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年末チャートと選挙結果は似ている。同じものを求める大勢の人たちと細かい趣味に分かれた小数の人たち。ファレル・ウイリアムスやイギー・アゼリアのような大多数を作り出すのも資本主義なら細かい趣味に分かれた人たちを作り出すのも資本主義。毎年、野党の分散状況を眺めているような気がしていたので、紙版『ele-king』でも個人チャートはやめました。自分は他人とはちがう光線を出したい人たちが個人発信でやればいいかなと。ちなみに「他人とはちがう光線を出す」ことはいいことだと思います。読んでもらう相手を間違わなければ。
年末チャートにも選挙にも関心がない人をアナキストとは呼ばないと思うし(アナキストというのは選挙制度の無効を訴えるために、選挙になると必死になって「NO VOTE」を呼びかける運動家であって、選挙になると無関心をアピールする人ではないと思うし)、じつのところ資本主義と無縁のポップ・ミュージックもあまりおもしろいものではないと思う。「15本限定のカセット・テープ」がおもしろいような気がするのは、それが資本主義の世界だからで、「流されていない」とか、少しでも抵抗しているようなことを言いたいがための稚拙なアイディアを共有できるような気がするからで、逆に言えば資本主義だからこそ成立する会話のようなものでしかないと思う。そういうものを何本も聴いたり、なんだかよくわからないネット音源を聴いたり。それでいいんじゃないかな。「♪レリゴー」を歌っている子どもの横で「♪とりむしけもの~」と歌っている子がいれば、「この子は将来大物だ」とか思って笑っている感じ。本気でそう思っているわけがない(関係ないけど、「アナ雪」の作曲陣は3人で、そのひとりはチリー・ゴンザレスの弟なのね)。
ニール・ヤングの新作は「♪レリゴー」でも「♪とりむしけもの~」でもなかった。「売れてる」をアピールしている音楽にも「売れてない」をアピールしている音楽にも聴こえなかったということである(本人は歌詞でフラッキングに反対=つまり資本主義には眉を顰めているけれど)。弾き語りヴァージョンをCD1、同じ曲をオーケストラやビッグ・バンドによってアレンジしたものがCD2で、通常盤は後者のみ。それはバカラック・マナーの優雅なオーケストレイションで幕を開け、チルウェイヴでもヴェイパーウェイヴでもないのに現代的な叙情性を兼ね備え、過去に連れ去ろうとするようなものではなかった。いや、バート・バカラックが夢見心地な曲を量産した時代ではなく、僕はほんの少しだけど、1982年に引き戻された。ペイル・ファウンテインズがバカラックをリヴァイヴァルさせた“サンキュー”を思い出したからである。
「ネオアコ・ディフィニティヴ」でも書いた通り、演奏はけっして上手くないけれど、デビュー当初のペイル・ファウンテインズやアズテク・キャメラは透き通るような瑞々しさにあふれ、グラムやパンクで汚れきった世界観を清浄化するような作用があった。一瞬でもそのような時代があるとないとでは、その後の世界の受け止め方も変わるものである。80年代も中期になると、メジャーではヒップホップ、マイナーではポスト・インダストリアルがあっという間にダーティな空気を運んでくることになり、ペイル・ファウンテインズもファースト・アルバム『パシフィック・ストリート』がリリースされる頃にはもっと苦渋に満ちた感触を強めてしまう。時代からズレまくっていたとしても“サンキュー”のようなバカラック調で占められたアルバムが聴きたかったというのが本音ではあるけれど、彼ら自身が“サンキュー”の路線を信じられなかったのだから仕方がない。
その時の気持ちの半分でも満たしてくれたのが、このタイミングで、しかも、ニール・ヤングになるとは思わなかった。“サンキュー”ほど朗らかではないし、もっと地味で落ち着いているし、ファレル・ウイリアムスだって「ハッピー」でミラクルズを思い出させてくれたじゃないかとは思うんだけど、どうしてもあれはスモーキー・ロビンスンのパクリに聴こえてしまう。ニール・ヤングにはなぜかそれがない。
neil young / tumbleweed
三田格