「Nothing」と一致するもの

Mars89 - ele-king

 いま東京でもっともクールかつタフなサウンドを鳴らしていると言っても過言ではないDJ/コンポーザーの Mars89 が、新たな12インチ「The Droogs」を〈Undercover〉からリリースする。先頃〈Acrylic〉より発売された「TX-55/Successor Project」もめちゃくちゃかっこよかっただけに、今度の新作も期待大だけれど、驚くなかれ、「The Droogs」にはリミキサーとしてトム・ヨークゾンビー、ロウ・ジャックの3組が参加している! これはちょっとアナタ、完全に買い逃せないヤツですよ。
 ちなみに、12月26日に刊行される紙エレ年末号(特集:21世紀DUB入門/2019年ベスト・アルバム30)(密林はこちら)には Mars89 のインタヴューが掲載されています。音楽的バックグラウンドから現在の社会にたいする想いまで、思う存分語ってくれています。また、今回リミキサーに抜擢されているパリの要注目ダンスホール・プロデューサー、ロウ・ジャックのインタヴューも載っています。ぜひチェックを。

artist: Mars89
title: The Droogs
label: Undercover
catalog #: UCR003
release date: December 12, 2019

Tracklist:

A1. Horrorshow
A2. Ultraviolence
A3. Strack

B1. Horrorshow (Thom Yorke Remix)
B2. Strack (Zomby Remix)
B3. Strack (Low Jack Remix)

DISC SHOP ZERO / JET SET / disk union

30/70 - ele-king

 ハイエイタス・カイヨーテ(以下HK)の活躍以降、近年のオーストラリアの音楽シーンが世界的に脚光を集めるようになってきた。今年はジャイルス・ピーターソンが編纂したコンピ『サニー・サイド・アップ』もリリースされ、オーストラリアの中でもジャズやソウル系のベクトルを持つ新進アーティストたちに触れることができる。
 HKを生み出したメルボルンはオーストラリアの中でもっとも注目される都市で、レジャー・センター、エレクトリック・エンパイア、ミッドライフ、カクタス・チャンネル、ジャズ・パーティーなどさまざまなバンドやアーティストが活動している。今年はHKのメンバーのペリン・モスがクレヴァー・オースティンという名義でソロ・アルバム『パレイドリア』をリリースし、ブリスベン出身で現在はメルボルンを拠点とするレニアスことラックラン・ミッチェルが、HKのサイモン・マーヴィンとポール・ベンダーらの協力を得て『モンステラ・デリシオーサ』というアルバムを発表している。HKも関りを持つレーベルの〈ワンダーコア・アイランド〉からデビューしたシンガー・ソングライター/ラッパー、サンパ・ザ・グレートの新作『ザ・リターン』も出た(彼女はアフリカのザンビア出身で現在はメルボルン在住)。これらのアルバムに共通するのは、ジャズやソウルからときにオルタナ・ロックやサイケ、ヒップホップやビート・ミュージックなどいろいろな音楽のミクスチャーがおこなわれていて、そうした方向性はHKを筆頭にメルボルンのカラーにもなっているようだ。30/70もそうしたメルボルンが生んだミクスチャーなバンドである。

 30/70は男女混成の大所帯グループで、リード・シンガーのアリーシャ・ジョイがフロントに立っていることから、同じ女性リード・シンガーのネイ・パームを擁するHKと比較されることも多く、ポストHKというような紹介もされてきた。実際に両者は交流があり、30/70のセカンド・アルバム『エレヴェイト』のミックスはHKのポール・ベンダーがおこなっていた。2014年に30/70は自主制作でデモ・アルバム的な『サーティー・セヴンティ』を作り、2015年の『コールド・ラディッシュ・コーマ』で正式なアルバム・デビューを飾る。2017年にロンドンの〈リズム・セクション・インターナショナル〉と契約を結び、リリースした『エレヴェイト』によって世界的にも注目される存在となっていく。
 バック・コーラスなどを含めると総勢10名を超えるバンドで、レコーディングやライヴなどによってメンバーが入れ替わることもあるが、アリーシャ以外の現在の主要メンバーはジギー・ツァイトガイスト(ドラムス)、ホレイショ・ルナことヘンリー・ヒックス(ベース)、ジャロッド・チェイス(ピアノ、キーボード)、トム・マンスフィールド(ギター、シンセ、キーボード)、ジョシュ・ケリー(サックス、クラリネット)である。アリーシャは『アケィディ:ロウ』、ジギーは『ツァイトガイスト・フリーダム・エナジー・エクスチェンジ』というソロ・アルバムもリリースしており、前述の『サニー・サイド・アップ』にもアリーシャ、ジギー、ホレイショが別々にソロで楽曲提供するなど、メンバー個人でもそれぞれの活動をおこなっている。また〈リズム・セクション・インターナショナル〉所属ということで、南ロンドンのアーティストとも交流を持つ機会があるようで、ニュー・グラフィック・アンサンブルのアルバム『フォールデン・ロード』にアリーシャが参加したり、逆に『エレヴェイト』の収録曲をニュー・グラフィックがリミックスしたりしている。そんな30/70の2年ぶりのアルバムとなるのが『フルイド・モーション』である。

 アルバムはジャズ・ファンク調のインタールード的小曲“ブランズウィック・ハッスル”で幕を開け、ミディアム・テンポのブギー・トラック“アディクティッド”へ続く。アリーシャのエモーショナルなヴォーカルを生かした1曲で、ホレイショのベースとジョシュのサックスがソウルとジャズがミックスした雰囲気をうまく作り出す。タイトル曲の“フルイド・モーション”はフェンダー・ローズやサックスを配したディープ・ハウス的なトラックに、アリーシャのラップとポエトリー・リーディングの中間のようなヴォーカルをフィーチャー。1990年代のアシッド・ジャズ時代に見られた、Dノートやアウトサイドあたりを彷彿とさせるような1曲である。ゆったりとしたテンポの“N.Y.P”では、ジョシュの奏でる雄大なテナー・サックスがファラオ・サンダース張りのスケール感を生み出す。ジャズ・バンドとしての30/70の力量が表われた1曲だ。シングル・カットされた“テンプティッド”は、ミステリアスなムードとパワフルなビートやアリーシャのヴォーカルが鮮やかにマッチング。ウェスト・ロンドンのブロークンビーツから南ロンドンのジャズの影響が濃厚だ。

 そのムードはアフロ・ジャズ、ブロークンビーツ、ネオ・ソウルが融合した“リプライズ”へ引き継がれ、ロウなソウル・ファンクの“トゥルー・ラヴ”やエレクトロなダウンテンポの“エコープレックス”では、ジャズやファンクからビート・ミュージックやヒップホップのエッセンスまでもミックス。“バックフット”や“プッシュ・アンド・プル”はミディアム調のソウル/ファンクで、“クリスタル・ヒルズ”はドラムンベース調のビート・パターンのインスト曲とリズム・ヴァリエイションも豊かだが、“インパーマネンス”に見られるように1990年代後半頃のブロークンビーツを想起させる曲が目につく。ブロークンビーツ自体がジャズ、ソウル、ファンク、アフロ、ラテン、ハウス、テクノ、ヒップホップ、ダブ、レゲエなど種々の要素をハイブリッドしたものだったので、そうした匂いを30/70が持つのも当たり前かもしれない。そして最後を締めくくるメロウ・チューンの“フラワーズ”に顕著な、アリーシャのヴォーカルが持つソウルフルなムードが印象的なアルバムである。

グッとくる映画、あります!

「映画の力」、それはストーリーだけではない──
わけがわからないのに気になる映画
淡々とした描写の中に人生に似た何かが立ち現れる映画
厭な要素ばかりなのについつい見てしまう映画
独自すぎる理屈で構成されていて観る者を激しく選ぶ映画

──なぜか心動かされ、惹きつけられてしまう映画の秘密をひもとく、気鋭の批評家による精選エッセイ集!

目次
まえがき
第一章 不可解な映画に魔がひそむ
・シャマラン絶対主義!
・八〇年代のシャブロルに感じる「居心地の悪さ」
・目がくらむ光、カンガルーの手――『荒野の千鳥足』
・物語からの解放――曽根中生の〈純粋な映画〉

第二章 暴力・情念・死
・侮辱と少しの飴の籠――『マルタ』
・破滅へと駆け抜ける少女たち――『ヴィオレット・ノジエール』
・突き抜けた後味の悪さ――『悪魔の調教師』
・異郷と恐怖――『女子大生・恐怖のサイクリングバカンス』
・現実と虚構のはざまでたゆたう羽仁進の映画世界
・野村芳太郎の怖くない霊と、怖い子どもたち
・東宝クールアクションの世界――『死ぬにはまだ早い』『ヘアピン・サーカス』

第三章 日本モンド映画 静謐/狂乱
・退廃と静謐さ
(『東京暮色』『ある脅迫』『血を吸う薔薇』『忍者狩り』『野獣死すべし 復讐のメカニック』『さらば愛しき大地』『THE FETIST 熱い吐息』)
・狂乱!
(『妖刀物語 花の吉原百人斬り』『大虐殺』『地平線がぎらぎらっ』『地獄』『水戸黄門 天下の副将軍』『狂った脱獄』『女体(じょたい)』『スパルタの海』『御巣鷹山』)

第四章 日本モンド映画 エロス+流血
・セックスを越えていけ!
(『あるセックス・ドクターの記録』『ある女子高校医の記録 妊娠』『温泉ポン引女中』『忍法忠臣蔵』『喜劇 特出しヒモ天国』『人妻の値段 匂いたつ欲情』『日本ゼロ地帯 夜を狙え』)
・内田良平
(『男の顔は履歴書』『車夫遊侠伝 喧嘩辰』『影狩り』『流血の抗争』)
・高橋伴明+下元史朗
(『異常な快楽 禁唇』『少女情婦』『人妻拷問』『鞭と緊縛』)

第五章 ロマンポルノ二五選
・神代辰巳の逸脱とナルシシズム
(『濡れた欲情 ひらけ!チューリップ』『悶絶!! どんでん返し』『やくざ観音 情女仁義(いろじんぎ)』)
・アクション&サスペンス!
(『修道女ルナの告白』『団鬼六 縄と肌』)
・浮遊する心――加藤彰
(『愛に濡れたわたし』『OL日記 牝猫の情事』『OL日記 濡れた札束』)
・奇妙
(『くノ一淫法 百花卍がらみ』『修道女 濡れ縄ざんげ』『実録色事師 ザ・ジゴロ』『色情妻 肉の誘惑』『団鬼六 女教師縄地獄』『ズーム・アップ ビニール本の女』『縄姉妹 奇妙な果実』『濡れた荒野を走れ』)
・快楽と観念のドラマ
(『地下鉄連続レイプ OL狩り』『実録白川和子 裸の履歴書』『密猟妻 奥のうずき』『ひと夏の秘密』『団鬼六 花嫁人形』『キャンパス・エロチカ 熟れて開く』『ラブハンター 熱い肌』『青い獣 ひそかな愉しみ』『大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート』)
あとがき

著者
真魚八重子(まなやえこ)
愛知県出身。映写技師や派遣社員を経て、現在は「映画秘宝」「朝日新聞」「キネマ旬報」などのほか、パンフレットやDVDでも執筆。著書に『映画系女子がゆく!』『映画なしでは生きられない』『バッドエンドの誘惑』。

Burial - ele-king

 この原稿を書いている今日12月2日の午前11時に、イギリスの諸大学では黙祷があった。先月29日にロンドン・ブリッジであった凄惨なテロの犠牲者(ふたりともケンブリッジ大卒の二十代の若者だった)を悼むためである。現在、大学はストライキ中なので、僕はキャンバスにはできるだけ立ち寄らないようにしている。なので家で1分間、目を閉じて、事件のことを思った。
 ロンドンとテロというと、意外かもしれないが、僕はベリアルのことを思い出す。2005年にロンドンで同時多発テロが起きたとき、ベリアルはダブステップのミックス・テープを聴きながら混乱する街を歩いていた。その時、音楽が街を癒していくように感じたと、彼は述べている。
 ベリアルの音楽とある種のアーバンスケープは切り離すことができず、その集合体は盤上に抽象的な何かを作り上げている。タイトル、雑踏、金属音、煙のようなクラックル・ノイズ、その他多くのパーツが、不可避的に見えない都市を浮かび上がらせてしまう。自分の作品から作り手の存在を意図的に消去し続けてきたベリアルだが、こればかりは作家性がにじみ出てしまっている。ひときわダークでエレガントで凶暴だったゼロ年代初期のダブステップ・サウンドに、崩壊しかける都市との相関性で癒しを感じたという強靭な感性の持ち主を僕は他に知らない。
 今作『Tunes 2011 to 2019』は、レーベルのボス、コード9が本誌インタヴューで語っているように、2011年から2019年の間にベリアルが〈Hyperdub〉からリリースしたソロ・シングルを網羅的に集めたものである。この期間に、ベリアルはゾンビーとの共作10インチ「Sweetz」(2016年)と、片面にコード9によるフットワーク・リミックスを収録した「Rodent」(2017年)が同レーベルから出ているものの、今作には収録されてはいない。
 デビュー・アルバム『Burial』(2006年)とセカンド『Untrue』(2007年)以降、彼はシングルを主なリリース形式として活動している。去年はコード9との共同ミックスを〈Fabric〉から出してはいるものの、サード・アルバムに匹敵するヴォリュームの楽曲集は出されてはいない。なので、このような形でこの8年間の音源を聴き返すのは、2019年にいたるベリアルのモードを考えるのに良い機会だ。

 というわけで、まずはこの8年のベリアルのキャリアを振り返ってみよう。この間、アルバムの発表こそなかったものの、ベリアルはソロ、共作、リミックスの発表を精力的に行ってきた。まずは2011年にフォー・テットとの共作の発表が、彼の〈Text Records〉からあった。ヴァイナルでのみリリースされたシングル「Moth/Wolf Cub」、さらにはそのコラボにトム・ヨークを迎えた「Ego/Mirror」を同年に発表(ベリアルとフォー・テットは、2007年に出たヨークの『The Eraser Remix』にも参加している)。そこにふたりによる「Nova」のリリースが翌年に続いた。特に最初の「Moth/Wolf Cub」の評価が高く、真っ黒なラベルの12インチ上で、ベリアルの跳躍するガラージのリズムが、フォー・テットの荘厳で流浪なメロディと有機的に響いている。ソロイストとしての彼のポテンシャルは、この3枚でさらなる他者性へと解き放たれたと言ってよいだろう。
 2015年にはベリアルの良き理解者でもある、マーティン・クラークことジャーナリスト/DJ/プロデューサーのブラックダウンが主宰する〈Keysound Recordings〉から、ホワイトラベルの12インチ「Temple Sleeper」を発表(なおベリアルは2006年にブラックダウンの“Crackle Blues”をリミックスしている。ちなみに冒頭の2005年のテロの話は、ベリアルがクラークに語ったものだ)。彼が得意とするUKガラージのリズムと、ハードコアのブレイクを巧みに行き来する一枚だ。2017年にボディカの〈Nonplus〉から リリースされたシングル「Pre Dawn/Indoors」は、おなじみのヴォイス・サンプルやクラックル音がスキルフルにエディットされてはいるものの、思い切ってテクノの4/4のリズムに舵を切った作品でリスナーたちを驚かせた。この二枚は、この間、ベリアルがかつてないほどリズム・コンシャスになっていることを裏付ける好例である。
 リミックス業にも触れてみたい。2017年に、クリプティック・マインズの片割れであるサイモン・シュリーヴが別名義モニック(Mønic)で自らのレーベル〈Osiris Music UK〉から発表したシングル「Deep Summer」にベリアルはリミックスで参加。原曲はヘヴィーに響くスローなアンビエント・テクノだが、リミックスでは風鈴のような生楽器のサンプルを主軸に、オリジナルで流れるヴォーカルのピッチを変調させ、叙情的な楽曲へと変化させている。こちらとは対照的に、同年に話題になったゴールディ“Inner City Life”のリミックスでは、荒々しいドラム・ブレイクに、バッド・トリップへと誘うようなシンセのループが重なる。2019年にリリースされたルーク・スレーターの“Love”のリミックスでは、静寂なリズム・パターンをアンビエント・ブレイクで演出することによって、原曲の多幸感が、ベリアル独自のうつむいた悦楽へと変換された。この三曲においても、ベリアルは自身の傾向を保持しつつも、クラブ・ミュージック史の踏襲と展開の両方をおこなっていることがわかる。つまり、彼は確実に次へ進んでいるのだ。

 この活動の並行線上に『Tunes 2011 to 2019』はある。合計17曲の2時間と29分の厚さだ。1曲ずつ聴いていこう。
 前半では、主にノン・ビートの荒野が広がっている。思い返せば、この8年の間、ベリアルのシングルは高い確率でアンビエントを伴ってきた。1曲目の“State Forest”は、今年リリースのダンス・トラック“Claustro”のカップリング曲だが、約8分にも及ぶ持続するシンセのレイヤーは、シングルで聴取体験以上に聴き手を深遠へと誘い混んでいく。
 そこに続く“Beachfires”と“Subtemple”は、二曲入りのアンビエントのみのシングルとして2017年にリリースされている。1曲目に連なるような持続に重視した形でプレイされる、ベリアル・サウンドに満ちた前者と比べ、後者ではゆっくりと様々な光景が移り変わっていく。ノン・ビートのみの構成に困惑する声も当時はあったと記憶しているが、いま振り返ると、パーカッションを捨て去った先で、自分の声を見つけようとする彼の葛藤が見えてくるようである。
 この1曲におけるムードの移り変わりは、自曲の“Young Death”でも顕著であり、雨の音と電子的にストレッチされたヴォーカルが、自然とデジタル環境を越境していくような錯覚をもたらす。立ち替りに現れる音像は多くを語る前に、次へ、次へと進んでいく。続く“Night Market”は、同様の移り変わりを、持続音的連なりとアルペジエイターによる演出で描いている。1曲のなかに複数の曲が何層にもわたって待機しているかのようだ。この二曲も同じシングル盤として2016年に世に出ている。
 楽曲たちは双極性障害、あるいは精神分裂を引き起こしているかのようだ。6曲“Hider”は、シガー・ロスのアンビエントを思わせるようなシンフォニーに、突如、80年代のクリスマス・ソングのようなドラム・リズムが挿入される。そして、そのムードはほぼ無音状態によって突如として破られ、暗鬱たる静寂に飲み込まれていく。異なるバラードたちが10分のなかで現れる7曲目の“Come Down To Us”も同様の傾向をまとっている。
 ここで、今作は前半のラストに差し掛かる。CDでいえば最後の2曲だ。ここで1曲目のカップリング曲“Clasutro”が登場し、UKガラージの高速リズム上で、アイコニックなR&Bサンプルが舞う。アンビエントにおける抽象世界とは異なり、ダンス・チューンとしての一貫性があり、かつはっきりとした展開もある。前半を締めくくる“Rival Dealer”は2013年に6、7曲目ともにシングルの表題曲としてリリースされた楽曲だ。タイトルに示唆されるドラッグ・ディーラーの争いの顛末を描くように、強い感情を鼓舞する、ハードなブレイク・ビーツがかき鳴らされ、中域で4/4ビートに合流し、最後は光が埋めくアンビエントへと回帰していく。
 後半、あるいはCD2枚目は、対照的にリズム・セクションがメインの楽曲が続いていく。2012年のシングル「Kindred」に収録された表題曲、“Loner”、“Ashtray Wasp”が冒頭を飾る。まずはダークでパワフルなビートを持つ“Kindred”は、『Untrue』期と、様々なジャンルのリズム・アプローチをおこなう現在のベリアルの橋渡しのような存在なのかもしれない。他の2曲にも、UKの音楽史のみを参照としない手法が溢れている。
 13、14曲の“Rough Sleeper”と“Truant”も2012年に一枚のシングルとしてリリースされている。楽曲名は、それぞれ「路上生活者」と「学校をサボる生徒」を指す。ロンドンを歩いていて、路上生活者を目にしない日はないし、昼間のどんな時間でも学校に行っているはずの子供たちが路上にたむろしている。同じリズムを基調としつつも、サンプル・エディットで様々な風景を見せる前者、全体のなかで珍しく響く後者のゆったりとしたビートは、リズムにおける空間と低音に違った角度でスポットライトを当てている。
 今作の最後を締めくくるのは、2011年に出たEP「Street Halo」の表題曲、“Stolen Dog”、“NYC”の三曲だ。このようにして俯瞰してみると、この選曲は2019年作の1曲目にはじまり、最後にはこの楽曲群で最も古い2011年のシングルが配置されている。これを時代錯誤(アナクロニズム)的な意図と捉えることもできるが、個人的にはこの3曲には、この17曲の中で最も思い入れがあるのでラストにふさわしいと感じた。当時、『Untrue』の次を待っていたリスナーにとって、これまでのアプローチとハウス的手法がミックスされたサウンドでベリアルが戻ってきたときは、作家の成長を感じさせるものだった。ゴリゴリのベースと深遠なヴォーカル・サンプルが響く1曲目も、BPMを落とされたガラージのブレイクビーツの3曲目も素晴らしいが、やはり“Stolen Dog”の聴き手を突き放さない、優しくも物悲しいメロディとリズム・ワークは、8年後の現在も色褪せていない。

 DJやライヴを一切やらず、インタヴューも受けず、表舞台に出ることは極力さけつつも、シーンの一部として共作やリミックスをおこなってきたベリアル。その一方で彼がひとりで見てきた8年間のサウンドスケープは、ここで触れてきたように、ノン・ビートとダンス・ミュージックの間で揺れ動き、様々なグラデーョンを生んでいる。その彼を貫くものを、どうやったら捉えることができるのだろうか。
 楽曲に頻出するクラックル・ノイズは、2017年に亡くなった評論家のマーク・フィッシャーが『わが人生の幽霊たち』(2014年)で述べているように、確かに、レコード盤上に蓄積した傷跡や埃が奏でる時間の重みをダイレクトに映し出す。だがそれと同時に、その音はときに雨や焚き火のように美しく、郊外から見える都市中心部の明かりのように孤独に輝いている。それは、楽曲の放つ時代性というよりも、イメージを抱える空間/場所性と強くリンクし、過去に憑依された現在という時間観の脱構築、という手法のみで捉えきれるものではない。この17曲でそれを強く感じた。我々はフィッシャーのベリアルを引き継ぎつつも、さらに作り手と一緒に前に進まなければいけないのかもしれない。
 クラックル・ノイズだけではなく、ゲームの効果音、自然音など、ベリアルの手法において、サンプリングはなくてはならい存在だ。彼はそのネタをユーチューブなどから探してくることでも有名で、オリジナル曲だけではなくカヴァーなども参照することもある。つまり、彼は原曲という「真正性」をまといがちな対象に寄り添う、カヴァーをする一般人たちにも愛の目を向けてきた。それはいわば寄食者たち(Parasite:フランス語ではいわゆるパラサイトとノイズも意味する。今年亡くなった哲学者ミシェル・セールの『パラジット』を少し念頭に置いている)のための音楽である。彼の音楽は、ネット環境やレコード文化、あるいはレイヴという、音楽が循環するネットワークを体現しつつ、そこに点在する普通の小さなものたちを抱握する。今作に現れる路上生活者、学校をサボるキッズ、盗まれてさまよう犬。それらも小さな存在であるが、同時に逞しさも備えている。クラックル・ノイズも音楽を媒体するものがなければ存在しえないが、楽曲におけるそのプレゼンスは大きい。ベリアルの描く都市は、そのような存在によって支えられ、同時にそれらを肯定し続けている。
 先日、今作の日本流通盤のライナーを書いている野田努が、この楽曲たちにおいて参照されるR&Bなどの原曲が、当時どのような場所で鳴っていたのかが、このコンピを通してよくわかったと言っていた。聴き返して僕もなるほどなぁ、と思い、そこから自分でも書き進めた。その意味でも、今作はただのベスト盤以上のポテンシャルを備えており、通して聴くたびに様々なことを考えさせられる。
 ベリアルの場所性は、シングル「Rival Dealer」やその他の彼のアンビエントのように支離滅裂にねじれている。ベリアルの持つセンサーはそれを察知し、彼の音楽はそれを映し出す。リスナーはそこに自分の記憶を接続する。フィッシャーがそうであったように、そこで初めて彼の音楽は鼓膜に誰かの幽霊を生む。音そのものは酷な時代が通り過ぎていく環境を映し出しているに過ぎない。そこには先ほどの寄食者たちがうごめいている。そのサウンドが人を癒し、強烈にダンスをさせる。今日、ベリアルを聴く意味は、このようにしても生まれてくるのではないだろうか。

Big Thief - ele-king

 一聴するとよくできたフォーク・ロック・アルバム。だが注意深く聴けば、複雑で、ニュアンスに富み、こまやかなダイナミズムに満ちたロック・ミュージックだ。ヴァンパイア・ウィークエンドボン・イヴェールのアルバムに象徴されるように(インディ・)ロックのフィールドで「バンド」なるものが解体されつつある現在、しかし、ビッグ・シーフはバンド・ミュージックというものの可能性にそれでも懸けているようだ。4人の人間が集まってできたタイトな関係性によってのみ生まれるものがあることを、今年彼女らがリリースした見事な2枚──『U.F.O.F.』と『Two Hands』のジャケットは差し出している。
 まずビッグ・シーフの魅力とは何かと問われれば、多くのひとがバンドのソングライターでシンガーであるエイドリアン・レンカーの声と歌にあると答えるだろう。憂いと艶やかさを併せ持った声による、不安定な呼吸や発話そのものがドラマを紡いでいくような歌。それは〈サドル・クリーク〉からリリースされたバンドの初期2作だけでなく、昨年リリースされたレンカーのソロ作『abysskiss』でも存分に堪能することができる。だが、ソロとバンドを比べてみたときに、彼女の歌の魅力、その生々しさは、むしろ後者で発揮されているように思える。『abysskiss』に収録されている“From”と“Terminal Paradise”の2曲は『U.F.O.F.』でバンド・アンサンブルによって再録されているが、そこでレンカーの声は予想外に乱れ、かと思えば透明度を増すように広がっていく。柔らかな響きで繰り返されるギター・アルペジオがそこに寄り添う。

 名門〈4AD〉に移籍しバンドにとってそれぞれ3作め、4作めとなった『U.F.O.F.』『Two Hands』は双子作で、どちらもドム・モンクスがエンジニア、アンドリュー・サーロがプロデューサーとして関わっているし、また同時期に作られた楽曲も多いという。しかしながら音や主題は少し異なる。『U.F.O.F.』はワシントンの森のなかに、『Two Hands』はテキサスの砂漠のなかにあるスタジオでレコーディングされ、それぞれ「天」と「地」を示しているという。
 演奏自体はワンテイクで録られたそうだが、『U.F.O.F.』は繊細な音響で聴かせるアルバムだ。翳りのあるギターの調べがサイケデリックなコーラスとドローン音に溶けていき、したたかに挿入されるサンプリングと戯れる“UFOF”。カントリーのフィーリングを持ったいなたいフォーク・ソングがエレクトロニカを思わせる音の粒に飲みこまれていく“Cattails”。えんえんと続く反復リズムのなかでリヴァーブが時間感覚を引き延ばす“Strange”。ニール・ヤングを思わせるフォーク・ロックが柔らかな響きのなかでまどろむ。それはまさに木々からこぼれ落ちる陽光のようで、たとえばキーの低い歌声で聴き手をディープなところへと連れていく“Betsy”に象徴されるように、レンカーの歌も非常に抽象的なフィーリングを喚起する。おそらく作品トータルとしての完成度が高いのは『U.F.O.F.』のほうだろう。
 しかし2枚を通じてキラーとなる1曲は『Two Hands』の“Not”にちがいない。この曲を前にして、僕はここのところ「オルタナティヴ・ロックは老いつつある」と書いてきたことを後悔している。“Not”はまるで衒いのない、誰かの内側の奥深くから発せられることによって生まれた紛れもない「オルタナティヴ・ロック」であり……それはそもそも「老い」とか「若さ」とか、トレンドを持ち上げてはすぐに忘れ去るメディアの狂騒なんかに左右されない、いまどうしようもなく迸るエモーションとして鳴らされている。「Not」という否定を畳みかけていくこの曲のサード・ヴァース、「本当に求めているものではなく」と歌うレンカーの声がかすかに揺れれば、すぐにそれは爆発的なエネルギーとなる。90年代の「オルタナ」を遠景に幻視せずにはいられない“Forgotten Eyes”、シューゲイズの香りを纏ったノイズ・ロック・チューン“Shoulders”……弾き語りのフォーク・ソング群もまたたしかに奥ゆきを与えている『Two Hands』だが、よりダイレクトで削ぎ落としたサウンドを目指したという本作は驚くほど「ギター・ロック・バンド」のスリルに満ちている。

 近年フォークが復権しつつあるのは、個々のアイデンティティが苛烈に問われた季節を経て、もう少し広範な意味での「時代の声」が求められるようになったからだと僕は考えている。しかしながらビッグ・シーフによるフォーク・ロックには、カルト集団から10代で抜けだしたという特殊な生い立ちを持つレンカーの「個」が強く反映されており、そういう意味でシンガーソングライター作に近い部分はたしかにある。「U.F.O.F.」とは「未知なる友」のことで、彼女にとって受け入れがたかった自分自身のコントロールできない部分を受け止めることを表しているという。それは彼女だけのものだ。ただ、バンドによってのみ実現される合奏で鳴らされ、聴き手にとって未知なる他者への恐怖を和らげるための内省という意味を持つとき、たしかに時代の音になりうると僕は思う。自分の立つ場所で、他者とアイデンティティを超えて融和すること──それはシンプルだが現代的なテーマで、わたしたちの大切な願いだ。
 ビッグ・シーフのロック・ミュージックは明るさと暗さ、強さと弱さ、不安と安堵、烈しさと穏やかさ、囁きと叫び、はるか空の彼方と自分のふたつの手の間にあるどこかで揺れている。その、いまにも壊れそうなバランスのなかで輝く美しさが細部でこそ息を立てている。

FilFla - ele-king

 日常のなかの祝祭。色彩の横溢。ミニマムな悦び。旋律の横溢。リズムの歓喜。杉本佳一によるフィルフラ(FilFla)、9年ぶりのアルバム『micro carnival』は、そんな「音楽」の喜びに満ちていた。まさに「エレクトロニカとポップの饗宴」か。それとも「マイクロ・ポップの宴」か。もしくは知性とプリミティヴの融合か。

 杉本佳一はフォーカラー(FourColor)名義、ベグファー(Vegpher)、フォニカ(Fonica)、ミナモ(Minamo)としても活動している作曲家/日本のエレクトロニカ・コンポーザー、サウンド・デザイナーである。NYのエレクトロニカ/アンビエント・レーベルの〈12k〉からもリリースされるなど海外での評価も高い音楽家だ。
 このフィルフラはポップを追及したプロジェクトで、彼の音楽を愛するリスナーの中でも特別な意味を持つ名である。〈HEADZ〉からリリースされた『Sound Fiction』もエレクトロニカとポップをつなぐ重要なアルバムであった。
 私は『micro carnival』は「エレクトロニカ」の可能性を大きく広げたのではないかと考える。ポップさと高密度なサウンドの融合ゆえである。緻密に作り込まれたトラック。美しいメロディ。ワクワクするようなリズム。リリースは同じく『Sound Fiction』同様に〈HEADZ〉。

 さて、『micro carnival』は杉本のみならず参加アーティストも重要だ。ソロ・アルバムをリリースするアーティスト moskitoo がヴォーカルして全5曲に参加(moskitoo もまた〈12k〉からアルバムをリリースしている)。作詞のみならず杉本と作曲を共作するなど多面的に活躍している。
 また Chihei Hatakeyama とのユニット、ルイス・ナヌーク(Luis Nanook)の活動でも知られるシンガーソングライターの佐立努もヴォーカルとして全2曲に参加。彼もまた作詞のみならず杉本との共作で作曲も担当している。全編にフィーチャーされているドラムは〈SPEKK〉からリリースした名盤『水のかたち』をリリースした松本一哉が担当している点も注目だ。彼らは単なるゲストではなく、アルバムの重要なコラボレーターである。
 もちろんアルバムの要となるのは杉本によるサウンド・デザインだ。90年代末期~00年代以降のエレクトロニカ・サウンドを継承しつつ、ドラムスも含めた楽器とのコンビネーションとエディットも卓抜のひとこと。何より親しみ深いメロディと耳を惹きつけてやまない工夫と創意にトラックは、杉本がCM音楽作曲家として得た技能を存分に投入した結果かもしれない。
 もちろん「音楽」を発見したような新鮮な驚きに満ちている点も重要だ。エレクトロニカ/音響の「仲間たち」によって奏でられる「マイクロ・ポップの宴」である。

 細やかなサウンドと大胆なリズムが光のように祝祭的な1曲め“papa mambo”と moskitoo のヴォーカルと切ないメロディと細やかなアレンジが胸に染み入る“breath”は本アルバムのキーとなる曲だろう。加えてトイ・ファンク・エレクトロニカ“strike zone”、ディズニカルなアレンジと瀟洒なアシッド・フォークと電子音楽の融合とでもいうべき佐立努のヴォーカルによる“mosaic”もアルバムの不思議なムードを決定付けている。ともあれ全曲、日常の光の中で鳴っているような作品ばかり。小さな音楽と大きな祝祭、大きなリズムと小さなノイズ、大きな喜びと小さな悲しみが、音楽の隅々から溢れて出ていた。
 それはエレクトロニカが音響の快楽から音楽の喜びを獲得した瞬間にすら思える。2019年、エレクトロニカ・ポップな電子音楽はこうまで普遍的になった。多くの人の届いてほしいアルバムである。

羊とオオカミの恋と殺人 - ele-king

 今年の日本は「あいちトリエンナーレ」への脅迫や京アニの放火などテロリストのヴィンテージ・イヤーとなったけれど、虚構の世界ではホラー・ブームの勢い衰えぬまま、まるでそれらをリンクさせるようにシリアル・キラーもラッシュ状態となった。TVドラマ『あなたの番です』の「黒島ちゃん」、『ボイス』で伊勢谷友介演じるカチカチ野郎や『わたし旦那をシェアしてた』の黒木啓司、『リカ』の高岡早紀も印象的な殺人看護師に扮し、映画では『バーニング』のスティーブン・ユァン、ラース・フォン・トリアー監督『ハウス・ジャック・ビルト』、まさかのザック・エフロンが『テッド・バンディ』で主役を務め、年が明ければファティ・アキン監督『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』も控えている。2017年にも多少は波があったとはいえ、マッツ・ミケルセンの『ハンニバル』が打ち切りとなって以降、完全に下火になっていたと思っていたのに、いきなりインフレ・ターゲット2%超えである。完全なる知能犯から座間9遺体事件を想起させるだらしないシリアル・キラーまでタイプもいろいろありながら、最後のところでは超自然的な要因に還元できてしまうホラー映画よりも人間に興味があるという点では製作者の意図も共通しているように思われる(ちなみに僕が一番怖かったのは「尾野ちゃん」です。「尾野ちゃんロス」になって『カフカの東京絶望日記』まで観てしまいました)。

 『羊とオオカミの恋と殺人』は、これまでに黒沢清『岸辺の旅』のメイキングやラドウィンプスのドキュメンタリーなどを手がけてきた朝倉加葉子の長編5作目。フィッシュマンズのファンだからか、名前に「葉」が入るからか、いきなりオープニングからハンパない重低音が鳴り響く。拡大された玄関の覗き穴からカメラが部屋のなかに入っていくとゴミの山の中に若い男がひとり。花王のCMで女装姿が印象的な杉野遥亮演じる黒須越郎が「人生は突然、意味を失う」などとぶつぶつ呟きながら首を吊ろうとするも縄をかけた棚ごと落ちてしまい、自殺には失敗。そして壁に空いた穴を覗き込むと隣の部屋では福原遥演じる宮市莉央がオムレツを食べているところ。黒須は毎日、「宮市さん」を覗くことで生きる活力を得るようになり、それが日課となっただけでなく、ひょんなことから一緒に食事をしないかと誘われて、毎日、彼女の部屋で夕食を共にすることに。ところがある日、いつものように壁の穴から「宮内さん」を覗いていると、「宮市さん」が見知らぬ男性を部屋に連れ込んでいるどころかその男性の喉をいきなりカッターで切り裂く場面を見てしまう。黒須は自分が見たものを最初は信じられず、「なかったこと」にしていたが、2度目に殺人を目撃した時はつい大声をあげる。親切で可愛い「宮市さん」はプロ(?)のシリアル・キラーだったのである。逃げる黒須を「宮市さん」は屋上まで追い詰める。「宮市さん」はカッターを黒須にまっすぐ突きつける。

 振り込め詐欺をテーマとしたTVドラマ『スカム』の後に、それを追う側から描いた『サギデカ』が続き、どちらも振り込め詐欺に対してシリアスな問題意識があったのに、その次に来た『チート』では物語の背景へと退いてしまったように、この作品でもシリアル・キラーを扱う手つきはもはやガジェット化し、早くも次の時代に入ったことを告げている。裸村(ラーソン)のマンガ『穴殺人』を原作とした青春スプラッタ・コメディなので最初からリアリズムとは無縁で、「宮市さん」が殺人を重ねるたびに人格や環境などに変化があるわけでもなく、「宮市さん」自身も「黒須くん」とごはんを食べ続けるのは「自分が正常かを確かめるため」と、「日常性の揺るぎなさ」がまずは基調となっている。平成を覆い尽くし、令和にも受け継がれつつある「日常」の優位性はありとあらゆる場面で重視され、SNSによるガス抜きがしっかりと機能しているのか、異常なことを異常だと認めることなく、何事にも平然とできる感覚はもはや日本文化のお家芸といっていい。日本人が「動く」としたら、では、どんな時なのか。『羊とオオカミの恋と殺人』で「宮市さん」が興奮するのは人を殺している時ではなく、(以下、ネタばれ)「本当に好きな人を殺したかった」ということがわかった時だった。それは誰かと「切れるほどつながれ」ていなければ得られない感覚であり、逆にいえばたいていの日本人は他人が生きていようが死んでいようが別にどっちでもよく、「黒須くん」も「宮市さん」が次々と人を殺していくことに最初は狼狽えているものの、彼女の「生活様式」にあっさりと収まっていく。身体感覚がルールよりも「身内」に寄りがちなのも実に日本的。

 「黒須くん」が自殺しようとした理由はあまり詳しく描かれていない。冒頭で「突然、いろんなことが意味を失った」という独白があっただけである。その時に例としてあげられていたのは円周率を細かい数字まで暗記していたのに、その必要がなくなったという「条件の変化」だった。それまでの「努力」が無に帰したのである。経済成長期に「努力」は推奨され、尊いものだとされてきたけれど、現在では貧富の差を決定するのはどの家に生まれたかであって、「努力」とは無関係なものになってしまった。まったくのゼロではないけれど、「円周率を細かい数字まで暗記」するようなタイプの「努力」は実を結ばなくなる社会に変化し、「黒須くん」はいわば自分がスタートラインにも立っていないと悟ったわけである。たまたまかもしれないけれど、「黒須くん」を演じた杉野遥亮は前述したTVドラマ『スカム』で振り込め詐欺の有能な「かけ子」を演じている。法律というラインを超えたところでは「努力」が実を結び、杉野演じる草野誠実は父親の治療費を稼ぐことができた。同じように追い詰められていてもこうした反則行為を是としなかったのが「黒須くん」であり、自殺という結論であった。そして、死ぬこともできなかった人間の前に生殺与奪の力を行使する「宮市さん」が現れる。「宮市さん」はそれこそ超法規的存在である。社会との接点を失った「黒須くん」が共同体とつながることができた唯一の方法は「宮市さん」への帰依でしかない。「努力」(と人海戦術)の上に成り立っていた日本経済が構造的な転換を遂げているいま、昭和期にはあれだけ影が薄かった天皇がやたらと存在感を増している現実とこの作品はダブって見えてくる。天皇というのは「身内」を拡大した時に現れるもので、政治に活路を見出そうとしない日本人がここのところ天皇に熱い視線を向ける光景は、それこそ政治の季節から宗教の時代への変化を告げ知らせるものだろう。

 後半は半グレ集団との対決という活劇調に雪崩れ込んで行くものの、監督やプロデューサーはこの作品をラヴ・ストーリーとして設定しているので、それよりはパピコを2人で1本づつ食べたり、2人のデート・シーンの方が僕の記憶には残った。「宮市さん」というよりも(『ゆるキャン△』の主演も決まっている)女優としての福原遥を明らかに不思議ちゃんとして増幅させている演出なので、サロメを思い出す人も多いだろうけれど、そのような存在に恋心を抱く男が描けていたかどうがこの作品の評価を分けるところかもしれない。僕はなるほどと感心させられるレヴェルではなかったけれど、ギリギリでアリだったかなという感じ。そして、僕がこの作品を恋愛ものとして見た場合、一番いいなと思ったのは、2人は相手の名前を苗字で呼び合い、エンディングで初めて「名前」を教えあったところである。この時まで彼らは「越郎と莉央」ではないのである。これは新鮮だった。「名前呼び」というのは高校生でもあまりしないことなのに、TVドラマや映画ではとくに恋人でもない女性を名前で呼ぶことが多く、なんか、気持ち悪いのである。『ブラック校則』でも小野田創楽は上坂樹羅凛を「上坂さん」と呼び、月岡中弥は「樹羅凛(きらり)」と呼ぶと「名前で呼ばないで!」と怒られていたではないか(というのはちょっと違うか)。2人が自分の名前を教えあってからはラヴ・ストーリーとして見てもいいのかもしれない。そして、2人は左手で握手をする。左手で握手をするのは相手を嫌っているという意味だったりするけれど、ここではちょっと意味が異なるようで、冒頭で黒須が自殺に失敗した時、隣室の光が差し込んで当たるのは黒須の左手なのである。黒須の左手があの時、あの場所になければ2人は出会わなかったのかもしれないのだから。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND - ele-king

 こだま和文のDUBは、ジャマイカのそれとも、UKの寒さのなかで生まれたそれとも、また違った自己主張をしている。そのDUBは、言うなれば素朴さや慎ましさを反響させるかのようだ。勝手に書くが、庶民の慎ましい生活にリンクすることが、こだま和文のDUBの想いなのだろう。
 こだま和文のDUBはいまのUKで言えば、まったくスタイルは違うけれど、じつはスリーフォード・モッズやリチャード・ドーソンのような人たちに近い。その音楽が庶民の視点によって生まれているという意味においてそうなのだ。ぼくに言わせれば、ケン・ローチ・ミーツ・日本のDUBである。

 Kodama And The Dub Station Band、通称ダブステ(not dubstep)の4枚目のアルバム『かすかな きぼう』はこの時代の日本への素晴らしい贈り物だ、と景気よく言いたいところだが、こだま和文のDUBは聴く人を選ぶかもしれない。
 とくに取り柄のない、日本ならどこにでもありそうな住宅地に、まあ、エリアによっては近年減ってはいるが、空き地があるとする。空き地には、雑草が生えている。歩いていた足を止めて、ふとその雑草を見入ってしまう。そのぐらいの心の余裕がないと、ダブステの透き通るようなレゲエは入ってこない。なんて偉そうなことを書いているぼくは、年を重ねるなかで、そういう心の余裕を無くしつつあるのだが……

 ダブステは、もともと1999年11月、『Riddim』創刊200号記念のイベントに出演するための一夜限りのバンドだったが、そのときのリハーサル音源(モノラルの一発録音)が2005年にミキシングされて最初のアルバム『In The Studio』としてリリースされた(この独特の音質の作品は、昨年アナログ盤として再発されている)。
 その後もカヴァーを交えながらオリジナル曲も増やしつつ、こだま和文としてはミュート・ビート以来のバンドとして活動が続いている。
 ミュート・ビートはすご腕をもったミュージシャンが揃っていたが、ダブステも引けを取らない。ただ、大きな違いはある。こだまの表現は、ソロ活動とそして9.11および3.11を経てからは、変わらざるを得なかった。この変化は曲の背後に大いに反映されていることだろう。

 ナオミ・クラインは『ショック・ドクトリン』において、大災害が起きたあと大衆が茫然自失状態に陥ったときにつけ込む政治について書いている。日本人にとって3.11は、おそらく戦後最大の茫然自失状態をもたらしている。そして、おそらくそこからまだ立ち直れないでいる。ゆえに、癒されたいというのがいまの日本の音楽シーンを覆っているメンタリティだとしよう。9.11後の茫然自失状態がヴェイパーウェイヴを促したという解釈にならえば、シティポップというファンタジーは、機能の仕方としてはそれに近く、いわば対処療法的に、つまり現実を忘れたいと。無意識のなか、3.11以前の世界に戻りたいという。サイモン・レイノルズがレトロマニアと呼んでいるそれである。

 こだま和文は、ペシミストではあるが疲れ切ってはいない。彼はきっと、アクチュアルな現実のなかで見つかる喜び以外は喜びではないと思っているに違いない。ここに、こだま和文がレゲエと結びつく必然がある。レゲエのサウンドは、タフな現実を生きている人たちのささやかな喜びのなかで生まれた。
 また、その音楽にはアメリカのブラック・ミュージックやロック、そしてジャマイカの土着音楽であるメントが入っている。高名なレゲエ研究者スティーヴ・バロウによれば、メントはアフリカ音楽とスコットランド民謡やアイルランド民謡なんかがごっちゃになっている、これまたハイブリッドな音楽である。ザ・スカタライツが60年代によくわからずに美空ひばりの“リンゴ追分”をカヴァーしてしまったように、じつはレゲエのなかには、ジャマイカの土着性とUSブラック以外の要素が含まれている。レゲエで“遠き山に日は落ちて”をやってもなんの不自然さがないのはそういうことだ。この回路は、キングストンのサウンドシステムから国立の空き地にまで根をはっているのだ。

 ダブステバンドは、当たり前の話バンドであって、しかもまとまりのあるバンドで、やはりアンサンブル全体がひとつの塊となっている。同時に、そのヴァリエーションは、さながらレゲエ辞典である。
 “霧の中でSka”では、ジャッキー・ミットゥーを彷彿させる Hakase-Sun の鍵盤が最高のアフタービートを走ることでムードを盛り上げている。曲の雰囲気は、テンポこそ違えども、ザ・スペシャルズの黙示録的名曲“ゴーストタウン”を思い出す。
 重たいリズムと勇ましいメロディを持ったルーツ・レゲエ調の“Chorus”が続くと、ミュート・ビート時代の朝本浩文作曲の“Sunny Side Walk”が待っている。明るいメロディを響かせながら、曲調にうってつけの日本語歌詞を載せたカヴァーは、決定的なロックステディである。Ariwa (ゼルダのサヨコさんの娘さん)のトロンボーンがダブステに新たな活力を与えていることは疑いようのない事実だが、彼女の甘い歌声もまた武器になっている。
 表題曲“かすかな きぼう”は、こだま和文がこれまで発表してきた数々の叙情詩──古くは“Organ's Melody”や“キエフの空”や“Quiet Dub”、あるいは“Earth”とか──の最新版であり、頭にこびりつくメロディを有している。レゲエのリズムが流れているとはいえアンビエント・フィーリングもある独特の作風で、しかも普遍性を持った楽曲である。
 ゆったりしたスカのリズムに揺られて展開する“雑草 (Weed)”では、包み込むような温かいメロディがより前面に出て、胸の奥底に忘れてしまった幸せな気持ちを思い出させてくれる。こんな平和で優しい曲は、こだまのこれまでのディスコグラフィーにあっただろうか。
 “Straight To Dub”では、やや重めのダブ空間のなか、ジョー・ギブスとエロール・トンプソンの『アフリカン・ダブ』めいた迫力ある管楽器と即興的なピアノとの絡みが聴ける。そして、次の曲“Gypsy Cigarette”を聴いたとき、ぼくはまたしてもザ・スペシャルズを思い出してしまった。曲全体から漂うどうにもならないブルーな気配が似ているし、じっさいいまの日本は、ザ・スペシャルズがこの世は地獄だと訴えたイギリスの80年代とある部分酷似している。
 本作『かすかな きぼう』は、こうしたメランコリーを日本が失いつつある風景のなかで反転させる。“遠き山に日は落ちて”のメロディを引用する“New World”は、あたかも、自分たちには戻れる場所があるだろうと指し示しているようだ。いまより貧しかったかもしれないが、社会はいまより平等であった時代への強烈な郷愁。
 それから、アルバムは再度“霧の中でSka”の (Mute Version)へとつながり、夜の闇に紛れていくように“Straight To Dub”の(Tez Dub Version)で締めくくられる。

 『かすかな きぼう』は、文字通り、ぼくにとっての“かすかな きぼう”でもある。たしかにこの音楽のなかにはじゃがたら的な要素もフィッシュマンズ的な要素もあろう。が、それ以上に、こだま和文とバンドの全員がこつこつと積み上げてきたものが、保持し続けているヴァイブが最高の形で録音されている。ジャケットに描かれた青い色が、この音楽の核にあるものすべてを示唆しているようだ。

野田努

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 あらためてブックレットをひっぱりだしてみる。5人のバンド・メンバー以外、楽器のクレジットはない。ぼくが持っているのは98年の再発盤だから、もしかしたらオリジナル盤のほうには記載されていたのかもしれない。タイトルは「チャンス」。ギターがカッティングを開始する手前、強引になだれこむドラムによって道が切り拓かれた直後、むせびなくような金管の音が響きわたる。遅れて生まれてしまったがゆえにオンタイムで MUTE BEAT に接する機会などなく、またフィッシュマンズでさえぎりぎり後追いせざるをえなかった若輩の耳に、結果的に、いつまでもいつまでも残りつづけることになったのは、イラクへの空爆がはじまる前後に録音された、『泣くなよ、チャッピー』の最後から2番目におかれたその曲の、かなしげなトランペットの音(ね)であった。

 より何度も聴きこむことになったのは『A Silent Prayer』だった。アートワークの空には雲がかかっている。列島のどこかから見上げられたであろうその空は、ニューヨークともアフガニスタンともイラクともつながっている──とりとめもなくそんなことを考えたのは18の夏だった。9・11という「前代未聞」の出来事に、どう思考を巡らせばいいのか皆目見当もつかなかった田舎の少年は、そのままふたたびイラクへの空爆へとなだれこんでいく世の情勢を、ただ「おかしい、おかしい」と、そのじつ何がおかしいのかもわからぬまま、ひとりぼやきつづけるしかなかった。むりやり明るいふりをしているかのようなラヴァーズ“La Birds Rock”から絶望の淵で光を希求する“Sun-Ka”を経て、しかしその救いを拒絶するかのように、「とにかく、ひとつひとつやっていく」「地雷をひとつずつ撤去するように」「応答願います」と重く、切実なことばで閉じられる、暗いアルバム。当時は DUB STATION だった。彼はひとりだった。それから15年近い年月が経ちこだま和文は、もう一度、仲間たちとともに DUB STATION BAND として動き出した。

 今回のアートワークもやはり、空に雲がかかっている。今度の雲は手のようにみえる。ぎりぎりでつかみ損ねてしまった、救えなかった誰かの手=過去だろうか。それとも、たったいま救おうと手を差しのべた、その先にある誰かの手=未来だろうか。いずれにせよこの『かすかな きぼう』は、ソロから再度バンドへと転生するなかで紡ぎ出された、『A Silent Prayer』のその後の物語にちがいないと、ぼくは直感的に、勝手に把握した。
 開幕“霧の中でSKA”のスカも、ひとときの陽気を誘う“雑草”も、ヘヴィなダブを堪能させてくれる“STRAIGHT TO DUB”も、“家路”として親しまれているドヴォルザーク作曲の“NEW WORLD”も、ただただすばらしいとしかいいようがない。どの曲もかなしみに包まれている。細部の音響も丁寧だ。まぎれもなくこだま和文のものである旋律を聞かせる“CHORUS”では、背後にうっすらと敷かれたシンセが、わたしたちのかなしみを増幅させていく。
 あるいは“SUNNY SIDE WALK”のカヴァー。ARIWA のヴォーカルもコウチの詞も、何もかもがうまく噛みあっている。この歌詞は、コウチが散歩をしているときの情景を描いたものだという。8年ほどまえにぼくは尊敬する先輩から、「最近、デモよりも散歩のほうがいいんじゃないかと考えている」という話を聞かされたことがある。以来、ぼくもよく散歩をするようになった。街を歩くという点において両者に大きな差はないけれど、なるほどたしかに直接的な対立や熱狂に呑みこまれず、落ち着いてひとりで何かを思考するという点において、散歩はデモとは異なる体験をもたらしてくれる。じっさいに地に足をつけるミクロな自分。道や建物、通行人から浮かび上がってくる社会。そして、見上げる空でつながっているはずの、遠い異国の世界。散歩はぼくにとってその三つへの視界を同時に開いてくれるものだが、それとおなじことをこだま和文の音楽にも感じる。
 先日のインタヴューでこだまは ARIWA との出会いを回想している。みずからに制約を課すことになるとわかっていながら、しかしそんな条件を考慮する間もなく、どうしようもなくこの人と一緒に音を奏でたいと思ってしまう、そんなひとりの人間の生涯において何度あるかわからないような稀有な瞬間、それは、とても陳腐ないいかたになってしまうけれど、奇蹟としか呼びようのないものだと思う。奇蹟はそして、ぼくやあなたや、あなたの知り合いやそのまた知り合い、さらには海の向こうの誰かにも、なんらかのかたちで起こっているのかもしれなくて──たとえばそう想像してみること。

 決定的なのはやはり表題曲の“かすかな きぼう”だろう。この曲も背後のシンセが他の曲とは異なる情感を醸し出しており、トランペットもまた絶対にほかの誰ともとりかえることのできない旋律と、振動を響かせている。
 かすかな。微かな。幽かな。「希望」という通常ポジティヴな意味を担わされる単語の頭に、それを中和するような四つの文字が乗っかっている。ここにこのアルバムのすべてが集約されている。「希望」ということばを目にするたびにぼくは、いつもふたつの文を思い出す。ひとつは、デトロイトのとあるビルの壁に書きなぐられた「革命は希望なきものの希望である」という一文。もうひとつは、のちにナチスから逃れる道程で命を絶つことになる批評家が遺した、「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている」という一文。これらはまさに、こだま和文の音楽をあらわすためにこそ書き記されたことばではないだろうか。二木さんの取材に同席しながらぼくはずっと「希望」について考えていた。「ネガティヴなことだけじゃ成り立たない。かといって、希望じゃないんですよ。ましてや明るく楽しく踊ろう、ということではない。そこで出てきたものが“かすかな”という言葉だった」。

 3・11以降、いろんなことが変わってしまった。でも、変わらなかったものがひとつだけある。呼び方はなんでもいいけれど、体制、権力、支配……ようするに日々ぼくたちを苦しめている根幹そのもの。それだけは何も変わらなかった。むしろ、混乱する人びとの動揺に便乗して、より強化されてしまったようにさえ感じる。『かすかな きぼう』は、そんな時代を生きる、そっち側に行けないすべての人びとを、希望なき人びとを、過度に鼓舞することもなく、過度に慰めることもなく、ただそのかたわらでそっと、かなしみのエコーを響きわたらせる。こんなにも、こんなにも「いま」の日本をとらえた音楽がほかにあるだろうか。
 目の前の日常に追われる生身の人間と、それをとりまく社会、そしてその先に想像される遠く離れた、だがおなじ空の下にあるはずの世界。こだま和文の音楽では、そのすべてがつながって存在している。啓蒙なんかじゃない。もちろん叱責でもない。かといって癒しでもない。ただ、日々を生きる人びとの静かなかなしみが横たわっている。『かすかな きぼう』。これを大衆音楽と、つまりは人民の音楽と呼ばずに、何をそう呼ぶのか。

小林拓音

interview with FINAL SPANK HAPPY - ele-king

 BOSS THE NK と OD という謎に包まれた(?)ふたりによる「三期」にして「最終」の SPANK HAPPY。ある意味、露悪的なまでにフェティシズム、マゾヒズム、サディズム、ペドフィリア、窃視……といった性倒錯をハウスのビートに乗せ歌っていた第二期 SPANK HAPPY (その極点が『Vendôme,la sick Kaiseki』だ)の「ファンダメンタリスト」は、2019年のいまも後を絶たないのではあるが、過去にすがる狂信者を尻目に FINAL SPANK HAPPY のふたりは Instagram やライヴで熱心かつモード系でコミカルな活動を繰り広げている。

 そんな FINAL SPANK HAPPY の全貌を、おそらく提示するであろうファースト・アルバム『mint exrocist』がこのたび届けられた。見る者を困惑させるカバー・アートが部分的に物語っているように、「最終スパンクハッピー」が体現するのは「切ない」、「明るい」、「おもしろい」、そして「元気」である。アメリカのラップ・ミュージックなどについてはいわずもがな、それとはまったくの別軸で(二期スパンクスが予見した)病みに病みまくっている、落ちに落ちまくっている本邦大衆音楽の潮流。そこに悪魔祓いとして、清涼で爽快な香りを漂わせたミントの葉が投げ込まれたのだ。

メンヘラはもうダメですね。表現としては。一般化しすぎた。ヒップホップがバッドやナスティである義務、みたいなものです。いまメンヘラは表現としては「皆さん、喉が渇いたら水を飲むと良いですよ」と言っているのと同じです。一大マーケットですよ。

まずは BOSS THE NK さんと OD さんが出会って FINAL SPANK HAPPY の結成に至るまでのお話をうかがいたいです。

BOSS THE NK(以下、BOSS):菊地成孔くんの有料ブログマガジン「ビュロ菊だより」に私の回想録(「BOSS THE NK回想録」)を連載していていまして、我々が出会ってからフジロックに出るまでのことを書かせて頂きましたが(加筆修正を加えた最新版はこちら→https://www.bureaukikuchishop.net/blog )、菊地くんが12年ぶりでSPANK HAPPYを再開したいんだけど、いろいろと忙しくて自分でできないから(笑)アバターを頼まれました。J-POP史上、というか世界音楽史上稀に見る(笑)アバターを使ってバンドをやるという。彼らしいコンセプチュアルな発想ですが、はたから見たら絶対に「キャラ設定でしょ」って思われるに決まってるんで、、、、というのは、ご覧の通りコイツ(OD を指差して)が、小田朋美さんとミラーリングぐらいに似てるんで、「本人がやってるでしょ? と思われ続けながらやれ(笑)」いうミッションをもらいました。
 で、まずは相方を探してほしいと。 前人の相方の岩澤(瞳)さんはお人形みたいな人で、音楽にいっさい関与しないし、ただ立って言われるようにしていた人だった。だから、今回はなんでも自分でできる天才的な能力を持った──それは身体能力も含めて──相方を探して一応、世界中探し回ったんですがダメで。。。で、疲れ果てまして、私の地元が川崎なので隠し部屋に寝に帰ろうとしたんですが、近くにパン工場があるんですが……。

川崎のパン工場。

BOSS:そこから歌が聞こえてくるんです。あんまりにも上手いから最初はCDだと思っていたんだけど、歌い直したり止まったりするからどうやら生らしいぞと。そしたら中に女の子がいて、その子は小麦粉が入っている袋を服にして着ているボサボサな感じなんだけど、ものすごい天才でバッハから MISIA まで歌えるわけです。
 それが OD なんですけど、彼女は工場から出たことがない捨て子で、工場長から懇意にされてパンを食べながら育ったんだと。その子を工場の外に連れ出して、デビューさせるっていう話を菊地くんと僕とで取り付けて。この子なら間違いないと思ったんですけど……ところが非常に困ったことに、これこの通り、小田朋美さんにそっくりで。。。。

まあ、そうですよね(笑)。

BOSS:本人にしか見えないんだよね、って菊地くんに言うと、おもしろがって「いいじゃん、それだったら誰もがみんな、俺と小田さんがやってるバンドだって思うし(笑)ダブルアバターだ(笑)」って言うんです。

ODさんは?

OD:(パンを食べながら)その通りじゃないスか。インタヴュアーさんも、自分をミトモさん(*注:ODは小田朋美さんをそう呼ぶ)。だと思ってるデスか?

僕は BOSS THE NK さんと OD さんだと思って来ているんですが……(笑)。

OD:当然じゃないスか~(笑)。

OD さんは初対面のとき、BOSS さんについてどう思ったんですか?

BOSS:人さらいだと思ったんだよね(笑)。

OD:ハイ。なので「逃げろ~!」って。でも BOSS が走るのが早くて、ひっ捕まえられたじゃないスか。

BOSS:工場の上のほうまで追いかけるんだけど、OD があまりにも怖がって落っこちちゃってですね。。。でも下に製パン機があって、パン種があるところにボスンと落ちたから怪我しなかった。それで、父親代わりの工場長に相談して。

OD:パン工場のお兄ちゃんたちに囲まれてずっと暮らしていたデス。

BOSS:OD の口調は、そこに勤めている川崎のパン職人さんたちが川崎弁で「〇〇じゃないスか」って言っているのしか聞いたことがないからなんです。まあ、大きく「神奈川喋り」と言うか。

OD:そうなんスか? 全国共通弁だと思ってたじゃないスか~。

いま、ユースの幅も広がっちゃって、10代から50代くらいまでを一括りにできるじゃないですか。それを可能にしたのは、音楽だとロックとアイドルだと思うんだけど、そういう線でなく、10代から50代を「切なくていい」って感じさせられたらいいなと。いまは10代から50代まで青春ですから。

BOSS THE NK は BOSS THE MC が元ネタだと思いますが、「BOSS」に意味はあるのでしょうか?

BOSS:いや、ないです。私は普段は請負屋をしているので、名前は明かせません。それで菊地くんが「じゃあ、BOSS THE NK にしよう」って。北海道の人が怒んないのかっていう(笑)。

OD:なんでデスか?

BOSS:BOSS THE MC っていう、THA BLUE HERB っていうチームで北海道をレペゼンしているヒップホップの人がいるの。

OD:へ~!

BOSS:「ナル・ボスティーノ」かどっちかで迷って(笑)。

OD:「ナル・ボスティーノ」はやばいデスね。。。。

BOSS:で、OD は捨て子だから、コイツ自身も本名はわからないんですが、小田さんに似ているから携帯に「パン OD」ってしておいて(笑)。工場長からの携帯の着信は毎回「パン OD」って出るんですよ(笑)。で、そのまま「OD と BOSS THE NK」ということでスパンク・ハッピーをとりあえず始めたんですね。そうしたらおあつらえ向きに、伊勢丹さんから菊地くんのところに(2018年)5月のグローバル・グリーン・キャンペーンのキャンペーン・ソングをやってくれないかって依頼がきたんです。で、菊地くんがスパンク・ハッピーの再開をプレゼンしたら、すぐに通ってしまいまして(笑)。

FINAL SPANK HAPPY のファースト・シングル「夏の天才」(2018年)が生まれたんですね。

BOSS:その前にデモがあったんですよね。それがアルバムにも入っている“ヒコーキ”。それを聞かせたら、伊勢丹さんがめちゃくちゃよろこんでくれて。「OD、伊勢丹のタイアップ取れたよ」「やったじゃないスか!」っていうことで“夏の天才”ができたと。で、活動を始めて、あれよあれよという間にフジロックの出演も決まったっていう。まあ、SPANK HAPPY は歴史が長いので、12年ぶりに復帰したっていうこと自体がひとつのニュース・ヴァリューを持っちゃう。だから、フジロックからオファーが来たりしたんですけど、「持ち曲2曲しかないよ」っていう(笑)。それから1年半かけて、アルバムにたどり着いたっていう感じですね。

なぜ今回が「最終」なんでしょうか?

BOSS:いや、年齢的に――あっ、年齢は菊地くんと僕は同い年でして。56(歳)です――もしこのバンドがもしうまくいって3、4年続いちゃったら還暦になっちゃうんですよ。還暦になって、口パクで歌って踊っているわけにもいかないでしょう(笑)。

OD:でも、杖つきながら歌って踊るって言っていたじゃないスか!

BOSS:まあ、90(歳)までやってもいいんですけど(笑)。 いずれにせよ OD 以外のパートナーを見つけて第4期をする気はないので。これがトドメなのだ、ここから先はありません、ということで。

それほど OD さんは完璧なパートナー?

BOSS:そうですね。OD とやることが目的であって、OD がいなかったらやらなかった。誰でも良いから、どうしても SPANK HAPPY をやるんだっていう発想ではなく、菊地くんも「天才が見つかったら」ということでしたので。OD ありきなんです。
 あのう、あくまで、事情を知らないお客様から見れば、ですが、小田朋美さんっていうのは大変な才媛で、菊地くんがやっている DC/PRG と SPANK HAPPY のどちらにも、というか同時に 参加できる人材っていうのはいままでひとりもいませんでした。想像すらつかなかった。その点ひとつとっても大変なことです。藝大の作曲科を出ているからアカデミックな意味でも、作曲やアレンジの能力でも完璧っていう以上の特別な意味が小田さんにはある、ということになります。SPANK HAPPY のヴォーカルが DC/PRG のキーボードでもあるとか、トランペットであるとかさ。

OD:トランペットだったら卍ユンケルやばいデスね!(笑)

BOSS:小田さんのパブリック・イメージはクールでやや中性的で、でも歌うとけっこうエモくて鍵盤がものすごく上手くて作曲もできてっていう、完璧に近いような近寄りがたい女性ですよね。
 でも、OD はとにかく。。。。猿みたいなんです(笑)。OD は上京後しばらく小田さんと同棲していたので、小田さんが寝ていたりツアーへ行っていたりする間に勝手に機材をいじっていたら打ち込みができるようになってたんです(笑)。天才ザルというか(笑)。「猿の惑星」みたいな(笑)。

OD:それほどでもないじゃないスか~(笑)

BOSS:謙遜するところじゃない(笑)。「勝手に機械をいじっているうちに覚えたじゃないスか」、「ボスボス~、デモを作ったじゃないスか」って感じで。ジェンダーの問題でいうと、男の子が機械をいじって女の子がポエムを書くっていう、旧態的な役割分担じゃないんです。なにせ我々の場合は、機械をいじっているのもインスタグラムを管理してるのも OD なわけで。

OD:逆に、振付やお洋服は BOSS がやってるじゃないスか。

BOSS:そう。振付とスタイリングは私がやっています。私はダンサーではありませんが、ダンスは子供の頃から好きで、振付にも興味があるから、「OD がこう動いたら可愛いんな」とか、まあ、いろいろ考えて。で、まあ、当たり前ですが、OD も踊ったことがなかったので最初は目を回していたんだけど、あっという間に適応しました。適用能力と学習能力がすごいんですよ。しかも作詞と作曲とアレンジはふたりで共作してるから、もう世代もジェンダーもぐしゃぐしゃにゾルゲル状になっちゃっていて、誰のどっちの曲っていうのももうないんですよ。
 だいたい人間は、自分の正反面っていうのを隠し持っています。だから無教養で猿みたいな女の子で、口癖は川崎のパン工場の人々の言葉で、ものすごい元気でめちゃくちゃ踊ると。恥ずかしげもなんもないから、おしゃれで可愛いと思えばスイムウェアでステージへ上がるのも厭わないっていうのは、あくまで結果としてですが、小田さんの抑圧を集積したみたいなやつだった。天の采配としても完璧な構図ですね。
 それで、FINAL SPANK HAPPY の方向性が定まったんです。いま、皆さん基本的に暗いから。まあその。。。。お届けしますよ(笑)。
 いま、音楽の役割は、生きづらくて暗い自分を励ましてくれるとか、励ますのは素晴らしいことですが、「さあ励ましますよ、はい背中押します、あなたはそのままで良いんですよ」といったそのまんまな形が主流です。 あと、ドス黒いところを吐き出しているSSWの方とか。ディスではなくて、ひとつの成功フォームですから名前を出すけど、大森靖子さんとかですね。女性が暗部を吐き出すのは芸能の古典とも言えます。あとは、椎名林檎さんやコムアイさんみたいな「智将」というか。頭を使って計算して、マーケットはこんな感じでしょう、ふふふ、みたいな感じで、エロ具合からなにから完璧に計算してやる方々。
 そういうんじゃなくて、ポッと出の奴らが、軽くファニーでキュートにやるのだと。FINAL SPANK HAPPY が菊地成孔と小田朋美だったら「スーパー偏差値バンド」ですよね。それは最悪です。なので、私と OD っていう暴れん坊同士で楽しく、かつスーパーハイスキルで最高品質である。ということをブランディングしているつもりです。まあ、ブランディングたって、自然にそうなっちゃっただけなんですが(笑)。

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“エイリアンセックスフレンド”の振付くらいで「エロい」って言われるんだから、この国のピューリタニズムもロリコンもすごいところまできているよね。エロティックがパセティックという目的の素材になるべきです。エロさもあるが切ない。というのが大人の仕事で、AORの本懐である。

いま、BOSS さんがお話しされたのは「メンヘラ」についてですよね。

BOSS:はい。メンヘラはもうダメですね。表現としては。一般化しすぎた。ヒップホップがバッドやナスティである義務、みたいなものです。まあ、もっと一般性の高いことするんだけど(笑)。

FINAL SPANK HAPPY のテーマには「メンヘラの否定」もあるのでしょうか?

BOSS:いやいやいや。否定はしません。菊地くんがやっていた第二期 SPANK HAPPY はメンヘラ表現の先駆けになってしまったと思います。渋谷系っていう快楽的でおしゃれで、軽さのある人たちがいっぱいいた世界のなかに、二期スパンクスはフェティッシュだとか、そういうものを持ち込んだわけです。あと、二期ではとにかく「青春」っていう黄金を扱わないって決めていたので、そうなると幼児退行的で多形倒錯的になっていく。岩澤さんと菊地くんとで年齢差があったことによって、フェティッシュやインセストタブーも視野に入っていました。とにかく俗語としてはメンヘラ。だけど音楽は濃密で美しいんだ、という感じの世界観だったんですね(OD 寝始める)。
 二期は早すぎたので、後になって、フォロワーが、、、、SNSじゃないですよ(笑)、アーバンギャルドさんとか。あと、マーケットの需要もですね。菊地くんのあれは一種の病気だと思いますが、何やっても10年から15年早いって言われがちなんです。「いまだったら二期スパンクスは売れるよ」っていう人もいるんですけど、いまメンヘラは表現としては「皆さん、喉が渇いたら水を飲むと良いですよ」と言っているのと同じです。エコみたいですね(笑)。一大マーケットですよ。
 ですので、別に、アンチメンヘラ=健康思考という意味では全くありません。我々だって人間である限りしっかり病んでいます。単に違う商品を売りたい。コイツ(註:OD はもうとっくに寝ている)を獲得することで FINAL SPANK HAPPY のトーンとマナーが決まってきたんです。「エイリアンセックスフレンド」という曲名とか、ファースト・ヴァースで「甘いペニス」とか言うので、それを指して即物的に「エロい」と言われがちですが、でも、あの曲は切ない曲であって、エロい曲ではないです(笑)。

たしかに“エイリアンセックスレンド”からは「逢瀬」というイメージが浮かびました。

BOSS:セフレとはいえ「フレンド」なわけだから、お互いにちょっとは好きでしょうっていう、まあ、切ないところで(笑)。あとは、宇宙人のセフレっていう第一義と、不倫のダブルミーニングですね。年の差不倫の、しかも反復です。「あなたより子供な大人はいっぱいいたよ」と。そういうことほのめかしつつも全体的に切ないな、切なくてちょうどいいわっていう。あとは、タイトルの「エイリアンセックスフレンド」も、歌詞の最後の「ダンディ・ウォーホール」も、実在のバンド名で、ライミングしてる(笑)。
 いま、ユースの幅も広がっちゃって、10代から50代くらいまでを一括りにできるじゃないですか。それを可能にしたのは、音楽だとロックとアイドルだと思うんだけど、そういう線でなく、10代から50代を「切なくていい」って感じさせられたらいいなと。スティーリー・ダンみたいに「すごいだろ、俺たち」っていう上からには、どうせなれませんが、ただ、ハイクオリティな曲を丁寧に作っています。聴き心地軽いけど、切ないっていう。まあ、曲によってはストレートに悪ふざけてますけど(笑)。

1曲目の“NICE CUT”なんて、かなりふざけていますよね。ユースの幅が広がったことと「切なさ」、そして二期で避けていた「青春」はどういう関係性になるんでしょう?

BOSS:簡単に言うと解禁ですよね(笑)。それこそいまは10代から50代まで青春ですから。二期スパンクスは周りが全員青春だった。なので、青春はもういいわっていう格好でしたが、FINAL SPANK HAPPY はメンヘラ退場で、青春再登場っていう(笑)。切なさ、というのは、単に青春は切ないいじゃないですか。特に、いい大人の青春は(笑)。

では、FINAL SPANK HAPPY は性的な倒錯や病理といったものは扱わないんですか?

BOSS:扱わないですね。FINAL SPANK HAPPY では、あくまで装飾物としてエロいものは入っていますし、何せ実際にアダルトですからね(笑)、基本的には大人は明るく切なくいたいよねっていう。「切ない」と「おもしろい」と「かわいい」と「お洒落」しかない(笑)。 あと「元気」か(笑)。OD ライヴ中お客さんにパンをぶん投げたりする元気さですが(笑)。

カバー・アートやアーティスト写真でも意味ありげに使われているパンはなにかの象徴なんですか?

BOSS:だってパン工場で育ったんだもの(笑)

OD:(突如眼を覚まして)うおー!! そうじゃないスか!

BOSS:最初は、本当にパンしか食わないのかと思ってた(笑)。

漫画のキャラクターじゃないですか(笑)。

OD:ラーメン大好き小池さんじゃないスか(笑)。

BOSS:「なんでパン?」っていうのは皆さん言いますが、しょうがないじゃんねえ(笑)。

OD:「ス『パン』クハッピー」からきているって言われたりしたデスね(笑)。

OD さん的には FINAL SPANK HAPPY の切な明るいモードについてはどう感じていますか?

OD:まんまボスと自分を出してるだけじゃないスか(笑)。

二期との関連でいうと、アルバムでは“アンニュイエレクトリーク”をカバーしているのに驚かされました。

BOSS:ライヴでは二期の曲を、前期からのご贔屓筋へのサーヴィスとして3、4曲やっているんですよ。“アンニュイエレクトリーク”は、タナカくん(Shiro “IXL” Tanaka)のピートのクオリティがかなり高かったので収録しました。あとはめちゃくちゃ細かい話ですけど、“アンニュイエレクトリーク”のメロディって、とうとう最後まで岩澤さんがちゃんと歌えなかったんです。当時は Melodyne なんてないから、ピッチを直せなかったんですよ。だから、ちがうメロディのまま録っちゃっていた。菊地くんはああいう人なんで、気にしてないけど、作曲家としてちゃんと作曲した状態のものを正しく歌ってくれる人がいたら嬉しかろうし、OD に完璧に歌ってもらってやっと完成したっていう気持ちがありますね。

OD:“アンニュイエレクトリーク”は15年も前に書かれた歌詞らしいデスけど、いま聞いてもハッとする、響くところがあるデスね。

BOSS:「クラブの閉店」とか「計画停電」とかね。

2010年代には震災と原発事故があって、風営法問題があって…… 。

BOSS:そのうえで、退屈なんだっていう。退屈な人間が、何をするか。

OD:“雨降りテクノ”も雨に注意注意じゃないスか!

BOSS:そうそう。雨が降ってきて濡れると機械は漏電するから(笑)。

会社のデスクに自分の好きなフィギュアを並べているとか、待ち受け画面を好きなアニメにして仕事をしているとか、昭和の日本じゃ考えられなかった。日本人だけじゃなく世界中の人間たちが退行していっている。大人と子どもの振る舞いのすみ分けがなくなってきちゃっている。いまが昭和だったら、私なんてもうシルバー世代ですよ(笑)。

あまり二期と比べすぎるのもよくないとは思うのですが、二期が扱っていたものとして「資本主義」があると思うんです。そこは FINAL SPANK HAPPY としてはどうですか?

BOSS:とにかく二期はあらゆることに対して予見的だったと。当時は資本主義がどうのこうのなんて、多くの人びとには「なに言ってんだ、こいつら」みたいな感じだったと思うんですけど。
 菊地くんの作品には、全体的にそれが張り巡らされちゃっていて、正直よくないところ、というか、さっきも言った通り、症状だと思いますね。ちょうどジャストなときに出せるっていうのが、本当に才能がある人なので。早すぎる人や遅すぎる人は……カラオケで早く出ちゃう人とか、なかなか歌い出さない人みたいなタイミングが悪い人だから(笑)。早すぎるっていうのは音楽家として致命傷だと。
 ただそれは、菊地くんひとりの力じゃどんなに遅らせても、ちょうどぴったりにならない。私にもその病理はあります。けれども OD は、とてもいい意味で古典的な人で。

OD:自分は遅いタイプだから。。。昔のものがすごく好きなんデス!!

BOSS:それにしても“エイリアンセックスフレンド”の振付くらいで「エロい」って言われるんだから、この国のピューリタニズムもロリコンもすごいところまできているよね。パソコンではいくらでもエグいものが見られるのに。ポップ・シティ・ミュージックと完全に分離してしまっている。なんか、一種の放送コードですよね。もし「未来の大人のポップス」があったとしたら、エロティックがパセティック(涙目になるような状態)という目的の素材になるべきです。エロさもあるが切ない。というのが大人の仕事で、AOR(「アダルト・オリエンテッド・ロック=大人志向のロック」)の本懐である。と思ってやっています。菊地くんはバブル世代だから陽気なほうだけど、それでもパニック障害とかやっているしさ(笑)。一方、小田さんはめちゃくちゃ明るい人ではないので、我々とはできることがぜんぜん違うと思いますよ。

OD:ミトモさんに聞いたんデスが、子どものころはすごく明るかったらしいデスよ。

BOSS:それを「暗い」って言うんじゃない?(笑)。 「子どものころは明るかった」っていうひとは暗いひとでしょ(笑)。

OD:なんか、ご家庭でも一番ひょうきんだったらしいじゃないスか~。

BOSS:無邪気だったけど、楽園を追放されて無邪気じゃなくなったんでしょう(笑)。普通の発達だよそれは。小田さんの視点に立ったら、OD は幼児退行という側面もあるでしょうね。

OD:二期も退行を歌っていたじゃないスか。それは「少女」とか「幼児」ぐらいだと思うんデスけど、ミトモさんにとって自分は。。。3歳児くらいの感じじゃないスか(笑)。

BOSS:まあ、天才ザルだからな(笑)。人間以前に(笑)。

その「退行」についてはどうお考えですか?

BOSS:大きく捉えれば社会問題くらいなものですよね。会社のデスクに自分の好きなフィギュアを並べているとか、待ち受け画面を好きなアニメにして仕事をしているとか、昭和の日本じゃ考えられなかったことだから。
 でも、日本人だけじゃなくって世界中の人間たちが退行していっている。大人と子どもの振る舞いのすみ分けがなくなってきちゃっているんです。「大人買い」って、そこからきているわけじゃないですか。大人になって、子どものころに欲しかったプラモデルを山ほど買うとか。まあだから、20世紀は、どうしても退行の世紀に見えちゃうんですよね。全人類的に退行しているのかどうか? っていうのは、『アフロ・ディズニー』っていう本で菊地くんが識者と話しています。
 その一方で、若いアイドル・ファンたちのわきまえがよくなって、べたべた触って追い出されちゃう人がいなくなり、礼儀がちゃんとしてきている、大人っぽくなっている面もあるんですよね。退行の逆行現象として。だから、退行の問題は簡単には語れないです。特に、市民の私生活と、音楽表現との関係においては。いまが昭和だったら、私なんてもうシルバー世代なんですよ(笑)。

退行は力にもなるんですね。

BOSS:そうですね。なおかつふたりとも運動が好きで、ダンスしているし、ボディケアもやっている。アンチエイジングですよね、ひとつの。

OD:SNSで「菊地さんの隣にいる、あの体育会系の女むかつく」って書かれていて、自分はパリピユンケル卍驚いたじゃないスか! 自分はバッキバキの文化系じゃないスか~、大体自分の隣にいるのは菊地さんじゃないし!!(笑)

BOSS:「○○じゃないスか」っていうのが体育会系の言葉づかいだからってだけじゃない? まあオマエはスポーティーだからな。

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薬ばっかり飲んでいたり、ネットで病気の情報を集めたりしていたらもっと悪くなっちゃうので。恋人でもだれでもいいんだけど、誰にも「あたしのエクソシスト」がいて、ちょっとキスをしてくれるだけで悪魔を払ってくれるんだと。

……ええっと、音楽の話がぜんぜんできていなくて恐縮なのですが、今回はリズムのアプローチが多彩ですよね。二期はハウスやディスコのビートを中心にやっていたので。

BOSS:そうですね。リズミック・アプローチについては、二期スパンクスは DC/PRG と並走していたから、菊地くんもシンメトリーを出したかったんでしょう。ものすごい大人数のプロ集団が複雑なリズムに取り組む DC/PRG と、素人でなにもできない女の子とふたりだけですごくシンプルなテック・ハウスみたいなのをやる SPANK HAPPY と。
 我々はその当時の菊地くんの企みとは無関係です。OD のコード進行やメロディのつくりかたはすごく古典的でありながら、斬新で素晴らしいと思いますね。私にはできないことを簡単にやってのけます。リズムの対応力も非常に高いですし。
 あとは、テクノロジーの力が上がったっていうのも大きいですよね。昔は5連符の打ち込みなんてできなかったから。Ableton Live とか、あらゆるテクノロジーがリズムの揺らぎとかを追求してきている。あと、Ableton Live に「MIDI化」っていうのがあって、どんな音声データでもMIDI情報にできちゃうんです。そんなん使ってないけど(笑)。

OD:それはヤバいじゃないスか。。。。。

BOSS:だから、(エルメート・)パスコアールみたいなことが簡単できちゃう。言葉が全部歌になるので、ミュージカルって概念がなくなるわけです。極論的に、どんな映画も、台詞を全部音程化して伴奏をつけちゃえばミュージカルにできちゃうんだと。
 ポップ・ミュージックは新しい機材や技術をプレゼンテーションする音楽です。だから、FINAL SPANK HAPPY は原義に忠実にポップ・ミュージックだと思いますよ。二期はデカダンだったので、過去志向というか、傷とか幼児退行は過去への志向です。いまは軽やかで最新であると。なにも知らない人に「OD かわいいよねー」、「この曲切ないよねー」って楽しんで頂きたいですね。

ふたりの引力と斥力で、ちょうどいいところにいると。

BOSS:僕はコンサバの力に感動したことってあんまりないんです。業務上、クラシックの弦のチームを、クラシック上がりの有名アレンジャーの方とかと一緒にやるんですけど、あんまり感動したことがないんです。
 でも、小田さんが書いた弦──『mint exorcist』の弦アレンジは小田朋美さんがやっているんですけど──にはすごく感動したんですよね。コンサバで古典的な響きをちゃんと譜面で書ける人の弦って、こんなに感動するんだっていうことに打たれて。小田と OD が唯一繋がっている古典=クラシックスの力は振り絞れるだけ振り絞って、全部使おうっていう気持ちがありますね(笑)。

OD:BOSS のアイディアは、たまに言っていることがわからなくて作業が進まないこともあるデス。でもそれをふたつ、がっちゃんこで合わせてみると「あっ、すごくいいな」ってなるじゃないスか。お互いのいい面が、ひとつの曲としてうまくはまるデスね。BOSS のリズムやコードに対するアプローチって、最初「これは何スか?」みたいな斬新な発想なんデスが、自分は──もちろん新しいものも取り込むけど──基本的にコンサバで古典的なものが好き好きなところがあるじゃないスか。

調性を信じる OD さんと、ジャズの無調や調性から外れることに惹かれる BOSS さんとの対照性や緊張関係があるわけですよね (https://realsound.jp/2018/06/post-208704.html)。

OD:緊張というより、むしろお互いすげーなと思っているじゃないスか。自分は調性と無調って対立しているものではないと思うデス。調性の先に無調があって、距離の問題だと考えているので。無調のなかにもすごく美しいハーモニーはあるし、実は古典的な響きもいっぱいあるじゃないスか。

BOSS:おおおお。その発言自体が超コンサバでしょ(笑)。まあこうやって自然にバランスしてるバディなのだと(笑)。

OD:“Devils Haircut”は調がないっていうか、調性じゃないものがいっぱい重なって入っているデス。とってもお気に入りじゃないスか~(笑)。

BOSS:ブルースやロックンロールは、もともと無調への通路だからね。我々の“Devils Haircut”には、現代ブルースの要素とクラシカルな多調性の要素が、まさに共作的に溶け合っています。

どうしてベックの“Devils Haircut”をカバーしたんですか?

BOSS:ぜんぜん理由はないんですよね(笑)。OD はベック知らないし。「とにかく洋楽をカバーするじゃないスか!」ってなったので、時代もジャンルも関係なくふたりでランダムにどんどん音源を聞いていったんです。

OD:YouTubeでデス。

BOSS:我々のコンビネーションの別軸に「ポップスに対する教養のある/なし枠」っていうのもあるんです。OD は本当にいい意味でポップスの教養がないので、レッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)はローリング・ストーンズの次くらいだと思っていましたからね(笑)。

ロックの歴史的には20、30年空いていますね(笑)。

BOSS:「ベートーヴェンの次がヴェーベルン」みたいな(笑)。すげーびっくりしたんだけど、ポップ・カルチャーという本来無教養なものだったのに対する教養、つまりサブカルですが、OD はポップスに対してパンクというか、アナキストですね。それでふたりでどんどんポップスを聴いていって「あっ、これかっこいいよね」ってなったからやっただけで。「いまこれをやったらセンスいいよね」っていう感覚では全くないです。ガラガラポンですよ(笑)。

OD:クレイジーな曲でカッコいい~と思ったデス。最初はFKAツイッグスの、チェロとピアノだけの静かな曲をやりたいとか、そういう話もしてたデスが、いつのまにか、「やっぱりこの曲良いよね、この曲をピアノでやって見たら面白そう」ってなったじゃないスか。

あのピアノはYMOの“体操”を思い出しました。

BOSS:あれはチャームですね。一番表面に置いてあるから、一聴して“体操”に聞こえるけれども、実際はコンロン・ナンカロウとか、同じ坂本(龍一)さんでももっと最近の作品の要素も入っている。“体操”ってもっとずっとポップだし、あれは形式が変形のブルースだからね。「これ“体操”だろう」っていうのは当然の反応ですけど、奥行きを作っています。
 あれはふたりじゃないとできないアレンジです。縦横に音楽的な奥行きがありながら、すごくふざけているので(笑)。

OD:ライヴの振り付けも、あの曲はスローモーションで卓球をやってるじゃないスか(笑)。それでそれで、最終的にはドライブデート中のふたりが車の事故で死んじゃうじゃないスか~(笑)。

音楽は、「簡単か難しいか」なんてことのはるか以前に、「向いてる向いてない」とか「できるできない」という軸すらないんです。一番似ているのは恋愛です。誰でも恋はする。でも、傷や不全で臆病になるでしょう。

ボニーとクライドじゃないですか(笑)。最後に、アルバム表題曲の“mint exorcist”についておうかがいしたいです。

BOSS:ヒステリーや恋愛依存症、誘惑依存症というのはいつの世にもありました。昔は悪魔祓い師やヒーラーがいて、現代では精神医療で投薬して治しましょうっていうふうに変わったわけですけど、それを一回、また戻したいんです。薬ばっかり飲んでいたり、ネットで病気の情報を集めたりしていたらもっと悪くなっちゃうので。恋人でもだれでもいいんだけど、誰にも「あたしのエクソシスト」がいて、ちょっとキスをしてくれるだけで悪魔を払ってくれるんだと──そういう話をパッと考えついたんですよね。最初はツアー・タイトルとして、適当に思いついたんですけど(笑)曲のテーマに発育させたと。

OD:自分がよくミントを食べていたからじゃないスか?(笑)

パン以外も食べるんですね(笑)。

BOSS:そう(笑)。OD はミントばっかり食って、なぜか途中でやめて、その食べ残しをそこかしこに、財産みたいに積んでるんですね(笑)。んで私は映画の『エクソシスト』が大好きなので、それもあって「mint exorcist tour」って適当に言っちゃったんですよ。で、夏にふたりでうなぎを食いに行って、昼から日本酒を飲んで「気持ちいいじゃないスか~」って言っていた帰りの数分間で、曲の骨格ができあがって。で、あなたは「mint exorcist」だと。涼しく甘く、悪魔を祓ってくれるんだと。

OD:その日のうちにばーって録って、できあがったんデスよね。

BOSS:最速でできた曲ですね。着想から完成まで5分かかってない。

OD さんが「音楽はみなさんが考えてるより、ず~っと簡単じゃないスか!」って言っているのが、いままでにない感じでいいなと思いました。

BOSS:まあ、時間をかけて作る曲もあるけど本当に一瞬でできる曲もある。だから、あの曲自体のことであり、人間が抱えている問題や、萎縮に関する解放ですよね。

OD:音楽が苦手だっていうひともいるじゃないスか。でも、向いていないとか苦手だとかって封じ込めちゃわないで、もっと音楽は簡単だって知って欲しいデスね。

BOSS:音楽は、「簡単か難しいか」なんてことのはるか以前に、「向いてる向いてない」とか「できるできない」という軸すらないんです。一番似ているのは恋愛です。誰でも恋はする。でも、傷や不全で臆病になるでしょう。

OD:臆病はダメダメじゃないスか~。

BOSS:無教養主義に対する肯定がキツすぎるんですよ。一方で、東大出の人が「人生に学歴なんて関係ない」って言ったらいやらしいじゃないですか。もしですよ。小田さんと菊地くんが「音楽なんて簡単ですよ」って言ったら、単純に腹たちますよね(笑)。それでおふたりが「いや、私は学校のなかでもドロップアウト組で……」とか話がグダッグダになっちゃう(笑)。
 だけど OD が、調子よく口笛吹いてる曲の途中で「みなさんが思ってるより音楽は簡単じゃないスか~。ウナギを食ったらすぐに曲ができてすごいじゃないスか~。ウナギには栄養があるじゃないスか~」って言うことで、本当にキツくなっちゃっている、難しく考えすぎちゃっている人たちのキツさをちょっと緩めてほしい。我々からの、小さな傷口へのキスだと思って頂きたいです。と、それぐらいは FINAL SPANK HAPPY はジャストに立っていると──実際どのくらいかっていうのは、これからやってみないとわからないんだけど(笑)。

わかるのは10年後かもしれませんね(笑)。

BOSS:そしたらジャストじゃないですね(笑)。「FINAL SPANK HAPPY はやっぱりマニアックだ」ってなるのか、「いやこれめちゃくちゃポップだよ」っていうふうになるのかは、聴いてくださった皆さんが決めることですから。

元ちとせ - ele-king

 私は元ちとせのリミックス・シリーズをはじめて知ったのはいまから数ヶ月前、坂本慎太郎による“朝花節”のリミックスを耳にしたときだった、そのときの衝撃は筆舌に尽くしがたい。というのも、私は奄美のうまれなので元ちとせのすごさは“ワダツミの木”ではじめて彼女を知ったみなさんよりはずっと古い。たしか90年代なかばだったか、シマの母が電話で瀬戸内町から出てきた中学だか高校生だかが奄美民謡大賞の新人賞を獲ったといっていたのである。奄美民謡大賞とは奄美のオピニオン紙「南海日日新聞」主催のシマ唄の大会で、その第一回の大賞を闘牛のアンセム“ワイド節”の作者坪山豊氏が受賞したことからも、その格式と伝統はご理解いただけようが、元ちとせは新人賞の翌々年あたりに大賞も受けたはずである。すなわちポップス歌手デビューをはたしたときは押しも押されもしない群島を代表する唄者だった。もっとも私は80年代末に本土の学校を歩きはじめてから短期の帰省をのぞいてはシマで暮らしたこともないので、彼女が群島全域に与えた衝撃を実感したわけではない。私のころはむしろ中野律紀さんがシマ唄のホープでありポップスとの架け橋だったのであり、電話口で元ちとせの登場に母の興奮した声音を聴いた90年代なかば、私はむしろゆらゆら帝国(まだ4人組でした)とかのライヴに足を運びはじめたころで、シマ唄なんかよりはそっちのがだいぶ大事だった。しかしそのように語るのはいくらか語弊がある。というのも、そもそも私のような1970年代生まれ以降のシマンチュにとってシマ唄はもとからそう身近なものではない。戦後、米軍統治からの本土復帰後、ヤマト並をめざす奄美にとっては文化も言語も標準化すべき対象でしかなく、私はよく憶えているが、私が小学の低学年だったころまでは学校のその週の努力目標にシマグチ(方言)を使わないようにしましょうというものがあり、使うと他の生徒の前で罰せられたのである(80年代のことですぜ)。私はこのことに子ども心ながら理不尽な気持ちを拭えなかったが、なにがおかしいか、なぜおかしいか、またひとはなぜそのような外部の視線を内面化することで恥と劣等感をおぼえるのか、語ることばをもたなかった。もっともその口にのぼらせるべきことばすら本土化されかかっていたのだとしたら、武装に足ることばなどどこにもなかった。とまれ私たちは中国のウイグル自治区への政策をしたり顔でもって他山の石などとみなすことなどできない。南西諸島にせよアイヌにせよ、境界を措定された空間の周縁は中央がおよぼす文化と政治と経済の波がもっとも可視化されやすい場所であり、言語におけるその顕れはおそらくドゥルーズのいうマイナー言語なるものを派生させ、近代性の波と同期すればポール・ギルロイいうところの真正性オーセンテイシテイを励起するはずだが、この点を論究するのは本稿の任ではない。つまるところ私にはともに90年代前半に見知ったおふたりが20年代のときを経てコラボレーションするにいたったことが事件だったのである。
 恥ずかしながら私はここしばらく元ちとせの動向を追っていなかったのでことのなりゆきがにわかにはのみこめなかったが、レーベルのホームページによるとリミックスはこんごもつづくとのこと。また今回のプロジェクトはもとになるアルバムがあるのもわかった。昨年リリースの『元唄(はじめうた)』と題したシマ唄集で、元ちとせはこのアルバムで盟友中孝介を客演に、勝手知ったるシマ唄の数々を招き吹きこみなおしている。坂本慎太郎の“朝花節”のリミックスは『元唄』の幕開けにおさめた楽曲のリミックスで、同様の主旨のリミックスが以後数ヶ月つづくこともレコード会社の資料は述べていた。したがって本作『元ちとせリミックス』の背景にはおよそこのような背景があることをご理解いただいたうえで、今回の坂本龍一のリミックス作のリリースをもって完了したプロジェクトをふりかえりつつ収録曲とリミキサーを簡単にご説明さしあげたい。

 

朝花節 REMIXED BY 坂本慎太郎
2019/6/26 Release

 “朝花節”は唄遊びや祝宴の席で最初に歌うことの多い、座を清めたり喉のウォーミングアップをかねたりする唄。唄者には試運転をかねるとともに、唄の場がひらいたことを宣し声を場にチューニングしていく役割もある。多くの唄者の音盤でも冒頭を飾ることが多く、元ちとせの〈セントラル楽器〉(名瀬のレコード店で唄者のアルバムを数多くリリースしている)時代のセカンド『故郷シマキヨら・ウム』(1996年)の冒頭を飾ったのも“朝花節”だった。1975年の敗戦の日の日比谷野音で竹中労が音頭をとり、嘉手苅林昌、知名定繁と定男父子、登川誠仁など、稀代の唄者が集ったコンサートの実況盤でも奄美生まれの盲目の唄者里国隆の“朝花節”が1曲目に収録されているのもおそらく同じ意味であろう。
坂本慎太郎のリミックスはもっさりしたチープなビートが数年前のクンビアあたりを彷彿する点で、『元唄』のボーナストラックだった民謡クルセイダーズの“豊年節リミックス”に一脈通ずるが、音と音との空間を広くとり、定量的なビートにも機械の悲哀といったものさえ感じさせるソロ期以降の坂本慎太郎の作風を縮約した趣きもある。背後からヘア・スタイリスティックスとも手を結ぶ作風ともいえるのだが、坂本は元や中の声を効果的にもちい、聴き手の感情をたくみに宙吊りにする。うれしくもなければ悲しくもない。笑いたいわけではないが怒っているのでもない、日がな一日砂を噛みながらみずからの鼻を眺めるかのごとき感情の着地を拒む幕開けはアルバム総体の行方も左右しない。

 

くばぬ葉節 REMIXED BY Ras G
2019/7/31 Release

 つづく“くばぬ葉節”のリミックスはラス・Gの手になる。ラス・Gは今年7月29日に逝去したがリミックスの公開はその二日後、はからずもいれかわるように世に出た。LAビート・シーンの立役者のひとりであり、幾多の独特なリズム感覚でビート・ミュージックの形式にとどまらない作風をものしたラス・Gらしく、ここでもパブリック・イメージをいなすノンビート・アレンジで意表を突いている。全体はスペーシーな風合いがつよく、冒頭のSEは極東の島国のさらにその南の島からの唄声に自身のサウンドをチューニングさせるかのよう。表題の「くばぬ葉」はビロウの葉のこと。シマでよくみるヤシ科の常緑の高木でその葉を編んで団扇にしたことなどから身よりのないシマでのひととのえにしの大切さになぞらえている。

 

くるだんど節 REMIXED BY Chihei Hatakeyama
2019/8/28 Release

 ここからアルバムはアンビエント・パートへ。数あるシマ唄でも代表的な“くるだんど節”を本邦アンビエント界の旗手畠山地平がカスミたなびく音響空間に仕上げている。表題の「くるだんど」とは「空が黒ずむ」の意。その点でも幽玄の情景を喚起する畠山のリミックスは唄のあり方を的確にとらえているといえる。もっともシマ唄の歌詞に決定稿は存在しない。歌詞は唄うものが唄い手が独自に唄い変える。じっさい畠山のリミックスの原曲となった『元唄』収録の“くるだんど節”は島の特産物産を自慢する内容だが、この歌詞は親への感謝を唄うオーソドックスなものともちがっている。むろんそれさえも「空が黒ずむ」ことともなんら関係ない。転々とシマからシマ、ひとからひとへ唄い継ぐうちに歌詞も節もグルーヴも変転する世界各地のフォークロアな音楽と通底するこのような口承性こそ、共同体の暮らしの唄としてのシマ歌の真骨頂といえるのだが、畠山地平は唄の古層を探るかのように原曲の音素をひきのばし、幾多の微細な響きに解体した響きが蜿蜿と蛇行する大河のような時間感覚をかたちづくっている。

長雲節 REMIXED BY Tim Hecker
2019/9/25 Release

 声の響きに着目した畠山のリミックスと対照的に、つづくティム・ヘッカーは“長雲節”のリミックスで元ちとせの唄の旋律線の動きに焦点をあてている。ティム・ヘッカーといえば、昨年から今年にかけて『Konoyo』と『Anoyo』の連作での雅楽との共演でリスナーをおどろかせたばかり。雅楽とは、いうまでもなく中国から朝鮮半島を経由に伝来した宮廷音楽だが、楽音と雑音とを問わずあらゆる音に色彩をみいだすこのカナダ人は雅楽という形式特有の持続とゆらぎに、おそらくは此岸(この世)と彼岸(あの世)のシームレスなつながりをみた、そのように考えれば、シマ唄、ことに元ちとせら「ひぎゃ唄」の唄者が自家薬籠中のものとする裏声によるポルタメントな唱法(グィンといいます)はヘッカーをしてシマ唄と雅楽の類似点を想起させなかったとはだれにも断定できない。原曲となる“長雲節”はしのび逢いの唄で、別れ唄とする地域もあれば祝い唄とみなすシマもある。このような背反性までもリミキサーが理解していたはずはないが、かろうじてかたちを保っていた唄が旋律の線形だけをのこし抽象化し、やがてサウンドの合間に姿を消すヘッカーの解釈は唄の物語世界にも同期する、好ミックスである。
ちなみにさきに述べた「ひぎゃ唄」の「ひぎゃ」とは東の意。元ちとせの出身地でもある奄美大島南部の瀬戸内町の旧行政区画名「東方村」に由来する。すなわち南方を東方と呼んでいたころのなごりで、北部を代表する「かさん唄」(「かさん」は現奄美市に合併した笠利町のこと)とシマ唄の傾向を二分する流儀である。武下和平から朝崎郁恵まで、著名な唄者がひぎゃ唄の唄い手に多いのは起伏に富む歌いまわしがテクニックに結びつくからだろうが、地鳴りのような唸りからファルセットまで一気にかけあがる唱法は、北部に比して急峻な南部の地形に由来するとも、信仰や風習や、はたまた薩摩世(薩摩藩支配時代)の過酷な労働に由来するとする説まで、諸説紛々だが真偽のほどはさだかでない。

 

Photo by "Jakob Gsoellpointner".

豊年節 REMIXED BY Dorian Concept
2019/10/30 Release

 フライング・ロータス、サンダーキャットらの〈ブレインフィーダー〉から『The Nature Of Imitation』を昨年リリースし一躍ときのひととなったドリアン・コンセプトは『元唄』では唯一のリミックス作“豊年節”を題材に選んだ。すなわち民謡クルセイダーズのリミックスのリミックスということになるが、ジャズからビート・ミュージックまで手がけるオーストリアの才人は原曲を活かしながら独自色をひそませ、島々を練り歩く放浪芸の一座のようだった原曲にサーカス風の彩りをくわえている。

 

Photo by zakkubalan(C)2017 Kab Inc.

渡しゃ REMIXED BY 坂本龍一
2019/11/27 Release

 『シマ唄REMIX』の参加者でそれまでに唯一元ちとせとの共演歴をもっていたのが“渡しゃ”を担当した坂本龍一である。坂本と元は2005年の8月6日に広島の原爆ドームの前で、トルコの詩人ナジム・ヒクメットが原爆の炎で灰になった少女になりかわり書き綴った詩の訳詞に外山雄三が曲をつけた“死んだ女の子”を演奏し、爾来夏を迎えるたびに限定で配信し収益のいちぶをユニセフに寄付しているという。元ちとせの2015年のアルバム『平和元年』も収める“死んだ女の子”はまぶりのこもった歌声と柔和なメロディに鋭いたちあがりの音が同居した、反戦と平和を希求するスタンダード・ナンバーとして灯りを点すように広がりつつあるが、ここでの坂本は元ちとせのリズミックな演奏に抑制的にアプローチすることで原曲の秘められた側面をひきだしている、その作風は畠山地平やティム・ヘッカーと同じくアンビエントと呼ぶべきだろうが、声の断片、電子音のかさなり、ピアノの打鍵、かぎられた響きで多くを語る方法は坂本龍一の作家性を端的に物語っている。
表題の「渡しゃ」は島と島を渡すもの、すなわち「船頭」の意。船頭が唄のなかで奄美大島、喜界、徳之島、沖永良部、与論からなる奄美群島をめぐっていく。歌詞にみえる「間切り」の文言は琉球と奄美にかつて存在した行政区画で、市町村の町みたいなものだが、島には陸地にはない海の道があり、海が隔てる別々の島のシマ(村)が同じ間切りに入っていたこともしばしばだった。今福龍太が『群島論』で指摘したように、海を道とみなす視点には陸地と海洋が反転した白地図が文字通り浮上するというが、形式を問わない自由な耳でしかあらわれない音もおそらくこの世には存在する。『シマ唄REMIX』が収めるのは純粋なシマ唄でもなければポップスでもない。リミックス集だがダンス・ミュージックでもないし、中身も歌手元ちとせの唄のみをひきたてるものではない。実験的で挑戦的な内容ともいえる一枚だが、エキゾチシズムに淫せず、伝統に拝跪せず、神秘主義に溺れず、反省的な文化人類学の反動性に与せず、ありきたりなポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの思弁にも回収されない、蠢動するものはそのような音楽がもっともよく体現するのである。

特設ウェブサイト:
https://www.office-augusta.com/hajime/remix/

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