Home > Interviews > interview with Phil Parnell - ニューオリンズのジャズ、ロンドンのIDM、北欧の香気
マシューは、私のことをニューオリンズのピアニストから聞いて、レッスンを受けれないかと電話をかけてきたんです。私は彼とエレクトロニック・ミュージックの作曲とサンプリングのレッスンを交換すること承諾しました。彼に出会えて、新しい音楽のアイディアと音が見つけることができてとても嬉しかったし、マシューは私の生活を音楽的にも政治的にもいろんな方向で変えてくれました。
■すでにジャズ・ピアニストとして著名なアーティストのバックを務めていたあなたが90年代末にロンドンに渡った理由を教えてください。
パーネル:長い話なのですが、手短に話しますね。私はロンドンの人と結婚したので、そこに引っ越す機会がありました。ニューオリンズは素晴らしい町ですが、小さな町です。私は何年ものあいだ、たくさんのミュージシャンと仕事をしてきて、新しい音楽体験や新しい生活など、もっといろんな物を探していました。
ヨーロッパにはツアーで何度か行ったことがあって、私はとても好きでした。もし縁があったら日本やオーストラリアにも簡単に引っ越していたことでしょう。私は自分が音楽を演奏できるのならどこでもいいんです。あるとき私はニューオリンズはもうどこにも進まないんだと悟りました。そこは帰ってくるといつも同じなのです。もっとも最近では、天気やハリケーン、汚職政治家と軍などの影響で、仮にあのときロンドンに行ってなかったとしても私がニューオリンズにいたかどうか疑わしいですけどね。
■マシュー・ハーバートとの出会いはどんなでしたか?
パーネル:彼は私の友だちが働いていたスタジオで音のカットをしていました。当時のマシューは、エンジニアのひとりにジャズ・ピアノを習いたいと言っていていました。そして私のことをニューオリンズのピアニストから聞いて、レッスンを受けれないかと電話をかけてきたんです(笑)。私は彼とエレクトロニック・ミュージックの作曲とサンプリングのレッスンを交換すること承諾しました。彼に出会えて、新しい音楽のアイディアと音が見つけることができてとても嬉しかったし、マシューは私の生活を音楽的にも政治的にも、いろんな方向で変えてくれました。
1996年に、私はすでにいろんなことに気付いていました。たとえばTVを観ない、ファストフードは食べない、コカ・コーラは飲まない。他に方法が無い限りクレジットカードも使いませんでした。余裕があれば、できる限りオーガニック・フードを買うようにして、つねに食事をゼロから料理していました。
そしてマシューに会って、私たちがいま生きているこのシステムというものは、たんに社会や政治をメチャクチャにするだけだとさらに思い知りました。私はいまでもたくさんのショッキングや信じられないことを発見しています。人びとは何が起こっているのか知るには生活が忙しすぎます。マシューは、私たちがミュージシャンであるからこその使える機会の大切さを教えてくれました。音楽家は旅をして、人に会って、巨大な企業犯罪、奴隷制度、汚染、世界中の不正や腐敗についての注意を喚起することができるのです。
■あなたのような正統的なジャズ・アーティストが、ハーバートのようなサンプリング・ミュージックに惹かれることは稀だと思うのですが、あなたはハーバートのどんなところが気に入りましたか?
パーネル:マシューの音楽は新鮮で、神秘的、危険で、ときどき度を超えていました。新しい境界線を探し、他の何よりも違う音で、それが私にとって彼の好きなところでした。さらに彼は、音楽によって政治問題に取り組もうとし、怒りという感情の重要性と壊れたシステムに服従しないことを気づかせようとしました。
■教育を受けた多くのジャズ・プレイヤーは、昔ながらのモダン・ジャズの痕跡をなぞりたがるものですが、あなたはどうしてエレクトロニック・ミュージックのほうに積極的になれたのでしょうか?
パーネル:子供のときのいちばんの友だちのお兄さんがすごい数のレコードコレクションをもっていたのです。彼はすべてを買って聴いていて、変なモノでも良いモノでも、すべての音楽を私に教えてくれました。絶頂期のフランク・ザッパ、ブライアン・イーノ、プロコル・ハルム、ジョン・ケージ、ブラック・サバス、ジミ・ヘンドリックス......その他、名前はすべて覚えていませんが、60年代後期から70年代初期の不明瞭な音楽をたくさん聴かせてくれました。また私はチック・コリアやハービー・ハンコック、ジョー・ザウィヌルにはまっていたので、エクスペリメンタルやエレクトリック・ミュージックは、まったく知らないというわけではありませんでした。ストレンジ・ミュージックも、音楽への違うアプローチも好きなのです。
■〈パーロン〉や〈アクシデンタル〉からのソロ作品は、あなたにとってどんな意味がありましたか?
パーネル:家具職人が見たら木工学校の学生が作ったイスに見えるでしょうかね(笑)。端のまわりが少し荒く、少し不安定、カットは完璧で無いですね。音楽は学習過程で、私がいままでのレコーディングはほとんど音は良いのですが、私はさらに成長して、時間が経っても良いミュージシャンでありたいと思っています。なので過去のレコーディングに対してはどうしても批判的な傾向があります。
■あなたはクラブ・ミュージックを楽しんでいましいたよね?
パーネル:私はすべての音楽が好きですが、どんな音楽スタイルのなかにも良いものそして悪いものがあります。創造的なものがあり、物真似もあります。ハイエナジーで静かなものもあれば、空っぽでラウドなものあります。きれいな音楽が人を嫌な気持ちにさせることもあります。ラウドで怒ったような音楽が希望を感じさせることもあります。しかし、よい瞬間が起こる前には退屈な長い待ち時間がある人生のように、音楽はみんなに違うように語りかけます。
■pp3を結成した経緯を教えてください。
パーネル:私たちは7年前のリリアン・ブッティのデンマーク・ツアーで一緒に演奏をはじめました(いまでも1年ごとにやっています)。私たちは互いにプレイヤーとして、リズム・セクションとして、楽しく演奏することができました。すぐにいっしょにレコーディングして、そしてバンドになりました。『ブルー』はpp3にとってセカンド・アルバムなのですが、私たちはパート・タイム・バンドです。メンバーはそれぞれ他にもいろいろすることがありますからね。もちろん、もっともっとpp3をする時間が増えたら良いと思っています。私たちは良いコミュニケーションを持っているし、演奏中に魔法の瞬間がありますから。
■このバンドのコンセプトは何でしょうか?
パーネル:集合的な即興をブレンドし、私たちが"瞬間"を感じるところに音楽を持っていくものです。私たちは演奏しているときに互いのアイディアを出し合って、音楽の行き先を発展させ、変えていきます。予測不能な演奏です。
これが起こるとき、私たちはまるでリハーサルをしたかのように(実際はしていないのですが)、互いの音が最高にあっているのです。また、色とテクスチャーとして電子音を加えるのも好きです。トーベンとエスペンといっしょに仕事ができるのは光栄です。彼らは演奏者としてもかなりのハイ・レヴェルで、すべての音をいろんなスタイルで良くすることができます。
■長いロンドン生活を経て、最近あなたがデンマークに移住した理由を教えてください。
パーネル:デンマークは人口550万人の小さい国です。ロンドンは1500万人います。社会主義的な裕福な国で、ほとんどの人が余裕のある生活を送っています。ゆえに犯罪はほとんどないのです。無料の教育システム、健康保険、高額の労働最低賃金などがあり、人びとはより教育され、アメリカやイギリスなどに比べて絶望感は少ないと感じています。
ここに初めて来たとき、デンマークの人が窓のブラインドを開けて家を出ることに私はショックを受けました。家のなかが丸見えになるのですから、これをニューオリンズやロンドンでするとすぐに泥棒にやられます。これだけが理由では無いのですが......。私は美しく誠実で、正直で、非物質主義的で、地に足のついた素敵な女性に出会いました。彼女には5人の美しい子供と2匹のネコと1匹の犬がいるのですが、彼女は私を上品に招いてくれました。デンマークで、彼女と生活を共有することができました。私は幸運な男です。
取材:野田 努(2011年9月20日)