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三田 格 Mar 04,2011 UP
西洋文明と出会ったことで「不機嫌」であることがデフォルトになったとされる日本では、それが当たり前ではないかという感覚を持ちやすいような気がするけれど、そのような「気分」を哲学の対象としたのは西欧ではハイデッガーが最初だったそうで、どうしても自我同一性にこだわる西欧にとっては、気分によって左右される「振り幅」は意外と厄介なテーマなのかもしれない。最近だとダニー・ボイル監督『127時間』でジェームズ・フランコ演じるアーロン・ラルストンがウォークマンでフィッシュを聴きながらブルージョン・キャニオンを踏破する映画のシーンや同じくデヴィッド・O・ラッセル監督『ザ・ファイター』でマーク・ウォールバーク演じるミッキーがボクシングの試合で連戦連勝を果たす際にエアロスミス"バック・イン・ザ・サドル"が流れる場面などは、そのようなサウンドトラックがなくても成り立つし、あっても別に邪魔ではないといった程度の存在感であり、大袈裟にいえばサブリミナルに気分が微調整されているということになるのだろうけれど、キム・ジウン監督『悪魔を見た』でチェ・ミンシク演じるシリアル・キラーが女性の死体を解体し終わった後に訥々とギターを弾く部分はストーリー的には何を表わしているでもなく、しかし、ある種の予定調和を裏切り、ものの見事に映画を観る「気分」を変えてしまうシーンではあった。ナチスがクラシックに聞き惚れるシーンなどはもう見飽きてしまったし、似たようなことは「いまどきのヤクザは軍歌など聴きませんよ」という『凶気の桜』にも反語的に思わざるを得なかったことで、音楽というのはどうしてもその様式性に吸収されやすく、独立して存在することはほとんど不可能に近いと思っていたことが、やや揺さぶられた瞬間だったともいえる(作品自体は、等しく貧困階級を描いてもリー・ダニエルズ監督『プレシャス』にはこれでもかとアメリカの社会(=近代性)が関与してくるのに対して、あの恐るべきヤン・イクチュン監督『息もできない』では韓国社会の不在と、その代わりに家族(=伝統社会)がすべての吸収板になっているという息苦しさが張り付いていたことと同じことが結末に漂う「気分」を決定的に左右していて、シリアル・キラーものだというのにいまだに韓国映画に没入できない自分を発見するものではありましたけれど。ついでにいうと、深川栄洋監督『白夜行』にも貧困がクローズ・アップされるシーンがあって、社会と家族のどっちに頼っていいのかわからないという日本独自の中途半端なあり方にはもっとも絶望的な「気分」にさせられたり)。
ディジタリスからふたりの女性による「気分」の安定しない2枚。
セラーやトローパ・マカナといった夫婦ユニットを追って(?)、同じく夫のグラント・エヴァンスとクワイエット・イーヴニングスとして『イージー・リスニング・サークルズ』などのカセットをリリースしていたレイチェル・エヴァンスが初のソロ作をリリース。モーンフルなイントロダクションから、ある種の悲しげなムードを否定せずにユーフォリックな佇まいを確保していくプロセスが特徴といえるアンビエンス・ドローン。一貫してフラジャイルな感性が追求され、そのせいか、「気分」によってこのアルバムは聴こえ方が変わりやすく、何度聴いても印象が一定しない。メランコリーと甘美は相反する要素ではないけれど、ネガティヴな気持ちの時は美しさが際立ち、バリバリの時は気持ちよさに埋没するばかり(コクトー・ツインズをドローン状に溶解させたら、こうなるか?)。透き通るようなイメージを畳み掛ける「オート・サジェスチョン」から後半に入って「テレパシー」でゆるいビートを刻み始めるまでの流れはとてもいい。ドローンにビートを持ち込んだ例のなかでは(ドローンという音楽性自体に重きを置いているという意味では)技ありかも。
6年前にタイプから『センチメンタリスト』でデビューしたメリッサ・アガテ(エイゲイト?)によるセカンド・アルバムはさらに繊細で、レイチェル・エヴァンスのように高音部を際立たせるような役割としての下部構造もなく、どこか世界の果てへ消え入るような儚いアンビエント・ドローンやエレクトロニカ/ポスト・ロック的サウンドが展開されている。ファウンテン・サイドではエレクトロニクス、マウンテン・サイドではアコースティック楽器がメインをなし、本人がそうかどうかはともかく、どの曲も「ようやく生きている」人の鼓動を伝えてくれるようで、誰にも会いたくない時にはコレだなーと思ったり。どうして生まれてきちゃったのかなーとか、そういう感じ。
そういえば『127時間』はサヴァイヴァルではなく、その結果に対して明確な開放感を与えるでもなく(水のなか=開放感と取る人もいたけれど)、ひきこもりの映画として観ると奇妙な倒錯感を覚える作品ではあった。LSDとCIAの関係を反戦映画として見事に捏造したグラント・ヘスロヴ監督『ヤギと男と男と壁と』の原作(ジョン・ロンスン著『実録・アメリカ超能力部隊』文春文庫)を読むとアグレイブ刑務所にもアマゾンの配達はあったそうだから、電子機器や映像アーカイヴといったものに囲まれたアーロン・ラルストンのライフ・スタイルは条件が整えば遭難には値しなくなる可能性だってなくはない。あるいはそのように感じさせる側面がダニー・ボイルの演出にはあったと思う。それにしてもボイルという人は『トレインスポッティング』から一貫してドラッグに対する感性がゼロに近い(せっかくのシチュエイションなんだし、ミニマリズムであそこまでやったのは大したことなんだから、幻覚描写にもそれなりのセンスが求められてしかるべき)。つい頭のなかで割り算をしてしまうし、タイトルも別なものにしたほうがよかった。
三田 格