「Noton」と一致するもの

RIP Drummie Zeb - ele-king

 アスワド(Aswad)はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズやバーニング・スピアらの影響下でUKに誕生したルーツ・ロック・レゲエ・バンドで、UKレゲエのパイオニア、その代表的な存在のひとつに挙げられる。去る9月2日、バンドのヴォーカルでありドラマーだったドラミー・ゼブが永眠したことを英国のメディアがいっせいに報じた。
 アスワドに関しては、最初の3枚のスタジオ・アルバム、最初のダブ・アルバム、最初のライヴ・アルバム、最初の編集盤『Showcase』は必聴盤である。また、ドラミーの活動領域は幅広く、セカンド・サマー・オブ・ラヴの時代にはポール・オークンフォルドによるMovement 98のヒット曲「Sunrise」にて見事なリミックスを披露したり、ウルトラマリンの「Barefoot E.P.」においてもリミキサーとしてカール・クレイグやリチャード・H・カークらとともに名を連ねている。それから、アンドリュー・ウェザオールはアスワドの“Warrior Charge”をオールタイム・フェイヴァリットに挙げている。
 アスワドは1984年に初来日し、いまは無き後楽園ホールでライヴを披露しているが、ほとんど同じ時期に初来日したスティール・パルス(同じく初期UKレゲエの重要バンド)が座席指定の立ち見禁止ライヴだったのに対して、アスワドは座席無しのオールスタンディングだった。いまでこそこれは当たり前だになっているが、当時の日本ではパンクのライヴでさえも座席指定が常識だったので、このときはアスワドのパフォーマンスも素晴らしかったが、オーディエンスがみんな自由に踊ることができるライヴ公演自体が画期的だった。

 初めてレコード店でアスワドのファースト・アルバムのジャケットを見たとき、その神秘的なアートワークに魅了されてしまった。買いたかったが、ジャマイカ産以外のレゲエは認めなかったこの頃の日本の音楽誌の辛口の評を読んでいたので、最初はスルーした。2回目に見たときも3回目も……、スルーしながらもそのジャケットを見るたびに魅了され続け、結局、迷いに迷った末に買った1枚となった。後日、このジャケットがプリントされたトレーナー(おそらくバッタ物)を服屋で見つけたときは、もう迷うことはなかったけれど。それにしてもこのアルバムは1976年のリリースだから、当時ドラミーは17歳、後楽園ホールのときは20代半ばということになる。そうか、そんなに若かったのか。エネルギッシュな演奏だったもんな。あのときの“African Children”は、老人力がついてきたいまでも忘れることができない。(野田)

Oren Ambarchi / Johan Berthling / Andreas Werliin - ele-king

 かのフリー・ジャズ界のレジェンド、アルバート・アイラーの才能が最初に認められた場所は出身地アメリカではなかった。むろん日本でもないのだが、ではどこかと言うと実はスウェーデンである。1962年、当時まだ20代半ばだったアイラーは退役後にスウェーデンへと赴き、長期滞在しながら音楽活動をおこなっていた。そんな彼の演奏に魅了されたのがスウェーデン出身(しかもアイラーと同じ1936年7月13日生まれ!)の奇特な人物ベンクト・ノルドストロームだった。ノルドストロームはレーベル〈Bird Notes〉を立ち上げると、同62年10月にストックホルムでレコーディングしたアイラーのファースト・アルバム『Something Different!!!!!!』をプロデューサーとして世に送りだした。メンバーはアイラーのほか、地元スウェーデンからベーシストのトールビョン・フルトクランツ、およびドラマーのスーネ・スポンベルクが参加したトリオ編成だ。少部数しかプレスされなかったので、実際のところリアルタイムでどれほどのインパクトを持ち得たのか正確に知ることは難しいが、この作品がなければその後アメリカに戻ってからのアイラーの活躍も別の運命を辿っていたかもしれない──もしかしたら代表曲 “Ghosts” が陽の目を見なかった可能性もあるのではないか。

 ともかくスウェーデンはそのようにアルバート・アイラーという才能をいち早く見出した場所なのだ。そしてここで紹介するアルバム『Ghosted』(〈Drag City〉)もまたスウェーデンで録音された作品である。

 本盤はオーストラリア出身でいまや世界的に活躍する音楽家オーレン・アンバーチが、ともにスウェーデン出身であるベーシストのヨハン・バットリング、ドラマーのアンドレアス・ヴェリーンとのトリオ編成で録音した初のアルバムである。初のアルバムとはいえ、3人はこれまでたびたび共演し、アルバム・レコーディングもおこなってきている。直近では2021年末にリリースされたアンバーチのアルバム『Live Hubris』(〈Black Truffle〉)に2人とも参加していた。とはいえこの作品では他にも多数のミュージシャンが参加しており、サウンド面から言っても本盤『Ghosted』とは大きく異なる内容だ。本盤のタイトル、さらに不気味に薄暗いコートで独りバスケットボールをおこなう人物が写ったジャケットからは、コロナ禍でロックダウン中のゴーストタウンを想起させるかもしれないが、レコーディングはまだ世界が自由に行き来できた2018年11月、スウェーデン・ストックホルムのレコーディング・スタジオでおこなわれた。しかも一発録りのライヴ・レコーディングだそうだ。

 アルバムには全4曲が収録されている。ウッドベースのミニマルかつグルーヴィーな反復フレーズから始まる1曲目では、半世紀以上にわたって活動してきたスウェーデンのレジェンダリーな音楽家クリスター・ボーセンが、西アフリカの伝統的な弦楽器ドンソ・ンゴニで客演。ベースが延々と同じフレーズを反復する中、弦楽器と打楽器がリズミカルに絡みつき、そしてアンバーチはエフェクターを駆使したギターの多彩な音色を添える。続く2曲目では低域が抜けた浮遊感のあるサウンドに変化、こんどはエレキベースのハーモニクスが7拍子の反復フレーズを奏で、そこに打楽器のポリリズミックなビートやギターのアトモスフェリックな電子音が漂い、間を置いてエレキベースの低音も重ねられる。3曲目ではずっしり重いリズムとなり、ギターが残響を引き延ばすようにゆっくりとストロークするところから幕を開けると、ウッドベースに戻ったバットリングが息づかいとともに10拍子のフレーズを繰り返しはじめる。どの楽曲も延々と反復するミニマルなベース・フレーズを拠り所に、ドラムス/パーカッションがグルーヴを増幅し、そしてギターがバリエーション豊かな色遣いでサウンドを連ねるが、最後の4曲目では若干セッションのあり方が変化する──ほとんどドローンと化した4曲目で、スローモーションのようにリズムを刻むドラムス、レスリー・スピーカーを駆使したトレモロ音を聴かせるギターに支えられながら、一転してウッドベースが歌うようにメロディアスなソロを奏でるのである。

 極めてミニマルであり、ダンサブルなグルーヴがありつつ、同時にアンビエント/ドローンな魅力も湛えた作品。楽曲が進むにつれて音の動きが静止状態へと近づき、徐々に低速化するような聴取感覚にも陥らせるそのサウンドはアルバート・アイラーとは似ても似つかない、が、繰り返し聴いているうちにどんどんアイラーとの共通点ばかりが頭をよぎってしまっていた。スウェーデン出身のリズム隊を迎えたトリオ編成。スウェーデンでのライヴ・レコーディング。「Ghosts」と「Ghosted」。サウンドは似ていないが、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社)に収載されたインタヴューで大友良英が語っているように、アイラーの音楽構造を地と図の関係から解釈するのであれば、サニー・マレイがパルス・ビートを敷き詰めるのと同じくヨハン・バットリングが偏執的な反復で下地を作り、アイラーが咆哮するのと同じくアンバーチが変化に富んだ図を描く。その構造は相似的だと言える。しかも1曲目で客演したクリスター・ボーセンは、アイラーのバンドに一時期在籍した稀代のトランペット奏者ドン・チェリーと1970年代前半に共演し、ヨーロッパでツアーをおこなった人物でもあるのだ。

 これは単なる偶然を超えた符号か、あるいはバイアスのかかった思い込みに過ぎないのか。いずれにしても次のようには言える。かつてアイラーは出身地のアメリカで、あたかも幽霊のようにほとんど無視されていたところ、スウェーデンに渡って才能を開花させることになった。ならばスウェーデンで録音された本盤もまた、無視(Ghost)するわけにいかないだろう、と。

FN Meka - ele-king

 いやはや、少し前にAIが感情を持っただのなんだのという話題がありましたが、次世代音楽企業を自称する「Factory New」の共同創業者、アンソニー・マーティーニ(白人)とブランドン・ル(アジア人)によって開発され、アメリカの大手レコード会社キャピトル(その傘下にはブルーノートもあります)がデビューさせたAIラッパー、TikTokで1000万人以上のフォロワーを誇る、人工知能を一部搭載したヴァーチャルな「ロボットラッパー」、その名もFN Meka。去る8月12日にデビュー・シングル「Florida Water」をリリースしばかりですが、早々と降板が決定したようです。
 というのも、AIラッパーの黒人の外面、そしてNワード連発、刑務所で警察から暴行されるインスタ投稿など、“黒人ラッパー”のステレオタイプ化がひどかったそうで、さっそくブラック・コミュニティから猛反発を受けることに。これにはキャピトルも速やかに謝罪を表明し、このプロジェクトの中止を発表した。なお、楽曲と歌詞はポピュラー音楽を分析するAIシステムによって生成させたもの、楽曲は人間が演奏していたそうだ。

Ashley Paul - ele-king

 アシュリー・ポールは、すでに10年以上のキャリア持つ音楽家で、それこそ10年前は、日本でもよく知られるイーライ・ケスラーと何枚も共同作品を発表している。ふたりはその頃、ニューヨークで共同生活を営んでいた。それから彼女は大西洋を渡って、イギリスを拠点に音楽活動を続けている。
 アメリカ中西部のアイオワ州はデモインで生まれた彼女の音楽の素地は、彼女の育ち(ジャズギターを弾く父、クラシック・ピアノに長けた姉のいる音楽一家)のなかで萌芽し、ニューヨークでの大学時代に多くの養分を吸収している。幼少期よりポール・デズモンドに憧れ、「将来はサックス奏者になる」と言い回ったほど早熟だったポールは、そして実際サックス奏者となるわけだが、19歳でアート・リンゼイに衝撃受けると、実験的な音楽やインプロヴィゼーションに惹かれていった。かくして彼女は、大学院で学位を取ってからも毎日地下鉄で6時間演奏するような生活をしばらく送ることになる(だから最初の1年間は、小銭で食事代を払い、家賃を払うにもすべて1ドル札だった)。そんなわけで、彼女のボヘミアン的な生き方は、彼女の音楽にも直結しているように思う。
 
 〈オレンジ・ミルク〉からリリースされた『 I Am Fog(私は霧)』は彼女の最新作で、ここにはジャズの実験とポスト・パンク的な失敗を恐れないアプローチがあり、そしてこの音楽はグルーパーやリーア・バートゥチの作品ようにマージナルな領域で身を潜めている。ポールは歌い、そしてサックスとクラリネットを演奏し、オットー・ウィルバーグとヨニ・シルヴァーがコントラバスとバスクラリネットでサポートする。音数は少ない。9分近くある1曲目の“A Feeling”では、楽器は旋律を奏でるというよりもドローンに引き伸ばされている。曲全体がスクリューされたかのようなこの曲の灰色の沈黙は、しかし奇妙なほど穏やかでもあり、切なくもある。ベースとドラムに導かれて、サックスによる不協和音が挿入されると歌が繰り返される“Escape”は、フライング・リザーズの前衛ジャズ・ヴァージョンだ。なかば絶望的なムードからはじまる“The Sun is Out”は、秋の気配を感じる今日ではいっそう心に染みる曲だが、彼女はこのやるせない無調な日々のなかに希望を見いだそうとする。
 元々ボヘミアン気質のあった彼女の「自由が奪われた」コロナ禍において制作されたこのアルバムは、全体的に不安定さを貫き、色彩を奪われたかのような荒涼さが広がる。かつてピート・スワンソンから「もっとも硬派なノイズ野郎の首の後ろの毛を立たせる」と形容されたその声は、孤独で、ときおり悲しみの表情を見せている。しかしながらこれは親密な音楽で、空間的でもある。椅子に座って聴いていると、自分のすぐ前に小さなステージがあり、手の届くところで3人が演奏しているように感じられる。グルーパーのように、彼女も唯一無二の音楽をやり続けている希有なアーティストのひとりで、その音楽は柔らかく美しい。もっと日本でも注目されていいと思う。

Nick Cave & Warren Ellis - ele-king

 ザ・バッド・シーズやグラインダーマンという栄光がありながら、アーティストとしてさらに光沢を増しているニック・ケイヴとウォーレン・エリスのふたり。昨年はアルバム『Carnage』が多方面から高く評価された彼らが、その次に手がけたのが映画『ベルベット・クイーン ユキヒョウを探して』のサウンドトラックだった。

 もとよりこのふたりはいくつもサウンドトラックを手がけているのだが、今回は自ら「やりたい」と申し出たいわくつきの作品。しかも、チベット高地に生息する滅多に見ることができない動物、ユキヒョウを追い求める自然ドキュメンタリーとなると、いっしゅんピントが合わないザ・バッド・シーズのファンもいるかもしれないが、これがまた、ライ・クーダーの音楽が『パリ・テキサス』の一部であったように、ケイヴとエリスの歌とサウンドは『ベルベット・クイーン』とばっちり合っているのだ。この神秘的な自然を描写する映像の世界には、やはり一流の詩人が必要だし、その詩人の言葉と崇高な自然との溝を埋めることのできる一流の音楽家の腕前が必要だった。


 そんなわけで、これは音楽ファンもチェックして欲しい映画です。野生写真家と小説家のふたりの冒険を軸にした物語もじつに感動的で、最後に流れるニック・ケイヴの歌がまた泣かせる。
  8月27日から新宿K’s cinema 全国順次公開予定。詳しくはホームページをご覧ください。そういえば、グラインダーマンのジャケットは動物だった……
 


 出る出ると言われてなかなか出なかった木津君の本がようやく刊行されて、楽しく読ませてもらった。おもに欧米のポップ・カルチャーを愛する彼は、音楽や映画から言うなれば人生論や世界の見方を引き出し、それを文章にして発表している。エレキングではもう、かれこれ10年以上アルバムのレヴューを中心に書いてもらっているが、彼の関心ごとには、彼の好きな音楽を介して見える「社会」や「生き方」とともに、ゲイとしての文化論やジェンダー論もあることは、もう長年の読者には周知の話だろう。
 木津君は面白い男で、彼はぼくと初めて会ったときに、会話もそろそろ終わりかなというタイミングで、突如、じつはぼくはゲイなんですと切り出した。渋谷の宇田川町にあるカフェの奥の方の席だった。ぼくはそれまで、高校卒業後に仲の良かったふたりの友人から目の前で告白されたことがあった。某企業で働いていたときに、高学歴の社員が自分はゲイだから出世できないので辞めるといって辞めていった話も聞いたことがある。しかし編集者として、初めて会った書き手からそんなことを言われた経験などなかったから、あのときはぼくも面食らった。本人にとっても初対面で言うのだから、意を決してのことだったはずだ。ぼくがゲイ文化(たとえばストーンウォールの暴動など)についても書いていることと、こういうことは最初から言っておいたほうが良いのではないかと思ったというのが彼の言い分だった。ぼくだってハウス・ミュージックとの出会いがなければ、ゲイ文化に対するリスペクトは持ち得なかったかもしれない。マシュー・チョジックが紙エレキング紙上で言ったように、文化は政治に先んじ、その影響力というのはひとが思っている以上に大きなものなのだ。
 
 それにしても時代は変わった。大きく変わった。ことに性的マイノリティーをめぐる言説に関しては、『仮面の告白』や『ベニスに死す』や『バナナブレッドのプディング』の時代とは別世界だ。80年代の新宿2丁目のいかがわしいアンダーグラウンドな匂いも(再開発のこともあって)いまはない。ましてや、ぼくと木津君とが初めて会ってからこのおよそ10年のあいだで、社会はめざましい速さで変化していった。人種、フェミニズム、そしてLGBTQといった人権をめぐっての人びとの意識は、まあ、少なくはないその反動を抱えながらも如実に更新されてきているが、そうした社会の変化に敏感だったのは、(ぼくは間違っても欧米至上主義ではないが、ひとつの事実として言えば)欧米のポップ・カルチャーだった。それにDJカルチャーにおいても欧州は、白人男性だけに偏らず、女性、黒人、アジア人を同時にブックするようになったし、エレクトロニック・ミュージック・シーンにおける女性とLGBTQの進出拡大については、ここであらためる必要などあるまい。いまではむしろ男はどこ? といった感じだったりする。
 こうした社会の激変期たる今日において、では自分たちはどうしたものかと難しい立場に置かれているのが「男性」だ。木津毅にとっての初の単著、『ニュー・ダッド』におけるひとつのテーマもそこにある。これは議論のしがいのある話だとぼくも思う。男は、旧来の社会が強制してきた男性性から必ずしも自由になれないまま、変革を強いられている。弱音を吐くわけじゃないが、これはきつい。政府が時代に逆行してきたここ日本ではとくにそうだろう。誰もがキュートな中年になりたいと思えるのかどうかも、難しい話だ。だが、社会は動いているのだし、家父長制の残滓とどう取り組んでいくのかは、未来を思えば避けがたい課題でもある。『ニュー・ダッド』の主軸となっているのは、映画や音楽あるいはゲームや漫画など主に欧米のポップ・カルチャーを題材にした「cakes」での連載原稿で、ここには男性性——木津君の言葉で言えば「あたらしいおっさん」——をめぐっての考察が展開されているのであるが、本書は難解なタームをバシバシと続けるような批評でない。著者があれこれ感じたこと/考えたことをつらつらと書いているエッセー集といった趣の本だ。
 ぼくが木津君の文章で好きなところは、なんでもかんでもロジックで白黒決めつけないところだ。ダメなヤツにだっていいところはある。つらい人生にも夢はある。ロジックだけでは割り切れない感情だってある。それを甘いと考えるか、それとも優しや寛容さと取るかは読み手次第かもしれないが、たとえばブルース・スプリングスティーンについての文章には、いかにも木津毅らしいヒューマニズムが描かれていると言えるだろう。スプリングスティーンの“ザ・リバー”をロック史上に残る名曲だと断言する彼は、同曲を器用には生きられない悲哀に満ちた人間ドラマとして評価する。アメリカンドリームの影であり、白人低賃金労働者の物語としての社会的な重みにフォーカスするのではなく、ひとりの男の人生における夢の叶わなさという普遍的な話として彼は受け止め、そして次のように自分の考えを加える。「ひとは器用に生きられないし、簡単にあたらしくなることなんてできない。それはどこかで、「男性性」の更新の難しさと重なっているように思える」。そうした「男性性」の更新の難しさを描くスプリングスティーンが、ではなぜアメリカのフェミニストからも評価されているのかという展開がこのエッセーの読みどころになっている。
 ポリティカル・コレクトネスは、歴史的な多くの物事にあらためて白黒はっきりさせている。それで良かったことはもちろん多々ある。また、同時にジェンダー平等の意識もじょじょに広がっているのだろうけれど、他方では、「正しさ」をもってひとを必要以上に叩き、多様性を主張しつつも逸脱を否定し、監視やパブリックシェイミングを促しているリベラル的なるものの暴走も見受けられるようになった。もっとも炎上しがちなやっかいな話題でもあり、要するに繊細なテーマなのだ。『ニュー・ダッド』の特徴のひとつは、こうした時代のなかで変化する意識(の本質)を基本的には肯定的に受け入れながら、過度なキャンセル・カルチャーには戸惑いを露わにしつつ、思いのうちに人道主義的なアプローチをためらいもなく導入している点にある。人間愛という、ともすれば古くさいと思われているであろう考えをいまの「あたらしさ」にぶつけているところが、木津君らしいというか、本書における政治性と言えるのかもしれない。これに近い感覚は、彼のお気に入りの監督であるケン・ローチやアキ・カウリスマキの映画にも見受けられるだろう。
 『クッキングパパ』を論じるところには、男性性を更新させていくにはまずはシャドウ・ワークを男がどれだけできるかだと思っているぼくには大いに共感できる。シャドウ・ワークとは家父長制が女性に強制してきたものなのだから、まあ、ひとを雇えるほどの収入でもない限りは、ぼく自身もふくめてこれは克服しなければならない課題だろう。『20センチュリー・ウーマン』は、彼からレインコーツの話が出てくると教えられて見た映画だったが、これもとらえ方によっては、女性の話を聞くということができない男性社会への批判にもなっている。ちなみに著者の気持ちが、強く述べられているのはここだ。いわく「男がフェミニズムを学ぶということは、立場の違いから完全に理解しえない(だろう)問題を、それでも理解し続けることだ」
 
 本書のなかでほかにぼくが好きなのは、木津君の愛情がたっぷりと注がれたボン・イヴェールについての原稿だ。話は逸れるけれど、『ヴァイナルの時代』というレコードについての本を9月に刊行することになった。同書はじつに示唆に富んだ内容の本で、レコード・リスニングをめぐっての哲学や社会学にまで考察が及んでいるのだが、その本のなかで、ひとつの型にはまった(悪しき)男女関係として、「ヘテロな恋愛関係は男性が女性を教育することを中心に回っている、という70年代のウッディ・アレンばりのアイディア」という一節が出てくる。この手の恋愛関係のあり方もそうだが、だいたい男性というものは硬直した人間関係から抜け出せないでいる。また、ぼく自身もそうだが、自分の感情を露わにすることをどこかで抑制しているようなきらいがいまでもあるものなのだ。そういうなかで、社会との関連性や理想とするヴィジョンもないのに、無闇やたら理屈っぽい文章を書いてしまうのも男性特有のマッチョさと言えるのだろうね。そこへいくと木津君の文章は、マッチョな文章からは振り向きもされない言葉で埋め尽くされているというのは言い過ぎだが、そんな風合いがある。
 
 まあ、気楽に読んでくれよと、そうことなのだ。そもそもポップ・カルチャーを語る言葉は、昔グリール・マーカスが高校の放課後における友人たちとの会話を喩えにしたように、好きだからこそ語られる言葉にはじまっている。そして、やがてなぜ自分はそれがこんなにも好きなんだろうということを追求していったときに、より深い言葉へと向かっていくものだったりもする。木津毅は、このプロセスにおける「好き」の力がかなり強いライターだ。それに、これは昔DOMMUNEでもいったことの繰り返しになってしまうが、ポップ・カルチャー、ことに大衆音楽を語ることの愉楽には、自分の人生と重ね合わせながらそれを語ることができるという点にもある。いわゆる自分語りだ。『ニュー・ダッド』において木津君の自分語りはほぼ全編に渡っているのだが、本書のもうひとつの軸は5つの書き下ろし原稿によるじつにエモーショナルな彼の自叙伝的な話にある。ここでは男性の好みをはじめ、性の目覚め、自我の葛藤、カミングアウトと家族のこと、現在の恋人のことなど彼の半生が赤裸々に綴られている。ユーモアを忘れずに書いてはいるが、著者の人生に対する真摯な向き合い方と優しさがにじみ出ているこれらの文章には素直に感動させられてしまった。とくに彼が初めて家族にカミングアウトしたときの話は、きっと多くのひとが心を揺さぶられるに違いない。 

 髭面の太った中年男性(つまり、外見的には典型的なマッチョな男性ですな)が彼の好みだという話は、これまで本人の口から耳にたこができるくらい聞かされている。彼の「好き」にも付き合いきれないところはあるし、序文を読みながら「またその話かよ」と思ってしまったのは、彼を知る人間の感想としてはまあ普通だろう(笑)。また、ひとをyoungとoldで分ける発想はぼくにはない。若者は将来のおっさんであり、おっさんはかつての若者だ。というか、そもそもぼくは中高年を「おっさん」とは呼ばない。商店街の顔見知りには「親父さん」と声をかけている。それにぼくは、見るからに強そうな男ではなく、見るからに弱々しい男にこそ期待している……とか、そんな風に細部においては同調しかねる箇所もあるにはあるのだが、基本的に『ニュー・ダッド』は心温まる本だ。とかく殺伐としたこの時代に必要とされているものが本書には詰まっているように思う。木津君には、人生とは楽しめるものなのだという確信がどこかにあって、そのオプティミズムは本書にも通底している。最後に収録されたバーベキュー・パーティの文章がそれをうまく物語っている。これは良いエンディングだった。

Actress × Mount Kimbie - ele-king

 アクトレスことダレン・カニンガムとマウント・キンビーのカイ・カンポスによるシングル曲 “AZD SURF” が8月3日に〈ニンジャ・チューン〉からリリースされている。アクトレスらしい歪んだビートとカンポスのヒプノティックなメロディが耳に残るトラックだ。両者はこれまでもツアーやラジオなどで共演してはいたが、作品を共同で発表するのは今回が初めて。もしかして、アルバムも控えていたりする……? 続報に期待しよう。

https://actress.bandcamp.com/album/azd-surf

Ebi Soda - ele-king

 UKジャズの中心はロンドンで、ほかにマンチェスターやブリストルにもシーンは存在しているが、それら以外の都市からも面白いアーティストが登場している。そのひとつがブライトン出身のエビ・ソーダだ。ブライトンは英国の南部海岸沿いの街で、産業都市というよりもリゾート地として有名なのだが、そうした土地柄もあって昔から陽気なパーティー・ミュージックが盛んで、ナイトクラブも多い。トロピカルな南国調の音楽も根付いていて、レゲエやダブなども人気だ。ロンドンやマンチェスターをはじめ、UKの音楽には一般的にダークでシリアスなものが多いのだが、それらとは一線を画すムードがあるのがブライトンである。レーベルでは〈トゥルー・ソウツ〉が有名だろう。現在の〈トゥルー・ソウツ〉はムーンチャイルドをリリースするなどUK以外のアーティストも扱っているのだが、レーベル初期はボノボクアンティックという地元ブライトン出身アーティストが看板だった。中でもクアンティックはラテンやレゲエなどを取り入れた音楽性で、ブライトンらしいアーティストだったと言えよう。

 エビ・ソーダはブライトン出身の5人組で、リーダー格のヴィルヘルムことウィル・イートン(トロンボーン)ほか、コナー・ナイト(ギター)、ハリ・リー・イートン(ベース)、ルイス・ジェンキンス(キーボード)、サム・シュリック・デイヴィス(ドラムス)というメンバーに、楽曲によってサックスやトランペットなどが加わる。2019年にデビューした若いバンドで、これまでに『エビ・ソーダ』と『ベッドルーム・テープス』という2枚のEPや数枚のシングル、2020年にはファースト・アルバムとなる『アーグ』をリリースしている。デビュー作の『エビ・ソーダ』を聴いた印象では、ジャズ・ファンクをベースとしたソリッドなビートを刻むリズム・セクションは、ヒップホップやドラムンベースをはじめとしたクラブ・ミュージックの影響下にあるもので、南ロンドンの新世代ジャズと同じ地平にあるものだ。そうした中でトロンボーンが前面に出てきた演奏はレゲエやダブ、アフロ・ジャズの影響も感じさせ、南ロンドン勢で言うとサンズ・オブ・ケメットにも近いところがあるようだ。

 ファースト・アルバムやEPはロンドンのレーベルの〈ソーラ・テラ〉からのリリースで、ライヴ活動もロンドンで積極的におこなってきたエビ・ソーダだが、この度リリースしたセカンド・アルバム『ホンク・イフ・ユー・アー・サッド』は地元の〈トゥルー・ソウツ〉からとなる。『アーグ』では男女ヴォーカリストをフィーチャーしたよりクラブ・ミュージック寄りの作品もやっていたが、『ホンク・イフ・ユー・アー・サッド』はそもそもの原点であるインスト・バンドに立ち返ると同時に、厚みのあるホーン・セクションやチェロなども交え、全体的に深みを増した演奏を展開している。ゲストではヤズ・アーメッドの参加が目を引くところだ。

 そのヤズ・アーメッドが参加する “チャンドラー” は、重低音の効いたリズム・セクションとホーン群の情熱的な演奏にエレクトロニクスを交え、全体的にはダビーな空間構成がなされている。ダブの影響下にあると共に、クルアンビンとかテーム・インパラあたりに通じるサイケデリックな風味もまとった楽曲だ。“セウドクリーム” もダビーでサイケデリックな空間構築と、ジャズ・ファンクともクラウトロックともニューウェイヴともつかないミクスチャーな演奏が融合した楽曲。ココロコバッドバッドナットグッドローニン・アーケストラなど同時代のアーティストと共に、カン、ラウンジ・リザーズ、ザ・フォールなど過去のアーティストも影響減に挙げるエビ・ソーダならではの楽曲だ。“クリスマス・ライツ・イン・ジューン” は人力ドラムンベースや人力ダブステップ的なビートの楽曲で、ルーツ・レゲエやラスタファリズムに通じるミステリアスな音色をホーン・アンサンブルが奏でていく。ブライトンをベースとするエビ・ソーダの個性が前面に出た楽曲と言えるだろう。

Pan American - ele-king

 いやしかし暑いですな。本当に暑い。少し外に出ただけで汗が噴き出るし、夜も寝苦しい。でも、それでもぼくは夏が好きなんですよ。夏の空、入道雲、蝉の声、ヒマワリや朝顔、これだけでも気持ちが上がる。毎週通っている区民プールも夏休みの子供たちでいっぱいで、騒がしいけれどそのほうがいい。夏最高。
 と、そんな書き出しではじめながら、今年の2月にリリースされた、冬の木枯らしの荒涼とした写真をしつらえたアートワークに包まれているアルバムを紹介しよう。ビールを飲みながら聴いていると至福の時間が流れること請け合いだ。
 
 マーク・ネルソンによるパン・アメリカンは、ポスト・ロックなるジャンルがざわめきたった90年代後半に、シーンのいちアーティストとして脚光を浴びたベテランで、その前はラブラドフォードなるバンドのメンバーだった。ちなみに、同バンドの1stアルバム(1993年)こそシカゴの〈クランキー〉の第一弾であり、このレーベルの名盤の1枚にも数えられている。それに、スペースメン3やループといった80年代UKのモダン・サイケに影響された彼らのサウンドは、のちのレーベルの方向性(ロスシル、ディアハンター、ウィンディ&カール、スターズ・オブ・ザ・リッド、グルーパーティム・ヘッカー、そしてロウやGY!BEまで)としっかり符合もしている。つまり彼らが志向した音楽は、初期のシーフィールとも似た、アンビエントやドローン(ないしはクラウトロック)の要素を吸収した静寂のサイケデリア。パン・アメリカンは、ラブラドフォードで試みたポスト・ロックの青写真めいたサウンドから、アンビエントなギター・サウンドを抽出する格好でスタートしたネルソンのソロ・プロジェクトである。
 
 アンビエントを作る人のほとんどが使うのは、鍵盤の付いた電子楽器やコンピュータだが、ネルソンはギター演奏でそれを表現しようとする。パン・アメリカンとしては9枚目のアルバムとなる『ザ・ペイシェンス・フェイダー』もギター・インストゥルメンタルを集めた作品で、控えめなダブ処理はあるものの、エレクトロニクスには頼っていない。曲によってはハーモニカ(あるいはアコーディオンも?)も使っているようだが、ゆったりとした楽器の演奏による音色と旋律とその間(静けさ)によって彼のサウンドスケープは創造される。全編ビートレスで、どの曲も美しく、ブルージーだが、どの曲も夢見る響きを持っている。この繊細な音楽の素晴らしさは、なんといっても仕事をしたり、日々の心配事だったり、などといった毎日強制される時間感覚から解放されるという点にある。
 
 いま、『ヴァイナルの時代』という、レコードに関する本を編集している。ヴァイナル・レコードの魅力についての本で、社会学や哲学的なレヴェルまで掘り下げてレコード収集について述べられている本だ。レコードの魅力を語る上で、音質が良いという話がたびたび出てくるが、音質の善し悪しは聴き手の好みも入ってくるので主観的なことでもある。では、レコード・リスニングの魅力とは何かというときに、ひとつの理由として、それを聴いている体験は誰にもその履歴を追跡されないし、広告の入る余地もない、ただ自分のものとしてある、という話が同書には出てくる。これはCDでも、独立した再生機をアンプに通して聴く分には同じことになるが、重要なことだとぼくには思える。
 また他方では、レコードを聴くことは、時間感覚を変えるという旨も詳説されている。これもまた十分にうなずける話だ。一時期はぼくも流行に便乗して、電車に乗っているときもサブスクで音楽を聴いていた時期もあったが、ずいぶん前に止めてしまった。それはまるで、人間の持ち時間の隙あらばどんな時間帯でも消費活動に走らせる資本主義の一部のごときというか、生産性のない無駄な時間、何もしない時間がどんどん減っていっているような今日における、支配的なデジタル消費文化の一部に思えてしまうのだ(コンテンツなどという呼称は、それなしでは生きられないほど愛している人間や丁寧に聴かれることを望んでいる音楽にとっては侮辱的だろう)。個人として音楽を聴くことは、むしろそうした支配的な時間感覚から逃避することだったと思うし、ぼくにはいまでもそれが、音楽を聴くことを好んでいる理由のひとつだ。レコードを聴くということは、そのための時間を作ることでもあり、忙しい日々からいったん自分を切り離すことでもある。
 
 そんなわけで、地味な作品ではあるけれど、慌ただしい時間帯からの解放という点においては、パン・アメリカンの本作は良いセンいっている。ぜひレコードで……とは言いません。ただ、自分の部屋のなかで、すべての作業はいったん止めて、音だけに集中して無駄な時間を満喫しましょう。

black midi - ele-king

 聞いてくれ! といがらっぽい声でのたもうたのち、作中人物になりかわったジョーディ・グリープは月光のもと愛の甘いささきがながれ、オートバイが柔らかいエンジン音をたて、風土病がはびこり、緑のテーブルに土産物がのった赤い部屋のある歓楽街への上力をみとめ、戦争のなんたるかをのべる――ファースト・シングル“Welcome To Hell”のいささか、というかまいどながらシュルレアリスティックな舞台設定に伏在し、サウンドに共鳴し合うものが前作から1年というみじかいスパンでのリリースとなるブラック・ミディの3作目『Hellfire』の構えをさだめている。“Hellfire=地獄の業火”の表題はそこであたかも禍々しい阿鼻叫喚をくりひろげるようでいて、グリープはおそらく種々のハードコアやエクストリーム・ミュージックがむかいがちなリニアな志向性とは似て非なる多義的な含意をタイトルにこめている。むろん圧力は低くはない。1分半に満たない冒頭の表題曲から、サウンドは芝居気たっぷりで、和声の動かし方と情景の描き方とアコーディオンの使い方にはギリアムの『12モンキーズ』におけるピアソラを想起したが、タイムループのなかでもウイルスの蔓延を止められないあの映画以上に、2022年の現実世界は平然と閉塞し、また逼迫しつづけているのはまちがいない。ロックダウン下のロンドンで制作をすすめ、仕上げ段階で戦争の影をドーバー海峡のはるか向こうにみとめたにちがいない2022年にあって“Hellfire”の名づけは、ややもすると状況のメタファとして機能するがゆえに記号化し空洞化するおそれもなくはない。もっともそのような象徴世界に出自をもつブラック・ミディの面々なのだからネット社会の機制はおりこみずみであろう。
 そのことはこの3年の3作に克明に刻んである。2019年の『Schlagenheim』から2021年の『Cavalcade』を経て本作へいたる、その足跡を深々とふりかえることは本稿はさしひかえるが、セカンドの濃密さとざっくばらんな多彩さはその年のベストに選出したほど新鮮だった。プログレにせよノイズ・ロックやマス・ロックせよ、ジャズやフォークや70年代の歌謡曲でも、思いあたるふしがあればこその興味ではあったが、彼らの数式は私が学校で習った四則演算にはなかった要素をどうやらもっているらしいのだ。『Cavalcade』の折衷主義を前にしたとき、私はそのように考え、前作からの飛躍とも落差ともつかない変化の度合いに可能性をみたのである。
『Hellfire』はおおまかにはその延長線上に位置するものの、前作で主題にすえていた(音楽の)形式的なあり方はいくらか後退し、観念的な側面がせりだしている。切片的なフレーズと、急転直下の展開は前作をひきつぐが、グリッド的な構築性といった方法的な行き方よりは作品性やドラマ性が勝っている。そのように考えてしまうのは海外メディアに載ったグリープのインタヴュー記事を目にしたせいだが、なかでも「The Quietus」でアルバムを13枚選出する企画は『Hellfire』の参考になるので機会あればご覧になられたいが、その前書きで著者はグリープの発言を引き、本作の歌詞は一人称をもちいていると記している。人称については小説=私小説と考えがちなわが国では歌詞の主語は歌手——シンガーソングライターであればなおのこと——そのものだと思いこみがちだが、そのような約束事はむろんどこにも存在しない。グリープのいう一人称は英語の「I」だろうが、そのすぐあとに彼はキャラクターを徹底的につくりこんだので聴いているあいだ彼(グリープ)の存在にはほとんど光はあたらないはずだとも述べている。彼は作中のキャラクターに扮しているのであって歌でなにかをつたえているのではない。私はあたりまえなことをいたずらにややこしくしているだけかもしれないが、音楽という身体の現働性をうちにふくむ形式は主体と虚構を接近させ聴き手の錯覚をまねくきらいがある。これは自作自演があたりまえになってSNSや動画共有サービスがアンプリファイアーと化した以降の主体の定位置だが、全人類が右にならう必要などないし、音楽の歴史ではそっちのほうがずっとみじかい――と、ローラ・ニーロからウィリー・ネルソンやトム・ウェイツ、マーヴィン・ゲイやアイザック・ヘイズ、レオ・フェレといったグリープのリストに登場する先達たちの顔ぶれに感じいったのである。
 グリープは歌というものを語りの境地でとらえなおしたかったのではないか。ウィリー・ネルソンのマーダー・フォークや、倒錯的で諧謔的なトム・ウェイツの詩性ように、歌の外に身を置きながら異形の世界を語り聞かせる。ドラマ性が勝るという『Hellfire』にたいする印象は楽曲における説話構造の強調にも由来する。そのような見地にたてば、冒頭に述べた “Welcome To Hell”の「聞いてくれ!」のいち語も作中人物の声であるとともに話者から聴き手への呼びかけともとれる(その場合“Welcome To Hell”は二人称となる)。
 語りの重層性により『Hellfrie』は前作との差異化を果たしたが、語り手としての主体の位置をなぞるようにミックスでは声はつねに音楽空間のわずか上方にあるように音の定位がなされている。いわばメタ=ヴォーカルとでもいいたなる位置に声を置くことで『Hellfire』の10曲はアルバムの引力圏につなぎとめられる。安易に演劇的などと誤解を招くやもしれぬことばづかいは慎むべきであろうが、『Hellfire』がシアトリカルな志向性をつよくもつのはまちがない。とはいえ本作は音楽であり、音楽は歌詞や作品の物語的な側面を一から十までわからないとおもしろくないわけではない。問うべきはむしろ、作品内で同時多発的になにが起こり、いかに時間が進行するかという論点であり、説話とはその運動の態様をさす。ブラック・ミディはアルバムという古典的な形態を借りてそのことに真剣にとりくんでいる。坂本慎太郎はもはやアルバムなんか聴くひとなどいないといわれ、曲順を考えることは徒労にすぎないと取材者にご助言いただいたというが、私は一定の構造と物理量がなければ表現できないことは絶対に存在すると『物語のように』や『Hellfire』を聴くたびに思う。長さが問題ではないのだ。給付金でもベルクソンでも持続が肝要なのである。
 持続とはすなわち継起する運動であり、要約できない全体である。その観点から『Hellfire』をふりかえると、“Hellfire”“Sugar/Tzu”“Eat Men Eat”から“Welcome To Hell”とたたみかける前半は息もつかせない。管や弦の使用は現在の彼らの通例であり、録音における無際限の選択肢を意味しているが、オーバーダビングという行為を自己解体とみなすスタンスはこれまで以上にきわだっており、めまぐるしさはジャズ・ロックよりのプログレ的でありながら、楚々とした叙情性はユーロックと呼ばれていたころのプログレであり、しからば王道のプログレかといえばそんなことはまるでない。ブラック・ミディの音楽には演奏家のきわめて2020年代的な身体性——ことにモーガンのタイム感とフレーズの組み立てはモダンドラムの典型——が働いており、再現や反復は必然的に飛躍をこうむるが、飛躍を倍加する速度を戦略の骨子とした点に彼らの特色がある。ここでいう速度はむろんテンポやBPMではなく、ましてはファスト映画のファストとかでもなく、解釈や判断におけるそれである。現在のブラック・ミディは結成当初のジャム・セッションへの志向性はうすらいだようだが、温存した即興の反射神経はおそらく制作の過程にいきている。『Hellfire』の持続の背後にはそのような力学があるが、ヘタをすれば空中分解しかねないブラック・ミディの方程式をなりたたせるのは、ゲーム的な遊戯性に身をまかせながら端々に近代性が顔をのぞかせる点にある。グリープはインタヴューでブルガーコフやバシェヴィス・シンガーにも言及しているが、「地獄」や「悪魔」といって彼らの小説をもちだす若者もめずらしい。なんとなればそれらの作品の旧約的な不条理さは、相対主義のはてに思想、信条、信仰が分断しカルト化する世界で根源的な思考をうながすからである。

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