「ATOM」と一致するもの

ele-king vol.28 - ele-king

特集:未来をリセットする

未来を感じさせるバンドやアーティストのインタヴューをはじめ、
ロンドンやベルリン、NYなどの音楽シーンの状況を踏まえつつ、
「現在」と「未来」について再考する──

インタヴュー:
ブラック・ミディ
ロレイン・ジェイムズ
ブラック・カントリー、ニュー・ロード
スクイッド

2021年ベスト・アルバム
アーティストやライター総勢32名による個人チャート&ジャンル別ベスト

良質な音楽が数多く生み落とされた2021年、もっとも輝いていた作品は何だったのか?

目次

特集:未来をリセットする

●インタヴュー
ブラック・ミディ (イアン・F・マーティン)
ロレイン・ジェイムズ (野田努)
ブラック・カントリー、ニュー・ロード (木津毅)
スクイッド (小林拓音)

●未来を感じさせる音楽
(髙橋勇人、小川充、岡村詩野、三田格、大前至、野田努)

●コラム&レポート
インディーズの未来をリセットする (イアン・F・マーティン)
自助共助公助のうそ──七尾旅人のフードレスキューが救った言葉 (水越真紀)
パンデミック以降のイギリスと日本の音楽シーンを比較してみる (レイ・ハーン)
DJから見たイギリス、ヨーロッパ、日本のパンデミックとその未来 (CHANGSIE)
ニューノーマルに適応したニューヨークは活気を取り戻しつつある (沢井陽子)
ベルリン──シビアな管理体制を敷きながら、またしても増加する感染者 (浅沼優子)

[FLASHBACK 2021]
大盛況だったフィッシュマンズ・リヴァイヴァル (植田亜希子)

2021年ベスト・アルバム30
2021年ベスト・リイシュー15

ジャンル別2021年ベスト10
エレクトロニック・ダンス (yukinoise+髙橋勇人)
テクノ (佐藤吉春)
インディ・ロック (天野龍太郎)
ハウス (渡部政浩)
ジャズ (大塚広子/小川充)
USヒップホップ (大前至)
日本ラップ (宮崎敬太)
アンビエント (三田格)
ダブ (河村祐介)

2021年わたしのお気に入りベスト10
──アーティスト/DJ/ライターほか総勢31名による個人チャート

浅沼優子、天野龍太郎、valknee、大塚広子、大前至、岡村詩野、小川充、小山田米呂、河村祐介、木津毅、坂本麻里子、Satomimagae、柴崎祐二、髙橋勇人、デンシノオト、The Bug、James Hadfield、二木信、細田成嗣、Mars89、Ian F. Martin、松村正人、三田格、宮崎敬太、moe(民謡クルセイダーズ)、yukinoise、米澤慎太朗、Maika Loubté、Lena aka galcid、渡邊琢磨、渡部政浩

2021年を振り返る座談会
(マシュー・チョジック+水越真紀+野田努)

オンラインにてお買い求めいただける店舗一覧
amazon
TSUTAYAオンライン
Rakuten ブックス
7net(セブンネットショッピング)
ヨドバシ・ドット・コム
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HMV
TOWER RECORDS
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紀伊國屋書店
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mibon本の通販(未来屋書店)

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〈Advanced Public Listening〉 - ele-king

 長らくベルリンに在住していた Miho Mepo によって設立された新たなレーベル〈Advanced Public Listening〉。その第1弾作品となるコンピレイション盤『ON IN OUT』が12月2日にリリースされる。フォーマットはCD(2枚組)とLP(4枚組)の2形態(配信はなし)。ハンス・ヨアヒム・レデリウスを筆頭に、マシュー・ハーバートリカルド・ヴィラロボストーマス・フェルマンムーヴ・Dデイダラスなどなど、エレクトロニック・ミュージックの錚々たる面子がトラックを提供している(下記参照)。しかも、全曲エクスクルーシヴというから驚きだ。要チェックです。

新レーベルAdvanced Public Listeningの第一弾コンピレーション『ON IN OUT』、2021年12月2日にリリース!

宇宙138億年、地球46億年… この作品が世代も世紀をも超えて人々の魂を浄化する
普遍的な正典であることに疑う余地はない。宇川直宏(DOMMUNE)

1998年に単身ベルリンに渡り、28年に渡って数々のアンダーグラウンドで良質な海外アーティスト、DJを日本に紹介し続け、
錚々たるアーティストから全幅の信頼を置かれる日本人女性、Miho Mepoが設立した新レーベルAdvanced Public Listeningの
第一弾コンピレーションが完成!
本作のコンセプトに賛同した世界各国の錚々たる豪華ミュージシャン達が提供したエクスクルーシヴ・トラック、全22曲を収録!
CDの発売はここ日本でのみとなる限定スペシャル・エディション!

参加アーティスト
ハンス・ヨアヒム・ローデリウス(クラスター/ハルモニア)
マシュー・ハーバート
リカルド・ヴィラロボス
ディンビマン(ジップ)
トーマス・フェルマン
ローマン・フリューゲル
アトム・TM
ムーブ・D
デイデラス
タケシ・ニシモト
など全21アーティスト作品

日本語解説:宇川直宏(DOMMUNE)

■アーティスト:Various Artists (V.A.)
■タイトル:ON IN OUT (オン・イン・アウト)
■発売日:2021年12月2日[CD]/12月12日[LP]
■品番:APLCD001[CD]
■定価:¥3,000+税[CD]
■その他:●日本語解説:宇川直宏(DOMMUNE)、●全収録曲、本作の為のエクスクルーシヴ・トラック。
■発売元:ADVANCED PUBLIC LISTENING

Tracklist
Disc 1
01. KARAPAPAK 「FM EMOTION」
02. Julie Marghilano 「Human」
03. Pierre Bastien 「Revolt Lover」
04. Takeshi Nishimoto & Roger Doering 「Dream」
05. Simon Pyke aka FreeFrom 「Mass Murmurations」
06. Thomas Brinkmann 「Ruti _ Sakichis dream」
07. Roman Flügel 「Psychoanalysis」
08. Move D 「Für Franz” (Live at Theater Heidelberg)」
09. Thomas Fehlmann 「phoenix」
10. Takeshi Nishimoto & Roger Doering 「Call」
11. Hans joachim roedelius 「Immer」

Disc 2
01. Seitaro mine featuring Elson Nascimento & KIDS 「dia e noite」
02. Tyree Cooper 「Classic Material」
03. ZAKINO(aka Seiichi Sakuma) 「What time do you think it is」
04. Low End Resorts (Phoenecia + Nick Forte) 「Drunkin’ Drillz」
05. Daedelus 「Denote」
06. Atom TM 「C4LP (F*ck Yeah)」
07. Pulsinger & Irl 「l Vicinity Dub」
08. Matthew Herbert 「PEAHEN」
09. Dimbiman (aka Zip) 「Väterchen Frust」
10. Ricardo Villalobos (ZEDA FUNK)
11. The Irresistible Force (aka Mixmaster Morris) 「MULTIBALL」

UNKNOWN ME - ele-king

 毎日こうも過酷な暑さがつづくと、あの涼しかった音空間が猛烈に恋しくなってくる。

 今春、LAの〈Not Not Fun〉から初のLP『BISHINTAI』を発表した UNKNOWN ME。ユニットとしての知名度はまだそれほどないかもしれないが、やけのはら、P-RUFF、H.TAKAHASHI の3人と、ヴィジュアル担当の大澤悠大からなるアンビエント・プロジェクトである。ヴィジブル・クロークス以降のアンビエント/ニューエイジの流れとリンクしつつ、その更新を試みているグループと言っていいだろう。6月27日、アルバムのリリース・パーティが開催されるというので足を運んできた。場所は神宮前 Galaxy。食品まつり a.k.a foodmansatomimagae、Chee Shimizu と、かなり豪華な面子がそろった。

 階段をくだり地下のエントランスを抜けると、ひんやりと冷えた空気が漂っている。すでに satomimagae のパフォーマンスははじまっていた。30~40人ほど集まっていただろうか、にもかかわらず、下手したら空調の音まで聞こえかねないほど会場は静まりかえっている。耳に浸透するかなしげなギターの音と、澄んだ satomimagae のヴォーカル。〈RVNG〉から出たすばらしい新作でも独自の静けさを表現していた彼女だが、ライヴでは一層そのサイレンスが際立って聞こえる。音が鳴っているのに、サイレンス。おかしな話だが、ほんとうにそうとしか形容のできない体験なのだ。
 最後の曲が終わると、一気に会場が談話に包まれる。つなぎDJは Chee Shimizu。おとなしすぎず、主張しすぎず、絶妙なあんばいのアンビエントやオブスキュアなトラック群が空間を彩っていく。

 ふた組めは、〈Hyperdub〉からの新作を控える食品まつり。ここでオーディエンスが50人くらいまで増える。アンビエントでスタートしたセットはほぼ低音を用いることなく、ちゃかぽこした上モノで引っぱっていく感じで、これまたどこか涼しげなサウンド。じょじょに実験性が高まっていき、後半になるとダンサブルな反復が飛び出しパーカッションの饗宴を迎えるが、最後はやはり静けさを強調した電子音で〆。「聴きこむ/踊る」という二項対立を宙吊りにするかのようなセットは、この満足には踊れない時代、身体はどう音に反応すべきなのかという問いを提起しているかのようだった。やはり食品まつり、あなどれない。

 ふたたびつなぎDJをはさんで、いよいよ主役の UNKNOWN ME。4人全員がワイシャツとネクタイを着用して登場、ずらっと横一列に並ぶ。きれいなシンセ音、水やひぐらしなどの具体音が入れかわり立ちかわり登場し、白昼夢のごとき音空間が生成されていく。これは、涼しい。基本的にアルバム収録曲が演奏されていたはずで、ほとんどがノンビートなのだが、ビートはなくともリズムはあり、ここでもコロナ時代における身体性について考えさせられることになる。
 ヴィジュアルも手がこんでいて、東京タワーや駅などのランドマークと、山や川での釣りの風景などが代わるがわる映し出されていく。文明と自然、都市的なものとロハス的なもの、それらの共存なのか対比なのかはわからないが、やはりなにかを投げかけてくる映像表現だった。
 最後はアルバムにも参加していた MC.sirafu、中川理沙、食品まつりも加わり大団円……手ちがいにより、食品まつりが2曲のあいだほぼなにもできず棒立ち状態に陥るアクシデントはあったものの、うまい具合に電子ノイズの即興でイヴェントは幕を下ろした。

 こちらがそういう構えでいたからかもしれないが、3組ともそれぞれのやり方でコロナ禍におけるひとの集合のあり方、身体性の新しいかたちを探っているように感じられた。大声で騒ぐのではなく、といって孤独にストイックに音に没入するのでもない、そのはざまを探るようなライヴ。
 このときは「まん防」だった。その後四度めの非常事態宣言が発せられ、醜悪にもオリンピックが強行開催されようとしているいま思い返してみると、この日は地獄のなかにさっと吹きこむ、一陣の涼風のようなイヴェントだった。


GoGo Penguin
GGP/RMX

Blue Note / ユニバーサル

ElectronicaTechnoModern Classical

 これを「ジャズとテクノの幸福な出会い」などと呼んではいけない。出会っているのはクラシック音楽とテクノ~エレクトロニカであり、生楽器と電子音である。ゴーゴー・ペンギンは、ジャズ・バンドではない。

 名門〈Blue Note〉に籍を置きながら、「アクースティック・エレクトロニカ・サウンド」なるタームで評判を集めるゴーゴー・ペンギン(以下 GGP)。クリス・アイリングワース(ピアノ)、ロブ・ターナー(ドラム)、ニック・ブラッカ(ベース)から成るこのトリオは、もともとはマンチャスターの〈Gondwana〉を拠点に活動していたグループだ。2015年、前年のセカンド・アルバム『v2.0』がマーキュリー賞にノミネイトされたことで大いに注目を集め、〈Blue Note〉へ移籍することになった。
 トランペット奏者のマシュー・ハルソールによって設立された〈Gondwana〉は、ママール・ハンズやポルティコ・クァルテットなど、エレクトロニック・ミュージックの要素をとりいれたジャズ・グループの作品を果敢にリリースすることで、南ロンドンとはまた異なるスタンスで2010年代のUKジャズを牽引してきたレーベルである。ジャズのフォーマットに則った生楽器のトリオ編成をとりながら、エレクトロニカやドラムンベースからの影響を「再現」してきた GGP も、そのムーヴメントの大きな旗振り役だったと言えよう。
 だが、ベーシストのニック・ブラッカが「ジャズ・サウンドと呼ぶのは正しくない」と発言しているように、GGP の音楽はブラック・ミュージックの気配を漂わせてはいない。彼らの影響源としてよくあげられるのはドビュッシーやショスタコーヴィチであり、エイフェックス・ツインやスクエアプッシャーである。じっさい、そのミニマルなピアノは、フランチェスコ・トリスターノあたりと並べて語られるべきクラシカル~印象派由来の感傷を携えている。あるいはドラムのロブ・ターナーによれば、GGP が活動をはじめた初期はクラークのドラム音とプログラミングに触発されたという。GGP はジャズ・バンドではない。エレクトロニカなどのアイディアを生演奏で追求するトリオだ。昨年発表された5枚目のフルレングス『GoGo Penguin』はそんな彼らのアンサンブルが最大限に発揮された、セルフタイトルにふさわしい好盤だった。

 このたびリリースされたのは、その『GoGo Penguin』のリミックス盤である。トラックリストにはコーネリアスマシーンドラムスクエアプッシャー、ネイサン・フェイク、808ステイト、ジェイムズ・ホールデン、クラークと、(コーネリアスを除けば)エレクトロニカやテクノ文脈のアーティストが多く並んでいる(〈Gondwana〉時代の盟友と呼ぶべきポルティコ・クァルテットも参加、穏やかなクローザー “Don't Go” にキックを足し美麗な4つ打ちにつくり変えている)。何年も温めてきた企画だそうで、スクエアプッシャーしかりクラークしかり、ほんとうに彼らが好きなひとたちにオファーしていったんだろう。ジャズではなく、エレクトロニカやテクノから影響を受けた生演奏バンドが、その道のプロたちに身を委ねたアルバム──それが本作だ。

 冒頭を飾るのはコーネリアス。原曲 “Kora” のきれいな旋律とドラムの躍動感を損なうことなく自前の電子音を重ねながら、さりげなく日本的情緒を漂わせるなど、GGP へのリスペクトとみずからの解釈を巧みに両立させた、バランスの良い知的なリミックスだ。

 日本からはもうひとり、具体音を駆使するサウンド・アーティスト、ヨシ・ホリカワが参加している。“Embers” の穏やかなムードはそのままに、全篇に微細なチリノイズを振りかけることでアンビエント的な空間を醸成、これまたバランスの良い再解釈を聞かせてくれる。
 ジェイムス・ホールデンはオリジナルの疾走感をすべて剝ぎとり、霧の立ちこめる薄暗い渓谷のような音響空間を生成。フランスは〈Infiné〉のローン(2012年の『Tohu Bohu』で高い評価を獲得、その後ザ・ナショナルのアルバムに参加したりジャン=ミシェル・ジャールと共作したり)は原曲のポリリズミックなピアノを主役の座から引きずりおろし、マンチェスターのシュンヤ(GGP のサポートを務めたこともある新世代のプロデューサー)はもとの諸要素をばらばらに解体、独自にコラージュしてみせる。
 ダンス・カルチャーとの接点という意味では、アルバム中もっともドラムが自己を主張する “Open” をハウシーに改造したネイサン・フェイク、もともとダンサブルだった “Atomised” を自身の電子音で染め上げ、さらに機能性を高めまくったマシーンドラムが印象的だ。みなそれぞれ対象との向き合い方が異なっていておもしろい。

 このように、リミックス盤の醍醐味はやはり、原曲とリミキサーの解釈が大胆にぶつかりあうところにある。化け具合において突出しているのは GGP と同郷の先輩、グラハム・マッセイによるリミックスだろう(808ステイト名義)。原曲のおもかげはほとんどなく、といってアシッドぶりぶりのエレクトロに仕立てあげられているわけでもなく、彼の新境地と呼べそうな独特のサウンドが展開されている。
 みずからの個性と実験性に引き寄せるという点では、クラークも負けていない。彼の調理対象は “Petit_a” で、『GoGo Penguin』の日本盤にボーナストラックとして収録されていた曲。人力でドラムンベースを演奏してみせるあっぱれな曲だが、クラークはそのドラムを切り刻みまったくべつのリズムへと変換、ダークなビート・ミュージックを生成している。トム・ヨークのときもそうだったけれど、期待の地平を裏切りまくる彼のリミックスには毎度唸らされる。

 極私的にもっとも魅了されたのは、ブラッカが「ぼくらの最大の音楽的影響源」と呼ぶスクエアプッシャー。『Solo Electric Bass 1』のごときベースの即興演奏からはじまるこのリミックスは、もとの旋律を破壊することなくシンプルな反復として後景へと追いやり、中盤以降のブレイクビーツの暴動を用意する。家元の矜持なのか、わずかに原曲に含まれていたドラムンベースの要素を消し去り、「甘いな、こうやるんだぜ」といわんばかりに自分の音を炸裂させる様に思わずニヤリ。叙情を忘れないところも含め、『Ultravisitor』期のスクエアプッシャーを想起させる仕上がりで、原曲への敬意とリミキサーの個性とが見事に両立した1曲と言える。ショバリーダー・ワンというバンドをやったことのあるトム・ジェンキンソンにとっても、GGP の存在にはどこか共感を覚える部分があったのではないだろうか。

 このわくわくするリミックス盤を聴けばもう、GGP を「ジャズ」のひと言で片づけてしまうことはできなくなるだろう。彼らはジャズ・バンドではない。機械のエモーションをこよなく愛する、生演奏グループだ。『GGP/RMX』はそんな彼らの本領を教えてくれる、ある種のマニフェストである。

interview with Satomimagae - ele-king


Satomimagae
Hanazono

RVNG Intl. / PLANCHA

FolkAmbient

 サトミマガエの新作『花園』を聴いていると、まだマンションが乱立する前の、昔の古い世田谷の迷路のような小道に迷い込んで、偶然いままで知らなかった小さな空き地に出たときに感じた嬉しさのようなものを感じる。そこにはやはり小さな草花が風に吹かれているのだ。
 サトミマガエをぼくに教えたのは畠山地平だった。彼のレーベル〈White Paddy Mountain〉からリリースされた『Koko』があり、『Kemri』があった。畠山のイベントに出演した彼女のライヴにも行った。高円寺のとあるお店の地下スペースで、10人にも満たない人たちを前に、彼女はアルバムで聴いた印象の通りの静的な佇まいをもって、抑揚のない独自の歌い方と魅力的なギターを披露した。おそらくその週末の東京のいたるところで演奏されたどの音楽よりも、そこは静かだったはずだ。

 彼女の新作『花園』が〈RVNG Intl.〉を通してインターナショナル・リリースされるのは、楽しみというほかない。アンビエント・フィーリングを持った彼女の作品は、ひとつのサウンドとしての面白さが充分にある。物静かで音数は少ないが、細かいアレンジが行き届いており、ギターと歌以外の小さな音がほかにもこの小さな世界に共鳴している。そこから見える景色は、モノクロームではない。アルバムのアートワークのようにカラフルでもある。
 今回は初めての取材なので、ものすごく基本的なところから質問している。日本から登場したこの異色のアーティストにひとりでも多く興味を持ってもらえたら幸いだ。

いろんな感情を中和するものを作りたいなと思って。刺激のある音楽の間に挟んで聞くような休憩の音楽、でもそういう音楽が大事なときもあるなと思ったんですよね。

生まれと育ちはどちらなのでしょうか。

サトミマガエ:茨城県です。

ギターに興味をもたれたきっかけは?

サトミマガエ:中学生くらいのときにあった選択音楽という授業でギターを選びました。家にギターがあったので弾けたら面白いかな程度でやってみたということです。少し弾いてみたら楽しくなりすぐにのめり込みました。最初は学校で発表するという名目でやっていたので、当時流行っていたJポップなんかをやって。

お父さんがアメリカで買ってきたブルースのレコードが好きだったという話を聞きましたが。

サトミマガエ:家族で2年間アメリカに住んでいたんです。アメリカでも父親が友だちに紹介してもらった古いブルースを聴いていたし、それを日本に帰ってきてからも車とかでかけたりして。当時は好きというわけではなかったけれどよく耳にはしていましたね。

自分で能動的に音楽を聴いたり、あるいは演奏をするようなきっかけであったりとか、そういうのは別にありましたか?

サトミマガエ:小学生の高学年くらいからクラブ活動でトランペットを吹きはじめたんですよね。演奏より合奏がそのときは楽しいと思っていて、中学生でも吹奏楽部に入ってトランペットをやっていましたね。

トランペット吹くのって小学生には難易度が高くないですか?

サトミマガエ:そうですね。

じゃあいまでもけっこう吹ける?

サトミマガエ:いまはあんまり吹けないですけど(笑)過去の曲で何回か吹いています。それで中学生の終わりころにコンクールの練習で、先生がいないときに指揮台に立って各楽器に指示をだしながら曲をまとめていく役割を任されたことがあってそれぞれの楽器をコントロールしてひとつの曲にするという、そういう合奏の楽しさをそこで感じました。

じゃあポピュラー・ミュージックといったものにはあまり縁がなかったですか?

サトミマガエ:聴いてはいたけど夢中になるような感じではなかったですね。

でもどこかで夢中になったことが……

サトミマガエ:高校にはいったときに友だちがいわゆる洋楽を教えてくれて、そこからですね。そのとき友だちが教えてくれたのはニルヴァーナとレッド・ホット・チリ・ペッパーズでした。

そこからどのように発展していったのですか?

サトミマガエ:バンドでベースを弾いてと頼まれベースを聴くようになったんですよね。それでずっとレッド・ホット・チリ・ペッパーズを聴いて練習していました(笑)。あとはレディオヘッドとか、ナンバーガールとかみんな聴いていたものを聴いて。そのあと大学に進んでベースをバンドで弾きたいと思って軽音部に入りました。理系の工学部のほうにあった軽音部だったので、電気とか機材に詳しい人が多くて音楽機材のことをたくさん学びました。

分子生物学を専攻していたと。

サトミマガエ:そうです。そこでもうすこしマニアックな音楽、いわゆるもっとデジタルな音楽に出会って。さらにそのあと美術系に進んでいた姉のお手伝いで現代アートと関わる機会があって、そうするとまたまた知らなかった音楽に出会って、現代音楽や実験音楽のフィールドも知りはじめて。けっこう衝撃で本とかも読んだりしました。出会った音楽はぜんぶ歴史を調べながらというか、「すごいなぁ」と夢中になりながらいろいろ聴いてきましたね、古いフォークとかも一時期聴いてみたり。

とくに好きだったのは?

サトミマガエ:とくに大好きというのはいなかったですね。エイフェックス・ツインやフアナ・モリーナとか、いまも新しいリリースをフォローしているアーティストは何人もいるんですけど。軽音部にいたときに、電子音楽に興味が湧いて古いものからエレクトロニカ、テクノをたくさん聴きました。友だちにクラブ行ったりDAWやってる人も少しいて、クラークを敬愛してる人がいたり、電子音楽はその頃からずっと憧れの音楽という感じで今も好きです。
その後、さきほどお話ししたように現代アートと触れる機会があり、より実験的な音楽に興味を持って 『音の海』(デイヴィッドトゥープ著)という本を読んだんですけど、それが当時自分にとって知らない世界が開けたようで衝撃でしたね。
その後学生が終わった後に出会った中東やアフリカ、インドの音楽もそれと同様の衝撃がありました。知らない音楽はたくさんあるのに見えてないだけなんだな、と。

いま創作活動をやっているなかで大きかったと思えるようなアーティストであったり作品であったりはありますか?

サトミマガエ:(すこし考えて)いろいろあって難しいな(笑)。

サトミさんの場合はスタイルがあるというか、ひとりでギターの弾き語りというのがベースにありますよね。なぜそういうスタイルになったのでしょうか。

サトミマガエ:ギターは自分が唯一コントロールできている楽器という気がします。いまだに発見があるから、まだできそうなことがあるなと。ピアノとかも試したけどやっぱりうまくいかなくて、私はけっきょくギターで作曲することしかできないのかなって。ギターマニアとかコレクターというわけではないですけど。

例えば好きなギタリストがいたりとかは?

サトミマガエ:ニック・ドレイクを聴いたときは、いままで聞いたことがない感じがしました。耳コピでちょっと練習しましたね。ほかに、ホセ・ゴンザレスも最初に聴いたときに普通のフォークとは違う響きやリズムがあってハマりました。ときどき、いわゆるデルタ・ブルースというか、ライトニン・ホプキンスじゃないけど古いブルース・ギターの弾き語りを動画で見たりすると、あらためてかっこいいスタイルだなと感じます。

ブルースのどんなところがサトミさんに引っかかりましたか?

サトミマガエ:足りない感じがしないところですかね。足したくなる感じがなくてギターと声だけで完結している、声と一緒にギターがほぼ歌ってますよね。あとリズムも好きですね。

いわゆる弾き語りで歌いはじめたときの歌の部分、というのはどういうふうにご自身のなかで発展していったのですか? もともと歌っていたんですか?

サトミマガエ:中学生くらいから歌ってはいましたけど、綺麗な声じゃないし地声に自信もなかったのでぜんぶ裏声、みたいな。とにかく自分の声の嫌な部分をごまかして歌う方法を探っていました。シンガーとしてはぜんぜん自信はなかったんですけど、とにかく自分の声で成り立つ音楽を作ろうという感じでした。

人前で歌いはじめたのはいつごろですか?

サトミマガエ:ちょうど20歳くらいですね。

場所は東京でした?

サトミマガエ:東京です。

大学で東京に来られた?

サトミマガエ:はい。

そのときはもちろんひとりで?

サトミマガエ:バンドに1回はいっていたのでそこでヴォーカルをやっていたこともあります。そのあと自分の音楽をやりたくなったから自分でもやっていたけどソロではやってなかったですね、人にはいってもらったりしてやっていました。

バンドで歌っていたということは、つまりサトミさんのバンドがあったんですね。

サトミマガエ:そこのヴォーカルが抜けちゃったからはいって、みたいな感じでしたね。

なるほど、じゃあ別にサトミさんが作ったバンドというよりも……

サトミマガエ:ぜんぜん違います(笑)。あとはベースを弾いていたので基本的にずっとバンドでやっていましたね。ほとんど軽音部でやっていたからコピーバンドだったんですけど。

20歳くらいからライヴハウスにでて歌おうと思った理由はなんですか?

サトミマガエ:やっぱりどこかでずっと音楽を作っていきたいと思っていたので……、人に知ってもらおうとなったら、ライヴをしなきゃならないのかなと感じて。

月に1回くらいとか?

サトミマガエ:いや、もっとやっていたと思います。

けっこう積極的にやられていたんですね。畠山地平くんがたまたまライヴで聴いて、彼のレーベル〈White Paddy Mountain〉からださないか声をかけたという話を彼から聞いたのですけど、ああいう畠山くんみたいなアンビエントやドローンであったりとかはサトミさん自身はどうでした? 

サトミマガエ:アンビエント・ミュージックにはよく触れていたし興味はあったんですけど、そんなに自分の普段聴く音楽として聴いてはいませんでしたね。畠山さんのレーベルからお誘いをうけて見てみたら、全体の美学がかっこいいレーベルだなと思って、リリースがぜんぶアンビエントやドローン・ミュージックだけではなくて、いくつかポップなユニットとかもあったりして。レーベルを探してみたこともあったんですけど、ぜんぜん自分に合うレーベルがわからないし、まずそんなにレーベルを知らなくて。畠山さんに誘っていただいて調べてみたらすごくしっくりきたというのは憶えていますね。

ちなみに畠山くんからグルーパーというアーティストの作品を聴かされたりしませんでしたか(笑)。

サトミマガエ:聴かされてはなかったですけど、そういうふうに形容されているのはよくみて、自分は予想外でした。後からアルバムを1枚持っているのを思い出して、あぁなるほど、と思って。

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"Numa" という曲では「爽やかな諦念」がテーマです(笑)。鬱々したものではなくて、その身を任せている変化の流れ、風のような流れを楽しんでる様子を書きたかったです。

ヴォーカリストで影響を受けた人とかいますか?

サトミマガエ:女の人のヴォーカルがずっと苦手で好きじゃなかったんですけど『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を高校生で観て、そこで歌っているビョークの歌声で初めて女性の声もいいんだなと思いましたね。叫んでいるんだけど柔らかいというか、そういう女の人のヴォーカルにはじめて出会って。

しかしサトミさんの歌い方はビョークのように感情を露わにしないことが特徴だと思います。感情をあらわにしないこと、あるいは言葉をはっきり歌わないこと、それ自体がサトミさんのひとつの表現になっているように思ったんですけど、どうでしょうか。

サトミマガエ:日本語が聴き取れないとはよく言われるんですけど、じつはあまり意識したことはないんですよね。日本語ってすごくカクカクしていて、言葉が飛び出てくるというか、日本語はすごく言葉が強いと思うんですよね、強く歌うと詩だけがはいってきてしまう感じがある。そういう詩を聴いているだけのような音楽は、私は説教されているような感覚になることが多くて。言葉も音楽と一体になっていてほしいというのがいつもあって。たぶんそのせいで、そういう歌いかたになっているのだと思います。

サトミさんにとって歌詞というのはどういうふうに考えていますか?

サトミマガエ: まえのアルバムにいけばいくほどなにを言おうとしているのか完全に理解されたくない、というのは強いと思いますね。歌詞に関しては。

理解されたくない?

サトミマガエ:正直に言うと、自分の書こうとしている歌詞がはっきりと浅はかだってバレて曲を台無しにしてしまうのがいやなので(笑)。

そんなことはないでしょう(笑)。ちなみに好きな本とか作家はいますか?

サトミマガエ:最近はあまり読めていませんが、昔は日本の純文学をずっと読んでいましたね、川端康成とか谷崎潤一郎とか。

めちゃくちゃ純文学ですね。

サトミマガエ:とにかく綺麗な日本語を勉強しようと思って。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」はサトミさんの世界観にあるかも(笑)。

サトミマガエ:昔の本ってけっこう難しいんですよね。いつの間になにか起きているけど注意して読まないとそれがわからない、みたいな。大きなドラマがあるわけではなくて、ただ細かい文章だけから映像を想像していくというところが少し癖になっていました。

今回のアルバムが〈RVNG Intl.〉からでることになった経緯というのはなにがあったんでしょうか。


Satomimagae
Hanazono

RVNG Intl. / PLANCHA

FolkAmbient

サトミマガエ:海外のレーベルに詳しい知り合いに、かっこいいレーベルを教えて欲しいと頼んだらそのなかに〈RVNG Intl.〉がはいっていました。それで自分でも調べたら、FloristというバンドのヴォーカルのEmily A. Spragueがソロプロジェクトでバンドとは違った音楽をリリースしているのをそこで発見したりして、おもしろそうと。デモを送ってみました。でも実はRVNGのまえに〈Guruguru Brain〉が返事をくれて、今回はCo-Releaseで〈Guruguru Brain〉からも同時にリリースしてもらえることになりました。

今回のアルバム・タイトル『花園』というのはどこからきているのでしょうか。

サトミマガエ:いままでに比べてオープンでフラットにすることをすこし意識していて。

すごくカラフルですよね、いままでの作品より。

サトミマガエ:そうそう、そういうイメージです。だけどまだ少し閉じているというか、家の外ではあるし、外の世界と繋がっているけれどあくまでプライベートな空間というか、そういうイメージです。それと子供らしさ……、曲を書いていた時期に子供のニュースをよく見かけまして、あまりよくないニュースですけど。音楽のなかにそういうテーマもはいりこんできましたね。なんかね、『花園』っていうと……華やかで、一生懸命手入れするのに別に人に見せないという、それが子供らしさというか、ピュアな創造という感じに繋がるんですね。

子供たちにとってのユートピアみたいな。

サトミマガエ:うーん、そうですね、楽園……現実逃避ではないんですけど、広い世界がみえていないというかね。それって子供もそうだけど、ときどき大人もそうだなと。そういう感じだけれど内向的な暗さはなく、社会と繋がっているしあくまで外にあるというイメージで『花園』がしっくりくる。

なぜ外に向けて開けきらないんですか?

サトミマガエ:それは私がまだ開けきらないなって思ったからで(笑)。

でも閉じた感じというのがサトミさんの作品の魅力ではあると思いますよ。

サトミマガエ:そうですね。前のふたつの作品とか、というかいままでの作品はぜんぶそうだったと思います。

『Hanazono』は音の細部が丁寧に作り込まれていますよね、サブベースのような音があったり、フィールド・レコーディング的なものもあったり、あるいはすごく小さな音量で別のメロディが鳴っていたりとか。注意深く集中して聴くといろいろな音が聴こえるような音作りになっていて、むしろ広がりがあると思いました。

サトミマガエ:ありがとうございます。BGMだけれどただ退屈に流れているだけの音楽ではなくて、ちゃんと鳴っている音楽、というのを目指していました。プレーンな感じ……、いろんな感情を中和するものを作りたいなと思って。刺激のある音楽の間に挟んで聞くような休憩の音楽、でもそういう音楽が大事なときもあるなと思ったんですよね。

レコーディングのやりかたもいままでとは違っていると思いますが、どのように進めたのでしょうか?

サトミマガエ:作っている段階ではレーベルが決まっていなかったのもあって、とくに誰かの期待に応えるようなかたちで作っていなかったのもあったのかもしれません。ほとんど家で録っているんですよね。

あんまりいままでと作りかたは変わらなかったと?

サトミマガエ:あ、でも前回のふたつはスタジオでちゃんと録音していたので。

今回は家の中でぜんぶ作ったと。

サトミマガエ:ほぼそうですね。浦和さんがいれたもの以外は家で作りました。

それじゃ家に小さいベットルーム・スタジオみたいなものがあるんですか。

サトミマガエ:いまいる部屋なんですけど、この狭い部屋で(笑)。だからけっこう外の音とかはいっちゃっている曲もあるんですよ。

最後の“Uchu”にもはいってますもんね。あとボーナストラックにフィールド・レコーディングっぽい音がはいっている。

サトミマガエ:あれは散歩して録ったやつですね。

なるほど。じゃあけっこう時間をかけて作った感じですか?

サトミマガエ:かかりました。2018年くらいに曲自体は書き終わっていたので、そこから2019年の間はデモにするためにミックスやレコーディングをして、それで去年はずっと仕上げをしていました。

ギターの弦の音とかすごく綺麗になっていて、曲によってはギターとかを重ね録りしているんですか?

サトミマガエ:曲によってはしています。でもなかには一発録りのもあって。スタジオでやるっていうのがなかったから、できたらすぐ録るというのも可能だったんですよね。一番最初が一番良いテイクということもあるので。
■サトミさんのスタイルってすごく独特だし世界観ができあがっているから、逆にアルバムのなかで曲ごとのヴァリエーションはどういうふうに考えてらっしゃいますか?

サトミマガエ:今回はヴァリエーションというか、ひとつのアルバムが一気に流れていくような作品にしたいということはいままでではいちばん意識してました。曲ごとのカラーをけっこうがらっと変えながら、全体としてはひとつの空間にまとまっているような。

今回は英語の歌詞が半分で日本語の歌詞が半分ですか?

サトミマガエ:そうですね。

英語と日本語で半々にしたのはインターナショナル・リリースということがあったからですか?

サトミマガエ:いままでは日本語で歌うというのは自分の音楽の特徴のひとつに捉えていたんです。『Potopo』という自主制作のEPではじめて全部英語の曲をひとつ書いてみたら、別に英語で歌っても自分の曲らしいまま書けるなと思って。今回はオープンにしたいというものあって日本語にこだわらず書いてみたという感じです。

先ほど子供の話をしていただきましたけど、ご自身はこの作品を通じて何を伝えたいと考えてらっしゃいますか?

サトミマガエ:メッセージかはわからないですが、今回のアルバムの“花園"を作ってたときにテーマとして出てきたのは 自分の中や外で大きく起こる変容を受け入れる、身を任せる、ということでした。"Numa" という曲では「爽やかな諦念」がテーマです(笑)。鬱々したものではなくて、その身を任せている変化の流れ、風のような流れを楽しんでる様子を書きたかったです。歌詞がいつもパーソナルになってしまうんですけど、さっき言ったような中和する音楽を目指していたので、今回は日記のようにならないよう曲ごとにまずありふれたモチーフを思い浮かべてみたんですね。石とか風とか海とか。それに投影するかたちで曲をもう少し普遍的なものにしたいと思って。

なるほどね、わかりました。ありがとうございました。またライヴでお会いできることを楽しみにしております。ありがとうございました。

サトミマガエ:ありがとうございます。

(4月22日、ZOOMにて)

Satomimagae - ele-king

 サトミマガエ、憶えてらっしゃるだろうか? かつて畠山地平のレーベル〈White Paddy Mountain〉から作品を発表していた、あまりに独自の世界観を表現するフォークシンガーだ。安易な喩えで恐縮だが、あえてわかりやすく言えば、Grouperと比肩されうるサウンドの持ち主である。孤高の……という言葉も現代は安っぽく使われているが、彼女には相応しいのではないだろうか。
 彼女の新しいアルバムが〈RVNG Intl.〉からリリースされることになった。4月23日、タイトルは『Hanazono』。先行シングル曲「Numa」はリリースされたばかり。忘れがたい音楽が待っています。

Satomimagae – Numa [Video]

Satomimagae
Hanazono

PLANCHA / RVNG Intl.
Cat#: ARTPL-151
CD / Digital
2021.04.23
2,000yen + 税

Track List:
01. Hebisan
02. Manuke
03. Suiheisen
04. Tsuchi
05. Houkou
06. Uzu
07. Kaze
08. Numa
09. Ashi
10. Ondo
11. Kouji
12. Uchu
13. Kunugi (Bonus Track)

※日本独自CD化
※ボーナス・トラック1曲収録
※ヴァイナルはUSはRVNG Intl.、オランダはGuruguru Brainからリリース

Pre-order: https://orcd.co/r6qoo37

Stereolab - ele-king

 1993年から2004年にかけてのステレオラブは、1970年代のデヴィッド・ボウイにも似た活躍を見せ、毎年、新しくて非凡な作品をリリースしていた。個々の作品は単体で見ても優れているのだが、全体として捉えてみると、それがバンドの成長と進化の記録そのものとなって我々を魅了する。

 今回のキャンペーンで再発されるのは、グループ(彼らはたびたび自分たちのことを“group”ではなく“groop”と称する。発音は同じだがgroopには「排水溝」という意味がある)がこの期間にリリースした7枚のスタジオ・アルバムだが、この数字だけでは、当時のステレオラブがどれほど旺盛に制作を行っていたかを説明するにはいささか物足りない。7枚のアルバム以外にも、2枚のミニアルバム、2作品からなるコンピレーション・シリーズ『Switched On』、さらには前衛音楽の伝説的バンド、ナース・ウィズ・ウーンドとコラボレーションした数枚のEPが、同じ時期に生み出されているのだから。彼らに関して興味深いのは、結成して活動を始めたときからバンドとしての完全な形態を成立させており、下積みの期間を飛び越えて、そのままデビューアルバム『Peng!』と複数のシングルとEPを完成させ、それを『Switched On』の1作目に繋げたことだ。

 ステレオラブの下地となっているのは、1980年代のイギリスおよびアイルランドのギター・ポップ・シーンである。このころティム・ゲインが中心メンバーだった騒々しく反抗的な左翼バンド、マッカーシーに、レティシア・サディエールが加入し、バンドにとって最後の(そして最高傑作である)アルバム『Banking, Violence and the Inner Life Today』が制作された。マッカーシーの歌詞は、1980年代のイギリス左派による政治闘争を主要なテーマとしており、しばしば皮肉を込めて、敵対する政治スタンスをあえて標榜し、そうすることで相手の明らかな不合理や偽善を風刺しようとした。マッカーシーの最後のアルバムを聴けば、そこからステレオラブのサウンドが芽生え始めていたことがわかる。ギターの騒がしい音はわずかに鳴りを潜め、それまで以上に瑞々しく多層的なキーボード主体のサウンドが“I Worked Myself Up from Nothing”などの楽曲に現れている。このアルバムでとりわけ興味深い楽曲が“The Well Fed Point of View”で、マッカーシーの定番とも言える、敵の立ち位置を歌に乗せて風刺する手法を採用している──この曲では、自身の幸福と感情の安寧は本質的に個人の問題だと捉えるべきだと聴き手をけしかける。反面、この世界にある残酷さと不公正さもまた、個人に帰する問題だとしている。マッカーシーが言外に主張しているのは、これらは本来、個人の問題ではなく社会の問題だということだ。こうして培われた思想の中核が、やがてはステレオラブの世界観の根幹を成すことになる。すなわち、個人の問題と、社会的もしくは政治的問題の間には、切り離せない相互関係があるということだ。

 ステレオラブが活動を始めたころ、バンドは主にロンドンのミュージシャンたちと交流を持っていた。こうした集まりは「自画自賛の界隈」などと軽蔑されながらも、後のブリットポップに繋がる、何でもありのインディー・ロックシーンを形成していた。当時ステレオラブの周辺には、スロウダイヴ、チャプターハウス、ラッシュなどのシューゲイザーのバンド、またはマッドチェスターの残り火から熱を受け取って早々に名を上げたブラーのようなバンド、そしてシー・シー・ライダー、ガロン・ドランク、ザ・ハイ・ラマズなどの一風変わったパフォーマンスをするバンドなどが存在していた。初期のステレオラブのサウンドには、周囲から受けたさまざまな影響が渾然となっていて、マッカーシーが築いたものをある程度引き継ぎながら、ギターポップとシンセサイザーを組み合わせるだけでなく、シューゲイザーや実験的ポップスの要素も取り入れられている。

 他に初期の彼らに多大な影響を与えたのがクラウトロック、とりわけノイ!というバンドの存在だった。1992年に壮大な叙事詩的傑作『Jehovahkill』をリリースしたジュリアン・コープとともに、ステレオラブは90年代初めにクラウトロックへの注目が再燃した際に中心的役割を果たした。その影響が何よりも華々しく描かれているのが、新たに〈Warp Records〉から再発される作品の中でもっとも古い『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』である。再発されるアルバムの中でも──そしておそらくステレオラブの全アルバムのなかでも──これがバンドにとってもっとも荒削りで、獰猛なサウンドの作品だ。冒頭の曲“Tone Burst”は素っ気なく始まるが、次第にサウンドは分裂し不協和音の層に溶け込んでいく。それでいて、このサウンドを際立たせるのがサディエールによる幻想的で夢のような歌詞だ。このように粗さと優美さを並列させるスタイルは、次の“Our Trinitone Blast”でも続き、ヴォーカルは前面に出る声と後ろを支える声に分かれ、片方が粗野に歪めば一方が甘く歌うというように、まるでラッシュのようなハーモニーを奏でている。“Golden Ball”では、間断なくかき鳴らされるギターコードとともに、特定の箇所で明らかにテープが途切れたかのような効果が再現され、ノイ!のセカンド・アルバム後半で積極的に採用されているような、故意に曲のスピードを変化させる一筋縄では行かない演出を真似ている。対して“I'm Going Out of My Way”では、ほとんど若者向けのバブルガム・ロックと言っていいようなガレージ・ロックのグルーヴを取り入れ、ひたすら反復を続けることでトランス・ミュージックに似た作用を引き出している。

“Pack Yr Romantic Mind”では、ステレオラブの原動力を示す別の重要な一面が見られる。それは、情念もしくは冷笑主義のどちらかに裏打ちされたサディエールの抑揚のない平板な歌い方と、その後ろに聞こえるメアリー・ハンセンによる「ba ba ba」という歌声との間に生まれる相互作用だ。また、『Transient Random-Noise Bursts』が、ザ・ハイ・ラマズのメンバーだった(その前はアイルランドのインディー・バンド、マイクロディズニーのメンバーだった)ショーン・オヘイガンを正式に迎え入れ、初めてその存在を前面に出して制作されたステレオラブのフルアルバムだという点も見逃せない。この時点で、オヘイガンはギター・ポップからより実験的な方向へという自身の転向を踏まえてバンドを導いていた。そこにはブライアン・ウィルソン、ヴァン・ダイク・パークス、バート・バカラック、フィル・スペクターの他、多くのアーティストの影響があった。アルバムの持つ粗さにもかかわらず、“Pack Yr Romantic Mind”のような曲を聴くと、このころから前衛的なイージーリスニングの影響を受けるようになったことが明白だ。これは後にステレオラブの作品においてますます重要な特色となるものであり、ザ・ハイ・ラマズの1994年のアルバム『Gideon Gaye』にも、オヘイガンによる特色として現れている。それでもやはり、この歌とアルバムの他の曲との共通点をひとつ挙げるなら、それはマントラのような繰り返しに専念していることで、歌詞はひとつのフレーズを途切れることなく何度も復唱するものになっている。

 しかしながら、ノイ!が用いたような4ビートのモータリック・サウンドこそが、『Transient Random-Noise Bursts』の特徴としてもっとも強力なもので、楽曲“Jenny Ondioline”の要となっている。歓喜に満ちた18分の歌を構成するのは、のらりくらりと奏でられるキーボード、幾層にも重なるシューゲイザーのギター、反抗的でありながら純真さのあるサディエールの独特な歌声であり、そうした寄せ集めの中で、無限に広がる至福の音が神々しいまでの領域に達している。

 『Transient Random-Noise Bursts』がステレオラブのもっとも荒削りなアルバムであるとすれば、1994年の『Mars Audiac Quintet』は、もっとも激しい怒りが歌われているアルバムかもしれない。明るい曲調の“Ping Pong”の軽快なメロディーは、それまでにない都会的なポップ・サウンドで、同時期に日本で渋谷系と呼ばれ始めていたものと類似する。だが、表面的には前向きなこの曲も、歌詞を見ればその様相が一変する。マッカーシーの戦略を引き継いで、語り手は作詞者の真意とは対極にある考え方を持ち、安心させるような口調で、世の中のことで悩むのはやめるようにと聴き手を促す。

「心配いらない 歴史のパターンはもうわかっているから/経済のサイクルがどんなふうに回っていくか/何十年という周期の中で 3つの局面が繰り返し現れる/不況と戦争があっても そこから挽回して元に戻り さらに上を目指していく」

 この架空の語り手は、厳しい時代でも悩むことはないと聴き手を煽る。なぜなら「ものごとは自然に良くなっていく」からであり、「凄惨な戦争があって死ぬのは数百万人 だから心配いらない/せいぜい彼らの命とその次の世代の命が失われただけのこと」と強調する。最終的には、社会の現状に対してメンバーたちが抱く怒りや不安が、「悩まなくていい 何も言わず そのままでいい 受け入れて幸せになりなさい」という言葉で封殺されていることを明らかにする。

 “Three Longers Later”は、平和を実現するという名目で戦争を行うことの不合理について語る。これは、徴兵制度によって家族から父親を奪われた子供の目を通して描かれる──作詞をしたサディエールの祖国フランスでこの徴兵制度が終了したのは、アルバムリリースの2年後だった(そして本稿執筆時の2019年夏、現大統領エマニュエル・マクロンが何らかの形でこの制度を復活させようと試みている)。このテーマを表現するため、楽曲は童謡と言っていいほど穏やかなメロディーから始まり、やがて爆発してスペースロックと呼ぶにふさわしいクライマックスを迎える。

 “Transporte sans Bouger”では、ますます断片化していくように見える世界を嘆く。人びとは空しい「仮想の夢」の中で生き、「隣人のことを知る必要がない」夢の世界で「一定の距離を置いて愛し合う」。1994年には、まだインターネットが人びとの生活に深く浸透していなかったことを考えれば、これは見事な先見性ではないだろうか。徐々に失われていく友好的な地域社会を懐かしむというのは、いくぶん保守的な考え方だ。だが、ステレオラブは左派としてのスタンスにもかかわらず、現在の問題の解決策を探るために過去を振り返ることを決して厭わなかった。
“International Colouring Contest”は、エキセントリックな音楽家で塗り絵帳の制作者であるルチア・パメラの持つ、創造性と宇宙時代的な楽観主義に対する賛辞のようなものだ。曲の冒頭は、ルチア・パメラによる「私の頭の中はアイデアでいっぱい 最高のアイデアを教えてあげる!」という高らかな声のサンプリングから始まっている。ステレオラブは、創造性とは根本的な変革をもたらすものであり、自由の概念と密接につながっているという意識に繰り返し立ち返っている。

 反対に、想像力を発揮するための道筋を塞いでしまうものがあれば重苦しく感じられるだろう。“L'Enfer Des Formes”は、冷笑的な態度が、変化をもたらすための行動をどのように阻害するかということを述べ、クラウトロックの影響を受けた“Nihilist Assault Group”は検閲制度と道徳的な危機を題材に、それがいかに批評的な感性を潰えさせ、問題を効率的に対処するためのあらゆる現実的な手段が犠牲になるかということを描く。“Wow and Flutter”とアルバムを締めくくる“New Orthophony”は、現在の状況を避けられないものとして受け入れるのではなく、異議を唱えることの必要性に触れる。

 『Mars Audiac Quintet』では、前作同様クラウトロックのリズムセクションの技法に頼っているが、それとともに、紛れもなくアヴァンポップの分野に進んでいる。“Ping Pong”に加えて“L’Enfer Des Formes”もまた、表面的には明るいポップなメロディーを奏で、一方“The Stars Our Destination”と“Des Etoiles Electroniques”では、リズムマシンによる陽気なループ音と、夢幻的なシンセと、絡み合うヴォーカルのメロディーラインが組み合わさって流麗で重層的なサウンドを生み、バンドが進む新たな方向性を示している。

 歴史を辿る旅の次なる停車駅は、1996年の『Emperor Tomato Ketchup』だ。本作でこのバンドのサウンドは完全に刷新されているが、それにもかかわらずステレオラブとすぐに認識できる特徴が残っている。前作までと同様、バンドは前進する過程において過去の芸術を参考にしていて、例えばタイトルは日本の劇作家で映画監督の寺山修司による1971年の同名の映画(『トマトケチャップ皇帝』)から取られたものであり、ジャケットのアートワークは1960年代にリリースされたベラ・バルトーク作曲の『Concerto for Orchestra』のジャケットを下敷きにしている。やはりステレオラブにとってお馴染みの要素がアルバムの中核を成しており──繰り返しのリズム、多層的な音作り、あえて外した曲調のポップス、作用しあうサディエールとハンセンのヴォーカル、そしてマルクス主義を遠回しに表現する歌詞──たとえ今作でいっそう洗練された姿へと進化していても、その点は変わっていない。

 最初の“Metronomic Underground”では、クラウトロックの中でもファンク寄りの部分、つまりノイ!ではなくカンのようなサウンドを引き出しているが、フレーズの繰り返しとドラムのループが変わらず全体を包みながら、それぞれの歌がモータリックのリズムを刻み続ける。例えばアルバムと同タイトルの楽曲“Emperor Tomato Ketchup”や“Les Yper Sound”では、そこにヴォーカルが融合し、数々のアルバムのなかでもとくに甘美でポップなメロディーが用いられている。華麗な“Cybele's Reverie”はプルースト風の内省によって記憶を巡り、ステレオラブのポップ・ミュージックへの傾倒を踏まえて、より豪華でオーケストラ的な演出を志向している。一方他の場面では、バンドは繰り返しとループ再生を探求する中で、さらに新しくて興味深い手法を発見しており、それはミニマル・ミュージックの“OLV 26”や左右のギターが鏡合わせのように鳴らされる“Tomorrow is Already Here”といった曲で窺える。

 歌詞においては、それまでのアルバムと比べてさらに抽象的な世界を探求しているが、このアルバムが個人と社会の関係性というテーマをもっとも明示的に扱っていると言えるかもしれない(少なくとも、ステレオラブの全作品の中で、確実にこのアルバムが一番多く「社会」という言葉を使用している)。“Spark Plug”は、個々の人間やあるいは人間の集団が見せる内なる生命の輝きを、抽象的に捉えるのではなく、実際にあるものとして認識することの重要性を描く。“Tomorrow is Already Here”では、本来は社会に資するために用意された、いくつもの制度が、今では対象を抑圧する元凶となっていることに着目する。対して“Motoroller Scalatron”は、子供向けの歌のように質問と答えを歌詞にするという構成になっていて、社会というものが脆弱な基盤の上に成り立っているのだと語り、現在の社会を維持するには、脆弱な基盤が確かに存在し、そしてそれがしきりに変動しているという考えを共有するしかないと述べる──そして皮肉なことに「言葉の上に築かれた」社会では、我々が言った言葉、あるいは言わないことを選択した言葉が、最後には計り知れない結果を招くことがあるのだとも述べる。

 そしておそらく、さらに意義ある変革が、次のアルバム『Dots and Loops』で成された。『Emperor Tomato Ketchup』がリリースされたのと同時期に、シカゴ出身のバンド、トータスが画期的なアルバム『Millions Now Living will Never Die』をリリースし、その少し前にはドイツ生まれのデュオ、マウス・オン・マーズがセカンド・アルバム『Iaora Tahiti』をリリースしていた。3つのグループはいずれも、急速に拡大したにもかかわらず定義が曖昧なままだったポスト・ロックというジャンルのなかで大きな役割を担った。1990年代当時のポスト・ロックを理解するには、ジャーナリストのサイモン・レイノルズの記述がもっとも適しているだろう。「ロックの楽器編成をロックではない用途に使い、ギターはリフやパワーコードを奏でるのではなく、音色や響きを補助するものとして使用される」

 コラボレーション相手としてマウス・オン・マーズを選び、トータスのジョン・マッケンタイアをプロデューサーに迎えたことで、『Dots and Loops』はポスト・ロック黎明期の才能がぶつかり合う場となった。ディストーションのかかった電子音で始まり、そのまますぐに軽快なブレイクビーツに続く“Brakhage”では、サディエールが夢のような声で、消費主義の影響を受けて感覚が麻痺してしまうことを嘆く。一方、先行シングルの「Miss Modular」は、ラウンジ・ミュージックの美しい作品で、歌詞は、戯れや神秘、そして目の錯覚といった比喩に言及している──抽象的な比喩表現のために主題がわかりにくいかもしれないが、フランスの状況主義(人の行動は状況によって決定されるところが大きいとする考え方)の先導者ギー・ドゥボールが消費主義を批判したその著作『スペクタクルの社会』にバンドが親近感を抱いていることからも明らかなように、こうした比喩表現が暗示しているのは、人為的なもの──すなわちスペクタクル──が現実と想像、あるいは歴史と終わらない現在の違いを見極める人間の能力を圧倒してしまうときに、社会的な関係性がより広い意味を持つということであるのは確かだろう。このアルバムに特定のテーマがあるとすれば、それは孤立かもしれない。社会や近しい人たちからの孤立だけでなく(そして個人と社会は不可分だとするステレオラブの世界観を考えれば必然的に)自我や自身の感覚からの孤立もまたテーマである。

 マッケンタイアとの関係は続く2枚のアルバム、1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』と2001年の『Sound Dust』でも続き、その2作には、共同プロデューサーとしてジム・オルークが加わった。『Dots and Loops』に比べればエレクトロニック・サウンドはあからさまではなく、この2枚のアルバムでは、バンドはジャズの影響を取り入れて純然たるアヴァン・ポップの方向に進んでいった。

 『Dots and Loops』が孤立の感覚を携えているとすれば、『Cobra and Phases』はバンド史上もっとも希望に満ちた音が鳴るアルバムである。少なくともその要因の一端は、ゲインとサディエールの間に子供が誕生したことにある。それは“People Do it All the Time”ではっきりと言及されていて、歌詞では、創造的営みの混沌たる作用である生命の誕生を大いに喜んでいる。「混沌のなかから創造が生まれる/ひとつの形に結びついて/酒飲みが正気になるように」そして子供は希望で満たされるべき器であると位置づけ「あなたにはのびのびと育ってほしい/私たちが守っている古い考えを蘇らせて」と宣言する。

 自由に育っていくことは「古い考えを蘇らせる」ことと両立しなければならないという考え方は、ステレオラブが繰り返してきた、前に進むには振り返ることも必要になるだろうというテーマに対する新しい切り口だ。アルバム全体を通して、(単なる誕生や発見ではなく)生まれ変わりや再発見というイメージが繰り返し登場する。“The Free Design”でサディエールは「願いが届きいつでも復活させられる/私たちにできるのはプロジェクトを再生させるだけ」と歌い、過去のプロジェクトで未完成のまま残されたものがあることをほのめかしている。一方“Puncture in the Radax Permutation”に登場する「孤独に歩む人の形をしたもの」は、それが「五感を取り戻」そうとする姿を通して「自分の歩調を再発見する」ことの象徴として描かれる──新しさとは過去を振り返ることに結びついている、そして、生命のサイクルと生まれ変わりが意味するのは、新しいものは必ず何か古いものと同一であるということだ。そのような考えが、ここで再度強調されているのかもしれない。

 『Cobra and Phases』は官能的なアルバムで、最初と最後には愛についての歌が並び、大地と自然のイメージに何度も立ち返っている。本作は、サディエールが女性として生きることをはっきりと単刀直入に歌っている希有な事例であり、フェミニズムのテーマが「Caleidoscopic Gaze」や、クラウトロックにわずかながら回帰した「Strobo Accelleration」で前面に出ている。

 『Cobra and Phases』では楽観的な姿勢が念頭にあったが、『Sound Dust』はさまざまな意味でステレオラブのもっとも陰鬱なアルバムで、資本主義に内在する人間性の剥奪と社会の抑圧を扱うテーマに戻っており、“Gus the Mynah Bird”では「自己決定とは事実として存在しなければならない/本来は権利などではない」と断言して、資本主義は偽りの自由を提供し、嬉々として社会の抑圧と結託するのだと示唆する。“Space Moth”で参考にしているのは2人の映画監督、ジャン・ルーシュとエドガール・モランで、彼らによる1960年の映画『ある夏の記録』は、フランスの多様な人々、なかでもとりわけ労働者階級の人々にとっての幸福をテーマに、幸福とは政治と自由に密接な関連があるという考えのもと、戦争、検閲制度、人種の問題に触れ、ホロコーストを痛切に描いている。この歌の「人間はその職に応じて変わる」というフレーズは、再度、資本主義を自由と相反するものとして位置づける。

 “Nothing to Do with Me”の歌詞は、イギリスの風刺作家クリス・モリスによる陰気でシュールなコメディーから直接引用されている。そのテレビ番組『ジャム』は、不気味なアンビエントミュージックを短編コメディーに組み合わせ、タブーを破り、ドクターと呼ばれる人種は利他的な人々ではないという描写を用いたことで、イギリスで議論の的となった。モリスが描くドクターは、しばしば混沌の仲介者となる。それは自分たちに頼る人々の信頼を不明確な理由で悪用する権威の象徴である。「私の娘に1ポンドのヘロインを処方したの?」と歌の途中でサディエールは尋ねる。他の箇所では、顧客と依頼人という微妙に異なる立場の関連性に混乱が生じ、ひとりの女が配管工に頼みごとをする。「先日は本当に助かりました/おかげでボイラーが直りました/今度はうちの赤ちゃんを直してくれませんか/あの子はもう3週間も動かないの」どちらの例においても、社会的な関係性が悪用されているのだが、社会的に定められた当事者同士の関係性は、それでもなお形式的には妥当な手続きに守られており、穏やかで理性のある様子を見せることは、他者を威圧する非常識な人間に付け入られることに繋がる。

 だが、それ以上に『Sound Dust』は二重性についてのアルバムだと思われる。ステレオラブの曲の多くが、対立する概念を考察して真理に至ろうとする弁証法的アプローチを採用し、2つの対立する勢力や立場に折り合いをつけることを論じていて──命題とそのアンチテーゼがあってこそ、総合的な判断ができるということだ──その構造が変わらず存在する。「Baby Lulu」の歌詞は「両極端なものは一致していた/即興を奏でる/合理的にそして詩的に/すぐに矛盾を見極めながら」と述べている。そしてこれは、バンドにとって、これまででもっとも率直に邪悪という概念に向き合ったアルバムだということでもある。「Naught More Terrific than Man」の歌詞に「ふたつの対極点が人の歩みを導く」とあり、対極点のうちのひとつが邪悪そのものとして描かれる。そして「Suggestion Diabolique」では、邪悪の概念が明らかに聖書を意識した内容で表される。メロディーの華麗さや温かさや美しさは、歌詞の暗さや厳粛さと相まって、アルバムのテーマと同様の二重性を有している。

 このような特徴は、アルバムの音楽的な構成にも反映されており、多くの曲がふたつのパートで構成されている。曲の前半と後半では、メロディーもアレンジも、まったく別のものが展開される。もっとも際だった事例が、楽しげな“Captain Easychord”で、生と死のサイクルというテーマに戻り、それを突き詰めた結果、もっとも基本的な息を吸って吐くという行為のサイクルによってそのテーマを表現している。

 『Sound Dust』はメアリー・ハンセンが参加した最後のアルバムとなった。ハンセンが翌年、交通事故で他界したからだ。今回の再発キャンペーン最後のアルバムとなる2004年の『Margerine Eclipse』には、ハンセンに捧げるという側面がある。楽曲“Feel and Triple”では直接別れに言及し、“Need to Be”では、今あるものを認めるために、痛みや寂しさや死への恐れを受け入れることの必要性を語り、そして“…Sudden Stars”では、愛に向き合って喪失の悲しみを尊重することを伝える。

 当時のヨーロッパやアメリカの政治状況もまた、アルバムのあちらこちらに影を落としている。それは、アフガニスタンやイラクでの戦争、自分たちの中にムスリムという「他者」がいることで具体化したテロの恐怖の増大、そしてますます過度になる国家の監視という姿で現れている。“La Demeure”はこの他者への恐怖を描き、“Bop Scotch”は、我々は自由と安全を天秤にかけられるのかという問いかけを論じる。

 死と恐怖が影を落としているにもかかわらず(あるいは、だからこそと言うべきか)『Margerine Eclipse』はステレオラブのもっとも明るいアルバムのひとつでもあり、また、間違いなくもっともファンク寄りのアルバムで、豊かで濃密なシンセとベースのサウンドが派手に鳴らされながら推進する。そしてこれはもっとも明確に愛を謳ったアルバムであり、最後の曲“Dear Marge”では愛することと学ぶことを関連づけていて、反面、愛と共感が欠けていれば人は学ぶことも成長することもままならないという含みを持たせている。

 『Sound Dust』と同様、弁証法的な構成が『Margerine Eclipse』の基礎を作っている。『Margerine Eclipse』では、ミックス時にすべての楽器の音が極端に右か左にパンをした状態で配置されていて、左右それぞれのサウンドが独立して成立していながら、それでいて同時に聴いたときに2つが統合されるように設計されている。

 この期間に製作された作品を聴いた上で改めて問うてみよう。ステレオラブにとって、バンドとして本当に重要なことは何だろうか?

 このバンドを理解するためのひとつの手段は、同じ時代の見地から彼らを探ってみることだ。この7枚のアルバムは、ソビエト連邦の崩壊に始まり、2001年9月11日にワールドトレードセンターが攻撃され冷戦後のアメリカにもはや敵はいないという意識が粉砕された10年間と、密接に重なっている。

 経済学者フランシス・フクヤマによって「歴史の終わり」と表現されるこの時代には、社会全体が持つ大規模な想像力が通用しなくなったという特徴がある。20世紀に繰り広げられた巨大なイデオロギー同士の闘争は終焉を迎え、自由資本主義が勝利を収めた。それに取って代わるものは存在しなかった。そして評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んだ考え方が浸透した結果、さまざまな未来の展望が示されても、すべてが必ずしも「二番煎じ」とは限らなかったにもかかわらず、それらを一律に実現不可能なものとして扱う風潮が生まれた。

 この考え方こそ、ステレオラブが繰り返し非難してきた敵そのものだ。『Mars Audiac Quintet』収録の“Wow and Flutter”の歌詞が、それをもっとも明快に表現している。

 「IBMはこの世界とともに誕生したのだと思っていた/アメリカの旗は永遠に漂うのだろう/冷淡な敵対者は早々にいなくなった/資本家はこれからもついていかなくてはならない/それは永遠でも不滅でもない/そう きっと変わっていくだろう/それは永遠でも不滅でもない/化石のような法律なのだから」

 資本主義リアリズムは人の想像力に制限を加えることで、狡猾で抑圧的な力を持つ。そしてステレオラブにとって、これを克服するには、意識を高く持ち、独創的な(そして夢想的な)精神を発揮するより他にない。状況主義の誕生と、1968年のパリで起こった五月革命(学生たちの運動に端を発したフランスの社会的危機で、世界中の社会運動に多大な影響をもたらした)で示されたように、個人の創造性と構想力が発揮される類まれな瞬間に、社会にショックを与えて、ひとつのサイクルを終わらせ、世のなかを新しい段階へ引き上げることができる。ちょうど『Emperor Tomato Ketchup』のジャケットに描かれた螺旋のように、変わらず周回を続けながらも、常に空に向かって上昇するのである。この意味で、ステレオラブの展望には、フィッシャーが不慮の死の直前まで展開していた思想や、彼が「アシッド共産主義」と称した概念と共通する部分がある。この意味における共産主義とは、資本主義者の自己満足に向かって投げ込まれた修辞上の爆弾であり、20世紀の共産主義体制の再現ではない。そもそもスターリンの抑圧体制は、フィッシャーやステレオラブのような人びとにとっては常に恐怖の対象だった。むしろ彼らは五月革命の子供世代(フィッシャーとサディエールは共に1968年生まれ)であり、アシッド・ハウス全盛のときに成人を迎えた──両者の展望は、地域社会に分散した自発的な活動の影響を受けている。「アシッド共産主義」の「アシッド」という名称は幻覚剤から取られたものかもしれないが、その真の意味は、言葉が持つ以上のものがある。アシッドすなわちLSDは、意識を上昇させ新たな段階に引き上げる行為の同義語となっており、さらにその背後には実験や探求という意味合いも込められるようになった。これはまた、ステレオラブが新たな表現に至るために再三にわたって創造性を引き出そうとしていることと深く合致している。そして『Mars Audiac Quintet』では明確にこのテーマに向き合っており、“Three-Dee Melodie”にはこう歌われている。

 「存在することの価値は/宗教やイデオロギーによって与えられるのではない/意味があろうとなかろうとそれは崖っぷちに出現する/それこそが創造的に生きることで得られる唯一の力」

 では、フィッシャーが語っていたように「未来が取り消された」とき、それをもう一度、発見し直すにはどうすればいいだろうか? ひとつの手段は過去に目を向けることだ。

 取り消された未来の幻影は、現在を生きる我々を苛む。その姿は、あるときはノスタルジーとなり、あるときは俗悪なものとなり、あるときは我々の充実感を潰えさせるほどの威力を持ったままで現れる。フィッシャーは、過去と現在が共存する不自然なこの状況を「憑在論」と呼んだが、前を向く人々にとっては、このように未来が失われたことは、一旦退いた上で新たな道を探して前進するための好機となる。1960年代のヒッピーによるカウンター・カルチャー、1968年の五月革命、昔のサイエンスフィクション作家たちが描いた理想郷の姿というように──ステレオラブの美的価値観は、彼らが過去を掘り進め、独自の理想郷への道を開いていることから、ときに「レトロフューチャー」と評される。初期におけるクラウトロックへの執着もまた、過去の光景を想像しながら再訪し、その先に何か新しいものを追い求めることで、未来に目を向けるためのものである──この結果として、図らずもポスト・ロックが誕生する一助となったのである。

 往々にして革命の実体は幻影のようなものだ。なぜなら、それは現実となるまでは物質的な姿を持たない概念として存在し、静かに現在の体制を脅かしていくからだ。よく知られているように、マルクス自身が共産主義を「ヨーロッパに取り憑いた」亡霊であると表現したが、この場合のより適切な描写は、1819年のピータールーの虐殺(選挙法の改正を求めてマンチェスターの広場に集まった群衆を騎兵隊が鎮圧しようとして多くの死傷者を出した事件)で犠牲になった人びとについて急進的詩人パーシー・ビッシュ・シェリーが述べた「彼らの墓所からは輝かしい幻が飛び出してくるだろう」という表現だろう──果たされなかった革命は、それでもなお、いずれ蘇ってその目的を達成するかもしれないという脅威を孕んでいる。1960年代に成し得なかった革命の数々は、取り消されたその他のあらゆる未来と同じように、ステレオラブの楽曲に息づいている。

 ステレオラブの作品で中核となる弁証法的手法があるとするならば、彼らは問題を解決するために、常に意識を高めて創造性を抑制しないという方向性を目指しているように見受けられる──想像や創作から何か新しいものが生まれる希有な瞬間、それはより自由な世界へ突き進むための革命的手段として世界に登場する。そこに立ちはだかるのが、世界はともすると同じパターンやサイクルを繰り返してしまうという事実だ。例えば、不況で経済が落ち込み戦争が起こり回復していくように、愛が花開いて枯れていくように、そして死と再生のサイクルがあるというように。ステレオラブの音楽は、それ自体がこの世界に呼応している。その形式は繰り返しによって定められながら、創造的発見が生まれる類まれな瞬間に前進して新しいパターンを獲得する。あるいは別の言葉で表すなら、これはまさにアルバム『Dots and Loops』のタイトルのごとく「点とループ」が織りなすシンフォニーだ。

 

Stereolab in the years 1993 to 2004 were like David Bowie in the 1970s in that every year saw them release something new and extraordinary, each a wonderful record in its own right, but taken together adding up to a fascinating document of a band’s growth and development.

The current batch of re-releases encompasses the seven studio albums the group (or “the groop”, as they often referred to themselves) released over that period, although this slightly understates just how productive Stereolab were at that time, with two mini-albums, two volumes of their excellent “Switched On” compilation series, and a couple of collaboration EPs with avant-garde legend Nurse with Wound also falling within the same timeframe. What’s interesting about them is that they start off with the band fully-formed in their first incarnation, skipping over the period of finding their feet that that defined their debut album “Peng!” and the singles and EPs that made up the first “Switched On” compilation.

Stereolab’s background lies in the British and Irish 1980s guitar pop scene, with Tim Gane having been a key member of the jangly and defiantly left-wing McCarthy, joined by Laetitia Sadier for their last (and best) album “Banking, Violence and the Inner Life Today”. McCarthy’s lyrics mostly focused on the political struggles of the 1980s British left, often ironically adopting the stance of political enemies in order to satirise their perceived absurdities or hypocrisies. It was on that final McCarthy album that you start to hear the early murmurs of Stereolab, with the band dialing the guitar jangle back slightly in favour of a more lush, layered, keyboard-based sound on songs like “I Worked My Way Up from Nothing”. A particularly interesting song on this album is “The Well Fed Point of View”, which takes the standard McCarthy approach of satirically vocalising their enemy’s position – in this case, a voice encouraging listeners to see their happiness and emotional wellbeing as essentially individual issues, with the flipside of that being that the cruelty and injustice of the world is also the problem of individuals. McCarthy’s implied message, that these are actually social rather than individual issues, lays down a key idea that would become a key part of Stereolab’s worldview: the inseparable interrelationship between the personal and the social or political.

In Stereolab’s early days, they were connected to a cluster of musicians in London, known cynically as “the scene that celebrates itself”, as well as the eclectic pre-Britpop indie scene. Around them at that time were shoegaze bands like Slowdive, Chapterhouse and Lush, bands like Blur, who had risen to early fame heated by the dying embers of the Madchester scene, and oddball acts like See See Rider, Gallon Drunk and The High Llamas. The early Stereolab sound shows a mixture of these influences, picking up in part from where McCarthy left off, combining guitar pop with synthesisers, but also drawing on elements of shoegaze, and experimental pop.

The other big influence in these early days is krautrock, and Neu! in particular. Along with Julian Cope, whose epic cosmic masterpiece “Jehovahkill” came out in 1992, Stereolab were key figures in the revival of interest in krautrock that bloomed in the early ’90s. It’s this influence that and the expresses itself most spectacularly on the oldest of the new Warp Records re-releases, “Transient Random-Noise Bursts with Announcements”. Of all the re-releases – perhaps of all Stereolab albums – this is the band’s rawest and most sonically brutal. The opening song, “Tone Burst” begins simply, but gradually dissolves into layers of sonic discord, but set against this are Sadier’s deamily romantic lyrics. That juxtaposition of harsh and sweet continues on “Our Trinitone Blast”, with the vocals pinging back and forth, one part harsh and distorted and the other sweet, Lush-like harmonies. “Golden Ball”, with its relentless, clanging guitar chord, fakes an apparent tape breakdown at one point in a way that echoes the frequent, deliberately awkward speed-changes in side two of Neu!’s second album. Meanwhile, “I’m Going Out of My Way” takes a garage rock, almost bubblegum, groove and turns it into something trancelike through sheer repetition.

“Pack Yr Romantic Mind” showcases another key aspect of the Stereolab dynamic: the interplay between Sadier’s plain vocal delivery, uninflected by either passion or cynicism, and Mary Hansen’s backing “ba ba ba”s. It’s telling as well that “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s first full album to feature Sean O’Hagan of The High Llamas (formerly of Irish indie band Microdisney) as an official member. O’Hagan was at this point navigating his own transition from guitar pop to something more experimental, drawing on the influences of Brian Wilson, Van Dyke Parks, Burt Bacharach, Phil Spector and more. Despite the album’s harshness, tracks like “Pack Yr Romantic Mind” reveal the beginnings of an avant-garde easy listening influence that would become an increasingly important feature of Stereolab’s work, as well as O’Hagan’s on The High Llamas’ 1994 album “Gideon Gaye”. Nonetheless, one thing the song has in common with the rest of the album is its dedication to mantric repetition, with the lyrics just a single phrase repeated over and over again in a loop.

The motorik sounds of Neu! are what most powerfully define “Transient Random-Noise Bursts” though, and the centrepiece is Jenny Ondioline, a joyous 18 minutes of droning keyboard, layered shoegaze guitars, and Sadier’s uniquely disaffected-yet-wide-eyed vocals that punches through pastiche into a heavenly realm of cosmic sonic bliss.

If “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s harshest sounding album, 1994’s “Mars Audiac Quintet is perhaps their lyrically angriest. On the upbeat “Ping Pong”, the bouncy melody parallels the sophisticated emerging pop sounds that were starting to get called Shibuya-kei in Japan at this time, but the song’s superficial positivity is undercut by its lyrics. Following the McCarthy playbook, the narrator adopts a position opposed to the author’s true intentions, taking the reassuring tone of someone urging the listener to stop worrying about the world.

“It's alright 'cause the historical pattern has shown / How the economical cycle tends to revolve / In a round of decades, three stages stand out in a loop / A slump and war, then peel back to square one and back for more.”

The fictional narrator urges the listener not to worry about bad times because “things will get better naturally”, noting that “There's only millions that die in the bloody wars, it's alright / It's only their lives and the lives of their next of kin that they are losing,” and finally revealing their own anger and disquiet at seeing the status quo questioned by declaring, “Don't worry, shut up, sit down, go with it and be happy.”

“Three Longers Later” talks about the absurdity of waging war in order to achieve peace through the eyes of a child seeing their father ripped away from his family by military conscription – a system that wouldn’t be ended in lyricist Sadier’s home country of France until two years later (and which current president Emile Macron is, at the time of writing in summer 2019, trying to bring back in some form). It does this over a melody that begins quietly, almost like a nursery rhyme, and then explodes into a spacerock climax.

“Transporte sans Bouger” laments a world that seems to be becoming increasingly atomised, with people living in a lonely “virtual dream” with “no need to know your neighbour”, in which we “make love at a distance”. Given that the internet hadn’t penetrated people’s lives very deeply in 1994, this seems prescient. It is also rather conservative in its yearning for an increasingly lost sense of neighbourly community, but despite their leftist outlook, Stereolab were never averse to looking back to the past to find solutions to the problems of the present. “International Colouring Contest” is a tribute of sorts to the creativity and space-age optimism of eccentric musician and colouring book creator Lucia Pamela, who is sampled at the beginning of the song exclaiming, “I’m so full of ideas, and here’s a good one!” Repeatedly, Stereolab return to the notion that creativity is a fundamentally revolutionary act, and one inextricably bound up with the idea of freedom.

The inverse of that is that anything that closes off routes through which the imagination can travel is oppressive. “L’Enfer Des Formes” notes the way cynicism kills action for change, while the krautrock-influenced “Nihilist Assault Group” is concerned with censorship and moral panic, and how that annihilates critical sensibilities at the expense of effectively dealing with problems in any real way. “Wow and Flutter” and the closing “New Orthophony” both touch on the need to challenge rather than accept as inevitable the way things currently are.

While “Mars Audiac Quintet” relies on a similar toolbox of krautrock rhythms as its predecessor, things are also clearly moving forward into avant-pop territory. In addition to “Ping Pong”, “L’Enfer Des Formes” is another superficially upbeat pop melody, while “The Stars Our Destination” and “Des Etoiles Electroniques” both combine bubbly rhythm machine loops, dreamy synths and intertwining vocal lines into a smooth, layered sound that points a new way forward for the band.

The next stop on that journey was 1996’s “Emperor Tomato Ketchup” which completely blew apart the band’s sound while remaining instantly recognisable as Stereolab. As before, there are nods to the past in how the band move forward, with the title being drawn from Japanese playwright and director Shuji Terayama’s 1971 film of the same name and the cover artwork being based on a 1960s release of Bela Bartok’s “Concerto for Orchestra”. Nevertheless, the familiar Stereolab elements still make up the core of the album – the repetitive rhythms, the layered production, the off-kilter pop tunes, Sadier and Hansen’s vocal interplay, and the obliquely Marxist lyrical themes – albeit now developed into something far more sophisticated.

The opening “Metronomic Underground” draws from a funkier side of krautrock, more Can than Neu!, but still wrapped up in repetition and looping rhythms, while the songs that retain motorik rhythms, like the title track and “Les Yper Sound” marry it with vocal lines that employ some of the albums sweetest pop melodies. The gorgeous “Cybele’s Reverie” is a Proustian meditation on memory, that takes Stereolab’s pop inclinations in a more lushly orchestral direction, while elsewhere the band find ever more new and interesting ways to explore repetitions and loops, from the minimal “OLV 26” to the mirrored guitar clang of “Tomorrow is Already Here”.

Lyrically, it explores more abstract places than previous albums, but it’s perhaps the album most explicitly concerned with the relationship between the individual and society (certainly it’s the album in Stereolab’s catalogue that uses the word “society” most). “Spark Plug” is concerned with the importance of recognising the innate spark of life in an individual or collective group rather than viewing them in the abstract. “Tomorrow is Already Here” deals with institutions originally set up to serve society, now become something oppressive. Meanwhile, “Motoroller Scalatron”, with its children’s song-like question-and-answer structure talks about the fragile basis on which society is constructed, maintaining its existence only on a shared agreement that it exists, and constantly in flux – as well as the irony that, in a society “built on words”, the words we say, or choose not to say, can end up having huge consequences.

Perhaps an even more significant shift came with the next album, “Dots and Loops”. At around the same time that “Emperor Tomato Ketchup” was being released, Chicago-based Tortoise were releasing the landmark “Millions Now Living will Never Die” and German duo Mouse On Mars had recently released their second album “Iaora Tahiti”. All three were key acts in the burgeoning but nebulous genre of post-rock, which at this point in the 1990s can best be understood using journalist Simon Reynolds’ description as, "using rock instrumentation for non-rock purposes, using guitars as facilitators of timbre and textures rather than riffs and power chords."

Bringing in Mouse on Mars as collaborators and Tortoise’s John McEntyre as producer, “Dots and Loops” was a collision of early post-rock talent. Opening with a burst of electronic distortion, it swiftly moves into the skittering breakbeats of “Brakhage”, Sadier dreamily bemoaning the narcotising effects of consumerism. Lead single “Miss Modular”, meanwhile, is a beautiful slice of lounge pop with lyrics touching on imagery of games, mystery and tricks of the eye – abstract imagery with an opaque subject, but one that, for a band undoubtedly familiar with French situationist leader Guy Debord and his consumerist critique “The Society of the Spectacle”, surely hints at wider social relevance in the way the artificial – the spectacle – overwhelms our ability to discern a difference between reality and representation, history and endless present. If there’s a particular theme of the album, it might be that of alienation, not only from society and people close to you, but also (and necessarily given the way the individual and society are inextricable in Stereolab’s worldview) alienation from the self and one’s own feelings.

The collaboration with McEntyre continued over the next two albums, 1999’s “Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night” and 2001’s “Sound Dust”, with Jim O’Rourke joining as co-producer on both albums. Less explicitly electronic than “Dots and Loops”, these two albums see the band picking up on its jazz influences and advancing with them into pure avant-pop.

If “Dots and Loops” carried a sense of alienation, “Cobra and Phases” is the band’s most hopeful sounding album, with at least part of that coming from the birth of Gane and Sadier’s child, explicitly referenced on “People Do it All the Time”, which revels in the birth as a chaotic act of creation, “Out of chaos, a creation / Binding into one form / Lucid drunkenness” and positions the child as a vessel of hope, declaring, “I want you free when you grow, boy / Revive the old idea that we carry.”

The idea that growing up free should go together with “reviving an old idea” is a new angle on Stereolab’s recurring theme that moving forward may require looking back. Throughout the album, images of rebirth and rediscovery (rather than simply birth and discovery) keep cropping up. On “The Free Design” Sadier sings “The request is here ready to resurrect / What else can we do but recover the project” hinting at a past project left unfinished, while the “lonely walker humanoid” of “Puncture in the Radax Permutation” is described as “rediscovering your own pace” as it tries to “repossess the senses” – the idea of newness being linked to going back to something, and perhaps also of the cycle of life and rebirth meaning that everything new is something old just come round again.

“Cobra and Phases” is a sensual album, opening and closing with songs about love, and constantly returning to images of earth and nature. It’s also a rare example of Sadier singing explicitly and directly about being a woman, with feminist themes coming to the fore in “Caleidoscopic Gaze” and krautrock slight return “Strobo Accelleration”.

With the positive attitude of “Cobra and Phases” in mind, “Sound Dust” is in many ways Stereolab’s darkest album, returning to themes touching on the dehumanisation and oppression inherent in capitalism in songs like “Gus the Mynah Bird”, which declares “Self determination should be a fact / not essentially a right,” and suggests that capitalism offers false freedom, and will happily collude with oppression. “Space Moth” references the filmmakers Jean Rouch and Edgar Morin, whose 1960 film “Chronicle of the Summer” deals with the subject of happiness among various, mostly working class, people in France, touching on war, censorship, race, and poignantly the Holocaust, with the idea that happiness is closely linked to politics and freedom. The line in the song “L'homme est réduit à son travail” – “man is reduced to his job” – again positions capitalism as antagonistic to freedom.

The song “Nothing to Do with Me” takes its lyrics directly from the dark, surreal comedy of British satirist Chris Morris, whose TV show “Jam” combined eerie ambient music with comedy sketches and was controversial in the UK for breaking the taboo against portraying doctors as less than altruistic people. Morris’s doctors were often agents of chaos: figures of authority who abused the trust of people who relied on them, for opaque reasons. “Did you prescribe my daughter a pound of heroin?” asks Sadier at one point in the song. Elsewhere, the relationship between customer and client is turned on its head as a woman asks a plumber, “You did such a great job / With the boiler last time / Please can you mend my baby / He hasn't moved for three weeks.” In both instances, a social relationship is being abused, but the socially defined relationships between the participants are still followed in a formally proper way, the form and appearance of calm rationality put into the service of the terrifying and absurd.

More than this, though, “Sound Dust” feels like an album about duality. Many of Stereolab’s songs are dialectic in that they deal with reconciling two opposing forces or positions – the thesis and antithesis birthing a synthesis – and that structure is still present here. “Baby Lulu” delivers the line “extremes reconciled / improvisation / rational and poetical / summing up contradictions”. It’s also the most direct the band ever were about the notion of evil, referencing it as one of the “two poles guiding his step” in “Naught More Terrific than Man”, and giving it an explicitly Biblical face in “Suggestion Diabolique”. The lushness, warmth and beauty of the melodies works in a similar dualistic way with the darkness or gravity of the lyrics.

This is reflected in the musical structure of the album too, with many of the songs having a two–part structure, where the first and second half of the song follow quite different melodies and arrangements. The most striking example is the joyous “Captain Easychord”, which returns to the theme of the life and death cycle, boiling it down to its most basic representation in the cycle of inhaling and exhaling breath.

“Sound Dust” was the final album to feature Mary Hansen, who was killed in a road accident the following year. The last album of this current batch of re-releases, 2004’s “Margerine Eclipse” is in part a tribute to Hansen, with the song “Feel and Triple” a directly addressed farewell, “Need to Be” talking about the need to embrace pain, loneliness and fear of death in order to recognise the now, and ‘…Sudden Stars’ dealing with embracing love and respecting loss.

The political situation in Europe and America at the time also hangs over parts of the album, in the shape of the wars in Afghanitan and Iraq, rising fear of terrorism embodied in the “other” of the Muslim in our midst, and increasingly intrusive state surveillance. “La Demeure” references this fear of the other, while “Bop Scotch” deals with the question of whether we can trade freedom for security.

Despite (or perhaps because of) the death and fear hanging over it, “Margerine Eclipse” is also one of Stereolab’s most upbeat albums, and certainly their funkiest with its rich, thick, squelchy synth and bass sounds. It is the album that most explicitly addresses love, with the closing “Dear Marge” tying love up with learning, with the implied flipside that lack of love or empathy prevents us from learning or growing.

Like “Sound Dust” there is a dialectical structure underlying “Margerine Eclipse”, with the album being mixed with all the instruments panned to the extreme right or left, with each channel designed to work either independently or as a synthesis of the two made when both are listened to together.

After listening over this span of work, what is Stereolab really about as a band though?

One way to make sense of the band is to look at them through the prism of their times. These seven albums closely overlap with the ten-year period after the fall of the Soviet Union and the aftermath of the September 11th, 2001 attack on the World Trade Center that shattered America’s sense of post-Cold War invulnerability.

This period, described by Francis Fukuyama as “The End of History”, was characterised by a shutting down of the public imagination on a mass scale. The struggle between great ideological movements of the 20th Century was over and liberal capitalism had won: there was no alternative. A mindset took hold of what the critic Mark Fisher called “capitalist realism”, which made any vision of the future that didn’t essentially amount to “more of the same” seem impossible.

This mindset is the enemy against which Stereolab constantly rail. The lyrics to “Wow and Flutter” from “Mars Audiac Quintet” express it most clearly:

“I thought IBM was born with the world / The US flag would float forever / The cold opponent did pack away / The capital will have to follow / It's not eternal, imperishable / Oh, yes it will go / It's not eternal, interminable / The dinosaur law.”

The limits capitalist realism place on the imagination are what make it such an insidiously oppressive force, and one that, for Stereolab, can only be overcome by the lifting of consciousness and the opening up of the creative (and the romantic) mind. As with the situationists and the 1968 Paris Spring, unique moments of individual creativity and imagination can jolt society out of one of its cycles and elevate it to a new level, like the spiral on the cover of “Emperor Tomato Ketchup”, ever-circling but always reaching skyward. In this sense, Stereolab’s vision shares something in common with the ideas Fisher was developing before his untimely death, and which he referred to as “acid communism”. In this sense, communism is really functioning as a rhetorical bomb thrown into the midst of capitalist complacency rather than a recreation of the communist regimes of the 20th century. The repressiveness of Stalin would have been a horror to people like Fisher and Stereolab: rather they were children of the Paris Spring (both Fisher and Sadier were born in 1968), who came of age at the height of acid house – both visions of decentralised, spontaneous, communal action. The “acid” of “acid communism” may take its name from psychedelic drugs, but its true meaning perhaps lies more in what it represents. Acid or LSD has become synonymous with the act of elevating consciousness to a new level, with an underlying meaning of experimentation and exploration. This again locks in very well with Stereolab’s repeated invocation of creativity as a route to revelation. Again, “Mars Audiac Quintet” tackles the theme explicitly, this time on “Three-Dee Melodie”:

“The meaning of existence / Can't be supplied by religion or ideology / The sense or non-sense that will emerge from the precipice / Is only the impact of a creative activity”

So when, as Fisher put it, “the future has been cancelled”, how do we rediscover it anew? One way, is to look to the past.

The ghosts of cancelled futures haunt the present, sometimes as nostalgia, sometimes as kitsch, sometimes as something that still has the power to jolt us out of our complacency. Fisher referred to this uneasy coexistence of past and present as “hauntology”, but for those of us looking ahead, these lost futures can provide opportunities to step back and find a new route forward. The hippy counterculture of the 1960s, the 1968 Paris Spring, the utopian visions of old science-fiction authors – Stereolab’s aesthetic is often described as “retro-futurist” because of the way they mined the past for routes towards their own utopia. Their early obsession with krautrock is another way of looking to the future by revisiting past visions of what it might be like and pursuing those lines towards something new – in this case, helping to bring post-rock into existence in the process.

Revolution often takes the form of a ghost because, before it can become real, it will exist as an idea without corporeal form, silently threatening the status quo. Marx himself famously described communism as a spectre that “is haunting Europe”, but more pertinent in this case might be the radical poet Percy Bysshe Shelley’s depiction of the victims of the 1819 Peterloo Massacre as “graves from which a glorious Phantom may burst” – an unfinished revolution that nevertheless threatens to return and complete its work. The failed revolutions of the 1960s live on in Stereolab’s songs, as do all the other cancelled futures.

If there is a central dialectic process at work with Stereolab, the direction they seem to be trying to resolve it in always leans towards a kind of raised consciousness and unrestrained creativity – unique moments of imagination and creation bringing something new into the world as a revolutionary means towards pushing forward into a place of greater freedom. Against that lies a tendency of the world to fall into repeating patterns and cycles, whether they be destructive cycles of economic depression, war and recovery, the blooming and dying of love, or the cycle of death and rebirth. Stereolab’s music itself parallels this, its own forms defined by repetition, driven forward into new patterns by unique moments of creative revelation – or to put it another way, it is a symphony of “dots and loops”.

消費税廃止は本当に可能なのか? (3) - ele-king

消費税に替わる”財源”を考えよう。

 10月16日の予算委で共産党・大門みきし議員は、IMFの「世界経済が大きく後退する」とした報告を引用しながら、メルケル、マクロン、トランプ政権それぞれが、世界経済悪化に対して個人消費の底上げを図るべく数兆円規模の減税を予定していることを伝えた。そのうえで世界経済はリーマンショック並みの落ち込みが予測されており、日本の消費者マインドも実際に東日本震災並みに下落しているのだから、消費減税すべきだと主張した。(https://www.youtube.com/watch?v=FVXSiPt60aY


10/15 予算委 共産党・大門議員質疑より「消費者態度指数」

 10月4日のNHKの報道によると、米国の新聞も左右問わず日本の消費増税を批判しているようだ。

ウォールストリート・ジャーナル
「消費税率の引き上げは、日本の経済成長に再びブレーキをかけるリスクが大きい。日本の最大の課題は財政ではなく、需要の弱さで、消費税率を引き上げる必要はない」
ワシントンポスト
「消費税率を5%に引き上げた1997年と、8%に引き上げた2014年には景気が後退した。日本経済は去年の後半から減速していて、来年のオリンピックに向けた建設ブームによる需要も薄れている。需要の低迷による物価の下落が、成長のけん引役である投資を押し下げ、デフレからの脱却に向けた長年の努力が後退するおそれがある」
ニューヨーク・タイムズ
「成長懸念にかかわらず日本は消費税率引き上げ」「日本経済の牽引役として貢献する消費者に打撃を与えるだろう」
コロンビア大学・ヒュー・パトリック名誉教授
「消費税は直接、国民のポケットからお金を奪うものだ。日本政府が、財政支出を増やして増税の影響を緩和しなければ、世界経済はやや減速する可能性がある」「駆け込み需要が起きないほど、そもそも消費が弱くなっている可能性がある」

 日本の問題は財政赤字ではなく、需要(投資や消費)が減少していることで、その需要をさらにシュリンクさせる消費増税は悪手だということだ。そして、需要減少への対抗策は財政支出であるとしている。世界経済を減速させる一因となりかねないのがこの消費増税であり、世界にとって迷惑行為でしかないのだ。

 WSJやNYT、パトリック教授らに言われるまでもなく、「不景気時には財政出動」という話は当然のことで、中学校の公民の教科書にも書かれている常識だ。

「不景気のときは、道路工事などの公共事業をして、民間企業に入るお金を増やします。公共事業のほかにも、減税を行うことで、民間企業の持つお金を増やす場合もあります。
 (中略)
このように、政府が、公共事業の増減や、減税・増税などで、景気を調節することを財政政策(ざいせい せいさく)といいます」

出典:中学校 社会・公民

 景気の悪い時には、減税し、公共事業などに財政支出をするのが財政政策なのだ。日本政府には、中学校の教科書からお読みいただくことをお勧めする。


 前回コラムで、「需要の減少」が起こる悪循環をどう断ち切れば良いのかという課題に対して、反緊縮派は一つに「消費税廃止」を提案していることをお伝えした。加えて、二つ目の有効策がこの「財政出動」になる。これは消費税廃止で無くなった消費税収に替わる財源を得るため、また国民経済を後押しするための政策となる。減税と財政出動、上述した中学校の教科書通りの財政政策だ。

 「財政出動すると財源が減ってしまうのではないか」と思われる方もいるかもしれない。それも当然だろう。普通の人は、政府が何か税金などを貯めている金庫のようなものを持っていて、そこからお金を支出していると考えている。しかしその考えは誤りである。政府が支出すると、実体経済市場に通貨が創造されるので、支出することそれすなわち財源となることを意味する。政府が誰かに支払いをすると、新しい通貨がこの世に「無から生まれる」のだ。

 このことをMMTerは「万年筆マネー」や「スペンディング・ファースト(Spending First)」という概念をもって説明するが、少し複雑な仕組みなので我慢して以下を読み進めてもらいたい。

 信用創造(通貨を創造すること)には経路が2つある。一つは、金融機関によって保有される既発国債と交換する形で中央銀行が創造した貨幣(実体経済市場では使用不可能な準備預金)を元手にして、金融機関が一般企業や個人に貸し出すときに起こる。中央銀行が国債を買い入れることを「買いオペ」と言い、国債と交換する形で貨幣を増やすことを「量的金融緩和」と言うが、基本的には同じことを指している。何を言っているのかわからないという方は下記の「教えて!にちぎん」と「ニチギンマン」の説明も見てもらいたい。

国債買入オペは、日本銀行が行うオペレーション(公開市場操作)の一つであり、長期国債(利付国債)を買い入れることによって金融市場に資金を供給することです。
出典:日本銀行「教えて!にちぎん」より


出典:日本銀行「ニチギンマンのきんゆうせいさく」

 ニチギンマンは、日銀が国債を買い入れ、貨幣(準備預金)を銀行に供給し、金利を下げることにより「景気が活発になり、物価が安定する」と誇らしげに言っているが、実際は量的質的金融緩和を続けても、金融市場以外、つまり実体市場は活発になっていないばかりか、個人消費が落ち込み、需要が減少、逆にデフレ状況で物価が不安定化するような状態が続いている。

 これは企業や国民があまり消費も投資もできないから、銀行からお金を借りることもないし、信用創造(通貨創造)されないということが原因だ。銀行などの金融機関同士の決済にしか使うことができない準備預金のままでは実体市場では流通しえないのだ。このことが6年間続けた金融緩和の効果の薄さに繋がり、多くのエコノミストたちもやっとこの仕組みの綻びを理解し、指摘するようになった。金融市場の外にお金が出ないのだから、とにかく株屋だけがマネーゲームで儲けるばかりで、私たち庶民にはほとんど関係がない話だった。

 ちなみに信用創造とは、誰かが銀行から借金した時に通貨が創造される仕組みとなる。貨幣は、発行元である銀行がただペンで記帳するだけで生まれることから「万年筆マネー」と言われる(現在ではコンピューターで打ち込むだけなので「Key Stroke」とも表現される)が、かいつまんで言えば、お金の正体とは誰かの借金であり、貨幣とはその借金に対して発行された債務証書だということになる。また、通貨と貨幣の違いにも気をつけてもらいたい。貨幣は紙幣やコイン、また私たちが使えない準備預金などお金全般のことを指すが、通貨は私たちが使える紙幣やコイン、預金などのお金だけを指す。(参考:社会人の教科書「貨幣・通貨・紙幣の違い」

 そこで、信用創造のもう一方の経路が重要となる。政府支出(財政出動)を介した経路がそれだ。これは、政府の支出により生まれた銀行の預金を、一般企業が受け取るときに起こる。この場合は政府が企業に仕事を発注する形をとるので、必ず信用創造され、実体市場に通貨が生まれる。MMTの視点では、政府は国債や税収などの財源がなくても、支出するだけでお金を創造できるとし、このことをスペンディング・ファースト(最初に支出ありき)と呼んでいる。政府債務である国債は政府支出した後に発行され、民間銀行を介して中銀からファイナンスされるとしているため、支出が先なのだ。

 なにやらややこしい概念だと思われたかもしれないが、少し考えてみれば実感できるだろう。政府は毎年、税収がいくら集まるかわからないのに、予算を決定し、支出している。言い換えれば、財源などなくても支出できるということだ。だから「最初に支出ありき」なのだ。

「ここに人々が見落としているものがあります — 連邦政府の支出は”自己資金(Self-Financing)”だということです」
「政府が支出すると、支出そのものの副産物として新しいお金は創造されます」
「そして新しくできたドルは、誰かのバランスシート(貸借対照表)に追加されます」
出典:ステファニー・ケルトン ツイッターより

MMTは、政府の財政は家計や企業のそれとはまったくの別物だと主張している。
(中略)
主権を有する政府が、自らの通貨について支払い不能となることはあり得ない。自らの通貨による支払い期限が到来したら、政府は常にすべての支払いを行うことができるのである。
それどころか、政府が支出や貸出を行うことで通貨を創造するのであれば、政府が支出するために租税収入を必要としないのは明らかである。さらに言えば、納税者が通貨を使って租税を支払うのであれば、彼らが租税を支払えるようにするために、まず政府が支出しなければならない
出典:L.ランダル.レイ「MMT 現代貨幣理論入門」p39

 MMTの創設者の二人、先般来日を果たしたステファニー・ケルトン教授(NY州立大学)と、近日来日予定もあるランダル・レイ教授(バード・カレッジ)は、政府の財政の仕組みについてこのように簡素な形で語っている。このことは民間銀行からお金を借りる時に起こる信用創造の場合も同じだ。中野剛志氏(元・京都大学大学院准教授)は以下のように解説する。政府も銀行も「最初に支出ありき」なのだ。

実際には、銀行は、人々から集めたお金を元手にして、貸し出しを行っているのではありません。その反対に、貸し出しによって、預金という貨幣が創造されるのです。そして、借り手が債務を銀行に返済すると、預金通貨は消滅するのです。
(中略)
「銀行の貸し出しの段階で預金は創造される」のですから、銀行の貸し出しが、元手となる資金の量的な制約を受けるということはありません。
この点は資本主義経済の仕組みの根幹にかかわる話です。
出典:中野剛志「奇跡の経済教室」p98,p100

 MMTerの視点では、政府が支出したその後に、金利を調整する為に国債は発行されるとしているが、このような国債発行の視点は主流経済学の常識を覆す論理となり、賛否の分かれる騒動ともなっているわけだが、この騒動の一端は、以前に拙コラムでお伝えした西田議員と雨宮日銀副総裁の財金委員会でのやりとりで垣間見ることができる。政府支出を介した信用創造の仕組みについて実務的な詳細を知りたい方もぜひご覧いただきたい。
 参考:「黒船MMTと参議院選挙の行方



画像提供: @nonsuke38 氏

 長々と3回にもわたっていろんな話をしてきたが、これまでの話をまとめるとこうなる。政府には通貨発行権があって、過度なインフレにさえならなければ、いくらでも無からお金を作って国民経済のために支出できる。もちろん財政破綻などするわけがない。さらに、政府は自分でお金を作って支出できるのだから、税は財源ではない。税は主にインフレを抑える景気調整のためにある。だから、このような貨幣観を持つ反緊縮派にとっては、景気調整機能もない消費税を人々に課す理由がまったく理解できないというわけだ。

 加えて言うなら、日本においては「税は再分配のために徴収されている」とも言えない。下図のように、税による再分配効果はOECDで最低のミジンコレベルだ。「社会保障を支えるために税金が必要だ」と思い込んでいる人たちには、この事実もよく考えていただきたいと思う。


出典:内閣府 再分配効果の国際比較

 前述した「消費税に替わる財源は政府支出である」とした論理は、貨幣システムの会計的事実から導き出されている。「でも結局、それは借金ではないのか」と言う方もおられるだろう。その疑問に対する回答は次回、最終回につなげたい。

Teebs - ele-king

 昨年10周年を迎え、好調なリリースの続く〈Brainfeeder〉から新たな情報が届けられた。ティーブスのニュー・アルバムである。独特の音響とノスタルジアでLAビート・シーンのなかでもひときわ異彩を放つムテンデレ・マンドワ、プレフューズ73とのコラボでも知られる彼の新作は、10月25日に世界同時発売。現在、パンダ・ベアの参加した“Studie”と“Mirror Memory”の2曲が公開中。ティーブス特有のドリーミーな感覚は失われていないようで、ただただ楽しみ!

[10月17日追記]
 いよいよ来週発売となるアルバム『Anicca』より、新たに“Black Dove (feat. Sudan Archives)”が公開された。いま〈Stones Throw〉がプッシュしているスーダン・アーカイヴスを迎えた、美しい1曲に仕上がっている。

 また、新作『Anicca』のタイトルについて、ティーブス本人から下記のようなコメントも到着している。

過去数年間に道を示してくれた、「わびさび」という日本語の非永続性には一種の哲学があり、それはアニッカ(無常)という言葉に由来しているように感じた。今回のアルバムとそのタイトルは、両方とも永続的なものは何もないことを自分自身に対して思い起こさせるものだ。 ──Teebs

 ティーブスのニュー・アルバム『Anicca』は10月25日リリース。

Teebs

フライング・ロータス率いる〈Brainfeeder〉を支えるマルチアーティスト、ティーブスが最新作『Anicca』を10月25日にリリース決定!
アニマル・コレクティヴのパンダ・ベア参加曲“Studie (feat. Panda Bear)”と“Mirror Memory”の2曲を先行解禁!

LAを拠点に、エレクトロニックやビート・シーンで注目を集めるプロデューサー/ビートメーカー、そしてアート・クリエイターでもあるティーブス。元ルームメイトでもあったフライング・ロータス主宰のレーベル〈Brainfeeder〉より、これまで『Ardour』(2010)、『Estara』(2014)の2作のアルバムをリリース。また、プレフューズ73とのコラボやLAビート・シーンを代表するイベント「Low End Theory」の出演でも世界的な注目を集めてきた。アート・クリエイターとしても活躍しており、ここ日本でも個展やライヴ・ペイントのイベントを開催するほどの実績を持つ。ストリート・カルチャー、そしてアート・シーンで絶大な人気を誇るマルチな才能の持ち主が、5年ぶりとなる最新作『Anicca』を10月25日にリリースすることが決定。合わせて先行曲“Studie (feat. Panda Bear)”と“Mirror Memory”の2曲を公開。

'Studie (feat. Panda Bear)’
https://youtu.be/B6ZhgzDXy_0

'Mirror Memory’
https://youtu.be/RzS5_tNOAPU

今作の​参加メンバーは、アニマル・コレクティヴの中心メンバーであるパンダ・ベア、名門〈Stones Throw〉で活躍をしているスーダンアーカイブスと MNDSGN、LAシーンの重要人物であるミゲル・アトウッド・ファーガソン、そしてケンドリック・ラマーとのコラボでも知られるアンナ・ワイズなどが名を連ね、彼自身の持ち味が発揮された色鮮やかなプロダクションとなった。

「今は音楽が違うところから舞い降りてくるような感じがする。作品のインスピレーションが変わって、選択肢も変わった。使ってたツールや楽器を探求したし、コラボレーションに対しても前よりもオープンになった」。5年間の変化を彼はこう振り返る。そして、最新作は様々なゲストの要素が彼のプロダクションにブレンドされており、ティーブス自身はゲスト達に対して賞賛を送っている。解禁されたリード・シングル“Studie”に参加しているパンダ・ベアについて「彼のしようとする全てが純金か上質なワインみたいだった」 と言及しており、“Black Dove”で共演しているスーダン・アーカイヴスに対しても「彼女は本当に怖いくらいの天才だ。世界はもっと彼女に耳を傾けるべきだね」と語っている。

ほとんどの楽曲が、サンプラーの SP404、 シンセサイザーの Mellotron M4000D、セプレワ(ハープに似たガーナの楽器)、そしてギターとパソコンを使用し、彼の自宅で制作された。「レコードに耳を傾けてよーく聞いてみると、俺の娘が妻に話しているところとか、妻がパソコンでタイピングしている時の音が入っているんだ」と彼は笑う。

そして、タイトルの『Anicca』は仏教でいうところの「無常」を意味する言葉だ。「全てのことは永遠には続かないという自分に向けたリマインダーでもあるんだよ」とティーブスは語った。

また、アートワークは今作でも前作と同様、彼自身の手によるものだ。母親と妻に関するドローイングをすることからスタートし、それがエナメルのブローチとなり、彼の友人のアーティスト、ミーガン・ギアによってステンドグラスのレプリカとなった。その後、それが写真に収められ、デジタル処理を行うことによって今回のアートワークは完成した。

この作品は色とその反射によって絶え間無く変化するものになった。いつも違って見える、だけど同じでもある……とてもナチュラルな作品になったよ。それは人生のように感じられるし、半抽象画のようでもあるし、アルバムのタイトル(Anicca、無常を意味する)のようでもあるんだ。 ──Teebs

待望の最新作『Anicca』 は、10月25日(金)に世界同時リリース。iTunes Store で今アルバムを予約すると、公開中の“Studie (feat. Panda Bear)”と“Mirror Memory”がいち早くダウンロードできる。

label: BRAINFEEDER / BEAT RECORDS
artist: Teebs
title: Anicca
release date: 2019/10/25 FRI ON SALE

TRACK LIST
01. Atoms Song (feat. Thomas Stankiewicz)
02. Black Dove (feat. Sudan Archives)
03. Shells
04. Threads (feat. Anna Wise)
05. Studie (feat. Panda Bear)
06. Mirror Memory
07. Prayers i
08. Prayers ii
09. Universe (feat. Daydream Masi)
10. Marcel
11. Mmntm (feat. Ringgo Ancheta and Former Boy)
12. Daughter Callin' (feat. Pink Siifu)
13. Slumber
14. Muted (feat. Thomas Stankiewicz)
15. Atoms Song (feat. Thomas Stankiewicz) [Video Capsule] *Digital Only Bonus Track

Sote - ele-king

 音楽はプレイリストで聴く時代──そう主張されるようになってからしばらく経つけれど、でもじっさいは Spotify や Apple Music に加入していればぜんぜん良いほうで、そもそもストリーミング・サーヴィスにお金を払う気などない人たちのほうが圧倒的に多いのではないだろうか。だって、ちょいちょいっと YouTube を漁るだけで滝のように音楽が流れてくるんだから。ふと思いついた単語を検索窓にぶち込んだり、アルゴリズムによってはじき出された「次の動画」を延々と辿っていったり……。おそらくそれこそが今日、もっとも支持されている音楽の聴き方だろう。それが良いことなのか悪いことなのか、現時点ではよくわからない。体系的な聴取が廃れることによって、新たに革命的な何かが生まれてくる可能性だってある……にはある、のだけれど、基本的にはただ文脈や歴史が消失していくだけ、のような気もする。わからない。

 そんな時代にレーベルというものを意識して聴いているリスナーがどれほどいるのか不安だけれど、たとえば〈PAN〉や〈Planet Mu〉や〈RVNG〉や〈Hyperdub〉といった以前から名のあるレーベルは、しっかりと自分たちのカラーを維持しつつ新しい動きにも対応し、「なるほど」と唸らされるようなディレクションをねばり強く続けている。もう少し最近だと、〈Arcola〉や〈Whities〉あたりが芯のある展開を見せている好例と言えよう。パウウェルとジェイミー・ウィリアムズによって設立された〈Diagonal〉も、そうした健闘を続けているレーベルのひとつだ。彼らが今年リリースした作品がどれも良かったので、まとめて紹介しておきたい。

 まずはテヘランのアタ・エブテカールによるソート名義の新作を。いや、これがほんとうに素晴らしい内容で、個人的には今年のベスト3に入るアルバムだ。丁寧に爪弾かれる弦楽器を前面に押し出しつつ、その背後でうっすらとシンセ・ドローンが自己主張する“Modality Transporter”や、細やかなノイズが徐々に絡み合っていく“Brass Tacks”も惹き込まれるが、圧巻なのは“Atomic Hypocrisy”だろう。種々の電子音とイランの民族楽器がこれでもかというくらい暴れまわる様はまさに狂宴といったあんばいで、何度聴いても飽きが来ない。エスニックな音階と加工された音声、呪文のような言葉の反復がトランス状態を生み出す“Pipe Dreams”や、トラディショナルとインダストリアルを両立させてしまう“Pseudo Scholastic”もおもしろい。
 生楽器とエレクトロニクスの融合だとか、西洋とオリエントの出会いだとか、そういった皮相なレヴェルをはるかに超えたところで生み出されるこの複雑さと混沌は、それこそ幼いころに初めて音楽と出会ったときのような、音同士の戯れそれじたいを聴くことの歓びを、ありありと思い出させてくれる。イランでは音楽が統制下に置かれていることを考えると、このあまりに冒険的で特異な試みは、表現規制にたいするエブテカールの、全身全霊の抵抗なのかもしれない。

 もう1枚は、かつて〈Kompakt〉からリリースしていたウォールズの片割れであり、ノット・ウェイヴィング名義で多くの作品を発表している、イタリアはヴァスト出身のアレッシオ・ナタリーツィアと、ご存じジム・オルークによるコラボレイション。アレッシオが用意した素材をジムがいじるかたちで制作されたらしい。軸となる高音ドローンにさまざまな電子ノイズが絡み合い、次第にきらびやかさを帯びていく“Side A”は、00年代後半から10年代にかけて勃興した寂寥的ノイズ・ドローンの文脈に乗っかりつつも、感傷には寄りすぎない絶妙なバランスで実験を展開していく。よりアグレッシヴな“Side B”も秀逸で、ラフなビートとノイズが戯れ合う序盤、種々の電子音の乱舞をとおしてかろうじてメロディらしきものが形成される後半、いずれもなかなかに聴き応えがある。

 そして最後は、これまでプロスティテューツ(売春婦)名義で〈Diagonal〉や〈Spectrum Spools〉からコンスタントに良質なテクノを送り出してきたクリーヴランドのヴェテラン、ジェイムス・ドナディオによるスタブユーダウン名義のアルバム。“Wizard Upholstery”や“Neu Ogre”のウェイトレスなシンセによくあらわれているように、大枠としては90年代、カール・クレイグ以降のデトロイトやUKのテクノがベースになっているのだけれど、良い意味でどこか嘘っぽいというか、トムジェリないしバッグス・バニーのごとき動物のキャラ(ウサギ?)がばらばらに解体されて再配置されたアートワーク同様、サウンドのほうもコラージュ感が漂っていて、ストレートにリヴァイヴァルとして消費するのをためらわせるところがある。音同士の間隙やドラムの微妙な遠さなんかはむしろ、それこそパウウェルのポストパンクに近いかも。

 以上3枚、それぞれ方向性は異なれど、〈Diagonal〉というレーベルの底力を教えてくれる、優れた作品たちである。

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