Home > Reviews > Old & New > CAN- The Lost Tapes
カンは消えたはずのにくすぶりつづける燃えさしみたいなもので、五輪の聖火さながらに人知れず誰かにリレーされた熾火は忘れたころにどこかから狼煙をあげる。煙い。が、その煙たさは直裁にスモーカー的なそれというより、ジャマイカの音楽のセオリーを無視した野趣に通じる、常識の顔を曇らせる煙たさであり、表面的な部分でなく構造が問題になっているので、古びない上にちょっと寓話的だと思います。
クラウトロックらしい喰えなさ、90年代に宇田川町のレコ屋のポップでよくみかけた「いなたさ」のようなものが、ホルガー・チューカイ、ヤキ・リーベツァイト、イルミン・シュミット、ミヒャエル・カローリのアンサンブルには脈打っていて、そこに黒人のマルコム・ムーニーやら日本人のダモ鈴木やらが絡みつくバンドの構成も独特だった。そしてそれはコスモポリタンの進歩主義ともグローバリズムの不可逆性ともちがう、牛や馬と人間が同等の、つまり寓話的な磁場をもつ世界だった。私は無論、差別しているわけでもないし博愛でもない。うまくいえないがある種のアナーキーズム、白石美雪さんの書いたジョン・ケージの本の副題「混沌ではなくアナーキー」と同じニュアンスを、あくまでロック・バンドの体をなしながら音楽における他者性を体現したバンドはカンを置いてほかにない。
『ザ・ロスト・テープス』を聴いて、あらためてそう考えた。
『ザ・ロスト・テープス』はその名の通り、カンの1968年から77年までのオリジナル作品に収録していないスタジオのボツ音源やサントラ用の曲、ライヴ音源など、未発表曲を集めた3枚組のハコもの。私は試聴盤がディスク1だけだったので全部は聴いていないが、とはいっても、これまでなぜ正式にリリースされなかったのか、首を捻るばかりのツブぞろいの楽曲が目白押しだ。冒頭の"Millionenspiel"はいかにもタランティーノが好きそうなB級スパイ映画のタイトルバックにぴったりのサーフィン~ガレージ系のスピード・チューンだが、これはじっさいドイツのテレビ映画に使われていたのだった。イルミン・シュミットが音楽を担当した縁での起用だったようだが、結成当時(68年)のカンを「音楽教育を受けたパンク・バンド」と述懐したチューカイの面目躍如たる、方法論を知悉しながら枠組みから逸れていく実験性をはやくもかいまみせている。カローリのギターの奇妙な歪み、チューカイの呪術的なベースライン、全体を鼓舞するヤキのドラムスに色をつけるイルミン、技術的に革新的なわけでもなく、むしろありふれたものであるかもしれないのに、カンが誰もマネできないところにいつづけられたのは、カンが発端には即興を最終的には編集を彼らのカギとしていたからだろう。そこでは、マルコム・ムーニー、ダモ鈴木たちノン・ミュージシャンは「音楽教育」の外の広大な非音楽の沃野に直結したバイパスの役割を担った。あるいは、カンというバンドをデフォルメないしキャラクタライズしたというべきか、ともあれ、カンのフロントマンは彼らでしかありえなかったのは、『モンスター・ムーヴィー』(69年)から『フューチャー・デイズ』(74年)まで、傑作が彼らの在籍時に集中していることからもわかる。もちろんカンのどれが傑作かは、みなさんいろいろ意見があって、語り合えば明日の朝までかえるのは目に見えているが、さいわいなことにこのハコには『アウト・オブ・リーチ』(78年)でミソがつくまでのカンの未発表音源がくまなく入っている。キマりきった吉幾三のような、ほとんど恐山仕込みにさえ聞こえるマルコムのヴォーカルが不穏な"Waiting For The Streetcar"、ドアーズの"Touch Me"を思わせるイルミンの鍵盤リフなど、ストレートなロック・モチーフとチューカイお得意の短波ラジオの音源をめまぐるしくカットアップした"Graublau"、20世紀実験音楽の典型ともいえる具体音や非楽音の使い方の牧歌的でありながらじつに骨太な感触、イルミン・シュミットが資料に寄せた通り、このハコのおもしろさはまずはカンの正規盤とはちがう、創作の課程を伝えるところにある。逆にいえば、20世紀でもっとも自律的な音楽的運動体のひとつだったカンというロック・バンドの生成変化の中身をみせるものともいえる。
本作は30時間以上におよぶテープが元になっているという。以前イルミン・シュミットにインタヴューしたとき、彼はカンはスタジオでテープをまわしっぱなしにしてた、とにこやかに語っていたが、このハコをそれを裏づけるだけでなく、さらに膨大な未発表音源が眠っている可能性をも示唆している。全部出てきたら明日の朝といわず、三日三晩、寝ずに語り合わないといけない。
松村正人