「タランティーノ」と一致するもの

Oneohtrix Point Never × Ryuichi Sakamoto - ele-king

 これは事件です。最新作『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』のリリースを控えるOPNが、なんと坂本龍一のリミックスを手がけました。原曲は坂本の最新作『async』に収録されている“Andata”です。2015年にLIQUID ROOMで開催されたOPNの来日公演ではカールステン・ニコライが前座を務めていましたが、いやはや、ついに坂本龍一とも繋がってしまいましたか。そのこと自体ビッグ・ニュースではありますが、いや、これまたこのリミックスが良いんですよ。どういうふうに料理するのかとどきどきしながら再生ボタンを押すと……2分を過ぎたあたりで鳥肌が立ちました。OPN、おそるべし。なお、このリミックスは後日リリース予定の坂本龍一の作品(リミックス・アルバムでしょうか?)に収録される予定で、そこにはOPNの他にもコーネリアスアルカ、ヨハン・ヨハンソン、モーション・グラフィックス、エレクトリック・ユースなどが参加しているとのこと。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが坂本龍一をリミックス
- Ryuichi Sakamoto - Andata (Oneohtrix Point Never Rework) -

前衛的な実験音楽から現代音楽、そしてアートや映画の世界にまで、年々活躍の場を広げ、日本でも今年公開予定の映画『グッド・タイム』のサウンドトラックで、本年度のカンヌ・サウンドトラック賞も受賞したワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(Oneohtrix Point Never)ことダニエル・ロパティン(Daniel Lopatin)が、坂本龍一の最新アルバム『async』収録曲「andata」のリミックス・ワークを公開した。

Ryuichi Sakamoto - Andata (Oneohtrix Point Never Rework)
https://soundcloud.com/milanrecords/ryuichi-sakamoto-andata-oneohtrix-point-never-remix/

本楽曲は、『async』に続く坂本龍一の最新作に収録され、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの他、コーネリアス、アルカ、ヨハン・ヨハンソン、モーション・グラフィックス、エレクトリック・ユースなどの参加が明かされている。

ますます注目を集めるワンオートリックス・ポイント・ネヴァー最新作『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』は8月11日(金)世界同時リリース! 国内盤には、ボーナストラック“The Beatdown”が追加収録され、解説書が封入される。iTunesでアルバムを予約すると、公開中の“Leaving The Park”と“The Pure and the Damned (feat. Iggy Pop)”の2曲がいちはやくダウンロードできる。


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack

cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD: ボーナストラック追加収録/解説書封入
定価: ¥2,200+税

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8年ほど前、ぼくらは音楽に、あるいはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーその人に興味を持っ た。ぼくはいつもダンの音楽(特に初期の頃の)を、まだ作ってもいない映画のサウンドトラックとして想像していた。『Good Time』でのコラボレーションから、それを取り巻く対話を通じて、ぼくらは深い友情と、もちろんこの色鮮やかでこの世のものとは思えないようなスコアを手に入れた。制作の前にダンとはコンセプトのことでよく話し合った。それがカンヌで花開くことになるとは……まるでハイレゾ・ファンタジーだね。 ― ジョシュア・サフディ

ぼくはワクワクしながら、ミッドタウンにある兄弟のオフィスを訪ねた。そこには彼らが好きなものが何でもあって、まるで聖地みたいだった。巨大な『AKIRA』のポスターと『King of New York』が並んでたよ。ふたりはぼくに、特殊な映画に取り掛かるつもりだと言った。ぼくから見たサフディ兄弟は、非常に特異なことに取り組みながらも、伝統を尊重する監督だ。ジム・ジャームッシュやクエンティン・タランティーノ、レオス・カラックスといった監督を思い浮かべても、彼らは映画の歴史を愛するがゆえに映画制作そのものから遠ざかりがちだが、いずれにせよあの独特の個性を失うことはない。ぼくらに共通しているのは、傷ついてボロボロになったものに対する愛着と敬意だ。たぶんぼくらは今現在の歴 史を守りたいという衝動を感じていると思う。昔の、ではなく。ぼくら自身の言葉でだ。 ― ダニエル・ロパティン


映画『グッド・タイム』
2017年公開予定
第70回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門選出作品

Good Time | Official Trailer HD | A24
https://youtu.be/AVyGCxHZ_Ko

東京国際映画祭グランプリ&監督賞のW受賞を『神様なんかくそくらえ』で成し遂げたジョシュア&ベニー・サフディ兄弟による最新作。

コニー(パティンソン)は、心に病いを抱える弟(ベニー・サフディ監督兼任)のため、家を買い安全に生活させてやりたいと考えていた。そこで銀行強盗をふたりで行うが、途中で弟が捕まり投獄されてしまう。弟は獄中でいじめられ、暴れて病院送りになる。それを聞いたコニーは病院へ忍び込み、弟を取り返そうとするが……。

出演:ロバート・パティンソン(『トワイライト』『ディーン、君がいた瞬間』)、ベニー・サフディ(監督兼任)、ジェニファー・ジェイソン・リー(『ヘイト・フルエイト』)、バーカッド・アブティ(『キャプテン・フィリップス』)
監督:ジョシュア&ベニー・サフディ兄弟(『神様なんかくそくらえ』)

2017/アメリカ/カラー/英語/100分
(C) 2017 Hercules Film Investments, SARL

配給ファインフィルムズ

Oneohtrix Point Never - ele-king

 来る8月11日、OPNによる新たなアルバム『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』がリリースされる。タイトルにもあるとおり、今回のアルバムはジョシュア&ベニー・サフディ監督作『Good Time』の劇伴で、先日開催されたカンヌ国際映画祭にてカンヌ・サウンドトラック賞を授かるなど、すでに高い評価を得ている。
 OPNことダニエル・ロパティンがサントラを制作するのは今回が初めてではない。彼は2013年にソフィア・コッポラ監督作『The Bling Ring』のスコアをブライアン・レイツェルとともに手がけている(興味深いことに『R Plus Seven』がリリースされたのと同じ年である)し、2015年にはアリエル・クレイマン監督作『Partisan』の音楽を単独で担当している(興味深いことに『Garden Of Delete』がリリースされたのと同じ年である)。だが、本名のダニエル・ロパティン名義ではなく、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義でサントラを発表するのは今回が初めてのはずだ。
 メタルに触発されたかと思えばボーカロイドに影響されたり、ルトスワフスキを再解釈したかと思えばジャネット・ジャクソンをカヴァーしたり、アノーニとコラボしたかと思えばDJアールをプロデュースしたりと、もはや何を考えているのかさっぱりわからないロパティンだけれど、今回のサントラをOPN名義でリリースするのにもきっと彼なりの意図があるのだろう。ただのサウンドトラックとしてだけではなくOPNのアルバムとしても聴いてほしい、というような。
 ともあれ、イギー・ポップとの共作曲“The Pure And The Damned”が先行公開されているので、それを聴きながら待っていようではないか。


ONEOHTRIX POINT NEVER
本年度カンヌ・サウンドトラック賞受賞!
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーによる
サウンドトラック・アルバム『Good Time』のリリースが決定!
イギー・ポップ参加の新曲をフル公開!

先日開催されたカンヌ国際映画祭にて、ジョニー・グリーンウッドやフェニックス、ジェド・カーゼル、イブラヒム・マーロフといった名だたるミュージシャンや作曲家たちを抑え、カンヌ・サウンドトラック賞を受賞したワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(Oneohtrix Point Never)ことダニエル・ロパティン(Daniel Lopatin)が、受賞作である映画『GOOD TIME(原題)』のサウンドトラックを8月11日(金)にリリースすることを発表。イギー・ポップが作詞とヴォーカルを担当したエンディング・テーマ“The Pure and the Damned”が公開された。

Oneohtrix Point Never - The Pure and the Damned (feat. Iggy Pop)

本年度のカンヌ国際映画祭の目玉のひとつとされた映画『GOOD TIME(原題)』は、東京国際映画祭グランプリ&監督賞のW受賞を『神様なんかくそくらえ』で成し遂げたジョシュア&ベニー・サフディ兄弟による最新作で、『トワイライト』シリーズや『ハリー・ポッター』シリーズで知られるロバート・パティンソンや、クエンティン・タランティーノ監督作『ヘイトフル・エイト』のジェニファー・ジェイソン・リーが出演するクライム・スリラー作品となっている。

Good Time Trailer (Original Score by Oneohtrix Point Never)

8年ほど前、ぼくらは音楽に、あるいはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーその人に興味を持った。ぼくはいつもダンの音楽(特に初期の頃の)を、まだ作ってもいない映画のサウンドトラックとして想像していた。『GOOD TIME』でのコラボレーションから、それを取り巻く対話を通じて、ぼくらは深い友情と、もちろんこの色鮮やかでこの世のものとは思えないようなスコアを手に入れた。制作の前にダンとはコンセプトのことでよく話し合った。それがカンヌで花開くことになるとは……まるでハイレゾ・ファンタジーだね。 - ジョシュア・サフディ

ぼくはワクワクしながら、ミッドタウンにある兄弟のオフィスを訪ねた。そこには彼らが好きなものが何でもあって、まるで聖地みたいだった。巨大な『AKIRA』のポスターと『King of New York』が並んでたよ。ふたりはぼくに、特殊な映画に取り掛かるつもりだと言った。ぼくから見たサフディ兄弟は、非常に特異なことに取り組みながらも、伝統を尊重する監督だ。ジム・ジャームッシュやクエンティン・タランティーノ、レオス・カラックスといった監督を思い浮かべても、彼らは映画の歴史を愛するがゆえに映画制作そのものから遠ざかりがちだが、いずれにせよあの独特の個性を失うことはない。ぼくらに共通しているのは、傷ついてボロボロになったものに対する愛着と敬意だ。たぶんぼくらはいま現在の歴史を守りたいという衝動を感じていると思う。昔の、ではなく。ぼくら自身の言葉でだ。 - ダニエル・ロパティン

『GOOD TIME』はサフディの出身地であるニューヨークに断片的なつやを与えている。だが固い留め具としてそこになくてはならないのが、衝撃的なアンダースコアだ。ほぼノンストップで酔わせるそのエレクトロニカは、ブルックリンを拠点に活動する実験音楽の作曲家ダニエル・ロパティン、またの名をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが手がけている。エンディング・テーマ“The Pure and the Damned”でコラボレートしたのはイギー・ポップだ。至る所で響き渡るプログレッシヴ・ロックのシンセサイザーは、ウィリアム・フリードキン、マイケル・マン、そしてジョン・カーペンターの『Assault on Precinct』といったヴィンテージ映画の残響を呼び起こしているが、決して模倣ではない。 - Hollywood Reporter

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンによって提供されたスコアは、この映画と完璧にマッチしている。タンジェリン・ドリームのようなVHSスリラー・サウンドトラックに由来しながらも、ここ最近の模倣者たちとは比べものにならないほど独創的で表現力がある。ロパティンの不安気な旋律と音の急襲は、コニーの頭の中と思えるくらいの感覚を我々に与えてくれる。 - Vulture

ゴミ番組と、ドラッグ・カルチャーと、蛍光色が飛び散った夜間の撮影と、振動するシンセサイザーを混ぜ合わせた21世紀のファーストフード・ハイブリッド。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのすばらしいスコアに感謝だ。 - The Film Stage

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーによる映画『GOOD TIME(原題)』のサウンドトラック・アルバム『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』は8月11日(金)世界同時リリース! 国内盤には、ボーナス・トラック“The Beatdown”が追加収録され、解説書が封入される。iTunesでアルバムを予約すると、公開された“The Pure and the Damned (feat. Iggy Pop)”がいちはやくダウンロードできる。

label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack
cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD: ボーナス・トラック追加収録 / 解説書封入
定価: ¥2,200+税

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映画『GOOD TIME(原題)』
2017年公開予定
第70回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門選出作品

東京国際映画祭グランプリ&監督賞のW受賞を『神様なんかくそくらえ』で成し遂げたジョシュア&ベニー・サフディ兄弟による最新作。

コニー(パティンソン)は、心に病いを抱える弟(ベニー・サフディ監督兼任)のため、家を買い安全に生活させてやりたいと考えていた。そこで銀行強盗をふたりでおこなうが、途中で弟が捕まり投獄されてしまう。弟は獄中でいじめられ、暴れて病院送りになる。それを聞いたコニーは病院へ忍び込み、弟を取り返そうとするが……。

出演:ロバート・パティンソン(『トワイライト』『ディーン、君がいた瞬間』)、ベニー・サフディ(監督兼任)、ジェニファー・ジェイソン・リー(『ヘイトフル・エイト』)、バーカッド・アブティ(『キャプテン・フィリップス』)
監督:ジョシュア&ベニー・サフディ兄弟(『神様なんかくそくらえ』)
配給:ファインフィルムズ

2017/アメリカ/カラー/英語/100分
(C) 2017 Hercules Film Investments, SARL

今年はまだ半分しか来てないのに、面白い映画が多いよねー。(三田)
僕もかなり面白いと思いますよ、今年は。観るべきものが多い。(木津)

三田:今年はまだ半分しか来てないのに、面白い映画が多いよねー。木津くんとは趣味が合うのかどうか、いつもよくわからないんだけど、どうなの、今年の映画は?

木津:三田さんとは合わない予感がうすうすしているんですが(笑)、僕もかなり面白いと思いますよ、今年は。観るべきものが多い。

三田:じゃー、お互いのベスト5を書いて見せ合おう。

(シャカシャカシャカ……パッと見せ合う)

木津:あれー、1作も重なってませんね。

三田:なんで『クリーピー 偽りの隣人』が入ってないの! 邦画差別だ!

木津:やめてくださいよ(笑)! いや、『クリーピー』も楽しく観ましたよ。非常に黒沢清監督的な、映画映画した演出が充実していたことが僕は良かったですが、三田さんはどういうポイントで評価されてるんですか?


『クリーピー 偽りの隣人』©2016「クリーピー」製作委員会

三田:まずは『リアル』で、この人は完璧に終わったと思っていたので、単純に復活したなと。しかもファンが期待するジャンルで。実は後半はサーヴィスのようなもので、極端なことをいえばなくてもいいというか、日常のディテールを執拗に積み上げていく前半に引き込まれたんですよ。フランスでル・ペンが大統領候補に残った時にローラン・ガルニエが「隣人が信じられなくなった」と言っていたんだけど、いまの日本も隣人というものがナゾを通り越して政治的な文脈では敵にしか見えなくなってきた面があるのではないかと。ヘイトはその幼児的な表れだし、監視カメラやSNSが地縁にとって替わられてきた感触をうまく捉えている。女子大生が隣人をストーキングする岸善幸監督『二重生活』はディテールを積み上げる前にドラマティックになり過ぎて、同じような共感は覚えにくかったんだけど、問題意識には共通のものがあるように思えた。「クリーピー」というのは、いわば「キモい」という意味だけど、自分と違う意見の持ち主に対して漠然と抱いているムードを表す言葉として適切なものを選んだなという感じ。

まずは『リアル』で、この人は完璧に終わったと思っていたので、単純に復活したなと。しかもファンが期待するジャンルで。実は後半はサーヴィスのようなもので、極端なことをいえばなくてもいいというか、日常のディテールを執拗に積み上げていく前半に引き込まれたんですよ。(三田)

木津:なるほど。前作『岸辺の旅』でも、そばにいる人間が生きているか死んでいるかすらわからなかったですからね。映画としても、観客ははじめ西島秀俊を主人公だと思ってひとまず信頼するんですけど、あまりにも事件に入りこんでいくからだんだん信用できなくってくる。隣人だけじゃなくて、家族も部下も疑わしい、漠然とした不信感が画面を覆っている感じ……それがSNS時代と言われると、うなだれてしまうところがありますね。三田さんはサーヴィスだとおっしゃいますが、だからこそ後半、映画がドライヴしていくのに僕は興奮しましたね。

三田:後半はまったく違うストーリーでも成り立つと思ったんだよね。話の導入部も移動だったけど、後半に移動を重ねることで地縁の否定をさらに印象付けている。それでも、いまの日本に体裁として残されているのが血縁で、家父長制は自発的につくられてきたんじゃないかという告発は興味深いものがあった。あるいはすでにその程度のものでしかないということだよね。これは安藤桃子監督『0.5ミリ』(2014)でもハードに追求されたテーマだったけど、前田司郎監督『ふきげんな過去』がすでに失われた家父長制をスタート地点としていたこととも遠くで呼応しているんじゃないかと。黒沢清と『贖罪』でタッグを組んでいた小泉今日子が次にこの映画を選んだのは芸能界的に少々できすぎな気もしましたが。

木津:『あまちゃん』でも基本的には父が不在でしたから、小泉今日子が案外そういう役目を負っているのかも……と言ったらこじつけすぎですかね。ただ家父長制がもはや滅びゆくものなのだとしたら、ペドロ・アルモドバルが何度もやっているような、男を必要としない世代のやり取りっていうのは日本映画でこそ観たい気はします。『クリーピー』に話を戻すと、そういう意味では、隣人の子どもが女の子っていうのはポイントですよね。家父長制に完全に与することはない、という。『ソロモンの偽証』(2015)で典型的な立ち向かう少女を演じていた藤野涼子が、ここでも物語を旋回させる役回りで。これが男の子だったら違った話になっていると思えます。

三田:『トウキョウソナタ』の男の子は最後に出すマイティカードとしては実に無理があったからね(笑)。あんなことで解決できたら世話はないというか。黒沢清は一種類の女性しか描けなかったのが『贖罪』で変わったと発言しているので、あそこがターニング・ポイントになったことは確か。北野武も宮崎駿も村上春樹も女性を描けないことがなぜか許されている国で黒沢清が家父長制にもっと踏み込めたら、けっこう面白いことになるかもしれない。「男を必要としない世代」というのは『アナと雪の女王』で世俗的なフォーミュラはすでに確立されているし、応用だけで済む段階になっているから、こじつけていえば『ふきげんな過去』がそこにスパっと当てはまってしまう面もなくはない。それこそ主演の二階堂ふみが誰から何を受け継ぐかというテーマを達者に演じていて、しかも、その回路を巧みに屈折させているところが非常に面白かった。最近の邦画ではかなり珍しい発想だと思う。

木津:『ふきげんな過去』についてはたしかにそうですね。序盤から終盤まで、世代の異なる女たちがどうでもいい話をうだうだ喋っている感じなんかは、邦画であまり見られない光景ですもんね。しかもいまの話の流れで言うと、血縁と地縁の両方が組み込まれていて、そこからいかに逃れられないか、もしくはいかにして逃れるか、というテーゼが両方とも描かれている。僕は女が移動する映画の系譜が脈々とあると思っていて、そしてそういう作品は面白いものが多い。『ふきげんな過去』の場合は、移動する女と留まる女の両方がいて、二階堂ふみがそのどちらの可能性も秘めた存在としていますよね。そこが現代的なのかなと。「巧みに屈折させている」っていうのは、もう少し具体的に説明するとどういうことですか?

三田:具体的にはスポイラーになってしまうので言えないけれど、結論だけを見ると「反社会性」は血縁に由来するということになってしまいそうなのに、そんな単純なことではないでしょうと思わせるだけの仕掛けが施してあったなと。極端なことを言うと、オウム真理教の子どもたちのことを考えてしまったんですよ。そこまでは想定してないと思うけど。

木津:ふーむ。たしかに、「反社会性」がかなり意図的に用意されていたように見えました。

『ロブスター』はおもしろかったですねえ。ミヒャエル・ハネケやラース・フォン・トリアー、ウルリヒ・ザイドルがやってきたようなことにぐっと笑いを持ちこんだことは大きいですよ。(木津)

三田:あと、邦画をもう一本、『太陽』を。監督の入江悠は閉塞感を絵で見せるのが実に上手いなと思ったことがあるんですよ。『サイタマノラッパー3』で視界がまったく利かない逃避行のシーンがそれなんだけど、ヒップホップをモチーフにしていることが壁になって、実際、ヒップホップが嫌いじゃなくても面会のシーンはあまりにクドいので、あのシーンを時代の表現として捉えた人は限られているだろうなと。それが『太陽』では町ひとつを隔離するという設定なので、あの閉塞感がどのように変容したかが観られるのではないかと思って。結論から言うと、『太陽』というのは蜷川幸雄の演出が話題になった作品で、それにだいぶ引きずられてしまったのかなあと。自分の文法を明確に持ち込めなかったという印象がどうしても残ってしまった。とくに、今年はヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』が隔離というテーマをこれでもかと絞り込んで見せたので、ついつい比較してしまうところもあって。

木津:『ロブスター』はおもしろかったですねえ。ミヒャエル・ハネケやラース・フォン・トリアー、ウルリヒ・ザイドルがやってきたようなことにぐっと笑いを持ちこんだことは大きいですよ。配役もいいし、単純に設定がキャッチーで巧いんですよね。俗っぽいのもいいなと思う。だから俗っぽい例で言うと、『セックス・アンド・ザ・シティ』が結婚しない女たちの話だったはずなのに人気が出たら結局そこに回収されるしかなかったように、あるいは東村アキコの『東京タラレバ娘』で結婚から取り残されることがリアルな恐怖として描かれてヒットしているように、世のなかが経済的に困窮していくなかで制度に歩み寄らない人間が異様なものとして扱われることへの不安がヴィヴィッドに表れている。パートナーのいない人間は動物にされる=理性を奪われるというのもすごく端的だし。あるいは、制度から外れる人間は極端な運動に巻き込まれざるを得ない。いま同性婚の制度化が世界的に進むなかでゲイ・コミュニティの内部で意見が分裂しているところがありますが、『ロブスター』が描いていることを後景に置くとそれもすごく納得できるというか。モノガミーに対する疑念がありながら、だからと言って適切な代案も見当たらないことに対するフラストレーションがよく描かれているなと、僕は思いましたね。


『ロブスター』©2015 Element Pictures, Scarlet Films, Faliro House Productions SA, Haut et Court, Lemming Film,
The British Film Institute, Channel Four Television Corporation.

三田:ランティモスはデビュー作『籠の中の乙女』(09)でも隔離をテーマにしていて、同じ設定なのに、今回は大量の要素を盛り込んだよね。監督本人は他人と生きなければいけないのも苦痛だし、ひとりで生きるのも苦しいとか、適当なことを言ってたけど、それは間違っていて、どちらも制度として機能しているから限界があるんだよね。監督が発言している通りだったら、誰かと生きなければならない社会で、時々、ひとりになれる時間を制度的に保障してあげれば解決してしまう可能性は高い。それどころか、いまの日本にはミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』を経てもなお、まだ「恋愛をしない自由がある」と開き直れる余地は文化的にも経済的にもあるし、橋口亮輔『ハッシュ!』(02)みたいに3人で暮らしたいというケースがあれば、その方がラジカルな選択になってくる。そういう意味では、僕はどちらかというと、古い左翼にダメ出しをした映画に思えたんですよ。対立項というのは結局のところ同じ価値観の裏表でしかないと。体制批判はいくらでもあるけど、反体制批判は珍しい。

木津:なるほど。そこに、いまヨーロッパを中心にアイコニックな存在になっているレア・セドゥを持ってくる捻れたセンスがランティモス監督なのかなという気がしますね。

三田:レア・セドゥは映画の選び方が無茶苦茶すぎて、もはやそれだけで面白い。あの森のシーンを見て、しかし、僕はデル・トロ『パンズ・ラビリンス』(06)でレジスタンスが潜んでいた森に意識が飛んでしまって。公開から10年経ったのかと、思わず観直してしまったんだけど、あれが、しかし、南ヨーロッパの経済的破綻を予感させる映画だったとしたら、同じスペインのその後、破綻後の景色を収めたものがカルロス・ベルムト監督『マジカル・ガール』ではないかと。いまはもう、スペイン経済は回復基調なので、少し前の風景ということなんですけど。

木津:ベルムト監督はしかも若いですからね。あの硬質なノワールは伝統的なようでいて新しい感性でもあるということだし、いま三田さんがおっしゃったように経済破綻が背景にあるとすれば、それを直撃した世代の率直な言い分だとも思えてきます。僕は『マジカル・ガール』は、金銭の獲得が肉体的な苦痛と直結していることが気になりました。セックスもバイオレンスも金銭の移動を誘発する行為でしかなくなっているというか……カネを得るための代償が、文字通り「痛い」ものになっている。しかもその場面は見せないでしょう? バイオレンスの快楽も観客に許さない、すごいドライさだなと思って。それにしても、この悲惨だけど笑えてしまえる話に、日本のカルチャーが参照されたのってどうしてなんでしょうね。単純に監督が日本にいたからとか好きだったからとか、そういうレベルの話じゃないものを感じるんですが、それが何かが判然としなくてちょっとモヤモヤしてるんですよ。

三田:共同体がどこにもないんだよね。喫茶店ぐらいかな。『ロブスター』と正反対。「痛い」と言われて、当時、スペインの女の人たちが卵子を売って暮らしていたことを思い出した。そういう報道があって、同じ時期にジンバブエでは道端で男が女たちに襲われる精子強盗が話題になっていて、最近は金がなくても遺伝子を捕られちゃうんだなと。そうやって得たお金を、しかも、憲法の本に挟んで渡すんだよね。あれはスゴい皮肉。どこもかしこも超法規的なことばかりなのに。日本文化を持ち出しているのは、いい方に考えれば救いを求めているのかなとも思うし、そもそも、あの女の子が日本に興味を持ったばかりに……とも取れるので、なんとも言えない。『ポケモン』を観てスペインの子どもが自殺したという報道もあったから、何かスペイン人にとって、ジャパニメイションとかは死生観を揺らがせるメタファーに満ちているのかもしれない。

木津:それは何ともドンヨリする話ですね……。身体性についても本当に経済の問題なんだ。ベルムト監督もそうだし、上半期は比較的新しい作家が目立ったかなと思います。アンドリュー・ヘイ『さざなみ』、ネメシュ・ラースロー『サウルの息子』、ミシェル・フランコ『或る終焉』、ジャスティン・カーゼル『マクベス』などなど。どれも見応えありましたが、なかでも、いまの文脈に通じるのはデヴィッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』でしょうか。すごくいい意味でインディペンデント感のある青春ホラー映画なんですけど、描いていること自体は真っ当な思春期性でありながら、背景に荒廃したデトロイトの街が映りこんでいる。それがすごく良かったですね。スフィアン・スティーヴンスがデトロイトの衰退について歌ったのもすでに13年ほど前で、若い世代にとっては廃墟のような街がもう前提なんですよね。『マジカル・ガール』のノワール、『イット・フォローズ』のホラーと並べてみると、経済が破綻してもはや回復しないであろう地点で何を描くか、という共通点が見えてきます。いまのところそれは死であり呪いであり暴力なんですけど、さらにいろいろなことがテーマになってくるでしょうね。

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三田:ベン・ウィートリー監督『ハイ・ライズ』は、そういう意味では崩壊に至るまでのプロセスを辿り直してくれたようなところがあった。70年代に原作を書いていたJ・G・バラードの予見性もさることながら、これは同時に再開発によってイギリスから失われていく風景を記録したものにもなっていて、具体的であるがゆえにかえって観念的なブラック・ジョークにしか思えなくなってくる。妙な神話性を帯びてくるというか。バラード・ファンに受けた『マッド・マックス 怒りのデスロード』もまったく同じだったんだけど、そうなると美術や特殊効果にやたら凝りまくるという感覚は興味深いよね。『ハイ・ライズ』はジェレミー・アイアンズを起用している時点でクローネンバーグを意識していることは自明だし、縦横無尽にインサートされるショート・カットがそれこそクローネンバーグのカット・アップに観えてくるんだよ。あれは実に楽しめた。ウィートリーも含めて若い才能ももちろんいいんだけど、同じような映像の快楽を味わわせてくれたのが『イレブン・ミニッツ』のイエジー・スコリモフスキ監督で、78歳とは思えない発想、斬新な映像感覚、カット割り、そして音楽だった。

木津:『イレブン・ミニッツ』! 素晴らしかったですね。公開は8月ですが、僕も今年ベストの1本ですね。描いていること自体も非常に現代的ですし、でもそれ以上に映画的快楽を浴びているうちにあっという間に終わっているという。タランティーノの『ヘイトフル・エイト』も頑張ってましたが、この域まで行ってほしいですねー。エンニオ・モリコーネの音楽に助けられてるところもありましたから。『ハイ・ライズ』はまだ観れてないんですが、ポーティスヘッドによるアバ“SOS”のカヴァーが主題歌になったのが話題になってましたね。その組み合わせ、センス良すぎるだろっていう。スタイリッシュなSF繋がりで言うとアレックス・ガーランド『エクス・マキナ』の音楽もジェフ・バーロウが手がけていて、そういうところにいまも要請があるのはほんとさすがだな、と。話自体は人工知能を描いたものとしてはわりとオーソドックスなんですけど、インターネットが重要な要素として描かれているのは大きいと思いました。さっきの家父長制の話で言うと、娘が強権的な父に囚われていると見なせるんですが、それが地縁でも血縁でもなくネットの検索ワードに支えられてるんですよ。これはすごく現代的だと思いました。と同時に、やっぱり家父長制みたいなものがそんな世界でもテーマになるんだな、とも。ダン・トラクテンバーグ『10クローバーフィールド・レーン』、デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン『裸足の季節』と、娘が父権的なものに閉じこめられている映画をやたら続けて観ている気がします。この対談のテーマのひとつですね。

三田:どれも観てないので少し違うかもしれないけど、レニー・アブラハムソン監督『ルーム』でも娘の子どもを父親が受け入れない場面があったよね。あそこはステップ・ファミリーの方がイレギュラーな事態に対処できるという図式になっていた。娘は娘で母親に「あなたが教えたように、困っている人に親切にした結果がコレだ」と批判する場面もあって、母と娘も修復できないのかと思ったら、あの子どもが「僕、ばあばのこと好きだよ」と逆からブリッジをかけることになって。アブラハムソンがひとつ前に撮った『フランク』で主人公がおかしくなってしまう理由と、そこからの脱出を音楽に求めていたのに対して、『ルーム』は音楽というファクターなしで同じことをやってみたのかなと。前半と後半で隔離の質が変わるだけというのは『ロブスター』にも通じるものがあるというか。他人に閉じ込められるか、家族に閉じ込められるか。

木津:うーん、じつは僕は『ルーム』は引っかかるところが多くてあまり受け入れられなかったんですが、そう言われるとなるほどと思います。娘の子どもを父親が「見れない」と言う場面が一番ヘヴィでしたね。だから僕は、「見ること」についての話だと思ったんですよ。自分が暴力の被害に遭ったことをいかにして見るか、受け入れるか。そして子どもにとってははじめて「見る」世界が待っている。ただ、子どもがはじめて空を見る場面でドラマティックな音楽が流れたり、やり方としてはちょっとあざといんじゃないかなと。三田さんがおっしゃるようにステップ・ファミリーという点ではオルタナティヴな家族の形を示しているようにも思いますが、ただ、その共同体が彼の純粋さに救われてしまっていいのかと感じたんですよ。何より観客が救われた気分になれてしまう。少女監禁を描いた映画では世間的にこっちは大絶賛で、後味の悪さが残ったアトム・エゴヤンの『白い沈黙』(14)がボロカスっていうのはちょっと不平等かなと。

三田:『白い沈黙』ってボロカスなの? それは随分だなー。『ルーム』は『フランク』の監督だということ以外、設定は何も知らずに観たので、空を見る場面はとんでもない開放感がありましたよ。盛り上がりすぎて音楽が流れていたことすら気づかなかった(笑)。確かに「観客が救われた気分になれてしまう」ということはあるかもね。観ながら、実は『ネル』を思い出していたんだけど、意図的なのか偶然なのか、ショーン・ブリジャースが両方の作品に出ていて。『ネル』になくて『ルーム』にあるのは強力な母子関係なので、子育てで気が変になる母親のことも考えざるを得なかった。ショーン・ブリジャーズの役回りと世の中の父親って大して違わないじゃない? それがそのまま山下敦弘監督『オーバー・フェンス』にも被っていくんだけど、公開が9月だから、これはさすがにやめよう(笑)。

木津:そうですね(笑)。うーん、だから、そういう閉じた母子関係みたいなものがしんどかった部分も、僕はあるかもしれないです。ブリー・ラーソンはもっと別のところでも希望を見つけてほしいというか。ではここで僕の上半期ベストのトッド・ヘインズ『キャロル』の話をするんですが(笑)、いまの流れで言うと、そっちには母であることを奪われていく女が出てくるんですよ。女を愛する女であるということと、母であるということを両立させてもらえない時代であり世界の話ですね。いま同性愛を扱うのなら、いかに過去を描くかだと思うんですよ。ローランド・エメリッヒの『ストーンウォール』はホワイトウォッシュだと言われてボイコットまでされましたが、要するにいまの状況の下地をきちんと検証することが重要になっている。『キャロル』の場合は60年代の前の50年代ということが強調されるんですが、そのことによってトッド・ヘインズのかねてからの古典映画への憧憬がはじめて結実したように思えたことがひとつ。「同性愛を美化している」との評もいくつか見ましたが、それはまったく逆で、50年代のハリウッド映画の美的世界に同性愛を持ちこんでいるんですよ。当時は許されなかったわけですからね。もうひとつは、ルーニー・マーラの側から見ると、自分の欲望するものを手に入れようとする女の一瞬を描いているという、とてもシンプルな意味での女性映画だと思えたことですね。LGBT関連では老ゲイ・カップルのちょっとした問題と日常を描いたアイラ・サックス『人生は小説よりも奇なり』も素晴らしかった。こちらは現代のニューヨークを描いていますが、熟年夫夫なので過去が透けて見えてくる。それはふたりの過去であり、数々のゲイたちの歴史であり……。僕、ブームもあるからゲイ映画は基本的に疑って観るようにしているんですが、これに関してはもうずっと泣いてました(笑)。


『キャロル』 ©NUMBER 9 FILMS (CAROL) LIMITED / CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION 2014 ALL RIGHTS RESERVED

三田:さすがに力が入りますね(笑)。『キャロル』は観てないんだけど(観なくちゃね)、ジル・ソロウェイ『午後3時の女たち』とかグロゼバ&バルチャノフ『ザ・レッスン』とか、女性がちょっとした欲望を持つ映画ってたいてい悲劇になるのはそれが現実的だという判断なのかしら。ウッイ・メーサーロシュ・カーロイ『リザとキツネと恋する死者たち』なんか、そこまでいじめることはないだろうと思うけど、やっぱりその方が説得力があるのかなーと。やっぱ観そこなっちゃったんだけど、トム・フーパー『リリーのすべて』はどうなんですか?

木津:あ、まさにそういった文脈で僕はあまり評価していないです。実話がもととはいえ、トランスジェンダーの悲劇性が強すぎるように思えて。しかもそこで観客が涙するっていう構造になっているのがね……。トランスジェンダーなのでこれも女の映画と言えますが、そういった意味では『キャロル』と逆なんですよ。女の悲劇が現実に則したものなのだとしたら、僕はやっぱりそれを描いた上で、乗り越えていくものが見たいと思います。だから僕は、トランスジェンダーの娼婦をある種溌剌と描いているというショーン・ベイカー『タンジェリン』を一般公開してほしいですね。しかし女の話ばかりしてますね、この対談。

三田:男はスパイになって飛び跳ねてるだけだからねー。そう言われてみると、男はドラマを持ってないのかも。火星に行ったり、雪山に登ったり、部屋にいたりするだけで。役者的に見てもトム・ハーディやマイケル・ファスベンダーが人気なのはいいけど、あまりに癖がなさ過ぎる。本当にしょうがない男を描いたチャーリー・カウフマン『アノマリサ』はそこを突いたということなんでしょううか。ジョージ・クルーニーやチャニング・テイタムにスパイもののパロディをやらせたコーエン兄弟『ヘイル、シーザー』はけっこう笑えましたけどね。

木津:『ヘイル、シーザー』はちょっと気が利きすぎですよー。ほんとに笑えるだけっていうか。『アノマリサ』はテーマとスタイルがピッタリ合っていて感心する半面、あまりにもカウフマン的な現代人の鬱の話なんでちょっと心配になっちゃいました……。でも、スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』は飛び跳ねないスパイを描いていたじゃないですか? 大御所の意地というか、あの地味な辛抱強さはやっぱり偉いし、グッときましたよ。まあ、今回の話の流れで言うと父権的なものを讃えているとも取れて、そこは僕がマッチョなものに抗えないところが出ちゃってるかもしれないですけど(笑)。

三田:『ヘイル、シーザー』は政治に左右されず単純に面白い映画を撮りたいというメッセージはしっかりあるじゃない! ジョージ・クルーニーもわざわざ共産主義にカブれる役をやるなんてセルフ・プロデュースの能力が高いなーと関心したし。『ヘイル、シーザー』だけじゃなくて『完全なるチェックメイト』とか『ムーンウオーカーズ』が冷戦ものにどんどん変化球を加えてくるなか、『ブリッジ・オブ・スパイ』は剛速球という感じでしたね。「007」シリーズが全盛期に匹敵する盛り上がりを見せているということは、エクスキューズなしのエンターテイメントをやるチャンスでもあって、木津くんはダメかもしれないけど、僕はガイ・リッチー監督『コードネーム U.N.C.L.E.』(15)が去年のベスト5に入るんですよ。スタイリッシュなのに斜にかまえたところが一切ないというのはなかなかできないことだし、かつての「007」シリーズに対する、当時の「カジノ・ロワイヤル」的な知性を感じるところがあった。角砂糖のシー ンが最高でしたね。

木津:おおー、ここで『コードネーム U.N.C.L.E.』を三田さんが褒めるとは(笑)! 僕はご予想の通り、ダメだったなー……編集がチャラチャラしてるように感じてしまいました。でもたしかに、政治から逃れられないムードは欧米の映画ではいま強いでしょうね。

三田:『ブリッジ・オブ・スパイ』は60年代の冷戦ものに対して、悪くいえばお勉強的な視点を持っているよね。たまたまキャロル・リードが50年代に撮った『二つの世界の男』を観た後だったので、ベルリンに壁が建設されていく過程は余計に歴史的な重みを伝えてくるところもあって。冷戦というのはスパイの遊び道具じゃないんだよというか(その後で観たマルクス・ディートリッヒ監督『ビームマシンで連れ戻せ』にはベルリンの壁に対するさらに異なった認識が展開されていて驚愕でしたけど)。木津くんが感じるように父権的なモードを発動しているとしたら、それは、僕はあの映画がエドワード・スノーデンを意識しているからではないかと思うんだよ。『ソルト』(10)だったら、スパイは根無し草のように扱われるし、国家が庇護するという感覚からはほど遠いんだけど、スノーデンは正義を行ったんだという感覚を捨てきれないアメリカ人も多いだろうし、そのまま当てはまるわけではないけれど、国家が市民をどう思っているかという意識が反映されている気がして。

木津:ああ、スノーデンのブームもすごいですよね。かなりアイコニックな存在になってますね。

三田:今年のレコード・ストア・デイにスノーデンがトランスのレコードを出してたね。ジャン・ミッシェル・ジャールのサウンドにスピーチを載せてるだけなんだけど。



木津:スノーデンのトランスって……。踊っていいのかわからなくなっちゃいますね。そう言えば、スノーデンによる一連の暴露の過程をリアルタイムで追ったドキュメンタリー『シチズンフォー スノーデンの暴露』はなかなか興味深かったですよ。

三田:そんなものを撮ってたんだ。

木津:アメリカでは2014年に公開されていてそのスピード感はさすがアメリカ映画だなとは思ったんですけど、2016年にこれを観られたのはある意味ラッキーで、「結局オバマ時代って何だったんだろうなー」とボンヤリ考える契機になったというか。リバタリアンのスノーデンに対しては政治的な観点では疑問に思うところもありますけど、ただ、アノーニの“オバマ”じゃないですが、いまのどんよりとした失望感みたいなものはうまく抜き出してるかなと。それと、カメラがまさにそれが起こっている現場にずっとあったっていうのは、単純にやっぱり興奮しましたね。

三田:なんでも撮るよね、いまは。

2016年の上半期を象徴する映画っていうと何になりますか? 僕はディズニー映画の『ズートピア』なんですが。(木津)

木津:ただドキュメンタリーでは、森達也監督の『FAKE』が逆のアプローチをしているように思えて、さらに面白かったんですよ。佐村河内守の例のゴーストライター事件のあと、基本的には佐村河内側にカメラと監督が密着しているだけなんですけど、絶妙なところで電車が走ってきたり「劇映画の演出みたいだな」って思うところがあるんですよ。観客に対して、ずっと「これは現実なのか演出なのか?」と不安にさせるところがある。『シチズンフォー』がアメリカン・ジャーナリズム的に真実の重要性を訴えているとしたら、『FAKE』は「そもそも真実をひとは見たいんでしょうかね」という不敵な態度があって僕はゾクゾクしましたねー。これは問題意識的にも、いまの日本をよく表しているなと思いました。では最後に、個人のベストは別にして三田さんは2016年の上半期を象徴する映画っていうと何になりますか? 僕はディズニー映画の『ズートピア』なんですが。

三田:なんだろ。クリスティン・ウィグが出てる映画全部。『ミニー・ゲッツの秘密』『オデッセイ』『ズーランダー2』『ゴーストバスターズ』……まだやってないけど、あの鼻のカタチが気になる……。

木津:なんでですか(笑)。僕が『ズートピア』をここで挙げたいのは、#BlackLivesMatterかつ、女の映画ですから。ビヨンセの『レモネード』とセットで観るといいのかな、と。ただ、実際に観ると完成度は高いし、評価が高いのもすごく分かるんですけど、同時にアメリカがいま分断されていることも表しているな、とも思っちゃって。数年前からポリティカル・コレクトネスの問題は気になっていたんですが、ある意味これは決定打だなと。ドナルド・トランプを支持するようなひとたちは説教くさいと思うだろうし。あの世界が「ユートピア」なのは基本的にリベラルな意識が浸透しているからで、そうではないひとたちとは話自体が噛み合わなくなっているということなんだな、としんみりしてしまって。完成度が高いだけに……ということですけどね。とくにアメリカは政治的なモードがしばらく続くとは思うので、よくも悪くも11月の大統領選がターニング・ポイントになるでしょうね。ここ数年の映画は、こうして振り返るとその前夜のムードをすごく感じますよ。

2016年 上半期ベスト5

木津毅
1. キャロル
2. 母よ、
3. ブリッジ・オブ・スパイ
4. 人生は小説よりも奇なり
5. さざなみ
次. LOVE 3D

三田格
1. ロブスター
2. マジカル・ガール
3. ルーム
4. ふきげんな過去
5. クリーピー 偽りの隣人
次. ビームマシンで連れ戻せ

ヤマシタトモコ - ele-king

 押井守や北野武が描くアウトサイダーはたいていの場合、組織に属している。いわゆる「お荷物」とか「不良社員」といったやつである。泥棒やドラッグ・ディーラーを主役にして反社会的行為を色とりどりに描く洋画や香港映画に較べて、そのような「アウトサイダー」には当然のことながら「悪いこと」には一定のラインがあり、最終的に主役が手にするものは「美学」ばかりである。実を取る気配すらないし、間違っても生活感などは漂わせない。

 不出来もいいところだった林海象監督『キャッツ・アイ』は論外として、最近だと内田けんじ監督『鍵泥棒のメソッド』や伊藤匡史監督『カラスの親指』でようやく日本の映画でも組織に属していない悪党たちがコン・ゲームを繰り広げはじめたと思ったら(以下、ネタばれ)「どこにも悪人はいなかった」という価値観に終始し、ストーリーの妙もそのような結論から演繹されるものばかりだった。バカバカしい。たかがエンターテイメントだけに、事態は余計に深刻な気がしてくる。犬童一心監督『のぼうの城』でも金子文紀監督『大奥~永遠~』でも権力者の内面に同調させる映画作りは得意なのに、持たざるものからの視点はタブーなのかと思ったり。

 「組織に属するアウトサイダー」は、しかし、新自由主義があっさりと過去のものにしてしまった面もなくはない。 原田眞人監督『金融腐食列島・呪縛』や本広克行監督『踊る大捜査線』以降、「はみ出し者」のレッテルはどちらかというと組織の周縁ではなく、組織を内部から改革しようとする者に貼られるようになり、以後、ストーリー的には「敵は頭の上」という図式がデフォルトと化してしまった感もある。佐藤嗣麻子監督『アンフェア』といい、堤幸彦監督『スペック』といい、警察上層部が悪くない例を探し出す方が最近は難しいし、改革=正義を行うという意識ととらえれば、このことは『沈黙の艦隊』や『デス・ノート』から連綿と続いてきた感覚であり、ゼロ年代よりもさらに強化されていると言える(クエンティン・タランティーノ監督『レザボア・ドッグス』は無意味な殺し合いを描いたものだったのに対し、『ジャンゴ』では人を殺す時に「正義」が持ち出されるという驚くべき変化があった)。

 こうした変化は押井モデルや北野モデルのアウトサイダーを組織内には居ずらくさせ、自主退社を迫られるものにしてきた。『鍵泥棒のメソッド』や『カラスの親指』だけでなく、吉田大八監督『クヒオ大佐』や、国家単位で考えた時には木村祐一監督『ニセ札』が美学の路頭に迷ったアウトサイダーたちを暫定的に詐欺師ものにトランスフォームさせたとも考えられるし、それはそのまま正社員が非正規(=ノンキャリ)にずり落ち、ついにはオレオレ詐欺に手を染めるしか生き延びる方法がなかった時代の写し絵とも見えなくはない(『クヒオ大佐』にはアレックス・コックスばりの政治的センスがあり、『ニセ札』には民衆側の視点というものがあった)。

 さらには「ソーシャル」というキーワードが無条件で是とされ、「自由」に振舞うことが迷惑行為と同義語のようになってくると、「アウトサイダー」は単なる自己愛パーソナリティ障害か時代の変化に気づいていない人にしか見えなくなってくる。松本人志監督『大日本人』は戦闘少女に救える地球はあっても、旧型の男性ヒーローには救ってもらいたい人もいないというカリカチュアとしては有効に思えたし、同時に押井守や北野武の美学が笑われているようなセンスもあった。このような時期に押見修造『悪の華』は意外なほど反社会的行為をストレートに描き、しかも、「受けまくった」。ここには押井モデルのような屈折もなく、同時多発テロ以降、題材にしにくかったテロリズムを心情的に理解させながら話を進めていくことにも成功し、『殺し屋1』のように動機は捏造だったというようなトリックもない。それこそイスラムもないしw、強いていえば思春期原理主義というようなものかもしれないけれど、これに中2病のバイブルというような表現で時代性にフタをしてしまうと、見失しなわれてしまうことも出てくるはずであう。社会が常に変化しているならば、「反社会」も一定ではないはずだし、作者が参考にしたという『太陽を盗んだ男』だけが繰り返し上映されていれば、ほかはいらないということになってしまうし。

 とはいえ、『悪の華』には「反社会」を内面化する決定的なプロセスがない。最も肝心な部分は主人公の外側からやってくる。教室で誰とも口を利かない女子生徒がいわば「反社会」の源泉のように描かれ、主人公はそれに染まるだけである。要するに少年マンガにありがちな「女の子は天使」とか、戦闘美少女と同じく、なぜか絶対なものとして描かれるものが、とくにこれといって位置関係を変えることなく男子生徒に影響を及ぼしているだけで、その女性徒が反社会的なパーソナリティになった理由はまったく明らかにされていない(少なくとも第1部では)。これではレールを踏み出したものがひとりいれば、後はつられて踏み外してもオッケーみたいな感覚に思えてくるし、逆にいえば、ひとりも踏み外す者がいなければ誰も踏み外さないということにはならないだろうか。最初のひとりはどうして反社会へと振り切れたのか。それが描かれていなければ、「反社会」を規定できるのはどの部分なのか、あまりにもわかりづらい。

 ヤマシタトモコがいつもとは作風を変えた『ひばりの朝』が、そして、そのアンサーになっていると思えた。同作は3人の女性がそれぞれに社会と距離を感じていくプロセスが克明に描かれ、その気持ちが何度も上塗りされていくという残酷な作品である(全2巻)。彼女たちにつられて、同じように距離を表現する男性はひとりも出てこない(=だから、『悪の華』のようなテロリストは育たない)。男性たちはむしろ、彼女たちに距離を感じさせる原因でしかなく、ある種の男性たちに対する作者の怒りはみしみしと伝わってくる。彼女がここで描いている女性たちの何人かは、キャラクターをそのままにして男性化させれば吉田秋生の描いたアッシュやヒースと、そうは変わらないものになるだろう(……そう、ヤマシタトモコには、近い将来、吉田秋生の後継といえるような作品を生み出すのではないかとドキドキさせてくれるものがある)。『ひばりの朝』が、そして、とんでもないのは、『悪の華』ではひとりだった反社会的な女性のパターンが3倍になっているだけでなく、それらがさらに憎悪やネグレクトとして絡み合い、女性同士が必ずしも連帯しないという構図にもなっていることだろう。「反社会」性は、そして、なんらかの行動として実行されるものではなく、孤独へと跳ね返ってくるだけで、3種3様の諦めや逃避が描かれる。そして、周辺にいる登場人物たちは反社会に染まるどころか、近づくことさえできないものになっていく。

 「息をとめていたので平気でした」
 「人に興味を持たなければ 傷つかず 良心も痛まない」。

 こうなってくると、もはや「アウトサイダー」という立場が成立していたことさえ奇妙なことに思えてくる。三池崇史監督『悪の経典』のように、一切の理由も正義も省かれている方が納得はできてしまうし、じとーッと『ひばりの朝』を読んでいると、一方では、きっと何も変わっていなかったのだろうと思わせるものがあり、それを普遍性と呼ぶならば、そのように呼べること自体が諦念と結びついているとも考えられる。吉田秋生でいえば『吉祥天女』のようでいて、どれだけ映画化されても悲惨な結果しか生まない(のに、懲りずに映画化される)『桜の園』に近い作品ではないだろうか。「社会」という言葉をもっと分解して考えなければ、ここではこれ以上は先に進めない。

 安直に比較してしまったけれど、『悪の華』と『ひばりの朝』は主題も違うし、読者も効果も何も重ならないに違いない。強いていえば、『ひばりの朝』で克明に描かれているようなプロセスが省略されているにもかかわらず、『悪の華』がこれだけの読者を得たということは、理由もなく、反社会的な行動に駆り立てられている人が少なからずいるということにはならないだろうか。それは、もしかすると新自由主義が生み出したアウトサイダーの変貌がタイムリミットを迎えているのかもしれないし、小泉政権以降、組織に組み込まれなかった人たちが増えすぎて、情緒の受け皿が必要になっているということなのだろう。

(参考)

Valerie June - ele-king

 昼休みに行くカフェの大将に「今かかってるやつ、誰の曲ですか?」と思わず質問してしまったのは、昨年のAlt-J以来のことだ。
 「ヴァレリー・ジューンの"You Can't Be Told"」と大将は言った。
 「最初に聞いたとき、タランティーノが『レザボア・ドッグズ』の女性版を撮るとしたら、冒頭シーンで"Little Green Bag"の代わりにこの曲を使って欲しいと思った」と笑いながら。
 こんな曲を歌う女の子は、どんなヴィジュアルをしているんだろう。と想像してみた。男たちのバンドをバックに従えて歌う、ロネッツ風のレトロな装いの女子の姿が浮かんだ。だから、メデューサみたいなドレッドロックの髪でギターを抱えて立っているヴァレリーを見た時には、「お。」と思った。
 彼女はジェイク・バグのご指名を受け、彼のUKツアーのサポートをしている。米国テネシー州の出身ながら、契約しているレーベルはニュー・オーダーやダブ・ピストルズのサンデイ・ベストだ。アイルランドのザ・ストライプスも「ヴァレリー・ジューンにはソウルがある」とツイートしていた。このメンフィス在住のブルーズィーな歌姫には、確かにUK、ジェイク・バグ、ザ・ストライプスといったキーワードで括れる何かがある。

             ***********

 英国では、いまだにポスト・エイミー・ワインハウスみたいなことがよく語られる。
 ダフィーやアデルもその流れで出てきた人たちだったが、アデルがバカ売れしたのは、エイミー効果というより、ダスティー・スプリングフィールド効果だったと思っている。英国に住むまで知らなかったが、ダスティーは国民的ディーヴァであり、いわばイングランドの美空ひばりである(もう一人の国民的歌手であるトム・ジョーンズを見てもわかる通り、英国人は黒っぽいノリで歌える白人が大好きだ)。
 で、ダフィーが第二のダスティーになれなかったのは、彼女に社会的偏見を持たれるエレメントが無かったせいだろう。一方、アデルにはあった。ダスティーがレズビアンであったように、アデルはオーヴァーウェイトという、現代の若人にとっては性的指向よりも深刻な十字架を背負っていた。アデルが痩せていたら、彼女は、平均サイズ14号(日本では15号)の英国の女性たちにあそこまで支持されることはなかっただろう。

 ヴァレリー・ジューンは、太っているわけでもないし、白人でもない。ジェイク・バグやザ・ストライプスのような「恐るべき子供たち」でもない(若く見えるが31歳だ)し、UKの人間ですらない。が、iTuneのUKストアでは、三田格さんが坊主頭問題を論じておられたローラ・マヴーラの『シング・トゥ・ザ・ムーン』と並んで、今年上半期のベスト・アルバム10に入っている。ローラ・マヴーラもポスト・エイミー議論で名前が挙がる人だが、彼女はエイミーから酒やドラッグや男(=セックス)といった夜の部分がすっかり抜けて、エコロジー派でオーガニック志向の学校の先生(実際、彼女は中学校の先生だった)になったような、昼間の明るい光を感じさせる。そしてヴァレリーも、エイミーのような夜の歌手ではない。が、こちらは昼間というより、早朝のひんやりと冷たく厳しい光が似合う。

 マザーになるなんて向いてない
 ワイフになるのもまだ向いてない
 男みたいに働いているからさ
 あたしは一生働いてきたからさ

 テーブルの上にはディナーもない
 冷蔵庫には食べ物も入ってない
 仕事に行くよ 後で帰ってくるから
 仕事に行くよ 帰ってくるって言ってるだろう
 男みたいに働いているんだ
 あたしは一生働いてきたんだ

 犬よ あたしは器量良しの女なんだよ
 犬よ あたしは器量良しの姉ちゃんなんだ
 もしもあんたがあたしに何かをくれるっていうなら
 このバカでかい世界のものを何でもっていうのなら
 犬よ そろそろ出て来てもいいだろう
 金持ちの爺さんが Workin' Woman Blues

 最初に聴いたとき、作詞は林芙美子かと思った。最近、早朝シフトの通勤バスのなかで聴いているのは彼女の歌だ。諦念まみれの静かな気合が入る。
 昔ながらのカントリー&ブルーズの歌詞が、ここではきっちり現代にトランスレイトされている。この楽曲を聴いて共感できるのは地べた労働者の女性だけではなく、ミドルクラスの働く女性たちでもあろう。セレブ歌姫たちが「キャリアも男も子供も、女が全てを手にするのは可能なのよ」という夢を売るこのご時世に、「あたしゃ食うだけで精一杯」と歌うディーヴァなんて、まるで『裸の王様』に出てくる「でも王様、素っ裸じゃん」と指摘する正直な子供みたいで、実に爽快ではないか。

              ******

 バンジョーの弾き手でもある彼女の音楽は、フォーク、ブルーズ、ゴスペル、ソウル、ブルーグラスといった言葉で表現される生粋のレトロ・サウンドだが、本人がそれに夢中になっている風でも、「これが新しいんだよ」とはしゃいでいる風でもなく、実に淡々と、まるで自分の世代の音楽であるかのように平常な体温で演奏しているところが、ジェイク・バグやザ・ストライプスといった人々との共通点だろう。
 彼らの音楽には、レトロというより、ヴィンテージという言葉が似合う。ヤング・ヴィンテージとでも呼ぶべきだろうか。若いくせに、妙に渋く、等身大で成熟しているのだ。
 これは不思議な現象だと思う。

初音ミクの『増殖』 - ele-king


HMOとかの中の人。(PAw Laboratory.) - 増殖気味 X≒MULTIPLIES
U/M/A/A Inc.

初回盤 通常盤


 初音ミクによるYMO『増殖』のカヴァー・アルバム、『増殖気味 X≒MULTIPLIES』が今週リリースされる。プロデューサーは、初音ミクを筆頭としたボーカロイド文化の黎明期から活動し、現在もシーンを支えつづける“HMO とかの中の人。(PAw Laboratory.) ”。2009年に発表された『Hatsune Miku Orchestra 』につづく第2弾ともなる作品であり、前作にましてコンセプチュアルなこだわりと細部への作りこみが徹底されている。そうした点をひとつひとつ照らし出すことで、本作はさらにユニークにかたちを変えるだろう。また双方の「増殖」のニュアンスが持つ興味深い差異についてもあきらかになるはずである。今回は元ネタであるYMO『増殖』との比較をおこないながら、本作のおもしろさ、YMOのおもしろさ、そしてボカロ文化のおもしろさに迫る座談会をお届けしましょう。YMOを知らないあなたにも、初音ミクがわからないあなたにも!


YMOか、スネークマンショーか

小学生でスネークマンショーのファンになったってひとはすごく多いですね。遠足のバスのなかでみんなでかけて聴いたと。(吉村)

――まずはみなさんのYMO体験から、簡単におうかがいしたいと思います。世代的には三田さんと吉村さんがいちばん聴いていらっしゃると思いますが、さやわかさんはいかがですか?

さやわか:僕は小学1年とか2年とか、ほんとに子どもだったんですよね。74年生まれなんですが、音楽を聴いていちばん最初にかっこいいなと思ったのが、YMOとかで。

三田:そうなんだ?

さやわか:そうなんですよ。まあ最初は“ハイスクール・ララバイ”とかを聴いて、「こういうものがあるんだ」っていうのが最初なんですが。

三田:(笑)なるほど~。

さやわか:子供ですからね。その後に“ライディーン”とか聴いて、かっこいいなっていう感じですよね。だから、『増殖』ぐらいになると、もうなんとなく知ってるんですよね。しかもちょっとギャグが入っていておもしろおかしいし、従兄弟の家に行ったら置いてあるくらいのポピュラーなものだったんですよ。とくにこれは、ジャケットもダンボールとかついててかっこいいじゃないですか。おもちゃっぽい、ガジェットっぽいというか。だから子ども心に憧れのある盤ではありましたよ。

三田:久住昌之がつけた歌詞、知ってる?

さやわか:「テ・ク・ノ~、テクノライディ~ン~」(空手バカボン“来るべき世界”の歌詞)じゃなくてですか(笑)?

三田:「僕は~きみが好きなんだよ~」って(笑)。

さやわか:はははは! ともかく、そんな感じですね。YMO初期から中期に行くぐらいの感じの、ちょっとおもしろおかしいんだけれども、とんがっててかっこいいみたいな感じ、ポップさがある感じがすごく好きだったなあ。印象的だった。だんだん大人になってくると中二病的な気持ちで「中期ぐらいがいいよね」みたいなことを言い出すんですけど(笑)。でも、最終的には『増殖』くらいがすごく好きですね。子供の頃の憧れもある、ポップで、おもちゃっぽい感じ。

三田:ポップっていうか、勢いがあるときだよね。

さやわか:まさにそうですね。やりたい放題感があるわけじゃないですか。

三田:僕は高校生だったけど、吉村さんは?

吉村:僕は中学生でしたね。何年か前にスネークマンショーの本を書いて、そのときにすごくリサーチしたんですけれども、小学生でスネークマンショーのファンになったってひとはすごく多いですね。遠足のバスのなかでみんなでかけて聴いたと。

さやわか:懐かしいな。いま思い出しましたよ。2コ上の従兄弟がスネークマンショーのテープをいっぱい録って持っていたんですよね。僕はそこから入っていって、スネークマンショーのオリジナル盤みたいなものもどんどんテープに録って、友だちと貸し借りしました。スネークマンショーがやっぱりおもしろいんですよね。

三田:今回の野尻さん(※)にプレッシャーをかけてるわけですね(笑)。

※野尻抱介。『増殖』オリジナル盤にはスネークマンショーによるコントが数編収録されているが、『増殖気味 X≒MULTIPLIES』では野尻氏の脚本によって2012年現在を反映する内容に書き換えられている。

さやわか:はははは! いやいやでも、今回の野尻さんのやつも、時代性があるというか、よかったじゃないですか、最後のやつとか。

吉村:スネークマンショーのほうは、けっこう校内放送でかけて怒られたとか、そういうエピソードがいっぱいある。

三田:小学校で?

吉村:小学校、中学校で。モノマネもよくやったみたいですよね。たとえばKDD(『増殖』収録のコント)とか英語じゃないですか。小学生だったら意味はわからないんだけど、言葉やセリフのリズムとか声の質とか、すごくおもしろく聞こえちゃうんですね。そういうマジックがあった。

三田:じゃあけっこう共有文化なんだ? クラスメイトの。

吉村:そうですね。YMOよりもスネークマンショーって感じですね。

さやわか:そうなんですね。僕はもう、嘉門達夫とかといっしょに聴いたような気がしますよ。そういうレベルの出来事ですよね、小学生にとっては。

三田:あー、なるほどね。僕は逆に、YMOはダメだったんだよね。ちゃんとそのとき買って聴いたのは『BGM』だけで。流行りものの勢いに負けて、7インチは全部買ってたんだけどね。だからいまだに『テクノデリック』を聴いてない。

一同:(声を揃えて)マジすか!?

三田:そうそう。

さやわか:そんなことがあり得るんですね。

三田:いまだに抵抗があって。なんでかって言うと、先にクラフトワーク聴いてるんだよ。父親がヨーロッパ土産で『トランス・ヨーロッパ・エクスプレス(ヨーロッパ特急)』の7インチ買ってきてくれて。で、その頃に聴いてる音楽ってクリームとかだから、はじめて『トランス・ヨーロッパ・エクスプレス』を聴いて、もう何が起きたかわかんない! っていう衝撃があったわけだよね。何がどうなっちゃったんだろ、と思って。それでその次の年に“ライディーン”を聴くと、「子どもっぽいなー」っていうね(笑)。なんか真剣になれないんだよね。

さやわか:はははは! でもまあ、そうですよね。フュージョン感が。

三田:だけど、『BGM』がよかったんで、もうちょっと聴いてみようかなと思ったときに、『増殖』も知ったんだよね。だからこの作品には愛着があって。

さやわか:あ、そうですか? 『BGM』から戻っていく感じですか?

三田:そうそう。だから“ビハインド・ザ・マスク”を知らなかったのよ、全然。だいぶ経ってから“ビハインド・ザ・マスク”聴いて、いまではいちばんが“ビハインド・ザ・マスク”かな。そんなとこです、僕のYMO体験というのは(笑)。『増殖』はでも、リアルタイムで聴かないと、体験としての差が大きいよね。

さやわか:『増殖』はリアルタイムで?

三田:うん。『増殖』と『BGM』だけはそれなりに愛着があるね。でも、去年だったか、坂本龍一さんがDOMMUNEに出た後の打ち上げで、僕、ポロっと「“タイトゥン・アップ”のなかのセリフで「酒飲め、坂本」ってありましたよね」って言ったら怒られたんだよね。「違うよ!」って。「Suck it to me, Sakamotoって言ってるだろ!」って。30年以上勘違いしてた(笑)。しかし、そんなに怒るかなって(笑)。

さやわか:はははは! でもそうやって空耳するくらいの気軽さでみんなの耳に入ってくるような影響力がありましたよね。

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ふたつの「増殖」

いまの初音ミクって、初音ミクというぼんやりとした中心のようなものに向かって、全員が違うものを作っているってところがおもしろいので、その違いをはっきりと出してるジャケットだなと。(さやわか)


――その『増殖』を初音ミクでカヴァーしたアルバム、『増殖気味 X≒MULTIPLIES 』が今月リリースされるわけですが、ここからは両者を比較しながらお話をうかがっていきたいと思います。アレンジ、プロダクション、コンセプトに加え、楽曲やコント・パート、仕様そのものの再現性についてなど、たくさんの比較ポイントがありますよね。

 また、そもそもYMOが『増殖』をリリースした背景にあるものと、現在の初音ミクを取り巻く風景とを比べながら見えてくるトピックもあるかと思います。初音ミクはちょうど発売から5年が経って、いろいろな意味でかなり一般化された段階を迎えてもいますので、そのあたりもふくめておうかがいしていきましょう。

 まずは、ぱっと気づいた相似点、相違点からご指摘いただけますか?


さやわか:時期的にはおもしろいですよね。YMOが上り調子というか、わっと人目を引きつつおもしろおかしいことをやっていた頃と、初音ミク5周年、それこそファミマなんかで商品が売られるようになったタイミングで、同じものが出るっていうのは。ほかにも5周年ということで初音ミクがらみの企画はありますが、『増殖』のカヴァーというのは、目のつけどころとしていいかもなって思いましたね。

 で、相似というよりもむしろ相違する部分なんですけど、ジャケットの絵がいいですよね(笑)。初音ミクの姿が、全部同じじゃないんです。全部違ってるんですよ。

三田:色校を見たときにジグソーパズルを作ろうって言ったんですよ。

さやわか:うん、それいいじゃないですか。『増殖』のジャケットって、いかにも当時のテクノ的な考え方として、「同じものがいっぱいある」っていう意味を持たされていたじゃないですか。もちろん個々の人形に微々たる違いはあるんだけれども、その違いが微々たるものであるというほうに意味を見出すのは、いかにも当時のテクノ的な考え方に思えますね。ところがいまの初音ミクって、初音ミクというぼんやりとした中心のようなものに向かって、全員が違うものを作っているってところがおもしろいので、その違いをはっきりと出してるジャケットだなと。

三田:『増殖』の意味が違ってたと思って。オリジナルのジャケット・デザインは、当時で言ってた右傾化みたいなムードへの批評性を持ってたと思ったんだけど、今回のは初音ミク自体の増殖性をパラフレーズしてる感じだと思って。まあ、いまのほうがよっぽど右傾化してるんだけど、もうパロディになるレベルの右傾化じゃないから(笑)。そういう違うはあるかなって。

さやわか:そうですね。そういう意味では、その右傾化的なものをさらりと流してしまっているような、なんというか軽やかさがあるわけですよね。

三田:軽やかさ(笑)。

さやわか:だって『増殖』のジャケは、こんなふうな表現で来られるからには、どう考えてもメッセージ性が高いわけじゃないですか。

三田:僕が当時覚えてるのは、年配の人たちに拒否反応があったよね。

さやわか:ああ、そうなんだ。

三田:筑紫哲也なんかが右傾化に対していろいろ言ってたタイミングでもあったから。

さやわか:これ(『増殖気味』)はそういうことじゃなくて、かわいいキャラクターがいろんな表情を取っているっていうことに完全に置き換えているので、そこがおもしろいなと思いました。


ボーカロイドは政治性を嫌うか


やっぱりスネークマンショーのパロディなんだから、もうちょっと強く毒みたいなものを出したほうがいいんじゃないかなという気持ちもある。あの雪山のコントも、もしスネークマンショーがやってたら、津波とかになるんじゃないかな。(吉村)


吉村:いまの話と共通するんですけど、『増殖』のときはコントのギャグに70年代末の世相がすごく反映されてるじゃないですか。今回のは、3.11後のいまの世相っていうのがまったく反映されてない。逆にそれはすごいことだと思って。

 これは自分のなかでまだ解釈が分かれてるんですけれども、そうしたテーマを中途半端に出すよりはいいのかなっていう気持ちと、やっぱりスネークマンショーのパロディなんだから、もうちょっと強く毒みたいなものを出したほうがいいんじゃないかなという気持ちと。あの雪山のコントも、もしスネークマンショーがやってたら、舞台は雪山じゃなかったと思う。

さやわか:何? 戦場とか?

吉村:津波ですよ。津波で取り残された人とかに設定したと思う。

三田:ああー、なるほど。やっぱりそこは意図的に回避されてると?

吉村:そう、ちゃんと考えて避けられているんだというのはわかるんですけど、そのへんが違うな、と思いますね。

三田:なるほどねー。

さやわか:社会性みたいなものをあえて排除してるということですよね。でも、初音ミク自体が政治性とそもそも接続されにくい、スタンスを固定しにくい存在としてあったわけじゃないですか。それに、メインで聴いている層が小・中・高ぐらいのはずなので、いまは彼らにとって政治的なものっていうのが、自分たちの問題として扱われていないんじゃないかということがある。そして、政治に興味がある大人たちにとってみれば、今度は初音ミクが彼らに届いていない。

三田:でも、小説を読むかぎり、このコントを書かれた野尻抱介さんというのは、国家は意識しているし、政治性を感じさせないという作風ではないけどね。僕の印象からすればやや楽観的な国家観ではあると思いますけど、まったくそういうものを排除するわけではない。「一般意志2.0」とか急に出てくるんだけどね。

吉村:たとえ左であれ右であれ、そういう政治性みたいなものを出すとリスナーから拒否されるみたいなことはあると思います?

さやわか:うーん、どうでしょう。

三田:でも、それは巧妙なやり方があるような気もするけど。野尻さん自身はこの『南極点のピアピア動画』(ハヤカワ文庫JA)も『ふわふわの泉』(同)もテーマが増える、増殖するってことだったので、テーマ的にはぴったり合ってるはずなんですよ。でもコントにあんまり反映されてなかったなって。小説のほうと全然キャラが違うんで、あれ? みたいには思った。

吉村:そのあたりをすごく考えてこれになったとは思うんですよ。

さやわか:たぶんそうでしょうね。

三田:やっぱり子どもを意識したのかねえ?

さやわか:そうじゃないんですか。単純に、聴いて楽しいって感じですよね。とくに聴いていて思ったのは、ニコ動(ニコニコ動画)ユーザーのなかでも、どっちかと言うとクリエイターよりちゃんとリスナーに向けて作られているように感じましたけどね。

三田:YMOの『増殖』を聴いたときに思ったけど、やっぱりギャグは一回性のものでさ。何回も聴くものではないよなと感じたんだけど、『増殖気味』のほうは「いいボカロもあれば悪いボカロもある」のネタとかさ、けっこう何回聴いてもおもしろい(笑)。

さやわか:はははは! その違いは何なんですか(笑)?

三田:何なんだろうな(笑)。あれがいちばん好きで、あればっか聴いてる。

さやわか:それは強力なメッセージ性とか、そういうものを持ってないからかもしれない。

三田:なんだろうね。

さやわか:空気系じゃないけれど、ゆるっと、ふわっとして重みがなく、なんとなく聴いて笑っちゃえるみたいな。

三田:『デス・プルーフ』(クエンティン・タランティーノ監督)以降、女のおしゃべりが気になってるからかもしれない。女が集まってしゃべってるのって妙にインパクトがあるよね。『ハッピー・ゴー・ラッキー』(マイク・リー監督)とか、最近だと『東京プレイボーイクラブ』(奥田庸介監督)っていう映画のなかで、風俗嬢がしゃべるシーンにすごい破壊力があるんだけど、ちょっとそれに通じるものを感じちゃって(笑)。

さやわか:キャラソン(キャラクター・ソング)CDにちょっと似たノリがあっておもしろかったですよね。途中に寸劇が入る系の。『増殖』は曲とギャグが交互に入ってますよという構成のアルバムなんだけど、『増殖気味』は、初音ミクを中心としたキャラものだなって思いました。

吉村:そうか、主役がはっきりしてるんですね。

さやわか:そうですね。


オリジナルはいい加減な仕様? 『増殖気味』の楽しい仕様

僕はsupercellのイメージがいまだに強すぎるのかもしれないですけど、初音ミクってロックっぽい曲がかなり多い気がするんですよね。合成音声だからといって、エレクトロニカみたいなものがさほど目立つわけでもないように思うんです。(さやわか)

三田:コントの脚本が野尻さんになったのは、アーティストの意向? じゃあやっぱり『ピアピア動画』(『南極点のピアピア動画』)が大きいのかな。これは明らかに初音ミクをモチーフにしてるし、ニコ動をテーマにしたSFだったから。野尻さんは、ニコ動でも投稿したり、いろいろされてるんだっけか。尻Pだっけ?

さやわか:そうそう。そういう意味でも『増殖気味』は、ニコ動的な文脈もYMO的なものもちゃんとわかって作ってるってことですよね。全体的に凝りようもすごい。そうだ、インナーがちゃんと野球場になってるんですよね(※)。そんな感じでYMOへのいろんなオマージュがある。

※もともとは後楽園球場のジオラマを用いていたが、最終的にはエポック社から初代野球盤を借りて撮影されている。

吉村:(初音ミクが)入りきらないのがいいね。乗りきらない。

さやわか:これはYMOのほうと楽しさが全然違いますよね(笑)。『増殖』のほうは、なんというか強さのある表現としてやっていたんだけど。

三田:たしかにね。ヴィジュアルってすごいなあ。

さやわか:すごいですね。レイアウトも同じなのに。野球盤はいい仕事してますね。

吉村:YMOって、この頃はまだ匿名バンドっていうところがあったと思うんですね。

三田:ああ、なるほど。

吉村:誰が坂本さんで誰が高橋さんですか? みたいなこともあったぐらいで。ようやくこの頃にフジテレビとかの歌番組にはじめて出たぐらいかな。まだ一般的には匿名だったんですね。

さやわか:あ、そうなんだ?

吉村:スネークマンショーをやってるのがYMOの3人と思われてた時代。伊武さんと細野さんの声が似てるのもあるんですけど。

三田:ああ、なるほどね。さすがにそれはなかったな。そう思ってた?

さやわか:それは思ってなかったですね。スネークマンショー単体で、ちゃんと別の活動があるわけじゃないですか。

三田:そっか。小学生でそれを認識してるってすごいね(笑)。

さやわか:ははは(笑)。だからけっこうそれを認識するくらいには、ちゃんと好きだったんですよ(笑)。

吉村:『増殖』って、意外といい加減に作られたもので。「いい加減」って言うとあれだけど、制作に時間がなかった。売れてる間に何かアルバムを出したいけれど、モノはないからどうしようっていうね。このヴィジュアルも、フジカセットの広告をそのまま引用したもので、ポスターをそのまま使ってるんですよね。


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ニューウェイヴ路線への分岐点となった『増殖』

(初音ミク現象の)全体像なんてわからないでしょうね。中心もないし。そういうところのおもしろさではある。(三田)


吉村:あと、スネークマンショーのほうから、ニューウェーヴに寄せてくれという要望があった。 フュージョンじゃなくてね。それはかなり大きいですね。

三田:ああ、そうなんだ?

吉村:スネークマンショーのプロデューサーの桑原茂一さんも、それがうまくハマったんだっておっしゃってましたね。(高橋)幸宏さんが仲良くて、その頃ずっとスカとかの話をしてたんだと思います。YMOサイドからアルバムにコントを収録したいって話が来たときに、最初はイヤだったそうなんですよ。やっぱりちょっと、フュージョンのイメージが強くて。

三田:僕と同じでちょっとイヤだったんだ(笑)。ていうか、『BGM』は完全にニューロマンティックスになっちゃうじゃない? あのニューウェーヴ路線は、そのときのスネークマンショーのおかげで導かれたってことなんだ?

吉村:そうそう。それとヨーロッパ・ツアーをやったっていうのもありますね。スティーヴ・ストレンジ(ヴィサージ)のクラブに行ったりとか。

三田:ミック・ジャガーが入り口で追い返されたクラブですね。オールド・ウェイヴは帰れと。

さやわか:じゃあ初期の頃は、電子音楽でありつつも、あくまでフュージョン感のあるものをやるっていう部分にこだわりがあったんですかね?

吉村:いや、初期は引っ張られたんだと思いますよ。やっぱり時代はフュージョンの時代で。〈アルファ〉はフュージョンの会社みたいな位置づけもあったから、そこで何かやるってなったときに、YMO直前に幸宏さんもサディスティックス、教授もKYLYNをやっていたわけだし。

さやわか:なるほど。

吉村:『増殖』を出す前の秋にヨーロッパ・ツアーに行ってますね。これは有名な話ですけれど、ロンドンのヴェニューでYMOがライヴをやったら若いパンクスのカップルが踊りだして、教授も「俺たちかっこいいかもしれない」と思ったという。それがでかいと思います。ニューウェーヴに行く上で。

三田:それは聞いたことがあるかもしれない。パンクスが踊るんだ? 僕はこの頃、新宿のギリシャ館に通ってたけど、YMOがかかると全員同じフリでステップを踏むんですよね。こういう......いまだに覚えらんないけど。

さやわか:はははは!

三田:僕は高校生でね、大人のお兄ちゃんお姉ちゃんたちがやってるのがほんとに覚えられなくて。やったことある? YMOさえかからなければ自由に踊れるのに、YMOがかかるとつまはじきだったのよ(笑)。

一同:

吉村:でもブラック・ミュージック系だといまもそんな感じじゃないですか? ソウルとか。

三田:いや、ステップっていうか、振り付けがかっちり決まってるんですよ。僕のあの当時のカルチャーの印象から言うと、ピンクレディーといっしょ。同じ振りをみんなでしなきゃいけないっていう。

さやわか:ああー。でもディスコ文化ってけっこう同じ振りやってる印象ありますけどね。

吉村:もうオタ芸みたいな感じ?

三田:いや逆に、その頃は振りから解放された時代でもあったんですよ。前の流れとしてチッキンとかブギがあって、次にバンプってのが来た。74~5年はそういうリズムでしたね。で、その次にパンクが来て、自由に踊れるぞって思ってたらYMOのせいで全員同じ動きになっちゃって、「ちょっと待ってくださいよ」っていうところがあって(笑)。いまだにトラウマだもん。

吉村:たまたまそのディスコがそうだったんじゃないの(笑)?

三田:いやいや、僕それが、YouTubeとかで上がらないかなと思って(笑)。結局覚えられなかったからさ。そしたら3、4年前に何かの雑誌で、そのフリを全部解説するっていう記事が載ってたことがあった。

吉村:タケノコ族から流れてきたんじゃない?

三田:あのね、そう、フリは完全にタケノコ族といっしょでした。でも、実際のタケノコも見に行ったけど、やっぱりそれよりはもっとメカニックなものなんだよね。あのときほら、ドナ・サマーってさ、いちばんの衝撃は音楽じゃなくてロボット・ダンスだって言われたんだよね。当時ワイドショーとかでも、例の“アイ・フィール・ラヴ”がかかったときに、とにかく視聴者がいちばん驚くのはあのロボットのようなダンスだっていう報道なんかがあったわけよ。そのあたりにちょっとリンクしてるYMOの動きだったと思うんだけど。......すんごい瑣末な話(笑)。

一同:

X氏:YMOも初音ミクも、海外公演で大きな注目を集めるほどの社会現象を引き起こしたという点には共通したものがありますよね。でも音楽以外の部分に焦点を当てた評価であることも多いため、たとえばYMOは世間の反応やレコード会社に対して反抗していくことにもなります。『増殖』やその後の作品には、そうした傾向がより如実にでてきます。タイトルや楽曲の方向性などを見れば明らかですよね。海外から帰ってきてみれば、それまでは思いがけなかったような、そうした状況に直面することになってしまった。その点は、初音ミクの開発者として知られる佐々木さんの状況とも平行しているように思うんです。初音ミクというものが、ご本人が想定した以上の規模や、方向性に転んでいったというところ。僕はそのへんを重ねて見てしまうんですよね。


打ち込みのイメージにズレをもたらすプロデュース

初音ミクが出てきてほんの1~2年の頃って、もはや作家性みたいなものはなくなっていくんだ、キャラクター文化こそ最強、みたいなことがけっこう言われていたと思うんですね。でも最近は、初音ミクみたいなものが、じつは創作のプラットフォームとなりつつあるというか、結局は個々のクリエイター、プロデューサーの姿が見えてくるようになった。(さやわか)

――さらに『増殖気味』のほうの音についてもおうかがいしましょう。または、楽曲の再現性・非再現性において、何か企んだ部分があるなと思われたところを教えてください。

さやわか:ぱっと聴いて最初に思ったのは、「やけにギターの音が鳴ってるな」ってことなんですけど(笑)。

三田:ロックっぽいよね。

さやわか:そうなんですよ。で、僕はsupercellのイメージがいまだに強すぎるのかもしれないですけど、初音ミクってロックっぽい曲がかなり多い気がするんですよね。合成音声だからといって、エレクトロニカみたいなものがさほど目立つわけでもないように思うんです。

三田:それは年齢層の問題なんじゃないの?

さやわか:そうなんですかね? そっか、そういうこともあるかもしれない。でも、それと同じようにこのアルバムも、1曲目からきちんとギターを立てて、タテノリ感もきっちり来るような音楽にしているんだなとは感じました。

三田:1曲目はRCサクセションの“よォーこそ”みたいに感じたけどね。それは僕にそう聴こえるだけなのか、狙ったのか、ちょっと訊いてみないとわからないけど。

さやわか:なるほど。

吉村:打ち込みくささをあえて消してるのはすごく感じましたね。

三田:消してるところまで行ってますか?

吉村:僕は消してると思うな。このアルバムを作ったHMO とかの中の人。(PAw Laboratory.) の好きなYMOっていうのは、たぶんもっと打ち込み打ち込みしたYMOでしょう?

さやわか:たぶんそうですよね。

吉村:それをあえて消してるなって感じですよね。で、そっちのほうがいまの時代に合ってる気がする。

三田:華やかだしね、アレンジも。

さやわか:かといって人が歌う、単純にパンクなりロックのアルバムとして『増殖』のカヴァー・アルバムを出すわけじゃなく、あくまで声は初音ミクであって人間じゃない、っていうところがいまっぽいなと思いながら聴きましたね。

三田:2作の差ってことだと、僕はほとんど違和感がなかったな。自分の記憶のなかの『増殖』だという気がしたね。

さやわか:ああ、そうです? 『増殖』ってこんな感じだったんですか。

三田:なんか、あんま変えてないようなふうに聴けた。

吉村:歌詞は変えてないの? “ナイス・エイジ”とか。

――変えていないとのことです。“タイトゥン・アップ”の一部だけ変わっているそうです。

吉村:それは聴き取れなかったな。あと、『増殖』には入っていない“デイ・トリッパー”と“体操”が収録されている。まあ、“体操”はボーナス・トラックか。そういえば、マイケル・ジャクソンの遺作アルバムにYMOのカヴァーが入ったりしておもしろかったですけどね。ああいうブラック・ミュージックに行ったりするような可能性は、まだこの頃のYMOにはあった。

三田:“ビハインド・ザ・マスク”を『スリラー』に入れようとしたけど、曲の権利も売れといってきたので、坂本さんが断ったやつですね。

吉村:そうそう。あとはアメリカの音楽番組『ソウル・トレイン』に出演したりとか。繰り返しになるけど、そういう、ニューウェーヴ路線へ向かうことになった分岐点にあるのがこのアルバムだから。

初音ミクV3をいちはやく! (※現在開発中の、Vocaloid3エンジンを使った初音ミク英語版βバージョン)


ふつうのアニメなんかを題材に二次創作が広がるときって、エロ・グロ・ナンセンスが爆発するじゃない? 遡るべき一次創作があるときに、二次創作というのは無制限の領域を得るけど、初音ミクみたいな二次創作しかないものっていうのは、逆に爆発できないわけだ?(三田)


さやわか:なるほど。あと、さっきの生っぽい音、という話で思い出したんですけど、この作品で使われてる初音ミクの声が、ボーカロイドのヴァージョン3のライブラリなんですよ。

三田:......? 詳しいな。

さやわか:これがけっこう大事なことなんです。ボーカロイド3(現在開発中の、Vocaloid3エンジンを使った初音ミク英語版βバージョン)の初音ミクを使ったCDが出るのって、ほとんど初めてじゃないですか? いままではみんなヴァージョン2のものを使っていて、「初音ミクの声」と言えばあれだという共通了解があります。でも、最近ボーカロイド自体がヴァージョン・アップして、すごく人間に近いものが作れるようになったんですよ。このアルバムではそのヴァージョン3用に作られた初音ミクの声を使ってるので、かなり生で歌っているように聴こえるんですよね。みんなが知ってる、あのケロケロした初音ミクの声じゃない。藤田(咲)さんもこのアルバムには参加してますけど、一瞬どっちの声かわからなくなるくらいのクオリティを感じさせますね。ヴァージョン3用の初音ミク発売って、未定ですか? まだ世に出てないよね?

三田:へえー。じゃ、これしかないの? その新しい初音ミクとしては。

――商業で用いられているのはこれしかないそうです。担当の方によりますと、ファミリーマートでのキャンペーンの際に“ナイス・エイジ”のシングルを切って、それをユーチューブに上げたところ、海外でちょっとした論争が起こったともいいます。まず、「ミクの英語版ができたのか」という反応。それから、「でもこの発音はどうなの?」という反応。で、それに応えて「いや、これは日本のタカハシユキヒロという人の発音のモノマネをしてるんだ。だからこれで問題ない」というYMOマニアの見解。

さやわか:あははは! ソフトウェア的な限界なのか、YMOの真似をしているからこうなってるのか、という論争なんだ? それはね、でも、思った! というか、やっぱりモノマネなんだ。日本人がたどたどしく英語で歌いました感を、きっちり演出しようということなのか。

三田:そっか。30年たっても日本人の英語は変わらんということなのね(笑)。

さやわか:はははは!

吉村:自民党が悪いって橋下が言うよ。

一同:


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中心なき増殖、ボカロ文化のおもしろさ

ドロドロした表現が社会性に向かわないっていうのは、空気でしょうね。この文化を支えている人たちの。まあ、将来はわかんないですけど。(吉村)

さやわか:初音ミクって、海外の人気もすごくありますね。ただ、海外での受け入れられ方っていうのは、初音ミクを固有のキャラクターとして見るようなところがあります。

三田:ニコ動(ニコニコ動画)で観ておもしろかったんだけど、日本の子どもが初音ミクで騒いでいる映像を、世界中の子どもにみせるっていう動画。世界中の子どもが拒否反応を起こしてるんだよね。実体のないものに夢中になっている意味がわからなくて、ブラジルの子とか韓国の子とかがほんとに引いてるわけ。僕はそれまであんまり初音ミクに興味がなかったんだけど、あれを観たときに、おもしろいのかも! って思ったんだよね。考えが変わりましたよ。

さやわか:いいですねー。海外という話で思い出しましたけど、海外のファンの人たちって、いまだに初音ミクをあるひとつのアニメのキャラのように勘違いして捉えていることが多いんですよ。日本ではいまやこの『増殖気味』のジャケットが象徴するように、中心の存在しないものとして捉えられ、楽しまれていますよね。ライヴとかでも、「本体の存在しないものをセガの技術がいかに動かすか」みたいなことを醍醐味として楽しむ傾向がある。存在しないけど、でも、みんなでがんばって盛り上げる。そういう構造ですよね。

三田:で、盛り上げれば盛り上げるほど世界の子どもたちが引くんですよ(笑)。

さやわか:「存在しないものをなぜ盛り上げているの?」と思ってしまうんでしょうね。アイドルにも近いところがあります。アーティストとして圧倒的な価値のない、発展途中にあるものを、どうして全力を注いで盛り上げようとするのか。

吉村:テクノの方面ではどうなんですか? 初音ミクを使用したりするのは。

三田:ミクトロニカとかミクゲイザーとかはあるらしいですけどね。でも浮上してこない。

さやわか:音楽的には何をやってもいい世界になっているからいろんな人がいるし、年齢層も幅広い。間口が広いというか、懐が深いというか。

三田:全体像なんてわからないでしょうね。中心もないし。そういうところのおもしろさではある。

さやわか:そう。 そのあたりの感覚が、このアルバムのジャケットなり、そもそも『増殖』を選んでカヴァーすることなりにきちんと表れていて、とても批評性があると思った。おもしろいですよね。

三田:うんうん。それで言えば、前作から『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を飛ばしてこのジャケットにきたのは、ハマりだなと思った。

吉村:うん。ぴったりきてますよね。

さやわか:たぶん作品としては、元ネタのYMOの『増殖』を知っていて、YMOをどういうふうに昇華してるのかな? という玄人筋が買っていくものだと思うんですよ。でも、この描かれているイラストとか、ねんぷち(ねんどろいどぷち)とかに惹かれて買って、「かわいいなー」って思っているだけの人、元ネタがあるだなんてことに気づかずに聴くような人もいていい。ボーカロイドはそのぐらい広い文化になっているとも思うんですね。大人は「いやー、YMO聴いてくれてうれしいよ」とか思ってるかもしれないけど、子どもはとくにそんなこと気にしてない。

三田:姪がふたりいるんだけど、反応がみごとに逆なんですよ。妹は元ネタを教えてあげるとそれに関心を持つ。だけどお姉さんは元ネタがあるということについて目をふさぐんだよね。

さやわか:ああー、嫌がる?

三田:無視する。ふたりとも初音ミクが大好きだから、ご飯食べててネギを残したりしたときに「それでも初音ミクのファンか」って言うと、食べる。

さやわか:いいねー! いい話じゃないですか。

三田:そのぐらい好きなんだけど、......なにを言おうと思ったか忘れた(笑)。まー、この作品の反応は知りたいよね。

さやわか:元ネタを気にする人もいれば、気にしない人もいる。そのふたつともが許容されるぐらいの世界にはなっていますよね。

吉村:非常に正しいですよ。このオリジナルの『増殖』にしたって、当時買ってた人の90パーセントは、流行だから買ったというだけで。YMOだから買うとか、彼らが好きだから買うというのはまだない時期です。それがないからこそヒットしていたというか。

三田:アーチー・ベルのカヴァーだ! って言って買ってる人はいない。

吉村:ははは。そう。

さやわか:うん、それでいいんだと思うんですよ。

ボカロ文化における作家性の問題

今年くらいからなのかな、(初音ミク関連の)市場が本当に大きくなって、YMOとか関係なく、ただ素朴にブックレットについてるマンガを読んで「かわいー」って言ってるだけの人も普通にいられるような広さを得ましたね。(さやわか)


――初音ミクを通して、いち作家としての強い個を出してくるようなタイプのプロデューサーさんというのはいないんでしょうか? 先ほどからのお話は、絶えざる集合知的なプロデュースと、絶えざるその淘汰によって初音ミク像とその作品が成立している、というふうに集約できると思います。そのとき、本作のクレジットに「HMOとかの中の人。」と記載されることにはどのような意味があるのか。これは彼のアルバムなのか、初音ミクのアルバムなのか。そして、初音ミクを用いながら強い個を打ち出してくる作家というのはいるのか。音楽批評誌の興味として、その点についてお聞かせいただければと思います。

三田:うーん、それは作品との距離感によっても変わってくると思うな。このアルバムは、僕は初音ミクのアルバムとして聴けるけど、たとえばアレンジの方法なんかにもっと入り込んでいくというようなかたちで、この人の作家性に寄っていくリスナーはいると思う。この作家がミクを離れたときに、それでもついていくファンがいるかどうかというところはそれぞれの作家によりますよね。

さやわか:初音ミクが出てきてほんの1~2年の頃って、もはや作家性みたいなものはなくなっていくんだ、キャラクター文化こそ最強、みたいなことがけっこう言われていたと思うんですね。これからはみんながキャラクターに奉仕して、ひとりひとりの作家ではなくて、集合知的なものだけが機能していくんだと。でも最近は、初音ミクみたいなものが、じつは創作のプラットフォームとなりつつあるというか、結局は個々のクリエイター、プロデューサーの姿が見えてくるようになった。
 以前、ぽわぽわPさんのインタヴューか何かを読んだときに、彼が「初音ミクやボカロ文化のおかげで僕らにも注目が集まってる」って言ってたんですよね。それってもう、考え方が変わってますよね。以前は、「僕らはもう要らないんだ」「キャラがかわいく存在できてればそれでいいよね」って世界になるという話だったのが、そうじゃなくなってきてる。たぶん、初音ミクを一次創作的なキャラクターだと思っている海外の人とか、まだ初音ミクがどういうものかわかっていない日本人は、そのことに気づいてないと思いますね。もちろん初音ミク自体もかわいいし、単体で力のあるキャラクターなんだけど、その後ろからちゃんと人間が出てこれるようなシステムになってきてはいるんだと思う。これは言ってみればニコ動全体がそうで、たとえばヒャダインとかも完全にいまは固有名として出てきていますよね。

三田:そうなると、僕はよくは知らないからわかんないけど、強く自分を出しすぎて嫌われる人っていうのもいたりするの?

さやわか:それはもちろん、いますね。普通のプロデューサーといっしょで、我が強すぎてよくない、みたいなことはあるんですよ。

三田:それは作品の出来、不出来ではなくて、自分を出しすぎるという点への批判なの?

さやわか:両方ですかね。やっぱり、初音ミクをこういうふうに使わないほうがいいよねって部分はあるわけじゃないですか。

三田:たとえばどういう使い方がだめなの?

吉村:これは規約だけど、エロとか。あと下品なものとかは許容されないよね。

三田:じゃあ、たとえば『けいおん!』でもなんでも、ふつうのアニメなんかを題材に二次創作が広がるときって、エロ・グロ・ナンセンスが爆発するじゃない? 遡るべき一次創作があるときに、二次創作というのは無制限の領域を得るけど、初音ミクみたいな二次創作しかないものっていうのは、逆に爆発できないわけだ?

吉村:本物がないからこそ、心のなかで規制されるというかね。『けいおん!』なら本物の『けいおん!』があるものね。

三田:そうそう。

さやわか:初音ミクはそもそものストーリーがないので、エロみたいな要素が成り立ちにくいっていうのもありますね。そういう絵を描いている人もいるんだけど、ピンナップ的なものになっちゃうんですよ。

三田:初音ミクの一生を考える人も出てくるでしょうね。

さやわか:それもまたひとつの物語のパターンとして回収されるんでしょうね。“初音ミクの消失”とかってそういう曲じゃないですか。

三田:この『増殖気味』をさ、でも初音ミクの名義で出すことはできないんだよね?

さやわか:それは......どうなんだろう、うまいこと話を通せば可能なんじゃないかなあ。『初音ミクの消失』とかもミクという名前とイラストを使って発売されていたし。

吉村:新興宗教が使ってたりしないのかな? そういうの、出てくると思うんだけど。

さやわか:ははは! もし昔に初音ミクがあったら「しょーこーしょーこー」とか歌わせるのが、あったかもしれないですね。

三田:ははは、いまは全然そういうふうな発想が浮かばなかったけど、でも時期が少し前だったらそう思ったかもねー。

さやわか:うん。でも、いまはそういう政治的なものや社会性みたいなものは排除されているわけですね。

三田:じゃあ、ほんとに、ちょっと言葉は悪いけど消毒されちゃってるんだね。

さやわか:このジャケットにしても、「ちっちゃいものがいっぱいあってかわいい」とだけ感じられる世代がいるんなら、よかったねって話でもありますけどね。

吉村:サエキけんぞうさんが、ゲルニカのカヴァーをやったりしているじゃないですか。ああいうドロドロしたものを初音ミクに歌わせるってなると、どうなりますかね。

さやわか:初音ミクでドロドロっていうと、それこそ中二病というか、切ない青春の痛み、あるいはリストカッター的なモチーフを歌ったやつがあるんじゃないですか?

三田:そんなの、ボカロだったらいっぱいあるよね。

さやわか:そう、そういうドロドロ感は多いですよね。そこでプロテストソングをやろうということにもならないし。

三田:そこはわからないな。姪なんかのボカロの消費の仕方を見ていると、やっぱり物語消費なんだよね。

さやわか:ボカロの歌詞ってどんどん物語化してるわけじゃないですか。

三田:それで小説も書いたりするわけでしょ。と考えると、いま言ってたようなドロドロの限界ってないと思うな。

さやわか:なるほどね。

吉村:ドロドロが社会性に向かわないっていうのは、空気でしょうね。この文化を支えている人たちの。まあ、将来はわかんないですけど。

三田:サッカーのサポーターみたいなものということ?

さやわか:ああ、似てるかもしれないですね。

三田:また言葉が悪くなってしまうけど、どこかきれいごとなところがあるじゃない。

さやわか:アイドル文化にも似てるかもしれないですね。「俺らの支えている初音ミクをうまいこと使えよ」という漠然とした空気があって、その基準がどこかにあるわけじゃないけれど、やろうと思ったことのなかで最大公約数的なところを押さえないといけない。うまいこと使わなかったらファンから「俺だったらもっとうまくやれるよ」って言われて嫌われる。(笑)。ただ、重要なのは、その「俺だったら」というのが本当にできてしまう。それはアイドルにはできない、ボカロ文化ですよね。

吉村:非常にいいツールですよね。すばらしいと思う。

さやわか:観客だったはずの人が、いつのまにか作り手に反転してしまう。それが一瞬で起こりますから。

吉村:今回だったら『増殖』のカバーをやるという選択。 何を歌わせるかというところに個が宿るわけじゃないですか。

さやわか:初音ミクで『増殖』やったらいんじゃね? みたいな話から、じゃあこういうパッケージでやって、こういう見せ方をして、さあ受け入れられるかみたいに、作品が生み出されて評価されるための連想がさっと広がっていきやすい。もちろん、だからこそ評価される作品を作るのはとても苦労すると思いますけど。

吉村:かなり難しいことですよね。アイディアはすぐに浮かぶけど。実際にそれをいいものにするのはものすごく大変なことで。

さやわか:それこそ今回の野尻さんのように、政治性を入れるか入れないかとか、微妙なポイントを突いていかなければならないことになりますよね。

三田:でも、次がないよね、HMO.......。

一同:


三田:“体操”やっちゃったし、“胸キュン”(“君に、胸キュン”)やっちゃったし。『B-2ユニット』かな。

吉村:歌がないよ。

三田:ああ、そうか。戦メリ(“戦場のメリー・クリスマス”)とかできないのかなー(笑)。あれならデヴィッド・シルヴィアンが歌うヴァージョンがあるからさ。

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コント、芸人、アニメ声優

姪なんかのボカロの消費の仕方を見ていると、やっぱり物語消費なんだよね。(三田)

吉村:そうだ、YMOファンにこれ言っとかなきゃね。『増殖』でギターを弾かれた大村憲司さんの息子さんが、この作品のギター弾いてるんだよ(大村真司)。安室奈美恵や土屋アンナとかのサポート・ギターをやってる人なんだけど、MIDNIGHTSUNSっていうバンドでも活動していて。お父さんの曲"Maps"のカバーとかだと、高橋幸宏がドラム&ヴォーカルで参加してるヴァージョンもあったりするんですよね。

三田:さっきからみんなギターって言ってるのは、それなんだ。

吉村:そう。あとは曲だけじゃなくて、ちゃんとコントが入っているのもいい。『増殖』をカヴァーしようというのは、度胸がありますよ。お笑いのバナナマンっていうのは、スネークマンショーが好きだからつけたコンビ名だっていうのを聞いたことがありますけど、それ自体もすごく度胸のいる命名だと思うんですよね。

三田:そうなんだ、「雨上がり決死隊」はRC(サクセション)だしね、お笑いにはニューウェーヴ文化が投影されてるんだね。

さやわか:この次はあれですよ、スーパー・エキセントリック・シアターにいくっていう方向もありますよ。お笑い要素をもっと強めていく(笑)。

三田:そっちに行くか。

――『増殖』におけるコント/芸人さんという軸にアニメ声優さんを対置させているわけですが、このあたりはどうでしょう?

三田:いや、うまいとしか言えない。詳しくないし。

さやわか:いや、うまいですよね。

吉村:テクニカルな問題としても、この男の声優さんもめちゃくちゃうまいし、伊武さんぽい。

さやわか:伊武さんぽい(笑)。それいいですね。しかし声優さんのレベルが高くなりつづけていますよね、昨今は。声優さんはいまや水樹奈々なんかでもそうですが、オリコンで1位を獲っちゃうわけですからね。そのへんのアイドルっ子とかより技量があったりするし、演技はうまいし、かわいかったりもするし、すごいですよね。

三田:さっき言った姪っ子たちも、ボカロの元ネタに興味を持つ子のほうは仮想現実系なんだけど、興味持たない子のほうは声優追っかけなの。

さやわか:ああー、リアルを追ってるわけですね。

三田:二次元だけでいいとは言うんだけどね。小学生の頃からAKBとかバカにしてて。

吉村:そういうYMO知らない人に聴いてみてほしいよね。その感想をききたい。

三田:その可能性はある作品ですよね。

さやわか:うん、いまそういうふうに動いているマーケットなので、そこがいいですよね。


橋下が初音ミクを好きかどうか問題

オリジナルの『増殖』が持っていた右傾化への批評という点について言えば、いまの文化というか、安倍政権的なものが持っているニュアンスに対して、こういう相対的な文化の楽しみ方がカウンターになっていってほしいかなとは思う。(三田)

安倍とか橋下とか石原とか経団連の米倉とか、初音ミクを嫌いだと思うんだ。本能的に嫌悪しそう。だからさ、あいつらの嫌いなことをやれば正しいんだ。(吉村)


さやわか:僕、初音ミクもので80年代とかのカヴァー・アルバムを作ること、あるいはおっさん世代がかつて好きだったような曲を初音ミクにやらせて、「いやー、これを初音ミクがやるなんて!」って言って盛り上がることなんかが、以前はあんまり好きではなかったんですよね。上から押しつける感というか、若い世代に対して「俺たちの与える豊かな音楽をお前ら聴けよ。初音ミクとか言ってるけど、これこそが音楽だよ!」みたいな意図も感じるので。でも、今年くらいからなのかな、市場が本当に大きくなって、そういうあり方が成立しなくなったと思うんですよ。YMOとか関係なくて、ただ素朴にブックレットについてるマンガを読んで「かわいー」って言ってるだけの人も普通にいられるような広さを得ましたね。まあ、薄まったというか、拡散したというか。

三田:それこそ正しい『VOW』の道ですよ。

さやわか:ああ、そうそう! それでいいと思うんですよ。『VOW』だけ読んでた人はべつに『宝島』という雑誌にどんな意味があったかなんて考えないわけで。その自由さがいいですね。一方で、うるさいおっさんもちゃんと包摂されるというか、排除されないところもいいなと思います。

吉村:どこまで遡るのかな。ニューウェーヴ、70年代歌謡とかまではあるとして、演歌とかあるのかな。

三田:演歌なんてありそうだけどね。

さやわか:あるでしょう。ニコ動にいけば、思いつくものは何でもあるという気がします。インターネットそのものくらいの感覚で「何でもある感」がありますね。初音ミクのあり方自体が、とりあえず音楽的には何をやってもいいというふうに許してくれているので。ただ、そのことによってエッジーな音楽表現が相対化されるようなところもあります。端的に言えばパンクとかメタルとかやってる人もいますけど、様式美が印象づけられるだけで、シリアスな攻撃性とか強度は全然ないんですよね。なくていいというか。

三田:まあ、僕は『けいおん!』の“4分33秒”(ジョン・ケージ)を観たときに、もう次は何もない! と思ったけどね。

さやわか:あはははは!

三田:あれは......じーっと聴いちゃったよー(笑)。

さやわか:そういうものも許されるけど、全部が相対化されたマップの上に置かれるから、体制的でない音楽をやりたい人たちにとってはやりにくい場所だと思うけど、その状況を楽しめる人にとってはいい。

三田:オリジナルの『増殖』が持っていた右傾化への批評という点について言えば、いまの文化というか、安倍政権的なものが持っているニュアンスに対して、こういう相対的な文化の楽しみ方がカウンターになっていってほしいかなとは思う。

さやわか:いや、ほんとそうですよね。僕も今日はそう思いましたよ。カウンターとして立つならそこしかあり得ないというか。

吉村:安倍とか橋下とか石原とか経団連の米倉とか、初音ミクを嫌いだと思うんだ。本能的に嫌悪しそう。だからさ、あいつらの嫌いなことをやれば正しいんだ。

さやわか:あははは!

三田:橋下はわかんないけどね。あの人のマネジメント・ポリティクスみたいなもので言うと、外貨を稼げそうなものは応援するような気もするけど。

さやわか:橋下が初音ミクを好きかどうか問題(笑)。

三田:いや、侮れないよ橋下は(笑)。でもそういう色気を見せる政治家が出てこないのは不思議だよね。ロンドン・オリンピックでさ、ダニー・ボイルがイギリスの労働者階級のカルチャーを引っぱってきてすごく評価されたわけでしょ。だけど、石原慎太郎がこれまでやってきたことを鑑みたときに、東京オリンピックで何ができるかと考えると、まずサブ・カルチャーは全部そっぽを向くよね。いったいどこのどんなアニメが彼に協力してやるんだって話ですよ。結果ものすごく伝統を強調したオリンピックになるでしょうね。ロンドンの真逆になるのは必定。そういうときに、どうしてこういうものを味方につけたほうが有利だって考える人がいないんだろうって、不思議なんだよね。麻生とか、まー、いたけど。

さやわか:それはね、実はまさに今日ここに来る前に歩きながら考えてたことなんですよ。単純に言えば、そうしたサブカルを支持する層の人たちが投票に行かないから、味方になる必要を感じないんだろうなって思います。ネットを見てても「若者が投票に行かないと、未来は大変なことになるよ」とは書いてあるわけじゃないですか。いま若者と呼べる人間の割合っていうのは日本の総人口のなかで30パーセント以下で、さらにそのなかの半数以下しか投票に行かないとなれば、もうマイノリティとして黙殺されることになりますよ、とか書いてある。あるいは投票者の平均年齢が50代半ばの人たちだから、その人たちに有利な社会になっちゃいますよ、みたいなね。
 でもこれからさらに高齢化が進んでいくんだったら、いちいち若者のためを考えずに世界が作られていってしまうのは当然だとも思うんですよ。もちろん、それはいいことじゃないんですが。そして考えたくないですが、いま若者に味方をしようとしているサブカル側の人も、もしかして年をとれば、自分たちより若い世代の人たちやそのカルチャーを軽視して、圧迫ようとするかもしれない。


メディアとしての初音ミク

初音ミクには、音楽を運んでくる運び屋みたいな側面があるわけですよね。「音楽を聴きたい」と思ったときに、とりあえず初音ミク関連のものならネット上にたくさんある。ニコニコ動画とかに行けば、それが人気順で出てきたりもする。(さやわか)


――一方で、在野のプロデューサーさんたちの音楽的な力量が、かなりハイ・クオリティな完成度を見せつつあるなかで、ふつうのJポップのようにボカロ作品が機能しはじめてもいると思うんですが、ポップスとして見たときにいかがですか?

さやわか:三田さんはどうですか? そもそもJポップとしてこういうものを聴いたりするんですか?

三田:うーん、聴くっちゃ聴くけど(笑)。姪の観てる横で、「ふーん」って。

さやわか:ははは。そうか、じゃあ音楽として評価するというところまでは全然いかないわけですね?

三田:モノサシがいっぱいあるからね。消費の仕方も一種類じゃないからなあ。

さやわか:今年なんかだと、ジョイサウンドのチャートの3位とかが初音ミクだったりするわけで。タダだからっていう事情もあるとは思いますけど、若い人のなかだとふつうのポップ・アーティストみたいな存在にもなってるわけですよね。初音ミクはキャラクターに過ぎないわけだからそれはおかしな話だと思うかも知れないけど、じつは言ってみれば音楽を運んでくる運び屋みたいな側面があるわけですよね。「音楽を聴きたい」と思ったときに、とりあえず初音ミク関連のものならネット上にたくさんある。ニコニコ動画とかに行けば、それが人気順で出てきたりもする。

三田:まあ、メディアってことだよね。初音ミク自体が。

さやわか:そうですね。まさに。

吉村:昔だったらJ-WAVEをかけとくところが、いまは初音ミクを追っていればなんとなくいまの音楽もわかるし、それぞれポップだし、仕事もはかどるし。

三田:ラジオとして使っていると。

吉村:ラジオであり、テレビであり。

三田:なんか、アンディ・ウォーホルの感想とかきいてみたいよね(笑)。でも、それは一方では閉じた部分でもあって、そこから出ていくことも大事だとは思うけどね。

さやわか:そう、だからカヴァー・アルバムをやるのは、そのための意味があるのかなと思いますね。言ってみれば、『増殖』というアルバムが、ここで再発見されてるわけじゃないですか。僕らには当然のものでも、いまの人や、僕らとは違っていた人々にとってみれば、こういう作品があったのかと知るきっかけになる。

吉村:そういえば、初音ミクって、まだWindows専用なんですか? 僕はWindows専用だってところがよかったんじゃないかなと思ったんですよね。最初からMacがあったら、もっとみんな小洒落たものを作ろうとして失敗したと思うんですよね。

一同:ああー(笑)。

さやわか:クリエイター志向なね(笑)。それはそうですよね。最近のニコ動的な環境を支えている人たちって、MacよりはWindows的な......なんだろう、大衆性があるというか。絵を描くのに使ってるソフトとかも、サイ(SAI)とかね。

吉村:なんか、Macユーザーだと、(スティーヴ・)ライヒのカヴァーとかさ。

一同:

三田:マリア・カラスを歌うとか。

さやわか:あははは!

吉村:自己満足で終わってしまうというか。

さやわか:昔から音楽創作系のコミュニティってネット上で何度も作られているんだけど、なぜそれがうまくいかないかというと、作り手の自己満足的になりがちだったからじゃないでしょうかね。それに対してなぜニコ動などが成功したかというと、ボカロを用いた表現のほうは、そのキャラをどう使うかということが先にあって、音楽性は後についてくる。音楽的には好きなことをやらせてもらって、要は初音ミクって人をタテとけばいいんでしょ? っていう部分があったと思うんですよね。そもそも、音楽より先にネタとしての消費をされたところがカギだったと思うんです。でも、それは必ずしも「作り手が前に出ない」ということをネガティヴに捉えるべき感覚ではないんですよ。そういうものだったから音楽が流通したんだと証言しているアーティストがいっぱいいます。

三田:やっぱり、だからメディアなんだってことだよね。

さやわか:そうですね。音楽だけやっているコミュニティはお互いの音楽を褒め合って終わりになってしまう。けれどニコ動の場合には初音ミクをどれだけうまく見せるかというので、ランキングの上位に行くためにみんな切磋琢磨すると。それをやりたくない人ももちろん一方にはいるわけだけど。

三田:ほんとに、YMO知らなくて、これを初めて聴いたという人のレヴューを読んでみたいよね。ヴィジュアルやらコンセプトやらいろいろあって。

さやわか:ひょっとしたらYMOとは坂本龍一が所属するグループだということを知らないで聴いている人もいるかもしれない。

吉村:坂本龍一という名前すら知らない人が聴いている可能性もある。

さやわか:「坂本って、反原発とかの人かー」みたいな(笑)。音楽が若者の第一の文化として出てこない時代ですし、坂本龍一を知らないことは十分にありえますね。

三田:よし、じゃ姪に聴かせてみる!

Flying Lotus - ele-king

 チル・ウェイヴが16ビートを取り入れるようになった→ダフト・パンクがブラック・ミュージックに近づく→ジェイ・ポールがソウル・ミュージックの文脈でそれをやったとき、「ジャスミン(デモ)」は2012年のベスト・シングルになることは決まっていた......のではないだろうか。

「ジャスミン(デモ)」はデビュー前から期待されていたシングルだった。昨年、プロモーションで撒かれた「BTSTU」をドレイクがさっさとサンプリングし、タナソーのように『テイク・ケア』を評価したリスナーには彼の名前は早くから浸透していたはずである。僕のようにドレイクはウェットでもうひとつだな......と、オッド・フューチャービッグ・クリットを好んだリスナーにもそれは伝わってきた。もうひとついえば、そんなことは何ひとつ知らなくても、どこからか「ジャスミン(デモ)」が耳に飛び込んできたリスナーにももちろんダイレクトにアピールしたに違いない。プリンスのファンであれば、それはもう、間違いなく。

 ドレイクの名前は意外なところでも目にした。ドミューンでもすっかりお馴染みになったオンラのレーベル、〈キャットブロック〉から「プレイグラウンド」でデビューしたフランスのビート・メイカー、アゼルのデビュー・アルバム『ザ・ロスト・テープス』でも彼はラップを披露している。
 アゼルのビートはどちらかというとデリック・メイを思わせる情熱的なもので、泣きのメロディに沈みたがるドレイクの趣味ではないと思えるものの、すけべの波長でも合ったのだろうか、2曲でさらっとしたフローをキめ、大物気取りのような嫌味は感じさせない(ドレイク以外にはイブラヒムが"ディス・イズ・ドープ"でふわふわと歌うのみ。ストリングスを厚く走らせたり、様々なメロディを細かく絡ませたがるアゼルもドレイク以外にMCを起用する気はさらさらないといった風情である)。

 基本的には淡々とビートが刻まれるだけ。ほかに特記できることはない。"アイズ・イン"でも"シチュエイション"でもデリック・メイを遅くして聴いているようなもので、スローモーションでスウィングしていく感じは古典的なメロウネスにも直結するものがある。それが夏のダレきったムードに合ってしまうことこの上なく、この夏はけっこう重宝した。フランスのヒップホップというと、基本的にはユニオンのような(二木好みの)古くさいファンク趣味や、デラのようなラウンジ系がほとんどで、アゼルのようなタイプは珍しい。そう、フランス文化にはそぐわないストイックな作風は、おそらくフライング・ロータスの影響によるもので、ハウスではシカゴ発のディスコ・リコンストラクションからダフト・パンクがブレイクするまでに4年ぐらいはかかった計算だとすると、ここでもフライング・ロータスがセカンド・アルバム『ロス・アンゼルス』で注目を集めてからも同じく4年が経過し、フランス人が手を出すにはちょうどいい頃合ともいえる。続くフースキースクラッチ・バンディッツ・クルーといった変り種も控えているけれど......(フランス人のヒップホップに興味が湧いた方はぜひ、ドッグ・ブレス・ユー『ゴースツ&フレンズ』のジャケット・デザインもチェック→)。

 世界中のビート・フリークが注目するフライング・ロータスことスティーヴン・エリスンの4作目は、しかし、かなり方向性を修正してきた。『ロス・アンゼルス』から『コスモグランマ』への発展を歓迎した人は腰が引けるかもしれないし、『ロス・アンゼルス』では過剰に封印されていたジャズを前作で解き放ったことの意味が明快になったと感じる人もいるだろう。「静けさが戻るまで」というタイトルから察するに、自分の身に起こったことがいかにも騒々しいことで、自分のペースを取り戻したいという願いから導き出された音楽性なのかもしれないし、「騒々しいこと」を正確に映し出したものとも考えられる。そのときにつくられたものが一大トリップ絵巻のようなストーリーテリングのそれであったことは、やはりレイヴ・カルチャーの渦に呑み込まれた90年代初頭のフランクフルトからスフェン・フェイトが『アクシデント・イン・パラダイス』でチル・アウトを希求したことを思い出させ、ほんの数ヶ月前にシャックルトンがやはり似たような組曲形式のものに『ミュージック・フォー・ザ・クワイエット・アワー』というタイトルを与えていたことを連想させる。いずれにしろ尋常ではないスピードで動いているものがなければ、それとは反対の概念に価値が求められることはない。きっと......嵐の中心は静かだということなのである。

 僕が『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』を聴きながら頻繁に思い出したのは90年代にラウンジ・リヴァイヴァルの先頭に立ったジェントル・ピープルである。オープニングから数曲はそれこそイージー・リスニングじみたフュージョンを思わせるテイストにまみれ、あまりに素直なバリアリック・モードにはしばらく不可知の未来に置き去りにされてしまう。すっかり陽気になり、ときにボトムが弱く、ティンバランドのようにハイハットで手繰り寄せていくビートはオフ・ビートが効きまくったエレクトロニカにも聴こえるし、『コスモグランマ』からの脈絡を重視していると、マジで時間軸を見失いかねない。『パターン+グリッド・ワールド』のスリーヴ・デザインで全開になっていた世界最強のドラッグとされるDMTを扱ったらしき曲はまさにジェントル・ピープルそのままに聴こえてしまうし......(DMTに関してはサイエンティック・アメリカンの副編集長だったジョン・ホーガン著『続・科学の終焉-未知なる心』を読むしかない!)。なぜかトム・ヨークがドラッグのディーラーについて示唆する曲もエアリアル・ピンクやコーラと同じくノスタルジックな意味合いでシクスティーズが裏側にべったりと貼り付いたようなところがあり、ロング・ロストのローラ・ダーリングトンによる艶かしいヴォーカルが聴こえてくる頃には、あたりの景色はすっかり『バーバレラ』のセットに様変わりしている(橋元さんがモバイル・スーツに着替えるタイミングですね)、エンディングはまさしく「空飛ぶ蓮」である。この陶酔感は実に純度が高い(古代ギリシャでは、想像上の植物であるロートスの実を食べると、浮世の苦しみを忘れて楽しい夢を見ると考えられていた)。

 フライング・ロータスの変化のスピード感は、現在のLAの様相をそのまま反映しているのだろう。それは内容的なものと同時に消費の速さでもあり、ムーヴメントの常識として荒廃の予感が押し寄せてくるという時間感覚との闘争でもある。それを単純にどこまで先延ばしにできるか。60年代のビートルズや90年代のジ・オーブに課せられたものと同じものに追いかけられるという幸福感が『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』には漲っている。さらなる飛躍をもたらすかもしれないし、たった1作で崩壊してしまうかもしれないLAの現在。あれが「終わりのはじまりだった」といわれる可能性だってあるし、そのすべてを左右する1作になる可能性は高い。フライング・ロータスは少なくともそれぐらいの冒険はしている。ジミ・ヘンドリクスやジーザス&メリー・チェインはあの後、どうすればよかったのかということでもある。現在のLAからは次から次へと才能が出てくるし、ジェレマイア・ジェイのように〈ブレインフィーダー〉と契約したミュージシャンだけでなく、同じシカゴからアン・アッシュやメデリン・マーキーまでがカリフォルニアに移住してくるなど、全米からミュージシャンが押し寄せているような印象があるなか、そのなかの誰かがフライング・ロータスの位置に取って代わってくれるわけではない。フランクフルトのレイヴ・カルチャーはスフェン・フェイトの失速とともに一度は崩壊している。それでも彼は静けさが回復することを願って、このような作品をつくった。ジェントル・ピープル版『アクシデント・イン・パラダイス』を。そして、それはエミネムがMDMAを摂りはじめたあたりからヒップホップ・サウンドが辿り付くべきものだったのかもしれない。カレンシーもウィズ・カリファも皆、そのための通過点だったと思えてくる。 

 同時期のリリースとなった『マーラ・イン・キューバ』は聴くたびに印象が二転三転した。ダブステップという明確な落としどころがあり、しかもオールドスクールの実験であることに思い至れば難しいことはなかったのだけれど、そのような基本を忘れてしまう仕掛けがあのアルバムには張り巡らされていた。『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』にも同じことがいえる。ヒップホップ・ミュージックで『サージェント・ペパーズ〜』をやろうとしたプロデューサーがいなかったのだから、梯子から落ちやすいのも仕方がないけれど、何よりも重視されているものが「流れ」であり、その強さに負けて、ほかのファクターが頭や耳からは抜け落ちやすい。かつてデイジー・エイジと称揚されたデ・ラ・ソウルにしろ、かのクール・キースにしろ、効果として狙ったものはあったかもしれないけれど、ヒップホップのグラウンド・デザインに深くメスを入れて、ここまでトリップ性を優先させるものはなかった。クリシェに倣っていえば「こんなものはヒップホップじゃない!」し、そう言わせるための作品だとしか思えない。面白いというか、『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』にもっとも似ていると思うのは、LAがまだ「静か」だった時期にダブラブが同地のプレゼンテイションとしてまとめた『エコー・イクスパンション』(07)というエリア・コンピレイションで(09年に曲を増やして再発)、カルロス・ニーニョにはじまり、フライング・ロータスやラス・Gを経て、デイダラス、ディムライトと続く「流れ」はなぜかラウンジ・テイストのものが多く、クートマやテイクを経て、クライマックスはマシューデイヴィッドによる強烈なアンビエント・チューンになっている。フライング・ロータスが考えている「静けさ」がここで展開されているサウンドを想定しているのなら、彼はまさにこの時期に戻りたいと(無意識に)願っていると考えてもいいのかもしれない。
 
 アトム・ハートに背後から膝カックン(=Using your knee to kick someone else in the back of their knee)をやられたようなフライング・ロータスに代わって、かつてのフライロー・サウンドを引き継ぎ、そこにワールド・ミュージックの要素を豊富に放り込んだのがガスランプ・キラーことウイリズム・ベンジャミン・ベンサッセンのデビュー・アルバム『ブレイクスルー』だろう。僕は発売前の音源を法律的に貸与されてレヴューを書くことはあまり好きではないのだけれど、そうはいってられない場合も増えてきて(つーか、そのような制度を採用しているのは日本だけらしいんだけど)、毎月2周目などはそういったものばかり聴かなければならないし......ということはさておき、そのようにして同時に手渡されたフライング・ロータスとガスランプ・キラーの音源がもしも入れ替わっていたら、後者を聴いて前者が『コスモグランマ』から『ロス・アンゼルス』に揺り戻す際にワールド・ミュージックやホラー・テイストを加えたものだと判断したのではないかという可能性がなかなか捨て切れない。ひとつにはフライング・ロータスにはどこか重厚なイメージがあって(多分に「テスタメント」のせい?)、それが『ブレイクスルー』にはあるけれど、『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』にはほとんどなく、どちらも華やかな印象にあふれているのは現在のLAのムードが反映されているからだとは思うけれど、それでも少しは引いた部分が『ブレイクスルー』にはあって、それもフライング・ロータスに(勝手に)投影していたイメージに近いからである。それだけ『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』が飛躍しているということでもあり、かつてのデトロイト・テクノのような通奏低音が現在のLAには流れているということでもあるだろう。

 最初期からロウ・エンド・セオリーのレジデントを務めていたというベンサッセンは、ゴンジャスフィのプロデューサーとして知名度を上げたのもなるほどで、似たようなカップ・アップ・サウンドをやらせても如実に都会的なリー・バノンとは違って、どこかヒッピー的なところである。『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』と同じく、トリップ・ミュージックとして構想されていることは明らかだけど、フライング・ロータスが執拗にシクスティーズをリファレンス・ポイトにしているのとは違って、時間軸はむしろイメージを混乱させるために悪用され、それこそウイリアム・バロウズの「時間旅行で乗り物酔い」を思わせる。アトラクションは次から次へと入れ代わり、デイダラスと組んだ「インパルス」など、いまのはなんだったのだろうとトリックめいた印象を残す曲が多く、『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』のように全体で何か訴えかけるような性格は持たされていない。ディムライトとはトラン・ザム以上バトルズ未満みたいなマス・ロックもどきに仕上がっているし、カルロス・ニーニョ率いるビルド・アン・アークからミゲル・アトウッド-ファーガスンとの"フランジ・フェイス"などはイタリアのホラー映画みたいだし......。

 ただし、サーラ・クリエイティヴからフサインとキースをフィーチャーしたボーナス・トラック「ウィッスル・ブロウアー(=内部告発)」は(紙エレキング6号にも書きましたけれど)国連がサラエボで傭兵のために売春婦を斡旋している組織と裏でつながっていたという史実を扱った映画『トゥルース 闇の告発』の原題と同じだったりするので(主演がレイチェル・ワイスだったにもかかわらず日本未公開。アメリカでも国連が圧力をかけたのかほとんど公開されず)、「サラエボ」とか「内部告発」といった歌詞が断片的に聞き取れたので、それについてのものだということはすぐにわかるし、これは、現在のLAを支配している気分やトリップ・ミュージックとはかなり異質のものである(だから、日本盤のみのボーナス・トラックなのだろう。それとも、これが現在のLAと何か関係のある曲だというなら、ここまで書いてきたことはすべて崩壊するしかない)。

 レイヴ・カルチャーが社会の表面に姿を現した当時、イギリスのマスコミがそれにセカンド・サマー・オブ・ラヴという呼称を与えたことを受けて、それをいうならアメリカで起きていることはセカンド・ロング・ホット・サマーと呼ぶべきではないかと書いたことがある(いまだにひとりも賛同してくれた人はいません~)。つまり、80年代後半のダンス・カルチャーはヨーロッパの白人とアメリカの黒人には正反対とまでは言わないけれど、社会的な意味はけっこう違ったということで(何度も書いたようにボム・ザ・ベースのように連想ゲームのようなことが起きた例もあるし、ア・ガイ・コールド・ジェラルドやチャプター&ザ・ヴァースのように裏目に出た例もある)、しかし、それが、現在のLAでは、白人にも黒人にも少なからず同じ意味を持つ音楽になっているのではないかということを『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』からは感じ取れるのではないかと。マーティン・スコセッシ監督『ヒューゴの不思議な発明』とともにどうしてアカデミー賞を取れなかったのか不思議でしょうがないテイト・テイラー監督『ヘルプ』のような映画を観ると(『ハート・ロッカー』に続いて『アーティスト』の受賞は本当にナゾでしかない)、60年代にもそのような事態は実際には部分的にしか存在しなかったのだろうということも想像はつくけれど、それでもモンタレー・ポップ・フェスティヴァルにはオーティス・レディングが出演し、聴衆に向かって「愛し合ってるかい?」と問いかけたことは、セパレーティスム(分離主義)を掲げていたパブリック・エナミーとは異なるヴァイブレイションの産物だったはずで、そのような融和が少しでも現在のLAには存在しているのではないかということが『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』と、そして、マシューデイヴィッド『アウトマインド』という2枚のトリップ・アルバムによる響き合いのなかから聴き取れるのだと僕は思いたい。そして、その青写真を与えたのはザ・ウェザーの3人だったのではないかと。デイダラス、バスドライヴァー、そして、レイディオインアクティヴの3人がはじめたことがここまで来たのではないかと。

 デイヴィッド・ベニオフの原作に同時多発テロを背景に加えたスパイク・リー監督『25時』はニューヨークを舞台にしながら、最終的にはLAを目指す心性が描かれていた。ブロークン・ウインドウズ理論を振りかざしたジュニアーニによるジェントリフィケイションも少なからず影響はあっただろう。それまでは、アメリカの各州から夢を抱いた若者が出てくる都会といえば、圧倒的ニューヨークだったのに、スティーブ・アンティン監督『バーレスク』でも、デヴィッド・フィンチャー監督『ソシャル・ネットワーク』でも、目指す都会はLAであり(かの『ボラット』も!)、あっという間にエレン・ペイジを過去に押しやったクロエ・グレース・モレッツがついに初主演を演じたデリック・マルティーニ監督『HICK ルリ13歳の旅』も最終目的地はLAに設定されていた。シリコンヴァレーからはじまる物語は音楽文化だけの話ではない。フランク・ダラボン監督『マジェスティック』やガス・ヴァン・サント監督『ミルク』は過去のLAを検証し直し、F・ゲイリー・グレイ監督『ビー・クール』、リサ・チョロデンコ監督『キッズ・オールライト』、アレクサンダー・ペイン監督『サイドウェイ』、中島央監督『Lily』......と様々に夢が語られる。いまさらのように『ランナウェイズ』の伝記映画までつくられ、もちろん、マーク・クラスフェルド監督『ザ・L.A.ライオット・ショー』やジョー・ライト監督『路上のソリスト』のようにダークサイドを描いた作品も力作が多い。

 そんな気運のなか(?)、信じられなかったのは2008年にLAタイムズが発表した「LAを舞台にした映画ベスト25」である。

1位「L.A.コンフィデンシャル」(カーティス・ハンソン監督)
2位「ブギーナイツ」(ポール・トーマス・アンダーソン監督)
3位「ジャッキー・ブラウン」(クエンティン・タランティーノ監督)
4位「ボーイズ'ン・ザ・フッド」(ジョン・シングルトン監督)
5位「ビバリーヒルズ・コップ」(マーティン・ブレスト監督)
6位「ザ・プレイヤー」(ロバート・アルトマン監督)
7位「クルーレス」(エイミー・ヘッカリング監督)
8位「レポマン」(アレックス・コックス監督)
9位「コラテラル」(マイケル・マン監督)
10位「ビッグ・リボウスキ」(ジョエル・コーエン監督)
11位「マルホランド・ドライブ」(デビッド・リンチ監督)
12位「ロジャー・ラビット」(ロバート・ゼメキス監督)
13位「トレーニング・デイ」(アントワーン・フークア監督)
14位「スウィンガーズ」(ダグ・リーマン監督)
15位「青いドレスの女」(カール・フランクリン監督)
16位「friday」(F・ゲイリー・グレイ監督)
17位「スピード」(ヤン・デ・ボン監督)
18位「ヴァレー・ガール」(マーサ・クーリッジ監督)
19位「L.A.大捜査線/狼たちの街」(ウィリアム・フリードキン監督)
20位「L.A.ストーリー/恋が降る街」(ミック・ジャクソン監督)
21位「To Sleep with Anger」(チャールズ・バーネット監督)
22位「レス・ザン・ゼロ」(マレク・カニエフスカ監督)
23位「フレッチ/殺人方程式」(マイケル・リッチー監督)
24位「Mi Vida Loca」(アリソン・アンダース監督)
25位「クラッシュ」(ポール・ハギス監督)

 『サンセット大通り』も『チャイナタウン』も『ブレードランナー』もなければ『エリン・ブロコビッチ』もないし、『モーニング・アフター』も入っていないではないか......。『ハードコアの夜』も『奥さまは魔女』も......どういうことなんだろう......

CAN - ele-king

 カンは消えたはずのにくすぶりつづける燃えさしみたいなもので、五輪の聖火さながらに人知れず誰かにリレーされた熾火は忘れたころにどこかから狼煙をあげる。煙い。が、その煙たさは直裁にスモーカー的なそれというより、ジャマイカの音楽のセオリーを無視した野趣に通じる、常識の顔を曇らせる煙たさであり、表面的な部分でなく構造が問題になっているので、古びない上にちょっと寓話的だと思います。
 クラウトロックらしい喰えなさ、90年代に宇田川町のレコ屋のポップでよくみかけた「いなたさ」のようなものが、ホルガー・チューカイ、ヤキ・リーベツァイト、イルミン・シュミット、ミヒャエル・カローリのアンサンブルには脈打っていて、そこに黒人のマルコム・ムーニーやら日本人のダモ鈴木やらが絡みつくバンドの構成も独特だった。そしてそれはコスモポリタンの進歩主義ともグローバリズムの不可逆性ともちがう、牛や馬と人間が同等の、つまり寓話的な磁場をもつ世界だった。私は無論、差別しているわけでもないし博愛でもない。うまくいえないがある種のアナーキーズム、白石美雪さんの書いたジョン・ケージの本の副題「混沌ではなくアナーキー」と同じニュアンスを、あくまでロック・バンドの体をなしながら音楽における他者性を体現したバンドはカンを置いてほかにない。
 『ザ・ロスト・テープス』を聴いて、あらためてそう考えた。
 『ザ・ロスト・テープス』はその名の通り、カンの1968年から77年までのオリジナル作品に収録していないスタジオのボツ音源やサントラ用の曲、ライヴ音源など、未発表曲を集めた3枚組のハコもの。私は試聴盤がディスク1だけだったので全部は聴いていないが、とはいっても、これまでなぜ正式にリリースされなかったのか、首を捻るばかりのツブぞろいの楽曲が目白押しだ。冒頭の"Millionenspiel"はいかにもタランティーノが好きそうなB級スパイ映画のタイトルバックにぴったりのサーフィン~ガレージ系のスピード・チューンだが、これはじっさいドイツのテレビ映画に使われていたのだった。イルミン・シュミットが音楽を担当した縁での起用だったようだが、結成当時(68年)のカンを「音楽教育を受けたパンク・バンド」と述懐したチューカイの面目躍如たる、方法論を知悉しながら枠組みから逸れていく実験性をはやくもかいまみせている。カローリのギターの奇妙な歪み、チューカイの呪術的なベースライン、全体を鼓舞するヤキのドラムスに色をつけるイルミン、技術的に革新的なわけでもなく、むしろありふれたものであるかもしれないのに、カンが誰もマネできないところにいつづけられたのは、カンが発端には即興を最終的には編集を彼らのカギとしていたからだろう。そこでは、マルコム・ムーニー、ダモ鈴木たちノン・ミュージシャンは「音楽教育」の外の広大な非音楽の沃野に直結したバイパスの役割を担った。あるいは、カンというバンドをデフォルメないしキャラクタライズしたというべきか、ともあれ、カンのフロントマンは彼らでしかありえなかったのは、『モンスター・ムーヴィー』(69年)から『フューチャー・デイズ』(74年)まで、傑作が彼らの在籍時に集中していることからもわかる。もちろんカンのどれが傑作かは、みなさんいろいろ意見があって、語り合えば明日の朝までかえるのは目に見えているが、さいわいなことにこのハコには『アウト・オブ・リーチ』(78年)でミソがつくまでのカンの未発表音源がくまなく入っている。キマりきった吉幾三のような、ほとんど恐山仕込みにさえ聞こえるマルコムのヴォーカルが不穏な"Waiting For The Streetcar"、ドアーズの"Touch Me"を思わせるイルミンの鍵盤リフなど、ストレートなロック・モチーフとチューカイお得意の短波ラジオの音源をめまぐるしくカットアップした"Graublau"、20世紀実験音楽の典型ともいえる具体音や非楽音の使い方の牧歌的でありながらじつに骨太な感触、イルミン・シュミットが資料に寄せた通り、このハコのおもしろさはまずはカンの正規盤とはちがう、創作の課程を伝えるところにある。逆にいえば、20世紀でもっとも自律的な音楽的運動体のひとつだったカンというロック・バンドの生成変化の中身をみせるものともいえる。

 本作は30時間以上におよぶテープが元になっているという。以前イルミン・シュミットにインタヴューしたとき、彼はカンはスタジオでテープをまわしっぱなしにしてた、とにこやかに語っていたが、このハコをそれを裏づけるだけでなく、さらに膨大な未発表音源が眠っている可能性をも示唆している。全部出てきたら明日の朝といわず、三日三晩、寝ずに語り合わないといけない。

Attack The Block - ele-king

『アタック・ザ・ブロック』
監督/ジョー・コーニッシュ
出演/ジョディ・ウィッテカー、ジョン・ボヤーガ他
提供:カルチュア・パブリッシャーズ 
配給:アステア+パルコ
2011年 イギリス
6月23日(土)~7月13(金)
渋谷シネクイントほか、全国ロードショー!
https://attacktheblock.jp/

 エドガー・ライトのデビュー作『ショーン・オブ・ザ・デッド』といえば、音楽ファンのあいだでは間違いなく、襲い来るゾンビにDJ用のボックスから「このレコードはいる」とか「いや駄作だ」とか言いながら取り出した盤を投げつけて迎撃するという名シーンで記憶されていることだろう。実際、英国の映画雑誌『EMPIRE』が創刊20周年を記念して企画したスターが自分の一番のヒット作を自前の服で再演するという写真特集で、『ハリー・ポッター』とか『マトリックス』とか『ターミネーター』などの超ヒット作に混じって、サイモン・ペッグとニック・フロストのこのシーンが掲載されていて笑わせてくれた。https://www.empireonline.com/20/birthday-portfolio/6.asp
 『ショーン・オブ・ザ・デッド』がおもしろかったのは、ゾンビから逃げる主人公を親と同居のパラサイトやニートのダメ男たちにして、ゾンビ映画の定番"立てこもり"の場所をパブにしたことだった。80~90年代には、まだイギリスの自立精神は健在で、学校を卒業したらとっとと親元を離れてひとりで暮らすというのが当たり前と誰もが言っていたけど、最近ではもう金もないし楽だからと恥ずかしげもなく親元で暮らす若者もかなりいる。そういうなんとなく停滞したどんよりとした郊外の若者の雰囲気を丁寧にキャッチして、シニカルな笑いと一緒にゾンビ映画というジャンル・ムービーに落としこんだ。その後、ヒット・メイカーとなったエドガーはもっとメジャー感のある作品にステップアップしていき、『ショーン...』であったようなストリート感やダチの居間でだべってる感は後退する。しかし、僕を含めあのデビュー作のハチャメチャなパワーをいまだに一番愛してるというファンは結構いるのではないか。
 その、エドガー・ライトがプロデュースして、今度はエイリアン映画というジャンル・ムービーに挑戦したのが、『アタック・ザ・ブロック』だ。エイリアンものというのは、リドリー・スコットの『エイリアン』のように、閉鎖空間に恐ろしくて超強いモンスターが侵入してきて次々と仲間が血祭りに上げられるなか、どうにかしてサヴァイヴしていくというのがお決まりのパターンである。今回の設定は、南ロンドンの高層カウンシル・フラット(日本で言うところの市営住宅、県営住宅みたいなもの)を中心にした"ブロック"という閉鎖空間と、そこで息が詰まりそうになりながらも精一杯粋がって暮らしてるティーン(中学生くらい)の集団にスポットをあてて、そこに謎の凶暴エイリアンが襲ってきたら、どうなるか? という、またもや「こう来たか!」と唸ってしまうようなもの。
 監督は、もう40代半ばで若手とは言い難いが、これがデビュー作でフレッシュな感性を発揮しているジョー・コーニッシュ。彼は元々南ロンドンのストックウェル(悪名高いブリクストンの近所)出身だそうで、育った環境で見聞きしたこと+1年にも渡る綿密なリサーチで、現代ロンドンに潜むアンダーグラウンド文化や社会問題を、『グーニーズ』や『スタンド・バイ・ミー』的なキッズの成長譚と巧くブレンドさせている。


©StudioCanal S.A/UK Film Council/Channel Four Television Corporation 2011

 UKの音楽が好きなら、まず耳を奪われるのはグライム的なスタイルでぶいぶいとベースを鳴らすサントラで、ストーリーが進むにつれぐいぐい惹きつけられるだろう。この映画の公開後にイギリスで起きた暴動でも、その背景にはグライムなどのブラック音楽のシーンと重なる部分が大きいという指摘があったけども、その暴動の予言になってしまったような本作で音楽を担当してるのは、ベースメント・ジャックスである。実は、彼らのメジャー・デビュー前、たしか雑誌時代の『ele-king』の取材だったと思うが、南ロンドンの彼らのホーム・スタジオを訪れて取材したことがある。バスに揺られてちょっとやばそうなエリアに向かったそのときは全然意識していなかったが、実は彼らもずっとブリクストンの小さなクラブやバーでパーティーをやっていたし、まさによく知る地元を題材にした映画なのだ。そして、監督自身、ジョン・カーペンターが昔やっていたような電子音楽のサントラを参考にしたと言っているように、ただのクラブ・ヒットが並んだコンピみたいな必然性のない音楽じゃなく、不穏な雰囲気の演出を担う重要なサウンドの要素として成立している。
 劇中、いかにもイギリスの保守層といった風情のおばさんにモンスター呼ばわりされるキッズたちだが、年端もいかない彼ら(その大半は、貧乏人が住むというカウンシル・フラットに暮らしながら、実は中流っぽい、ふつうの親や家庭をもっている)が、犯罪に明け暮れ、出口や希望の見えないなかで徐々にディープな世界へと足を突っ込んでいってしまうという背景描写が秀逸だ。フードをかぶりバンダナで顔を隠したその出で立ちは、Hoodiesの特徴的なファッションであり、まさにロンドン暴動を引き起こした連中そっくりである。実際、あのときも、暴動にこどもが混じっている?!という話が衝撃的に伝えられたが、この映画の設定もあながち誇張しすぎと言えないと思う。
 例えば、カウンシル・フラットの中に大麻の栽培施設があって、そこを根城にしたギャング達がドラッグ売ったり爆音でトラック作ったり好き勝手やってるという、日本人から見たらギャグかと思う設定も、本当にありそうだ。僕自身、過去にこういうフラットに泊めてもらったり、友達が住んでいて遊びにいったことが何度もあるが、高級外車を乗り回す連中やどうみても怪しい奴らがたくさん目について、「職のない人や、シングルマザーとかハンディキャップのある人とか、そういう層向けの住宅じゃないの?」と聞いたら、「本来はそうだけど、実際には制度を悪用してるドラッグ・ディーラーとかも結構いる」と聞いた。そういえば、今はあるかどうかしらないが、90年代にはGrower向けの雑誌というのが普通にHMVとかマガジンスタンドに売っていて、衝撃をうけたこともある。


 都市の歪みが生んだような"モンスター"キッズが、本物のモンスターと戦うハメになって、初めて暴力、生命、仲間みたいなことを実感し、成長していくというのが本作のメイン・プロットになるが、郊外的なゆるさを背景にどこまでも笑いとペーソスで引っぱった『ショーン...』とは対照的に、ひりひりとした痛みを抱えてずっと走りづける様子は、やはりイギリスの社会的様相もだいぶ変わったことの投影であると言えるかもしれない。実際、リーマン・ショック以降の壊滅的な経済の落ち込みで、ロンドンの一等地にあった有名チェーンのショップが次々つぶれていくとか、日本以上にやばい状況がずっと続いていて、オリンピックに湧いているような外面とは裏腹にいまだにそういう暗いマグマは地下で渦巻いている。チャンネル4が昨秋スタートさせた、やはりキッズをフィーチャーした『Top Boy』というドラマ・シリーズなども、まさにそういう現代ロンドンの暗部をキャプチャーし話題となった。良識ある大人たちからは、「こんなHoodiesを描いた映画なんてとんでもない!」という反応も当然のごとくある。が、ただの説教くさいドキュメンタリーではなく、良質のエンターテインメントとして成立させながらさらにこういう「言いたいこと」を伝えてくれるという作品は希有だし、最後までちゃんと観れば、希望や感動を用意してくれた監督に拍手したくなることは間違いないのだ。


©StudioCanal S.A/UK Film Council/Channel Four Television Corporation 2011

 今回は意図的にカットしたが、サブカルや日本の文化も大好きという監督の趣味が随所に反映されて、タランティーノが絶賛したというのもよくわかる味つけもたくさんある。ダニー・ボイルの『28日後...』に言及した箇所があったり、要するにこれは、『トレインスポッティング』以降営々と引き継がれてきた英国のポップなエンタメ映画の最新最良の成果ではないか。ロンドンが好き! UKダンス・ミュージックが楽しい! という人はもちろん、もっともっとこういう作品がつくられるように、ひとりでも多くのひとに観てほしい快作だ。

Hard-Fi - ele-king

 ハード・ファイのセカンド・アルバムのタイトル『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』はセルジオ・レオーネ監督による1968年の同名映画(邦題『ウエスタン』)からの引用だが、その話を聞いたときに僕は、ああこのバンドは嫌いになれないな、と思ったものだ。もちろんレオーネと言えばマカロニ・ウェスタンの父として何度となく再評価されている監督だが、たとえばその熱烈な支持者のひとりであるタランティーノが90年代に過去の西部劇やヤクザ映画、ギャング映画のサンプリングをスタイリッシュにやってのけたことを思えば、ハード・ファイのレオーネに対する支持は――アルバムのストリングス・アレンジは映画のサウンドトラックであるモリコーネの音楽を参照したというし――もっとも素直な部類だった。西部劇や60年代辺りのノワール、70年代のギャング映画を10代の頃に夢中で観ていた僕のような人間からするとそれは大いに共感できるものだったし(それにレオーネのギャング映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は何度も観ているし)、何よりもハード・ファイの音楽にある男たちの物語は、それら映画にたしかに通じるものである。そう思うと、レオーネ作品の主たるモチーフである男たちの友情や裏切りのドラマティックさは、監督自身のそうした男臭い世界への憧れから来ているという話は感慨深いものがある。つまりハード・ファイは、この21世紀においてもそうした暑苦しくドラマティックな男たちの物語は変わらず憧れの対象であると、無防備なまでに信じているということだ。
 ハード・ファイの音楽の主人公は多くのそうした映画の多くと同じように、アウトサイダー、アウトロー、ヤンキーあるいはちんぴら......であり、そしてそこで彼らは華やかでもなんでもない日常を送っているのだが、それはバンドの情熱的な音楽に乗せてドラマティックに描かれる。バンドは、はっきりとそうしたトライブ、つまり金がなくて多くの場合悪さをしでかしてばかりいるような冴えないちんぴらやヤンキー連中、退屈な日常にうんざりしている労働者たちに向けて歌っていた。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』における最大のアンセム、ディスコとダブを合体した"サバーバン・ナイツ"において「(社会から)忘れられている俺たち」が「郊外の騎士たち」だと宣言するその暑苦しさこそが、ハード・ファイの魅力に他ならない。そこではつまらない日常が起伏に富んだ物語となり、労働者やちんぴらはその主人公になる。

 3作目となる『キラー・サウンズ』においても、ハード・ファイの熱さは何ひとつ変わっていない......が、オープニング・トラックにしてシングルの"グッド・フォー・ナッシング"から、その華やかさに少なからず驚かされる。レゲエやダブ、ハウス、ファンク、ロックンロールをミックスした音楽性に大きな変化はないはずなのだが、何かが決定的に違うと感じられるのはアレンジとプロダクションがやたらゴージャスになっていることだ。数曲でメジャーどころのプロデューサーであるスチュワート・プライスとグレッグ・カースティンを起用しているということだが、アルバムを通して金のかけ方がこれまでと違っていることがはっきりとわかる。"グッド・フォー・ナッシング"のホーン・セクションの分厚さや、"ファイアー・イン・ザ・ハウス"の整頓されたビートやレイヴィーにも聞こえる女性ヴォーカルの味つけなどは、これまでの彼らの楽曲にはなかったものだ。歌謡曲的とも言える粘っこいメロディは相変わらずだが、彼らならではの哀愁や根性を感じさせたメロウネスやビターさは後退し、総じてアッパーなダンス・トラックが並ぶ。思いがけずニューウェイヴ調の"ステイ・アライヴ"や"ラヴ・ソング"などはやたら煌びやかなアレンジが施されていて、ちんぴらがブランドで身を固めているように聴こえなくもない。が、ビッグになったら金はしっかりと使うその態度こそが、ハード・ファイらしいヤンキーイズムだとも言える。
 そうした音の変化にしても、あるいは歌の内容が退屈な郊外の日常といった彼らがこれまで得意とした描写から離れていることにしても、本作においては特定のトライブにコネクトするよりも多くの場所、多くの人びとに通用する野心を抱いていることの表れであろう。「金を稼ぐまで汗水たらして働け!」と歌う"スウェット"なんかは非常にハード・ファイらしいモチーフだが、これまでのように特定のシチュエーションを具体的に描くよりも、さまざまな場所で生活する労働者に通じるようなリリックになっている。そういう意味では、パーティ感覚の強いダンス・トラック、先述の"グッド・フォー・ナッシング"や、手拍子と「ストップ!」のかけ声を促す"ストップ"などが何よりもサウンドにおいて不特定多数の人びとを踊らせる可能性が高いように僕には思える。ザ・クラッシュはもちろん『スクリーマデリカ』の頃のプライマル・スクリームやマッドチェスターやレイヴの音楽的記憶を明滅させながら、広い世界のさまざまなアウトサイダーたちを踊らせようと目論んでいる。

 とにかく、ハード・ファイは濃密なコミュニティの絆を少しばかり犠牲にしてでも、新たな場所へと足を踏み入れている。得たものもあれば失ったものもある。まるでギャング映画の主人公が仲間の裏切りや別離を経験して町を飛び出すかのように、彼らは自身にドラマティックな物語を課しているようにさえ見える。ラスト・トラックの"キラー・サウンズ"はアルバムのなかでは穏やかなサウンドで、15歳で死んだ親友について歌う。「お前が警官に殺されたのなら それがお前にふさわしい死に様だったってこと」
 もし近年のスコセッシがディカプリオを主役に神経症的な映画ばかりを撮っていることに不満を覚えているのなら、いまだに男臭いノワールを撮りまくっているジョニー・トーの映画を観るか......ハード・ファイを聴くといい。がむしゃらに力を奮い立たせるようなその熱は、けっして失われていないのだから。"キラー・サウンズ"ではこうも歌っている。「そして若いうちに お前のなかにある若者を祝福するんだ/キラー・サウンドに合わせて踊るんだ」

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