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前作から4ヶ月というインターバルで届いたシャンテ・アンソニー・フランクリンによる2作目はタイトル通り、相変わらず空を飛んでいる。実に優雅な低空飛行(意味、分かってますよね?)。
ヒップホップの話題作が2010年の前半はドレイクで、後半はニッキー・ミナージュがぶっちぎりだったということは、なかなか興味深く、いわゆるマッチョイズムがシーンの頂点に立たなかったことを意味している。もちろん、グッチ・メインやワカ・フロッカ(磯部くんがレヴュー予定)など、それらが衰えたわけではないし、数ではきっと適わないはずなんだけど、それでも、ブラック・マッチョがその年の顔にならなかったということはヒップホップが誰のものであるかを考えさせる契機にはなりうる。ドレイクの過剰なセンチメンタリズムもさることながら、ミナージュは若い女の子たちに「セックス・アピールは必ずしも人生に必要なものではない」というメッセージを放ち、マッチョイズムとそれを補強するシステムに大きな打撃を加えている。リル・キムが焦りまくってミナージュをディスまくっているのも仕方がないというか、もしかしたらここ何年かで何かが大きく変化する可能性もなくはない(ミナージュに関して詳しくは近刊『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク篇』を参照)。
肩の力が抜け切ったカレンシーの存在感はそのような地図の中にあって、やはりマッチョイズムに対してボディブローを効かせる位置にいる。フラジャイルでどこか幻想的な導入からブルージーで退廃的な曲の数々を聴き進めるうちに、いつの間にか不信感で固まったような静けさへと落ちていく。ヘルツォークが『バッド・ルーテナント』で描いたようなヴィコディン漬けのニュー・オーリンズではなく、それこそ洪水の底に沈んだJ・G・バラードの終末観が似つかわしい。実にクールである。前作よりも格段にスタティックな仕上がり。
「マッチョではない」といえば、ECDが神戸のPOPOとジョイントした『ECDPOPO』もあまりに腰砕けで、いわゆる脱力の極を行っている。トランペット2にオルガンという構成のPOPOがまずは墨絵のようにミニマムで、恐れ入るほど音数が少ない。自己主張のない音というのは日本ではひとつの様式美のようになっているところがあり、何かを伝えようとするのが音楽なんだから、違和感を感じることも少なくはないのだけれど、これにECDのラップがのることで、まったく印象は異なってくる。ヤング・マーブル・ジャイアンツのような空間認識。ECDのラップが留守番電話に残されたメッセージのように必要なことを語り掛けてくる。大事な要件を。コソコソと。......あのバンドを思い出す。思い出さない。忘れよう。忘れない。
"ROCK IN MY POCKET"や"関係ねーっ!"といったお馴染みの曲があからさまな厭世観を剥き出しにし、新たなインパクトとともに僕の体内へと侵入してくる。そして、全8曲が終わっても「メッセージは以上です」とはいってくれない。メッセージはまだほかにもあるらしい。
三田 格