(ガリアーノのスタイルには)ロンドンのクラブ・シーンのある一線で起こっていたことを代弁し、音楽批評家であるサイモン・レイノルズの書籍『Retromania』にあるような方法で古い音楽を見つけつつ、新しいものをすべて受け入れようとするハングリー精神があったんだ。
UKでアシッド・ジャズ・ムーヴメントが巻き起こった1980年代後半から1990年代前半、ヤング・ディサイプルズ、インコグニート、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジャミロクワイなどと並んでシーンを牽引したガリアーノ。その後1997年に解散し、中心人物のロブ・ギャラガーも別のプロジェクトなどで活動していたが、そのガリアーノがなんと再始動し、ニュー・アルバムの『Halfway Somewhere』を発表するという驚きのニュースが飛び込んできた。ガリアーノにとって『Halfway Somewhere』は、スタジオ録音作としては1996年の『4』以来28年ぶりの新作となるのだが、アシッド・ジャズ時代をリアル・タイムで体験してきた者にとって、彼らの復活はまったく予想外であった。しかし、現在はかつてのガリアーノについて知らない人も少なくないと思うので、まず当時の活動状況やシーンの様子などから振り返りたい。
ガリアーノのデビューは1988年で、当時のロンドンはヤング・ディサイプルズやザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズらが出てきて、俗に言うアシッド・ジャズのムーヴメントが巻き起こっていた時代だった。ガリアーノのデビュー曲は、カーティス・メイフィールドの “Freddie’s Dead” をリメイクした “Frederic Lies Still” で、リリース元はDJのエディ・ピラーとジャイルス・ピーターソンが設立して間もない〈アシッド・ジャズ〉。当時のアシッド・ハウスに対抗して作られたと言われる標語をレーベル名に持つ〈アシッド・ジャズ〉の名前を一気に広め、その頃同様に盛り上がりを見せるレア・グルーヴ・ムーヴメントともリンクして人気を集める。
ガリアーノはロブ・ギャラガーとコンスタンティン・ウィアーのツイン・ヴォーカルを中心に、マイケル・スナイスのヴァイブ・コントローラー(MC的な役割)、スプライことクリスピン・ロビンソンのコンガという編成で、サポートでミュージシャンやコーラスが加わり、ライヴではダンサーなども入る。バンドというよりロブ・ギャラガーのプロジェクトという色合いが強い。サポート・メンバーにはドラマーのクリスピン・テイラー、ベーシストのアーニー・マッコーン、ギタリストのマーク・ヴァンダーグフトらがおり、一時はスタイル・カウンシルのミック・タルボットもキーボードで参加していた。ジャズ、ファンク、ソウル、ゴスペル、アフロ、レゲエなどをミックスした音楽性、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックらビート詩人の流れを汲む歌詞、ラスト・ポエッツやワッツ・プロフェッツのようなポエトリー・リーディング・スタイル、そしてモッズとラスタファリをミックスしたような独特のファッションに、アート、デザイン、カルチャーなども結び付け、USのジャズ・ヒップホップに対するUKのアシッド・ジャズのムーヴメントを牽引していく。
1990年にジャイルス・ピーターソンとノーマン・ジェイが〈トーキン・ラウド〉を設立すると、そこに加入してファースト・アルバムの『In Pursuit Of The 13th Note』(1991年)、『A Joyful Noise Unto The Creator』(1992年)を発表し、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップ、ダグ・カーン、ロイ・エアーズなどのジャズ系のカヴァーやサンプリングで高い支持を得る。特にスピリチュアル・ジャズ系のネタ使いはそれまでほかのアーティストに見られなかったもので、またほかのアーティストに比べて強いメッセージ性を有する歌詞やスタイル、言動により、ガリアーノは一種のカリスマ的な人気を博する。
その後、アシッド・ジャズ・ブームが沈静化してきた1994年、オリジナル・メンバーのコンスタンティン・ウィアーが脱退し、代わりにサブ・メンバーとしてコーラスをやっていたヴァレリー・エティエンヌが正式メンバーとなる。そうしてリリースした『The Plot Thickens』は、クロスビー・スティルス&ナッシュのカヴァーである “Long Time Gone” をはじめ、フォーキーなロックやソウルを取り入れて新境地を開拓。ヴァレリーのソウルフルなヴォーカルがガリアーノの音楽性に化学反応を生じさせ、アーシーでアコースティックな音楽性が加わる。そして、ハンプシャー州トワイフォード・ダウンの高速道路計画に対する抗議曲の “Twyford Down” を収録するなど、これまで以上に政治的なメッセージ性を示したアルバムだった。
1996年に入ってリリースした『4』は、『The Plot Thickens』のフォーク・ロックに加えてスワンプ・ロックやファンキー・ロック、サイケ・ロックやオルタナ・ロックの要素が増し、同時期に活躍したレディオヘッドに通じるところも見受けられる。トリップホップやディスコ・ダブ的なアプローチはじめ、当時のクラブ・シーンでも最先端として注目されたジャングル/ドラムンベースの要素を導入し、初期のアシッド・ジャズのスタイルから大きく変貌を遂げる。ただし、メディアや世間はその急激な変化や実験性に困惑し、『4』は以前の作品に比べてあまり評価されることなく1997年にガリアーノは解散する。解散前の1996年12月に新宿のリキッド・ルームで公演をおこない、『Live At The Liquid Room』としてリリースされたのが最後の作品となる。そのほか、アンドリュー・ウェザオール、ザ・ルーツ、DJクラッシュらによるミックスをまとめたリミックス・アルバム『A Thicker Plot – Remixes 93-94』も1994年にリリースされている。
解散後の1998年にロブ・ギャラガーは、ガリアーノやヤング・ディサイプルズのエンジニアを務めていた通称ディーマスことディル・ハリスと双頭ユニットのトゥー・バンクス・オブ・フォーを結成する。ロブの公私に渡るパートナーとなったヴァレリー・エティエンヌと、後期ガリアーノのサポート・メンバーで、K・クリエイティヴやロウ・スタイラスなどで活躍してきたキーボード奏者/プロデューサーのスキ・オークンフルも合流した。セカンド・アルバムの『Three Street Worlds』(2003年)は、モーダルなスピリチュアル・ジャズとダウンテンポ・ソウルが結びついた傑作として高く評価される。
当時のクラブ・ジャズ・シーンは4ヒーローやジャザノヴァなどが活躍し、ドラムンベース、ブロークンビーツ、2ステップ、ディープ・ハウス、テクノなどと結びついていた時期で、トゥー・バンクス・オブ・フォーもジャズやソウルを基調にしつつも、エレクトロニクスを導入した実験性の高い世界を作り出していく。当時のディーマスはウェスト・ロンドン・シーンと繋がりが深く、ブロークンビーツのシーンともコミットし、リミックスにはフォー・テット、ゼッド・バイアス、マシュー・ハーバートらも起用されていた。
今回のニュー・アルバム『Halfway Somewhere』に関して、インタヴューを受けてもらうのはロブ・ギャラガーと、合間でヴァレリー・エティエンヌも入ってもらうのだが、こうしたガリアーノからトゥー・バンクス・オブ・フォーへの流れを踏まえた上で話をはじめることにする。
私が生きるはずだった人生はどこにあるのだろう? 平和、そして満たされた幸せな喜びはどこにあるのだろう? 絶対どこかにあるはずだ。そしてこれは、そのどこか。僕たちは皆どこかにいる。そうだろ? だから失われたものすべてが、僕たちがいるここにあるはずなんだ。なぜなら、ここがそのどこかだから。
■最初に1990年代まで遡って話を伺いたいと思います。当時ガリアーノが解散に至った理由などについて、改めて教えてください。
ロブ・ギャラガー(以下、RG):ガリアーノは10年の間にさまざまな変遷をたどった。そもそもガリアーノという名前は、1984年頃にジャイルス・ピーターソンの「マッド・オン・ジャズ」というパイレーツ・ラジオの番組で、ロンドンでおこなわれるライヴを案内するために作られたキャラクターに由来しているんだ。ガリアーノのスタイルというのは、ポエトリーやコンガ、ファンクからドラムンベースまで、すべてが一貫しているようなある種の「声」の中でおこなわれていた。つまり、それはロンドンのクラブ・シーンのある一線で起こっていたことを代弁し、音楽批評家であるサイモン・レイノルズの書籍『Retromania』にあるような方法で古い音楽を見つけつつ、新しいものをすべて受け入れようとするハングリー精神があったんだ。でも僕は、1996年までには、個人的にほかの方法で音楽を探求したいと思うようになっていた。そして、その「声」に窮屈さを感じていたんだ。ガリアーノは世間の需要がまだ強く、ライヴを続ければ続けることはできたけど、それは活動を続ける十分な理由ではなかったんだよ。
■その後、1998年にディーマス(ディル・ハリス)と双頭ユニットのトゥー・バンクス・オブ・フォーを結成します。この1990年代後半から2000年代前半は、とても創造的で刺激的な時代だったと思いますが、改めて振り返ってみていかがですか?
RG:トゥー・バンクス・オブ・フォーは、さっき話したような領域を探検するのに使った出口のひとつだった。いまも変わらず、僕はディーマスのアートや音楽に対するセンスを心から信頼している。僕らは同じインスピレーションをたくさん共有しているし、そういう意味で僕は本当に感謝しているんだ。同じ周波数にいる人を見つけるのは、簡単なことではないからね。僕らは彼のナンバーズというプロジェクトでも一緒に仕事をした。それらだけでなく、僕らは様々な名義で一緒に曲を作ったんだ。レゲエ・シンガーのフェリックス・バントンとシーズというバンド名義で “Dance Credential” という曲をリリースし、それを演奏しに日本に行ったこともあるしね。僕たちの最高傑作は、ウィリアム・アダムソン名義の僕のアルバム『Under An East Coast Moon』だと思う。そして、僕らはロンドン映画祭のサントラ部門で短編映画のトップ10にも入った。
余談になるけど、ディーマスの娘リーラはガリアーノの最新シングル “Pleasure Joy And Happiness” のビデオにも出演しているんだ。そんな感じで僕たちのコラボレーションはずっと続いているんだよ。いまもクリエイティヴだけど、1990年代後半から2000年代前半はとてもクリエイティヴだったと思うね。
■この当時のロブはアール・ジンガー名義でソロ活動もはじめて、レゲエやダンスホール、ダブやサウンドシステムに影響を受けたスタイルで、ガリアーノ時代にはじまるポエトリー・リーディングの世界をより広げていきます。また、自身のレーベルである〈レッド・エジプシャンズ〉を設立し、トゥー・バンクス・オブ・フォーの覆面バンドであるザ・シークレット・ワルツ・バンドはじめ、いろいろな変名を駆使して活動していきます。まさにパンク的なDIYの精神に基づく〈レッド・エジプシャンズ〉ですが、その後のアレックス・パッチワーク(アレックス・スティーヴンソン)とのユニットのザ・ディアボリカル・リバティーズ、今話に上がった変名ソロ・ユニットのウィリアム・アダムソンとしての活動も、すべて〈レッド・エジプシャンズ〉設立から繋がっています。ある意味で時代のトレンドとは離れ、自身が思うままに自由な活動をしていったわけですが、トゥー・バンクス・オブ・フォーが解散した2008年以降は、どの方向に向かって活動していきましたか?
RG:実際のところ、トゥー・バンクス・オブ・フォーは解散したわけではないんだ。リミックス・ワークもいろいろとやっているし、ギグもたくさんやった。だから、レコードは出していないけれど、僕らは様々な別の方法で活動しているんだ。僕は多くのDJやバンドと一緒に活動してきた。ジャイルスはいつもそこにいたし、クルーダー&ドルフマイスターもそうだった。僕はアール・ジンガーのバンドと一緒にツアーをして東京でプレイしたこともあるし、当時はジャズトロニックの野崎良太とも仕事をしていたね。
そしてもうひとつのプロジェクトで、いまでも活動しているディアボリカル・リバティーズはあの頃にはじまった。当時の方向性はあまり明確ではなく、もっと実験的な時期だったと思う。フリー・ジャズの詩からDJのアシュリー・ビードルとの曲作りまで、いろいろなことをやっていたからね。友人のアンドリュー・ウェザウォールがよく言っていたように、僕はただ何かを作るという過程を楽しんでいるんだ。詩であれ、コラージュであれ、映画であれ、音楽であれ、この世にまだ存在していないものを作り、それを送り出すことをね。
個人的にはシャバカ・ハッチングスがソロで吹くフルートや、ニューヨークのジャズ/ヒップホップ集団のスタンディング・オン・ザ・コーナーを聴くのをすごく楽しんでいるし、ロサンゼルスのスローソン・マローンが関わっているシーン全体も面白い。
■あなたのパートナーでもあるヴァレリー・エティエンヌは、ガリアーノ、トゥー・バンクス・オブ・フォーを通じて一緒に活動していましたが、その後出産や子育てもあって音楽活動から離れる時期もありました。2010年代以降はジャミロクワイ、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、インコグニートやブルーイのユニットのシトラス・サンなどの作品に加わるなど、近年はまた活動が活発になってきています。2010年代に入ってロブとヴァレリーのふたりがクレジットされるプロジェクトでは、2014年にジャイルス・ピーターソンが立ち上げたブラジリアン・ユニットのソンゼイラがあり、さらに2020年代ではブルーイによるSTR4TA(ストラータ)があります。特にストラータの『Str4tasfear』(2022年)にはゲストでオマーが参加し、アウトサイドやインコグニートで活躍してきたマット・クーパーや、スキ・オークンフルなど〈トーキン・ラウド〉時代の仲間もセッションしていて、恐らくガリアーノのリユニオンへと繋がるプロジェクトではなかったのかと思うのですが、いかがですか?
RG:ソンゼイラはジャイルスがはじめたプロジェクトだったけど、僕とディーマスはリオに行き、作曲とプロデュースという形でコラボし、参加したんだ。ヴァレリーもヴォーカルで参加して欲しいと頼まれた。とても楽しかったし、たくさんのブラジルのミュージシャンたちに出会えたのは本当に光栄だったね。そしてそのうちのひとりが、僕たちの大親友であるカッシンで、彼は僕らと一緒にソース・アンド・ドッグスというプロジェクトをやっている。あのプロジェクトは、これまで携わってきた中でも最高のプロジェクトのひとつだと思う。ライヴもやってて、シチリア島のパフォーマンスではダンサーも入れたんだ。あのショーはすごかった! いまは1970年代に活動していたホセ・マウロの音楽を基盤にしたアルバムを書いているんだけど、近々リリースできたら嬉しいね。スキ・オークンフルは新しいガリアーノのプロジェクトで一際目立っている。彼はいま、ソロのミュージシャンとしても大成功しているし、自身のYouTubeチャンネルで楽曲制作過程を機材や楽器を使って技術的にレクチャーする番組をやってるんだけど、それがすごく人気なんだ。ガリアーノの再結成に至った経緯には正直僕にもよくわからないところもあるけれど、自分では気づかないことが頭の中でいろいろと起こってたんだと思う。ある意味、「再結成」なんてするつもりはなかったから自分でも驚いているんだけど、この「声」の中にある創造的な衝動がいまとても強くなってきていると思うから、再結成できてとても嬉しいよ。

■2023年春にガリアーノのリユニオンが発表されます。コンスタンティン・ウィアーやミック・タルボットといった初期の主要メンバーは参加していませんが、ロブ、ヴァレリー、スキのほか、オリジナル・メンバーのクリスピン・ロビンソンや、長らくサポートをしてきたアーニー・マッコーン、クリスピン・テイラーが中心となります。メンバーにはどのようにガリアーノ再結成の話をし、参加してもらったのですか?
RG:再結成の経緯は曖昧だと言ったけど、ひとつのきっかけとしては友人でもあるマシュー・ハーバートから電話がかかってきて、彼の友だちの誕生日パーティで演奏してくれないかと言われてね。ガリアーノで演奏することはもうないだろうと思っていたんだけど、「きっと楽しいから!」と説得されたんだ。
ヴァレリー・エティエンヌ(以下、VE):集まって数曲演奏するだけだから、なんとかなるはずってね。
RG:それで30年ぶりにリハーサル室に皆で集まったんだけれど、顔を見合わせたとき、これはなかなか面白いなと思った。それからいくつか曲をプレイしてみたら、素晴らしいことに脳みそが全てを覚えていたんだ。どこでストップするとか、どこで何を演奏するとかね。で、ヴァレリーが “Masterplan”(ファラオ・サンダースとレオン・トーマスによる “The Creator Has A Masterplan” のこと)をリハーサルとは違う歌い方で歌いはじめたんだ。歌詞全体を織り交ぜるような歌い方だったんだけど、それを聴いた途端に、いまでも昔と同じようにできるだけでなく、どこか違う、新しい方向に進むこともできるんだと思った。それが可能だということが僕を興奮させたんだ。
[[SplitPage]]「他の人たちは皆大金を稼いでいるのに、僕は一体何をやってるんだ?」と考えていたとき、アンドリュー・ウェザオールが「自己破壊的、非出世主義者」と書かれたTシャツを着ていてね(笑)。それを見て、「ああ、大丈夫だ」と思えた(笑)。自分の人生も悪くないな、と。
■2023年8月のジャイルスの「We Out Here」フェスティヴァルへの参加を経て、アルバム制作に入り、そして『Halfway Somewhere』が発表となります。「道途中のどこか」という意味のこのアルバムですが、どのような思いが込められているのでしょう?
RG:何かを失くしたとき、あるいは自分の人生がどこに向かっているわからなくなったとき、人はそれがどこかにあるはずだと考える。自分の鍵はどこにあるんだろう? 絶対どこかにあるはず、とね。私が生きるはずだった人生はどこにあるのだろう? 平和、そして満たされた幸せな喜びはどこにあるのだろう? 絶対どこかにあるはずだ。そしてこれは、そのどこか。僕たちは皆どこかにいる。そうだろ? だから失われたものすべてが、僕たちがいるここにあるはずなんだ。なぜなら、ここがそのどこかだから。でも僕らがどこにいるのかというのは、自分たちにはよくわからない。しかし僕たちがどこかにいるのは確かで、たぶん中間地点くらいにはいるんじゃないかなと思って、そのタイトルにしたんだ。君がもし、自分がいる場所がどこかもっと明確にわかっている場合は、中間じゃなくてその場所だととらえてもらって構わない。どこにいるのかは、たぶん僕ももっとよく考えないといけないな。でも、もう手遅れかも(笑)。今週末のWOHフェスティヴァル用に『Halfway Somewhere』と書いてあるポールを作ってしまったからね(笑)。僕は映像作家でアーティストのドナルド・ハーディングとコラボして、ポールにぶら下げるスローガン風の楽譜のオブジェを作ったんだ。ちょうど1960年代にオノ・ヨーコがやってたようなヤツをね。「好きな方向に5歩踏み出せ」とか、「東を向け」とかね。だから、少なくとも今週末は中間地点でたくさんの動きがあるだろう。この答えが参考になるといいけど。
■1990年代と現在では音楽や社会も変化していますが、新生ガリアーノは約30年ものブランクをどのように埋め、そして新たな発信をしていこうと考えていますか? 逆に30年前から現在においても継承し、続けている部分もあるのでしょうか?
RG:僕たちはいま起こっていること、いま使われている様々な方法から学びたいと思っている。だから、ライヴをやって観客から何を得るかがこれから楽しみだね。当時のガリアーノのライヴはとても集団的だった。悪い言い方をすると、皆個性を殺して、混ざり合った集団になる。でもいまは、僕らも観客も、少しずつ違う場所からやってきて、違うものを持ってくる。だから、ギグに何が求められるのか、何が必要なのか、実際にそこに行ってみるまでわからない。行ってみて突如、知らなかった何かを感じるのは面白いだろうね。そして、人間というのは理性的な部分と感情的な部分で構成されている。だから、後になってあのとき何が起こっていたんだろうと考えることができる。でも僕は、自分の精神が自分の身体に影響される時間というものにとても興味がある。踊ってそれに没頭すればトランス状態に近づき、自分の体の外に出たような気分になる。音楽はそういう逃避の手段なのかもしれないね。ライヴの環境には制御できない、コントロールできない何かが存在している。音楽は目に見えないけれど、波形のようなものが存在していて、僕たちには理解できないことが起こっているんだ。その一体感というのは瞬間瞬間に感じるものであって、その後に感じることはできないのかもしれない。だから、これから学ぶことはたくさんあるし、技術的な面でも、また違ったやり方で音楽をやることもできる。いままで知らなかったことを学び、それを実験する方法がたくさんあるからね。僕たちは皆違うことをやって、またこのプロジェクトに戻ってきた。それによって構造から少し自由になるかもしれない。そして自由になると、そこから何が起こるかは誰にもわからないんだ。
VE:いまの私たちは、ただその瞬間を楽しもうとしているの。前はもっと構造的だったと思うから。
RG:かつてのガリアーノのライヴは、結構アナーキーな雰囲気だった。オーディエンスがステージに登ってきたりしてね(笑)。ステージ・マネージャーが「ステージが壊れるから人を降ろせ!」と言うほどだった。当時はそれについて考えたこともなかったし、ガリアーノをやめてからもあまりガリアーノについて考えたことがなかった。先のこと、未来のことしか見ていなかったからね。でも、いま何が起こっているのかを理解することも重要なことなんだ。たぶん、いまというときは初めてスローダウンして、自分たちがどこから来たのかを振り返るチャンスだと思う。
■近年のロンドン、特にサウス・ロンドンではジャズが再び盛り上がりを見せ、トム・ミッシュ、ロイル・カーナー、キング・クルールといったシンガー・ソングライターたちも活躍しています。こうした状況の中、ガリアーノとしてはどのような活動を思い描いていますか? 個人的にはガリアーノの精神はキング・クルール、ブラック・ミディ、プーマ・ブルー、ジャークカーブあたりに受け継がれているのかなと思いますが。
RG:キング・クルールはディーマスがプロデュースとミックスを担当していて、そうした点で繋がりがあるとも言えるし、ブラック・ミディも大好きだよ。YouTubeに彼らがホルンを使って素晴らしいセッションをやっている動画あるんだけど、あれは最高だった。ガリアーノのクリスピン・ロビンソンは、ときどき彼らと一緒にパーカッションを演奏している。音楽はかつてないほど生き生きとしていて、彼らが知り合いかそうでないかにかかわらず、とても親しみを感じるんだ。個人的にはシャバカ・ハッチングスがソロで吹くフルートや、ニューヨークのジャズ/ヒップホップ集団のスタンディング・オン・ザ・コーナーを聴くのをすごく楽しんでいるし、ロサンゼルスのスローソン・マローンが関わっているシーン全体も面白い。それから、僕らの近所にカフェ「OTO」という素晴らしいヴェニューもあるんだけれど、そこでは何曜日に行っても良いショーが観られる。先週はジャズ・カフェでリオ出身のアナ・フランゴ・エレトリコのショーを観たんだけれど、それもすごく良かったね。
あと、現役のアーティストじゃないけど、ライフトーンズ(1980年代前半に活動したポスト・パンク系のエレクトロニック・ダブ・トリオで、1983年にリリースした『For A Reason』というアルバムが2016年にリイシューされた)も素晴らしいバンドで、いまもよく聴いているんだ。ヴァレリーはいま、アシャ・プトゥリ(1970年代にリリースした “Space Talk” や “Right Down Here” で知られるインド出身の伝説的なシンガー)と一緒に歌っているんだけど、彼女たちのショーもすごく面白いんだ。ヴァレリーがそれについていろいろ話を聞かせてくれるんだよ。きりがないからこの辺で止めておこう。でももうひとり、アメリカの詩人のピーター・ジッツィも素晴らしい。彼の最新の詩集『Fierce Elergy』には度肝を抜かれたね。
マーク・フィッシャーという理論家がいて、彼はイギリスに強い関心を持っていた。彼曰く、インターネットが出てきてから全てのものが他の全てのものと同じように関連するようになってしまったんだ。
■『Halfway Somewhere』の話に戻りますが、『In Pursuit Of The 13th Note』収録の “57th Min” と “Power And Glory”、『A Joyful Noise Unto The Creator』収録の “Jazz” をセルフ・カヴァーしています。これらについてどんな意識でカヴァーしたのでしょう?
RG:それはディーマスのアイデアだったんだ。彼が僕たちのライヴを見たんだけど、その後、ニュー・アルバムにいくつか昔のトラックを収録したほうがいいと言ってきたんだよ。それらの曲は前と全然違って聴こえるし、昔よりも今のサウンドに合わせたほうがいいから、と。だから、じゃあレコーディングしようということになった。つまり、昔のトラックの新しいヴァージョンやった、という感じだね。たとえば “Jazz” は、ふたつ目のヴァースが違うんだ。最初のヴァースは1990年かその前に書かれたもので、ふたつ目のヴァースは2023年に書かれたもの。だから新ヴァージョンには、例えばニューヨークのジャズ・トランペッターのジェイミー・ブランチなんかが出てくる。彼女は残念ながら2022年に亡くなってしまったけれど、曲の中では彼女の名前が出てくるんだ。
それから、歌詞では「チャーチ・オブ・サウンド」にも触れている。「チャーチ・オブ・サウンド」というのは、イースト・ロンドンのクラプトンでおこなわれていたギグ・イベントで、トータル・リフレッシュメント・センターともリンクしているんだ。そして、トム・スキナーの作品でプレイしていたジェイソン・ヤードにも参加してもらった。彼も素晴らしいジャズ・サックス奏者で、僕たちがそんな彼らと一緒に仕事ができたのは本当に幸運だったと思う。だから、彼らの名前が歌詞にも出てくるんだ。前回の曲に新しい歌詞が加わったアップデート・ヴァージョンがそれらのカヴァーなんだよ。これもまた時間遊びで、こういった方法で時間を楽しんでいるのも面白いと思うね。
■“Golden Shovel (Someone Else’s Idea)” はサン・ラーの “Somebody Else’s Idea” にインスパイアされた曲ですね。トゥー・バンクス・オブ・フォー時代もサン・ラーからの影響が見られたのですが、今回はどのようなアイデアからこの曲を作ったのですか?
RG:僕は詩の形式にかなり興味を持っているんだ。“Golden Shovel” では明らかなソネットの形式を取り入れ、それから様々な異なる詩の形式を用いている。“Golden Shovel” はかなり現代的な形式の詩で、この形式はニューヨークに住むテレンス・ヘイズという詩人が考案したものなんだ。彼はワンダ・コールマンという詩人と一緒にその形式を考案し、彼女が詩の中で使った言葉を最後のフレーズにして詩を書いた。そのやり方を参考にして僕はサン・ラーの “Somebody Else’s Idea” を使い、この言葉を最後のフレーズとして使ったんだ。そうやってできたのが “Golden Shovel” なんだよ。
■“Cabin Fever Dub” は、親交のあったアンドリュー・ウェザオールに捧げている曲ですね。彼が手掛けた “Skunk Funk” の “Cabin Fever Mix” 及びダブ・ヴァージョンの “Cabin Fever Dub” は、ガリアーノのいろいろあるリミックスの中で一番のものだと思いますが、2017年に彼が亡くなって、改めてこの曲に込めたオマージュについてお聞かせください。
RG:死というのは、起こるべきではなかったと思えるもの。だから簡単に受け入れることができないんだ。全ての死がそうだと思う。不在、というものと向き合うのはとても寂しい。彼がいなくなり、僕も本当に寂しいんだ。彼は、僕がかつて「僕は自分の人生で何もやり遂げていない」と悩んでいたときに、僕の人生に価値を見出してくれた。「他の人たちは皆大金を稼いでいるのに、僕は一体何をやってるんだ?」と考えていたとき、アンドリューはダルストンでラジオ番組をやっていたんだけど、そのとき彼が「Sabotaging, Non careerist(自己破壊的、非出世主義者)」と書かれたTシャツを着ていてね(笑)。それを見て、「ああ、大丈夫だ」と思えた(笑)。自分の人生も悪くないな、と。それで今回、あのリミックスをもとに新しく歌詞をつけたんだ。彼の死と、喪失感についての歌詞をね。
■“Circles Going Round The Sun” の歌詞には、そのウェザオールはじめ、ジェイムズ・ブラウン、デヴィッド・マンキューソ、アーサー・ラッセル、ジャー・ウォブル、KRS・ワンのクリス・パーカー、後にLDCサウンドシステムを結成するジェームズ・マーフィーなどのミュージシャンやDJが登場します。初めてニューヨークやベルリンに行ったときの体験をもとにしているようですが、どのようなイメージの曲ですか? マンキューソの「ザ・ロフト」での体験を歌っているのですか? 楽曲もロフト・クラシックであるウォーの “Flying Machine” のフレーズを引用しているみたいですが。
RG:あの歌詞の内容は「ダンス」について。僕が大好きな素晴らしいポッドキャストの番組で「Love Is The Message」というのがあって、DJでもあるふたりの学者、ジェレミー・ギルバートとティム・ローレンスがホストを務めているんだけれど、彼らは理論と音楽を番組の中で一致させるんだ。彼らは1970年代のニューヨークを出発点とした。それは世界が文化的にひとつになった場所だったけれど、経済的には失敗とみなされ、街は荒廃していった。しかし、そこにはたくさんのクリエイティヴィティが存在していた。ロフト・シーンやらジャズ・シーン、ヒップホップの登場まで、あらゆることが起こっていたんだ。そして、どのようにしてディスコが見向きもされなくなったのかもまた興味深い。シカゴでは、DJがディスコのレコードを破壊したりもした。そういった出来事を振り返りながら、人種、経済、哲学、その他様々なことを理論的に考察しているんだ。“Circles Going Round The Sun” は、そのすべてを取り入れたもの。そして、当時の僕の頭の中にあった様々なことに目を向けている。ガリアーノがはじまり、僕らが初めてニューヨークに行ったとき、そこにはジェイムズ・ブラウンがいたし、僕らはクリス・パーカーにも会った。そしてそのあと、ポッドキャストにも出てくるデヴィッド・マンキューソが登場する。マンキューソはDJで、パーティを開催し、コミュニティやパーティから生まれるものに興味を持った最初のDJだった。彼はかなりの集団主義者だったんだ。つまりあの歌詞は、スパースターDJや個人のことについて触れているのではなく、コレクティヴや、そこで何が起きていたのか、そして人びとが何をしようとしていたのか、ということを表現しているんだよ。そして、その後にはソニックスから生まれた様々な哲学があり、ジャングルは非常に異なるサウンドを持つ最後の本物の音楽だったかもしれない。
面白いのは、1969年の音楽とその制作方法について考え、1974年の音楽を聴いてみると、69年と74年の違いがよくわかること。でも一方で、2000年、2005年、2010年の音楽を聴いてみるとどうだろう? 違いが全然わからない。これは、テクノロジー社会がどうなっていくかというメッセージでもある。インターネットが登場してから、未来はかき乱されてしまったんだ。イタリアにフランコ・ベラルディという哲学者がいるんだけれど、彼は、「未来はキャンセルされてしまった(正しくは、未来の穏やかなキャンセル)」と言った。僕は、それが面白いと思ったんだ。1970年代の若かりし頃は、未来に目を向けたとき、未来はもっとよくなると思っていた。でも気候変動やそういった問題とともに、当時思い描いていた未来は姿を変えてしまったんだ。そして文化的には、マーク・フィッシャーという理論家がいて、彼はイギリスに強い関心を持っていた。彼曰く、インターネットが出てきてから全てのものが他の全てのものと同じように関連するようになってしまったんだ。YouTubeを見れば、1960年代のものにも、2004年の作品にも同じように触れ、それに夢中になることができるからね。全てが繋がっていて自分の目の前に同じように存在するとき、自分にとってそれが何を意味するのか? 文化的に頭がグルグルするんだよ。そういうわけで、そのトラックには様々な人たちが出てくるんだ。まあ結局、全ては輪になっているからね。
■この曲にはスコットランドの詩人のジョージ・マッカイ・ブラウンや、アメリカの文化理論学者で詩人のフレッド・モートンの名前も登場します。ガリアーノの歌詞には彼らからの影響も大きいのでしょうか? また、イギリスの現代アート作家であるマーク・レッキーの名も引用していますが、何かインスピレーションがあったのですか?
RG:僕はジョージ・マッカイ・ブラウンが大好きで、あの歌詞は彼の詩 “Hamnavoe” を引用していて、僕が大好きな詩のひとつなんだ。歌詞の内容は「イメージ」について。ジョージ・マッカイ・ブラウンは詩の中で、ハムナヴォーで郵便配達をしていた父親のことを書いていて、詩の中に “In the fire of images, Gladly I put my hand, To save that day for him(イメージの炎の中で、喜んで手を差し伸べた、彼のためにその日を救うために)”という箇所があるんだけれど、僕はそのフレーズを歌詞に入れたんだ。そして、アンドリュー・ウェザウォールも彼のことを知っていたんだよ。ジョージ・マッカイ・ブラウンについて知っている人は少ないし、特にDJで彼を知っている人なんてほとんどいないと思う。でもアンドリューにその話をしたら、「もう彼の伝記は読んだかい?」と言ってきた。彼以外でそんな答えをくれる人なんていないだろうね(笑)。
1987年くらいに初めて東京に行ったとき、ものすごく物価が高かったのを覚えているよ。いまは為替レートの関係で僕らが行くほうが安いけど(笑)。
■“Of Peace” はファラオ・サンダースの “Prince Of Peace” がモチーフとなっています。ガリアーノらしいネタ使いですが、改めてファラオ・サンダースの影響についてお聞かせください。
RG:このアルバムの柱のひとつは、消去というアートへの強い興味だと思う。つまり、いろいろなものを取り除いて新しいものだけを残す、というアート。そこで “Prince Of Peace” の歌詞を使ってそれをやりはじめ、プリンス(エジプトのファラオ王子=ファラオ・サンダース)が亡くなったからタイトルからプリンスを取って、「Of Peace」を残したんだ。
■ダビーなエフェクトが印象的な “Crow Foot Hustling” では、ミルトン・ナシメントのクレジットもあります。確かにヴァレリーが歌うサビのフレーズのメロディはミルトンらしいものですが、何かインスパイアされているのですか?
VE:私は彼のメロディが大好きで。ソウル・ミュージックやフォーク・ミュージック、ロックを歌うことに慣れていると、ブラジル人の視点で歌うのはとても難しい。でも私は、そこが興味深いと思った。すごく挑戦的だし、そっちの方が私自身にとってはエキサイティングで。新しい視点や側面を楽しむ、という考え方からその曲は生まれたの。
■“Euston Warehouse” は1980年代後半のロンドンのウェアハウス・パーティがモチーフになっているようですね。改めて当時のウェアハウス・パーティの思い出や、その意義について教えてください。
RG:僕は正直、記憶とはほとんど創造的なものだと考えている。人はいつも自分の記憶はかなり明確なものだと思っているけれど、歳を重ねるにつれて、記憶とは創造的な行為であることに気づくんだ。そこで、だから僕の頭の中で10個くらいのウェアハウス・パーティがつなぎ合わされて、ウェアハウスについての詩ができ上がった。でも実際は、10個どころかもっとたくさんのウェアハウス・パーティだと思う。1980年代は本当に数え切れないほどのウェアハウス・パーティがあったから。でも、ロンドンのユーストン駅の車庫で行われたパーティは確実にその中のひとつで、僕は絶対にあのパーティに行ったのを覚えている。そしてその上に、ほかのいろいろな思い出が重なってきたんだ。でもあの曲はおもにそのユーストンのパーティについて。1980年代は音楽的に自由で、本当にいろいろな音楽が演奏された。それに、会場そのものかなり自由で面白かったしね。あの時代は、音楽が爆発的にロンドンを支配した。当時のロンドンはすごく灰色で、いまのロンドンとは全然違っていたから。ロンドンにはまだ波形鉄板の屋根とかが残っていて、第二次世界大戦の爆撃跡もたくさんあったんだ。でも安く住める場所だったし、倉庫に侵入してパーティを開くこともできた。いまではそんなことはあまりできないからね。
VE:正直、私はあまりウェアハウス・パーティには行かなかった。いくつか行きはしたけど、多くはなかったな。
RG:当時のロンドンはいまより物価が安かったかもしれないし、いろいろな意味で劣っていたかもしれない。でも、ある種の自由があった。いまではロンドンで安く生活するなんてできないからね。1987年くらいに初めて東京に行ったとき、ものすごく物価が高かったのを覚えているよ。いまは為替レートの関係で僕らが行くほうが安いけど(笑)。









