Home > Reviews > Album Reviews > Still House Plants- If I Don’t Make It, I Love U
「シーニアス(scenius)」という、ブライアン・イーノが発案した造語/コンセプトがある。「アンビエント」と並んで、21世紀になってより重要度を増したこのタームを彼が言ったのは1996年で、批評家サイモン・レイノルズが「ポスト・ロック」というターム/サブジャンル用語を使った2年後のことだった。いまにして思えばほとんど同じ時代だったと言える。それは偶然のこととはいえ、この頃、ある共通の感覚がいよいよ顕在化していたことを告げている。
「シーニアス」とは、歴史上の特異な天才としての個人に注目するのではなく、それら天才と言われた(ディランやレノンのような)人物の周囲に網の目のように存在した協力者やインスピレーションの広がりのほうに着目すべきという考えだ。ひとりの天才よりも、生き生きとした「シーニアス」にこそ学びがあると(先日リリースされた1998年のイーノ、ホルガー・シューカイ、J・ペーター・シュヴァルムとの共演は、「シーニアス」の賜物だろう)。「ポスト・ロック」に関しては、ここでは以下のように定義しておこう。インスト・バンドやアンビエント風のバンドのことではない。ロック以外の目的でロック・バンドの編成で演奏するバンド、中心となる個(歌手)を持たないロック・バンドを指す。
宇宙に中心はない。こうした認識は19世紀人には理解しがたいものだったが、現代人はとりあえずの知識として知っている。バンドに中心は必要ない。個に依存しないことを前向きに捉えるこうした感覚は、すでにダンス・カルチャーを経験していた人間にはわかりやすかった。シーンそのものが、ひとりの有名人よりも豊穣で魅力的だったからだ。ヴェイパーウェイヴやフットワークを引き合いに出すまでもなく、こうした感覚が21世紀に入ってより若い世代にとって身近になっていることもぼくにはわかる。BCNRやキャロラインのような、近年のUKのバンドにもその感覚が共有されているが、その源流にはきっとクラウトロックや70年代末のザ・レインコーツのようなバンドがいるのだろう。なるほど、たとえばラップのように昔ながらの、ひとりの抜きんでた個性にこそ共感し、興奮するシーンはもちろんいまだ健在だし、ぼくはそれを否定する者ではない。そうではなく、そうした伝統的なポップのあり方/考え方とは別次元において「シーニアス」というコンセプトがあり、それは個人に頼った文化にはできないことが可能である、という話だ。ことに我が愛する周縁文化においては、むしろ頼もしい概念である。なぜなら、我々は特別なスター(リーダー)なしでも前進できるのだから。
だとしても、そう、だとしても、スティル・ハウス・プランツ(SHP)には斬新な感性を覚える。「ポスト・ロック」的感性は90年代後半に広く注目され、おもにトータス周辺で具現化されている。だから、もはやそれとて30年前の、さして新しいものではないのだ。だとしても、SHPにぼくは震える。本作『ぼくには無理でも、君を愛している(If I Don’t Make It, I Love U)』は、前作『Fast Edit』(ぼくが彼らを知ったのはこのアルバムから)よりもさらに震えるアルバムだ。
数年前、初めてこのバンドの曲を聴いたとき、ヴォーカリストは黒人女性かと思った。そう思った人は少なくないだろう。ビリー・ホリデーが喉をつぶしジャズ・クラブの床でのたうち回っているようなその声(あるいはアリ・アップとビョークが衝突したような声)、ジェシカ・ヒッキー=カレンバックのヴォーカリゼーションによるノイズでありながら強烈にエモい歌声は、「ポスト・ロック」と呼ぶには個としての存在感を有してしまっている。同じようにフィンレイ・クラークのギターにも、デイヴィッド・ケネディのドラミングにも個による際だった表現力がある。しかしながらSHPにはひとつの個に集約されない共感型の、バンド自体に「シーニアス」なフィーリングがあるのだ。和訳すれば「静止した観葉植物」となるバンド名とは裏腹に、うごめく菌類のように広がり、流動的な運動体のようでもある。そして何よりも、先に書いたようにこのバンドの音楽にはエモーションがほとばしっている。言葉よりも感情が先立っているのだ。
グラスゴーの美大生3名が結成したSHPは、活動をはじめておそらくは10年近く経っている。メンバーは20代後半だと思われる。ときに、最近すばらしい未発表曲集をリリースしたガスター・デル・ソルと比較されるように、彼らにはジャズ/インプロヴィゼーションの応用がある。もっともGDSと違って、UK生まれのSHPにはジョン・フェイヒィ的なフォークそしてレッド・クレイオラ的遊び心はないが、UKベース・ミュージックやオウテカらエレクトロニック・ミュージックからの刺激があり、おそらくは、彼らのテクスチャーを重視した音作りにそれは少なからず影響を与えている。実際のところ、フィンレイ・クラークは昨年、コビー・セイやラナーク・アーティファックスの作品リリースで知られる〈AD93〉からインダストリアルなソロ作を出している。
ロック・バンドとは過去を採掘することをやめられない、後衛的な形態とは限らない。アルバム冒頭の曲、“M M M”のギターの水しぶきのような音響は、イタリアのアウトノミアを主題にしたスクリッティ・ポリッティのデビュー・シングル「スカンク・ブロック・ボローニャ」を彷彿させるが、バンドの演奏は、お決まりのルールをどこまでも無視した自由な進行によってオーガナイズされていく。このバンドには独自の作曲方法があるのだろう、曲は、3人が共鳴しながらカタチになっていくかのようだ。そこでは、美しいメロディが生まれたかと思えば、いきなり場面が変わることもある。取っつきにくい音楽に思われるかもしれないが、ぼくはそうは思わない。むしろこれはその、彼らがクリエイトする予想外のメロディ、その新奇さにおいてだれかに聴かれることを望むもので、ある意味挑発的だが、総じてアルバムは、力強く官能的でもある。ジェシカのヴォーカリゼーションが醸し出している圧倒的なムードは、頭よりも先に感情に突き刺さる。バンドから生まれるグルーヴは、ありきたりのグルーヴではないからこそ身体を揺るがす。エキサイティングな新しい物語がはじまるわけではない。ただ、いかに我々がふだんの生活で、見慣れたものを見慣れたものとして認識もせずに過ごしていることか。この音楽は、我々が何を諦めてしまったのかを知りたがっている。『If I Don’t Make It, I Love U』は、感動的なアルバムだ。
野田努