Home > Reviews > Album Reviews > Roméo Poirier- Off The Record
かつてライフガードだったロメオ・ポワリエは、デビュー作『Plage Arrière』(2016)で、ギリシャの浜辺と、そこから続く海底の静寂を、サウンド・コラージュとして描いた。そのとき彼は、まさに水の中の住人だった。
4年後の『Hotel Nota』では、ジョン・ハッセルの “第四世界” を思わせるオープニングに導かれながら、ポワリエは海からほど近いホテルの一室で、かつての自分をじっと見つめていた。その光景は、アラン・レネの映画『ジュ・テーム、ジュ・テーム』の、海辺の記憶が渦のように繰り返される場面を想起させる。
さらに『Living Room』(2022)では、身の回りの音から “室内の海” を築きあげる。だが、最後の曲 “Superstudio” で、彼はついに海を離れ、録音の現場、スタジオへと向かう。その “音楽が生まれる場所” から始まったのが本作『Off the Record』である。
彼によれば、今回の制作はこれまでとまったく異なるものだったという。作曲や録音に取りかかる前に、まずノートに音のアイデアを書き留めていった。それと並行して、スタジオ・セッションのアーカイヴ、映画のドキュメンタリー、YouTube動画など、あらゆる場所から音素材を集めていった。さらに、〈Faitiche〉のレーベル・デザイナーであるティム・テッツナーからも、膨大なアーカイヴ音源を受け取り、そこからいよいよコラージュと編集の作業が始まる。彼は1年以上をかけて音を集めたという。その時間もまた、作曲の一部だと言えるだろう。
タイピング、鼻をすする、少し歩いたあと、段差を降りる。マイクチェック(ヘイヘイ、オーオー、ツーツー)、咳払い……。本作のオープニング曲 “Diapason” は、そんな〈本編の外側〉から始まる。
2曲目 “Control Room” から9曲目 “Silencio” までは、地続きの夢。
“Langsam” では、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』と思われるリハーサル音源が、さざ波のような揺れるヴェールに包まれ、うっすらと霧が立ち込める情景が、幾度となく目の前に浮かびあがる。
“One Two One Two” は、ユーモラスであたたかい。ポワリエはこの曲について、こう語っている。
「この曲では、およそ100人の人々が “1、2、3、4” とカウントする声を集めた。何かが始まろうとして、結局始まらない──その前の瞬間の声なんだ」
それぞれの声の下に、カウントの流れに合わせて、リズムやハーモニーの要素を重ねていったという。彼にとってそれは、単なる積み重ねではなく “構成” そのものだった。この〈始まりの前にとどまり続ける音楽〉は、私たちに全く新しい感覚をもたらす。クリスチャン・マークレーの『The Clock』を初めて観たときの驚きが、耳に訪れる。
レコードのノイズと、物静かなピアノで始まる “Et vous” では、誰もいない階段の踊り場で少女が小さなステップを踏む──世界中の誰も知り得ない、充足した瞬間を切り取った宝物のような風景が広がる。
ひと呼吸置いた後の “The List”。彼と親交のあるアーティストやプロデューサー──スペース・アフリカのジョシュ・インヤング、アンビエント作家のアンドリュー・ペクラー、サウンド・アーティストのパトリシア・ウルフ、そして彼の父フィリップ・ポワリエらが、各国の名スタジオの名前を次々と読み上げていく。そこには、録音という行為そのものへの穏やかな敬意が漂っている。
ここでふと思い出すのは、坂本龍一の “War & Peace” だ。戦争と平和について語る様々な人たちの声が、坂本の編集によってひとつの楽曲として構成されている。どちらの作品も、他者の声を素材としているが、その扱い方はまったく異なる。坂本の方は、他者の声を “問いの媒体” として用いている。それは現実を突きつけるテーマと共鳴し、曲は力強い推進力をもって前へ前へと進んでいく。一方、ポワリエの方は、他者の声を “存在の断片” として用いている。音楽が生まれる場所や人々の記録が、地層のごとく空間へ積み重なっていく。反復される淡い響きの軌跡は、アンモナイトの螺旋のように美しい。
“Steve A.” は、シカゴ出身の著名なサウンド・エンジニアへのオマージュだ。恐らくそれはスティーヴ・アルビニのことで、彼のインタヴュー音声から「studio」と発する部分だけを抜き出し、再構成したユニークな約30秒の小品である。
“Fast Forward” では、実際の早送り音が過ぎゆく時間を折りたたみ、その連なりを容赦なく押し流していく。
ポワリエが語ってくれた制作の背景には、もうひとつ心に残るエピソードがある。彼は長いツアーのなかで、いつしかサウンドチェックそのものに魅了されるようになったというのだ。
「サウンドチェックのあいだは、会場にはまだ観客がおらず、ミュージシャンとサウンド・エンジニアが肩の力を抜いて、適切なバランスを探りながら音や意図を調整していく──そんな “ダンス” のような時間があるんです。そこには魔法のような瞬間があって、ときには本番よりサウンドチェックのほうが良いことさえあります。この体験が、今回のアルバムの出発点のひとつになりました」
〈本編の外側〉にある、本来なら切り捨てられてしまう副産物を、彼はそこにしかないかけがえのない素材として扱い、驚くほど表情豊かな〈本編〉へと反転させた。それが可能なのは、音楽が生まれるまでの過程を支えるすべて──ノートに書きとめたアイデアから、共に働く仲間たち、無数のスタジオの歴史まで──を、彼が等しく “音楽の本編” として慈しんできたからだろう。
そして、ラストの “On Suite”。彼はいつも、アルバムの最後の曲に、次の作品の予感を忍ばせている。ラスト数秒、音が消える直前に立ち上がる微かな気配。それこそ、彼の美学の結晶だ。『Off the Record』の幕が閉じる余白に耳を澄ませながら、私はただ、海辺でも、ホテルでも、スタジオでもない “どこか” で、次の作品を待ち続けている。
DJ Emerald