Home > Reviews > Book Reviews > 彼女は頭が悪いから- 姫野カオルコ
2016年に起きた東大生強制わいせつ事件に想を得た「小説」。昨夏に刊行され、年末に東大で著者を含めた大規模な討論会が開かれている。昨年は財務官僚のセクハラ辞任やBBCで「Japan's Secret Shame 」が放送されるなどエリートと性暴力が強く関連づけられた年といえ、気になっていたのでようやく正月に読んだ。事件の骨格はほとんどそのまま使われているので最初はノンフィクションにした方がよかったのではないかと思ったけれど、著者によれば個人の話に収斂させることで見失うものがあると考え、実際に存在した人物とは異なる人物造形を行なった上で、あくまでフィクションの力に訴えたという。リアリズムとは遠い距離にいたはずのトルーマン・カポーティが作風を変えた『冷血』に取り組み、以後、執筆活動から離れてしまった轍は踏まないということだろう。小説の前半は被害者の女子大生(美咲)と加害者のひとり(つばさ)を高校時代から交互に描くという青春小説のような趣き。この部分におけるある種の入れ込みようが人によっては長すぎると感じただろうし、ディテールを積み上げただけのことはあったと思った人もいただろう。僕はもう少し短くてもよかったかなと思いつつ、後半はまったく雰囲気が変わってしまうので、連続性を見失うような感覚に襲われ、何が起きるかはわかっているはずだったのに、それでも「暴力」はいきなりやってきたという展開に感じられた。後半は気持ち悪くなって読み続けられなかったという読者がいたのもわかるし、最後まで読むことのできた読者は、そのような人たちと比べて多少とも「暴力慣れ」しているともいえる。そのことは自覚した方がいい。また、前半でとくに気になったのは美咲が気にしている「重たい女」という表現で、「別れたらもう会わない女と思われたくない」という意味で使われていたと思うものの、「重たい女」という言葉が美咲を性暴力の被害者に導くマイティワードになっているのではないかと感じられたこと。「重たい女」という言葉が悪いのか、仮にこの言葉でいいとしても、恋愛という局面において「重たい女」ではなぜいけないのかということがもうひとつ僕にはよくわからなかった。もしくは「別れても友だちでいたい」というのは美咲の欲望であり、そのことを肯定するための理屈としてはやはり弱かったのではないかと。「重たい女」の反対は「軽い女」で、とはいえ美咲が「軽い女」に見られたかったということもないだろうから彼女の心理描写としてはどうしてもモヤモヤしたものが残ってしまった。
海外のウェブサイトなどで自分たちのセックスを実況放送しているカップルがいたりする(日本にもいるだろう)。お金目的の人もいるだろうから、動機や目的などは様々だろうけれど、そこで展開されているセックスはあまり煽情的ではなかったりする。旧東ドイツの性事情を回顧したドキュメンタリー『コミュニストはセックスがお上手?』(06)も同じくだったけれど、いわゆるアダルトヴィデオと比較すると、セックスという行為をどのように進めたいかという時に、ウェブカムでの実況中継や東ドイツの夫婦はお互いがやりたいことの接点を探っているという印象があり、セックス自体がコミュニケーションになっていると感じられる。これに対してポルノだったりアダルトヴィデオだったりは男がリードしていようが、女が主導権を握っていようが、多かれ少なかれ相手をモノ扱いしている傾向があり、どんなにソフトな内容のものでも、そうした作品はやはり「暴力性」が興奮を導き出しているところがある。「暴力性」もまたコミュニケーションのヴァリエーションだと言われればそれまでだけれど、『彼女は頭が悪いから』で描かれている強制わいせつのシーンはまさに「モノ扱い」を際立たせ、人間が人間をモノとして扱える冷酷さを冷静に描写していくところが良くも悪くもポイントではあった。喩えは悪いかもしれないけれど、戦場に転がっている死体にさらに弾を撃ち込んでいるような触感を味わわされるというか。誤解を恐れずにいうとそれこそレイプでもしてくれた方がまだわかりやすかったといえるほど東大生たちの行動はありえない方向へと進み、先導役をおかしいと思えばいいのか、集団心理を呪えばいいのか、どのピースを外せばここまでのことにはならなかったのかと考えることさえ無駄な気がしてくる。強制わいせつのシーンは現実に起きた事件をほぼ踏襲したものだそうで、小説自体がセカンド・レイプだという意見もあるし、だったら、この文章もそうだし、興味を持つ人はもうそれだけで似たような部類ということになる。著者が書きあがった小説を被害者に見せて発表してもいいかどうかを確認したかどうかまではわからないけれど、著者が主張するようにフィクションだから伝えられることがあるとしたら、彼らの「冷酷さ」を現実とは異なる強制わいせつの方法で追体験させる手もあっただろうとは思うし、この部分をフィクションにしなかったことはちょっと引っかかるところではあった。そしてそれを言ったら「東大」という名称だってボカせばよかったのかもしれないけれど、でも、そこは譲れなかったのだろう。冷酷になれる根拠がエリート意識にあり、とくにエリートでもない男たちが起こした性犯罪とは違う種類の事件だと強調することに意味があったのだろうから。
本書を読んでいて思い出したのが日本では2016年に公開されたロネ・シェルフィグ監督『ライオット・クラブ』である。これは「ポッシュ」という舞台劇を映画化したものだそうで、イギリスのエリートたちが所属する実在の秘密クラブをモデルに、彼らが開く晩餐会ではどれだけ女性を辱めれば気がすむのかという余興や店の破壊が慣習的に行われ、時の首相であったキャメロンがこの会のメンバーであることから、その失脚を狙って製作されたものだという。映画はしかし、ヒットせず、キャメロンもブレクシットを決めてさっさと首相の職を退いてしまう(この映画についてはブレディみかこさんも連載で触れていたので、詳しくはこちらを→http://www.ele-king.net/columns/regulars/anarchism_in_the_uk/004442/)。複数の男性がひとりの女性をレイプしたり、あるいは単に言葉でからかったりといった事件やそれに基づく作品は無数にある。世界で初めてのセクハラ裁判を扱った『スタンドアップ』(05)や国連がボスニアの売春組織と裏で繋がっていたことを暴き、アメリカでは上映されることがなかった『トゥルース 闇の告発』(11)が最近だとすぐに思い浮かぶけれど、こういった作品と『彼女は頭が悪いから』や『ライオット・クラブ』を隔てるのは、エリートたちは自分のしていることがどういうことかはわかっているはず(というか、わざとやっているわけ)だから、教育がない人たちの同様な行為とは違って、階級社会の力学や支配者意識が作品の随所から漏れ出ていることだろう。暴力の主体が個人ではなく、組織暴力の延長のようなものだと考えたくなる傾向というか。とはいえ、移民や外国人が女性をレイプしたという報道があったとして、その時に外国人全体がまるで潜在的なレイプ犯のようなニュアンスで語られることもあるだろうから、すべての外国人が犯罪予備軍のはずがないように、すべてのエリートが組織暴力の可能性と結びついているということはなく、となるとやはりこうした問題は個人を単位で考えるべきであり、著者が「個人の話に収斂させることで見失うものがある」と考えたことは間違いだったのではないかという気もしてくる。しかし、強制わいせつの場面から章を改めずに、事件を知った人たちがネットで引き起こす反応へ話が進むと、様相は少し変わり始める。強制わいせつの場面までは冷静に書かれていた文章も、その直後から急に怒りが吹き出してきたかのように僕には感じられた。邪推かもしれないけれど、著者がこの小説を書こうと思った動機は事件そのものではなく、この事件に対して巻き起こったネットの反応に対するものではなかったかとさえ思ったり。
僕の家から15分ほど歩いたところに東大はある。いろいろと便利なので、学食を利用したり、三四郎池でボーッとしたり、バカ田大学の授業を聞きに行ったりもした(東大って、いろんなことやってますよね)。そして、いつも異様だと感じるのは赤門の前である。ここを通る時には誰かが撮影をしていないということがない。在校生なのか、観光客なのか、落ちた人なのか、単なる通行者なのかはわからないけれど、とにかく撮影者が途切れることがなく、撮影の邪魔になっては悪いと思うので歩きづらいことこの上ない。季節が悪ければ通り抜けるのにも時間がかかってしまう。考えてみると東大生強制わいせつ事件は東大の外で起きたことだし、『彼女は頭が悪いから』も東大の外で書かれた小説である。そして、ネットで巻き起こった被害者への過剰な攻撃や「東大生狙いだったんじゃないの?」という類いの書き込みはそれこそ東大の外から湧き上がってきた視点であり、東大というものがどのようにみられているかを増幅させた結果だろうと思える。実際には個人が犯した犯罪ではないのかという思いが、被害者に対する中傷との組み合わせによって、むしろ東大と名指ししなければすまないファクターへと押し上げられ、個人の問題では終わらせようがなくなった感がある。要は『彼女は頭が悪いから』はネット時代であることと切り離しては成り立たない小説であり、事件が起きるまでの情報量の多さに対してネットで飛び交う意見のプアーさをこれでもかと印象付け、実体としての東大とは異なった東大がネットの中には聳え立っていることを描き出したといえる(東大で行った討論会がもうひとつピント外れだったというリポートが多いのは、当事者がいたのは「外」だったからだろう)。読者はすでに美咲とつばさがああなってこうなってそうなってどうなったかを飽きるほど説明されているので、ネットの書き込みが振りかざす見解の浅さにはどうしたってうなずきようがない。また、犯人を擁護している人たちはミソジニーがほとんどで、美咲が東大生たちを司法に訴えたことについて腹を立て、様々な意見を述べているようだけれども、そのどれもが女性を部屋に呼ぶ男は全員が性暴力を振るう存在だという前提でしか意見は述べられていない。それでは女性を部屋に呼ぶことのできた男には女性を襲う権利があるみたいだし、彼らにとっては女性だけが行動を制限される社会が当たり前になっているのである。女性が自動車を運転し、映画館にも入ってもいいことになったりと、あのサウジアラビアでさえ変わろうとしている時代に。
この小説からすっぽり抜け落ちている要素がある。東大の女子学生たちである。東大生強制わいせつ事件は「東大生」が他の女子大生をターゲットにしたものであって、東大の女子学生を襲う話ではない。東大に女子学生は2割しかいないらしい(小説の中では1割とあるけれど、2割が正しいらしい)。その数値が指し示すものは女性たちが知力で劣るとか、入試で男子の得点が水増しされているからではなく、女性には東大を出ることに魅力がないからである。場合によっては結婚する時に東大出であることを隠すこともあるらしい。男子は東大を出れば、その能力に見合ったポストを手に入れるべく進むべき道が整っているのに対し、女性には権力に近づく手段が限りなく狭められているので東大に入るメリットが男よりも希薄なんだそうである。なるほど政治家にも高級官僚にも女性はあきらかに少ないし、数少ないロールモデルが片山さつきでは夢もしぼんでしまうだろう。東大に女子学生が少なく、権力を目指すことに限界があることと、美咲が犯人たちを訴え、いわば女性の権利を訴えたことは相似形である。男の部屋で酒を飲んでも何もされないという権利を女性に認めろという主張は、女も医局長になって白い巨塔の回診をやりたいとか、日産の役員になりたいとか、土俵に上がりたいとか、『新潮45』の編集長になりたいとか、なんらかの決定権を寄こせということの第一歩みたいなものでしかない。それほど女性たちが権力と結びつくことは恐れられ、この社会を動かす決定権を握らせるなという意志が明確に働いているようなものである。東大生たちを擁護して「これ、女の陰謀じゃねーの?」と書き込んだ例に即していえば、東大出の男性たちが日本という社会の多くを動かし、無意識(?)に女性たちの権利を拡大させまいとしているんじゃねーの? と返してみたくなるし、東大に女子学生が少ないこととある種のネット民が美咲の行動に攻撃を仕掛けてくることは同じパワーの発露にほかならない。だから、この話は「東大」でなければならなかったのである。
三田格