味し、疎外され、非人間化された意識も含意している、と。なぜなら我々は、広告の正体をわかっていながらも買うことを止められない。我々は服を買っているのではなく、服が我々に買わせているのだ。消費社会が仕向ける支配構造。ぼくが「消費者ファシズム」という言葉を初めて聴いたのは高校生のときだった。ザ・ポップ・グループの7インチ・シングル「We are all Prostitutes」の歌詞で繰り返されていたのだ。

 ザ・ポップ・グループがUKポスト・パンクを代表するバンドであることは周知の通りである。彼らのサウンドが形式化されたパンクから著しく離れていたことは──要するにパンクにはできなかったことをやったという本来の意味でのポスト・パンクであったことは、きわめて重要だったとここで強調しておきたい。ザ・ポップ・グループには、形式化されたパンクが絶対にやらなかったリズムがあった──ファンクだ。
 また、ザ・ポップ・グループはマーク・フィッシャーが「ポピュラー・モダニズム」と呼んで賞揚したもの──20世紀初頭の芸術運動としてのモダニズムの要素(文学からシュルレアリスムまでの、その実験性、革新性、形式の刷新など)を大衆文化のなかに持ち込むこと──これはもう、パンク/ポスト・パンクに限らず、ザ・フーしかりデイヴィッド・ボウイしかりロキシーしかりイーノしかり、ほか多数しかり──、その象徴的なひとつでもあった。
 マーク・スチュワートは大きな人だった。じっさい背も高かったが、寛容力もあったと思う。いくつかの取材のなかで、ぼくはあまり面白くない質問、そのときの流行の音楽についての感想を訊いた。たとえば──フレンチ・エレクトロのような、ファッショナブルな流行はどう思うか? スチュワートは全面的に肯定してみせる。素晴らしい、俺は大好きだ。新しい世代の台頭にも肯定的だった。LCDサウンドシステムのような連中はどう思うか? 素晴らしい、俺は彼らのファンだ。一途な左翼思想を曲に込めたブリストル人の心は広かった。それは、経験のなかで拡張されたのかもしれない。ザ・ポップ・グループ時代には、共産主義者連盟や反アバルトヘイト運動、CNDなど、ガチな政治団体——すなわち実践派マルクス主義——との接触が多々あったわけだから、それはもういろいろ経験しているだろう。

 この夏にドロップされるマーク・スチュワートの遺作『The Fateful Symmetry』を聴いていると、彼のそんな大きさを思い出す。ここにも「ポピュラー・モダニズム」が生きている。カフェOTO[*実験/即興などハイブローな音楽のライヴで知られるロンドンのヴェニュー]系とトム・モウルトン[*70年代ディスコのDJ。リミックスの発明者]を分け隔てるべきではない主張するスチュワートにしたら、アルバムで援用されているクンビアやダブは、言うなれば敷居の低い大衆的な実験音楽だ。
 だが、そんなことよりもひっかかるのは、アルバムの題名である。これは、おそらくはウィリアム・ブレイクの有名な詩(The Tyger)の最後の一文からの引用だろう。だとしたら、スチュワートは本作が遺作になることをわかって作ったと言える。10代の彼は、ロートレアモンやフランス象徴主義の詩作品を好む文学青年だった。ブレイクも若き日に心酔した詩人のひとりで、彼のマフィア時代の12インチ・シングル「エルサレム(Jerusalem)」も極貧を生きた19世紀英国の詩人の言葉から取ったのではないだろうか。
 遺作にロマン主義文学といえばマリアンヌ・フェイスフルもそうだった。彼女の場合はキーツやバイロンの詩の朗読で、そしてスチュワートがブレイクときた。反資本主義から反植民地主義と、“政治的な”作品で知られるマーク・スチュワートの遺作はなんとも詩的で、いかにもロマン主義的なアプローチによって「魂の栄光」に向けられている。ピアノ演奏をバックに歌う“ This is the Rain”のような詩情あふれる曲が、これまでのスチュワートにあっただろうか。“Everybody’s Got to Learn Sometime”(エイドリアン・シャーウッドがミックス)は彼のダブへの愛情がたっぷり注がれたカヴァー曲だが、アルチュール・ランボー風の激しく幻想的な詩がこだまする“Stable Song”や“Twilight’s Child”、そしてより深く沈潜した“Crypto Religion”を聴いていると、スチュワートは自分の最期をわかっていて詩を書いたに違いない、そう思えてくる。

 ぼくは『The Fateful Symmetry』を聴きながら、いまあらためて彼の不在を悼んでいる。2011年に渋谷で観た、再結成したザ・ポップ・グループのライヴにぼくはそれほど興奮したわけではなかったけれど、パブで1パイントのビールを呑んでいたオヤジたちがそのままステージに上がってパンク・ファンクを演奏しているみたいで、自分が大好きな世界ではあった。彼らには──アンチエインジグなどクソ食らえとでも言わんばかりの──正直な格好良さがあったのだが、でも待てよ、ライヴを観ながらぼくは思った。考えてみれば、ザ・ポップ・グループの『Y』は連中が18歳のときの作品じゃないか。ああ、なんということだ! あの「We are all Prostitutes」 も、あの『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(我々はいったいいつまで大量殺人を黙認し続けるというのか?)』も、19歳の若者たちが作ったなんて、とても信じられない。サウンド面においても政治性においても、だ。
 “She is Beyond Good and Evil” がニーチェの『善悪の彼岸』[*このドイツ語の書物の英訳が “Beyond Good and Evil” ]で、“Thief of Fire” がギリシャ神話のプロメテウスの火を主題にしていることをぼくが知ったのは、それらを聴いてから15年以上もあとのことだ。「We are all Prostitutes」 も『For How Much Longer〜』もリアルタイムでは批判もあった(*4)。歌詞が左翼の説教じみているという話だったが、しかしこれらのメッセージは、悲しむべきことにいまでも十二分に有効なのである。後者のアルバムには、当時の彼の一途さがうかがえる、“There are no Spectators(傍観者などない、中立などありえない)”という重要曲のひとつがある。

 2023年4月のクワイエタスに載ったマーク・スチュワートの追悼記事には、彼がインポスター症候群に苦しんでいたと書いてある。最初はなんのことか理解できなかった。あんなに豪快に笑う彼が、自分のやっていることに自信を持てずに悩んでいたと、そういうことなのだろうか。泣き叫ぶようなあの声は、どうしても自分を肯定できない彼の内的な叫びだったのだろうか。思い当たる節もある。初来日時の、アダムスキーとのライヴ・パフォーマンスは、すごかったと言えばとんでもなくすごかったが、観客に指を突き刺すようなナルシスティックな振る舞いとは対極にあった。どこか自分の身の置き場のない、どこか居心地の悪そうな、不安定な大きな塊に見えたこともたしかだ。『The Fateful Symmetry』の“Blank Town”で反復される「虚無」とは、自分自身に向けている言葉なのかもしれない。
 しかしスチュワートは、自分の苦しみを最後まで外に見せなかった。周知のように、彼は前向きで闊達な人だったと思われていたし、音楽もまた身体性に根ざしていた。たとえば、アルバム冒頭の“Memory of You”[*ユースとの共同プロデュース、ホリー・クックがバッキング・ヴォーカル]はスチュワートのダンス・ミュージック愛の賜物だろう。高校生の頃からファンクがかかる地元のクラブに通って、80年代にはワイルド・バンチがニューヨークから輸入したヒップホップに刺激を受けた。踊れる音楽であることは、たとえどんなに政治的に過激であっても、実験とポップが一体となる彼の作品に不可欠な要素だった。ダンスは、「コミュニティ」や「仲間」という概念と違って人を内側と外側に選別しない。だから、1990年の“Hysteria”には遠く及ばないとしても、続く“Neon Girl”[*ユースとの共同プロデュース、元レインコーツのジーナ・バーチをフィーチャー]もそうだが、彼はクラブ・ミュージック的なものとの接点を失いたくなかったのだ、とぼくは想像する。
 とはいえ、『The Fateful Symmetry』には踊れない曲が多い。何度も聴いていると、むしろ最初の2曲のほうが全体では浮いているようにも感じる。ソロ・アルバム『The Politics of Envy』(2012)以降も、それからザ・ポップ・グループの再出発のアルバム『Citizen Zombie』(2015)以降も、70年代末〜1990年までの作品にあったような圧倒的な何かを感じることはぼくにはなかったけれど、彼はノスタルジア産業に吸い取られないよう未来に向けてのメッセージを言い続け、音響工作にも変わらぬ情熱を注いでいたことは、多くの共演を介して生まれた晩年の作品からもわかる。周囲からの注目がなくなっても手を緩めなかったが、マーク・フィッシャーの追悼会で弔辞を読んだ彼は、あるとき力尽きたということなのだろうか。
 いや、そうではない。ウィリアム・ブレイクの詩から引用したこのアルバム・タイトル(すさまじき対称性というような意味)を日本人が解すのは、19世紀英国のロマン主義文学を専攻していたとしても難しいと思われるが(*5)、アルバムをなんども聴いていると見えてくることがある。ザ・ポップ・グループのフロントマンとしてデビューして以来、ずっと「虎」であり続けてきたスチュワートとは 、たしかに対称的な側面がここでは晒されているのだ。こんな思いを抱きながら俺は闘ってきたんだよと、アルバムの向こうからは、そんな声が聞こえる。クローザーとなる“A Long Road”という曲は、リスナーへのお別れの挨拶のようだとぼくには思える。「長い道が続いている。君は俺の命を連れてどこにでも行けるだろう。俺は、自分のベストを尽くしてみるよ、大丈夫オッケーだ」
 これが彼の最後の言葉である。当方、ぜんぜん大丈夫オッケーではないが、ベストを尽くすしかない。2023年4月、ぼくたちは偉大なアーティストを失った。だが、失ってはならない魂はここに、いや、すべての作品に残されている。

(*1)https://www.theguardian.com/music/2017/mar/05/sleaford-mods-guide-to-modern-britain-lots-of-pain-english-tapas

(*2)アドルノの辛辣さは、いまも生きている。その例をひとつ言うなら、ビヨンセの『レモネード』を「よくできた資本主義の商品だこと」と両断したベル・フックスだ。

(*3)パンクもまた急進的左派からファシスト呼ばわりされている。コーネリアス・カーデュー[*英国にジョン・ケージを紹介し、イーノに影響を与えたひとり]が1977年に刊行した機関誌『コグズ・アンド・ホイールズ』の創刊号で「パンク・ロックはファシストである」という記事を掲載したことはその筋ではよく知られた話だ。いわく「若者の怒りの資本化で、それはガス抜きにしかならず、ザ・クラッシュは反動的」……。ロック・アゲインスト・レイシズムが立ち上がってから、カーデューたちはその言葉を撤回したが、しかし英国の急進派たちの一途さもパンクに対する疑いを失うことはなかった。ザ・ポップ・グループが「ナショナル・フロント」を歌詞のなかで名指しで批判しているにも関わらず、である。
ちなみに、ファシズムに陥りやすい人間のことをアドルノは次のように表現している。「伝統的価値基準の衰退に異様に取り憑かれ、変化への適応力を欠き、自分たちの『内集団』に属さない他者への憎悪に囚われ、退廃から伝統を『守る』ためと称して暴力的行動に出る」ような人物。

(*4)「We are all Prostitutes」を「左翼の説教」だと真っ先に批判したのは『Y』を絶賛したイアン・ペンマンである。マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズに影響を与えたポスト・パンク時代の『NME』の人気ライター。『For How Much Longer〜』は、当時の第三世界における欧米の植民地主義をかなり具体的に批判した内容なので、これまた賛否両論だった

(*5)鏡像関係を意味していていると思われるが、ブレイクの「虎」の訳に関しては、岩波文庫の『ブレイク詩集』でもそうとうご苦労されている。「汝の恐ろしい均斉」では、難しい漢字を使っているだけで意味がようわからんです。ちなみに「虎」とは、ヴァルター・ベンヤミンが革命家のメタファーとしても使っている。

 2025年1月、ロサンゼルス(以下、LA)を襲った山火事は現地に住む多くの音楽家たちの生活を奪い、コミュニティを離散させた。そんななか、LAの音楽シーンを支えてきたインターネット・ラジオdublabの日本ブランチであるdublab.jpは、支援と連帯を示すためのチャリティ・コンピレーションを制作。『A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-』と銘打たれた作品には、岡田拓郎、王睘 土竟(荒内佑 + 千葉広樹)、食品まつり a.k.a. FoodmanBUSHMIND、Daisuke Tanabe、Albino Sound & Daigos (D.A.N)、SUGAI KEN、優河、Ramza×hotaru、TAMTAM嶺川貴子、白石隆之など、主に日本の有志たちによる楽曲が収録されている。

 ここまでジャンルレスに多彩な顔ぶれが揃うコンピレーションも珍しいが、それこそがLAの音楽文化の豊かさを表しているとも言える。そして、あまりに豊かで横断的であるがゆえに、シーンを俯瞰的に観測することは容易ではなく、相関図を作ってみたところで線が入り組みすぎてしまうだろう。

 では、現地の事情に詳しい人たちに、彼らの視点でシーンを切り取って語ってもらおうというのが今回の鼎談企画だ。語り手は、コンピレーションにも参加している岡田拓郎、dublab.jpの発起人であり自身のレーベル〈rings〉から現行LAシーンの作品もリリースしている音楽評論家の原雅明、そしてコンピレーションのプロデューサーでありdublab.jpの現代表の玉井裕規。なぜ私たちはLAの音楽に惹かれるのか、その答えが朧げに見えてきた。

LA的感性の根底にある「リスニング」志向

レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。(岡田)

玉井:今年1月にLAの山火事が起こった当初、報道からは断片的な情報しか入ってこなかったので、dublab.jpではLA現地のdublabやその周辺のコミュニティから状況を教えてもらって、よりリアルな実態を把握するための記事や支援団体に繋げるための記事を出したりしたんです。
それから、現地のメンバーと定期的に連絡をとるなかで、現地でも報道が減って風化していたり、保険金や支援金を受けるのにも複雑で長期的な対応を迫られるだとか、家を失った人たちのその後の生活とか、それこそ壊滅状態になってしまった音楽シーンのことなど、たくさん課題をたくさん聞いていて。
大金を集められるわけではないけれど、我々から現地の音楽コミュニティに対して、音楽によって支援できることはないかと考えてチャリティのコンピレーションを作ろうということではじまったのが今回の「A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-」です。準備期間も要しましたが、結果として発生から5ヶ月が経ってからのリリースになったことは、ニュース性よりも長期的な支援を訴える上では良かったんじゃないかと思っています。

 参加アーティストは、dublabと関係があったり、LAの音楽カルチャーに影響を受けている方々に声をかけていった結果、本当に幅広い顔ぶれになりました。昨年LAでレコーディングされてらっしゃった岡田拓郎さんもその参加アーティストのひとりです。


玉井裕規(dublab.jp)

岡田:僕がLAに行ったのは2023年の5月が初めてです。Temporal Drift の北沢洋祐さんとは繋がっていて、元々2020年にちょろっと行ってみようと予定していましたがパンデミックになってしまい、ちょうど渡航のためのPCR検査などが必要なくなったのがそのタイミングでした。アメリカに行くのもそのときが初めてで、パンデミックが落ち着いてきて、生きてる間にいろんなところ行ってみよう! みたいな気持ちで向かったので、特にレコーディングのために行ったわけでもありませんでした。
 現地に着いたら、たまたまいろんなミュージシャンに会えたり、集まれば演奏したり録音しはじめたりみたいな感じで、もう音楽の生活への根づき方にびっくりして。
 Yohei(鹿野洋平)さんのことも知っていたので連絡して自宅にお邪魔したら、ちょうどPhi-Psonicsのセスさん(Seth Ford-Young)が「近くにいるから遊びに行くよ」ってことでコントラバスを持って来てくれて。
 Yoheiさんの家は庭がスタジオなんですよ。そこでせっかくだからセッションして録音しようよって、旅の写真を撮るような感じで半日ジャムって遊んでもらいました。そのときの録音のひとつが今年リリースした「The Near End, The Dark Night, The County Line」に収録されてます。


岡田拓郎

玉井:LAでは庭にスタジオを構えることは珍しくないですよね。Yoheiさんは素晴らしい作曲家でありプロデューサー、かと思えばローディーとしてブレイク・ミルズや斉藤和義、ロバート・プラントのツアーに参加していたりと、すごくフットワーク軽く活動している人で僕も正体がつかめていないのですが(笑)、元々はレコードの再発レーベルをやりたくてアメリカに渡った人なんですよね。

岡田:僕が個人的に好きなLAのシーンに対して抱いているイメージって、レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。そういう場所って世界を見てもあまりないと思うんです。すごく実験的なことをやったとしても、最終的にはリスニング・ミュージックとして楽しめる録音物に落とし込むというか。
 エクスペリメンタルと呼ばれるような音楽も僕は好きですが、そういった音楽は例えばインディ・ロックやポップス好きにはときに厳し過ぎる側面があると言いますか。LAではそういう音楽でも、あくまでリスニング作品として楽しめるものが多いように感じます。LAのいまのシーンで活躍している人たちが持っているおおらかなムードが、そういう作品づくりを可能にするんじゃないかと思います。ああいう空気感があると、出てくる音楽は当然変わってくるだろうなと。

原:dublab.jpで放送をスタートさせた2013年当初、LAのメンバーからは「どんな放送でも必ずアーカイヴしろ」としつこく言われたんですよ。まだ慣れないなかで内容がグダグダな番組もあって、こんなの残したくないよって言ったんですけど(笑)。当時はすべてのデータをLAのサーバーに保存する決まりになっていたので、提出しないわけにはいかなくて。渋々やっていたけれど、続けていくうちにアーカイヴすることの価値の大きさがわかってきました。LAには、必ずレコーディングして残す、という習慣のようなものが根付いているように感じます。例えば、カルロス・ニーニョは即興的なセッションをやったとして、その素材を使ってあれこれ編集したものをプライベートプレスでもいいから必ずレコードとして残すんですよ。そういう、リスニングの楽しみがわかっているというか、リスナー側のことをしっかり理解している人が多いなと思いますね。
 ミュージシャンって、どうしても演奏することがゴールになってしまいがちな節があると思うんですが、LAでは演奏とレコーディングが対になっている。その大切さをよくわかっているから、優れたレコーディング・エンジニアが育つし、質の高いスタジオが維持されてるんではないでしょうか。


原雅明

コロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。(原)

そういう文化の源流になっているものは何なんでしょうか?

玉井:まずLAにはジャズやポップスなどのシーンと平行して、映画産業に紐づいた音楽産業がありますよね。

岡田:映画の(劇伴などの)仕事があることで、ミュージシャンたちがクラブ回りをする以外の食い扶持を得ることができたというのはLAらしい環境ですよね。

玉井:譜面が読めるミュージシャンが圧倒的に多いエリアとよく言われてたそうですからね。

原:仕事があるからLAにいる、ということは大いにあると思います。いまだったら、例えばNetflixから仕事をもらえるとか。コマーシャルなものとインディペンデントなもの、両方があって往来できるから、ネイト・マーセローやブレイク・ミルズみたいな人たちが大きい仕事もしながら実験的な作品も自由に作れているわけですよね。
日本でもそういう状況がもっとあればいいなと思うんですけどね。そうすれば、それこそ岡田さんみたいなアーティストがもっと活動しやすくなる。

岡田:そうですね。シカゴ時代のジム(・オルーク)さんのように、自分の作品を作りつつ、プロデュース、エンジニア業を行ったり来たりできたらなあとこの10年間やってきたところはあります。僕みたいなタイプのミュージシャンはLAにいけばいくらでもいると思いますが、日本の土壌だとまあまあ大変ですね(笑)。
 LAはコミュニティという単位で動くという意識も強いと思うので、コマーシャルなところにもクリエイティヴなまま関わることができている気がしますね。例えばプレイヤーはその現場に合わせてスタイルをいろいろ変えて合わせていくというよりは、そのプレイヤーのカラーが欲しいからその現場に呼ばれ、集まると言いますか。ジェイ・ベルローズとかメジャーな人とやっても、小さなクラブでプレイしても全然スタイルは変わらない。これって当たり前のようでいて、いざ自分の国のプロダクションの仕組みを省みるとなかなか難しいことだったりもする。これはLAに限ったことではありませんが。

原:なぜLAに音楽家が集まるのかということについては、気候が温暖で居心地がいいこともやっぱり大きいと思いますね。古くはストラヴィンスキーやマイルス・デイヴィスもキャリアの晩年はLAに移住していたりするわけですけど。ニューヨークのような場所は緊張感があってそれはそれで良いけれど、それが辛くなってきた人はLAの穏やかな環境に移っていくという動きが、近年のアメリカのジャズシーンでも現れていますよね。

岡田:LAとニューヨークで、やっぱりミュージシャンのカラーの違いは明らかにありますよね。

原:ありますね。ニューヨークはヒエラルキーがあって、ランク付けがつねにされているようなところがあります。それが収入にも直結していくような緊張感がある。それがやりがいと感じられる人もいるけれど、疲弊する人も当然いるわけです。それがコロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。スピリチュアルな方面に目覚めるミュージシャンも多かったですし。

玉井:そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。火災発生直後から、多くのアーティストたちは「GoFundMe」というクラウドファンディングのプラットフォームを使って各々が支援金を募る動きが活発だったんですけれど、いま、そういう形で資金を得ていた人々が政府からの補助金を受給しにくいという事態になっていたり、申請作業自体が非常に煩雑でそのやりとりだけで相当の時間を要するということも言われていたりするんですよ。
 そうなってくると、人材がどんどんLAから出ていってしまうんですよね。例えば、日本でもファンが多いファビアーノ・ド・ナシメントなども。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。

岡田:僕が面識のあるLAの人たちは、みんな直接火災の被害は受けていなくて家屋も無事なんですけど、灰の被害がひどすぎて結局土地を離れてしまっている人が結構いますね。Tenporal Driftのパトリック(Patrick McCarthy)さんは火災の直後、しばらくは家を離れなくてはならなかったと言っていました。

原:マッドリブの家も焼けてしまって、機材やレコード・コレクションも失われたらしいですが、ちょっと信じられない損害ですよね。

岡田:ジェフ・パーカーとよく一緒にやってるポール(Paul Bryan)も、同じくスタジオの機材が燃えてしまったと聞きました。

原:この火災が今後どういうかたちで、どれくらいの損失を出すのか、まだ全く予想がつかない。

玉井:にもかかわらず、現地でも山火事に関する報道はほとんどされなくなってしまっているらしく、支援の動きが盛り下がってしまうことが心配です。

改めて振り返る、2000年代〜2010年代のLAシーン

そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。(玉井)

原さんがLAのシーンを意識したり、関わりはじめた当初のこともお聞きしたいです。

原:LAのdublabが立ち上がるのが1999年ですが、それよりも前に、dublab創設者のフロスティ(Mark “Frosty” McNeill)とは知り合っていたんです。彼はその頃から日本のアンダーグラウンドな音楽をやたら掘っていて。そういう作品のリリースに僕が携わっていたからか、直接コンタクトしてきたんですね。Rei Harakamiを聴かせたらのめりこむようにファンになってた。dublabがスタートしてからは、すぐに竹村延和を出演させたり。

玉井:それ、99年の放送ですよね。当時聴いていました。

原:その後、コーネリアスが初めてアメリカ・ツアーをしたときにもdublabに出てましたね。
LAに初めて行ったのは2008年。当時雑誌だったTOKIONからの依頼で、世界の各都市の音楽シーンを巡る企画の一環でした。僕はLAを希望したら行かせてもらえた。良い時代ですよね(笑)。ちょうど「LOW END THEORY」がスタートした年で、J・ディラが亡くなってから2年経っていたタイミングですね。そのときに行った「LOW END THEORY」には〈Warp〉からリリースする前のフライング・ロータスが出ていました。ほかにも、ラス・Gが働いていた〈POO-BAH-RECORDS〉やdublabのスタジオに行ったり。
 そこから 2010年になると、いろいろなことが爆発的に生まれていくわけです。フライング・ロータスの『Cosmogramma』が出て、それまでも盛り上がっていたビート・ミュージック・シーンから、アリス・コルトレーンのようなスピリチュアル・ジャズの源流につながっていくものも現れて。一方で、カルロス・ニーニョはジェシー・ピーターソンと『Turn On The Sunlight』を出して、ビート・シーンとは離れた場所でアンビエントやフォークっぽいアプローチに行く。
 『Turn On The Sunlight」は僕がレコードも出したんですが、カルロスいわく「ジョン・フェイヒーとブライアン・イーノが出会ったらこんな音楽になる」って言っていて、当時はそれがよくわからなかったというか「これはどこに向かっている音楽なんだろう?」と思ったりしました(笑)。でも、そこからほどなくして、ニューエイジ・リヴァイヴァルと言われる音楽に注目が集まり、『I Am The Center: Private Issue New Age Music In America, 1950-1990』のようなコンピレーションが〈Light In The Attic〉から出るようになった。
 そして、そういう動きと並行して、カマシ・ワシントンとかオースティン・ペラルタとか、ジャズ・ミュージシャンたちも当時はビート・ミュージックのレーベルだった〈Brainfeeder〉からジャズのアルバム(2015年にカマシ・ワシントン『The Epic』がリリース)を出すということも起きはじめる。
 さっき岡田さんが言っていたような、プレイヤー的な音楽もリスナー的な音楽もすべてが混ざり合っていくような土壌は、こういう動きのなかで完成されていったように見えるんですよね。

アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。(原)

そういうクロスオーヴァーな動きを牽引するようなミュージシャンたちは、どんな現場で育成されているのでしょうか?

原:例えば、LAジャズのメッカといわれるレイマート・パークにあるThe World Stageという老舗のジャズ・クラブはワークショップもおこなうコミュニティ・スペースでもあって、カマシやテラス・マーティンなんかも演奏していた。カマシたちが台頭したことで、The World Stageが綿々と続けてきたことにスポットライトが当たるようになりました。その後も、新しいプレイヤーを輩出し続けていて、いまのLAシーンで活躍している人たちにもここで地道に演奏してきたミュージシャンがいます。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAもThe World Stageのあるサウス・セントラルという地域で生まれていて、そうしたローカルなコミュニティからジャメル・ディーンのような新しい才能が出てきていますよね。

原:The World Stageはコミュニティをサポートして、教育の場になっているイメージですね。UKのトータル・リフレッシュメント・センターにも近い感じかな。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAのメカラ・セッションというドラマーのドキュメンタリー作品をdublabのフロスティとアレ(Alejandro Cohen)がプロデューサーとして制作しているんですが、ジャズ・スピリットがどうやって継承されていくか、みたいなことが語られていて。その系譜のなかにカマシやジャメル・ディーンたちがいるんだということがわかります。

https://www.pbssocal.org/shows/artbound/episodes/the-new-west-coast-sound-an-l-a-jazz-legacy
The New West Coast Sound: An L.A. Jazz Legacy

音楽が静かになっていく、その心とは?

昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロス・ニーニョが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。(岡田)

原さんから語られた2010年代の動きがその後向かった先のひとつが、昨今のジャズとアンビエントが接近したようなサウンドということにもなるわけですね。

原:「アンビエント・ジャズ」という呼称が適切なのかはわからないのですが、アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。象徴的だったのはやはりアンドレ3000がカルロス・ニーニョたちと作った『New Blue Sun』です。ヒップホップ・アーティストがスピリチュアル・ジャズやニューエイジにアプローチしたような作品で、もうこれが決定打になった感じがします。

 こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。80年代にはLA郊外のさらに広大な土地に移って、商業的なリリースに背を向けてヴェーダ聖典を学ぶ人びとに向けて音楽活動をおこなっていた。
 フライング・ロータスや、アンドレ3000のバンドでキーボードを弾いているスーリヤ・ボトファシーナなんかは、アシュラムに出入りしていた人たちなんですよ。スーリヤはアリスの愛弟子で、アシュラムで育ったあとに名門のニュースクール大学に行ってジャズを学んでもいる。彼のようなミュージシャンも登場していて、カルロス・ニーニョと当然のようにつながっているわけです。
 『Cosmogramma』もそのきっかけのひとつだけど、アリス・コルトレーンのような音楽が再評価されて、一般的なリスナーにも聴かれるようになったことというのが、大きな流れのなかで影響を及ぼしているんじゃないかと思いますね。

岡田:クラブ・ジャズの文脈でスピリチュアル・ジャズの再評価がされた時代がありましたけれど、今日の視点は少し異なりますよね。それこそアリスの音楽はそこからも漏れてしまっていたと思いますし。

原:カルロスがビルド・アン・アーク(Build An Ark)をはじめたときはそういうクラブ・ジャズの流れで評価されていたわけだけど、それ以降のカルロスはビートを外す方向に行くわけです。おそらくですが、カルロス本人の考えとして、ビートを外さないと次にいけないと思ったんじゃないかと思うんですよね。ビルド・アン・アークはミュージシャンの集まりで、カルロスはほとんど演奏しないけどバンド・リーダー的な影響力があって、例えるならキップ・ハンラハンみたいな存在でもありました。でも、そのままプロデューサーに進むのではなく、プレイヤーとリスナーの中間みたいな居場所を見つけようと模索していたんではと思います。だから、ニューエイジやアンビエント的なものに振り切れば、いろいろなことができると思ったんじゃないかと。

玉井:カルロスが『ユリイカ』のインタヴューで語っていたことですが、「人は成熟するにつれてビート・ミュージックから離れていくものなんだ」みたいな、なかなか過激なことを言っていましたね(笑)。フィジカルに高揚するものではなくて、より自由な音楽の形を自己の内側に求めていたということなんでしょうね。

岡田:アンビエント・ジャズのようなサウンドは、まさにリスニング視点から生まれたものとも言えますよね。例えばマイルス・デイヴィスの黄金クインテットなんかは流動的に伸縮する身体性が注目される印象です。ですが、スタジオ作品においては抑制されていると言いますか、非常にプロデュース的な作品であったりもします。言わずもがな黄金クインテットのライヴは極上ですが、ここにおけるある種のプレイヤーズ・ミュージック的なセッションの部分がその後のプレイヤーや評論家に過度に注目され語られ引き継がれていった部分も少なくないように感じています。
 カルロス・ニーニョがビートを外したっていうのは、こうしたジャズにおけるこういった意味での火花が散るようなプレイヤーズ・ミュージック的なセッションへの再考と実践でもあるように感じています。そしてこれは必ずしも身体性との訣別というわけではありません。ビートこそありませんが、近年の彼の音楽の持つ身体性や自然環境のような流動性は作品を追うごとに増しています。熱を必ずしも外側に放射するのでなく、内的な熱にフォーカスすることもできる。前者が熱を帯びた会話や議論だとするなら、後者は会話もするけど、そんな大きな声も出さなくても会話ができるしそのなかにはビーチベッドでチルしてる人がいても良い感じと言いますか(笑)
 昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロスが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。大きい声を出さなくても会話ができる環境といいますか。

玉井:そういうアプローチはウェストコースト・ジャズでは昔からあるように思っていて、例えばジミー・ジュフリーがやっていたような絶妙な均衡で成り立っているアンサンブルのサウンドって、静謐で、ともすれば眠たくなるような演奏だけれど、それこそ現代のアンビエント・ジャズ的な耳で聴くとすごく良い。そういう音がジェフ・パーカーとか、いまのLAのジャズ・ミュージシャンに継承されているんじゃないかという気もしますね。

岡田:思えば、ジェフ・パーカーがETAでやっていたような(ETA IVtetの)セッションって、チコ・ハミルトンとかガボール・ザボのような、ドローンが基調にあってハーモニー的な起伏はできるだけ何も起こらない、当時のジャズ好きからしたら退屈とされてしまった音楽を思い起こさせますね。そしてこのミニマルな感覚は現代のLAジャズに通底するトーンを想起させます。

原:ジェフ・パーカーのソロ・ギター作品について「フリー・インプロヴィゼーション」ではなくて「フリー・コンポジション」とプレスリリースで説明されていた。即興演奏ではなくて、作曲しながら即興演奏しているんだと。それは言い得て妙ですよね。

岡田:これは本当に面白いですよね。カルロスがビートを外したことを踏まえて、その上で再びビートを取り入れ、複数人でお互いの演奏に耳を傾けながら即興的に組み立てていく。一見静かだけど、本当にスリリングで刺激的なサウンドだと思います。

ベーシックな文脈の上に、新たな行き先を提示する

僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で。(玉井)

みなさんがいま追っているLAのアーティストやコミュニティについてもお聞きしたいです。

玉井:僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で、ジョシュア・エイブラムスの新譜とかもかけていて、ジョシュのルーツにシカゴ音響派と呼ばれたような時代の音楽もやはりあるんだろうか、とか。

https://www.dublab.com/archive/frosty-w-josh-johnson-celsius-drop-10-10-24

岡田:トータスをはじめシカゴの音響的な音楽を聴いていたジャズマンがミニマルなジャズをやったら絶対おもしろいじゃん、とかそういうことを考えている人が当たり前にいる世界なんですよね。ゴリゴリにジャズができるけど、タウン・アンド・カントリーも吉村弘も好きみたいな人がたくさんいる。僕もそういう話だけをしていたい……(笑)。

玉井:(ジョシュの選曲のなかで)あとはダニエル・ロテムとかもかけていて。

岡田:多重録音で作ってるひとですよね。すごく良かった!

原:ダニエル・ロテムの作品を出している〈Colorfield Records〉というLAのレーベルはすごく良いですよね。アンビエント・ジャズっぽいものも出しているレーベルなんですが、例えばマーク・ジュリアナやラリー・ゴールディングスの作品も普段の作風とは異なる音響感になっていたりする。レーベルのプロデューサーがピート・ミンという人なんですが、彼は必ずアーティストとマンツーマンでスタジオに入って一緒に作品を作り上げるというスタイルらしくて。

岡田:理想的ですよね。優れたジャズ・プレイヤーにこんな演奏をしてほしい、っていうコミュニケーションをしながら作品を作っていくというのは。ジャズの人たちはみんな演奏力が高いから、言ったことをなんでも体現してくれる。

原:プロデューサーとして正しいことですよね。とりあえず一緒にスタジオ入ろう、っていうのは。

岡田:一対一の〈ECM〉みたいな。

玉井:マンフレート・アイヒャーとマンツーマンは怖いですね(笑)。

最後に、岡田さんが注目しているアーティストは誰でしょうか。

岡田:ディラン・デイというギタリストですね! 彼は本当に面白いギタリストです。日本にはサム・ウィルクスのライヴで来ていましたけど、やばい音を出す人だなと思ってステージの足元を見に行ったら、チューナーしか置いていなかった(笑)。いわゆるデレク・トラックス的な上手さもある人なんですが、マッチョな演奏ではなく、すごく抑制が効いていて。スライド(・ギター)のプレイも時にサイン波の電子音のように聴こえたり。

 プリミティヴなアメリカーナがルーツなんだと思うんですけど、サム・ウィルクスみたいな未来的な志向のあるサウンドにエフェクターなしで入り込めちゃうというのは、ちょっとショックですらありますね。Phi-Psonicsの次の作品にも参加しているらしく、自分のかたちを変えないでどんな音楽にでも入っていけるというのは、いまの時代に珍しいスタイルだと思います。
 ディラン・デイしかり、SMLなどに参加しているグレゴリー・ユールマンとか、ジャクソン・ブラウンの来日公演で観たメイソン・ストゥープスとか、すごく面白いギタリストがLAからたくさん出てきている。トラップが全盛だった2010年代というのは、多くのギタリストはギターの役割について向き合わなくてはいけない時代で、自分もそういうことを考えていた。いま一度、ギターという楽器を楽曲のなかでどう位置づけるか、どうやって新しいサウンドを見つけるかという模索を、彼らもこの10年してきたんじゃないかという気がします。それを経て2020年代に入って新しい可能性を提示しているんじゃないかと。

彼らに共通している特徴を見出すことはできますか?

岡田:いまはエフェクターでできることが拡張しているなかで、テクノロジーを使ってどんな音を出すかを模索するうちに、どんな変わった音を出すかというペダリストに陥ってしまいがちな時代だと思います。ときに鳥の鳴き真似合戦になってしまっていないか、とか(笑)。彼らはユニークな音も扱うけど、極めてギターをギター的に弾くことで勝負できる人たち。ブルース、ジャズ、カントリーというベーシックなアメリカの音楽史の流れのなかでのエレキ・ギターが、ギターについて本当によく知っていますし、現代の音楽に対してこの古典的な楽器でどうアプローチすれば、どこに向かっていけば面白いのか、について本当によく考えていると思います。そういう文脈がないと、音楽自体がどこへ向かっていけばいいかわからなくなってしまうようにも思う。文脈がないと、結局ペダリストになってしまうとも言えるし。だから彼らのことは、120%支持したいですね。

Susumu Yokota - ele-king

 横田進の7枚組のボックス・セットが8月1日にロンドンの〈Lo Recordings〉から発売される。これは、横田の没後10年を節目とした同レーベルの企画で、1998年に始動した横田のレーベル〈Skintone〉から2012年までにリリースされた14作品がCD・アナログ両フォーマットにて復刻される。その第一弾として、今回は以下の人気作がセットに入っている。
『Magic Thread』(1998) 『Image 1983-1998』(1998) 『Sakura』(1999) 『Grinning Cat』(2001) 『Will』(2001) 『The Boy and the Tree』(2002) 『Laputa』(2003)
 
 全作品はリマスタリングされ、アナログ盤ではカラー・ヴァイナル(全13枚の12インチの盤)仕様、各アルバムのカヴァーアートは新しくデザインされ、彼の詳しいバイオグラフィーが綴られたブックレットも封入されている。CDが1万5千円弱、アナログ盤は5万強と高価な商品だが、ファンには嬉しい企画だ。限定発売なので、早めに予約しよう。

Susumu Yokota
Skintone Edition Volume 1

Ellen Arkbro - ele-king

 スウェーデンの作曲家/サウンド・アーティスト、エレン・アークブロは、カリ・マローンサラ・ダヴァチと並んで、近年のドローン・ミュージックの中でもひときわ存在感を放つ人物だ。そんな彼女がリリースした新作『Nightclouds』は、これまでのキャリアを通じて最も完成度の高い一作であり、その質の高さに驚かされると同時に深い納得を覚える作品となっていた。鍵となるのは、2021年のヴォーカル・アルバム『I get along without you very well』を経た経験だ。その作品を通じて彼女が獲得した「音楽」と「音響」の統合感が、本作『Nightclouds』で見事に昇華されている。

 『Nightclouds』のマスタリングを手がけたのは、アンビエント界の重鎮にして優れたエンジニアでもあるシュテファン・マシュー。リリース元は、ザ・シャドウ・リングのボックス・セット、フローリアン・ヘッカー、7038634357、キャサリン・クリスター・ヘニックスなどのアルバムをリリースし、いまや現代エクスペリメンタル・ミュージックの最重要レーベルのひとつに数えられる〈Blank Forms Editions〉である。同レーベルからは、アークブロが参加するユニット Lippard Arkbro Lindwall の新作『How do I know if my cat likes me?』も同時にリリース。こちらはモダンな構造と音響でミニマリズムを展開する意欲作となっている。

 アークブロは2017年の『For Organ and Brass』以降、パイプオルガンや管楽器など伝統的な楽器を用いたドローン作品を継続的に発表し、「ハードコアなドローン」とも呼ぶべき音楽性を築いてきた。感傷を排した硬質な響きは、同時代のマローンやダヴァチと比較しても、明確な個性を持っていた。それは、ストックホルム王立音楽大学で電子音楽を学び、学位を取得した彼女の音楽的素養に裏打ちされた成果でもある。楽器に対する深い理解と、音の物理的特性に対する精緻な感覚が、彼女の作品には常に息づいている。
 その一方で、アークブロはもともとジャズ・ヴォーカリストとしての訓練も積んでおり、ヨハン・グラデンとの共作による『I get along without you very well』では、そのヴォーカリストとしての側面が色濃く現れていた。従来のドローン作品とは異なる、歌と感情を繊細に結びつけた意欲的な試みだった。そこでは、和声の余白や、残響の隙間に「うたごえ」が揺らめくように立ち上がり、彼女の新たな可能性が垣間見えた。
 こうした異なるベクトルを持つ作品群は、決して相反するものではない。むしろ、音楽という時間芸術においては、ミニマリズムもドローンも、そして歌も、すべてが多層的な時間のレイヤーとして重なり合っている。『Nightclouds』は、そうしたアークブロの内的多様性が統合された結果として誕生したアルバムだ。そこに聴こえる響きは、これまでにない豊かな音響の発見である。その意味では2019年にリリースされたカリ・マローン『The Sacrificial Code』と双璧をなすアルバムといえよう。

 『Nightclouds』に収録されているのは、2023年から2024年にかけてヨーロッパ各地の歴史的教会や演奏空間で録音された、パイプオルガンによる5曲の即興演奏だ。即興とはいえ、構築的でコンポジション的な側面が強く、「リアルタイムで作曲された演奏」と言って差し支えない。空間そのものを含んだ演奏は、あたかも建築と対話するかのように響き、その空間の記憶をも刻印する。アークブロの演奏には、感傷を排した冷静さが通底しているが、その音の向こうには、あたかも「うたごえ」が立ち上がってくるような錯覚すら覚える。もしかすると彼女は、演奏中に頭の中で歌を響かせていたのではないか。
 1曲目 “Nightclouds” は、霧の中から立ち上がるようなオルガンの響きで幕を開ける。ドローン的な持続音かと思いきや、頻繁にコードチェンジが起こり、響きは抽象と具象の境界を往復する。無調の響きのようなクールさを持ちつつも、微かな調性感が保たれ、独特の和声が立ち上がってくる。耳を澄ませていると、遠くから誰かの「声」が聴こえてくるような錯覚に襲われる。どこにも声なんて鳴っていないのに。そう、ここには、彼女が長年磨いてきた即興と構成の絶妙なバランスが存在しているのだ。
 2曲目 “Still Life” では、“Nightclouds” と同じくパイプオルガンが用いられているが、やや高音から始まり、コード・チェンジは抑制されている。和声というより音色の変化に比重が置かれ、よりドローン的な構成となっている。倍音が空間を漂うことで、聴覚だけでなく身体感覚にも訴えるような揺らぎが生まれている。ハードコアなドローン作品に比べて音像は柔らかく、筆者にはここでもやはり幻の「うた/こえ」が聴こえてきた。
 3曲目 “Chordalities” は低めのトーンで始まり、控えめなコード進行がドローン的な質感を強調する。中盤で突如、高音が鋭く鳴り響く展開は意表を突き、終盤では微細な音から低音への移行が何度も繰り返される。アルバム中でも最も無機的な印象を与える楽曲であり、その硬質さはアークブロ初期の作風に近い。
 4曲目 “Nightclouds (variation)” は、その名の通り1曲目の変奏曲だが、“Chordalities” の再解釈にも聴こえる。1分38秒という短さながら、次の5曲目への橋渡しとしての機能を果たしている。ある種の「呼吸」として機能しており、アルバムの時間構造において重要な意味を担っている。
 5曲目 “Morningclouds” は、アルバムの掉尾を飾る18分58秒の長尺曲。“Nightclouds” から “Morningclouds” へ、夜から朝への移ろいを暗示し、作品全体の円環構造を締めくくる。持続と変化、即興と構築、音楽と音響の「あわい」。その彼岸に浮かぶ「うた/こえ」の幻視。本作の音楽的・哲学的な結実点がここにある。“Morningclouds” のタイトルが示唆するように、柔らかく微かな光を含んだ明るさが、音の全体に差し込む。

 本作の収録時間は約36分。決して長尺ではないが、時間の線的な感覚に囚われる必要はない。夜から朝へ、そしてまた夜へと循環する大きな時間軸がこのアルバムには刻まれている。繰り返し耳を傾けることで、その響きは少しずつ変容していくだろう。オルガンによる独自のコード感は極めて個性的であり、新たなミニマル・ミュージックの理想形を提示する作品と言える。2025年のエクスペリメンタル・ミュージックにおいては、本作『Nightclouds』は、エセル・ケイン『Perverts』、ルーシー・レイルトン『Blue Veil』と並び、確実に2025年を代表する重要作のひとつとなるだろう。

Pulp - ele-king

 1995年という年は、いまとなっては当時の1965年と同じくらい遠い過去になった。1995年、グラストンベリー・フェスティヴァルのメインステージに、ストーン・ローゼズの代役として突如ヘッドライナーとして登場したパルプにとって、それはバンドの飛躍を意味したものだったが、同時に、イギリスのポップ・カルチャーにおける決定的な出来事でもあった。当時リリースされたばかりのシングル「Common People」は、その瞬間にして90年代を象徴するポップ・ソングとしての地位を確立したのだった。
 あのときの勝利は、周縁に追いやられてきた人びと、置き去りにされてきた人びと──インディ・キッズ、労働者階級、学校でいじめられ、スーパーマーケットの駐車場で暴力を受けていたような“変わり者”たちにとっての正当性の回復のようにも感じられた。
 あれから30年──2025年に(あまりうまく隠し通せなかった)シークレット・セットとして同じステージに戻ってきた彼らは、明らかに年齢を重ね、白髪も混じった風貌のバンドとなっていた。もっとも、ジャーヴィス・コッカーはもともと“老けた若者”のような佇まいで、彼の身体がようやく年齢に追いついただけとも言える。その意味では、彼の佇まいはあまり変わっておらず、2025年のパルプのライヴは、驚異と美しさに満ちたものだった。90年代の楽曲がひとつずつ演奏されていくにつれ、時間が逆流していくような錯覚を覚える。ジャーヴィスの表情や身振りが、いつしか過去の写真のなかの彼自身と重なっていき、ひとつひとつの曲が、ふたたび若さを帯びながら息を吹き返していくのだ。

 パルプの新作アルバム『More』は、こうした熟年期の彼らが生み出した作品である。そこには人生の静かな失望や諦念が、擦り切れた袖口のように滲んでいる。だがこのアルバムは同時に、過去の断片や未完の思考と緩やかにつながりながら、それらを現在へと開かれた「連続体」の一部として再構築している。過去と対話を重ねることで、それをいまなお生き続ける何かとして復活させている。

 オープニング曲 “Spike Island” は、1990年にザ・ストーン・ローゼズが敢行した伝説的な野外コンサートを参照している。この公演は、音響の不備や場当たり的な運営が問題視された一方で、インディ・カルチャーが時代精神を掌握した象徴的瞬間であり、パルプが1995年にグラストンベリーのメインステージに立つまでの流れを形成する上でも、重要な踏み石となった出来事だ。 “Slow Jam” に登場する「Cos I’m the resurrection man(だってぼくは復活の男だから)」という一節もまた、ザ・ストーン・ローゼズの代表曲 “I Am the Resurrection ” を想起させつつ、彼らが生み出した時代の空気がパルプの台頭を後押ししたという文脈をほのめかしている。
 アルバムにはその他にも、ポップ・カルチャーへの言及が点在している。 “Tina ” のなかの「Your lipstick on my coffee cup(コーヒーカップについた君の口紅)」という台詞は、90年代UKポップスの寵児テイク・ザットへのウィンクとして響く。そしてラスト曲 “A Sunset” では「I’d like to teach the world to sing(世界中に歌を教えたい)」というフレーズが繰り返される。これは、1971年に放映されたコカ・コーラのCM──海辺の夕焼けを背景に、若者たちが合唱するあの映像──に記憶の起源をもつかもしれないが、同時にオアシスの初期代表曲──ロジャー・クックとロジャー・グリーナウェイによる原曲 “I’d Like to Teach the World to Sing ” のメロディを流用していたことで知られている── “Shakermaker ” をも想起させる。

 もちろん、このアルバムにはパルプ自身の歴史も随所に織り込まれている。 “Got to Have Love ” でジャーヴィスが綴る「L-O-V-E」の綴り方は、1995年の名曲 “F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. ” を明確に呼び起こすし、 “Grown Ups” における「Are you sure?(本気かい?)」という一言は、 “Common People” での印象的な語り口をなぞる。そして “Background Noise ” で告白される「Don’t remember the first time(最初のときのことは覚えていない)」という一節は、1994年の出世作『His’n’Hers』に収録された名曲 “Do You Remember the First Time? ” への静かな応答でもある。過去と現在、記憶と再演──それらはこのアルバム全体を通して繰り返し響き合いながら、パルプという存在の継続性を、静かに、しかしたしかに証明している。

 とはいえ、こうした過去のポップ・カルチャーにまつわるイースターエッグ[*復活祭に飾られるカラフルな卵/復活の象徴]の数々は、どちらかといえば時間の経過を示す通過点のようなものであり、このアルバムの核心にあるのは、ジャーヴィス自身による老いについての私的な黙想にほかならない。そしてそれは、かつて彼の楽曲を特徴づけていた、性的欲望や覗き見るような痛みを描いた物語の精緻な語り口とまったく同じ文体で遂行されている。
 2曲目 “Tina” は、 “Something Changed ” の構造を逆転させるような楽曲だ。あの曲では、語り手はまだ出会ってもいない女性との未来を夢見ていたが、 “Tina” では(おそらく既婚の)男が、実現しなかったもうひとつの人生──ある女性との長年にわたる幻想の関係──を回想するというかたちをとる。いや、より正確には、電車やカフェでふと目にする女性たちに向けて日常的に抱く、現実とは切り離された空想の象徴といった方がいいかもしれない。
 この曲の核心にあるのは、「老い」がいかにして人間から「別の人生」の可能性をひとつひとつ奪っていくか、という痛切なメタファーである。そしてそのメタファーは、女性の名前に込められた言葉遊びによって強調される。 “Tina” とは、マーガレット・サッチャーがかつて語った有名なフレーズ──「There Is No Alternative(他に選択肢はない)」──の頭文字なのだ。

“My Sex ” は、より近過去の記憶を反映している。ギリシャ悲劇のコロスを思わせる鋭く語りかけるようなバッキング・コーラスは、ジャーヴィス・コッカーが2019年に始動させたプロジェクト《Jarv Is...》の作風と語り口を彷彿とさせる。一方、 “Got to Have Love” は、別の興味深いアプローチを取っている。2000年前後に書かれたが一度はお蔵入りとなった楽曲を再構築し、いまのバンドの状況にふさわしいかたちで蘇らせているのだ。ディスコ的な律動が執拗に反復されるこの曲は、バンドの絶頂期の痛切な渇望──とりわけ “She’s a Lady” に通じるもの──をもっとも明示的に喚起するものだが、同時にジャーヴィスは、当時と現在とのあいだに広がる時間の隔たりを自覚的に見つめている。「It cannot be denied, I waited far too long / To believe, to believe in the words, I once wrote to this song(否定できない、ぼくはあまりに長く待ちすぎた/かつてこの曲のために綴った言葉を信じるために)」
 しかしながら『More』は、ブラーの近作『The Ballad of Darren』と同様、強いポップ性を前面に押し出すよりも、静かなテンポと内省的な憂いに重心を置いた作品である。ブラーのデーモン・アルバーンが“ダレン”という誰でもない架空の存在を媒介に老いについての思索を展開したのに対して、ジャーヴィス・コッカーはより直接的で、感傷に浸ることなく語りかけてくる。曲そのものも、しっとりとしたトーンのなかに、どこか切迫した緊張感を保っている。
  “Partial Eclipse” は、パルプがこれまで録音してきたなかでも屈指の名曲のひとつと言ってよいだろう。そしてアルバムを締めくくる “A Sunsets” は、すでにライヴでのハイライトとしての風格すら漂わせている。録音ではブライアン・イーノとその家族がバック・ヴォーカルに加わっているが、その響きはまるで、イーノの名作『Before and After Science』のB面に収められていても不思議ではないような、静謐かつ奥行きある余韻を残す。
 『More』に欠けているのは、作品全体を貫く強固な「音の輪郭」だ。少なくとも、それが『His’n’Hers』にあったような、きらめくシンセとグラム・ロック的華やかさで構築されたウォール・オブ・サウンドであったり、『This is Hardcore』のような、コカインの幻覚と偏執的閉塞感、そしてオーケストラルなギター・ノイズが渾然一体となった不穏な音響的スープであったりするような形では、ここには存在していない。

 もっとも、『More』も『This is Hardcore』と同じく、管弦楽的アレンジへの愛着を共有してはいる。だが本作を特徴づけているのは、むしろ過剰さを排した端正なプロダクション──それぞれの楽曲に必要な空間だけを与え、個々の曲が独立した輝きを放てるように配慮された、ミニマルで清潔な仕上げである。その意味で、アルバム全体の印象は『Different Class』に近い。じっさい、この『Different Class』との関係こそが、本作について考えるとき何度も立ち返ってしまう視点である。『More』は、90年代のあの名作の、老いを経た鏡像のようにも感じられる。年月に磨耗しながらも希望を失わず、どの曲も同じように独自性をもち、洗練され、控えめなながらしっかりとした自信をたたえた、もうひとつのポップの結晶としてそこにあるのだ。


Ian F. Martin

1995 is is distant in the past now as 1965 was then. When Pulp stepped onto the main stage at Glastonbury in 1995 as last-minute replacement headliners for The Stone Roses, it was a breakthrough moment for the band and a defining event in British pop life, cementing the position of their then-new single Common People as the iconic pop song of the decade. It felt like a triumph and vindication for the outsiders and the left-behind: the indie kids, the working class, the weirdos who got bullied at school and beaten up in supermarket car parks.

When they stepped onto that same stage for a (not very well kept) secret set in 2025, it was as an older, greyer, more weathered group. Jarvis Cocker always looked to me like an elderly man just waiting for his body to catch up, so he inhabits this ragged state well. This also means that he is remarkably unchanged, and Pulp live in 20205 is a thing of wonder and beauty: as the songs from their 90s unfold, time seems to flow backwards through them, Jarvis growing impossibly younger as the set goes on and one by one he begins to inhabit those photographs of another time.

Pulp’s new album, More, is a creature born of this older band — music that wears the quiet disappointments of life on its worn sleeves — but throughout, it connects to and runs with loose threads from the past, turning the past into part of a still-living continuum, in conversation with its older self.

Opening song Spike Island references The Stone Roses’ legendary 1990 outdoor concert, notorious for its poor sound and slapdash atmosphere but a key moment in indie culture’s seizing of the zeitgeist and an important stepping stone on Pulp’s route to that stage in Glastonbury. The line “Cos I’m the resurrection man” on Slow Jam also perhaps calls back to The Stone Roses and the role they had in shaping the atmosphere that enabled Pulp’s rise. Other pop cultural reference points dot the album too. The line “Your lipstick on my coffee cup” from Tina gives a wink in the direction of Take That. Meanwhile, closing song A Sunset repeats the line “I’d like to teach the word to sing”, which perhaps has its roots in a childhood memory of a 1971 Coke advert, featuring a choir of youngsters singing the line against the backdrop of a seaside sunset, but also summons the memory of Oasis’ early hit Shakermaker, which stole the melody of Roger Cook and Roger Greenaway’s original song.

Naturally, Pulp’s own history extends through the album too. The way Jarvis enunciates the letters “L-O-V-E” in Got to Have Love echoes F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. from 1995, The line “Are you sure?” on Grown Ups nods to his famous delivery of the same phrase in Common People, and his confession of “Don’t remember the first time” in Background Noise calls back to Do You Remember The First Time? from Pulp’s 1994 breakthrough (and best) album His’n’Hers.

But all these little easter eggs from past pop moments are more like waypoints to symbolise the passage of time, while the heart of the album is Jarvis’ own personal meditations on growing old. This he does with all the storyteller’s attention to detail that characterised his early tales of sexual frustration and voyeuristic heartache. Second track Tina inverts the structure of Something Changed, where instead of the narrator dreaming of a future with a girl he hasn’t yet met, it takes the form of a (possibly married) man loking back over a decades-long fantasy of a life he never had with another woman — or more likely an avatar for all the other women he idly fantasises about in trains and cafés. The song underscores its metaphor for the way age closes down one alternative life path after another by making the woman’s name an acronym for Margaret Thatcher’s famous declaration of cancelled futures everywhere: “There Is No Alternative”.

My Sex reflects the more recent past, with its sharply delivered Greek chorus backing choir recalling the style and tone of Cocker’s 2019 Jarv Is project. Meanwhile, Got to Have Love takes another interesting approach, resurrecting an abandoned song from around the turn of the millennium and retooling it for the band’s current circumstances. With its insistent disco pulse, it’s the song that most explicitly summons the painful longing of the band’s heyday, particularly She’s a Lady, but with Jarvis noting the distance between the song’s roots and the band’s current lives as he sings “It cannot be denied, I waited far too long / To believe, to believe in the words, I once wrote to this song”.

Like Blur’s recent The Ballad of Darren, though, More leans less on bold pop statements and harder on its downtempo, melancholy side. Where Damon Albarn wrapped his own musings on advancing age in the distancing device of everyman Darren, though, Jarvis is more direct, less mournful, the songs still crisp and urgent in their own way. Partial Eclipse might be one of the best songs Pulp have ever recorded, and closing song A Sunset already feels like a live showstopper, the recorded version recruiting Brian Eno and most of his family on backing vocals for a tune that already feels like it could have sat comfortably on Side B of Before and After Science.

What More doesn’t have is a strong overarching sound of its own, or at least not in the way His’n’Hers did with its shimmering, glittering, synth-glam wall of sound or This is Hardcore did with its paranoid, claustrophobic brew of cocaine-sleaze and orchestrally-augmented guitar noise. While it shares the latter’s love of orchestral arrangements, the overall sound it’s characterised more by a tidy, unfussy production style that gives each of the songs what they need to shine individually, and in this way it more closely resembles Different Class.

It’s that relationship with Different Class that I keep coming back to with this album, and in many ways it feels like an older mirror to its 90s counterpart: worn down by the years but still hopeful, and each song every much as unique, elegantly crafted and quietly confident a piece of pop in its own more understated way.

ディランの想像力を刺激した音楽を最もよく理解している書き手による独創的な書物。
――『ニューヨーカー』

長編探偵小説のような文化批評であり、音楽的なラヴストーリー。
――『Rolling Stone』(2022年のベスト・ミュージック・ブックに選定)

マーカスのディラン論は、ボブ・ディランその人と同じくらい不可欠なものだ。ディランの幻視的な創造力というプリズムを通して、マーカスは現代アメリカの魂の驚くべき歴史を浮かび上がらせる。
――オリヴィエ・アサヤス(映画監督)

マーカスの洞察と叙情が冴え渡った一冊。ディランとその音楽についての豊富な情報、回想的な筆致と霊感に満ちた批評との見事な融合。最も独創的な音楽家を、最も独創的な音楽批評家が語るにふさわしい本だ。
――ジョイス・キャロル・オーツ(作家)

 ロック・ジャーナリズムの巨匠によるディラン研究の集大成。
 ディランの創造的・文化的発展の全体像、七つの楽曲を軸にディランの軌跡を語りつつ、アメリカという国とその歌の歴史の省察を織り込んだ、濃密かつ豊穣な書物。
 ディランが自らの楽曲を書きはじめたとき、そこに新たな命を吹き込んだ伝承歌の系譜も本書のなかで生き生きと甦る。
 ディランの楽曲について語るとき、どうしても言葉が反復的になりがちだが、著者は新鮮な視点を提示し、ディランの音楽の源流に関する深甚な知識を押しつけがましさもなく披露する。
 これは単なるディランの伝記ではない。ディランが自身の歌に新たな命を吹き込んだ、アメリカのフォーク・ソングの豊かな歴史そのものである。
 たとえば、“風に吹かれて” は、ディランが21歳のときに書いた曲だが、じつは “No More Auction Block(もう競売台などごめんだ)” という南北戦争時代の自由の歌がその根幹にあると、著者は語る――
 過去と現在を往復しながら展開する本書の、最後の一文を読んだときには、読者は少なからず、思いも寄らなかった何かを思うだろう。
 表紙および挿絵を手がけたマックス・クラークのヴィジュアルも、マーカスの、そしてディランの言葉と絶妙な呼応を見せている。さあ、2022年の刊行当時、多くのメディアから絶賛された名著の日本版をどうぞ。

 ●より詳しい内容紹介および解説はこちら→ 『グリール・マーカス『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』』刊行のお知らせ

[著者]
グリール・マーカス(Greil Marcus)
 1945年カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。1963年にカリフォルニア大学に入学、『ローリング・ストーン』を創刊するヤン・ウェナーと知り合い、ロック評論家の第一世代の最前線として活動。1975年には、いまもなお読み継がれている『ミステリー・トレイン』の初版が上梓する。
 未訳だが1989年に出版された『Lipstick Traces』は、セックス・ピストルズの源流としてシチュアシオニズムやダダ、はては中世の千年王国論宗派にまで遡り、パンクを民衆の抗議詩の文脈のなかで論じた重要作として知られる。
 また、これも未訳ながらディランとザ・バンドが趣味で録音した「The Basement Tapes」からアメリカを論じた『Invisible Republic: Bob Dylan 's Basement Tapes』も影響力ある一冊。
 ほかにも多数に著作があるが、日本では以下の翻訳書がある。『ロックの「新しい波」 パンクからネオ・ダダまで』(三井徹 訳、1984年、晶文社)、『ミステリー・トレイン ロック音楽にみるアメリカ像』(三井徹 訳、1989年、第三文明社)、『デッド・エルヴィス』(三井徹 訳、1996年、キネマ旬報社)、『ライク・ア・ローリング・ストーン――Bob Dylan at the Crossroad』(菅野ヘッケル 訳、2006年、白夜書房)。

[本文より]
二〇〇一年にローマで、ボブ・ディランは記者団に対し「他の人々の中に自分の姿が見える」と述べた。そのはじまりから現在に至る彼の作品の謎を解く手がかりがあるとしたら、この発言がまさにそれかもしれない。彼の歌のエンジン部に当たるのは共感だ。つまり他の人々の人生の中に入ってみたいという欲求とそれをやってのける能力のことであり、異なる結末を求め、既に他者にやり尽くされたドラマを再現・再演することすらある。(…)それはまた、ボブ・ディラン自身が宿ってきたコスチューム、顔、髪型、情動の数々の変容のように、自らでっち上げた、あるいは発見した別の人生とアイデンティティの中に入っていくことも意味する。次なるウディ・ガスリーかと思えば最新版のランボーになり(…)と。

四六判/368頁

目次


バイオグラフィー
他の生き様の中で

Blowin’ in the Wind――風に吹かれて(一九六二)
The Lonesome Death of Hattie Carroll――ハッティ・キャロルの寂しい死(一九六四)
Ain’t Talkin’――エイント・トーキン(二〇〇六)
The Times They Are A-Changin’――時代は変る(一九六四)
Desolation Row――廃墟の街(一九六五)
Jim Jones――ジム・ジョーンズ(一九九二)
Murder Most Foul――最も卑劣な殺人(二〇二〇)

著者註釈
謝辞
索引

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* 発売日以降にリンク先を追加予定。


Cosey Fanni Tutti - ele-king

 ポルノ産業とは男性によって男性の快楽のために作られた装置で——日本でそれは、ポルノ産業との無関係を装ったさまざまなジャンルにおいて広範囲に機能している——、そこでは女性は非現実的なものとして客体化される。コージー・ファニ・トゥッティがポルノ雑誌のモデルやヌードダンサーをやったことは、1970年代のフェミニズムからするとポルノ産業への従属と解され、1976年の悪名高き〈Prostitution(売春)〉展とともに、権威的なアート界からも女性解放からも、そして国会からも個人攻撃の対象となった。
 社会の規範に迎合しないこと、不寛容に対するあらんかぎりの存在証明、立ち入り禁止の領域を横断すること——それが彼女の生き方であって、彼女のアートであるという考えが、彼女の自伝『アート セックス ミュージック』で明かされている。コージーの挑発的でセクシャナルなヌード写真がギャラリーに飾られている21世紀では、ウィメンズ・ポリティクスとアートの関係も再調整されたようで、当初言われていたような、それが低俗なポルノと高級なアートとの階層を粉砕するものだというよくある解釈が、いまでは中産階級的に思えてくる。あくせく働く必要のなかった中産階級の子息たちによる“過激な集団”COUMトランスミッションズのなかで、唯一の労働者階級出身だったコージーが働きながらアート活動を続けた話も自伝にくわしい。先日、『ワイアー』の表紙を飾った彼女だが、そのカヴァースートリーを読んで思わず声が出てしまったのは、これだけ国際的な名声を得たいまでも、コージーは生活のために働くことから逃れられていないという現実だ。こうした日々の生活と彼女のアートが無関係になることはあり得ない。自伝にあるように、彼女にとっては「人生がアート」なのだ。

 『2t2』は、コージー・ファニ・トゥティにとって2019年の『TUTTI』に続くオリジナル・ソロ・アルバムに数えられるが、その前に1枚、デリア・ダービシャーのドキュメンタリー番組『The Myths And Legendary Tapes』のためのサウンドトラックを2022年に発表している。コージーにとって、これが重要だった。
 ダービシャーは1960年代、BBCラジオの電子音響プロジェクトで働き、電子音楽家の先駆者のひとりとしていまでは日本でもよく知られている。コージーはドキュメンタリー番組の音楽を依頼されたことで、ダービシャーについて調べた。マンチェスター大学に残された彼女の資料を読みあさり、そして手記や記録を読んでいくうちに彼女の人生への共感がどんどん膨らんでいったのである。
 第二次大戦開戦の2年前、労働者階級の娘として生まれたダービシャーだが、数学の成績が抜群に優秀だったがゆえに、当時の労働者階級の少女としては極めて稀なことにケンブリッジ大学の奨学金を獲得した。数学を学ぶにはもっとも権威ある場所だが、彼女が専攻を数学から音楽に変えたのは、学内における根深い女性蔑視によって入学した女性の多くが余儀なく中退するなか、ダービシャーには音楽だけが逃げ場であり、楽園に思えたからだった。就職のため、BBCに異常な枚数の手紙を送りつけていたのも、そこは当時、英国内で唯一音楽を流す機関だったからで、BBCに行く以外のことが彼女には考えられなかった。
 ダービシャーを音響工学に向かわせたのは、数学的で、未来を予感させるヤニス・クセナキスによる電子詩だった。願いかなってBBCの音響プロジェクトに就職できたダービシャーだが、最初に彼女がもっとも苦労したのは、誰もが上品な英語を話すBBCという職場のなかで、労働者階級のコヴェントリー訛りを矯正することだった。彼女の最初の「音響プロジェクト」は自分自身の声の強制的な変調だったのかもしれない、コージーはそう書いている。
 そのいっぽうでコージーは、ダービシャーについて調べている時期に、たまたま古本屋でマーガリー・ケンプの本を見つけて、なんとなく気になって買った。ケンプは幻視体験をもつ14世紀の女性神秘家で、裕福な家の出ではあったが、その型破りな言動ゆえに迫害され、国外への巡礼を繰り返し、異端の罪で七度も告発されながら自分を貫いた人物である。コージーの人生において宗教はまったく縁のないものだったが、教会から「とんでもない狂女」と非難されたケンプは、1976年に「文明の破壊者」と国会議員から名指しで非難された自分と似ている、コージーはケンプの人生についても研究した——そして、ダービシャー、ケンプ、そしてコージー自身、生きた時代の違う3人の女の人生の共通点を見出しながら描いたのが、2022年に刊行された2冊目の書籍『Re-Sisters』だった(先述したコージーのコメントは同書からの引用)。本作『2t2』は、その延長にある。

 アルバムの前半は躍動感のある曲が並んでいる。1曲目の “Curæ(キュレイ)”──ラテン語で「注意」や「配慮」の意──を聴いていると、コージーが「レイヴ・カルチャーに参加できなかったことを後悔している」と発言したことを思い出す。アルバムの中盤以降では、彼女のコルネット、そして今作における重要な楽器であるハーモニカをフィーチャーしたアンビエント風の曲が続いている。とくに “Threnody” と“Sonance”の2曲では、興味深いことにコージーの穏やかな境地を感じることもできるが、そう簡単に晴れ晴れとした気持ちにはなれないとでも言いたげに、アルバムには闇があり、低音がある。自伝『アートセックス ミュージック』の映画化が決まり制作がはじまろうとしたとき、ジェネシス・P・オリッジの遺産管理団体がTGの曲の使用の許可をしなかった(使用にはメンバー全員の許諾が必要)。インダストリアル・ミュージックの起源とスロッビング・グリッスルの結成を描く映画に対するその対応が、自伝のなかでオリッジからの虐待を書いたコージーへの報復であろうことは察しが付く。最初は「ふざけんな」だったコージーの反応は、しかし最後には、並外れた忍耐と交渉の果てに得た合意における勝利の「ありがとう」、そして「ふざけんな」を添えた感情へと変わっていた。その先に生まれたのが、『Re-Sisters』であり本作『2t2』である。

 コージー・ファニ・トゥッティという名前は、モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」 (「女はこうするものだ」の意)をもじったものだというが、つくづくこの芸名は素晴らしいアイロニーだ。
 『Re-Sisters』には、最後に素晴らしい一文がある—— ‘WILL’ではなく ‘WON’T’。つまり「やらないこと」「拒絶すること」、彼女たちが男性優遇の社会のなかで自分の居場所を見出すためにやったことが「従属への拒絶」だったことは大きな意味があるように思う。「私たちがいまやっていること自体は、たぶん重要ではない。けれど、いつか誰かが関心を持って、この土台のうえに何か素晴らしいものを築いてくれるかもしれない」というアート活動にともなう宿望、男性アーティストからはなかなか出てこない言葉ではないだろうか。本作『2t2』を聴いた誰かが、いつかさらに素晴らしいものを作るだろう、そんな思いを抱かせるような音楽は決して多くないのだ。

〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉 - ele-king

BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025

 ele-kingで絶賛執筆中のデジさん(緊那羅:デジ・ラ)、音楽活動も精力的にやっています。7月20日に東京のアンダーグラウンドの牙城、幡ヶ谷 FORESTLIMITにて、〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉を主催します。とても面白そう。参院選の日、夜は幡ヶ谷に集合です!

〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉
Artists :
Heejin Jang
Taro Aiko from M.A.S.F.
Kinnara : Desi La
DJs : Moemiki
Deadfish Eyes 2025/07/20
幡ヶ谷 FORESTLIMIT
adv ¥2300 w/1D /// door ¥2500 w/1D
Open 18:00

2025/07/10迄——予約はaimaidebakuzen@yahoo.co.jp
2025/07/10以降——当日券(door)になります。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf7KdhsC8wMDdjymQtYj9MKyDc2ahmMig0ibbD8gwOy0jqVEw/viewform

 みなさん、こんにちは。お知らせがあります。7年ぶりにBEAUTIFUL MACHINEが帰ってき ます——その名も「BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE」。2013年に初開催し、6年間 続けてきましたが、様々な限界にぶつかり、沈黙していました。
 ノイズ・ミュージックとレイヴ・カルチャーの融合、そして「マシン」そのものへのオマー ジュという二重の意図から生まれたBEAUTIFUL MACHINEは、クラブ・シーンで活躍する DJたちと先鋭的な電子音楽アーティストたちをつなぎ、日本の2つの強力なアンダーグラ ウンド文化を11回以上にわたりクロスオーヴァーさせてきました。

 〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉では、韓国から電子音楽アーティストHeejin Jangをヘッドライナーとして迎えます。彼女の来日は2018年以来初となります。さらに、 ノイズペダルメーカーTaro Aiko (M.A.S.F.)、ジューク・シーンやGqom愛好家のMoemiki、そ してイベント〈Ximaira〉よりロマンティックなインダストリアルセレクションを届ける Deadfish Eyesが出演。そして最後に、緊那羅 : Desi Laが、新作「Demons to some, Angels to others」からの最新セットを披露します。

 After a 7 year absence, BEAUTIFUL MACHINE is back — this time as BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE. First launched in 2013, the event ran for 6 years straight before going dark. Inspired by the idea of fusing noise music and rave culture with the parallel dual intention of paying tribute to the "machine" itself, Beautiful Machine brought together DJs active in the club scene and seminal electronic artists, cross mixing two of the strongest underground cultures in Japan over 11 times.
BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025 is bringing together headliner electronic artist Heejin Jang from Korea in her first visit to Japan since 2018 with noise pedal creator Taro Aiko of M.A.S.F., heavy hitting djs juke and Gqom enthusiast Moemiki and Deadfish Eyes of event Ximaira serving up a romantic industrial selection, and lastly Kinnara : Desi La, playing a brand new set from his upcoming release ”Demons to some, Angels to others”.

■Heejin Jang
 ヒジン・チャン(Heejin Jang)は、韓国・ソウルを拠点に活動する アーティストです。彼女のライブサウンドパフォーマンスでは、即 興のコンピュータ音楽を披露し、日常的で些細な音の要素から着想 を得て、それらを再構成し、瞑想的な体験やデジタルによって引き 起こされるパニックのような現象的な空間を創り出します。ヒジンは、ザ・ラボ(The Lab)、ヤーバ・ブエナ芸術センター (Yerba Buena Center for the Arts)、ムムック・ウィーン(mumok Vienna)、ハーベスト・ワークス(Harvestworks)、ライズームDC (Rhizome DC)、ハイ・ゼロ実験音楽フェスティヴァル(High Zero Experimental Music Festival)、センター・フォー・ニュー・ミュー ジック(Center for New Music)、ダブラブ(DubLab)などでライヴパフォーマンスや作品展示を行ってきました。彼女の音楽は、 『The Quietus』、『NPR』、『The Wire』などでも取り上げられて います。
Heejin Jang is an artist based in Seoul, South Korea. In her live sound performance, Heejin presents a set of improvised computer music. She arranges and synthesizes sonic spaces that draw from the everyday and the trivial, re-forming them into phenomenal situations of meditation or digitally induced panic.
Heejin played live and exhibited her pieces at The Lab, Yerba Buena center for the arts, mumok Vienna, Harvestworks, Rhizome DC, High Zero Experimental Music Festival, Center for New Music, DubLab, and many more. Her music has been reviewed on The Quietus, NPR, The Wire and more.
Music:Bandcamp: https://heejinjang.bandcamp.com/
Website: https://heejinjang.com/

■ Taro Aiko from M.A.S.F.
 ノイズ・シーンから圧倒的な支持を得る音響ブランドM.A.S.F.の開発者にしてエレクトロニクス奏者。自身が設計制作した発振器やエ フェクターを用いた独自のハードスタイルを追求・展開してきた。 近年はモジュラーシンセサイザーを用いた演奏を取り入れ、より過 剰な音響演出を試みる。節度や常識を一切考慮しないそのオリジナ ルな創作は、音を生成する瞬間に演奏者と聴き手の境界を溶解させ る、自己生成する生物としてのノイズである。
A developer of the highly acclaimed sound brand M.A.S.F., which has earned overwhelming support from the noise scene, and an electronics performer. He has pursued and developed a unique hardstyle using self-designed and built oscillators and effects units. In recent years, he has incorporated modular synthesizer performances, pushing toward even more excessive sonic presentations. His original creations, unconcerned with restraint or convention, generate noise as a self-generating organism that dissolves the boundaries between performer and listener in the very moment of sound creation.

■ Deadfish Eyes
 ポスト・パンクやニューウェイヴ等の音楽から強く影響を受け、インダストリアルミュージックやノイズを織り交ぜた、耽美主義的な表 現を得意とするDJ。 マイノリティのためのクィアパーティー「Ximaira」を主催し、レジデントも担当。
A DJ heavily influenced by post-punk, new wave, and known for their decadent expression that blends industrial music and noise. They are the organizer and resident of "Ximaira," a queer party for minorities.

■Moemiki
 トリップ・ホップからクラブ・ミュージックの世界に入り、フットワークの洗礼を浴びて2018年よりパーティオーガナイズと DJ活動を開始。エクスペリメンタル/ゴルジェ/フットワークを行き来す る呪術的なアプローチが持ち味。好きなBPMは160。
Entering the world of club music through trip-hop and baptized by juke/footwork, she began organizing parties and DJing in 2018. Her signature style is a shamanic approach that traverses experimental, gqom, and juke. Preferred BPM: 160.

■Kinnara : Desi La(緊那羅:デジ・ラ)
 緊那羅:デジ・ラは、電子音楽家、3Dモーションアーティ スト、グラフィック・デザイナー、クリエイティヴコーダーとしてジャンルを 横断しながら活動する多才なクリエイティヴ・アーティストです。新たなテク ノロジーと建築的世界のリズムを芸術を通して表現することにフォーカスし た未来派のアーティストでもあります。緊那羅:デジ・ラは、ライヴ・パフォーマンス作品であるオーディオ・ヴィジュアルパフォーマンス《CHROMA》やアンビエントAV作品《SPHERE OBJEKTS》、漆黒の中で行われる没入型電子音響体験《DARK SET》、多層的なテーマを持つ音楽リリース、そしてWeb3上に構築された抽象的なミクス トメディアによる空間的ゲーム/ギャラリーなど、幅広いメディアと表現形 式を行き来しながら活動しています。
 彼のヴィジョンの核心にあるのは、「未来主義」であり、社会の進化を積極的 に受け入れること。それは、過去のすべてを再解釈・再構成・再構築し、現 在そして未来の世代のために進化させるという考えに基づいています。保存 ではなく、再構成こそが重要なのです。
緊那羅:デジ・ラのヴィジュアル作品は、渋谷や銀座のアンダーグラウンドな 空間で展示されたほか、シンガポール、マレーシア、インドネシアなど海外でも発表されています。彼の代表的イベント《BEAUTIFUL MACHINE》は 2013年に始まり、6年間で11回開催された後、いったん幕を閉じましたが、 現在《BM》は再び蘇りつつあります。
Kinnara : Desi La is a versatile Creative prolific as an electronic musician, 3D motion artist, graphic designer, and creative coder working across genres. A futurist focused on expressing the rhythms of the new technological and architectural world through his art. Kinnara : Desi La bridges his art between live performance works like his audiovisual performance CHROMA and ambient audiovisual SPHERE OBJEKTS, pitch black DARK SET explorations in intense electronic listening, multi-thematic music releases and his abstract mixed media spatial game / gallery in web3. Kinnara : Desi La`s total vision embraces futurism, the embrace of advancement in society as a cornerstone of his world view. All things of the past should be reinterpreted, remixed, reconstructed, and rebuilt for the advancement of our current and future generations. Reconfiguration versus preservation.
Kinnara : Desi La`s visuals have been shown in the depths of Shibuya and Ginza and internationally in Singapore, Malaysia, and Indonesia.
Kinnara : Desi La`s flagship event BEAUTIFUL MACHINE began in 2013 and continued for 6 years over 11 times before going dark. Now BM is resurrected.
https://kinnara-desila--afrovisionary-creations.bandcamp.com/

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