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black midi

Art RockExperimental

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Hellfire

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松村正人   Aug 01,2022 UP
E王

 聞いてくれ! といがらっぽい声でのたもうたのち、作中人物になりかわったジョーディ・グリープは月光のもと愛の甘いささきがながれ、オートバイが柔らかいエンジン音をたて、風土病がはびこり、緑のテーブルに土産物がのった赤い部屋のある歓楽街への上力をみとめ、戦争のなんたるかをのべる――ファースト・シングル“Welcome To Hell”のいささか、というかまいどながらシュルレアリスティックな舞台設定に伏在し、サウンドに共鳴し合うものが前作から1年というみじかいスパンでのリリースとなるブラック・ミディの3作目『Hellfire』の構えをさだめている。“Hellfire=地獄の業火”の表題はそこであたかも禍々しい阿鼻叫喚をくりひろげるようでいて、グリープはおそらく種々のハードコアやエクストリーム・ミュージックがむかいがちなリニアな志向性とは似て非なる多義的な含意をタイトルにこめている。むろん圧力は低くはない。1分半に満たない冒頭の表題曲から、サウンドは芝居気たっぷりで、和声の動かし方と情景の描き方とアコーディオンの使い方にはギリアムの『12モンキーズ』におけるピアソラを想起したが、タイムループのなかでもウイルスの蔓延を止められないあの映画以上に、2022年の現実世界は平然と閉塞し、また逼迫しつづけているのはまちがいない。ロックダウン下のロンドンで制作をすすめ、仕上げ段階で戦争の影をドーバー海峡のはるか向こうにみとめたにちがいない2022年にあって“Hellfire”の名づけは、ややもすると状況のメタファとして機能するがゆえに記号化し空洞化するおそれもなくはない。もっともそのような象徴世界に出自をもつブラック・ミディの面々なのだからネット社会の機制はおりこみずみであろう。
 そのことはこの3年の3作に克明に刻んである。2019年の『Schlagenheim』から2021年の『Cavalcade』を経て本作へいたる、その足跡を深々とふりかえることは本稿はさしひかえるが、セカンドの濃密さとざっくばらんな多彩さはその年のベストに選出したほど新鮮だった。プログレにせよノイズ・ロックやマス・ロックせよ、ジャズやフォークや70年代の歌謡曲でも、思いあたるふしがあればこその興味ではあったが、彼らの数式は私が学校で習った四則演算にはなかった要素をどうやらもっているらしいのだ。『Cavalcade』の折衷主義を前にしたとき、私はそのように考え、前作からの飛躍とも落差ともつかない変化の度合いに可能性をみたのである。
『Hellfire』はおおまかにはその延長線上に位置するものの、前作で主題にすえていた(音楽の)形式的なあり方はいくらか後退し、観念的な側面がせりだしている。切片的なフレーズと、急転直下の展開は前作をひきつぐが、グリッド的な構築性といった方法的な行き方よりは作品性やドラマ性が勝っている。そのように考えてしまうのは海外メディアに載ったグリープのインタヴュー記事を目にしたせいだが、なかでも「The Quietus」でアルバムを13枚選出する企画は『Hellfire』の参考になるので機会あればご覧になられたいが、その前書きで著者はグリープの発言を引き、本作の歌詞は一人称をもちいていると記している。人称については小説=私小説と考えがちなわが国では歌詞の主語は歌手——シンガーソングライターであればなおのこと——そのものだと思いこみがちだが、そのような約束事はむろんどこにも存在しない。グリープのいう一人称は英語の「I」だろうが、そのすぐあとに彼はキャラクターを徹底的につくりこんだので聴いているあいだ彼(グリープ)の存在にはほとんど光はあたらないはずだとも述べている。彼は作中のキャラクターに扮しているのであって歌でなにかをつたえているのではない。私はあたりまえなことをいたずらにややこしくしているだけかもしれないが、音楽という身体の現働性をうちにふくむ形式は主体と虚構を接近させ聴き手の錯覚をまねくきらいがある。これは自作自演があたりまえになってSNSや動画共有サービスがアンプリファイアーと化した以降の主体の定位置だが、全人類が右にならう必要などないし、音楽の歴史ではそっちのほうがずっとみじかい――と、ローラ・ニーロからウィリー・ネルソンやトム・ウェイツ、マーヴィン・ゲイやアイザック・ヘイズ、レオ・フェレといったグリープのリストに登場する先達たちの顔ぶれに感じいったのである。
 グリープは歌というものを語りの境地でとらえなおしたかったのではないか。ウィリー・ネルソンのマーダー・フォークや、倒錯的で諧謔的なトム・ウェイツの詩性ように、歌の外に身を置きながら異形の世界を語り聞かせる。ドラマ性が勝るという『Hellfire』にたいする印象は楽曲における説話構造の強調にも由来する。そのような見地にたてば、冒頭に述べた “Welcome To Hell”の「聞いてくれ!」のいち語も作中人物の声であるとともに話者から聴き手への呼びかけともとれる(その場合“Welcome To Hell”は二人称となる)。
 語りの重層性により『Hellfrie』は前作との差異化を果たしたが、語り手としての主体の位置をなぞるようにミックスでは声はつねに音楽空間のわずか上方にあるように音の定位がなされている。いわばメタ=ヴォーカルとでもいいたなる位置に声を置くことで『Hellfire』の10曲はアルバムの引力圏につなぎとめられる。安易に演劇的などと誤解を招くやもしれぬことばづかいは慎むべきであろうが、『Hellfire』がシアトリカルな志向性をつよくもつのはまちがない。とはいえ本作は音楽であり、音楽は歌詞や作品の物語的な側面を一から十までわからないとおもしろくないわけではない。問うべきはむしろ、作品内で同時多発的になにが起こり、いかに時間が進行するかという論点であり、説話とはその運動の態様をさす。ブラック・ミディはアルバムという古典的な形態を借りてそのことに真剣にとりくんでいる。坂本慎太郎はもはやアルバムなんか聴くひとなどいないといわれ、曲順を考えることは徒労にすぎないと取材者にご助言いただいたというが、私は一定の構造と物理量がなければ表現できないことは絶対に存在すると『物語のように』や『Hellfire』を聴くたびに思う。長さが問題ではないのだ。給付金でもベルクソンでも持続が肝要なのである。
 持続とはすなわち継起する運動であり、要約できない全体である。その観点から『Hellfire』をふりかえると、“Hellfire”“Sugar/Tzu”“Eat Men Eat”から“Welcome To Hell”とたたみかける前半は息もつかせない。管や弦の使用は現在の彼らの通例であり、録音における無際限の選択肢を意味しているが、オーバーダビングという行為を自己解体とみなすスタンスはこれまで以上にきわだっており、めまぐるしさはジャズ・ロックよりのプログレ的でありながら、楚々とした叙情性はユーロックと呼ばれていたころのプログレであり、しからば王道のプログレかといえばそんなことはまるでない。ブラック・ミディの音楽には演奏家のきわめて2020年代的な身体性——ことにモーガンのタイム感とフレーズの組み立てはモダンドラムの典型——が働いており、再現や反復は必然的に飛躍をこうむるが、飛躍を倍加する速度を戦略の骨子とした点に彼らの特色がある。ここでいう速度はむろんテンポやBPMではなく、ましてはファスト映画のファストとかでもなく、解釈や判断におけるそれである。現在のブラック・ミディは結成当初のジャム・セッションへの志向性はうすらいだようだが、温存した即興の反射神経はおそらく制作の過程にいきている。『Hellfire』の持続の背後にはそのような力学があるが、ヘタをすれば空中分解しかねないブラック・ミディの方程式をなりたたせるのは、ゲーム的な遊戯性に身をまかせながら端々に近代性が顔をのぞかせる点にある。グリープはインタヴューでブルガーコフやバシェヴィス・シンガーにも言及しているが、「地獄」や「悪魔」といって彼らの小説をもちだす若者もめずらしい。なんとなればそれらの作品の旧約的な不条理さは、相対主義のはてに思想、信条、信仰が分断しカルト化する世界で根源的な思考をうながすからである。

松村正人