「Noton」と一致するもの

ともしび - ele-king

 シャーロット・ランプリングは笑わない。少なくともそのイメージは強い。かつて桃井かおりは自分の演技に限界を感じてイッセー尾形の元に弟子入りした際、演技することが苦しいと感じるようになった理由は「桃井かおりが桃井かおりしか演じていないから」とかなんとか言われたそうで(いまなら木村拓哉とかほとんどの役者がそうだけど)、シャーロット・ランプリングも演じる役柄に幅がなく、同じイメージを厚塗りしていくことに息苦しさを覚えたりはしないのかと心配になってしまう。「シャーロット・ランプリングは笑わない」と最初に僕が思ったのは1974年のことだった。どっちを先に観たかは忘れてしまったけれど『未来惑星ザルドス』と『愛の嵐』を立て続けに観て、表情筋がピクリとも動かない彼女の表情がそのまま海馬の奥深くに焼き付いてしまったのである。当時、色気というものを覚え始めた僕はジャクリーン・ビセットがひいきで、胸の開いたドレスを吸い込まれるように凝視していたはずなのに、45年後のいまもインパクトを保っているのはシャーロット・ランプリングの方であった(偶然にもランプリングもビセットもデビュー作は『ナック』)。『マックス、モン・アムール』ではチンパンジーと愛し合い、『エンゼル・ハート』ではあっという間に殺されてしまう占い師、最近では『メランコリア』で結婚式の雰囲気を台無しにするシーンも忘れがたい。ショービズで無表情といえば元祖はマリアンヌ・フェイスフルで、日本だとウインクなのかもしれないけれど、老齢というものが加わってきたランプリングにはそれらを寄せ付けない迫力があり、やはり説得力が違う。クイーン・オブ・ポーカーフェイスが、そして最新主演作となる『ともしび』で、またしても表情からは何ひとつ読み取らせない老女役を演じた。

 「脚本の段階、しかもオーランド・ティラドと一緒に書いた最初の一言目の段階から、シャーロット・ランプリングのことを想定していました」と監督のアンドレア・パラオロはプロダクション・ノートに記している。オープニングはちょっとびっくりするようなシーンなので、監督の言葉が本当だとしたら、ランプリング演じるアンナを常識とはかけ離れた人物という先入観に投げ込み、観客とは一気に距離を作り出したかに見える。しかも、夫は何らかの罪を犯して自ら刑務所に足を向け、何が起きているのか掴みきれないままに話は進行していくのに(以下、ある種のネタバレ)その後はひたすらミニマルな日常だけが流れていく。だんだんとアンナの行動パターンがわかってくるので、時間の経過とともに特別なことは何もなく、むしろ日常的な惰性や疲れに引きずり込まれていくだけというか。一度だけ孫に会いに行こうとして息子らしき人物に拒絶され、トイレにこもって号泣するシーンがあり、そこだけは物語性を帯びるものの、それも含めて「伏線」や「回収」とは無縁の断片化された日常の継続。新しい日が始まると、喜びはもちろん、今日も生きなければならないのかという嘆きもなく、ただ淡々と日課をこなすだけである。近年の傑作とされる『まぼろし』では夫が波にさらわれて死んでしまったことを受け入れられず、夫が生きているかのように振る舞うマリーを演じ、4年前の『さざなみ』では結婚45周年を迎えたものの、夫婦関係がゆっくりと崩壊していくことを止められないケイトを演じ、これらに『ともしび』のアンナを加えることで、いわば物理的に、あるいは心理的に「夫と離れていく妻の日常を描いたミニマル3部作」が並びそろったかのようである。どれもが女性の自立からはほど遠く、夫への依存度が高かったことが不幸を招き、3作とも自分を見失う設定になっていることは興味深い。「笑わない」というイメージから連想する「強さ」やリーダー的存在とは正反対の役どころであり、それこそランプリングは女性たちに最悪のケースを見せることで逆に何かを伝えようとしているとしか思えない。

 アンナの視界は狭い。彼女以外の視点から語られる場面はないので、何が起きているのか観客にはわからないままの要素も多い。このように「神の視点」を排除した語り口やカメラワークは近年とくに増えている。最近ではイ・チャンドン『バーニング』やリューベン・オストルンド『ザ・スクエア』にもそれは部分的に応用されていたし、『ともしび』では他の人の感情や存在感もほとんど消し去られていた。これは一見、主観的な表現のようでありながら実際にはヴァーチュアル・リアリティを模倣しているのだと思われる。あらゆるものをあらゆる角度から見渡せるといいながら、自分の視点からしか見ることができない視野の狭さがヴァーチュアル・リアリティには常に付きまとう。他の人の視点を交えることができない時に、映画というものはどのように見えるのか。こうした客観性や間主観性の排除がトレンドとなり、いわば古臭い物語でもヴァーチュアル・リアリティのような体験として蘇らせることがフォーマット化されつつあるのである。それこそスマホやSNS時代の要請なのだろう。フィリップ・K・ディックの世界と言い換えてもいい。そして、そうした方法論を最初から徹底的に突き詰めていたのがハンガリーのネメシュ・ラースロー監督であった。彼のブレイクスルー作となった『サウルの息子』(16)はホロコーストに収容されたユダヤ人の眼に映る光景だけですべてが構成され、主人公はいわば一度も客体視されず、観客が主人公となってホロコーストを「目撃」し、あるいは「体験」するという作品であった。自分の背後や周囲で起きていることが完全には把握できないことが無性に恐怖感を煽り、70年以上前のホロコーストをリアルなものへと変えていく。

 ネメシュ・ラースローの新作が公開されると知り、偶然にもハンガリーでデモが起きた当日に試写室に押しかけた。ブタベストで起きたデモは残業時間を年間250時間から400時間に引き上げるという法案が議会を通過したことに対して抗議の声が上がったもので、当地では「奴隷法」と呼ばれているものである。デモは昨年末に5日以上続き、催涙弾が飛び交う悲惨な事態となったようである(日本ではちなみに先の働き方改革法案で残業時間は年間700時間と定められた)。冷戦崩壊後のハンガリーはソヴィエト時代を嫌うあまり王政復古を望む声の高かった国である。そのことが直接的に現在の右派政権につながったかどうかは軽々に判断できないものの、ラースローが『サンセット』で描くのはそうした王政の最後、いわゆるハプスブルク家支配の末期である。ユリ・ヤカブ演じるレイター・イリスが帽子店で働こうと面接試験を受けに来るところから物語は始まる。イリスはその外見をカメラで捉えられ、客体視はされているものの、しばらく見ていると『サウルの息子』よりも少しカメラの位置が後退しただけで彼女の眼に映るものがそのままスクリーンに映し出されているものとイコールだということはすぐにわかる。ほんとにちょっとカメラの位置が後ろにズレただけなのである。イリスが働こうとする帽子店はとても高級で、どうやら王室御用達であることもわかってくる。イリスは経営者と交渉するが、その過程で彼女の家族に関する大きな秘密を明かされる。イリスは経済的に困っていただけでなく、アイデンティティ・クライシスにも陥り、いわば何もできない女性の象徴となっていく。そして、歴史が大きく動き始めたにもかかわらず、自分がどうすればいいのかはまったくわからない。当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国がその直後にフランツ・フェルディナンドが狙撃され(サラエボ事件)、第1次世界大戦が始まることは観客にはわかっているかもしれないけれど、イリス(=ヴァーチュアル・リアリティ)が体験させてくれるものはその中で迷子になっていく市民たちであり、とっさにどれだけのことが個人に判断できるかということに尽きている。このところハンガリー映画が面白くてしょうがないということは『ジュピターズ・ムーン』のレビューでも書いたけれど、ラースロー作品にはハンガリー映画をヨーロッパ文化の中心に近づけようとする強い意志も感じられる。

 『ともしび』のアンナも『サンセット』のイリスもどちらも名もない女性である。彼女たちの内面ではなく、その視点だけを通して、この世界を見るというのが両作に共通の構造となっている。時代の転換という大仕掛けを用意した『サンセット』とは違って『ともしび』には格差社会や人種問題といったマイノリティの理屈さえ入り込む余地はなく、アンナの目に映るものは実にありふれた光景ばかりである。にもかかわらず、そのラスト・シーンで僕は心臓が止まるかと思うようなショックを受けた。映画が終わるとともにいきなりヴァーチュアル・リアリティのヘッドギアを外されたように感じたのである。

映画『ともしび』予告編

Paulius Kilbauskas - ele-king

 まるでスティーヴ・ライヒとデリック・メイを同時に聴いているみたいだ。ガムランの響きに始まり、トライバル・ドラムが絡み、以後も同様な曲が続くものの、ところどころでクラブ・ミュージックのクリシェが面白いようにミニマル・ミュージックに加えられ、ライヒとは異質の高揚感が湧き出してくる。リトアニアにニュー・ウェイヴを紹介してきたゾーナ・レコーズから1年前にリリースされたエディションにオープニング曲を加えた8曲入りがライセンス盤として出回り始めたようで、シンプルな“Space”から始まる構成が余計にそうした演出度を高めてくれる。どこまでいっても低音は響かず、ガムランの音が密度を変化させながら空間性を担保していく。ブラシの抜き差しはどうしてもデリック・メイを強く想起させ、これで影響を受けていないといわれたら嘘でしょうとしかいえない。正月からデザイナーの祖父江慎がデリック・メイで朝の5時まで踊ったというから、余計にそう思えてしまうのかもしれない(なんて……しかし、祖父江さん、何歳よ~)。

 後半はデリック・メイをまさにガムランでカヴァーしていると捉えた感じになっていく。チャカポコという響きがほんとにそれらしく、デトロイト・テクノをここまでオーガニックに聴かせた例はないのではないかと思ったり。“Seven”にはハープ奏者も加わり、瑞々しさは一層増していく。“Space”と”Fire”にはゴングとメタロフォンという楽器で実際にインドネシアのガムラン奏者である通称バロットも参加し、とくに”Fire”は華やかで音が自由に乱舞しまくり(イントロとアウトロでポクポクと打ち鳴らされるのは木魚だろうか)。ぜんぜん知らなかった人なので、調べてみるとパウリウスはどうもリトアニアのギタリストで、リトアニア語をグーグル翻訳で読んだのではっきりしたことはわからなかったけれど、小学校もロクに行かなかったらしく、4弦ギターと出会うことから彼の人生は変わり始めたらしい。93年に結成されて、ドラムとキーボードが死んだために01年に解散せざるを得なくなったエンプティ(Empti)というバンドでプログラムなども手掛けていたそうで、それまではアシッド・ジャズの流れでトリップホップとかブロークン・ビートとカテゴライズされる音楽性を追求していたという(フェスティヴァル・オブ・ワースト・グループで優勝したとも)。ソロ活動は07年に『バンゴ・コレクティヴ』と題されたダンスホールとブレイクビーツを組み合わせたようなアルバムからスタート(これがまたなかなか)。続く『ペピ・トゥリー』(09)ではゲーム音楽、マリウスくんたちと取り組んだ『スタジオ・ジャム』(09)はいわゆるインプロヴィゼイション・ジャズと、音楽的にはなんの脈絡もない。2014年には2枚のサウンドトラック・アルバムを手掛け、それらがロックンロールだったり、現代音楽だったりするのは映画の種類に合わせたものだから仕方がないとしても、ダブリケイトの名義ではハードコアから発達したジャンプスタイルにもチャレンジしているらしく、これは昨年、イタリアのアドヴァンスド・オーディオ・リサーチが『ファースト・グレード』で極めて面白い展開を見せたジャンルとしても気になっていたので、がぜん興味が増してくる。これを2013年にはすでにやっていたとは。『Elements』に通じる作品としては09年の『スケッチ・トゥ・ペインティング』やマーク・マッガイアーをユルくしたような3枚のライヴ・アルバムがオーガニックなギター・アンビエンスを展開していて(『LRTオーパス・オーレ・ライヴ』“Part 2”の前半はベイシック・チャンネル風)、この辺りから少し『Elements』へと通じるものが見えてくる。しかし、決定的だったのは1年間、家族4人でバリに住んだことらしい。それはゴミが燃え、犬が飛び、色が現れる世界だたっという。

 バリで受けた影響は曲名が地水火風に基づいていることや「空気を吹き付けるような音楽を探していた」という表現などニューエイジに向かってもおかしくはないはずなのに、時間がなくてガムランをベースに音楽を組み立てるまでには至らず、ガムランに多大なインスピレーションを受けながらも伝統音楽との間に距離を感じたままのレコーディングとなったらしい。そのことがむしろ幸いしたのだろう。中途半端にクラブ・ミュージックの要素が残ったことが新たな道筋を切り開いたという気がしてしまう。彼はすでに次のアルバムのことも考えていて、ニューエイジに近づきかねない「軽くて明るい音楽」というヴィジョンを語っているから、良かったのはここまでだったということになりかねない恐れはあるものの、この瞬間が素晴らしいことはとにかく間違いがない。

Big Joanie - ele-king

 なんとまあ、伸び伸びとした演奏だろうか。「ダーシーキシャツ(アフリカの民族衣装)を着て80年代DIYとriot grrrlを通過したロネッツ」、彼女たちは自らをこう表現している。たしかにビッグ・ジョーニーはジーザス&メリー・チェインとロネッツの溝を埋めるかのようだし、曲によってはニュー・オーダーめいたエレクトロ・ロックだし、あるいは初期のレインコーツみたいだし、アルバムの最後にはバラードまでやっている。ロンドンの移民の娘っこ3人。アルバムには3分ほどの曲が11曲。ラップもないし、R&Bもない。トレンディではないどころか、ある意味黒人らしくもない。そういう意味では、オールド・ファッションでもないしステロタイプでもない。ドラマーのシャーダインは、初期ジーザス&メリー・チェインのように立ってドラムを叩いている。ひと昔前なら、不健康そうに前髪を長く垂らして黒いコートを着て白人の若者がやっていたような音楽を彼女たちはやっている。だからどうしたというわけではない。そもそも今日では、時代錯誤とはタイムリーを意味するし、パンクでありダンス・ミュージックでもあるビッグ・ジョーニーの溌剌とした『シスターズ』がただ素晴らしいというだけのことである。

 「ブラック、フェミニストそしてシスター・パンク」これがビッグ・ジョーニーのモットーだ。それだけ聞くと、ああ、なるほど、わかったようなわからないような、しかし漠然としたイメージは生まれる。「ブラック、フェミニストそしてシスター・パンク」──なるほど。じっさい彼女たちはアナキスト系のDIYスペースに関わっているそうだが、ビッグ・ジョーニーにはTLCのヒット曲“ノー・スクラブ”(デスティニーズ・チャイルドの“ビルズ・ビルズ・ビルズ”とならぶ、現世的な男を見下す生意気娘系の曲として知られる)をカヴァーするくらいの余裕と茶目っ気がある。ミソジニーや階級社会を風刺したポリティカルな歌詞を歌っているらしいのだが、彼女たちの曲はポップスとして成り立っているし、なんといっても堂々とやりたいことをやっている感じが良い。スリーフォード・モッズよりは育ちが良さそうだが(まあ、バンドをやれるくらいだし?)、彼らと同じように流行りに流されている感/やらされている感はない。それは歯並びが良くスマートな体型のアメリカやインスタ文化(などと偉そうに言っているがあまりよくわかってない)が、結果として抑え込んでいるものを解放するかもしれない。君は君自身のままでいいんだよっていうふうにね。

 ささやかな一撃だが、これが時代に馴染めないひとたちを勇気づけて、未来のためのきっかけになることは大いにありえる。2018年の暮れに、ビッグ・ジョーニーのデビュー・アルバム『シスターズ』がサーストン・ムーアのレーベルからリリースされた(レコードにはブックレットが付いている)。

Allysha Joy - ele-king

 ハイエイタス・カイヨーテの登場を機に、ジャズやソウルなどとクラブ・サウンドのミクスチャー・バンドが注目を集めることが増えてきた。USのムーンチャイルドやスペース・キャプテン、UKのノヤ・ラオやトロープ、シンガポールのスティーヴ・マックイーンズ、ノルウェーのローヘイなどがそうしたバンドで、ジョーダン・ラカイキングなども同じような傾向を持つアーティストと言える。同時にハイエイタス・カイヨーテの地元であるオーストラリアの音楽シーンにもスポットが集まるようになった。特にハイエイタス・カイヨーテを輩出したメルボルンはいろいろな音楽が盛んで、かつてはランス・ファーガソンが率いるバンブーズやカイリー・オールディストなどから、近年は30/70、レジャー・センター、エレクトリック・エンパイア、ミッドライフ、カクタス・チャンネル、ハーヴィー・サザーランド、アンドラス・フォックスなど注目のアーティストが続々と登場している。

 この中でも30/70はポスト・ハイエイタス・カイヨーテの筆頭と呼ばれる10人組のグループで、2017年にファースト・アルバムの『エレヴェイト』をリリースしている。彼らはハイエイタス・カイヨーテに通じるオーガニックなバンド・サウンドを持つが、面白いのはリリース元がUKのサウス・ロンドンの〈リズム・セクション・インターナショナル〉だったことで、ロンドンの音楽シーンとメルボルンの音楽シーンの結びつきを示していたことだ。オーストラリアからロンドンに移住したジョーダン・ラカイも〈リズム・セクション・インターナショナル〉から作品を出したし、昨年末もハーヴィー・サザーランドの作品にヌビア・ガルシアやマンスール・ブラウンがフィーチャーされるなど、いろいろとアーティストたちの交流があるようだ。〈リズム・セクション・インターナショナル〉からのリリースということもあり、30/70はハイエイタス・カイヨーテに比べてさらにエレクトリックなクラブ・サウンドの側面も強かったのだが、その中心人物であるドラマーのジギー・ツァイトガイストは2018年初頭に『ツァイトガイスト・フリーダム・エナジー・エクスチェンジ』というソロ・アルバムもリリースした。こちらはエレクトリック・ジャズ/フュージョンにブロークンビーツなどのエッセンスを交えたもので、ディーゴ&カイディからフローティング・ポインツあたりへ繋がる作品だった。同じころに〈リズム・セクション・インターナショナル〉のコンピで『コンピレーション・フォー・ドミニカ』が出たのだが、そこに収録された“セルフィッシュ”という曲を歌っていたのがAJことアリーシャ・ジョイで、彼女もまた30/70の看板シンガーである。ちょうどハイエイタス・カイヨーテにおけるネイ・パームのような存在で、歌声やヴォーカル・スタイルにも似通ったところが見いだせるし、ファッション・センスもネイ同様になかなかのものだ。

 そのアリーシャ・ジョイのソロ・アルバム『アケィディ:ロウ』がリリースされたが、今度のリリース元はマンチェスターの〈ゴンドワナ〉。〈ゴンドワナ〉と30/70及びアリーシャ・ジョイとの間にどのような関係があるのか不明だが、これもUKがメルボルンの音楽シーンを注視していることの表われのひとつだろう。また〈ゴンドワナ〉にとってはノヤ・ラオと並ぶようなアーティストという位置づけで、こうしたネオ・ソウル~フューチャー・ソウル方面をより強化していこうという意向がくみ取れる。『アケィディ:ロウ』は前述の“セルフィッシュ”のほか、2017年にシングルでリリースされた“FNFL”と“アカラ”という曲も収録する。演奏メンバーはドラムのジギー・ツァイトガイスト、ベースのヘンリー・ヒックス、サックスのジョシュ・ケリー、バック・コーラスのダニカ・スミスと、ほぼ30/70のメンバーがバックを務めている。従ってアリーシャ・ジョイのソウルフルな側面にスポットを当てた、30/70のもうひとつ別のアルバムと見ることもできる。アリーシャ自体はヴォーカルのほかに作詞・作曲とキーボード演奏をおこなっており、特にエレピの演奏が歌声とともに本作の重要なポイントとなっている。

 エレピにワードレス・ヴォイスを交えて始まる“FNFL”は、コズミックな質感を持つジャズ・ファンク~フュージョン系のトラックに、自在に動き回るヴォーカルという30/70直系のナンバー。リズム・チェンジを繰り返しながら最後はヒップホップ調のトラックへと変調する様はハイエイタス・カイヨーテと同様で、こうした先の読めない展開や即興性を有したパフォーマンスが彼らの魅力でもある。“セルフィッシュ”や“オネスティ”はメロウネスとブラック・フィーリングに満ちたナンバーで、陰影に満ちたエレピとソウルフルな歌声のコンビネーションはロイ・エアーズの諸作を彷彿とさせる。“スワロウ・ミー”もメロウでジャジーなソウル・ナンバーだが、バックのトラックはアフリカ色が強くて土着性に富む。アリーシャの作品にはスピリチュアル・ジャズとの近似性が感じられることもあるが、それの顕著な一曲だろう。“ノウ・ユア・パワー”はアルバムの中でもっともジャズ色が強く、前半の変拍子から後半のジャズ・ファンクへと変調するが、この展開はエディ・ラスの“シー・ザ・ライト”を思い起こさせるようだ。“アカラ”はスロー・バラードで、幻想的で浮遊感たっぷりのエレピが存分にフィーチャーされる。ダンサブルな曲だけでなく、こうした美しいナンバーをじっくりと聴かせるあたりはムーンチャイルドにも匹敵するものだ。楽器のアンサンブルという点では、サックスとドラム、ベースのコンビネーションで徐々に形を作っていく“ドゥーム”は、30/70のジャズ・バンドとしての力量が見事に反映されている。“イーグル”は歌というよりもポエトリー・リーディングのようなパフォーマンスで、“オネスティ”にもスポークン・ワード的なパートが登場する。実際のところアリーシャはシンガー/ポエットという立ち位置のようだ。ジャズとソウルのブレンド具合、ポエトリー・リーディングを駆使したヴォーカル・スタイル、そしてロイ・エアーズやエディ・ラスなどに通じる音像を見ていると、アリーシャはフューチャー・ソウルとかネオ・ソウル、またはブロークンビーツなどよりも、むしろ知らず知らずのうちにアシッド・ジャズ的なところを受け継いで、それをいまの時代のサウンドとして変換しているアーティストと言えるのかもしれない。

彼女は頭が悪いから - ele-king


 2016年に起きた東大生強制わいせつ事件に想を得た「小説」。昨夏に刊行され、年末に東大で著者を含めた大規模な討論会が開かれている。昨年は財務官僚のセクハラ辞任やBBCで「Japan's Secret Shame 」が放送されるなどエリートと性暴力が強く関連づけられた年といえ、気になっていたのでようやく正月に読んだ。事件の骨格はほとんどそのまま使われているので最初はノンフィクションにした方がよかったのではないかと思ったけれど、著者によれば個人の話に収斂させることで見失うものがあると考え、実際に存在した人物とは異なる人物造形を行なった上で、あくまでフィクションの力に訴えたという。リアリズムとは遠い距離にいたはずのトルーマン・カポーティが作風を変えた『冷血』に取り組み、以後、執筆活動から離れてしまった轍は踏まないということだろう。小説の前半は被害者の女子大生(美咲)と加害者のひとり(つばさ)を高校時代から交互に描くという青春小説のような趣き。この部分におけるある種の入れ込みようが人によっては長すぎると感じただろうし、ディテールを積み上げただけのことはあったと思った人もいただろう。僕はもう少し短くてもよかったかなと思いつつ、後半はまったく雰囲気が変わってしまうので、連続性を見失うような感覚に襲われ、何が起きるかはわかっているはずだったのに、それでも「暴力」はいきなりやってきたという展開に感じられた。後半は気持ち悪くなって読み続けられなかったという読者がいたのもわかるし、最後まで読むことのできた読者は、そのような人たちと比べて多少とも「暴力慣れ」しているともいえる。そのことは自覚した方がいい。また、前半でとくに気になったのは美咲が気にしている「重たい女」という表現で、「別れたらもう会わない女と思われたくない」という意味で使われていたと思うものの、「重たい女」という言葉が美咲を性暴力の被害者に導くマイティワードになっているのではないかと感じられたこと。「重たい女」という言葉が悪いのか、仮にこの言葉でいいとしても、恋愛という局面において「重たい女」ではなぜいけないのかということがもうひとつ僕にはよくわからなかった。もしくは「別れても友だちでいたい」というのは美咲の欲望であり、そのことを肯定するための理屈としてはやはり弱かったのではないかと。「重たい女」の反対は「軽い女」で、とはいえ美咲が「軽い女」に見られたかったということもないだろうから彼女の心理描写としてはどうしてもモヤモヤしたものが残ってしまった。

 海外のウェブサイトなどで自分たちのセックスを実況放送しているカップルがいたりする(日本にもいるだろう)。お金目的の人もいるだろうから、動機や目的などは様々だろうけれど、そこで展開されているセックスはあまり煽情的ではなかったりする。旧東ドイツの性事情を回顧したドキュメンタリー『コミュニストはセックスがお上手?』(06)も同じくだったけれど、いわゆるアダルトヴィデオと比較すると、セックスという行為をどのように進めたいかという時に、ウェブカムでの実況中継や東ドイツの夫婦はお互いがやりたいことの接点を探っているという印象があり、セックス自体がコミュニケーションになっていると感じられる。これに対してポルノだったりアダルトヴィデオだったりは男がリードしていようが、女が主導権を握っていようが、多かれ少なかれ相手をモノ扱いしている傾向があり、どんなにソフトな内容のものでも、そうした作品はやはり「暴力性」が興奮を導き出しているところがある。「暴力性」もまたコミュニケーションのヴァリエーションだと言われればそれまでだけれど、『彼女は頭が悪いから』で描かれている強制わいせつのシーンはまさに「モノ扱い」を際立たせ、人間が人間をモノとして扱える冷酷さを冷静に描写していくところが良くも悪くもポイントではあった。喩えは悪いかもしれないけれど、戦場に転がっている死体にさらに弾を撃ち込んでいるような触感を味わわされるというか。誤解を恐れずにいうとそれこそレイプでもしてくれた方がまだわかりやすかったといえるほど東大生たちの行動はありえない方向へと進み、先導役をおかしいと思えばいいのか、集団心理を呪えばいいのか、どのピースを外せばここまでのことにはならなかったのかと考えることさえ無駄な気がしてくる。強制わいせつのシーンは現実に起きた事件をほぼ踏襲したものだそうで、小説自体がセカンド・レイプだという意見もあるし、だったら、この文章もそうだし、興味を持つ人はもうそれだけで似たような部類ということになる。著者が書きあがった小説を被害者に見せて発表してもいいかどうかを確認したかどうかまではわからないけれど、著者が主張するようにフィクションだから伝えられることがあるとしたら、彼らの「冷酷さ」を現実とは異なる強制わいせつの方法で追体験させる手もあっただろうとは思うし、この部分をフィクションにしなかったことはちょっと引っかかるところではあった。そしてそれを言ったら「東大」という名称だってボカせばよかったのかもしれないけれど、でも、そこは譲れなかったのだろう。冷酷になれる根拠がエリート意識にあり、とくにエリートでもない男たちが起こした性犯罪とは違う種類の事件だと強調することに意味があったのだろうから。

 本書を読んでいて思い出したのが日本では2016年に公開されたロネ・シェルフィグ監督『ライオット・クラブ』である。これは「ポッシュ」という舞台劇を映画化したものだそうで、イギリスのエリートたちが所属する実在の秘密クラブをモデルに、彼らが開く晩餐会ではどれだけ女性を辱めれば気がすむのかという余興や店の破壊が慣習的に行われ、時の首相であったキャメロンがこの会のメンバーであることから、その失脚を狙って製作されたものだという。映画はしかし、ヒットせず、キャメロンもブレクシットを決めてさっさと首相の職を退いてしまう(この映画についてはブレディみかこさんも連載で触れていたので、詳しくはこちらを→https://www.ele-king.net/columns/regulars/anarchism_in_the_uk/004442/)。複数の男性がひとりの女性をレイプしたり、あるいは単に言葉でからかったりといった事件やそれに基づく作品は無数にある。世界で初めてのセクハラ裁判を扱った『スタンドアップ』(05)や国連がボスニアの売春組織と裏で繋がっていたことを暴き、アメリカでは上映されることがなかった『トゥルース 闇の告発』(11)が最近だとすぐに思い浮かぶけれど、こういった作品と『彼女は頭が悪いから』や『ライオット・クラブ』を隔てるのは、エリートたちは自分のしていることがどういうことかはわかっているはず(というか、わざとやっているわけ)だから、教育がない人たちの同様な行為とは違って、階級社会の力学や支配者意識が作品の随所から漏れ出ていることだろう。暴力の主体が個人ではなく、組織暴力の延長のようなものだと考えたくなる傾向というか。とはいえ、移民や外国人が女性をレイプしたという報道があったとして、その時に外国人全体がまるで潜在的なレイプ犯のようなニュアンスで語られることもあるだろうから、すべての外国人が犯罪予備軍のはずがないように、すべてのエリートが組織暴力の可能性と結びついているということはなく、となるとやはりこうした問題は個人を単位で考えるべきであり、著者が「個人の話に収斂させることで見失うものがある」と考えたことは間違いだったのではないかという気もしてくる。しかし、強制わいせつの場面から章を改めずに、事件を知った人たちがネットで引き起こす反応へ話が進むと、様相は少し変わり始める。強制わいせつの場面までは冷静に書かれていた文章も、その直後から急に怒りが吹き出してきたかのように僕には感じられた。邪推かもしれないけれど、著者がこの小説を書こうと思った動機は事件そのものではなく、この事件に対して巻き起こったネットの反応に対するものではなかったかとさえ思ったり。

 僕の家から15分ほど歩いたところに東大はある。いろいろと便利なので、学食を利用したり、三四郎池でボーッとしたり、バカ田大学の授業を聞きに行ったりもした(東大って、いろんなことやってますよね)。そして、いつも異様だと感じるのは赤門の前である。ここを通る時には誰かが撮影をしていないということがない。在校生なのか、観光客なのか、落ちた人なのか、単なる通行者なのかはわからないけれど、とにかく撮影者が途切れることがなく、撮影の邪魔になっては悪いと思うので歩きづらいことこの上ない。季節が悪ければ通り抜けるのにも時間がかかってしまう。考えてみると東大生強制わいせつ事件は東大の外で起きたことだし、『彼女は頭が悪いから』も東大の外で書かれた小説である。そして、ネットで巻き起こった被害者への過剰な攻撃や「東大生狙いだったんじゃないの?」という類いの書き込みはそれこそ東大の外から湧き上がってきた視点であり、東大というものがどのようにみられているかを増幅させた結果だろうと思える。実際には個人が犯した犯罪ではないのかという思いが、被害者に対する中傷との組み合わせによって、むしろ東大と名指ししなければすまないファクターへと押し上げられ、個人の問題では終わらせようがなくなった感がある。要は『彼女は頭が悪いから』はネット時代であることと切り離しては成り立たない小説であり、事件が起きるまでの情報量の多さに対してネットで飛び交う意見のプアーさをこれでもかと印象付け、実体としての東大とは異なった東大がネットの中には聳え立っていることを描き出したといえる(東大で行った討論会がもうひとつピント外れだったというリポートが多いのは、当事者がいたのは「外」だったからだろう)。読者はすでに美咲とつばさがああなってこうなってそうなってどうなったかを飽きるほど説明されているので、ネットの書き込みが振りかざす見解の浅さにはどうしたってうなずきようがない。また、犯人を擁護している人たちはミソジニーがほとんどで、美咲が東大生たちを司法に訴えたことについて腹を立て、様々な意見を述べているようだけれども、そのどれもが女性を部屋に呼ぶ男は全員が性暴力を振るう存在だという前提でしか意見は述べられていない。それでは女性を部屋に呼ぶことのできた男には女性を襲う権利があるみたいだし、彼らにとっては女性だけが行動を制限される社会が当たり前になっているのである。女性が自動車を運転し、映画館にも入ってもいいことになったりと、あのサウジアラビアでさえ変わろうとしている時代に。

 この小説からすっぽり抜け落ちている要素がある。東大の女子学生たちである。東大生強制わいせつ事件は「東大生」が他の女子大生をターゲットにしたものであって、東大の女子学生を襲う話ではない。東大に女子学生は2割しかいないらしい(小説の中では1割とあるけれど、2割が正しいらしい)。その数値が指し示すものは女性たちが知力で劣るとか、入試で男子の得点が水増しされているからではなく、女性には東大を出ることに魅力がないからである。場合によっては結婚する時に東大出であることを隠すこともあるらしい。男子は東大を出れば、その能力に見合ったポストを手に入れるべく進むべき道が整っているのに対し、女性には権力に近づく手段が限りなく狭められているので東大に入るメリットが男よりも希薄なんだそうである。なるほど政治家にも高級官僚にも女性はあきらかに少ないし、数少ないロールモデルが片山さつきでは夢もしぼんでしまうだろう。東大に女子学生が少なく、権力を目指すことに限界があることと、美咲が犯人たちを訴え、いわば女性の権利を訴えたことは相似形である。男の部屋で酒を飲んでも何もされないという権利を女性に認めろという主張は、女も医局長になって白い巨塔の回診をやりたいとか、日産の役員になりたいとか、土俵に上がりたいとか、『新潮45』の編集長になりたいとか、なんらかの決定権を寄こせということの第一歩みたいなものでしかない。それほど女性たちが権力と結びつくことは恐れられ、この社会を動かす決定権を握らせるなという意志が明確に働いているようなものである。東大生たちを擁護して「これ、女の陰謀じゃねーの?」と書き込んだ例に即していえば、東大出の男性たちが日本という社会の多くを動かし、無意識(?)に女性たちの権利を拡大させまいとしているんじゃねーの? と返してみたくなるし、東大に女子学生が少ないこととある種のネット民が美咲の行動に攻撃を仕掛けてくることは同じパワーの発露にほかならない。だから、この話は「東大」でなければならなかったのである。

Sarathy Korwar and Upaj Collective - ele-king

 かつてのインドはイギリスの事実上の植民地だったこともあり、イギリスにはインド系の移民やその子孫が多い。そして、インドの食や生活文化はイギリスの中にも大きく入り込み、音楽においてもその影響は強く表われている。ジャズの世界でも1960年代よりインド音楽のスタイルや楽器を取り入れた作品が出はじめ、いまもそうしたジャズとインド音楽の融合は続いている。2018年なら春先にリリースされたユナイティング・オブ・オポジッツの『アンシエント・ライツ』がその好例で、またこの年末にはサラシー・コルワルの『マイ・イースト・イズ・ユア・ウェスト』という素晴らしいリリースがあった。タイトルどおり東洋と西洋が音楽を介して交わったアルバムである。

 サラシー・コルワルはアメリカ生まれのインド系ミュージシャンで、子供の頃にインドへ移り住み、その後大学への進学でロンドンへ移住し、それ以降はイギリスを拠点に活動をおこなっている。インドの古典楽器のタブラを、シュリ・ラジーフ・デヴァスシャリとパンディット・サンジュ・サハイというインドのその道の専門奏者に学び、ドラム・キットにタブラを組み込んで演奏する手法を確立する。ロンドンの大学では東洋とアフリカ音楽の楽理と研究を専攻し、卒業後はプロのドラマー/パーカッション奏者としていろいろなセッションに参加する。カール・ベルガーなどのヴェテランからさまざまなインドの古典音楽の演奏家たちとセッションし、カマシ・ワシントンのツアー・サポートを務め、シャバカ・ハッチングスビンカー&モーゼスなどロンドンの新しい世代のミュージシャンと共演する中、2016年にファースト・ソロ・アルバムの『デイ・トゥ・デイ』をリリース。スティーヴ・リード基金の援助を得てレコーディングしたこのアルバムには、シャバカ・ハッチングスやメルト・ユアセルフ・ダウンのベーシストのルース・ゴラーのほか、数多くのインド人ミュージシャンやシンガーが参加した。現代的なジャズ演奏にインド音楽特有のラーガという旋法や古典楽器演奏を取り入れ、ジャズと第3世界の民族音楽の融合という側面を見せると同時に、それはテクノやミニマル、アンビエントの要素にも繋がるもので、〈ニンジャ・チューン〉からのリリースということもなるほどと思わせる作品だった。このアルバムからはテンダーロニアスやエマネイティヴなどによるリミックス集も発表され、その後リリースされたテクノDJのハイエログラフィック・ビーイング(ジャマル・モス)、シャバカ・ハッチングスとの共作となるEP「A.R.Eプロジェクト」(2017年)は、『デイ・トゥ・デイ』の実験性をさらにテクノ~エレクトロニック方面へと拡張させたものだった。

 今回リリースした『マイ・イースト・イズ・ユア・ウェスト』は『デイ・トゥ・デイ』から2年ぶりのアルバムで、2018年2月に北東ロンドンのジャズ系の人気イベント「チャーチ・オブ・サウンド」でのライヴ録音となる。このライヴはサラシーとウパジ・コレクティヴというインド系ミュージシャンが主となるグループの共演で、打楽器奏者のBCマンジュナスやフルート奏者のアラヴィンダン・バヒーラサン、シンガーのアディチャ・プラカシュなどに混じり、アフロ・ジャズ・バンドのカラクターのリーダーとして知られるサックス奏者のタマル・オズボーンも参加している。なお、リリース元の〈ギアボックス〉はビンカー&モーゼスやブッチャー・ブラウンなどの作品をリリースし、モーゼス・ボイドアシュレイ・ヘンリーなどもサブ・レーベルからリリースするなど、いまの新しいジャズを牽引すると同時に、マイケル・ガーリックやニュークリアスなど古い英国ジャズやジャズ・ロックの未発表音源を発掘したり、サン・ラーやユゼフ・ラティーフなどのリリースまでおこなっている。1960年代にジャズとインド音楽の融合に貢献したジョー・ハリオットの音源から、ドラムンベースやUKソウルにインド音楽の要素を取り入れたニティン・ソウニーの作品も出しているので、今回のサラシーのリリースも非常に的確なものと言える。

 演奏曲目は全てカヴァーとなり、ファラオ・サンダースとレオン・トーマスの“ザ・クリエイター・ハズ・ア・マスター・プラン”、アリス・コルトレーンの“ジャーニー・イン・サッチダーナンダ”、ドン・チェリーの“ユートピア・アンド・ヴィジョンズ”、ジョン・マクラフリンとシャクティの“マインド・エコロジー”、アマンシオ・デシルヴァの“ア・ストリート・イン・ボンベイ”、ジョー・ヘンダーソンの“アース”など。インドの民謡やラヴィ・シャンカルの曲もやっているが、大半は1960年代末から1970年代にかけてのインド音楽を取り入れた欧米のジャズ、およびジャズとインド音楽の融合を図ったフュージョンなどで、いわゆるスピリチュアル・ジャズに属する曲も多い。この中では南インドのゴア出身で、イギリスに渡ってジャズ~ジャズ・ロック~サイケの分野で活動したギタリストのアマンシオ・デシルヴァが、サラシーにとってそのキャリアや音楽性の形成の上で重なるところがあるかもしれない。シタールの神秘的な音色に始まる“ア・ストリート・イン・ボンベイ”から、原曲から大きく変化した大胆なアレンジによる“ザ・クリエイター・ハズ・ア・マスター・プラン”と、単なるカヴァー演奏にとどまらない非常にクリエイティヴな即興演奏が繰り広げられる。観客の歓声を交えたライヴならではのテンションやエモーションの高さは、スタジオ録音の『デイ・トゥ・デイ』とは比較にならない。“マインド・エコロジー”や“ミシュランク”でのトライバルでトランス感を伴ったドラムとパーカッション群および弦楽器のアンサンブル、“ハジ”でのケチャのような怒涛のヴォイス・パフォーマンス、重厚でスピリチュアルな演奏が宇宙へと誘うような“アース”と、全体で2時間近くに及ぶパフォーマンスだが一時も気を抜くことができない濃密な時間が流れる。そして、最後の“ユートピア・アンド・ヴィジョンズ”に象徴されるピースフルで牧歌的な空気。ドン・チェリーが描いた天上の楽園世界を現代に継承する作品である。

Mansur Brown - ele-king

 ひとりの亡霊が音楽シーンを徘徊している――アンビエントという亡霊が。いや、べつにいまにはじまった話ではないけれど、とりわけ近年はさまざまなジャンルにアンビエント的な発想が浸透していることを改めて実感させられる機会が多い。もちろん一口にアンビエントと言っても、イーノ的なそれだったりレイヴ・カルチャー以降のチルアウトだったり、あるいはグライムのウェイトレスだったりヴェイパーウェイヴだったりといろんな展開のしかたがあるわけで、その亡霊はヒップホップやロックの分野にも、そして当然のようにジャズの領域にも忍び込んでいる。フローティング・ポインツの『Elaenia』(2015年)なんかはその好例だし、そしてこのマンスール・ブラウンのアルバムにもまた同じ亡霊がとり憑いている。

 現在のUKジャズ・ムーヴメントを加速させる契機のひとつとなったユセフ・カマールのアルバム『Black Focus』に参加したことで注目を集めたマンスール・ブラウンは、もともとはトライフォース(Triforce)という当時大学生だった面々が組んだバンドの一員で、そのときの超絶的なギター・プレイが話題となりシーンに浮上してきたギタリストである(トライフォースのアルバム『5ive』もユセフ・カマールとほぼ同時期にリリース)。その後アルファ・ミストやリトル・シムズの作品に客演した彼は、2018年のジャズの流れを決定づけたコンピ『We Out Here』にもトライフォースとして参加、松浦俊夫のアルバムにもフィーチャーされるなど着実に知名度をあげていき、最近ではハーヴィー・サザーランドの新曲に参加したり、まもなくリリースされるスウィンドルの新作にも名を連ねたりと、ますます活躍の場を広げていっている。その勢いに乗って放たれたファースト・ソロ・アルバムがこの『Shiroi』だ。

 ギタリストとしての彼についてはジミ・ヘンドリックスの名がよく引き合いに出されているけれど、本作における彼はそのようなスタイルを抑圧し、静穏な演奏に徹している――とまで言ってしまうと語弊があって、たしかに“Godwilling”や“Flip Up”のようにエレクトリック・ギターの唸りが大いに華を添えている曲もないわけではない。ただ、それ以上にリスナーの耳に突き刺さるのは、アルバム全体を覆うどこまでも幽遠なディレイのほうだろう。それによって生成されるアンビエント的なムードは、たとえば先行シングルとなった“Mashita”によく表れ出ていて、雨音のような具体音とギターの残響とが密やかに重ね合わせられていく様には息を呑まざるをえない。遠くの谷からこだましているかのようであり、逆に窓のすぐ外で奏でられているかのようでもある不思議なエコー、それらが織り成すなんとも幻妖な音色の数々は、どうしたってドゥルッティ・コラムを想起させる。
 冒頭“The Beginning”ではそのディレイが、左右に振り分けられたテープの逆再生音と絡み合うことでサイケデリックな趣を醸し出しているが、他方でベースの動きもおもしろく、独特の拍の強弱が肉体的な躍動感をもたらしてもいる。続く表題曲でも淡いギター・エフェクトとグルーヴィなベースとの対比が強調されていて、低音パートもまたこのアルバムのたいせつな要素であることがわかる。“Back South”や“Simese”などのファンキーなベースはその何よりの証左だし、“Me Up”や“Flip Up”で鳴らされるブロークンビーツ由来のビートも非常に良い効果を生んでいる。ようするに、霧のごとく宙を漂うギター・ディレイとグルーヴィな低音パートとの幸福な出会いこそがこのアルバムの肝であり、「地に足の着いた浮遊感」とでも表現すればいいのか、彼岸へと連れ去られそうになる意識をご機嫌なベースラインがしっかりと此岸に引き止めてくれている。

 2018年はUKジャズの画期として記憶されることになるだろうけれど、そのUKジャズの熱気とアンビエント的なものの浸透とを一手に引き受けたこの『Shiroi』は、どちらの観点から眺めてみても異色の魅力を放っている。こういう作品がぽっと生み落とされるからこそムーヴメントはおもしろいのだ。マンスール・ブラウン、しばらくは彼の動向から目が離せそうにない。

Sho Madjozi - ele-king

 南アフリカから2グループ。ゴム・ミニマルやゴム・ゴスペルなど南アのダンス・アンダーグラウンドはこの1年でどんどん細分化し、ゴムとトラップを掛け合わせたマヤ・ウェジェリフ(Maya Wegerif)も昨年デビューしたばかりだというのに早くもアルバムを完成、時にシャンガーン・エレクトロを交えつつ、不敵で闊達なフローがあげみざわ(と、思わず女子高生言葉)。アフリカのヒップ・ホップというとアメリカのそれに同化してしまう例がほとんどなので、アメリカのプロダクション・スタイルも消化した上で、こうしたフュージョンに挑むのはそれだけでも心が躍る。昨年、ゴム直球の”Huku”が注目されるまでは主にファッション・デザイナーとして活動してきたらしく、なるほど奇抜な衣装でパフォーマンスする姿がユーチューブなどで散見できる。アルバム・タイトルは南アの北端に位置するリンポポ州をレペゼンしたもので、ツォンガの文化をメインストリームに流し込むのが彼女の目的だという。ラップはツォンガ語とスワヒリ語、そして英語を交えたもので、「フク、フク、ナンビア、ナンビア、フク、ナンビア」とか、基本的には何を歌っているのかぜんぜんわからない。きっと「指図するな」とか「本気だよ」とか、断片的に聞こえる歌詞から察するに、若い女性ならではのプライドに満ちた歌詞をぶちまけているのだろう。楽しい雰囲気の中にも負けん気のようなものが伝わってくるし、いにしえのマルカム・マクラーレンを思わせる柔らかなシャンガーンの響きがとてもいいアクセントになっている。

 南アでも広がりを見せるヘイト・クライムは殺人事件に発展する例も少なからずだそうで、なぜか白人やアジア人は襲われず、南ア周辺から流れ込む他の国の黒人たちが暴力の対象になっているという。リンポポ州は南アの最北端に位置し、ジンバブエと国境を接している。先ごろ、軍事クーデターが起きるまでハイパーインフレで苦しむジンバブエの国民たちはかなりの数がリンポポ州に流れ込んでいた。ムガベ独裁が倒れたとはいえ、ジンバブエの状況がすぐに好転したとは思えず、人種的な緊張状態がまだ残っている可能性があるなか、アルバムのエンディングで「ワカンダ・フォーエヴァー」とラップするマヤ・ウェジェリフの気持ちにはそれこそ切実なものが感じられる。「ワカンダ」とは映画『ブラック・パンサー』で描かれた架空の国で、白人たちには知られなかった黒人たちによる文明国家のこと。あの映画のメッセージがアフリカの黒人たちを勇気づけている好例といえるだろう。全体にゴムの要素が強く出ている曲が僕は好きだけれど、とりわけ”ワカンダ・フォーエヴァー”は気に入っている。ちなみにムガベを国賓として迎えていたのは安倍晋三、軍事クーデターを裏で動かしたのは中国政府である。詳細は省くけれど、現在、ドナルド・トランプのヘイト・ツイートが南アの政治を再び混乱させたりもしている。

 モザンビークやナミビアといったヘイトの対象となっている黒人たちをサポート・メンバーに加えたバトゥックもセカンド・アルバムをリリース。ゴム以前のクワイトをダブステップと結びつけたスポエク・マサンボがプロデュースするヨハネスブルグのハウス・ユニットで、2年前のデビュー・アルバム『Música Da Terra』がアフリカ全体の音楽性を視野に入れていたのに対し、2作目は南アフリカのタウンシップ・サウンドに絞ったことで、起伏を抑えたUKガラージのような響きを帯びるものとなった(アルバム・タイトルの「カジ」はタウンシップの意で、音楽的な豊かさを意味する)。そして、哀愁と控えめな歓びが導き出され、おそらくはゴムを支持する層よりも中産階級にアピールするものとなっているのだろう。それこそ荒々しさを残したマヤ・ウェジェリフのような音楽的冒険には乏しいものの、このところ疲れているせいか、レイドバックした優しい音楽性が僕の心を優しく宥めてくれる。“Love at First Sight”は明らかに”Sueno Latino”を意識していて、コーラスが「お前の母ちゃん、お前の母ちゃん」に聞こえてしょうがない“Niks Maphal”だけがヒップホップというかエレクトロ調。ちなみにスポエク・マサンボが昨年リリースしたソロ・アルバム『Mzansi Beat Code』はもっとアグレッシヴな内容で、彼が今年の初めに参加したマリのワッスルーと呼ばれる民族音楽の歌手、ウム・サンガレ(Oumou Sangare)の『Mogoya Remixed』というリミックス・アルバムもとてもいい。サン・ジェルマンやアウンティ・フローなどアフロハウスの手練れが集結し、モダンなアフロ解釈を様々に聞かせてくれる。

 あんまり関係ないけど、南アでW杯が行われた際に流行ったブブゼラは中国製だったそうで、あっという間に人気がなくなってしまい、いまや南アでは在庫の山と化しているらしい。

 ちょっと感動的なセリフがあった。博物館の学芸員がヴィヴィアン・ウエストウッドのコレクションを差して「この服には歓びがあふれている」と解説したシーンである。パンク・ロックをそのような視点で見たことはなかった。厳密にいうと学芸員が指差したのはパイレーツ・ファッションで、パンク・ファッションではなかったけれど、ヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインを手がけた時期としては近い時期のものであり、このドキュメンタリーでも初期のものはひとまとめにされ、とくに区別されているようにも思えなかった。これまで僕はパンク・ロックから「怒り」や「悲しみ」を感じ取ることはあっても「歓び」というキーワードを絞り出すことはなかった。でも、考えてみればそうなんだよな。ボディマップやパム・ホッグといったニュー・ウェイヴのファッション・デザイナーたちは明らかにヴィヴィアン・ウエストウッドから「歓び」を受け継いでいる。パンク・ファッション=コンフロンテイション・ドレッシングから「怒り」や「悲しみ」を引き継いだファッション・デザイナーもいたのかもしれないけれど、どちらかというと僕の目はレイ・ペトリのバッファロー・スタイリングやスローン・レンジャーとして語られるダイアナ妃に向いていた。ボディコンやカラスよりもロンドンのファッション界に多大なインパクトを残して33歳で夭逝したリー・バウリーの方が派手で面白そうだったし、それこそ僕が「歓び」に反応していた証拠だったということになる。ウエストウッド自身が、そして、「バック・トゥ・ヴィクトリア」という伝統回帰へ反転してしまった経緯はここでは語られない。それはファッションのみならずイギリスの文化史にとって大きな転換点をなすものだったと思うのだけれど、ヴィクトリア回帰は誰もが当然のことといった調子でドキュメンタリーは進められていく。それどころか、「セックス・ピストルズについて語るのは辛い」といってウエストウッドは、しばし、口を噤んでしまうのである。え、もしかしてパンクについてはウエストウッドは語らないのかと、僕はちょっと焦ってしまった。

 話を戻そう。パンフレットによると、ヴィヴィアン・ウエストウッドというのが「人の名前だとは知らなかった」という若い人もいるらしいし。
 ローナ・タッカーによるドキュメンタリー・フィルムは労働階級出身のヴィヴィアン・イザベル・スウェアが平凡な結婚生活に「知的な欲求が満たされない」といって別れを告げるところから始まる。部屋の中央に座らされたウエストウッドは最初の結婚相手だったウエストウッド姓をそのまま名乗り続けることになるものの、あらゆる回想についてどこか面倒臭げであり、著名人にありがちな「前しか見ていない」というクリシェで覆い尽くされている。それこそ聞き飽きた台詞である。しかし、そうは言いながらウエストウッドはしっかりと過去を回想し始める。ここは監督の粘り勝ちなのだろう。パンク・ロックについても結局はウエストウッドは細かいことも語り尽くす。雇った人やどのようにしてブティックを運営していたかという側面から語られる「レット・イット・ロック」や「セディショナリーズ」の話はリアリティがあって、これまで「伝説の」という浮ついた接頭辞がお決まりになっていた世界から固定観念をあっさりと解放してくれる。そして、それはある意味、現在のワールドワイドになったウエストウッド・ブランドまで地続きの話にもなっている。自分の目の届かない範囲まで店の規模を大きくしたくないというウエストウッドはなぜか日本とはライセンス契約を結び、中国への出店は計画段階で自分で潰してしまう。ヴィヴィアン・ウエストウッドが大企業の傘下に入らず、インディペンデントを貫いているからできるのかもしれないけれど、このドキュメンタリーでは金の流れも明快に説明されていく。パンク・ファッションで注目された後、1985年には子どもを育てる金がなくて生活保護を受けなければならなかったという説明ともそれは対応し、なんというか、最後まで観ると、お金がなさすぎることもありすぎることもこの才能を潰せなかったんだなという感慨が僕には残るしかなかった。同じくイギリスの靴職人であるマノロ・ブラニクのように産業とはかけ離れた次元で靴を作っていられれば楽しいというスタンスともぜんぜん違う。ウエストウッドは、だから、芸術家というのともちょっと違うのではないか。


 しかし、このドキュメンタリーでもっと驚いたのは夫であるアンドレアス・クロンターラーとの関係や、ケイト・モスが最後にほのめかすLGBT的な世界観だろう。この辺りは観る人の楽しみにしてもらいたいので、ここでは省略。あまりにも内容が多岐に渡るので、なるほどパンク・ロックのことを省略しても話は成り立つのだなと思うけれど、後半部分では、さらにウエストウッドの政治活動に焦点が当てられていく。アクティヴィストのウエストウッドが大きな関心を払っているのが環境問題で、グリーンピースと共に南極の氷を視察に行き、ロンドンのパラリンピックで保護を訴える垂れ幕を掲げ、シェールガスの掘削に抗議してキャメロン首相の別荘に戦車を乗り付ける(パンフレットには首相官邸とあるけれど、これは誤り。シェールガスの掘削に関してはハッピー・マンデーズのベスもこれを阻止しようとして議員に立候補したことがあった)。そして、なにげないシーンだったけれど、70代後半という年齢にもかかわらずウエストウッドは自動車を使わず、自分の店から自転車で帰っていく。カメラが回っている間はずっと不機嫌で威張りちらしているイヤなババアだけれど、自転車で走っていくシーンにはさすがに参りましたというしかなかった。この作品、原題は「パンク、アイコン、アクティヴィスト」なんだけれど、できれば「戦車と自転車」にして欲しかったなーという感じ。
 ちなみに『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を編集している時に「初期パン」という単語は読者に分かりづらいので「初期パンク」に直していいですかと戸川純さんに訊いたところ、「初期パン」だけは譲れないと言われてそのままにしました。「初期パン」、すなわちヴィヴィアン・ウエストウッドである。

『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』予告

編集後記 (2018年12月28日) - ele-king

 年間ベスト・アルバムを選ぶ作業は面白いには面白いが、正直なところ、ある種の罪悪感もある。作品の順列を付けることにではない。音楽を聴くという体験はその年の作品に限られることではないし、さいしょに聴いたときは好きになれなかったけれど、2年後には気に入ってしまったという作品だってある(その逆もある。そのときは良いと思っても2年後には売りたくなるような作品)。
 また、音楽を聴くという体験は商品として流通している“もの”だけに限定されることでもない。年間ベスト・アルバムでは語られないことのほうが重要だったということは、個人単位ではおうおうにしてある(そのことは紙エレvol.23のコラム原稿を読んでいただいてもわかる)。先日、コリーンのインタヴューを掲載したのも、彼女が2017年に発表したアルバムは、ぼくにとっては2018年も聴き続けた作品であって、聴いた回数でいえばもっとも多いかもしれない作品だった。リスナーにも文化がある。重要なのは音楽を聴くという体験=行為であって、それから引き起こされることの意味について考えてみることだ。
 こういう話はめんどうくさいし、めんどうくさい現実から逃れたいから音楽を聴いているんだという反論なら死ぬほど浴びてきた。が、めんどうくさい現実から逃れるのだけが目的であればカラオケでもハロウィーンでもゲームでも代替可能な、ほかの多くの娯楽と並列されるべき“もの”ということになる。自分も若い頃はテクノでぶっ飛んで踊っていた人間のひとりなので、バカ騒ぎは大好きだ。が、ただそれだけならほかにも選択肢はある。
 結局のところ、ぼくが音楽(それを聴いて書くこと)にこだわっているのは、音楽とはたんに耳に流し込む砂糖菓子ないしはアルコールさもなければドラッグのカクテルではないと考えているからだろう。誤解してほしくないのは、ぼくは耳に流し込むアルコールさもなければドラッグ・カクテルとしての音楽を、まあいまはそれほどでもないけれど、ほんの10年前までは本当に好きだった。だからというわけではないが、決して否定はしない。しかしこの価値観が万能ではないことは、たとえばジョン・ケージの“4分33秒”を曲として認めるひとには説明不要だろうし、逆説的な話だが、ドラッグのカクテルとしての音楽のもっともハードコアな形態すなわちレイヴ・カルチャーを体験しなかったら、ぼくの場合は、社会や政治への関心もいまほど高くはなかったと思う。
 音楽を聴き続けることによって、自慢するほどではないけれど少なからず教養を得てきたと思うし、考えるということの契機を与えられてきているのはたしかだ。音楽メディアの役割もぼくはそこにあると思っている(マウンティングすることではない)。24時間テクノで踊ってもそこに意味はないし言葉があるわけではないという意見に対して、ぼくはそこにも意味と言葉があると思っている。作品は作者の奴隷ではないし、作品を聴くという行為もまたクリエイティヴになりえるはずだ。そうでなければ音楽は文化としての強度を失うだろう。

 さて、唐突ながら、ここで2019年1月に刊行される3冊の単行本の紹介をさせていただきたい。
 まず1月9日にはマーヴィン・リン著(島田陽子訳)の『レディオヘッド/キッドA』。著者はアメリカのオンライン・マガジン『タイニー・ミックス・テープス』の編集長。2013年にele-kingで取材しているひとである。ヴェイパーウェイヴが好きなひとは特別な感情をいだいているメディアかもしれない。パフュームから食品まつりまで、日本の音楽にも積極的にアプローチしているメディアとしても知られている。それはともかく、『レディオヘッド/キッドA』は、音楽を聴くこととはいったいなんなのかという大きな命題にも立ち向かっている本で、ここまでぼくが書いてきたことともリンクするが、著者はより複数のレイヤーをもって『キッドA』について考えている。
 ちなみに同書のなかに次のような一節がある。
 「僕らの好みの中枢というのは、文脈を解き明かすことよりも、聴きながらその体験を深めるために選んだ(無意識の場合もある)価値観に左右されるのだから、時間が魔法の杖を振るったおかげで安全になった枝の上にちょこんと止まって、「なあ、みんなすっかり勘違いしていたんだ、あれはいい音楽だったじゃないか」と言うのは簡単だ。なぜならその視点は対象の音楽が置かれた元の文脈からすでに遠くに隔てられ、それぞれがどんな形で取り組もうと、頭の中で簡単にその文化的位置づけを改められるのだから。そう、どんな形式の音楽だって僕らは「楽しむ」ことができる。とりわけ歴史が政治的、美的にとんがった部分を丸くしてくれたあと(あるいは社会経験を積んだ結果そういうエッジが見えなくなった時)なら、ますます楽しめるだろう」
 昨今でいえばニューエイジ・リヴァイヴァルなどはその典型だ。文化的位置づけに関していえば、ニューエイジはいま旬な砂糖菓子といったところだろう。数年前のヴェイパーウェイヴにおけるミューザックもそうだし、1980年代では『RE/Search』という雑誌による「Incredibly Strange Music」特集もそうだ。60年代の他愛もないカクテル音楽をあらたな文脈で捉え直すこと、ザ・ケアテイカーによる1930年代の78回転盤のソフト・クラシックやジャズのサンプリング・ループもそうした試みである。来年そうそうにはライターの柴崎祐二がいま日本で起きているこうした音楽の読み替えによる文化のあらたなる、活気づいているボトムについてのコラムを書くことになっているのでお楽しみに。
 1月にはほかに、23日に松村正人の『前衛音楽入門』も刊行することになっている。磯部涼の『川崎』ではないが、音楽は地理的/社会的アイデンティティと結びつくことによって意味を成すことがおうおうにしてある。社会学はいまだに音楽を語るうえで多々用いられている。しかしながら、とうぜんのごとく社会学的でも砂糖菓子でもない音楽も存在する。いま現在ぼくたちは「アヴァンギャルド」「実験的」という言葉を、曖昧な意味(耳慣れなさ、ハーモニーの拒否、複雑、破壊的、ノイズ、とっつきづらいetc)で使っている。ジム・オルークは今年ele-kingで掲載したインタヴューで、「私は音楽を楽しみのために作っているわけではありません」と言い切っているが、『前衛音楽入門』とは社会学でも砂糖菓子でもない西洋の音楽の、複雑であり続けた歴史だ(もちろん、その複雑さが反転してミニマルへと発展したし、社会学的な説明だってできるだろう。たとえばシュトックハウゼンはアカデミシャンだがケージは在野であるとか、皮肉なことにパリ万博という資本主義の大波がサティにガムランを教えたとか)。
 西洋音楽が世界の音楽のなかでもとりわけ優秀であるという根拠はないし、むしろ西洋的な評価基準から離れることは大切だと思うが、西洋音楽がもっとも議論を重ねてきた音楽であることは事実だ。『前衛音楽入門』は、20世紀におけるその議論と結実の軌跡を描いている。
 ビートルズの『ホワイト・アルバム』の“レヴォリューション#9”を聴いて、最初は「なんてクソなんだろう」と思っていたのに、数年後には「これってじつは面白いんじゃないか」と思えてきたという経験を持っているひとは少なくないだろう。明らかにある種の音楽はぼくたちの感性を拡張するし、拡張することは悦びであり、それはきわめて音楽的な体験のひとつである。
 ましてや21世紀における前衛音楽〜実験音楽の遺産が、学究肌のための音楽ではなくなっていることは、エレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにはわかる話だろう。誰もがかんたんにロバート・アシュレーを聴けることはポジティヴなことだろうし、音のカットアップなら、なんでもかんでもミュジーク・コンクレートと書いてしまうことも、まあニュアンスは伝わるから良いとしよう。現代音楽用語は氾濫しているし、シニカルにいえばちょっと利口そうに見られたいひとが乱用する。だからこそ(ぼくたちがブラック・ミュージックやロックンロールについて知っているのと同じように)知っておきたい歴史があるし、だれかの有名な言葉のように、歴史を知らずしてどうして前に進めるのかということだ。そもそも松村正人はアカデミシャンではなく、ひとりの在野の書き手であり、彼のような人間が「前衛音楽」について書くという行為そのものが21世紀的であるといえる。

 1月31日には、マーク・フィッシャー著(五井健太郎訳)の『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑存論、失われた未来』を刊行する(予定)。『資本主義リアリズム』の著者の、生前のこした3冊のうちの1冊で、もっとも音楽について書かれているのがこの本である。「いつから時間は止まったのか」、そして21世紀がなぜ幽霊たちの時代なのか……。ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』を活用しながら繰り広げるまったく素晴らしい「トリッキー論」「ジョイ・ディヴィジョン論」そしてBurialやザ・ケアテイカーのインタヴュー原稿もある。人文系の読者のためにぼくと坂本麻里子で註釈を加えて、さらに髙橋勇人に解説も書いてもらっている(現時点では未着)。

 「かつてないほどにいまこそジョイ・ディヴィジョンが問題になるのだとしたら、それは彼らが、われわれの時代の憂鬱な精神をとらえていたからにほかならない。いまJDを聴いてみると、このグループはわれわれの現在を、つまり彼らの未来にあたるものを、そのカタトニー的な症状をとおして伝えているのだという、そうした逃れがたい印象を受けるはずである。最初から彼らの作品は、ひとつの深い予兆に覆われていた。つまり未来は閉ざされ、あらゆる確かさは消滅し、向かう先にはただ暗澹たるものが広がるばかりなのだという感覚に覆われていた」(同書より)

 いまのような世知辛い時代に、よほど恵まれているひとでもない限り、2000円以上の出費にはそれなりの覚悟がいることは重々承知している。いま挙げた3冊は、少なくとも1日で読み終えてしまう500円の雑誌とは違って、まあ、1ヶ月以上は楽しめる中身の濃い本ではあることは自負できるけれど、3冊すべてを買うとなると5千円はゆうに超える。ただ、しつこいけれど、リスナー人生において大きなインスピレーションを与える本でもあるので、いつかは3冊とも読んでいただけたらとは思う。
 しかしね……、まずはなによりも、2019年もなんとかサヴァイヴすることが重要だよね。いっしょにがんばりましょう。なんとかね。

※なお、ele-kingではあいかわらず音楽について書きたいひと(ライター)を募集しています。ご興味のある方は、info@ele-king.netまで、件名「ライター」と記載のうえお問い合わせ下さい。どうぞよろしくお願いします。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335